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偽青/Fake blue


角を曲がると、テレビ塔が見えた。そのてっぺんになにやら青いものが……

テレビ塔は、名古屋市の真ん中の栄を南北に貫通する100m道路の中央に立つ、高さ180mの電波塔だ。できた当時は、その高さとテレビ電波を発しているというスゴさ?で、風下には置けない存在であったが、今はもう、かなりその地位も低下?した感が……なにせ、もう、テレビ電波は発していないそうだし……高さも、駅前のJRツインタワー(250m)に抜かれてしまったし……

でも、今でも栄地区ではいちばん高くて目立つ建造物?であるにはちがいない。その、テレビ塔のてっぺんにふわっとかけられた青いもの……

目をうたがいました。野外活動研究会の方々と一緒に歩いていたので、二三人にきいてみた。

「あの……テレビ塔のてっぺんに青いもの、見える?」

もしかしてもしかして、見えてるのは私だけかしらん? いや、絶対だれにでも見えているはずだけれど、なんかありえないような気もするし……

きいた人全員が答えた。

「見える」

つまり、私の錯覚でも妄想でもなく、アレはやっぱり「実在」だったのでした。


しかしまてよ……もしかしたら、みんなが同じ「妄想」を見ているということはないだろうか……共同妄想……

ここへきて、いったいなにが「実在」なんだろう……と思うわけです。というか、実在ってなんだろう……この世界は、なにからできていて、私は、この世界と、どういうふうにかかわっているのだろう……

私が死ねば、おそらくこの世界は認識できなくなる。私が死んでも、この世界はあるんだろうか……というか、夜、私が寝てしまえば……もしかしたらこの「世界」は溶けてなくなって……なにやら混沌とした原初のカタマリに戻ってしまうんじゃないだろうか……

というか、この世界で、なぜ、私は「私」なんだろうか……

テレビ塔のてっぺんの「青いもの」が、みんなに見える、写真にも写る……しかし、それだけで、この「青いもの」が実在すると言いきれるんだろうか……

なにか、うまいことだまされているような気がしないでもない。どっかでだれかが、巧妙な仕掛けをつくっていて、私も、野外活動研究会のみなさんも、この写真を見ているみなさんも、みんなうまいことだまされているんじゃないだろうか……

昔、「プリズナーNo.6」というテレビ映画がありました。どっかでこのことは書いたような気もするのですが……イギリスの諜報機関(エムアイシックス?)をやめた主人公が拉致されて、ふしぎな島に連れてこられて、そっから出られない……というお話。

その中で、印象的なシーンがあった。主人公は、いろんな手を使ってその島を脱出しようとする。なかなかうまくいかないんだけれど、ついに成功してロンドンに帰る……しかし、なにかがオカシイ……と思っていると、そのロンドンの街は、「機関」がつくった巨大なセットだった……

なぜそんなコトをするのかというと、たしか、「機関」は主人公からなにかを引き出そうとして、そんな面倒なカラクリをしかけるワケです。主人公は、はじめはちゃんとロンドンに帰れたと思って……あと一歩でワナにかかる……というところで、なんかヘンだな?と気がつく。そして……

ということで、この世界、だまそうと思えばそういうことも不可能ではない。私の目に写るもの、聴こえてくる音、感触、臭い……いろいろ、すべて、「センサー」は欺くことが不可能ではない。とすると「真実」というのはどこにあるのだろうか……

こういうのを「不可知論」というのかな? 確たる実在。それを求めて、人はなんでもやってみているような気がします。「痛み」の中にしか実在はないのだということで、頬をつねったり手のひらで叩いたり……したって、「痛み」がフェイクであるという可能性がゼロとはいえないような気がします。「実在」って、なんだろう……

なにが、この世界を「保証」しているのか……角を曲がるといつも見えてくる光景……それは、いつも同じのように見えるけれど、少しずつ変わっていく。大きな家がいつのまにかなくなって、駐車場になっていたりビルがたったり……

江戸時代の人が急に現われたらどう思うだろう……と、ありきたりだけれどそう思います。場所は同じでも、まったく見慣れぬ景色……ただ、遠くの山並みだけが変わらない……

じゃあ、名古屋みたいに、街中からは山がぜんぜん見えないところはどうなるのか……いや、そもそも、山並みも変わらないんだろうか……戦後すぐは、全国の山がかなりハゲ山になっていたという話もききます。樹をきって、燃料として使ってしまったから。戦後すぐの人がするっと現代にきたら、山が緑になっててビックリ……ということもありえるかもしれない。

そもそも、世界が「安定的に存在する」ということがふしぎです。小松左京さんのSFにこんなのがあった。宇宙のどっかに、「物理定数」を安定させている装置がある。その装置のダイヤルを回すと、いろんな物理定数が変化する……「光速」が1cm/secになってしまったら、いったいものは、世界は、どう見えるのか……今、私の目の前に見えるモニターも、30秒前の画像……

この世界の安定は、なんによって保たれ、なんによって変化するのか……テレビ塔の上の「青いもの」は今でもあるんだろうか……もしかして、真っ赤なものに変わっている? それはなんとなくなさそうな気がしますが、今どうなってるのか……なんとなく気になりますね。

オバマスピーチ@広島に思うこと_01/President Obama’s speech in Hiroshima_01

オバマさん_900
オバマさんのスピーチ、良かったですね。

まあ、立場により、いろんな感想があると思いますが、私はとても感激しました。
きいているうちに、映画『2001年宇宙の旅』のシーンが浮かんできた。
ご覧になった方しかわからない話ですが……猿人の投げた骨が、一瞬にして、宇宙空間に浮かぶ宇宙船になる、あのシーン……映画は魔法ですが、あれだけ映画の魔法性をみせつけるシーンは、これまでなかったし、これからもないのでは……

月みる人_900
オバマさんの演説の、最初の方の箇所。
『広島を際立たせているのは、戦争という事実ではない。過去の遺物は、暴力による争いが最初の人類とともに出現していたことをわれわれに教えてくれる。初期の人類は、火打ち石から刃物を作り、木からやりを作る方法を学び、これらの道具を、狩りだけでなく同じ人類に対しても使った。』

まさにこれ(最初の武器の獲得)が、『2001年宇宙の旅』のはじめの方に出てくる、あのシーン。月と太陽と地球が重なる壮大なオープニングのあと、なんか荒野みたいな情景になる。おそらくは人類誕生の地であるとされるアフリカの大地の光景……で、そこに、誕生まもない人類、猿人が登場する。

彼らはまだ火を知らない。身体を寄せ合って夜の寒さに耐える。
獲物を狩って食べる。しかし、すでにいろんな部族がいて、わずかな水飲み場をめぐる争いとなる。
当然、身体が大きく、力の強い部族が勝つ。小さく弱い部族は、水飲み場から追い立てられる。

この、弱小部族の中に、このシーンの主人公、ムーンウォッチャー(月見るもの)がいた。まあ、これは、映画ではわからないのですが、アーサー・クラークの小説の方では、こういう名前で出てきます。

彼は、部族のなかでは変わりもので、好奇心が強く、頭脳明晰。そしてある夜、彼らの前に、あの物体、モノリスが出現する。

はじめはおそるおそる遠巻きにしていた彼ら……しかし、少しずつ近づき、ついに、ムーンウォッチャーの指がモノリスに触れる!

でもまあ、なんにも起こりません。みかけ上は。ところが……ある日、ムーンウォッチャーは、行き倒れて死んだ大型の動物の骨を前にして、なんか首をかしげて、考えているようなポーズ……そして、おもむろに骨(大腿骨のよう)を手にとり、それで遊びはじめる。骨の端を手にもって、ふにゃふにゃ動かすと、偶然、他端が別の骨に当たり、砕く。

ここから、彼の快進撃がはじまります。つまり……骨を道具として、「撃つ道具」として使うことを覚えた。彼の身体は小さくても、デカイ骨を持つことにより、手のリーチは格段に伸び、しかもテコの原理で先端の破壊力は増す。肉体の制限を超える力……それを、彼はまさに手にする。

そうなるともう、彼は王者です。水飲み場をめぐる争い……ふたたび、身体の大きな部族と対決になるが、彼は、手にした骨をふるって相手を一撃。撃たれた相手はバッタリ倒れて動かない。

威嚇するムーンウォッチャー。身体のでかい部族は、不利とみて、倒れた仲間を捨てて逃げ出す。ヒトはついに「武器」を手にいれた。

次のシーン。ムーンウォッチャーは、手にした骨でガンガン、地面に横たわる動物の白骨を叩きまくる。バラバラと砕ける骨のかけら……狂乱の様相を見せはじめるムーンウォッチャーの手から、骨が空に飛ぶ……くるくると回りながら上昇する骨のアップ。その上昇が上死点をむかえて下降に転ずる、その瞬間……

画面は突然星空となり、その中をゆく細長い宇宙船の姿……宇宙船は、星空に対して降下するような動きなんだけれど、その速度が、先の骨の降下速度にピッタリ合わせてあるので、見ている方は、まるで連続した「動き」を見せられているような印象……「動き」は連続するが、「動くもの」は骨から宇宙船に……

ここ、ホントにみごとです。猿人が武器を手にしてから数百万年。その「時」を一気にとびこして、人類の科学技術が宇宙航行を可能にした時代へ……「骨」が技術のはじまりとすれば、そこを一気に「最先端」へとつなげてしまう……

しかも、その説得力が、なんと「投げあげられた物体の動き」のなかにある。上昇する骨が、上死点に達した瞬間に、次の下降運動を宇宙船に受けわたす……これはもう、映像でしか表現できない世界……キューブリックさん、おみごと!

キューブリック_900
そして……画面ではわからないのですが、あの、骨のような細長い宇宙船のなかには、「核」が搭載されている……そういう設定だったそうです。
ここで、もういちど、オバマ演説のあの箇所を掲げてみましょう。

『広島を際立たせているのは、戦争という事実ではない。過去の遺物は、暴力による争いが最初の人類とともに出現していたことをわれわれに教えてくれる。初期の人類は、火打ち石から刃物を作り、木からやりを作る方法を学び、これらの道具を、狩りだけでなく同じ人類に対しても使った。』

このくだりを聞いたとき、私は、オバマさん、『2001年』のあのシーンを見たんだなあ……と勝手に思ってしまいました。モノリスが人類に与えたのは、「智恵」ということなんでしょうが……人類は、その智恵を、自分たちの生存を有利にするために用いはじめ、それは、結局、あの水飲み場の争奪戦に見られるように、同じ仲間である人類自身に向けられる……

オバマさんのこの演説をめぐっては、謝っとらんとか、具体性に欠けるとかいろいろ批判もあるみたいですが、私は、彼は、もっと高いところ、あるいは、彼の言い方を借りると、「もっと内なる心」を見ていたんだと思う。そういう意味で、彼のこの演説は、すぐには理解されることはないかもしれませんが、今後、年月がたつにつれ、その真価が認識されて、歴史的な名演説だった……と、必ずそうなると思います。びっくりしました……

彼は、政治家というよりは、むしろ思想家、未来を見すえた、これからの人類の導き手のような存在なのかもしれない……そう思いました。よく理解している……なんて、私が偉そうにいうのもヘンですが、人類と科学、技術の本質と、その来歴、そして、未来にそれがどのようになっていくのか……克服しなければならないものはなんなのか……それは明瞭に語っていたと思います。

『現代の戦争はこうした真実をわれわれに伝える。広島はこの真実を伝える。人間社会の発展なき技術の進展はわれわれを破滅させる。原子核の分裂につながった科学的な革命は、倫理上の革命も求められることにつながる。』

まさにここですね。『倫理上の革命』……さらりと書いていますが、ここはかなり重い箇所だと私は思います。『原子核の分裂につながった科学的な革命』……これは、骨をふりあげて相手を威嚇し、ふりおろして打ち砕くムーン・ウォッチャーの心の中にすでに起こった。モノリスは、なぜか、彼の心の中に、『科学上の革命』に至る種子を植え付けたけれど、『倫理上の革命』への道は示さなかった。それは、モノリス(を送った存在)の意図的な試みなのか、それとも……

もしかしたら、人類は、ある意味、試されているのかもしれないな……と思います。『科学上の革命』。それは、外から与えることができる。人類の脳という複雑な機関が、長い年月をかけて「進化」することによって与えられるという解釈もできます(モノリス的な解釈を拒むのであれば)。しかし……『倫理上の革命』。それは、人類が、みずからの自由意志によって選びとり、獲得していくしかないものなのかもしれない。

オバマさんは、さかんに「選択」と「変化」ということを言われますが、それはおそらく、このことを言ってるんではないか……『倫理上の革命』というものは、他から与えられるのではまったく価値のないものであり、「みずから選び、みずから変革していく」ことによってしか自分の身につかないもの……おそらく、基本的にそういう考えがあるのでしょう。

かつて、キリスト教の宣教師が、「未開の地」に出かけていって、その地の「土人」たちにキリスト教の高邁な「倫理観」を植えつけようとした。しかし……そんなものは、おまえらこれ、いいんだから、覚えろ!なんていうやり方では、絶対不可能……というか、そうやって、自分たちの「価値」そのものを押し付けるやり方自体がアカン。落第であって、自分たちが、いかにその「高邁な倫理観」を欠如した存在であるかを証明してしまってるようなもの……

さすがに、モノリスを送ったものたちは、そこはすごかったわけです。科学技術……自然を改変して、自分たちの都合の良い世界をつくりあげる能力をまず付与した。しかし……それをどういうふうに使うか……というか、その力の本質的な意味、その力というのがいったいなんであるか……そこは、その力を使っていろんな体験をするうちに自分自身で考えな……と。

オバマさんの演説は、人類に、そこを考えるのが最重要ではないか……と呼びかけているもののように思えます。そういう意味で、この演説は、小さな政治的駆け引きとか、いろんな感情、どうしようもない人間的な次元のものは少し越えて、もっと大きな視野でものごとを見ていかないと、人類はここで終わるよ……と、そんな切実なメッセージを送っているように私には思えました。

今回のことは、オバマさんの任期と、偶然のような伊勢志摩サミット、それに、関係するたくさんの人たちの努力が突然に相乗効果をひきだして、ほんとに奇跡のように舞い降りた……そんなイメージがあります。71年前に広島の空に舞い降りたのは「死」そのものだったけれど、今、語られたのは、人類が、自分自身のことをもっと深く考えてみよう、というメッセージ……そして、それは、あの日、空から降りてきたような「死」の本質的な克服につながっていくものなのかもしれません。

オバマさんは、大統領を8年やってみて、これはホントに難しい……と実感したのかもしれない。言葉の端々に、その重量感が漂ってる(いささかの疲労感も)。しかし、彼は、結局本質は昔とまったく変わらなかったんだなあ……と思いました。いやあ、立派な方ですね。おまけにカッコいいし……

プラハ演説でカッコよく登場して、ヒロシマ演説でカッコよく去る……で、そのあとに登場するのが、あのトランプくんなんだろうか……ぶるぶる。

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蛸頭族/Octopus head spaces

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蛸頭族の若き領袖 Ocho(オチョ)。この一族はみな、頭に蛸を乗っけている。生まれたときからそうなのか、それとも後で乗っけるのかは定かでないものの、死者を解剖してみると、蛸は本人の脳と一体化しているので、単に乗っけているだけではなく、蛸とそれを乗っけている人が深く結ばれていることがわかる。

いや……もしかしたら、本体は、蛸の方なのかもしれない……それはともかく、このシーンは、オチョくんの上に乗った蛸が、「あっちに敵がいるぜ」と警告を発して、オチョくんがそちらをキッと睨みつける瞬間を描く。このように、頭の上の蛸は、一種のレーダー的な役割も果たしている。

小松左京の小説で、アマゾンの密林だったかに、頭の異常に大きな種族がいるという話があった。文明からはるかに断絶されているように見える彼ら……しかし、探検隊は、彼らの一人の少女が、今、文明世界で流行している歌を口ずさむのを聴く……テレビもラジオもないのに、なぜ?

実は、その種族は「電波人間」で、大きな頭部の中には、空中を飛び交う電波を直接受信して、音に変える機構が内在されていた……つまり、その少女は、テレビやラジオといった電波を音や光に変えるメカニズムを必要とせず、その脳で直接電波を「聴いて」いたのである。

蛸頭族の蛸も、もしかしたらそういう特殊な機構を備えた「身体の一部」なのかもしれない。そうすると、彼らは一見人間に似ているが、人間ではない「別の種」である可能性も……さて、どうなんでしょうか……??

日本難民/Japanese refugee

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今、シリアの内戦で、シリア難民の人々が大挙してヨーロッパに押し寄せているというニュースを連日やっています。私は、正直、難民ということについては、漠然とした概念しかなかったんですが、連日の報道をきいているうちに、やっぱりこれは、タイヘンなことだなあ……と思うようになりました。

難民というとどうしてもアフリカとか東南アジアのイメージが強かったんですが、ウィキで調べてみますと、アジアが第1位で562万人、アフリカが2位で230万人、ヨーロッパが3位で163万人、そして以下、北米45万人、南米37万人、オセアニア3万5千人と続きます。1位はアジアだったんですね。

これは、2009年の統計ということで、今は少し違っているのかもしれませんが、とにかく、住む場所を追われてさまよわなければならない人がこれだけいる。シリア難民に対してドイツ政府は大英断で大量の受け入れを発表しましたが、日本は?……というと、難民認定を申請した人5000人のうち、認定が11人……

これは、2014年の数字だそうですが、あまりにも少ないんじゃないか……ということで、いろいろ批判が出ている。たしかに、もっと受け入れてもよさそうなもんだが……とか思っているうちに、ン? まてよ? なんだかヘンだぞ……と。「受け入れ」を前提にしゃべってますが、「難民になる」ということはないの?

つまり、日本人が難民になって、世界に散らばる……外国に「受け入れて」もらわねばならないハメになる……そういう可能性は、ゼロなんでしょうか……あまりにも突飛で、現実離れした空想のように思われるかもしれませんが、でも、先の原発事故のことなんか考えてみると、やっぱり全くの空想ともいえない?

2011年3.11の福島原発の事故は、とりあえずあのかたちで済んでいる……というか、まだぜんぜん済んでないワケですが、場合によっては、東京都民の避難が必要になるというところまでいく可能性もあったとききます。もしそれがホントだとしたら、これはタイヘンなことだ……関東圏に避難対象が及ぶと……

東京都の人口1300万人だけじゃなく、いわゆる広域関東圏(茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、神奈川、長野、新潟、山梨、静岡)の人口5000万人が避難するという事態になったとすると、これはタイヘン。5000万人といえば、日本の全人口1億3000万人の約40%にあたる。アジア難民の562万の十倍近い。

これに、東北の各県(福島、宮城、岩手、青森、秋田、山形)の総人口約900万を加えると、全人口の45%、つまり、日本の約半分の人が住む家を失う……この想定、「ありえねー」と一笑に付す方もおられるかもしれませんが、でも、福島の事故がもうちょっと拡大してたら、現実にそうなったのでは。

というか、あのゲンパツ事故のときは、アメリカなんかは在留米人に、80kmを避難区域としたとききます。日本は20kmだったけど。実際のところはどうだったのでしょうか。政府は、大混乱になるのを怖れて、ホントのところ(汚染状況)を発表しなかったのでは……そういう疑いも払拭できない。

まあ、それくらい、日本政府のいうことは信用できないわけですが……もし、ダレの目から見ても汚染がさらに顕著になってたとしたら、やっぱり「人口の半分避難」が現実的になってたと思います。そうすると、もう日本は崩壊ですから、大量の「難民」が発生したでしょう。そうならなかったのは、単に偶然??

ABくんは、このごにおよんでまだ再稼働・推進!なんて言ってるから、このリスクは、これからも高まりこそすれ、低くはなりません。これに加えて、新安保で日本が武力攻撃やテロの対象になる危険もぐんと高まるし……さらに、政府の「2極化方針」で、経済的に破綻する人がこれから続々出てくる。こっちも大問題。

日本の人口の半分が住む地域が「汚染」されてしまったら、もう物理的にかなりの人が国外に出ざるをえなくなるのでしょうが、「住めなくなる」地域がもっと小さかったとしても、この「2極化」によって、やはり国外に追い出される人がどんどん増えてくるのでは……ということは、日本が内戦状態になる??

こんなことをいうと、また「ありえねー」という声が聞えてきそうですが、これって、そんなに「想定外」ですませていていいのでしょうか……これからは、経済的な格差がどんどん拡大して、「持たざる若者」はものすごく苦しい立場に追いやられていきます。みな、そうならないように必死にがんばってるけど……

ABくんの政策自体が、「格差、広げたるでー」というものだから、もうどうしようもないでしょう。彼が否定している「徴兵制」も、経済徴兵というのでしょうか、「持たざる若者」は否応なくそういう「苦役」に追いこまれる。むろんこれは、男女関係なく……まあ、こんなところで「女性の活躍」というのかなあ……

ということで、2極化するということは、価値観が分裂するということだから、まあ、お定まりの「圧政と弾圧」ということで、ヒサンなことに……その先は考えたくありませんが、国内の価値観が大きく乖離してくると、これは、外からのいろんな力の介入する余地を大きく広げるので、乖離はますますひどくなる。

たとえ原発事故で、国土の半分が住めなくなっても、国内の価値観がある程度統一されていれば、なんとか残った国土に受け入れることができるかもしれません。この場合は「国内難民」で、今、福島の方々はこういう状態になってるわけですが、大部分の人が、見知らぬ外国に出ていかなくてもすむ。

しかし、2極化のはてに国内の価値観に大きな乖離が生まれてしまえば、おそらく多くの人々が国外に脱出せざるをえなくなるでしょう。「ありえねー」と、今は笑いとばせますが、でも、ABくんたちは、着々とその準備を進めている。「原発再稼働」と「2極化推進」。これをふたつとも、ガンガン進めてます。

ということで、私は、近い将来、「日本難民」が大量に発生する可能性が、従来に比べてはるかに高まってきていると思います。原発事故の連鎖(これは十分ありえる)で、沖縄を除く国土全体を放棄しなければならない可能性だってゼロじゃない。その場合、沖縄だけで本土人口全員を受け入れるのはムリだし……

そもそも、沖縄の方々に拒否されるでしょう。今まで米軍基地をいっぱい押しつけておいて、いざとなったら助けて~はあまりにムシがよすぎる。そうすると、日本国民のほとんどが難民となって海外に流出せざるをえない……「日本難民」……じつは、これをシュミレーションした小説が、かつてありました。

小松左京さんの『日本沈没』。半世紀前に書かれた第一部は、日本列島が沈没して、日本人全員が海外に避難せざるをえなくなったところで終わっていましたが、十年くらい前に書かれた第二部(谷甲州氏との共著)では、海外の各地に散った「日本難民」のその後が、かなり詳細に描かれています。

共著者の谷甲州さんは、東南アジアでの生活がけっこう長かったみたいで、そのあたりはかなりリアルです。なるほど、こうなるのか……実際は、なってみないとわからないのでしょうが、「難民ルート」というのは、やっぱりあるんですね。今回の、シリア難民の方々がドイツをめざしたといのもそうなんですが……

シリアとドイツ? 遠い国に住むわれわれには、「なんでドイツなの?」という疑問が湧くわけですが……もちろん、今、ドイツが経済的に繁栄しているというのはいちばん大きいでしょう。でも、歴史的にみると、このルートは、中世末期に、まさにオスマントルコがヨーロッパに迫ったときのルートそのままだ……

中世ヨーロッパでは、その東の入口がオーストリアのウィーンでした。ウィーンは、オスマントルコの皇帝たちから、「黄金のリンゴ」と呼ばれていて、なんとかして手に入れたい「羨望の地」だった。トルコの軍勢は、バルカン半島からセルビア、ハンガリーを手に入れ、ついにウィーンに迫ります。

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ウィーン包囲は、1529年と1683年の2回あったみたいですが、このうち1683年9月12日のウィーン攻防戦は映画化もされてます。このときは、皇帝レオポルト1世のウィーン脱出というところまでいったらしい。当時、ドイツは、神聖ローマ帝国という名ばかりの「帝国」のもとに、実際は封建領主や教会の群雄割拠の四分五烈状態……

ウィーンハプスブルグ家の皇帝レオポルト1世も、「皇帝」という名にふさわしい権力は持ってなかったみたいで、ポーランド王ヤン3世の援助まで頼んで、なんとかこの危機をきりぬけた……今の状況を見てみると、なんか、当時の状況が彷彿とされます。といっても、むろん今のシリア難民の方々は、「攻略」じゃなくて……

母国の危機的な政治状況で国外に「逃げざるをえない」わけですが(実はシリア国内の難民の方がはるかに多いけれど)……ただ、この背景には、アラブ諸国の政治的不安定(これまでの独裁政権のツケ)と、それに乗じたイスラム国やアルカイダの膨張がある。ヨーロッパは、これに対し、かつての神聖ローマ帝国の亡霊?のEUで…

となると、これはあまりに図式的というおしかりを受けるかもしれませんが、どうなんでしょうか。考えてみると、ヨーロッパという地域は、常に「アラブの圧力」で自分たちを形成していったみたいな……そんな歴史の大枠があるんじゃないかと思います。なので、また、その周期がめぐってきたのか……それはわかりませんが。

じゃあ、日本はどうなんだろう……日本を含む東アジアに、そういう「民族圧力往来」みたいなことはあったのか……直近では、やっぱり先の大戦のときの、日本自身の「膨張政策」がアタマに浮かびますが、江戸期300年の鎖国のあいだを除いて、やっぱり日本は、大陸や南方への「膨張」を、たぶんくりかえしていた……

それは、いろんなかたちで、そうだったと思います。神功皇后や秀吉みたいな「わかりやすい軍事作戦」ばっかりじゃなくても。そして、現在も、経済政策というかたちになって、アジア各地域への「膨張」は続く……もし、日本の全人口の半数が難民化した場合には、やっぱりこの「膨張」ルートがベースになるんでしょうか。

もしその場合、アジアの各国は、「日本難民」をちゃんと受け入れてくれるんだろうか……日本国と日本人の、アジアの各国における「受けとられかた」はどうなんでしょうね。少なくとも、中国や朝鮮半島においては、「過去の侵略」があるから、場合によっては大いに反発をくらう可能性も……

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ヨーロッパにおいては、「イスラムの侵攻」は、今も悪夢のように人々の心に残っているから、シリア難民の方々も、けっして諸手を上げて受け入れ……というわけではないのでしょう。しかしちゃんと……受け入れられているように、現段階ではみえます。大人だなあ(むろん、反発する人も多いけれど)……

これは、やっぱり、西欧世界の理性を最高基準とする「思想」の成果なんでしょうか……その点は、率直にスゴイなあと思います。中国なんかも、今は、日本人の目には「メチャクチャの国」に映るけど、もしかしたら、日本よりずっと「大人の国」なのかもしれない……これは、今の日本人の心情と真逆だけれど……

それは、日本から大量の「難民」が発生したときに明らかになるのでしょう。そして、もしかしたらそういう時期も意外に近いのかもしれません(AB政権はまだまだ続きそうだし)。さて、そのとき、日本人は、どういうふうに「評価」され、受け入れられるんだろうか……あるいは、受け入れられないんでしょうか……

なんせ、狭い国土ですから、ちょっとゲンパツがポン!といっただけで、大量の「難民発生」は火を見るより明らか。あの事故のときに反省して「全原発即時廃炉」にふみきってれば、ちょっとはリスクは下がったのでしょうが……もう遅いですね。ナンマンダブ……

アラクネンシス_DUNE_01/Arachnensis_Dune_01

Dune_900
5月19日に紹介した、「アラクネンシス_ソラリス_01」をどんどん描きつづけていったら、こうなってしまいました。「ソラリスの海」とはだいぶ感じが変わってしまったので、「DUNE」(デューン)と命名。「DUNE」は「砂丘」のことらしいですが、アメリカの小説家、フランク・ハーバート(Frank Herbert)の同名の小説で有名です。私のこの作品も、むろんそちらの方のイメージです。

といっても、最初から「DUNE」でいこうと思ってたわけではなくて、完成したらそうなってしまった……ということです。まあ、こういうものに「銘」をつけるのがいいのか悪いのかわかりませんが、そこは作者の自由ということで……フランク・ハーバートさんには申し訳ないかもしれませんが。まあ、「DUNE」という言葉はとてもイマジネーションを掻きたてるオーラを持ってますし。

小説『DUNE』では、「砂虫」という巨大生物が出てきます。砂の惑星アラキスのヌシみたいな存在で、全長数百メートルでしたか……『ナウシカ』の「王蟲」の砂漠版みたいなもんですが、むろん『DUNE』の「砂虫」の方が先輩ですね。(宮崎さんの「王蟲」がパクリだとはいいませんが)この「砂虫」は、また、「メーカー」(maker)、つまり「創造主」とも呼ばれている……

この「砂虫」は体内で「メランジ」というスパイスをつくりだすのですが、このスパイスを人間が飲むことによって肉体も精神も変化し、「ワープ能力」を得られるという設定で(その他いろんな超能力にも関連する)、宇宙船がワープをしていろんな星々の間を行き交うための必需品であり、そのために、このスパイスが採れる惑星アラキスがいろんな勢力の争いの中心の星になる……

詳しくは小説を読んでいただければと思うのですが、私がおもしろいなと思ったのは、この小説では「惑星生態学」の視点がベースに伏設してあるということで、この視点から語られるとき、物語は単なるスペースオペラの様相からちょっと広がって、この地球という惑星の生態学的観点や人類文明の下部構造的視点、そして宗教的な観点に入り、人類の未来みたいなものも考えさせられる……

そういう空漠たるところに連れていってくれる感が、この作品(長大なシリーズものになってます)に世界中でいまだにたくさんのファンがいるという理由かなと思います。とくに、この作品には、なぜかイスラム教みたいな要素がふんだんに取り入れられていて、発表当時(1965)は、作者もこんなにイスラムのことが将来問題になるとは思っていなかったのでしょうが……

砂の惑星アラキスの原住民が、なぜかけっこうイスラム的なんですね。アラブ地域で豊富に採れる原油と、砂漠から採れるスパイス「メランジ」がかぶります。「星ひとつを巻きこむ物質」って、あるんですね。惑星地球では、今は原油ですが、少し前は鯨油。金とか銀はずっとそんな感じだったし……「水素社会」なんていってますから、こんどは水素がそうなってしまうんでしょうか。

「水素の奪い合い」、とか「水素マネー」とか「水素長者」とか……あんまり考えたくもないけど、人類って愚かだとあらためて思います。フランク・ハーバートさんが亡くなられてもう30年近くたつわけですが、「進歩しない人類」をどんな思いで見ておられるでしょうか……一人一人はじゅうぶん賢い人たちだと思うのですが、集まると愚かになる。ヘンないきものです。私も一員だけど(イヤだけど)。

アラクネンシス_ソラリス_01/Arachnensis Solaris_01

アラクネンシス_ソラリス_01_900
いちばん新しいひとふでがきの作品です。「ソラリス」と名付けました。むろん、スタニスラフ・レムのSF『ソラリスの陽のもとに』(とタルコフスキーの映画『惑星ソラリス』)からきています。

レムの『ソラリスの陽のもとに』をはじめて読んだのは、中学生のときでした。それまでは、小松左京とか筒井康隆とか、日本人作家のSFをいろいろ読んでいたんですが、このレムの作品は、それまで読んだどの作品ともちがう独特の世界を持っていて、びっくりしました。

まず、「底がない」……というとヘンな言い方ですが、まさにそういう感じ。物語の奥がよくみえない。主人公のケルビンが、ソラリスステーションで顕微鏡の倍率を上げていくシーンがありますが、赤血球が見え、タンパク質の構造が見え、分子が見え……あと一歩で原子が……というところで、すべてがホワイトアウトしてしまいます。惑星ソラリスの物質……それは、もしかしたらニュートリノからできているのか……

この物語には「謎」が設定されているのですが、それは、答のない謎……すべてが顕微鏡のもとでホワイトアウトしてしまうみたいに、どこまで追っかけても「発見」にも「和解」にも至らない……「和解」というのは、ソラリスの海……異星の、おそらくは知性体であろう存在と人類の和解……相互に、ある程度認識し合えるのかどうか……ということなのですが、それができない。そして、できないのは、もしかしたらそれが「異なるものの本質」ではなかろうか……そんなことを感じさせてくれます。

SF小説でもSF映画でも、「エイリアン」はよく登場しますが……いろんな作品で、いろいろ工夫して、「地球人とはまったく違うんだゾ!」と言ってるんですが、でもわかってしまう。要するに、われわれの持ってる「地球の脳」で理解できてしまう範囲に収まる。うーん……これでは「エイリアン」ではないんではないの? とよく思いました。「絶対にわからん!」というものに出会ったことがない。なんせ、地球人が考えるエイリアンなので、原理的にそうなるわけです。でも、読者や観客は「ないものねだり」だから、「絶対に理解不能なものを見せてくれ」、となります。

私の感覚では、レムの「ソラリスの海」が、これまででいちばんソレ(理解不能物)に近いものでした。人の理解を、なにか根本のところで拒絶してしまう惑星ソラリスの海……それは、人が見ている前で、いろんなかたちをとるけれど、その意味は、人にはまったくわかりません……そして、ある日、海は、人の記憶の中から「固着する人物」を送ってくる。それは、かたちもこころもまったく「人間そのもの」であるにもかかわらず……その赤血球を顕微鏡で見ると、分子レベルから原子レベルに至るところで突然ホワイトアウトしてしまう……

この作品が1972年に映画化されたとき、私は「ソラリスの海」が、どのように視覚化されるのか……そこに期待して見にいきました。しかし結果は……タルコフスキーの『惑星ソラリス』は、おそらくSF映画史上に残る大傑作であろうとは思いますが、でも、残念ながら監督の関心は「海」にはなかったのです。「理解しがたいこと」、「なぜ、理解できないのだろうか」……そういう原作の根本テーマはみごとにスクリーンに展開されていましたが、しかし「海」の映像は、まあこんなもんでどーでしょー……というくらいのもんで……

これはまあ、タルコフスキーはこの作品を「SF」としてはつくってないんだから、当然かと思うのですが……でも、やっぱり原作ファンとしては、あの、ふしぎな海の視覚化をこってりと見たかったなあ……と思いつつ30年がすぎると、こんどはハリウッドでリメイクされた。よし!ハリウッドか……じゃあ、ぜったい……と思ったけれど、またガックリ。「海の視覚化」が、さらになされていない!……このリメイク版『ソラリス』の監督のソダーバーグさんは、タルコフスキーに対抗して?さらに「文芸」にこだわったみたいで……

だから、「視覚効果」を前面に押し出した「ハリウッド作品」とは一味も二味もちがう、しっとりとした落ち着きのあるいい作品にしあがっていたんですが……でも、「海」が出てこない……レムの本で、あのふしぎな「海」の描写に魅了されてしまった私としては、「なんとかあの海を、目で見たい!」という思いがもう半世紀!も……ずっと解決されぬままにくすぶっているんですが、で、今、この私の作品で「ソラリスの海」を描けたかというと、やっぱり全然迫れてないですね……というか、元々これは単なるひとふでがき……

で、線を引き続けていたら、こうなってしまって……で、その様子が、なんだか「ソラリスの海」を思わせるものになった(と自分では思っている)ので、アラクネンシス_ソラリスと名付けたわけなんですが……実は、これは途中でして、このあとさらに描き続けたら、かなり異なる印象のものになってしまったので、結局完成作は、「アラクネンシス_デューン」と名付けようと思っています。『デューン』はいうまでもなく、フランク・ハーバート作の、あのSF超大作の名前……これを映画化したリンチ版『デューン』が、また良かったなあ……

今日のemon:民のいない神/Gods Without Men

民のいない神_900
個展(リンク)出品作の紹介第四弾は、emon シリーズから、ハリ・クンズル作『民のいない神』(木原善彦訳、白水社、2015)。最新刊のこの小説を emon 化してみました。ちなみに、emon というのは私の造語で、「絵紋」つまり、「絵」を並列して模様化したシリーズにつけてるシリーズタイトルです。文字を模様化した作品を jimon シリーズとしてつくっていますが、これにならったもので、「絵」は実物でもなにかの図案でもなんでもいい……まあ、文字以外の図像はすべて「絵」と解釈してやってます。この作品の場合は、図書館で借りてきた本をオブジェとしてやってみました。
民のいない神_part
この本の作者のハリ・クンズル(Hari Mohan Nath Kunzru)さんは、1960年生まれのインド系イギリス人作家だそうで、今はニューヨークにお住まいだとか。この小説は、カリフォルニアのモハーベ砂漠(Mojave Desert)に立つとされる3本の奇岩(ピナクル・ロック)をめぐる物語で、いろんな時代のいろんな人たちが登場するんですが、ストーリーの骨格は、アメリカに移住したインド人の2世?のジャズ(ヘンな名前ですが)が奥さん(白人女性)と子供づれでここを訪れ、息子のラージくん(これも変わった名)が「神隠し」にあうという……そんな感じです。

で、この「神隠し」が、もしかしたら「宇宙人による誘拐」ではないかという雰囲気が漂う……この3本の奇岩の場所には、大航海時代にここに来たスペイン人神父が「天空からの人々」にあったという話からはじまって、1950年代にはあるUFOコンタクティを「教祖」とするUFOオカルト教団みたいなのが繁殖したりとか、いろんなお話が錯綜しながら紹介されます。ラージが「神隠し」にあうのは2008年で、基本はほぼ現代のお話なんですが、主人公格のジャズは、物理学者で、金融業界で確率論を応用した投資ソフトの開発にたずさわって高給をもらっている。アメリカの金融業界では、こういう人(研究者くずれのIT技術者)が多いようで……

リーマン・ブラザーズの倒産による金融危機とか、それが実は彼が開発の一端を担っていた投資ソフトによるものだったのかもしれない……とか、サブストーリーにもことかかず、全体はまことに映画的……『クラウドアトラス』という映画がありましたが、雰囲気はそんな感じです。この小説は、やがて映画化されるかもしれません……まあ、それはともかく、読んでいて感じたのは、「寸止め」が効いてるなあ……と。「宇宙人」の雰囲気は濃厚なれど、『未知との遭遇』みたいなふうには絶対ならない。金融ソフトの問題も、「かもしれない」以上には行かない……

要するに、「ご本尊」は絶対にわからない、見せない……ということなんですね。現代の考え方としては……「そういうもの」を信じる人はいてもいい。だけど「そういうもの」が実在するのかどうかはわからない……それは、結局永久にわからないのであって、われわれは、そういう時代のものとして、ここに立つしかないのだ……と。これ、やっぱり今の時代の気分だと思います。信じたい人は信じてもいい。だけど、それが「本質」というところまでは絶対に届かない……まあ、数学でいう「漸近線」みたいなもので、無限に近寄れるけれど、ドンピシャにはならない……衝突回避というのか……

考えてみると、「絶対に信じる」というところを起点にして、いろんな争いが起こっているように見える。まあ、イスラム国なんか典型ですが、思想の核、自分自身の核……そういった「のっぴきならない場所」はつねにソフトフォーカスでぼやかす……「他者」が入れる余地を残しておく……これが、単なる「処世の智恵」を超えて、すでに「思想自体」になりかかっている……そんな印象を受けました。ポストポストポストの時代というか……もう、いろんな争いに嫌気がさした世代……そういう世代が大人になって、ちょっと今の文明はどうにかならんもんでしょうか……という、そういう控えめな気持ちの吐露みたいな感じもします。

ところで、訳者の木原さんの解説によると、3本岩の下にコミュニティをつくったUFOカルトにはモデルがあるそうで、1950年代のアメリカのコンタクティ、ジョージ・ヴァン・タッセル(George Van Tassel)氏のカルトなんだとか……小説に出てくる3本岩はフィクションですが、ヴァン・タッセルさんは、モハーベ砂漠に実在する「ジャイアント・ロック」という奇岩のそばに拠点をもうけて、たくさんの人を集めて「UFOコミュニティ」みたいなのつくってたらしい……世界中から「信者」が集まって、一時はタイヘンなものだったらしいですが、小説の中には、それを彷彿とさせるシーンがなんども出てきます。

ヴァン・タッセルさんがコンタクトしていた宇宙人の集団は、「アシュター・コマンド」(Ashtar Command)と呼ばれる方々ですが、この名称は、小説の中でもちゃんと出てきます。日本語訳では「アシュター銀河司令部」となっていましたが……小説では、むろん、宇宙人本人?が出てくるわけではなく、ヴァン・タッセルさんがモデルとなっているとおぼしき「教祖」さんがメッセージを受ける先が、この「アシュター銀河司令部」……ちなみに、この「アシュター・コマンド」の通信は、現実世界では今も継続しているようで、ネットで読めます(しかも日本語訳で)。
http://nmcaa-kunimaru.jp/message.from.ashtar.html

アシュターさんの肖像を載せているサイトもありました。金髪碧顔のもろコーカソイド(アシュターさんは、この人種に縁が深い)で、「司令部」というだけあって軍服を着ている……もう、ここまでくるとどっかのアニメの世界だ……
http://ameblo.jp/kenji9244/entry-12011111812.html
クンズルさんのこの小説は、さすがに寸止めが効いていて、こういうところには絶対に立入りません。ここへ立入ると、寿命が短いというか、その先がないというか……これはまた、「創作のヒミツ」でもあって、ある高度を保持しないと、創作自体が瓦解崩壊する……

ということで、この小説は、悪く言えば隔靴掻痒、永遠の宙ぶらりん。良くいうなら自己抑制が美しい……そんな感じでした。それと最後に、私とこの小説の出会い……ある日、いつも行く街の図書館で、ふと新刊コーナーを見たら、新刊が1冊だけ……で、それがこの本だった。「民のいない神」?なんじゃろ……タイトルにひかれ、岩の横に停まる昔のアメ車の表紙にひかれてつい手に取る……訳者の木原さんの解説をちょっと読んで、ん?ヴァン・タッセル?……よし、これ借りよう……ということで、考えてみればふしぎな出会い……新刊の棚に1冊だけ、なんかいぶし銀の光を放ってそこにありました。まるで私を待つかのように……

マンガ:ゆるキャラチューリン・オデッセイの巻/manga:Yuru-chara Turing

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3コマ目と4コマ目は、映画撮影でいうと、いわゆるイマジナリーラインを横切っているので御法度手法ですが、マンガではどうなのでしょうか……絵コンテと考えた場合、やっぱりよくないのかな? わかりませんが……

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イマジナリーラインというのは、たとえば二人の人物が会話をしているとすると、その両者を結ぶ見えない線のことで、最初のカットをカメラAで撮っていて、次のカットにイマジナリーラインの反対側から撮ったカメラCの絵をつなぐと、不自然に見える……この場合、カメラAと同じ側にあるカメラBの画像をつなげば自然に見える……

これは、映画における「視線」の問題を改めて考えさせます。通常、映画を見ている観客は、カメラを意識することがない……つまり、今自分が見ている映像を撮影しているカメラを意識することはないわけで、視線については、通常は普遍的な視線として、そしてときには、登場人物の視線として無意識にとらえています。

そこに、イマジナリーラインを越えるカットがつながった場合、観客は、なぜか、「視点の移動」を認識してしまう。映画の撮影はまことに巧妙で、観客に「視線」を意識させる場合には、それなりの理由が要る。たとえば、覗き穴から覗いた光景を撮る場合には、まず覗き穴を覗きこむ人物のカットを観客に見せて……

それから、カメラを覗き穴に寄せて、中の光景を撮る。こうすることによって、観客の視線は、自然に覗き穴を覗く人物の視線に同化する……以前、スターウォーズの第一作(エピソード4)で、特殊撮影にシュノーケルカメラが使用され、デススターの赤道トレンチに突っこむX翼戦闘機の視線をみごとに描きましたが……

この場合も、観客は、デススターの模型のトレンチに突っこまれるシュノーケルカメラの映像を、戦闘機のパイロットの視線として認識したわけですが、そのカットの前には、ちゃんと、トレンチに突っこむ体勢になった戦闘機を少し引いた位置からとらえるカットが用意されていました(私の記憶では)。

こういうふうに、映画のカットは、どれとどれをつなげば自然に見えるか……ということは、長年の蓄積でかなり研究されているようですが……アニメやマンガはどうなんだろうか……少なくとも、アニメでは、やっぱり映画と同じ原則が適用されるんだろうと思います。以前、TVで、スタジオジブリの米林監督が……

『借りぐらしのアリエッティ』の製作の際に、アリエッティが縄梯子をのぼるシーンで、試写を見て、どうしてもカットの連続が不自然だということで、急遽カットを一つ、自分自身で描き足したというエピソードが紹介されていましたが、これもおそらくは、視線の問題が関係していたのだと思いますが……

では、マンガはどうなんだろうか……私の描いたゆるキャラチューリンでは、3コマ目と4コマ目はあきらかにイマジナリーラインを越えているわけですが……イマジナリーラインを越えないコマもつくってみましたが、なぜか、自分の描きたいものとちがうなあ……と。この場合、この、今の構成の方がしっくりくる……

イマジナリーラインを越えないコマだと、展開がものすごく平凡になります。これに対して、イマジナリーラインを越えるコマ(今の4コマ目)だと、心の背後といいますか、全体の空気みたいなものをぎゅっと緊張させて、「裏から」語るみたいなことができるように私は思うんですが……

3コマ目と4コマ目の展開は、私には、「不自然」には思えない……私は、なぜか、マンガのコマ割りは、映画やアニメとはちがう、独自のものがあるんではないか……と感じます。まあ、マンガのコマ割りを今みたいに動的なものにしたのは手塚治虫さんで、彼は、そのときに、映画のカット構成を参考にされたということですが……

なので、無意識に、マンガのコマ割りも「映画的手法」が応用されてるんだろーなーと思っていたんですが、だんだんちがう気がしてきました……おそらく、マンガの世界の空間構成や視線の構成、そしてもしかしたら時間軸の取り方や心理描写なんかも、映画的手法とは似て非なる独自のものがあるのではないだろうか……

そしてまた、読み手側も、映画やアニメを見ているときとはちょっとちがった脳の筋肉を働かせているのではないか……そんな感じがします。映画やアニメは、見ている人が進行させなくても、向こうの方が勝手にどんどん進んでいく……カットの連続も、それは完全に一筆書きのように一つのルートで進んでいきます。

おそらく、イマジナリーラインの問題も、こういう時間投企性?のあるメディアに特有のものなのではないか……時間軸がある程度読み手にゆだねられるマンガなんかの場合には、脳内では、たぶんもう少し複雑な作業が行われていて、それはむしろ、活字の小説の方に近いのかもしれません。

いや、もしかしたら……活字の小説の方が、むしろ映画やアニメに似ていて、マンガは、けっこう独自の「読み方」を読み手に要求しているメディアなんではないだろうか……マンガに外見が似ているものとしては、アニメなんかの「絵コンテ」がありますが、これは、むろんマンガではない……

最近は、人気アニメの「絵コンテ集」なんかも出版されますが、これだけを「読んで」いても、あんまりおもしろくない。絵コンテの背後に完成品のアニメを想像すると、はじめておもしろくなる(というか、それなら完成品を見れば?ということにも)。マンガを読むときに感じるおもしろさは、絵コンテにはほとんど感じない。

絵コンテは、時間軸に沿って自動進行する作品の指標になるものだから、ここで、当然イマジナリーラインなんかも検討されるのでしょう。できあがった作品の視点移動において不自然さが残らないように、詳細に設計されるものなのではないかと……なので、マンガみたいにそれだけで自立するものでは当然ない。

絵コンテの場合は、マンガにくらべてはるかに「強制的な時間投企性」みたいなものが強いのでしょう……こういう「時間芸術」に対して、マンガはあくまで「空間芸術」であって、コマが時間軸に従って並べられているように見えても、実はそこにあるのは、そんなに単純な世界ではないのかもしれません……

そういう意味では、マンガというメディアは、時間性と空間性がゆるく組み合わさった(時間の空間配置?)、きわめて特殊な表現形態として、もっと注目され、研究されてもいいものではないかと思います。そしてさらに、現在の表現形態を越えて、新しい表現形態を盛りこめる可能性もあるのではないか……

はるか未来の人が、過去の遺跡の中からマンガ本を発掘したら、はたしてどう読むのでしょうか。擬態音までが絵の要素と化して踊っているようなメディアは、たぶん他にはないと思います。20世紀の日本人は、まことにふしぎなものをつくりだしてしまいました。まあ、「アニメ」もそうなんですが……

短々話:ゆるキャラチューリン/Yuru-Chara Turing

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ショートショートを書いてみました……

……………………

私の職業はチューリングテスター。チューリングテストって、知ってるかな? アラン・チューリングって科学者が開発した、人工知能の性能を判別する試験なんだけど、てっとりばやくいえば、ブラックボックスの中にコンピュータを入れといて、いろんな質問をして、中に入ってるのが人間かコンピュータかを当てるっていうテストのことだ。

ここは、イベント会場。舞台の上にはいろんなゆるキャラがずらっと並んでる。一体ずつ呼び出されて、人間と並んで同じ質問を受ける。その答え方によって、ゆるキャラの中に入ってるのが、人間かコンピュータかを判定するのが私の仕事だ。ん?なんでそんなことをやるかって? まあ、昔は、ゆるキャラの中に入ってるのはみんな人間だったけど……

近頃は、人工知能の進歩で、そんなヤツが中に入ってるゆるキャラもいる(らしい)。で、私のような職業が成立するわけさ。そんなことしてどうするのって? まあ、それは、イベント。客寄せのイベントだね。みんな、あのゆるキャラは人間なのかコンピュータなのかって気にしてる。だから、その判別テストをやる。これがけっこう人気でね。

いろんな質問をしてみる。たとえばこんなふう。「このしんしはしんしのこ。ハイ、これは回文でしょうか?」人間だと、やっぱ、ちょっと考えるよね。コンピュータなら一瞬で判断できる。でも、即答するとバレちゃうから、いかにも人間が考えて答えるような間をおいて答えてくる。「えーっと……回文になってると思いますね」まあ、こんなふう。

ところが、私の方も、そこはプロだからね。ビッグデータから、コンピュータと人間との回答パターンのわずかな差を解析して質問別に備えてあって、それと参照して見抜くんだ。人間の回答と、それをまねたコンピュータの回答には、細かなパターンの差があって、何度も質問を重ねるうちに、おおよその見当がついてくる。

もちろんコンピュータ側もビッグデータを参照して、見抜かれないように人間そっくりの回答パターンで答えてくるんだが……そこはそれ、プロにしかわからないようなほんのわずかのちがいを見抜く技術ってもんがある。ん? それはどうやるんだって? いやあ、ダメダメ。それこそ企業ヒミツってもんだよ。ぜったいに公開できないね。

まあ、そんなこんなで、いろんな質問で会場を盛りあげるんだけど、とどめを刺すのは御法度。決めつけたりせずに、たとえばこんなかたちでしめくくる。「フナモンさん、あなたは96%コンピュータだという判定になりますね」これに対して、反論するヤツもいればとぼけるヤツもいる。その反応に、またいちいち会場が盛りあがるって寸法で……

といってるうちに、舞台上のゆるキャラ全員のテストが終了。すると、司会の女性が、おもむろに私の方をふりかえって言う。「それではみなさん、お待たせしました。最後に、このチューリンがチューリングテストを受けますよ。さあ、結果はどうなるでしょうか?」すると、会場全体から拍手。私は、おもむろに被験者席に移動する。

そう。なにをかくそう……実は、私自身も、チューリンというゆるキャラなんだ。チューリングテストを専門にやるゆるキャラとして、私の名も、もう全国に知られている。ゆるキャラチューリングテストの最後に、私自身のテストがあって、わっと盛りあがっておひらき……まあ、だいたい、そういうパターンなのさ。

「じゃあ、いいですか、チューリンさん。第一問、いきますよ。」最後は、人間の試験官が私に質問してくる。もう慣れっこになってるので、できるだけ人間らしく答えてやる。まあ、これは、私の方が、人間の試験官がホントに人間なのか、それを判定するチューリングテストみたいなものかもしれないね……

さて、みなさん、この私、ゆるキャラチューリンは、はたして人間なのか、それともコンピュータなんでしょうか……実は、私自身にも、そろそろわからなくなってきたんだけど……(おしまい)

……………………

この間、野外活動研究会の人たちと、ゆるキャラの話題で盛りあがりました。で、おもしろかったのが、「ゆるキャラの中にコンピュータが入ってるヤツっているんだろうか……」というギモン。なるほど……みんな、無条件に人間が入ってるって信じているけど、もしかしたら中にコンピュータが入っていたということも……

それで考えたのが、このショートショートです。まあ、コンピュータと人間の判別テストというとまっさきに浮かぶのが、このチューリングテスト。これは、実際には、人工知能の性能を判定するテストらしいんですが、そこはまあ、強引に、コンピュータか人間かを判別するテスト……というふうにしちゃいました。

現在のゆるキャラは、なぜかふなっしーを除いてはみんな喋りませんが、チューリングテストは、喋らなくてもいいみたいです。キーボードを打つとか字を書くとか、どんな通信手段でもOK。要は、「考える能力」を見るということなんですが……ただ、「考える能力」というのであれば、単純計算なんかだと当然コンピュータが勝つ……

なので、これは、「人間が考える」というその特殊性に着目したテスト方法らしい。そのあたりが、実は、精神と物質の二元論みたいな哲学的モンダイにも関連しているらしいのですが……もし、「物質から造られた」人工知能が、このテストで完全に人間であると判定されてしまったら、それは逆に、人間の「精神」自体も物質的なものだと……

判定されてしまうということになる……チューリングさんの基本的な考えは、もしかしたらそんなところにあったんじゃないかなと思います。ということは、人工知能の研究は、実は人間精神の研究にもなっているということで……これは、観点としては実におもしろい。マルクスの唯物論とはまたちがったかたちの唯物論の提唱になっている。

人間は、人間の精神を真似られるくらいの高度な人工知能を開発しようとするけれど、それは同時に、人間の精神が、完全に物質の中に取りこまれていくということを意味する。人間は、自分の精神は「安全地帯」に置いといて、あくまで主体として、客体としての「人工知能」を開発しているつもりになっているんだけれど……

それが、実は、その研究の一歩一歩が、人間の精神を物質の側に引きずり出している行為となっているのにそれを知らない……チューリングという人は、こういう意味において、かなりやっかいな哲学的な難問を提出した人という評価もできるのではないでしょうか……今日のコンピュータの基礎理論は、多くを彼に負っているといいますが……

これはまた、新しい時代の哲学といいますか、ものの考え方にも非常に大きな影響を与えているといえるかもしれません。これからの数十年間は、人工知能のモンダイが、社会的に相当大きなインパクトを与える……つまり、今の原子力みたいに、いったん造りだしてしまったらもうコントロールが効かないような状態になるとも……

いわれていますが、それはそうかもしれない。原子力のモンダイは、いかにも19世紀的なパワーとダメージの鉄槌みたいに人類を襲いますが、人工知能のモンダイは、生命科学のモンダイと合わせて、人間の哲学観や倫理観に強烈な打撃を与える「20世紀的毒」として、もしかしたら致命的な影響力をもってくるかもしれません。

ゆるキャラ……このぶきみな方々が世の中を席巻しはじめたのは20世紀の終わり頃だと思いますが……中に入っているのが人間であると信じて疑わない……信じることができ、疑がえない時代は、もしかしたらもうすぐ終わるんではないでしょうか。で、その先は……というと、もう、人間と人工知能が、「原理的に」判別不能の時代に突入する……

それは、人工知能が人間的になっていくという方向性と同時並行的に、人間が人工知能的になっていくという方向性を含んでいる。おめでたい人間の方は、前者の方向性しか認識していませんが……つまり、自分が主体で不変であるという根拠のないふしぎな立ち位置を信じて疑いませんが、その間にも、人間の人工知能化が着々と進んでいるとしたら……

この間、TVで、人工知能とプロ棋士の対戦というのをやってましたが……勝ち負けよりも気になったのは、人間の棋士が、人工知能の「さし手」を研究して、人間同士の対戦でも、その「人工知能の一手」を積極的に使おうという傾向が出てきているという報道でした。ときどき、人工知能は、人間には考えつかない手を使うことがあるそうで……

それに感心した?プロ棋士が、それを真似てみたらけっこううまくいくじゃないかと……これって、使ってる本人は、あくまで自分は人間であって、その人間が、人工知能の考えたさし手を応用してるにすぎないと思っているかもしれないけれど……実は、その人は、その分だけ人工知能になっちゃってるんじゃないか……そうは考えられないかな?

まあ、そこは考え方しだい……と言ってるうちはいいのですが、そのやり方がはやると、それぞれプロ棋士は、「おかかえ人工知能」みたいなものを持つようになって、その連中が「考えた」手に頼るようになるかも……もう、そうなると、すでに半分以上人工知能にのっとられているともいえるわけで……

まあ、それが嵩じてきますと、人間特有のものだと漠然と思っている情緒や感情の分野、さらには芸術みたいなものに至るまで、人間が人工知能化して、新しい人工知能的感情や情緒、芸術が生まれて、それがまた影響を与えて……そういうふうにして、人間自身も大きく変化していきます。

SFで、人間と機械の対決というのは一つのパターンになってる感じですが、これの場合は、あくまで人間は人間、機械は機械という一種の「二元論」がベースにある。しかし、実際に現在進行しているパターンは、人間が人工知能を進化させると同じ度合いで、人工知能が人間自身に変化を加えている……ということなのではないでしょうか。

アラン・チューリングの覚めた熱い心は、もしかしたらそんな世界をすでに見透していたのではないか……そんなふうにも思います。人間の精神は、それだけで囲われた絶対不変のものではない。むしろそれは、環境に従い、自分の造りだしたものによってどんどん自分自身が変化させられていく……そういう、アマルガムなものかもしれない……

そういうことになりますと、あらためて、「人間の心って、なんだろう?」というクエスチョンが生じてきます。それは、もしかしたら、人間自身が思っているほど特別なものではないのかもしれない……この21世紀という新しい時代は、それを人間が認識して、それでも「人間の役割って、なに?」と問い続ける世紀になるのかもしれません。

チューリング
最後に、ちょっとチューリングさんのことを……彼は、イギリス生まれの早熟の天才で、現在のコンピュータ理論の基礎をつくった人といわれています。ハードウェアが追いついてないうちにソフトウェアの基礎理論をつくってしまったみたいな感じらしくて、現在のコンピュータはみな、彼の設計した理論の上で動いている……まあ、サイバー釈迦みたいな……

その掌から出られないということで、今、いくらスゴイコンピュータをつくっても、ぜんぶ彼の設計した理論マシン(チューリングマシン)の上で動く……そういう人だったらしいのですが、人間的にはかなり欠陥が多かったみたいで(いわゆる変人)、さらに同性愛が発覚して、社会的名誉を剥奪されてついには自殺(といわれている)……。

当時(20世紀なかば)のイギリスでは、同性愛は御法度だったみたいで、彼の名誉が公式に回復されたのは、なんとつい最近、2009年のことだったそうです(英首相が公式に謝罪)。もっとも、数学やコンピュータテクノロジーの分野では早くから評価が高まり、コンピュータ関連のノーベル賞といわれる「チューリング賞」が創設されたのは1966年……

彼の死については、ナゾが多く……ウィキによりますと、青酸中毒で、ベッドの脇にはかじりかけのリンゴが……このリンゴに青酸が塗ってあったかどうかはわからないらしいのですが、まるで白雪姫のようだ……で、チューリングは永遠の眠りについたけれど、彼のマシンはその後、粘菌のように繁殖して今のコンピュータ社会をつくった……

そういうことのようです。いずれにしても、彼は、ある意味、哲学者でもあると思います。まあ、実際に、ヴィトゲンシュタインの講義なんかも聴いていたらしいですが……私は、ニコラ・テスラ、テルミン、バックミンスター・フラーの三人はまちがいなく宇宙人だと思ってましたが、一人増えました。アラン・チューリング。彼も……

宇宙人? いや、もしかしたら人工知能だったかもしれません。96%?の確率で……

今日の emon:SANKA/散香

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押井守さんのアニメ、『スカイクロラ』に登場する戦闘機「散香」を emon 化してみました。

この飛行機は、プロペラが機体の後端部にあり、主翼の前に小さな前翼を持つという、いわゆる「プッシュ型」の設計になっていて、終戦まぎわに日本海軍が試作していた局地戦闘機「震電」との類似がよく指摘されているようですが、まるっと参考にしたというわけではなくて、「プッシュ型」の戦闘機の性能を追求していった結果、似てしまった……ということのようです。

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それにしても、なかなかカッコいいですね。『スカイクロラ』では、この機体は、主人公たちが乗り組んでリアルな空中戦をたっぷり見せてくれるのですが、日本海軍の「震電」の方は、実際に戦闘に投入する前に終戦になってしまったということで、「活躍の場」はなかったようです。ただ、最高時速を750kmに設定していて、これはゼロ戦の1.5倍……実際に飛んでたら……

と、いろいろ妄想を掻きたてられるわけで、そこからいろんな物語ができたみたいですが、この『スカイクロラ』というお話も、あるいはその一つになるのかもしれませんが……この「震電」はB29のインターセプターとして開発されたみたいで、後に米軍に押収され、実際に飛ばしてみたパイロットが、「これが実戦配備されなくて良かった」とかいったという話もあるようです。

この機体(震電)は、三菱重工の18気筒エンジンを搭載していて、設計製造は福岡の九州飛行機で行われたようですが、月産300機体制が整うか……というところで終戦になってしまったとか……後端部のプロペラに換えてジェットエンジンを搭載する計画もあったようで、やはり当時としては、相当に進んだ航空技術の結晶だったのでしょう。すごいなあ……と、やっぱり素朴に思ってしまう……