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愛知トリエンナーレふたたび/Aichi Triennale 2016

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10月23日、愛知トリエンナーレ2016の最終日。ずっと気になっていたんですが、いろいろあって行けず……あっというまに終わり……ということで、名古屋エリアだけでも見ておこうと、あわてて栄へ。朝から回れば、愛知県美術館、栄地区、名古屋市美術館、長者街地区の4会場は見られるだろうと。

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結果として、名古屋エリアの展示の8〜9割くらいは見られました。つかれた……こんなにがんばってアートめぐりをしたのはひさしぶりだ……

で、どうだったか、ということですが……実は、かなり期待していたんです。前回のトリエンナーレが、予想に反してすばらしかったので。まあ、「予想に反して」なんていうと怒られますが、前回は、実はそんなには期待していなかった。でも、いい展示が多かった。

どこに感激したのか……というと、やっぱり作家さんたちの姿勢かな。前回は、あのオソロシイ大震災と原発事故から間もなくだったので、会場全体が緊迫感に満ちていました。やっぱり、あれだけのできごとがあると、作家さんたちも、自分が作品をつくる意味を、かなり真剣にかんがえなくちゃならない。あのできごとを直接反映した作品でなくても、やっぱりそういう、自分をつきつめるという環境はあったんだと思います。

それは、見る方にも直接響いてきました。自分たちは、なにをやってるんだろう……自分たちのやってることの意味って、なんだろう……そういう、みずからへの問いかけみたいなものが会場全体から感じられて、けっこう緊迫感があった。

しかるに今回……三年しかたっていないのに、世の中、大きく変わりました。もう震災も津波も、原発事故さえ過去の話になっちゃって、オリンピックだのなんだのと……社会の格差はますます開き、世界中で戦争や難民が絶えないのに、日本人はもう、あのオソロシイできごとさえ忘れちゃったのでしょうか……沖縄と福島をカッコに入れて、われわれはどこに行こうというのか……

今回のトリエンナーレにも、その「忘却の女神」の力を強く感じました。「虹のキャラバンサライ」……うーん、あたりさわりのない、ふわふわとした夢のようなタイトルだなあ……人間って、すぐに忘れるんですね。で、目は空中に漂って、足はいつのまにか地を離れる……

そもそも、アートって、いったなんだろう……それを、アートをやる人は、片時も忘れてはいけないと思います。とくに、今のように、いろんなものがでてきて、アートといろんなものの境界があいまいになっちゃった時代には、もうアートなんてなくたっていいんじゃない? という疑問が当然のように出てきます。

業界に守られたり、いわんや商業ベースにのっかっちゃったりして、かろうじて存在を保てるようなものは、やっぱり不要なんでしょう。前回のトリエンナーレでは、地震に津波、そしてゲンパツという圧倒的な破壊力が、アートをやる人に、おまえがアートをやってる意味って、なんなの?と強く迫った。アーティストは、ややともすれば眠りにつく心をはねのけて、そのシビアな問いかけに答えなければならなかった。みんな、真剣に答えようとしていたと思います。そのすがすがしさは、たしかに胸に強く迫りました。

じゃあ、今回は……ということなんですが、今回の展示のなかで、いちばん私の心に残ったもの……それは、名古屋市美術館の地下常設展示室にあった、河口龍夫さんの「DARK BOX」でした。これはもう、ずいぶん昔の作品で(たしか、70年代からつくりつづけておられる。いろんな年代のDARK BOXがある)、常設展示だから、一応トリエンナーレとは無関係……なんでしょうが、この作品、ごろんと転がってるだけで、今回私が見たトリエンナーレの全作品に勝ってる……

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昔のアーティストって、こうだったんですね。見るからにウソくさい重金属のカタマリなんですが、なぜか、ゴン!と存在感がある。見る人の想像力にあまり頼らない。今の作品は、見る人に訴えかける秋波が強すぎるんじゃないか……共感を呼びたいのはわかりますが、アートなら、そこはぐっとガマンするところだろう……「見て、見て、スゴイでしょ!」というのはなんか夜の歓楽街みたいな……作品をつくる上でいちばんだいじなのは、「矜持」なのかもしれません。

そもそも、アートをつくる意味って、なんでしょう。崩壊しつつあるこの世界。地震にゲンパツ、イスラム国にトランプ……オソロシイものがゾロゾロでてくる今という時代にあって、アーティストはなんでアートをつくるのか……もう、そのギリギリのところまで戻って考えないと先はないなあ……そんな感じでした。

絵は、どこに存在するのか?/Where does the picture exist ?

一枚の油絵。キャンバスに油絵の具が塗られている。
このかぎりにおいては、「絵」は、キャンバスの表面に存在するように思える。
しかし、そうなのか……
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これは、「厚み」の問題ではない。
むろん絵具は、キャンバスの布地の内部にも浸透するし、布地の表面にも盛りあがるだろう。しかし、この「絵具層の厚み」の中に、はたして「絵」は、「作品」は、存在するのだろうか?

少し前、ある展覧会で、セザンヌの『セザンヌ夫人の肖像』という油彩画を見た。
人の身長ほどの縦長のキャンバスに、ほぼ等身大で描かれたセザンヌ夫人。しかし彼女は、その「表面」にはいない。とくに、その上半身は。

セザンヌ夫人の上半身は、まるで呼吸をするように波うつ。そう、呼吸のリズムそのものにあわせて……彼女の、厚い服にかくされたおそらく豊かな乳房を持つあたたかい上半身が、画布から前へとゆっくり出てくる……と思えば、またゆっくりと画布の、あきらかに退く。

目をうたがった……なぜ、こんなことができるのか……彼女の姿は、物理的にはキャンバスの表面に置かれた絵具の層でありながら、しかもそこに縛られてはいない。いや、そもそも「物理的には」と考えるのが一種の空想であって、今ここに「描かれている」セザンヌ夫人は、「画布の上」にはおらぬ。

私は、あらためて「絵はどこにあるのか?」と考える。この絵は、私の前にあり……そこは、豊田市美術館の一階のちょっと照明がおとされた一画……そして、その日の私は、どんな体調で、なにを考えていたのか……

絵のすみか……これは、まさに、セザンヌと私の「間」にある。そうとしかいいようがない。

絵が、裂かれるとき、焼かれるとき……絵は、いったいどこにあるのだろう……

昔、自分の絵をナイフで切り裂き、焼きすてたことがあった。
みずからの執着を断つ、という、若い気持ちであったが……そのとき、「絵」は、どこにあったのだろうか?

このとき、私は、「絵は、画布の上にはない」ということを確信したのだと思う。

ナイフで切り裂かれた画面……しかし、切り裂かれてなお、「絵」は、一つの統一体として、全体を有するものとして、切り裂かれた画布や絵具の層とは別のところにあった。

作品のふしぎ……それは、作品を作品たらしめる「力」のうちにある。そして……その場所で、作った者と視る者は、出会う。

いってみれば、「この世のどこにもないふしぎな場所」。それが、作品の、絵の、ある場所なのだ。

個展、終了です/My show was over.

カノン店内_900
四月一ヶ月、碧南市のカフェ・カノンで開かせていただいていた私の個展も、昨日無事に終了。作品を撤収し、次の方の作品が飾られたあと、みなでおつかれさんパーティーに……いやあ、充実した一ヶ月でした。遠かったので、数回しか通えませんでしたが……思いがけない出会いもあり、楽しかったですね。買ってくださった方もおられたし。

今回は、白い紙に細い線を引いただけのドローイング作品だったので、まあ地味の極地というべきか……でも、いつもふしぎに思うのですが、モノクロームの細かい画面でも、画廊空間でけっこう「持つ」のです。これは、今回だけでなく、名古屋の画廊でも東京のギャラリーでも同じ。ギャラリー空間の魔法というべきか……

さて、こんどは、どこで、どんな空間と出会えるでしょうか……おたのしみに。

個展も終盤になりました/My show will end this week.

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一ヶ月の会期。長いなあと思ってはじめましたが、すぐに終わりです。短いなあ……

いろんな方に見ていただいて、うれしかったです。とくに、会場のカフェ・カノンの常連さんたち。とてもユニークな方々で、いろんな意見や感想が聞けて、よかったなあ。それと、作品とは関係なく、いろんな話が……

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落語の師匠、アフリカ音楽の研究家、鍛冶屋さん、現代美術作家、写真家、街歩きの人……カノンには、ありとあらゆる分野でさまざまなことをやってる方々が集まります。古い歴史のある土地柄だけに、いろんな人が惹かれ、育つのでしょうか……おもしろい場所です。

うちからちょっと遠い(車で一時間半)ので、あんまり通えなかったのが残念ですが、いい体験でした。野外活動研究会のある方が、「間主観性」ということをよくおっしゃってたのを思い出しました。

これは、哲学者のフッサールの言葉のようですが、人間は、一人ではダメで、2人以上、いろんな人の主観の間に生まれてくるもの……ということでしょうか。個展は一人でやるから個展なんですが、考えてみると、見る人がいるから成立する。そういう意味では、「個」展ではないかも……

私の作品は、よく「アール・ブリュット」あるいは「ボーダーレスアート」の作品みたいだといわれます。しかし、描いているときは、やっぱり「見る人」を意識して描いてます。その意識があるかぎり、上記ジャンルの作品といわれる「権利」はないのかもしれません。

あるいは、よっぽど集中して描いてるんだね、ともいわれますが、まったく逆で、テレビを見ながら描いてることが多いです。この作品(アラクネンシス)の発端は、学生時代に、講義を聴きながらノートの片隅に描いていた落書き……

だれでも経験があると思いますが、長電話しながら、メモ帳になんかへんな図形をぐるぐる描いてる……アレです。アレを、意識的にやってみたらおもしろいんじゃなかろうか……と。

考えてみると、テレビも講義も長電話も、すべて「他者との関連」のうちに成立する事象です。してみると、このシリーズは、もともと「他者との関連」が無意識的にせよそのベースにあるのかな?

しかし、テレビがなくても講義や電話がなくても、コレは描けます。「他者」があって描いた線と、自分しかいなくて描いた線と、違うか?といわれると、そんなにちがいがないような気もする。まあ、そこは結局はっきりわからないのですが。

それに、たとえ「他者」がいない状態でも、できあがっていく線は、明確に「他者」です。私ではないもの……私の手が描くけれど、紙に現われた瞬間から、それは「他者」となる。ペンと紙の抵抗感……

それは、まさに、私という自分と、ペンや紙という「他者」……いや、ペンや紙だけじゃなく、その場の空気や音や感触や光と影……そういうものがすべて一種のオーラのようにないまぜになって「作品の胎盤」となる……

そういう意味では作品って、ふしぎです。これまで明確に「なかったもの」が、今、ここにある……これは、ピカソでもダヴィンチでも、私のような無名絵描きでもそう。赤ちゃんの絵でもチンパンジーの絵でも、そうです。そこは平等。

間主観性というのは、おそらく「場」の問題なのかもしれません。人の主観は「場」として、あるいは「ゲート」として働く。そして、そのはたらきは、かならず「他の主観」と混交しあうときに十全に機能する……ハイデガーは、現存在(人)は、そこにある存在(フォアハンデンザイン)ではなく、利用できる存在(ツーハンデンザイン)でもないといいますが、もしかしたらそれは、いつもぐるぐるとこうやって「作品」をつくりだしている、そのものなのかもしれません。

カノン_900
ということで、一ヶ月間、どうもありがとうございました。また、こうやってできたらいいなと思います。

網戸と生成りとラコステ/Mosquito screen, Unbleached, Lacoste

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「網戸と生成りとラコステ」……なんのことかわかりませんが、実はこれ、今回の個展のためにつくった作品のタイトルを並べたもの。左から、網戸、生成り、ラコステです。

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まずは、網戸。「アラクネンシス・シリーズ」という一筆描きの作品の最新作で、サイズは300×300mmのパネル仕立て。ケント紙に水性ペン(0.03mmのコピック)で描いてます。正方形を一筆描きで連ねていくんですが、手で描くので、機械のように正確にはならず、微妙にズレていきます。

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正方形を描き連ねるといっても、一筆描きでやる場合には、ちょっと工夫が必要です。正方形をフツーに描くと、始点に戻って終わるので、一列に連ねることができません。そこで、まず、この図の①のように、凹凸の線(西洋のお城の城壁の上の部分みたいな)をずーっと左から右まで描いてしまいます。

次に、下に折り返して(②)、赤い線のように凹凸を、こんどは右から左に描いていきます。このとき、上の列の角に、下の列の角を当てながら描いていくと、上下に一個ずつズレながら正方形ができていきます。したがって、上の列の正方形より、下の列の正方形の方が一個多くなります。

正方形の数を同じにすることもむろん可能で、このときには、スタート地点が下からになります(①のα点)。こうすると、確かに正方形の数は同じになりますが、スタート点が下の線と交わってわかりにくくなってしまうので、「ここがスタート」ということを見せたい場合は①の方法になります。

今回、作品としてつくった「網戸」は、α点からスタートさせているので、ちょっと見ると線のはじまりがよくわかりません。しかし、一筆描きの原則として、奇数の線が交わる点(1本も含め)は2つしか生じないので、この作品では、左上の3本の線が交わっているところがスタート点になります。

この作品、実は、途中までタイトルがなかったんですが、半分くらいできたところで、なんかに似てる……と。あ、使い古された網戸だ……ということで、「網戸」という名前になりました。正式には?「アラクネンシス_網戸_01」といいます。「01」は、まあ、続きをつくる意欲満々ということで……

途中で正方形が大きくなったり小さくなったりで、その大きさを揃えようとしてがんばると全体が傾斜していったり……あるいは、できるだけ水平に描こうとするのですが、全体的に弓なりになってきたりすると、その調整のために大きな正方形(タテ長の正方形)を連続させたりします。

すると、そこの部分は、ちょっと引いて見ると密度が薄いので、まわりより明るく見える。そのさまは、なんとなく景色に霞がかかってるよう……描いてる途中は、うまくいくのかな?と思うんですが、どんなに失敗したと思っても、描き続けていくと全体がなんとなくサマになってくるのが、この技法のいいところ?

ということで、全体に、10年以上も取り替えていない網戸みたいになりました。この作品の中にある「ゆらぎ」は、たぶん意図的に生みだそうとしても、こういうふうにはならない。これは、これまで描いてきた線の「積分」による効果としかいいようがありません。半ば私の意図、そして大部分は線自体の意図……

こういうところが、この作品をつくるのをやめられない大きな理由かもしれません。昔の絵描きは、技法を完全に自分のコントロールのもとに置くのが一つの目標でしたが、今は、偶然の要素、とくに、作品自体が要求してくる必然性みたいなものに身をゆだねるのを良しとする。そういう傾向はあります。

この「網戸」においても、この乱れ方の自然さ(と私には映るのですが)は、私という作者が意図しては絶対にできないもので、それをやると、やっぱり不自然な、作為的なものになってしまう……これは、ある程度作品をつくってきた人が見れば、一発で見抜かれてしまいます。あ、ここ、狙ってるな……とか。

そういう意味で、この技法は、ドローイングに、たとえば焼物みたいな「偶然的要素」を自然に入れていく、とてもいい方法じゃないかと思います。私は昔、焼物って卑怯だなあ……と思っていたんですが……つまり、「自然の必然」を「偶然」として巧みに利用する……結局、自分で、平面でそれに近いことをやってます……

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次にご紹介するのは、「生成り」。読みは「きなり」です。これも、やってる途中でタイトルが浮かんできました。なんか、生成りの生地のようだ……ということで。どれもこれも、きわめて安直な命名です。この「きなり」というタイトルは、3分の1くらい描いたところで、早々と出てきました。

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この「生成り」の描きかたは、「網戸」より少し単純で、三角の山をどんどん連ねていくだけです。これで、45°に回転した正方形(菱形)の連続が、自動生成されていきます。

やってみてわかったのは、この「生成り」は「網戸」より乱れやすいということ。なぜかはわかりませんが、正方形の大きさを揃えるのはけっこう難しくて、大きさにかなりのバラつきが生じます。しかも、そのバラつきが45°に連続していくので、全体が、目の荒い祖末な布みたいな印象……(インド綿のよう?)

最初は、このバラつきがちょっとイヤで、なんとか正方形の大きさを揃えてみようとがんばりました。作品の、上から4分の1を少し過ぎたあたりで、編み目の幅が急に揃って来て、おとなしくなってきたのに気がつかれると思いますが、ここが、作者が自分のコントロールを効かせてやろうとがんばった箇所です。

しかし……やってみてわかったのは、これってもしかして、視覚的に、つまんない感じになってしまうかな……と。ちょっと引いて見ると全体がベタな灰色になってきて、それまでのように「自由な乱雑さ」が薄れてしまう……この領域に入ってしまって、なんかそれまでのラフな現われ方が、急に懐かしくなった。

そこで、この「お行儀の良い領域」は早々に店じまいすることにして、元の生成り風に戻ろうとしたんですが、こんどはそれがなかなかうまくいかない……これもおもしろいと思いました。それまでは意図せずして自然にそうなっていたことを、今度は意図してやってみようとすると、れれれ?うまくいかないや……

ここが、人間の意識のふしぎなところだと思います。アラクネシリーズの場合、一筆描きで、やり直したり消したりは絶対にしないので、線に、そのときの思いが正直に乗って出てしまう。これはけっこうラブリー?ではないか……こうしてやろう、ああしてやろうという「意図」や「意識」も、線は、真っ正直に記録してしまいます。

ということで……全体が、こんな作品になってしまいました……なお、右端の中央よりやや上の部分で「乱れ」がけっこうひどいですが、これも意図的ではなく、結果、こうなってしまったもの。なにが原因であったのか……これは、もしかしたら精緻な調査を行ってみるとおもしろい結果が出るのかもしれませんが……

とにかく、この「乱れ」がひどくなってきたときには、修復にかなり意識を注ぎこみました。どうしたら「乱れ」を収束できるのか……とやればやるほど乱れはひどくなるばかり……しかし、「力ワザ」でなんとか収めて次へ……ということなんですが、この「乱れ」の影響は、かなり下の方までひびいています。

最初は、左から右まで、できるだけ均等に三角山を描き連ねていったわけですが……この「乱れ」の影響もあって、ここから下は、なんとなく画面左の方が密で、右が疎という傾向が、最後まで続きました。

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次に紹介するのが「ラコステ」です。「ラコステ」というと、ワニのマークの例の服屋さんですが……別に私はラコステが好きというわけではなく、むろんラコステの服ももっていないのですが……このタイトルは、展覧会直前まで悩みました。「網戸」や「生成り」みたいに、描いている途中からタイトルが浮かぶ作品もあれば、この作品みたいに、絶対に出てこないのもある……

したがって、この「ラコステ」というタイトルは、個展にださなくっちゃ、ということでつけた仮のものです。見ているうちに、なんとなく川を泳ぐワニの群れみたいに見えてきて……ワニ、ワニ……あっ、ラコステじゃん……ということで……実は、昔、「年のはじめのためしとて♪」という歌を、自分でかってに替え歌で「ワニのマークのラコステは♪」と歌っていたことがあって……

別に、ラコステから宣伝料を頂いていたワケではありませんが、とつぜん、「年のはじめの……」のメロディーで、「ワニのマークの……」と出てきてしまいました。アホらしいのでダレにも披露せず、自分のアタマの中で勝手に歌っていたんですが、そのヘンな記憶が、このときになって噴出したというわけで……

この作品は、「ラコステ」になってしまいました。それで、描き方なんですが、これは、左行きと右行きが、ストロークがぜんぜんちがいます。画面左上から描きはじめて、右へ行くときは、三角波を延々と描いていきます。

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で、画面右上に到達したら、こんどは一直線で左に戻ります。このときに、上の三角波の谷の部分を点綴(てんてつ)しながら戻るのがポイント。こうすることによって、一気に三角形の連続ができていきます。

左端まできたら、またこんどは地道な三角波の連続で右へ行く……右利きの人は、右から左へと描いていくからこの描き方になりますが、左利きの人は逆で、右行きを三角波の連続、左行きを一直線とすると描きやすいと思います。

ということで、描き方はわりと単純なんですが、なぜか、この描き方は波瀾を呼びます。機械でやれば完全な三角が延々と続いていくだけなのですが、人がやると三角形の大きさに違いが生じて、それがどこまでもひびいていく……実は、この作品は、最初、上下が逆で描きはじめました。

つまり、描きはじめは、この作品の向きでは右下にあって、そこから左へ三角波を形成し、右へ一直線で大量の三角形を生み、また左へ愚直に三角波をつくっていく……ということをくり返していたんですが、5段目(下から)の列で、右から少し行ったところで「異変」が起きました。

それは、小さな三角形に起こった「異変」だったのですが……まあ、要するに、他の三角形よりちょっと大きめになったということにすぎないのに、なぜか、段を重ねるごとにその「異変」が拡大される様相が見えてきた……で、ヤバいと思って人は収拾に入るのですが、一旦発生した「異変」は、この作品の場合、なかなか収まらない傾向にあるようです。

6段目から13段目くらいまで、この「収拾の空しい努力」は続くのですが、それがあんまり効果を及ぼさないどころか、他の部分にまで波及して、「損傷」は拡大の一途をたどる……明らかに、ものすごく広い三角形と、ぎゅっと詰まった三角形に現場は分かれてしまい……今、「貧富の格差の拡大」なんて言ってますが、絵の上で実際にそれが起こってしまったなあ……と。

ええい!こうなったら、もう、あのワル総理みたいにいっそのこと、この「格差」をますます広げる方向で行ってやろうか!ということで開き直った結果、一匹目のラコステくんが現われた。それが、画面中央右下の明らかな「異形」です。うーん、ここまで目立っちゃっていいもんか……と、当時はけっこう悩みました。

で、これはやっぱりなにをもってしても全力で収拾にあたらねばならん!と決意して、突然変異の病的な?形状はここまで!という強い意志をもって収拾に当たろうとしたところで別の躓きが……なんと、ふだんは0.03mmのコピックを使ってるのに、その日の朝だけなぜか0.1mmのコピックを手に取ってしまった……

で、描いているうちに、なんかヘンだなあ……と。三角波を描いてるときはあまり気がつかないんですが、びゅーんと一直線を描くと明らかに太い。ヘンだ!と思って表示を見ると0.1mm。あちゃーと思いましたが、なんと、気がずぶとくなっていたのか、この作品はもう終わりじゃ!とヤケになったのか、しばらく0.1mmで続けてしまった……

気味の悪い?ラコステくんの頭部付近で明らかに線が太くなっているのがおわかりと思います。ここがその「犯行」の明らかな記録……しかしすぐに改心し、0.03mmに持ち替えて、心を取り直してふたたびマジメなアラクネ描きに……なって、その十段くらい上で、やっと収拾も軌道に乗り……

しかし、一旦ついた「ハズレクセ」はオソロシイもので、その少し上の中央部くらいからまた「逸脱」がはじまった……ということで、結局、下のラコステくんがいちばん鮮やかに出現しましたが、上の方にもラコステらしき映像が数匹……で、結果として、アマゾン河?を泳ぐラコステの群れ……みたいなイメージになりました。

機械だったら、こういう逸脱や、逆に収拾への努力が起こったのだろうか……それは気になります。まあ、プログラムしだいということなのかもしれないけれど……ただ、おそらく機械には、逸脱にかんする罪悪感や、逆に収拾せねば……という倫理感?みたいなものはないだろうから、現出するかたちは似せられても、その成立根拠は、人間とはかなり違うのかな……という気もします。

まあ、機械でも、罪悪感や倫理感に似たものは持たせることができるのかもしれませんが……そういえば、この間、マイクロソフトのSNS対話ソフトのTay(テイ)
くんが、ネットで右翼と対話を重ねているうちに、人種的偏見に満ちたヤなヤツになってしまったという話があった……

うーん……Tayくんには、罪悪感や倫理感みたいなものはあったんだろうか……これはもう、チューリングテストみたいなもんですね。まあ、それはともあれ、このアラクネシリーズを描いていると、いつも思うのは、「線の考え」と「人の考え」ということです。

このシリーズは、一筆描きなので、先にも書いたように、「人のコントロール」はかなり限定されます。ふつう、ドローイングというと、開放みたいな意識を伴っていて、常日頃はガチガチにコントロールしている意識(描線に対する意識)を解き放って、自由に、ストロークのままに描いてみよう……というようなやり方が多いように思うのですが……

このアラクネシリーズの描き方はまさに真逆……というか、かなり異なっていて、最初に、自分で、「規則」というか、法則を定めます。これはまさに「インスティテユーション」、「ゲゼッツ」であって、憲法のように問答無用に全体を縛る規則。これを、最初に定めてしまいます。

で、あとはこの「憲法」に沿って線をひたすら描いていくだけなんですが……その過程で、さまざまな「ドラマ」が起こる。で、そこに起こるドラマは、かなりの部分、人が意図したものというより、「線の意志」つまり、それまで描いてきた線の「積分効果」が必然的にもたらすもののように思えます。

つまり……線は、人の自由をなかなか許さないところがあって、それは、それまで積み重ねてきた「線自体の意志」みたいなものがかなり強く効いている。私はいつも、ライプニッツの「充足理由律」のことを考えるのですが……ものごとが発生するためには、「充分な理由がなければならない」というアレですね。

以前、本で読んだときには、この「充足理由律」は、「同一律」や「排中律」に比べると、なんとなく論理的な厳密性が薄いように感じました。今でもその点は変わらないんですが……ただ、このアラクネを描いていると、「充足理由律」が単に論理的要請ではなくて、実は、かなりプラグマチックな次元での、強制力の強い要請であったことが、指先感覚でわかってきます。

うーん……こういう風にやりたいんだけどなあ……と思っても、やっぱりできない。それまでの「線の積分」が、そういう放蕩を、人間には許さない……コレ、もうまさにカントの「自由意志」の問題なのかもしれない……もう、ほとんどの時間は、この「線の積分要請」によって、ただひたすら「線の意図」を一筆一筆実現させていくにすぎない奴隷の行程……

なんですが、やっぱり突然、「自由意志の噴出」みたいな瞬間もあって、そういうときはなぜか「天から降りてくる」感覚みたいなのがあります。オレは自由なんだ!という、突然牢屋の壁が崩れて「自由な野原」が出現したような……自由意志というのはふしぎで、それは、今までの系列には属さない。どこから来たのかもわからないような風来坊なんですが、それが、確実に世の中を変える。

しかし……後になってふりかえってみると……その「突然の自由」も、もしかしたら「線の積分」が生み出したものではなかったか……人間は、自分が「自由である」と思いこんでいろいろやって「どうだ!オレは自由だ……」と思うのですが、実は……この問題は、ちょっとカンタンに決着がつかないような気がする……

ということをやりながら、このアラクネ作品はできていきます。大部分は「線の思い」にしたがって……しかし突然、自由意志が乱入したり、またそれを収束しようという意志が働いたり……で、紙の書けるところがなくなるまで続いて、ハイ終わり。

で、できあがった全体を見てみると……いや、途中でも、ちょっと引いて見ると、そこには「形成していく線」がついに知ることのなかった「構造」が浮かびあがってくる。これが、このアラクネ作品の、一種の醍醐味といえばだいごみで、私が描くのをやめられない理由の一つでもある。線に支配された人生なんだけれど……でも、線には絶対に得ることのできない視覚を、私は持つことができる……

線は、形成されてしまった「ラコステ」を認識できるのだろうか……生成りの目の粗い細かいがつくる、あの心地よいパターンを楽しむことができるのだろうか……はたまた、網戸の揺れ、その微妙なゆらぎが全体にひびいていくそのわずかな感覚の差異を楽しむことができるのだろうか……

否、否。彼らにはできない。彼ら二次元生命体には、それは及びもつかぬこと……彼らは、私の手を、指をのっとって「自分の憲法から輩出されるパターン」を着実に描き出す。しかし、そのパターンに「意味」を見出し、そのゆらぎや美しさや異常……それを楽しむことができるのは、この私である。

ここは、やっぱりふしぎなものを感じます。以前に、二次元人間には三次元のことはわからない、とか三次元人間には四次元のことは……という話を聞いたけれど、その無味乾燥なセツメイが、このアラクネ作品においては、ホントにいのちの通った微妙なものとなってたち現われてくる……なぜ、こんなふしぎなことがあるのでしょうか……ホント、おもしろい……

個展がはじまりました/My private exhibition began.

カノン個展_05_900
愛知県碧南市のカフェ・カノンにて。四月いっぱいやってますので、お近くに来られたら、立ち寄ってください(月曜定休)。マスターのおいしいコーヒーを飲みながら、作品を楽しんでいただければ……

カノン個展_01_900
今回は、前回(2015)の東京のトキ・アートスペースでの個展と同様、ドローイングの作品を並べています。東京で展示したのとかぶる作品も多いですが、新作も10点くらい描いてます。また、立体作品や透明作品も置いてます。上の写真(↑)は、5点の大きな作品(60cm角)が並んだ壁面で、作品はすべて「アラクネンシス」というシリーズ(リンク)の一筆描きです。

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こちらの壁面(↑)には、30cm角の作品を13点、並べました。手前の3点がアラクネンシス・シリーズで、奥の10点は絵を紋様化するemonシリーズです(リンク)。また、下の台にはA4、B5、B6、そしてハガキサイズの作品(ファイル入り)を100点以上展示しています。さらに、このブログでときどき紹介した、本を立体化するQ-book作品(リンク)も。手前に見えるのは、やはりこのブログで紹介した御茶目新聞で、手に取って閲覧できるようにしてあります。

カノン個展_03_900
窓際には、INVISIシリーズ(リンク)の透明作品を並べました(↑)。このシリーズは、塩化ビニールに画像を転写して(サーモプリント)、木枠に張ったもので、人体や古代文字など、さまざまな画像が見えます。中央右よりの鳥の作品は、元々あったもので私の作品ではありませんが……出窓の向こうに、碧南の昔の街並が……

カノン個展_04_500
これは、入口のショウ・ウィンドウに飾った、DMに使用した作品。ポストカードサイズの一筆描きで、アラクネンシス・シリーズの『凪』というタイトルです。

個展やります/Personal exhibition at Hekinan city.

愛知県の碧南という街の、カフェ・カノンという画廊喫茶で個展をやることになりました。期間は四月いっぱいです。

個展カノンDM_900
カフェ・カノンは、友人がやってる喫茶店で、壁面が画廊式にしてあって、おいしいコーヒー(サイフォンで入れる絶品!)を飲みながらゆっくり作品を楽しめます。

今回は、昨年四月に東京のトキ・アートスペースで展示した作品がメインになりますが、新作も何点かつくりました。一筆描きドローイングのアラクネンシス・シリーズを中心に、字を紋様化した jimon シリーズ、絵を紋様化したemon シリーズを展示。数は少ないけれど立体作品(本を立体化した Q-bookシリーズなど)もあります。

場所は、名古屋駅から名鉄三河線に乗って終点の碧南で下車、徒歩10分です。碧南市の古い街並の中にあって、近くには、藤井達吉現代美術館もあります。散策するのにもなかなかいいところです。車の方は、画廊前のPが空いていたらそこへ、一杯ならすぐ近くの臨海公園の駐車場(無料)に停めてください。

オープン時間は、午前8時から午後6時、定休日は毎週月曜と第一火曜(4/5)です。4月3日の日曜日は、朝の9時から午後3時頃まで作者がおります。

ということで、お知らせまで。お近くの方は、ぜひご覧になってください……。

*DMに使用した作品は、新作で、アラクネンシスシリーズの『凪』という作品の中の一枚。今回のためにつくった新作で、一筆描きです。ちょっと拡大してみると、こんな感じです。

凪_715
地図が小さくてわかりにくいので、拡大します。

カノン地図_732

本の展覧会に出品します/THE LIBRARY 2015

library2014DM表完
お知らせです。本の展覧会に出品します。毎年夏に、神宮前の画廊「トキ・アートスペース」でひらかれる、アートと本が融合した「THE LIBRARY 2015」に出品します。この展覧会の詳細は→コチラ

私の出品作は、一つ前の記事で紹介した、Q-bookシリーズの4作目の「古事記_01」です(リンク)。というか、この作品は、この展覧会に出品するためにつくったのでした……200人くらいの作家が出品するので、スゴイです。

なにがスゴイかというと、やっぱり展示作品が200点もあるということで……一つ一つは小さいのですが、本とアートということで、これだけの人が作品をつくって出品するということは、やっぱりスゴイです……

本とアートということで、なんでもできそうなんですが、実際にやってみるとけっこう難しいなあ……というのが正直な感想です。「本」というのは、意外に限定された概念で、その外に出るのが難しい。

なんでもできるじゃないか……そう思われるかもしれませんが、「本」は「本」であって、ちょっと変わったことをやろうとすると、すぐ「本ではないもの」になってしまいます。さすが「本」。重厚な歴史が……

あるのですね。これが……といってもよく知らないんですが、とにかく基盤は「シート状のもの」で、これに文字を書いて、巻くか裁断して綴じるか……折りたたむのもありだけれど、これはちょっと例外か……

とにかく、「シート状のもの」はできるだけ薄くする。モーゼの「十戒」みたいに石版だと、膨大な物量になるし……まあ、保存性はいいのかもしれませんが、どこにも持ち運べないし……
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ということで、「本」概念を形成する外延は意外に狭い。この展覧会に実際に出品される作品は、私のものもそうですが、この「本」概念の外延からはみ出しているものが大部分です。でも「アート」を付ければ「本」に……

なる。「アート」の魔術でもあり、また甘えでもあるところなんですが……「本」をつくる人は、しっかり「本」をつくるけれど、「アート」で「本」をつくる人は、「アートの魔術」に甘えて「本らしきもの」をつくる。

なので、その作品が、現実社会において、どれだけ「ほんとうの価値」を持つことができるか……それは、もしかしたらギャラリーの外で勝負するしかないのかもしれませんが……でも、実際にはギャラリーに展示される。

私の作品は、その「甘え」を越えて、どれだけ「成立」しているんだろうか……それとも、「甘え」そのものの中にどっぷり浸っているんでしょうか……日本という国の今の姿は、アートの「甘え」には寛容で厳しい。

それは……「ムダなもんつくってんじゃねえよ」という積極的な攻撃もしないかわりに、買いもしない。役に立たないものは、当然買わないわけで、そこはシビアです。外国では、事情はちがうのか……

外国、とくに欧米社会においては、「アートを受容する」歴史的な風土があるんだということをよくききます。それに比べて日本は……ということなんですが、私は欧米の事情はよく知らないので、ホントのところはわからない。

ただ、感じるのは、欧米では、「アート」そのものが「必要とされる」くらいに、社会全体が厳しいのかもしれない……ということですね。日本では、社会が、みかけはユルいので、「アート」も不必要……

実際は、日本という国は、とくに行政はひんやり冷たいと思うんですが、いろいろガス抜きというか、カラオケとかスポーツとかエンタメとか用意してあって、それでわれわれはカンタンにごまかされて、人生の最後まで行ってしまう。

外国、とくに欧米では、もしかしたら人々は、カンタンにはごまかされないのかもしれません。わかりませんが……もし、欧米に、「アートは必要」という風土がホントにあるのなら、そうではないかと思います。

本は、欧米にも日本にも、世界中どこにでもある。それと「アート」がどうやって結びつくんだろう……距離はかなり遠く、しかも、受容する地域によって、その距離の感じ方が変わってくるような気がする……

もしかしたら、こういう企画(アート+本)が受け入れられるのは、日本特有の現象なんでしょうか……それはともかく、この展覧会は、主催者の方の努力によって、もう20年も続いています。それだけでもスゴイ。

お近くの方は、ぜひごらんあれ……

個展終了……/Exhibition has ended.

個展会場風景_900
個展が終わりました。今回は、はじめからおわりまで会場にいたので、とても充実した一週間でした。はじめは雨もようでしたが、徐々にお天気もよくなり……ギャラリーは半地下なのでちょっと冷えましたが、外はぽかぽか陽気のなかを人々が楽しそうに歩いていく……街はいいなあと思います。とくに、このあたり……ギャラリーの場所は神宮前なんですが、街いく人はみんな楽しそうです。みなさんのなにげなく歩いていく様子がとても印象に残りました。

作品の写真はいろいろ載せてきたので、今回はちょっと変わった角度から……
現場_600
slant45_900
昏い森_900
ドローンが世間をにぎわせてますが、作品上空を低空飛行で撮ったらこんな感じかな……東京には一週間いましたが、宿泊場所は、井の頭公園の近くの、とても落ち着いた住宅地でした。公園でも楽しそうに歩く人々……日本は、まだ平和なんですね……写真は、公園の池、そして水面にゆらぐ木の枝。
井の頭公園_600
井の頭公園の水面_476

これは↓公園の近くの家の壁にあったホウロウ製の……なんていうんでしょうか、看板? 電話が、昭和40年代かな?カワイイですね。なぜか、杵築大社の交通安全のオレンジ色のシールが……昔は、ホウロウでこんなものまでつくっていたんですね。この技術は、まだ残っているのかな?……
自然を愛しましょう_300

今日のemon:オフィチウム/Officium

オフィチウム_900
個展(リンク)展示作の第5弾はCDです。私がこれを見つけたのは、名古屋の地下街の中古CDを置いているお店で、まず表紙にひかれました。「オフィチウム?なんじゃろ……?」表紙にはラテン語で「Officium」と書いてあるだけなんですが、まともに(というか、日本の学校で習う読みで)読めば「オフィキウム」かな?「オフィチウム」というのはイタリア語に引かれた読みだと思いますが、日本語訳はこれで通っているみたいですね。

発見したのはもう15年くらい前でしょうか……発売は1994年とのことですが……半信半疑で買って、帰ってかけてみると……なんとなんと、これは、もしかしたら今までにまったく聞いたことのない音楽ではないか……ああ、心がもっていかれる……ということで、このCD、なんと150万枚も売れたそうです。ここを見てる人の中にも、「あ、持ってる」という方もけっこうおられるのでは……

このCD、ECMニューシリーズというレーベルの一つなんですが、このレーベルは、クラシックと他のジャンルの境界をまさぐっていて、けっこうユニークな名盤をたくさん生んでいます。ただ、欠点は「高い」ということなんですが、中古屋さんで丹念にさがすとけっこう出てきます。まあ、それだけ売れているということかな……中でもこの「オフィチウム」は売上げダントツ……

演奏は、ノルウェーのジャズ・サックス奏者のヤン・ガルバレクと古楽合唱分野で今やオーソリティになってしまったヒリヤード・アンサンブルのコラボ。合唱は、グレゴリオ聖歌や16世紀スペインの作曲家、クリストヴァル・モラーレスの曲を忠実に歌いますが、そこにガルバレクが即興でサックスをのせていく……このカラミが、もう、実に、そういう曲があるかのごとく自然で、響くんですね……

響く……そう、サックスの音が無限空間にワーンと広がる中に合唱の聖なる純粋な響きが、どこまでも透っていきます……それはもう、宇宙空間のような、はたまた素粒子の世界のような……時のかなたから人の心の深みをすぎて、無色透明のはずなのにいろいろな色が淡く輝くような気がする……なにかこう、太陽系を旅だって無限の銀河のさらに向こうを旅するような……

あるいはまた、牢獄。それも、牢獄アーティストのモンス・デジデリオが描くような、ヨーロッパ中世の無限に上に伸びる石の地下牢……そういうところに、私は閉じこめられているのだけれど、なぜか天上から光がさしてきて、冷たい石の床にまで「救いの模様」を描いていく……ああ、神は、こんなところに人知れず生きる私のことも、けっしてお忘れではなかったのだ……と。

けっこう書きすぎかもしれませんが、はじめて聞いたときは、まさにそんな感じを受けました。おお、これは、もはや究極の音楽かもしれぬ……この感じは、やっぱり今でも聞くたびに漂います。柳の下にどぜうがなんとやらで「ムネモシュネー」という続編も出ましたが、やっぱりこの「オフィチウム」の衝撃に比べるとはるかに及ばない……最近(2010)、「オフィチウム・ノヴム」といのも出たそうですが……

これはまだ聞いてませんが、やっぱりこの「初発の衝撃」にはかなわないでしょう……ということで、このCDを emon 化してみることにしました。表紙の銅像の少年?の顔が、もうなんともいえずそこはかとないんですが、その雰囲気をうまく出すのは難しい……25枚分描きましたが、結局うまくいったのはたった一つだけ……これも、100%のできではないですが、まあ、なんとか……
オフィチウム_部分
あとは、どっかこっかオカシイなあ……もっと大きな紙にもっとたくさんやればいいのかもしれませんが、まあこのあたりが限界です。ところで、この「オフィチウム」というラテン語は、「聖務日課」と訳すそうですが、カトリックでこういうのがあるそうですね。毎日毎日やる……一日何回もやる……ナニをやるかはナゾですが、とにかくナニカを、毎日毎日欠かさずやる……

ところで、私の手元には、もう一つ別の「Officium」というCDがあって、こちらは3枚組です。先の「Officium」に曲が収録されているモラーレスより少しあとのスペインの作曲家で、トマス・ルイス・ヴィクトリアという人の「Officium Hebdomadae Sanctae」(聖週間聖務曲集)という曲を3枚のCDに収めたもの。こちらは、サックスは入らない、由緒正しい?合唱のみの響きですが、これがまたすばらしい……

ということで、だんだんわかってきたのは、これはたぶん、グレゴリオ聖歌から16世紀くらいまでの曲そのものがすばらしいんだな……と。まあ、昔でも、合唱に合わせて金管を演奏する風習もあったそうですので、ガルバレクとのコラボもまんざら「とってつけた」ものでもないらしいんですが、やっぱり結局、「元の曲」そのものが宇宙的というか、無限の時空をどこまでも漂うようにできている……

後期バロック、とくにバッハの曲なんか、もう「比類なきすばらしさ」といってもいいんですが……でも、「純粋性」という点からすれば、もしかしたらこの16世紀のモラーレスやヴィクトリアには負けているかもしれません。こういう曲をきくと、やっぱり人間「心を磨く」ことって必要だなあ……と、いささか謙虚になりますね。天正少年使節団がローマに派遣されたのが1582年なので……

彼らは、もしかしてこういう曲をきいていたのかもしれない……ローマへの道のりで、スペイン、ポルトガルを通ってますし……それに、ヴィクトリアの「Officium Hebdomadae Sanctae」は1585年にローマで出版されていますが、ちょうどこの年に少年使節団はローマに到着して教皇グレゴリオ13世に会ってます。その謁見のときに、この Officium が響いていたとしたら……

彼らは、当時最新の「現代音楽」をきいたのだ……と、妄想は留まるところを知らず……それが、時を超えて500年後、日本のある地方都市の中古CD店で私に発見され、ついにこういう emon になってしまいました……人間の歴史って、ふしぎですね。