名鉄の太田川駅を降りると、駅舎の一階のガランとした広場の一画に、巨大なクスノキのタイル絵があります。日本の陶板とはちょっとちがった趣だなあ……と思って眺めていたら、横に解説がありました。ちょっと転写してみましょう……
『壁画「くすのき」は、トルコのイズニック財団によって1枚1枚手づくりで制作されました。東海市の木は「くすのき」であり、大宮神社(大田町上浜田)に育つ樹齢1000年と言われる市指定の天然記念物「大田の大樟(おおくす)」をイズニックのデザインで表現しています。(後略)』
じゃあ、イズニックってなあに?ということなんですが、ちゃんと説明も……
『イズニック・タイル 東海市は、トルコ共和国ブルサ市ニルフェル区と姉妹提携をしており、イズニックはニルフェル区と同じブルサ県に属する都市です。イズニック・タイルの生産地として16世紀に最盛期を迎えました。イズニック・タイルは粘土に石英を含み硬質で耐久性があり、鮮やかな発色による美しい文様が特徴です。オスマントルコ時代に建造されたイスタンブールのブルー・モスクやトプカピ宮殿などの建造物にはこのイズニック・タイルが用いられています。近年までその技術は失われていましたが、1993年に設立されたトルコのイズニック財団がこれを研究・再現し今にいたっています。』
なるほど……そういう経緯があったんですか……と感心。これ、太田川の街に降り立って最初に目についた「対象」だったんですが、結局、その日に見たものの中ではいちばんイイ感じで私の中に残りました。日本の小さな街の名もない(失礼、名はある)お宮さんの神木を、トルコの小さな街(人口2万弱)の職人さんたちがせっせとタイル画にしてくださっている……その光景が、なんとなく浮かんでくる……と思ってちょっと調べてみますと、この、イズニックという街の前身は、なんと、あのニカイア(ニケア)でした……古代ギリシア語で勝利の女神を意味するニケーの名を取って造られた紀元前に遡る歴史を有する街……そして、なによりも、あの、キリスト教の歴史を大きく決定づけた「ニカイア公会議」が開催された街……
日本の小さな街の駅で、数千キロも離れた場所にある、1700年近く前にキリスト教の歴史をつくった街の面影に出会う……これもまた、なにかの縁……といいますか、ふしぎなこともあるものだなあと。紀元325年にこの街、ニカイアで開かれた公会議で、古代に勢力を誇っていた初期キリスト教の二大派閥、アリウス派とアタナシウス派は激突します。アリウス派は、父(神)と子(キリスト)はそれぞれ別個の存在であると主張し、これに対し、アタナシウス派は、父と子は本質的に同じ(ホモウーシス)であると主張……で、結果はアタナシウス派が勝利し、ここに有名な「ニカイア信条」(クレド)が採択され、「三位一体論」(トリニティ)の基礎が確立した……これは、キリスト教の歴史上、イエスの死後最大ともいえるエポック……
しかし、このニカイアの街も、その後、トルコに占領されてイスラム化し、いつの頃からか、トルコ人たちに「イズニク」と呼ばれるようになる……イズニック陶器が生まれたのは、オスマン帝国時代(14世紀頃)といわれているようですが、最盛期の16世紀には、コバルトブルーをはじめとするいろんな色が使われるようになって、上の説明にもあるトプカピ(トプカプ)宮殿の壁なんかも飾ったようです。17世紀に入るとこの地の陶器制作技術も衰えはじめて、歴史の彼方に埋もれていったのですが、20世紀の後半に、復興運動が起きて現在に至る……と。イズニック財団のhpがありましたが、トルコ語?でようわからんですが(英語のボタンがあるものの、押しても機能しない)、写真だけみていても美しい……
http://www.iznik.com/
名鉄太田川駅のタイル画の写真もちゃんと出てきます。
http://www.iznik.com/tokai-city-metrosu-tokai-city-japonya
幸せな街・住みやすい村……いろいろ考えてしまいます。太田川の街の名鉄の駅は、改装されてとても立派になっています。このイズニックのタイル画も、やっぱりそれに合わせて造られたものなんでしょう。(イズニック財団のhpの記念写真を見ると、そう思えます)こういうふうに、駅を、そして道を造りかえ、さまざまな公共施設(いわゆるハコモノ)をどんどん造っていく……そのお金はどっから……といえば、それは「海岸線を工場に売って」得たもの……それが、街にとって、はたして幸せな途であったのか……街を歩いていると、やっぱり疑問に思います。イズニックの街は、今はタイル産業と観光で成り立っているみたいですが、住んでいる人たちは幸せなんだろうか……行ったことがないのでわかりませんが、いろいろ考えてしまいます。太田川の人たちは、今はもう名古屋の通勤圏なので、みなさん名古屋におつとめなのかな……?
私の今住んでいる三河の山里も、名古屋市と豊田市の通勤圏なので、ほとんどの人がどっちかの都市におつとめ……一昨日は村の祭りで、いろんな人と話をしましたが、40代の3児のパパは銀行員で、名古屋の御器所というところまで、毎日往復100km近くをクルマで……祖先からの土地を守り、子供を育て、村の行事に参加し、そして子孫に土地を受け渡していく……そういう生活を、これからも、ここの人たちは続けていく(いきたい)のでしょう。人の幸せってなんなんだろう……引き続き、ルソーの『社会契約論』を読んでいますが、とっても興味深い箇所に出くわしました。第三編の第一章、「政府一般について」というところなんですが、このように書いてあります(以下、桑原武夫チームの翻訳による岩波文庫版より転載)。
『どんな自由な行為にも、それを生みだすために協力する二つの原因がある。一つは精神的原因、すなわち、行為をしようと決める意志であり、他は物理的原因、すなわち、この行為を実行する力である。わたしが、ある目的物にむかって歩くときには、第一に、わたしが、そこへ行こうと欲すること、第二に、わたしの足が、わたしをそこへ運ぶこと、が必要である。(中略)政治体にもこれと同じ原動力がある。そこにも同じく力と意志とが区別される。後者は「立法権」とよばれ、前者は「執行権」とよばれる。この二つの協力なしには、何もできないし、何もしてはならない。』
なるほど……ここは明快です。デカルトは、「思惟」の世界と「延長」の世界を考えたけれど、まさにそれを「政治体」に応用するとこうなるわけだ……ということは、「立法権」はデカルトのいう「思惟の世界」のものであって、実際の大きさとかかたちとかをもたない、物質には関係のない精神的な世界のものなのか……これに対して、「執行権」つまり「行政権」は、「延長の世界」のもので、これは実際の物理的世界に「効く」ように働く……「思惟の世界」でつくられた「法律」にしたがって、行政体は物理的なパワーをもって「執行する」というわけですね。「立法」と「行政」をこういうふうに考えたことがなかったので、ここはおおいに参考になりました……と同時に、やっぱり根源的な疑問が……
デカルトは、およそ関係のなさそうな「思惟」の世界と「延長」の世界を結びつけるのにとっても苦労して、結局「松実線」(松実体)という肉体の器官を持ってきたわけですが……ライプニッツになると、さすがにもう少し理詰めで、彼は、この「原理的に無関係な」二つの世界を結合するために、なぜか、二つの世界が「密接に連関して動くかのように」この世界は予定調和によって予め構成されているんだと……つまり、そこには「神の力」が働いてそうなっているんだと……そういうふうに考えたと思います。じゃあ、ルソーはどうなんだろう……彼の理論では、「思惟の世界」にある「立法権」と、「延長の世界」にある「行政権」を「あたかも関連あるかのように」連結するものは、いったいなんだろう……
ここが、ふしぎなところですが……さらに読んでいけばわかるのかもしれませんが……現実にそこがどうなってるのかと考えてみると、これは、やっぱり「法律」ということなんでしょう。すなわち、「立法権」がつくるもの、そして、「行政権」がそれによって物理的なパワーを発揮するもの……それは、やっぱり「法律」……うーん、今まで、「法律」というものを、こういう観点で見たことはなかったなあ……やっぱりヨーロッパですね。徹底的に、「思惟」と「延長」の二大原理から考える。だから、この場合、「法律」というものは、「思惟」の要素と「延長」の要素を二つながら備えているというふしぎなものになる……ということは、「思惟」の要素からするならこれは、「理想」とか「理念」とかいろいろすばらしいものを含められるけれど、「延長」から見るなら実に生臭くキナ臭い……
私は昔から、法律とか政治とか社会とか経済とかが大キライで、だから絵描きになったようなもんなんですが……いや、絵描きがみんなこういうもんがキライとはいいませんが、身の回りをみてみると、キライな人が多いのはたしかです。なんか胡散臭いというか気持ち悪いというか、すっきりせんところの多いもんだなあ……と。まあ、私自身、特許の仕事なんかもちょっとやったので、実際はそういうもんに全くたずさわってこなかったとはいえないんですが……その経験からすると、みんな「法律をうまく使って」儲けたろう、というか、法律って、自分が得をする為にあるもんだと……そう思ってる人のいかに多いことか……でも、虚心坦懐に条文(私の場合は工業所有権法)を読んでみると、これはもう、かなり細心の注意を払って「公平に」なるようになんとか努力してる……
というか、そもそも、物理的な世界で、いろんな立場の人の損得を勘案する前に、まず、精神的な世界で「公正な条文はいかにあるべきか」ということに常に留意しているような印象を受けました。むろん、「立法権」の側にも物理的な圧力がかかって、その結果、本来は物理的世界とは無関係に立てられるべきものである「法律」が歪んでしまうということは、現実にはしょっちゅうあるのでしょうが……でも、昔、私が勝手に思い描いていたみたいに、「法律は為政者の都合のいいようにつくられる」というばかりではないような気が、やはりした。やっぱり……「思惟の世界」のものであるからには、「論理」を無視するわけにはいかないので、そこは、けっこう論理的なものを重視してつくられているなあ……と思いました。世間では「但し……」とかではじまる付則みたいなもので骨抜きに……
とかいわれていますが……まさに、そういう分野もあるのかもしれないけれど、工業所有権法なんかだと、ある程度、というかかなりの程度、論理を重視してつくられている……特許なんかだと、出願して権利を得られれば、それは「儲け」に直結する反面、同業者には確実な「不利益」をもたらす……つまり、「国家の保護」による「独占」が可能になるので、利益をこうむる側と不利益にさらされる側の闘争はシビアなもんです。そういうシビアなところで、法律をつくる側と、それを執行する側はいかにしたらいいのか……私が垣間みることができたのは、工業所有権法における「立法」と「行政」、それに「司法」だけなんですが、おそらくは、法律の全般に亘ってこういうことがあるのでしょう。そして、それによって人の実際の生活が変化を受け、その人たちが住む街や村の姿も変わっていく……
ルソーの『社会契約論』は、岩波文庫の翻訳で200ページ足らずの薄い本ですが、根源的に難解で何回読んでもわからない……だけど、これがフランス革命の理念になり、さらには民主主義の根幹になって現在まで続いている……奴隷制を復活してネット公開処刑もやってしまう「イスラム国」は、このルソーの『社会契約論』に、実力で根源的な叛旗を翻しているように感じます。まあ、論理では、『社会契約論』は論破不可能でしょう。なぜなら……基本のところで、どういうふうに論理が通っているのか、何度読んでもよくわからないところがあるから……しかし、多くの人が、これを「論理的に正しい」と思ってここから「民主主義」を展開させてきた……そして、それに、イスラム国はラジカルな「NO」をつきつける……イスラム国を「狂ってる」というのはカンタンなんでしょうが、じゃあ、ルソーの『社会契約論』をきちんと論理で読み解くことができるんだろうか……ふしぎな世界だ……
結局、ルソーの考え方の根幹には、西洋の思想に共通の「この世界は、一つの論理によって整合されるはずである」という基本思想があるように思います。アタナシウス派とアリウス派の論点の根元的な部分がまさにそこだった……「世界の外なる原理」である「父なる神」と、「世界の内なる原理」である「子なるキリスト」は「同質」(ホモウーシア)であるか、いなか……もし、これが「同質ではない」ということになると、世界の外なる原理と世界の内なる原理が異なることになり、これは大問題です。人は、処女を森に送ってユニコーン(旧約の荒ぶる神)をなだめ、とらえた。その処女(マリア)によって「世界のうち」へと送られたキリストが、外なる神であるユニコーンと「異なる質」のものであるならば、結局、処女によるユニコーンの懐柔と、それによる「根本原理を人間の手に引き入れる」試みは失敗したことになります……
「それは困る」ということで、ニカイアの公会議では、父と子を同質であるとするアタナシウス派が勝利を収めたのでしょう……以後、地中海世界、そしてヨーロッパ世界は、この原理、すなわち、神の原理をキリスト(ロゴス)を介して人間の手中に収める……というやり方で、つぎつぎと「人の世界」を拡大していく……私がこのあいだ、さまよい歩いた太田川の街も、この「ホモウーシスの原理」によって昔ながらの生活があった海岸線を失い、かわりに埋立地と工場と、そこから得られるお金を手にした……立派な駅舎の一階に静かに佇むイズニックの……かつてニカイアの街であった場所で生産されたタイル画……それは、太田川のお宮さんのクスを描いたものなんですが、ふしぎにさわやかで愛らしいそのタイル画の写真を見ながら、やっぱりいろいろ考えてしまいました。幸せな街、住みやすい村……それは、いったいどこにあるのでしょうか……