![木彫り自販機_900](https://soraebito.wordpress.com/wp-content/uploads/2016/01/e69ca8e5bdabe3828ae887aae8b2a9e6a99f_900.jpg?w=960&h=621)
お正月に、こんなん知ってる?と見せられたスマホ画像が、すべて木彫りの自販機。すごい迫力……実はコレ、山本麻璃絵さんという彫刻家の作品で、昨年秋に、町田の東急ツインズというところに展示されていたのでした。
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この木彫り自販機の画像を見せられたときに、ちょうど読んでいたのがハイデガー。『存在と時間』のはじめの方にある、次のような文章でした(熊野純彦訳・岩波文庫・第一巻352p~)
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利用できないことがこうして発見されることで、道具は〔かえって〕目立ってくる。手もとにある道具が目立ってくるのは、なんらかのしかたで<手もとにはない>というありかたにおいてである。
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うーん……これは、まさにシンクロニシティというヤツではないでしょうか……もうちょっと、引用を続けてみましょう。
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ここにふくまれているのは、だが、使用できないものがただそこにある、ということである ー つまり、使用できないものは、道具である事物としてじぶんを示すのであって、そうした道具は、これこれのように見え、その<手もとにあるありかた>においてそのように〔道具として〕見えながら、頑としてまた目のまえにありつづけていたのだ。
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もうこれ、この木彫り自販機そのもの……というか、ハイデガーさんが、この木彫り自販機を見て書いたとしか思えない……まあ実は、なんかの道具が壊れてて使えない……みたいな場合のことらしいのですが、この自販機を見せられると、やっぱりコレそのものになってしまいます。
なお、ここでよく出てくる「手もとにある」とか「手もとにない」とかの原語は「zuhanden」ツーハンデン、で、zuという前置詞(英語の to に相当)とHand(手)の合成語のようです。まあ、手ですぐつかんで使える……といったようなニュアンスで、ハイデガーにおいては、日常に使う器物や道具を表わすこともけっこう多いようです。
これに対して、「目のまえにある」という言葉は「vorhanden」フォアハンデン、で、vorという前置詞(英語のfor、foreに相当)とHandの 合成語。目の前にごろんと転がってるのが見えるけれど、「zuhanden」ツーハンデンのように、つかんで使えるというものでもない……というニュアンスでしょうか。
![zuvorhanden](https://soraebito.wordpress.com/wp-content/uploads/2016/01/zuvorhanden.jpg?w=960)
ドイツ語だと、哲学用語も英語みたいにラテン語やギリシア語から借用することが比較的少なくて、ごく普通の日常用語をそのまま哲学用語として使っているのが多いみたいですが、ハイデガーの場合は、それがとくに多いのかなという気がします。そこまでいろいろ読みこんでないので、当たってないかもしれませんが……
彼は、現象学の流れで(というか現象学そのものの立場で)、「日常」とか「生活」というものを特に重要視する。なんでも、日常から出発しないと「正解」にはたどりつけない。それはもう、信念みたいなもので、空虚な理論、空理空論をきらい、「目の前にあるもの」、「手もとにあるもの」から出発しようとする。
この傾向は、日常生活の器物や、ものつくりに使う道具から「存在」へ至ろうとする彼の姿勢にもよく表われていると思います。世界は、とにかく目の前にあるもの……抽象的な「世界」ではなく、とりあえず手で、触ろうと思えば触れるもの、さらには操作できるもの……そういう感覚なのかな?
ということで、もう少し引用してみましょう(358p~)。
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手もとにあるものの、こうした変様された出会われかたのうちで、手もとにあるものが有する<目のまえにあるありかた>が露呈される。
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「目のまえにあるありかた」(Vorhandenheit フォアハンデンハイト)……これは、いったいどういうことでしょうか? 私にとっては、この木彫りの自販機が、ごろんと目の前にある、その「ありかた」としか思えない。よく知っている自販機に似ているけれど、ちがう。使えない。ボトルも缶も、実物に似ているけれどちがう……「zuhanden」ツーハンデンにならない……
とすると、これは、いったい「どういうもの」として目の前にあるんだろうか……
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目立ってくること、押しつけるようなありかた、手に負えないことにおいて、手もとにあるものは、ある種の様式でじぶんの<手もとにあるありかた>を失ってゆく。
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フツーの自販機に対して、「押しつけるようなありかた」(Aufdringlichkeit アウフドリンクリヒカイト)と思う人は、あんまり多くないと思います。自販機の出現当初はそんな感じもありましたが、近頃ではもう、すっかり街の風景の一部にとけこんでいて、だれも自販機で飲物を買うときに、「おお、これは、なんと、自販機という、お金を入れると飲物が出てくる機械ではないか!」と自問自答しながら買う人はいない。自然にお金を入れて、フツーにボタンを押して、なにごともなく買って、それで終わり。
だけど、この木彫りの自販機は……どっか違う。変。買えない……そんな「不必要な思惟」をめぐらせなければならないようにできてます。「目立つ」とか「押しつける」とかいう感覚は、そんなところを言ってるのか……英語で、機械や道具が不調のときに、「アウト・オブ・オーダー」という言い方をすることがありますが、そんな感じなのか……とすれば、この木彫り自販機は、全身アウト・オブ・オーダーのカタマリ。オーダーになってるところがなに一つない。
「ある種の様式でじぶんの<手もとにあるありかた>を失ってゆく。」という文章は、そういうニュアンスかな?「ある種の様式」(im gewisser Weise イム・ゲヴィッサー・ヴァイゼ)というのは、つまりは「オーダー」のことなのでしょう。その道具や機械がきちんと嵌りこんでいるべき「オーダー」……それを、失っていく……つまり、「手もとにあるもの」から、「手もとにないもの」へと変容していく……
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手もとにあるありかたは単純に消失するのではない。利用できないものが目立ってくるときに、いわばじぶんに別れを告げている。手もとにあるありかたはもう一度じぶんを示し、まさにその告別において、手もとにあるものが世界に適合していることが示されるのである。
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冒頭で紹介したサイトの中に、こんなことを書いている人がいました。
「ICカードリーダーがあったので、試しにかざしてみましたが、PASMOは反応しませんでした。Suica専用かもしれません。……とか、しれっと言ってみる。」
うーん、まさにこの感覚……上の、ハイデガーの言葉を具体的に説明しているとしか思えない。
カードリーダーをかざす人は、当然、そんなことをやっても「買えない」のは知ってるのにそうする。それだけでも足りずに、「PASMOがダメだからSuica専用かも」とか「しれっと」言ってみるわけで……まさに、「手もとにあるありかた」が単純に消失しているのではない、その感覚ズバリです。ハイデガーさん、さすがによく見てますなあ……以下の引用は、少しとんで364p~。
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世界が手もとにあるものから「成立している」のではないことは、とりわけ以下の点において示される。つまり右のように解釈された配慮的な気づかいの様態のうちで世界が閃くこととともに、手もとにあるものの非世界化がおこり、その結果、<たんに目のまえにあるもの>が、<手もとにあるもの>にそくして、おもてにあらわれるということである。
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世界は、手もとにあるものから「成立している」のではない……つまり、まっとうな自販機だけで世界は成立しているのではなく、こんなふしぎな「使えない自販機」もちゃんと世界の中に入っている……そこで「世界が閃く」(Aufleuchten der Welt アウフロイヒテン デア ヴェルト)。そして、手もとにあるものの「非世界化」(Entveltlichung エントヴェルトリフング)……
これまで、ある種の秩序の中で、<手もとにあるもの>だったもの……しかし、この木彫りの自販機! ここには、まさに、<手もとにあるもの>、つまり、自販機のように見える、その見え方にそくして、なにかふしぎな、わけのわからない<たんに目のまえにあるもの>が出てきてしまっている……ということは、普通の自販機も、こういう見方をすれば、そこに、ごろんとした<たんに目のまえにあるもの>が出てくるのだろうか……
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「周囲世界」を日常的に配慮的に気づかうことにあって、手もとにある道具がその「自体的存在 An-sich-sein」において出会われうるためには、目くばりがそのうちに「没入している」さまざまな指示と指示全体性が、この目くばりにとって ー まして、目くばりをすることのない「主題的な」把捉に対しては ー 非主題的なものにとどまっていなければならない。
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指示と指示全体性……ここでは、自販機を使う場合に、1、まず金を入れる。 2、次に、欲しい飲物のボタンを押す。 3、受け取り口にごろんと出てきた飲物を、つかみ出す……といった一連の操作、一種のマニュアルを言ってるんじゃないかと思います。「目くばり」は、普通はこういう一連の操作の中に没入して、いちいちそれを意識することがない……
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世界がじぶんを告げないことが、手もとにあるものが目立たないありかたから踏みださないのを可能とする条件である。さらに、この目立たないありかたのうちで、手もとにある存在者の自体的存在が有する現象的構造が構成されるのである。
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なるほど……ということは、「世界がじぶんを告げる」ということがおこるためには、手もとにあるものが、「目立たないありかたから踏みだす」ことが必要になるのか……まさに、この木彫り自販機そのものですね。この木彫り自販機は、「木彫りである」「使えない自販機」として、「目立たないありかたから踏みだす」道を選択した(というか、作者によってさせられた)……その結果として、「世界がじぶんを告げる」ということが、ここでおこってしまっているわけです……
ということは逆に、フツーの「使える自販機」においては、「目立たないありかた」のうちで、「手もとにある存在者の自体的存在が有する現象的構造が構成され」ている。まあようするに、そういうものを「自体的存在が有する現象的構造」と呼んでいる……この箇所は、さらに次のように説明されます。
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目立たないこと、押しつけてはこないこと、手に負えなくはないこと、といった欠如的な表現は、さしあたり手もとにあるものの存在が有する、積極的な現象的性格を意味している。これらの「ない」が意味するのは、手もとにあるものが控え目にじぶんを持しているという性格であって、このことこそが、私たちが自体的存在というときに注目しているものである。
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なるほど……フツーの「使える自販機」は、「控え目にじぶんを持している」のか……ここから、論は、私たちが日常的に、「アタマで考えて」やってしまう誤りの指摘に入っていきます。
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私たちは、にもかかわらず特徴的なことに、主題的に確認されうる「さしあたり」目のまえにあるものに、この自体的存在を帰属させてしまうのだ。
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「自体的存在 An-sich-sein」とは、それが、自分自身としてそのままにあるありかた……みたいなものだと思いますが、先に「控え目にじぶんを持している」と訳されていた箇所の原語は、「Ansichhalten アンジッヒハルテン」で、元の言葉の感覚からいうと、「自分自身である存在」(アンジッヒザイン)が「自分自身を保っている」(アンジッヒハルテン)ということなのでしょうか……どうも、このあたりから、なにやらハイデガーさんお得意の「言葉の魔術」に巻きこまれていくような予感がするのですが……
「主題的に確認されうる」のところは、原文では「als dem thematisch Feststellbaren」と書いてあります。つまり、これはナニ、これはナニ……と確認できるということでしょうか……これは自販機、これはゴミ箱……みたいな。そうすると、この文章は、私たちはほぼ無意識に、目の前の「これはナニ」と確認できるものが、「自体的存在」、つまりアンジッヒザインであると思いこんでしまう、それがわれわれの認識の特徴なのだと……
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目のまえにあるものに第一次的に、ひたすら方向づけられている場合には、「自体的なもの」は存在論的にはまったく解明されえない。だが、「自体的なもの」について語ることが存在論的に重要ななにごとかであるべきならば、なんらかの解釈が要求されるはずである。ひとはたいてい、存在のこの自体的なものを、存在的に強調するしかたで引きあいに出す。そしてこのことは、現象的には正しいのである。とはいえ、このように存在的に引きあいにだすことでは、そのように引きあいにだすことで与えられている、存在論的な言明の要求がすでに充たされているわけではない。
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ちょっと長いですが、「存在的」と「存在論的」の区別がここで出てきているので、一挙に引用しました。原語では、ontisch(オンティッシュ・存在的)と ontologisch(オントローギッシュ・存在論的)で、この区別は、ハイデガーにおいてはきわめて重要なもののようです。
私の理解では、単に在ること、がオンティッシュ(存在的)で、在ることについて意識する態度がオントローギッシュかな……と思うのですが……言葉の構造としては、ギリシア語の「on」(存在 Sein)がそのまま形容詞化されたのが「ontisch」で、「on」+「logos」(論)が形容詞化されたのが「ontologisch」ということになると思います。
たとえば、毎日の労働で、「つ、つれーえなー」とか「給料安いよ~」とか思うのが「ontisch」で、「オレはなんのためにこんなに働いているんだろう?」という思いがつのっていくと、最後に「人間って、なんだろう?」という、自分自身の存在を問いかけるようなモードになるのが「ontologisch」?
木彫りの自販機の例でいうと、「スゲー」とか、「なんだこりゃ?」とか思うのが「ontisch」で、「うーむ……これを見ていると、自販機って、今まで自販機だとばっかり思ってたけど、ホントはいったいなんなんだろう?」というモードに入っていくのが「ontologisch」?
「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」とホンキで思うなら、それは「ontisch」なんですが、その全体を「しらっと言ってみる」と突き放すモードはすでに「ontologisch」領域に……ということですが、ここでおもしろいのは、こう言ってる人自身、すでに「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」という自分の言葉をまるっと「信じてない」ということ。
つまり、地で「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」と思ってるわけではなく、すでに、はじめからこの自分の言葉に対して批判的な位置に立っている。かなり複雑にいうなら、「PASMOがダメだったからSuica専用かな?という思いが浮かんだとしても、それはもとよりウソの思いであって、自分はすでに、当然のように、そういう思いがホントではないと思える位置におるのだ!」という感覚が、「しれっと言ってみる」という言葉に表われている……
山本麻璃絵さんの木彫りの自販機は、人の思いを、すでに最初から、「ontisch」モードを離れて「ontologisch」モードに呼びだすような力を持っている……これが、<アートの力>なのか……
ハイデガーさんが、この木彫り自販機を見たら、なんと思うでしょうか……「おお!ワシが一生かけて言いたかったことが、ここに、しれっと表現されちゃってるじゃん!……スゲー!!……負けたゼ……orz」とか……
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これまでの分析によってすでにあきらかとなったように、世界内部的存在者の自体的存在は、世界現象にもとづいてのみ、存在論的につかみうるものとなるのである。
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しかし、ハイデガーさんの関心は、やっぱり「ここにある」木彫りの自販機を超えて、「世界」へと向かうのでした。この世界の中に在る、在るがままの存りかた……それは、世界現象(Weltphänomens)を基底(Grunde)としたところからしかとらえられないのだ……と。
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世界とはしたがって、存在者としての現存在が、「そのうちで」そのつどすでに存在していた或るものなのであり、現存在がなにかのしかたでわざわざ出かけていくにしても、つねにただ<そこへ>もどってくるしかない或るものなのである。
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ここで「現存在」(Dasein ダーザイン)と言われているのは、「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」ということを「しれっと」言える存在、すなわち「人間」のことで、彼の有名な言葉である「世界内存在」In – der – Welt – sein という考えかたが、ここにも現われてきます。
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世界内存在とは、これまでの解釈によれば、道具全体の<手もとにあるありかた>を構成する、さまざまな指示のうちに、非主題的に、目くばりをしながら没入していることにほかならない。
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ここで、「非主題的に、目くばりをしながら没入していること」と訳されている部分は、原文では「unthematische, umsichtige Aufgehen」となっています。
「umsichtig ウムジヒティヒ」という形容詞は、辞書を引いてみると、「慎重に」、とか「思慮のある」という訳になっていますが、この言葉の元である「umsehen ウムゼーエン」という動詞は、接頭辞「um」(周囲)+「sehen」(見る)で、「見回す」とか「展望する」という意味もあるようなので、この「um」の意をとって「目くばり」と訳されたのでしょう。
実は、この箇所の少し前に、「Umwelt ウムヴェルト」という言葉が出てきて、これは「周囲世界」とか「環境世界」とか訳されるようですが、この言葉との関連も、ハイデガーの中では意識されているのかなとも思います。
また「Aufgehen」は、動詞「aufgehen」が名詞化されたものだと思いますが、動詞の aufgehen の一般的な意味は、「上がる」とか「昇る」ですけれど、in etwas aufgehen で、なにか(etwas 3格)に「没入する」という意味になる。ここでは、後に「道具全体の<手もとにあるありかた>を構成する、さまざまな指示のうちに」という文章があるので、その中に「没入する」という意味になる。
全体として、穴の中からアタマだけをちょっと出してあたりをキョロキョロ見回しているモグラみたいな姿が浮かんできます。「主題的になる」とモグラ叩きにあうので、「非主題的」になっているのでしょうか? ん……まさか……
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配慮的な気づかいは、世界との親しみにもとづいて、そのつどすでにそれがあるとおりに存在している。この親しみのなかで現存在は、世界内部的に出会われるもののうちでじぶんを喪失して、それに気をとられていることがあるのである。
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ここで、「配慮的な気づかい」と訳されている言葉は「Besorgen ベゾルゲン」で、これもハイデガーのキーワードの一つ。動詞の besorgen (恐れる、気づかう、配慮する)から来ているわけですが、語幹の「Sorge ゾルゲ」は英語の「sorrow」で、心配、不安、懸念、配慮、といった意味を持っています。
これについては、ネットで読める論文があります(リンク)。田邉正俊さんという方の『ハイデガーにおける気づかい(Sorge)をめぐる一考察』というのですが、簡潔ながら要領を得て、わかりやすい。なお、この田邉正俊さんという方は、立命館大学の先生のようです。
私のイメージでは、こどもの頃、夏の昼下がりに、それまでぎらぎら照っていた太陽が雲にさえぎられ、遠くからかすかに雷鳴が響いてくる……そんな状況に、この「Sorge」という言葉はぴったりです。あるいは、仕事で、失敗しないようにいろんなものに気を配って疲れはてる……そんな状況かな。
仕事をやっている最中は、まさに「世界内部的に出会われるもののうちでじぶんを喪失して、それに気をとられている」という状態なのでしょう。特に、わずかのミスが自分や他人を危険や損害にさらすような仕事だとなおさらだと思います。そういうときに、この木彫りの自販機の前を通ったとしても、たぶん振り返りもせずに通りすぎてしまう……
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現存在がそれと親しんでいるものとはなんであり、世界内部的なものの世界適合性が閃くことができるのはなぜだろうか。指示全体性 ー 目くばりがそのうちで「作動して」おり、そのありうべき破れが存在者の<目のまえにあるありかた>をおもて立てる、指示全体性 ー は、さらにどのように理解されるべきなのか。
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しかし、そんなぴりぴりした仕事も終わって、ほっとして家路につくときに、この自販機に出会ったら……「そのありうべき破れ」(mögliche Brüche)……
アート作品は、ハイデガーのように「全体的に考える」とか「思考を普遍性にまでもっていく」ということは、たぶんできない。しかし、「全体」とか「普遍」とかが登場するときに、人が知らずにつくろってしまうこの「破れ」を劇的に見せることはできる。ハイデガーのめざす思考というのは、おそらく、どこまで全体になっても、普遍をめざしたとしても、最初の「日常性」をけっして失わんぞ……と、それが軸になったものだったと思えます。
人は、思考の中で、鎖の環をつないでいく。そのはじまりは、必ず、今生きている「日常」や「生活」の中にあるのだけれど、鎖の環をつないでいくうちに、いつかそこを離れ、空中でそれをやってしまう……おそらく、ハイデガーさんは、そこで、人の思考は「存在」を離れる!と警告したかったんではないか……
存在……存在って、なんだろう……ヨーロッパの思考法では、それは元より「人間存在」なのかもしれない。しかし、ハイデガーは、たぶんそこのところに「イヤケ」がさしたんだろうと思います。彼の、ナチスへの接近は、そういうヨーロッパ的思考への反発の裏がえしだったのか……そこのところはわかりませんが、ここはたぶん重要な問題ではないかと、そう思います。
先に、「1700万円のアイスクリーム」という記事(リンク)で、最愛の奥さんをテロで殺されたフランス人男性の文章を掲げましたが、ああいう「無前提のヒューマニズム」って、どうなんでしょうか……あの文章を読むと、なんか無性に腹が立ってくるのは私だけじゃないと思うのですが……
ハイデガー氏が最後に到達しようとした「存在」。これって、なんでしょうか……人間が、存在の呼び声に召還される……9.11や3.11を境に?そういう時代が、もうすでに始まっているような気がします。