MZくんの一日……強制終了の巻/A day of Mr.MZ_Forced determination

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MZくん、強制終了になっちゃいました。で、世間の関心はもう「次の都知事候補はダレ?」
一部の知識人の方々は「これで終わりはダメ。疑惑の解明がすんでない」という。しかしそれも、お定まりの儀式のようにつぶやかれて消え、もうMZくんは過去の人……

『自己には自分を外化する力が……自分を物にし、その存在に耐えていく力が……欠けているのだ。』

これは、ヘーゲルさんの『精神現象学』の中にあった言葉です。(長谷川宏訳の445ページ)
なるほど……これは、今のMZくんの状況にピッタリ……であると同時に、自分自身に照らしても、かなりぎくっとする言葉です。

「自分を、外化する」、「自分を、物にする」……これは、「公共」(republic)という言葉の語源になったラテン語の「res pbulica」を思わせます。つまり、「the public thing」とか「the public affair」ということで、「公共の物」とか「公共の事」ということでしょう(res は、thing とか affair という意味)。

まあ要するに、自分の内面はみんな「自分の物」だけれど、一旦自分を「外化」して外へだしたならば、それは、多かれ少なかれ「公共」、つまり「res pbulica」の呪縛を帯びてくる……これは、なにもしらない赤ちゃんでも、原則的にそうなんでしょう。こどもが、みんながおおぜいいる場で泣き叫ぶと、親に怒られる。小さい赤ちゃんだと親があやし、それでも泣きやまないと、親がその場から抱いて連れだす。

そうか……「公共」というのは、自分を「物」として、自分の外に出す、ということだったのか……ちょっと、目を開かれる思いでした。自分を「物」として冷たく見放して外に出す力……MZくんには、これが決定的に欠けていたのかな……というか、これは、私自身にも欠けているし、日本人にはちょっとなじみのない考え方かもしれない。

日本の場合には、これに代わって「恥」という感性があって、これが、「自分を物として見る」という西洋型の厳密な論理と同じような機能をはたしていたのかな?という気がします。おそらくMZくんの育った環境では、これ(日本型感性)がかなり濃厚だったんでしょうが、彼は頭脳で攻めて、ソレを克服した(と思った)。しかし……案外、それは尾を引いて、西洋型の、あの厳密で冷酷な「自己外化」が結局できなかった……その結果、論理に基づかない「恥」のような感性は否定するけど、それに代わる「自分を物として見る」論理も身につかず……

これは、結局、今のわれわれ日本人の状況をかなりよく示しているんじゃないかと思います。民主主義も自由も平等も博愛も……そういう西洋型の理念には憧れるけれど、その根底をなす「res pbulica」ということについては、まったくわかっていない……そういう状況で、いろんな行政や自治が行われ、議員さんやお役人が横行し、企業人もそれにならう……こんなんでこの日本、よく今までやってこれたもんだなあ……と、そこは逆にふしぎになります。

私は、かねがね、アチラの人が、公式の場に家族を伴うことが理解できなかった……欧米のひとつの習慣なんだけれど、日本人的考え方からすると、自分の「家庭」と「公共」はきっちり分けるから、欧米の人たちのそうしたふるいまいがなじまない。「恥ずかしくないの?」という、あえていえばそういう思いです。

しかし、ヘーゲルさんの上の言葉に接してみて、もしかしたらそれはこうだったんじゃないか……と。「公共」の場に「家族」を伴って現われるのは、自分を外化するだけではなく、「自分の家族」も、「公共の場」に「外化」する……そういう、一種の決意表明?みたいなもんなのかな?と。

地位が上になったり、公共的に重要な役職を果たす人ほどそれが求められる。つまり、そういう人は、もう「自分」という要素はほとんど奪取されて、家族さえ、すべて「公共の場」に晒される……それによって、自分は、「自分の全部」を「外化」して、「物」として扱う決心ができてるんです、と。

で、みなは、そこを見る。そこがきちんといってれば、その人にその仕事(役職)を任せてもいいんじゃないか……そういうことだったのかも。

まあ、要するに、「私だけじゃなく、私の家族も res pbulica として捧げます」という決意表明。我が身だけではなく家族も、「公共の人質」としてさしだす……そういう意味なら、とてもよくわかります。つまり、われわれ日本人が、「家族」を「恥」とするところを、アチラでは逆で、「家族」も「公共物」であると……ここまで真反対の状況にどうしてなるのかはわかりませんが、現実にはそうなってる?

とすると、もしかしたらMZくんの場合も、そういう「思い違い」があったのかもしれません。彼は、根っこは非論理的な「恥」の文化の日本人なのに、アタマが西洋型を受けいれて、自分も家族も、「その地位」にあると思った……要するにスタイルだけ真似て、本質は真逆の行動……なので、「都知事の家族なんだから、公共なんだから、公費が当然」……そんな思考回路をたどったんだろうか……ものすごくオソロシイ話ですが……

蕎麦打ちにパスタの石釜にコンサートにアート……これ、典型的な日本人の文化人オッサンのパターン……ここには、実はとても難しいものがあると思います。かつてカール・レーヴィットが鋭く批判したように、日本の文化人にどこまでもついてまわる「西洋化」の問題……結局、彼もこれを克服できなかった……そういうことなのでしょうか。

*ヘーゲルさんの上の引用箇所の原文は、以下のとおりです。(英訳もつけます)

Es fehlt ihm die Kraft der Entäußerung, die Kraft, sich zum Dinge zu machen und das Sein zu ertragen.

It lacks the force to relinquish itself, that is, lacks the force to make itself into a thing and to suffer the burden of being.

*日本のマンガやアニメが海外に受けるというのも、実は上のような事情によるのかもしれないなと、ちょっと思いました。自分も家族も「物」として「公共」にさしだすことを要請される西洋型社会……そこで生まれ育った人でも、その厳しさにはちょっと耐えられんなあ……ということもあるのでしょう。そういう人が、日本のマンガやアニメを見ると、そこにはまったく違う世界が……つまり、「自分の内面」を極度に重視し、最後には、それが、「世界」に均衡するところまでいく……そういうものの感じ方は、おそらくものすごく新鮮で、大切なものに映るのかもしれません。

先に引用したヘーゲルさんの文章のあとには、次のように書いてありました。

『自己は自分の内面の栄光が行為と生活によって汚されまいかと不安をいだいて生きている。心の純粋さを保持するために、自己は現実との接触を避け、抽象の極に追いこまれた自己を断念して、外界の秩序をとりいれたり、思考を存在へと転化して、絶対の区別を受けいれたり、といったことはとてもできないとかたくなに思いこんでいる。だから、自己のうみだすうつろな対象は、空虚な意識でもって自己を満たすばかりである。自己の行為は、自分の心のままに頼りない対象におのれをゆだねるだけのあこがれであって、そこから身を引き離して自分に還ってきても、見いだされるのは失われた自分でしかないのだ。……自分の内面においてこのような透明な純粋さを保って生きるのが、不幸な「美しい魂」なのだが、その内面の光はしだいに弱まり、いつしか大気に溶けこむ形なき靄(もや)さながらに、消えていくのである。』(長谷川宏訳)

すべてが見透かされているような……オソロシイ人ですね、ヘーゲルさんは……

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