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愛知トリエンナーレふたたび/Aichi Triennale 2016

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10月23日、愛知トリエンナーレ2016の最終日。ずっと気になっていたんですが、いろいろあって行けず……あっというまに終わり……ということで、名古屋エリアだけでも見ておこうと、あわてて栄へ。朝から回れば、愛知県美術館、栄地区、名古屋市美術館、長者街地区の4会場は見られるだろうと。

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結果として、名古屋エリアの展示の8〜9割くらいは見られました。つかれた……こんなにがんばってアートめぐりをしたのはひさしぶりだ……

で、どうだったか、ということですが……実は、かなり期待していたんです。前回のトリエンナーレが、予想に反してすばらしかったので。まあ、「予想に反して」なんていうと怒られますが、前回は、実はそんなには期待していなかった。でも、いい展示が多かった。

どこに感激したのか……というと、やっぱり作家さんたちの姿勢かな。前回は、あのオソロシイ大震災と原発事故から間もなくだったので、会場全体が緊迫感に満ちていました。やっぱり、あれだけのできごとがあると、作家さんたちも、自分が作品をつくる意味を、かなり真剣にかんがえなくちゃならない。あのできごとを直接反映した作品でなくても、やっぱりそういう、自分をつきつめるという環境はあったんだと思います。

それは、見る方にも直接響いてきました。自分たちは、なにをやってるんだろう……自分たちのやってることの意味って、なんだろう……そういう、みずからへの問いかけみたいなものが会場全体から感じられて、けっこう緊迫感があった。

しかるに今回……三年しかたっていないのに、世の中、大きく変わりました。もう震災も津波も、原発事故さえ過去の話になっちゃって、オリンピックだのなんだのと……社会の格差はますます開き、世界中で戦争や難民が絶えないのに、日本人はもう、あのオソロシイできごとさえ忘れちゃったのでしょうか……沖縄と福島をカッコに入れて、われわれはどこに行こうというのか……

今回のトリエンナーレにも、その「忘却の女神」の力を強く感じました。「虹のキャラバンサライ」……うーん、あたりさわりのない、ふわふわとした夢のようなタイトルだなあ……人間って、すぐに忘れるんですね。で、目は空中に漂って、足はいつのまにか地を離れる……

そもそも、アートって、いったなんだろう……それを、アートをやる人は、片時も忘れてはいけないと思います。とくに、今のように、いろんなものがでてきて、アートといろんなものの境界があいまいになっちゃった時代には、もうアートなんてなくたっていいんじゃない? という疑問が当然のように出てきます。

業界に守られたり、いわんや商業ベースにのっかっちゃったりして、かろうじて存在を保てるようなものは、やっぱり不要なんでしょう。前回のトリエンナーレでは、地震に津波、そしてゲンパツという圧倒的な破壊力が、アートをやる人に、おまえがアートをやってる意味って、なんなの?と強く迫った。アーティストは、ややともすれば眠りにつく心をはねのけて、そのシビアな問いかけに答えなければならなかった。みんな、真剣に答えようとしていたと思います。そのすがすがしさは、たしかに胸に強く迫りました。

じゃあ、今回は……ということなんですが、今回の展示のなかで、いちばん私の心に残ったもの……それは、名古屋市美術館の地下常設展示室にあった、河口龍夫さんの「DARK BOX」でした。これはもう、ずいぶん昔の作品で(たしか、70年代からつくりつづけておられる。いろんな年代のDARK BOXがある)、常設展示だから、一応トリエンナーレとは無関係……なんでしょうが、この作品、ごろんと転がってるだけで、今回私が見たトリエンナーレの全作品に勝ってる……

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昔のアーティストって、こうだったんですね。見るからにウソくさい重金属のカタマリなんですが、なぜか、ゴン!と存在感がある。見る人の想像力にあまり頼らない。今の作品は、見る人に訴えかける秋波が強すぎるんじゃないか……共感を呼びたいのはわかりますが、アートなら、そこはぐっとガマンするところだろう……「見て、見て、スゴイでしょ!」というのはなんか夜の歓楽街みたいな……作品をつくる上でいちばんだいじなのは、「矜持」なのかもしれません。

そもそも、アートをつくる意味って、なんでしょう。崩壊しつつあるこの世界。地震にゲンパツ、イスラム国にトランプ……オソロシイものがゾロゾロでてくる今という時代にあって、アーティストはなんでアートをつくるのか……もう、そのギリギリのところまで戻って考えないと先はないなあ……そんな感じでした。

木彫り自販機とハイデガー/Wooden vending machine and Heidegger

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お正月に、こんなん知ってる?と見せられたスマホ画像が、すべて木彫りの自販機。すごい迫力……実はコレ、山本麻璃絵さんという彫刻家の作品で、昨年秋に、町田の東急ツインズというところに展示されていたのでした。

写真を見たい方は、こちら → リンク

この木彫り自販機の画像を見せられたときに、ちょうど読んでいたのがハイデガー。『存在と時間』のはじめの方にある、次のような文章でした(熊野純彦訳・岩波文庫・第一巻352p~)

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利用できないことがこうして発見されることで、道具は〔かえって〕目立ってくる。手もとにある道具が目立ってくるのは、なんらかのしかたで<手もとにはない>というありかたにおいてである。
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うーん……これは、まさにシンクロニシティというヤツではないでしょうか……もうちょっと、引用を続けてみましょう。

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ここにふくまれているのは、だが、使用できないものがただそこにある、ということである ー つまり、使用できないものは、道具である事物としてじぶんを示すのであって、そうした道具は、これこれのように見え、その<手もとにあるありかた>においてそのように〔道具として〕見えながら、頑としてまた目のまえにありつづけていたのだ。
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もうこれ、この木彫り自販機そのもの……というか、ハイデガーさんが、この木彫り自販機を見て書いたとしか思えない……まあ実は、なんかの道具が壊れてて使えない……みたいな場合のことらしいのですが、この自販機を見せられると、やっぱりコレそのものになってしまいます。

なお、ここでよく出てくる「手もとにある」とか「手もとにない」とかの原語は「zuhanden」ツーハンデン、で、zuという前置詞(英語の to に相当)とHand(手)の合成語のようです。まあ、手ですぐつかんで使える……といったようなニュアンスで、ハイデガーにおいては、日常に使う器物や道具を表わすこともけっこう多いようです。

これに対して、「目のまえにある」という言葉は「vorhanden」フォアハンデン、で、vorという前置詞(英語のfor、foreに相当)とHandの 合成語。目の前にごろんと転がってるのが見えるけれど、「zuhanden」ツーハンデンのように、つかんで使えるというものでもない……というニュアンスでしょうか。

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ドイツ語だと、哲学用語も英語みたいにラテン語やギリシア語から借用することが比較的少なくて、ごく普通の日常用語をそのまま哲学用語として使っているのが多いみたいですが、ハイデガーの場合は、それがとくに多いのかなという気がします。そこまでいろいろ読みこんでないので、当たってないかもしれませんが……

彼は、現象学の流れで(というか現象学そのものの立場で)、「日常」とか「生活」というものを特に重要視する。なんでも、日常から出発しないと「正解」にはたどりつけない。それはもう、信念みたいなもので、空虚な理論、空理空論をきらい、「目の前にあるもの」、「手もとにあるもの」から出発しようとする。

この傾向は、日常生活の器物や、ものつくりに使う道具から「存在」へ至ろうとする彼の姿勢にもよく表われていると思います。世界は、とにかく目の前にあるもの……抽象的な「世界」ではなく、とりあえず手で、触ろうと思えば触れるもの、さらには操作できるもの……そういう感覚なのかな?

ということで、もう少し引用してみましょう(358p~)。

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手もとにあるものの、こうした変様された出会われかたのうちで、手もとにあるものが有する<目のまえにあるありかた>が露呈される。
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「目のまえにあるありかた」(Vorhandenheit フォアハンデンハイト)……これは、いったいどういうことでしょうか? 私にとっては、この木彫りの自販機が、ごろんと目の前にある、その「ありかた」としか思えない。よく知っている自販機に似ているけれど、ちがう。使えない。ボトルも缶も、実物に似ているけれどちがう……「zuhanden」ツーハンデンにならない……

とすると、これは、いったい「どういうもの」として目の前にあるんだろうか……

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目立ってくること、押しつけるようなありかた、手に負えないことにおいて、手もとにあるものは、ある種の様式でじぶんの<手もとにあるありかた>を失ってゆく。
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フツーの自販機に対して、「押しつけるようなありかた」(Aufdringlichkeit アウフドリンクリヒカイト)と思う人は、あんまり多くないと思います。自販機の出現当初はそんな感じもありましたが、近頃ではもう、すっかり街の風景の一部にとけこんでいて、だれも自販機で飲物を買うときに、「おお、これは、なんと、自販機という、お金を入れると飲物が出てくる機械ではないか!」と自問自答しながら買う人はいない。自然にお金を入れて、フツーにボタンを押して、なにごともなく買って、それで終わり。

だけど、この木彫りの自販機は……どっか違う。変。買えない……そんな「不必要な思惟」をめぐらせなければならないようにできてます。「目立つ」とか「押しつける」とかいう感覚は、そんなところを言ってるのか……英語で、機械や道具が不調のときに、「アウト・オブ・オーダー」という言い方をすることがありますが、そんな感じなのか……とすれば、この木彫り自販機は、全身アウト・オブ・オーダーのカタマリ。オーダーになってるところがなに一つない。

「ある種の様式でじぶんの<手もとにあるありかた>を失ってゆく。」という文章は、そういうニュアンスかな?「ある種の様式」(im gewisser Weise イム・ゲヴィッサー・ヴァイゼ)というのは、つまりは「オーダー」のことなのでしょう。その道具や機械がきちんと嵌りこんでいるべき「オーダー」……それを、失っていく……つまり、「手もとにあるもの」から、「手もとにないもの」へと変容していく……

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手もとにあるありかたは単純に消失するのではない。利用できないものが目立ってくるときに、いわばじぶんに別れを告げている。手もとにあるありかたはもう一度じぶんを示し、まさにその告別において、手もとにあるものが世界に適合していることが示されるのである。
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冒頭で紹介したサイトの中に、こんなことを書いている人がいました。
「ICカードリーダーがあったので、試しにかざしてみましたが、PASMOは反応しませんでした。Suica専用かもしれません。……とか、しれっと言ってみる。」
うーん、まさにこの感覚……上の、ハイデガーの言葉を具体的に説明しているとしか思えない。

カードリーダーをかざす人は、当然、そんなことをやっても「買えない」のは知ってるのにそうする。それだけでも足りずに、「PASMOがダメだからSuica専用かも」とか「しれっと」言ってみるわけで……まさに、「手もとにあるありかた」が単純に消失しているのではない、その感覚ズバリです。ハイデガーさん、さすがによく見てますなあ……以下の引用は、少しとんで364p~。

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世界が手もとにあるものから「成立している」のではないことは、とりわけ以下の点において示される。つまり右のように解釈された配慮的な気づかいの様態のうちで世界が閃くこととともに、手もとにあるものの非世界化がおこり、その結果、<たんに目のまえにあるもの>が、<手もとにあるもの>にそくして、おもてにあらわれるということである。
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世界は、手もとにあるものから「成立している」のではない……つまり、まっとうな自販機だけで世界は成立しているのではなく、こんなふしぎな「使えない自販機」もちゃんと世界の中に入っている……そこで「世界が閃く」(Aufleuchten der Welt アウフロイヒテン デア ヴェルト)。そして、手もとにあるものの「非世界化」(Entveltlichung エントヴェルトリフング)……

これまで、ある種の秩序の中で、<手もとにあるもの>だったもの……しかし、この木彫りの自販機! ここには、まさに、<手もとにあるもの>、つまり、自販機のように見える、その見え方にそくして、なにかふしぎな、わけのわからない<たんに目のまえにあるもの>が出てきてしまっている……ということは、普通の自販機も、こういう見方をすれば、そこに、ごろんとした<たんに目のまえにあるもの>が出てくるのだろうか……

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「周囲世界」を日常的に配慮的に気づかうことにあって、手もとにある道具がその「自体的存在 An-sich-sein」において出会われうるためには、目くばりがそのうちに「没入している」さまざまな指示と指示全体性が、この目くばりにとって ー まして、目くばりをすることのない「主題的な」把捉に対しては ー 非主題的なものにとどまっていなければならない。
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指示と指示全体性……ここでは、自販機を使う場合に、1、まず金を入れる。 2、次に、欲しい飲物のボタンを押す。 3、受け取り口にごろんと出てきた飲物を、つかみ出す……といった一連の操作、一種のマニュアルを言ってるんじゃないかと思います。「目くばり」は、普通はこういう一連の操作の中に没入して、いちいちそれを意識することがない……

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世界がじぶんを告げないことが、手もとにあるものが目立たないありかたから踏みださないのを可能とする条件である。さらに、この目立たないありかたのうちで、手もとにある存在者の自体的存在が有する現象的構造が構成されるのである。
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なるほど……ということは、「世界がじぶんを告げる」ということがおこるためには、手もとにあるものが、「目立たないありかたから踏みだす」ことが必要になるのか……まさに、この木彫り自販機そのものですね。この木彫り自販機は、「木彫りである」「使えない自販機」として、「目立たないありかたから踏みだす」道を選択した(というか、作者によってさせられた)……その結果として、「世界がじぶんを告げる」ということが、ここでおこってしまっているわけです……

ということは逆に、フツーの「使える自販機」においては、「目立たないありかた」のうちで、「手もとにある存在者の自体的存在が有する現象的構造が構成され」ている。まあようするに、そういうものを「自体的存在が有する現象的構造」と呼んでいる……この箇所は、さらに次のように説明されます。

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目立たないこと、押しつけてはこないこと、手に負えなくはないこと、といった欠如的な表現は、さしあたり手もとにあるものの存在が有する、積極的な現象的性格を意味している。これらの「ない」が意味するのは、手もとにあるものが控え目にじぶんを持しているという性格であって、このことこそが、私たちが自体的存在というときに注目しているものである。
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なるほど……フツーの「使える自販機」は、「控え目にじぶんを持している」のか……ここから、論は、私たちが日常的に、「アタマで考えて」やってしまう誤りの指摘に入っていきます。

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私たちは、にもかかわらず特徴的なことに、主題的に確認されうる「さしあたり」目のまえにあるものに、この自体的存在を帰属させてしまうのだ。
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「自体的存在 An-sich-sein」とは、それが、自分自身としてそのままにあるありかた……みたいなものだと思いますが、先に「控え目にじぶんを持している」と訳されていた箇所の原語は、「Ansichhalten アンジッヒハルテン」で、元の言葉の感覚からいうと、「自分自身である存在」(アンジッヒザイン)が「自分自身を保っている」(アンジッヒハルテン)ということなのでしょうか……どうも、このあたりから、なにやらハイデガーさんお得意の「言葉の魔術」に巻きこまれていくような予感がするのですが……

「主題的に確認されうる」のところは、原文では「als dem thematisch Feststellbaren」と書いてあります。つまり、これはナニ、これはナニ……と確認できるということでしょうか……これは自販機、これはゴミ箱……みたいな。そうすると、この文章は、私たちはほぼ無意識に、目の前の「これはナニ」と確認できるものが、「自体的存在」、つまりアンジッヒザインであると思いこんでしまう、それがわれわれの認識の特徴なのだと……

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目のまえにあるものに第一次的に、ひたすら方向づけられている場合には、「自体的なもの」は存在論的にはまったく解明されえない。だが、「自体的なもの」について語ることが存在論的に重要ななにごとかであるべきならば、なんらかの解釈が要求されるはずである。ひとはたいてい、存在のこの自体的なものを、存在的に強調するしかたで引きあいに出す。そしてこのことは、現象的には正しいのである。とはいえ、このように存在的に引きあいにだすことでは、そのように引きあいにだすことで与えられている、存在論的な言明の要求がすでに充たされているわけではない。
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ちょっと長いですが、「存在的」と「存在論的」の区別がここで出てきているので、一挙に引用しました。原語では、ontisch(オンティッシュ・存在的)と ontologisch(オントローギッシュ・存在論的)で、この区別は、ハイデガーにおいてはきわめて重要なもののようです。

私の理解では、単に在ること、がオンティッシュ(存在的)で、在ることについて意識する態度がオントローギッシュかな……と思うのですが……言葉の構造としては、ギリシア語の「on」(存在 Sein)がそのまま形容詞化されたのが「ontisch」で、「on」+「logos」(論)が形容詞化されたのが「ontologisch」ということになると思います。

たとえば、毎日の労働で、「つ、つれーえなー」とか「給料安いよ~」とか思うのが「ontisch」で、「オレはなんのためにこんなに働いているんだろう?」という思いがつのっていくと、最後に「人間って、なんだろう?」という、自分自身の存在を問いかけるようなモードになるのが「ontologisch」?

木彫りの自販機の例でいうと、「スゲー」とか、「なんだこりゃ?」とか思うのが「ontisch」で、「うーむ……これを見ていると、自販機って、今まで自販機だとばっかり思ってたけど、ホントはいったいなんなんだろう?」というモードに入っていくのが「ontologisch」?

「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」とホンキで思うなら、それは「ontisch」なんですが、その全体を「しらっと言ってみる」と突き放すモードはすでに「ontologisch」領域に……ということですが、ここでおもしろいのは、こう言ってる人自身、すでに「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」という自分の言葉をまるっと「信じてない」ということ。

つまり、地で「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」と思ってるわけではなく、すでに、はじめからこの自分の言葉に対して批判的な位置に立っている。かなり複雑にいうなら、「PASMOがダメだったからSuica専用かな?という思いが浮かんだとしても、それはもとよりウソの思いであって、自分はすでに、当然のように、そういう思いがホントではないと思える位置におるのだ!」という感覚が、「しれっと言ってみる」という言葉に表われている……

山本麻璃絵さんの木彫りの自販機は、人の思いを、すでに最初から、「ontisch」モードを離れて「ontologisch」モードに呼びだすような力を持っている……これが、<アートの力>なのか……

ハイデガーさんが、この木彫り自販機を見たら、なんと思うでしょうか……「おお!ワシが一生かけて言いたかったことが、ここに、しれっと表現されちゃってるじゃん!……スゲー!!……負けたゼ……orz」とか……

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これまでの分析によってすでにあきらかとなったように、世界内部的存在者の自体的存在は、世界現象にもとづいてのみ、存在論的につかみうるものとなるのである。
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しかし、ハイデガーさんの関心は、やっぱり「ここにある」木彫りの自販機を超えて、「世界」へと向かうのでした。この世界の中に在る、在るがままの存りかた……それは、世界現象(Weltphänomens)を基底(Grunde)としたところからしかとらえられないのだ……と。

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世界とはしたがって、存在者としての現存在が、「そのうちで」そのつどすでに存在していた或るものなのであり、現存在がなにかのしかたでわざわざ出かけていくにしても、つねにただ<そこへ>もどってくるしかない或るものなのである。
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ここで「現存在」(Dasein ダーザイン)と言われているのは、「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」ということを「しれっと」言える存在、すなわち「人間」のことで、彼の有名な言葉である「世界内存在」In – der – Welt – sein という考えかたが、ここにも現われてきます。

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世界内存在とは、これまでの解釈によれば、道具全体の<手もとにあるありかた>を構成する、さまざまな指示のうちに、非主題的に、目くばりをしながら没入していることにほかならない。
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ここで、「非主題的に、目くばりをしながら没入していること」と訳されている部分は、原文では「unthematische, umsichtige Aufgehen」となっています。

「umsichtig ウムジヒティヒ」という形容詞は、辞書を引いてみると、「慎重に」、とか「思慮のある」という訳になっていますが、この言葉の元である「umsehen ウムゼーエン」という動詞は、接頭辞「um」(周囲)+「sehen」(見る)で、「見回す」とか「展望する」という意味もあるようなので、この「um」の意をとって「目くばり」と訳されたのでしょう。

実は、この箇所の少し前に、「Umwelt ウムヴェルト」という言葉が出てきて、これは「周囲世界」とか「環境世界」とか訳されるようですが、この言葉との関連も、ハイデガーの中では意識されているのかなとも思います。

また「Aufgehen」は、動詞「aufgehen」が名詞化されたものだと思いますが、動詞の aufgehen の一般的な意味は、「上がる」とか「昇る」ですけれど、in etwas aufgehen で、なにか(etwas 3格)に「没入する」という意味になる。ここでは、後に「道具全体の<手もとにあるありかた>を構成する、さまざまな指示のうちに」という文章があるので、その中に「没入する」という意味になる。

全体として、穴の中からアタマだけをちょっと出してあたりをキョロキョロ見回しているモグラみたいな姿が浮かんできます。「主題的になる」とモグラ叩きにあうので、「非主題的」になっているのでしょうか? ん……まさか……

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配慮的な気づかいは、世界との親しみにもとづいて、そのつどすでにそれがあるとおりに存在している。この親しみのなかで現存在は、世界内部的に出会われるもののうちでじぶんを喪失して、それに気をとられていることがあるのである。
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ここで、「配慮的な気づかい」と訳されている言葉は「Besorgen ベゾルゲン」で、これもハイデガーのキーワードの一つ。動詞の besorgen (恐れる、気づかう、配慮する)から来ているわけですが、語幹の「Sorge ゾルゲ」は英語の「sorrow」で、心配、不安、懸念、配慮、といった意味を持っています。

これについては、ネットで読める論文があります(リンク)。田邉正俊さんという方の『ハイデガーにおける気づかい(Sorge)をめぐる一考察』というのですが、簡潔ながら要領を得て、わかりやすい。なお、この田邉正俊さんという方は、立命館大学の先生のようです。

私のイメージでは、こどもの頃、夏の昼下がりに、それまでぎらぎら照っていた太陽が雲にさえぎられ、遠くからかすかに雷鳴が響いてくる……そんな状況に、この「Sorge」という言葉はぴったりです。あるいは、仕事で、失敗しないようにいろんなものに気を配って疲れはてる……そんな状況かな。

仕事をやっている最中は、まさに「世界内部的に出会われるもののうちでじぶんを喪失して、それに気をとられている」という状態なのでしょう。特に、わずかのミスが自分や他人を危険や損害にさらすような仕事だとなおさらだと思います。そういうときに、この木彫りの自販機の前を通ったとしても、たぶん振り返りもせずに通りすぎてしまう……

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現存在がそれと親しんでいるものとはなんであり、世界内部的なものの世界適合性が閃くことができるのはなぜだろうか。指示全体性 ー 目くばりがそのうちで「作動して」おり、そのありうべき破れが存在者の<目のまえにあるありかた>をおもて立てる、指示全体性 ー は、さらにどのように理解されるべきなのか。
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しかし、そんなぴりぴりした仕事も終わって、ほっとして家路につくときに、この自販機に出会ったら……「そのありうべき破れ」(mögliche Brüche)……

アート作品は、ハイデガーのように「全体的に考える」とか「思考を普遍性にまでもっていく」ということは、たぶんできない。しかし、「全体」とか「普遍」とかが登場するときに、人が知らずにつくろってしまうこの「破れ」を劇的に見せることはできる。ハイデガーのめざす思考というのは、おそらく、どこまで全体になっても、普遍をめざしたとしても、最初の「日常性」をけっして失わんぞ……と、それが軸になったものだったと思えます。

人は、思考の中で、鎖の環をつないでいく。そのはじまりは、必ず、今生きている「日常」や「生活」の中にあるのだけれど、鎖の環をつないでいくうちに、いつかそこを離れ、空中でそれをやってしまう……おそらく、ハイデガーさんは、そこで、人の思考は「存在」を離れる!と警告したかったんではないか……

存在……存在って、なんだろう……ヨーロッパの思考法では、それは元より「人間存在」なのかもしれない。しかし、ハイデガーは、たぶんそこのところに「イヤケ」がさしたんだろうと思います。彼の、ナチスへの接近は、そういうヨーロッパ的思考への反発の裏がえしだったのか……そこのところはわかりませんが、ここはたぶん重要な問題ではないかと、そう思います。

先に、「1700万円のアイスクリーム」という記事(リンク)で、最愛の奥さんをテロで殺されたフランス人男性の文章を掲げましたが、ああいう「無前提のヒューマニズム」って、どうなんでしょうか……あの文章を読むと、なんか無性に腹が立ってくるのは私だけじゃないと思うのですが……

ハイデガー氏が最後に到達しようとした「存在」。これって、なんでしょうか……人間が、存在の呼び声に召還される……9.11や3.11を境に?そういう時代が、もうすでに始まっているような気がします。

ナンハウスの象さん/Melancholic Elephant @ NAN-HOUSE

憂鬱な象_900
豊田市にある「ナンハウス」というインド料理のお店で、カレーを食べました。

ここのマークの象さん、とてもふしぎな表情です。ものうげ……というのがいちばん当たってるかな?メランコリック・エレファント。ふつう、お店のマークなんかに使うキャラクタって、もっと楽しそうなのが多いと思うんですが……

なぜか、ここの象さんは悲しげ。というか、ちょっとイヤがってるような表情。でもカワイイ。ふしぎだ……なんで、こんな表情にしたんだろう……

ここは、インド人がやってる本格インド料理のお店ということなんですが、ランチタイムはリーズナブルで、チキンカレーとナンのセットが900円。スープとサラダとドリンクバーつき。しかも、ナンが超巨大。

なので、いつも満員。この日は日曜だったので、お客さんが分散したのでしょうか、ちょっとすいてましたが……雰囲気もなかなかよく、出窓には大きなインドの彫刻が……これ、ナンでしょうか?

ガネーシャ?_500
グーグルの画像検索で調べてみると、持っている武具?の形状からして、どうやらガネーシャらしい。でも、ガネーシャって、アタマが象じゃなかったっけ……

しかし、いろんな画像の中には、人間のアタマのガネーシャもいるようで、どうもこれに該当するのでは……マークが象のお店なら、出窓にガネーシャがあってもおかしくありません。こんど、お店の人に聞いてみようっと。

ということで、おいしいカレーを食べたあとは、豊田市美術館へ。ここは、丸一年かけて改装工事が行われ、つい先頃、リニューアルオープンしたばかり……なんですが、行ってみると、以前と同じで、いったいどこを改装したんでしょう? というような感じでした。一年も休館だったのに……

豊田市美術館_900

豊田市は、お金持ちなので、美術館もやたらに立派です。現代美術の好きな職員さんが多いみたいで、現代美術のバリバリの展覧会をよくやってくれるのもうれしい。今回は、メインの展覧会が、現代美術家の山口啓介さんの『カナリア』と題する個展?だったんですが……
展覧会タイトル_900

私は、この人の作品は、どうも肌合いが合わないみたいで……そちらよりも、一階でやっていた、『時と意識ー日付絵画とコレクション』という、収蔵品中心の展覧会の方がおもしろかった。山口啓介さんには申し訳ないですが……

『時と意識ー日付絵画とコレクション』展の方は、豊田市美術館のコレクションのうちから、現代美術中心に何十点かを見せるというものですが、見せ方がオシャレで、河原温(かわらおん)さんの「日付絵画」のうちから、一ヶ月分を選んで、それを句読点みたいに挟んで、その間にコレクション作品を置いていくというやりかた……

河原温さんの「日付絵画」は、現代美術の世界では有名で、世界的評価も高いものなんですが、作品自体はとてもシンプルで、小さなキャンバスに、暗いベタを塗り、そこに、その日の日付を、白色のサンセリフ書体できっちりレタリングしていく……というだけのもの(リンク)。まあ、単にそれだけのものなんですが、これをなんと、2000点以上も制作されたのだとか……

日付絵画_900
その日の零時から描きはじめ、キャンバスに地塗りをして、日付を描いていくわけですが、その日のうちに完成できなければそれは廃棄……という徹底ぶり。なので、まるまる一ヶ月分、切れずに制作されたケースはマレなんですが、この展覧会では、その貴重な?一ヶ月分(1971年5月)の日付絵画を句読点に使って、その間に、ジャコメッティ、藤田嗣治、フランシス・ベーコン、ヨーゼフ・ボイス、高松次郎、リ・ウーファン、松澤宥など、錚々たる近現代美術作家の作品を挟んでいます。ちょっとおもしろい試み……

まあ、キュレータさんが遊んでいるといえばそれまでなんですが、懐石料理のように、現代美術のいろんな作品にちょっとずつ触れられたのはよかったですね。かなり疲れましたが……

今回見せていただいた作品群の中では、私には、ヨゼフ・ボイスの作品が、やっぱりいちばん「強く」感じられました。なぜか、他の作品に比べて、圧倒的に「強い」。これは、彼の作品が、「現実」に強力なリンクを持っているということかなと思います。

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血と鉄……そんなものを感じます。実際に展示されていたのは、蜜蝋を充填したフェルト帽と、かなり大きなフェルトの巻物を並べた作品でしたが……彼の作品には、第一次世界大戦からはじまった「人類の破壊」の連鎖そのものを、なぜか感じてしまいます。今、現実の世界はこうだよ……と。

これに、もしかしたら正反対になるのが、松澤宥さんの「観念詩」の作品で、彼は、「オブジェを消せ」という「声」を受けてから、方眼紙に「言葉」を並べた作品を作るようになるのですが……一見すると「詩」なんですが、実は詩ではなく、むろん文学でもなく、これはやっぱり「美術作品」という以外にないふしぎなもの……この人のことは、以前にとりあげました(リンク)。

松澤さんは、言語(日本語)で、よく「人類」を語る。ボイスは、言語では「人類」は出てこないけれど、でも、なぜかそれを感じさせる。まあ、「人類の負の面」とでもいうのでしょうか……私は、やっぱり「ナチス」を感じさせられる。ボイスはむろんナチスではなく、どっちかというと「緑の党」なんですが、でもやっぱり、資質はナチスだ……こんなことを言うと怒られるかもしれませんが……

ということで、19世紀、20世紀と、人類は、バカなことばかりして、結局今、21世紀に至ってしまったなあ……ということを、よくよく感じさせられる展覧会でした。キュレータさんの意図は別にあったのかもしれませんが……アートという、実際の役には立たない(というか、立ってはいけない)モノを通じて、人類の「実際に役に立つ」ということが、実はかなりバカげたことばかり……これを、如実に表わす……

それは、もはや今では、一種の常識みたいになっているのかもしれませんが、改めて、河原温さんの日付絵画を句読点に使ってそれをゴリゴリ押し出されると、見ている方はさすがに疲れます。人類って、心底バカなんだ……というのが、しんしんと伝わってくるからかもしれない。夢も希望もない。いや、それは、私の方にそれがないからそう見えるだけなのかもしれませんが。

ということで、とにかく疲れた……ナンハウスのメランコリックな象さんからはじまって、最後は「人類の愚行」に至る……冷えびえとした冬の青空に見守られて、私たちはどこへ行くのでしょうか……たぶんもう、先のない空間に投げ出されているのかもしれません。

本の展覧会に出品します/THE LIBRARY 2015

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お知らせです。本の展覧会に出品します。毎年夏に、神宮前の画廊「トキ・アートスペース」でひらかれる、アートと本が融合した「THE LIBRARY 2015」に出品します。この展覧会の詳細は→コチラ

私の出品作は、一つ前の記事で紹介した、Q-bookシリーズの4作目の「古事記_01」です(リンク)。というか、この作品は、この展覧会に出品するためにつくったのでした……200人くらいの作家が出品するので、スゴイです。

なにがスゴイかというと、やっぱり展示作品が200点もあるということで……一つ一つは小さいのですが、本とアートということで、これだけの人が作品をつくって出品するということは、やっぱりスゴイです……

本とアートということで、なんでもできそうなんですが、実際にやってみるとけっこう難しいなあ……というのが正直な感想です。「本」というのは、意外に限定された概念で、その外に出るのが難しい。

なんでもできるじゃないか……そう思われるかもしれませんが、「本」は「本」であって、ちょっと変わったことをやろうとすると、すぐ「本ではないもの」になってしまいます。さすが「本」。重厚な歴史が……

あるのですね。これが……といってもよく知らないんですが、とにかく基盤は「シート状のもの」で、これに文字を書いて、巻くか裁断して綴じるか……折りたたむのもありだけれど、これはちょっと例外か……

とにかく、「シート状のもの」はできるだけ薄くする。モーゼの「十戒」みたいに石版だと、膨大な物量になるし……まあ、保存性はいいのかもしれませんが、どこにも持ち運べないし……
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ということで、「本」概念を形成する外延は意外に狭い。この展覧会に実際に出品される作品は、私のものもそうですが、この「本」概念の外延からはみ出しているものが大部分です。でも「アート」を付ければ「本」に……

なる。「アート」の魔術でもあり、また甘えでもあるところなんですが……「本」をつくる人は、しっかり「本」をつくるけれど、「アート」で「本」をつくる人は、「アートの魔術」に甘えて「本らしきもの」をつくる。

なので、その作品が、現実社会において、どれだけ「ほんとうの価値」を持つことができるか……それは、もしかしたらギャラリーの外で勝負するしかないのかもしれませんが……でも、実際にはギャラリーに展示される。

私の作品は、その「甘え」を越えて、どれだけ「成立」しているんだろうか……それとも、「甘え」そのものの中にどっぷり浸っているんでしょうか……日本という国の今の姿は、アートの「甘え」には寛容で厳しい。

それは……「ムダなもんつくってんじゃねえよ」という積極的な攻撃もしないかわりに、買いもしない。役に立たないものは、当然買わないわけで、そこはシビアです。外国では、事情はちがうのか……

外国、とくに欧米社会においては、「アートを受容する」歴史的な風土があるんだということをよくききます。それに比べて日本は……ということなんですが、私は欧米の事情はよく知らないので、ホントのところはわからない。

ただ、感じるのは、欧米では、「アート」そのものが「必要とされる」くらいに、社会全体が厳しいのかもしれない……ということですね。日本では、社会が、みかけはユルいので、「アート」も不必要……

実際は、日本という国は、とくに行政はひんやり冷たいと思うんですが、いろいろガス抜きというか、カラオケとかスポーツとかエンタメとか用意してあって、それでわれわれはカンタンにごまかされて、人生の最後まで行ってしまう。

外国、とくに欧米では、もしかしたら人々は、カンタンにはごまかされないのかもしれません。わかりませんが……もし、欧米に、「アートは必要」という風土がホントにあるのなら、そうではないかと思います。

本は、欧米にも日本にも、世界中どこにでもある。それと「アート」がどうやって結びつくんだろう……距離はかなり遠く、しかも、受容する地域によって、その距離の感じ方が変わってくるような気がする……

もしかしたら、こういう企画(アート+本)が受け入れられるのは、日本特有の現象なんでしょうか……それはともかく、この展覧会は、主催者の方の努力によって、もう20年も続いています。それだけでもスゴイ。

お近くの方は、ぜひごらんあれ……

vanitas-1

この作品は、<jimon>というシリーズの一枚です。

jimon とは、「字紋」で、文字でできた模様(パターン)です。

文字……というと書道……となりますが、書道においては、文字は「図」として現われます。すなわち、白い紙の上に現われた「図」であり、主体です。

しかし、字紋では、文字は「地」になります。すなわち、パターン化されて全体を埋めつくす模様となります。

この作品、「空虚/VANITAS」では、「空」も「虚」も中国の古代文字を用いていますが、かなり自分流に変形しています。そういう意味からも、すでに書道の範疇には入らず、アート作品ということになります。むろん、読めません(が、なんとなく感じは漂います。)

この jimon シリーズを紹介するページを制作しておりますので、興味のある方はぜひご覧ください。

http://jimon.matrix.jp/

また、この jimon シリーズは、販売もしています。

http://jimon.base.ec