![N氏_01_900](https://soraebito.wordpress.com/wp-content/uploads/2015/05/efbd8ee6b08f_01_900.jpg?w=960&h=700)
うちにくる、宗教勧誘のNさんです。毎週木曜日の午後2時きっかりに、おだやかな声で「こんにちは」と……もう、ホントに2時ピッタリなので、いつもおどろいてます。今、テレビでは、昔のように時報を流しませんが、それは、デジタル化でパケット送信になったためにホントのリアルタイムにならず、ごくわずかにずれるからだとききましたが……そういうナサケナイTV事情に比べますと、もしかしたらNさんの方がはるかに正確かもしれない……そう思わせるほど2時ピッタリ……
ソフトをかぶり、スーツにネクタイ。アタッシュケースを持ったすがたは、どこかの大手企業の部長さんみたい……なんですが、もうリタイアされて久しく、今はもっぱらみずからの宗教に身を捧げる日々なんですと……肉付きのよい精力的なお顔とハリのある声は、まだまだお若いなあ……と思うのですが、お年はもう70半ばとか。お元気ですねえ……で、Nさんの宗教はなにかというと、「ものみの塔」。キリスト教の一派のようですが、フツーのキリスト教とはかなりちがうようで。
「ものみの塔」は、今はもっぱら「エホバの証人」と名乗ってらっしゃるようですが、たぶん、自分たち以外のすべてのキリスト教徒を否定してらっしゃる。もちろん仏教とかイスラムとかは異教の極地……けっこう過激です。まず、三位一体を認めない。ここで、もう紀元325年の第1回ニカイア公会議にまでさかのぼってしまいます。この公会議では、キリストが「神」であることを認めないアリウス派が敗れて、神とキリストはホモウシア、すなわち「同質」であると確定されたのですが……
Nさんたちは、これを否定します。うーん……じゃあ、キリストは、いったいどういう方だったんですか?と問うていくと、最後にオドロクべき答えが……なんと、キリストは、大天使ミカエルだったんだと……これ、なんかスゴイです。こんな答えは予想もしてませんでした。へー、そう考えていたのか……と。Nさんたちは、もうとにかく「聖書原理主義」で、聖書(新約+旧約)がすべてだから、聖書に書いてある記述からこの答えを導いたんでしょうが……その詳細は忘れましたが……
もう、この時点で、他のキリスト教徒とは相容れない。カトリックもプロテスタントも、他の多くのキリスト教も、神とキリストと聖霊は一体であるという、いわゆるトリニティから出発しますから、出発時点そのものがくいちがってる……まあ、そのほかにも、「フツーの」キリスト教と異なるところはいっぱいあるようですが、おそらくこの点がいちばん決定的なちがいだと思います。ここが否定されるようなら、もう「キリスト教」とは呼べないかもしれないのですが、ここで思い出すのが例のグノーシス……
グノーシス主義は、キリスト教の範囲に限られない、もう少し広いエリアを持っているようですが、これがキリスト教に適用された場合、イエスはむろん神とは異なる存在です。ただ、グノーシス主義のキリスト教の場合、一般的に「旧約の神」を否定するので、この点はNさんたちの考え方とは大きく異なります。Nさんたちにとっては、旧約の神も新約の神(イエスの神)もむろん同じ存在なんですが、グノーシス主義からみると旧約の神は、実はデミウルゴスで、偽の神であると……ホントの神は身を隠して、この世界の創造はデミウルゴスによって行われたんだと……
なので、グノーシス主義によれば、この世界は偽の神によってつくられたんだから、悪がはびこる世になるのはアタリマエ……で、キリストは、身を隠してしまった「本当の神」から、この「悪の世界」で苦しむ人間を救うために遣わされた存在なんですと……細かいところはグノーシスの中でもいろいろ違うみたいですが、だいたいこの線が基本になってるようです。したがって、Nさんたちの考え方は、ここでグノーシスとも大きく異なっている……神は、ずっとエホバ(Nさんたちの発音)で一貫していて、キリストは、この神から遣わされた存在(実はミカエル)だということで。
ここらあたり、キリスト教徒ではない私にとっては、どうしても「宗派内の争いじゃん」としか思えないんですが……まあ、「絶対神」を立てる考え方からいけば、「絶対に」ゆずることはできない大事なポイントなんでしょうね……とにかく、聖書をものすごく詳細に読みこんでいらっしゃる。こちらがちょっと「ナニナニで……」というと、「それは、ナントカの第何章の第何節にこう書いてあって……」ときます。スゴいです。かなりのお年なのに強烈な暗記力……聖書って、新約と旧約を合わせると5㎝くらい?の厚さになりますが、そこから記憶で瞬時に引用……スゴイ……
ということで、訪問のたびに一時間くらい、熱く語って帰っていかれます。大阪生まれだそうですが、関西なまりのまったくない、みごとな標準語(というか東京アクセント)。これも、いろんな人に「正しく神の教えを述べ伝えたい」ということでみずから矯正されたそうな……スゴいです。私には絶対にできない……ということで、タイヘン立派な方なのですが……うーん、ただ、強制力がすごくて、毎回「ついてけない感」に満たされる……本人はツユほどもそんな風には思ってらっしゃらないと思いますが、もう教条主義、原理主義の強烈な嵐で、こちらはもうタジタジ……
「教え導いてあげませう」という「上から目線」のカタマリなんですが、どことなく憎めないのは、やっぱり本人が純粋にそれだけを追求してやまない……そのためには、自分の関西なまりも徹底的に矯正して……そんな姿勢なのかな。今の時代、すべてがいいかげんで、人は、自分の死が訪れたときにはじめて慌てふためく……まあ、Nさんが「みずからの死」をどう受けとめられるかはわからないのですが、毛嫌いされる「宗教」も、やっぱり「存在の核」の部分では、どんな人でも「宗教的感情」は、多少は持つんじゃないでしょうか……宗教を嫌って「人前結婚式」をする人もいますが、それでもやはり、多かれ少なかれ、「儀式的雰囲気」は漂う……
人間、身を正すというか、エリを正すというか……そういうときは、だれにでもあって、そこには、遠くから漂ってくる焼き鳥屋のにおいみたいに「宗教的感情」がそこはかとなく生まれてしまう……そういうものから完璧に逃れられる人はいない以上、私はNさんのことを「狂信」といってわらうわけにもいかないと思います。これ、いったいなんなのでしょう。悪と善。信念。そしてその信念の強制……人と人の争いって、「ちょっと、それだけは許せんなあ……」というところから起こってくるような気がします。「いいですよ、お互いに自由なんだし……」ということで、どこまで行けるのでしょうか……とにかくこれは「微妙な問題」だと思います。
![N氏_02_900](https://soraebito.wordpress.com/wp-content/uploads/2015/05/efbd8ee6b08f_02_900.jpg?w=960&h=977)
それともう一つ、Nさんたちに特徴的な考え方は、「終末は近い」ということで、これは要するに「終末論」です。まあ、キリスト教はもともと終末論で、最後の審判があって、「良い実」と「悪い実」がよりわけられ、良い実は天国に……そして、悪い実はどうなるのかというと、Nさんたちによれば「存在そのものが消滅する」ということらしい……要するに、肉体はおろか、魂までなくなってしまう……完全消滅なんですと。コレがこわくて神を信じる……そうだったら、神はヤクザの脅しと変わらないわけなんですが、そう言うと、Nさんはさすがに不快そうでした。でも、「異教」の私からするとそう見えます。「恐怖による支配」の要素はけっこう強いかも……
で、Nさんたちは、この「終末」がごく近い将来に到来すると考えておられるようです。戦後しばらくは、「ハルマゲドン」を喧伝して、終末の年号まで確定して「悔い改めよー」とやっておられた時期もあったらしいんですが、その「終末の年」がなにごともなく過ぎてしまったので、戦術転換して、「ハルマゲドン」はあんまりいわないようにして、終末の年号なんかもむろん封印して、終末論はできるだけ表に出さない方針に切り替えられたそうですが……まあ、「ハルマゲドン」なんか、別の宗教が「実践」しようとしてタイヘンなことになって、それ以来、かなりイメージの悪い言葉になってしまいましたし……過激な中でもちょっと「穏健路線」に転換か……
でも、集団の中というか、個々人の頭の中ではガッチリ「終末論」が確立されているのはまちがいありません。まあ、人は、「終わり」を区切ってもらわないと「立派な生活」はできないということなのかもしれませんが……新約聖書の最後に置かれている『ヨハネの黙示録』がけっこう典拠になってるみたいです。この書のことをNさんたちは『啓示の書』と呼んでおられますが、たしかに原語(コイネーのギリシア語)からするとこの訳でないといけないのでしょう。ヨーロッパの各国語の訳もみなそうなっている。「黙示録」というのは日本語だけにある意訳のようですが、このあたりも「聖書、きっちり読みますぜ」というNさんたちの心意気は伝わってきます。
まあ、それはともかく、この「終末論」くらいやっかいなものはありませんね。年号を区切ると外れた場合に複雑な言い訳をしなくちゃならないし、かといって「近い将来」とばっかり言ってると、あんまり士気があがらないし……でも、以前の痛切な失敗に懲りて、このあたりはウヤムヤにする作戦に転換されたようで……まあ、客観的にみれば賢明なご判断なのかもしれません。……ということで、Nさんは今日もどこかを回っておられるのでしょう。定年後の自由な時間をすべてこの活動に費やすと語っておられましたから……で、こんどの木曜日にはまた、2時かっきりにうちの玄関で「こんにちは」と……それにしても、私自身もよくおつきあいするなあ……と自分でも思います。まあ、キリスト教のことはいろいろ勉強できますが……
![N氏_03_500](https://soraebito.wordpress.com/wp-content/uploads/2015/05/efbd8ee6b08f_03_500.jpg?w=960)