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3度の勝利?~ベートーヴェン第九のヒミツ/The triumph of 3rd, or……

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名古屋の中古CD店でみつけたアーノンクールのベートーヴェン第九。なんと投売りの324円(税込)で、こういうのを掘出しモンというんでしょうか……

で、さっそく聴いてみました。アーノンクールさんは、ついこの間(2016年3月5日)お亡くなりになったばっかりで、ホントなら、CD売場に特設コーナーができてもいい感じなんですが、ここでは300円投売り……カワイソウ……というか、得したなあというか。

harnoncourt_900
アーノンクールというと、古楽ファンにはよく知られた名前……というか大御所なんですが、最近ではベルリンフィルとかウィーンフィルとか、いわゆるモダンオーケストラも指揮して、モーツァルトからベートーヴェン、さらにはロマン派まで……ついに「巨匠」と呼ばれる方々の仲間入り……

しかし、経歴を見ると、この方、1952年から1969年までウィーン交響楽団(ウィーンフィルではない)のチェロ奏者だったということで、一旦古楽に入ってぐるっと大回りの道をたどって、だんだん現代に近づいていって、ついに「巨匠」として復帰……そんな見方もできるのかな?

ということで、聴いてみました。なるほど……えらくスッキリした演奏で、かつての第九の、重戦車隊が地を轟かせて迫ってくるイメージとはかなり違う。まあ、演奏がヨーロッパ室内管弦楽団ということで、オーケストラメンバーの数からして違うから……ということもあるのでしょうが、タメがなく、コダワリがなく……しかし、決めるところはガツンと決めてる印象。

合唱も、現代音楽を得意とするアーノルト・シェーンベルク合唱団ということで、スッキリしてます。第九の第四楽章で、ソプラノのおどろおどろしいビブラートでげんなりした経験のある私でも、この合唱団なら許せる……許せるって、大きく出たもんですが、あの過剰テルミンみたいなビブラートは、クラシックに免疫のない人が聴いたらだれでも気持ち悪くなるんじゃなかろうか……

まあ、そういう過剰ビブラートもなくて、歌の面でもスッキリ……して、いい演奏……のはずなんですが、なぜかあんまり感動しなかった。なんでだろう……まあ、ベートヴェンの第九、ほんのわずかしか聴いてないから比較もできないんですが……でも、今まで聴いた中では、やっぱりフルトヴェングラーの1951年バイロイト録音と、1989年バーンスタインのベルリンの壁崩壊コンサートのCDがダントツにすごかった……

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そういう「巨峰的録音」にくらべると、このアーノンクール盤、なんか魅力が乏しい……まあ、これは、私の耳がクラシックの世界に慣れてないというか、圧倒的に聴いてる数が足りないからかもしれませんが……でも、自分で感じたところは偽れません。やっぱりフルトヴェングラー盤の岩山大崩壊のあのド迫力や、バーンスタイン盤の、奏者全員がなんかに取り憑かれたかのような超常現象的録音とくらべると……

で、思ったんですが……このベートヴェンの第九って、演奏の善し悪しとかの音楽的範疇をやっぱり少し超え出たところで、その魅力が決まるんじゃないかな……と。フルトヴェングラー盤は世界中を巻きこんだ第二次大戦がようやく終結して数年、ナチに協力したという嫌疑をかけられてたフルトヴェングラーが、いろんな複雑な思いを一杯に呑み込んで、音楽でドカーンと噴火させた解答……そしてバーンスタイン盤はヨーロッパ諸国とアメリカ、つまり西洋世界の戦後が終わってベルリンの壁崩壊とともに輝く未来が……

今となってみれば、そういう「未来」は訪れなかったことはほぼ決定的ですが、あの当時は、西洋世界の人じゃなくても、たとえば日本人なんかでも、なんか雪どけというか、ああ、ようやく桎梏に満ちた世界が終わって、新しいすばらしい世界が開けてくるんじゃないか……そんな、今から見れば根拠のない期待感というか展望といいますか……

それが証拠に、バーンスタイン盤では、元の歌詞の「 Freude」(フロイデ・喜び)の部分を「Freiheit」(フライハイト・自由)に変えて歌っています。クラシックの世界では、オリジナルテキストは絶対だから、これはよくよくよほどのこと……つまりそれだけ、「あの瞬間」は特別だったんですね。バーンスタイン自身が、ライナーノーツでそんなことを書いてるし。

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ということでこの第九、やっぱり音楽以外の要素と申しますか、なにか大きな流れに関係してある存在みたいな……そこまでいうと大げさかもしれませんが、「じゃあ次の演奏会は第九やってみようか」という感じでは決められないような……ただ、なぜそうなるのかということを、第九の音楽的な構造からさぐっていければ……

音楽的構造による解析!……むろん、こういうことは、私みたいなシロウトじゃなくて、音楽をやってる人とか、音楽を研究している人がやるべきだし、もうすでにかなり解明されているのかもしれません。私が知らないだけで……ただ、私もシロウトながら、あっ、こういうことかもしれない……と気づいたこともあるので、今回はそれを書いてみようかな……と。

そういうことで、まず第一楽章の冒頭から。ここに鳴る弦の5度下降。この曲を最初に聴いたとき、なんてとりとめもなくはじまるんだろう……と思ったことを覚えてます。なんか、まともな曲のはじまりじゃなくて、オーケストラがまちがえたみたいな、あるいは音合わせをやり続けてるような……しかも、その感じがなんとなく不安で、頼りなげで、なんかカゲロウが死んでふわっと落ちてくるみたな……あとで知ったんですが、これがあの有名な「空虚5度」のオープニングでした。

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空虚5度……これについては、前に書いたことがあります。リンク 現代人の耳には、5度の和音が虚ろな響きに聴こえる(ロックでいう、パワーコード)……この第九交響曲は、調性がニ短調(D minor)ということで、ニ短調だと主音がDで5度(属音)は A になる。なので、主音から属音への下降形は D↓A になるはずなんですが、実際に鳴る音は E↓Aです。これはふしぎだ。なんでこんなことをしたんだろう……E↓A だと、3度に C をとればイ短調(A minor)あるいは C# をとるならイ長調(A major)、このどっちかになるはず……

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主音の D から5度上がると A だけど、D から下の A への下降は 4度になる。空虚5度を鳴らすためには、Dから A に降りるのではダメで、一つ上の E から A に降りないといけない……そういうことで、E↓A と鳴らしているのだろうか……ところが、このカゲロウのような不安定な音型の後にフォルテで出てくる第一主題は主調のニ短調の D↓A の下降型になってます。

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このあたりの問題は、正直よくわかりませんが、最初の下降音型で5度を表現したかったのではないか……これは、実は第四楽章に深く関連していて、第四楽章のあの有名な「歓喜の歌」の途中で、まさにこの5度の下降音型 E↓A が出てくるんですが、私が読んだり調べたりした範囲では、このことに触れたものは見当たりませんでした。もしかしたら新発見?

いや、まさか……これだけ細部まで研究され尽くしているベートーヴェンの第九に、もういまさら新発見はないだろうから、絶対にだれかがどっかで書いてるはずなんですが(つまり、私の調べ不足)、この第一楽章冒頭の5度の下降音型と第四楽章の歓喜の歌の途中で出てくる同じ5度の下降音型は、絶対に関連しているとしか思えません。というのは、歌詞までがそこを表現するようにつくってあるから……

第四楽章の「歓喜の歌」は良く知られたメロディーですが、その中に、一回だけ、この E↓A 下降音型が出てくる場所があります。そして、そこに対応する歌詞は……というと、「streng geteilt」。シュトレンゲタイルト、強く分けられた、という意味のところです。ここに対する音型は、streng(D)↑ ge(E)↓ teilt(A)となっており、主音 D から E に上がり(2nd)、E から A に 5度(5th)の下降を見せます。

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geteilt(ゲタイルト)は、動詞 teilen(タイレン・分ける)の過去分詞で、「分けられた」という意味。この箇所の全体は「Was die Mode streng geteilt」で、Mode(今の風潮・規範。つまり石頭の考え)によって強く分かたれたもの、あるいは、Mode が強く分けへだてたもの、という意味になると思いますが、これが、天国(エリジウム)の乙女の魔法によって再び結ばれる(binden wieder)ということです。全体を書くと、次のようになります。

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これは、良く知られているように、ベートーヴェンがシラーの詩を(一部改変しつつ)テキストとして使っているわけですが、この「歓喜の歌」は主音 D の3度上の F# から始まり、F#↑G↑A(Freude, Schöner)__A↓G↓F#↓E(Gotterfunken)__D↑E↑F#(Tochter aus)__F#↓E(Elysium)__F#↑G↑A(Wir betreten)__A↓G↓F#↓E(Feuertrunken)__D↑E↑F#(Himmlische dein)__E↓D(Heilligtum)というふうに、主音 D と属音 A の間を行ったりきたりで、この5度圏内からは出ません。

そして、この5度圏内で、常に中心にあるのが3度の F#音。ニ長調(D major)なので、主音はむろん D なんだけれど、このメロディーにおいては、ニュートラルの位置にあるのが実は3度の F# 音で、この F# 音は、剣豪が常にニュートラルの位置から刃をくりだすように、あるいはロボットアームがどんな動作をする場合にも常に一旦ニュートラルの位置に帰ってから次の動作をするように、全体の動作を常時コントロールするベースとなっている……そんな感じを受けます。

これは、実際にこのメロディーをピアノの鍵盤で鳴らしてみると、なるほど……と体感できます(中指を F# に置くと、右手の五本指で簡単に弾ける。中指が全体の支点になり、右の薬指と小指、左の人差指と親指が、天秤のようにきれいにバランスをとる)。これは、メロディーのはじまりのFreude、そしてなかほどのElysium、Wir、(Himmli)sche dein と、強拍になる部分に常に3度のF#音がきているから、ベートーヴェンがかなり意識して使っていると私は思うのですが、いかがでしょうか。

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エリジウムの乙女の魔法が、Mode が強く分けへだててしまったものを、再び結びつける……こういう意味で、全体としては肯定的なんですが、「強く分けへだてた」という否定の部分で E↓A の5度下降音型を、ここぞ!とばかりに使っています。そして、この歓喜の歌では、ここだけが「D – A」の5度圏域を飛び抜けて下の A に落ちる。この箇所がなければ全体が「D – A」の5度圏域に納まったものが、ここがあるために全体がオクターブ8度圏域になってしまいます。

そしてまさに、この E↓A の下降音型は、この第九の冒頭の第一楽章で出てきた、あの空虚5度の E↓A にほかならない……こうして考えてみると、ベートーヴェンは、この第九交響曲を、空虚5度の E↓A で開始し、第一楽章、第二楽章、第三楽章……ときて、ついに第四楽章の歓喜の歌で F#(3度)の全面肯定に至った……この歓喜の歌の中で、唯一否定的な歌詞である「強く分かたれた」streng geteilt の部分には E↓A の下降音型をわざわざ用いて最初の空虚5度を思い起こさせるものの……

それもすぐに鳴る F#(3度)で再び全面肯定されます。F#↑G↑A(Alle Menschen)__A↓G↓F#↓E(werden Brüder)__D↑E↑F#(Wo dein sanfter)__E↓D(Flügel weilt)すべての人は兄弟となる。汝(エリジウムの乙女)のやわらかな翼の憩うところ(エリジウム)で。

このように考えてみると、この交響曲はまさに5度と3度の主導権争いであって、5度は第一楽章と第二楽章をずっと支配し続ける。これに対して第三楽章は、調性B♭になるものの3度(長3度)の無意識的な肯定(そうです!第三楽章は、ベタな3度の肯定になってる……)、そして第四楽章において、最終的に5度と3度をさらに高い位置から比較した結果としての、知性による3度の意識的な肯定……そんな図式になっているのかな……と、まずは思うのですが(後になるとちょっと考えが変わる)。

そして、ここでやっぱり思い出すのが、音律と和声の話。ヨーロッパ音楽の音律は、中世においてはピタゴラス音律に基づく教会旋法であって、単旋律聖歌が延々と歌いつがれてきたわけですが、12世紀において対位法ができてくるとともに、5度が意識されるようになった。ピタゴラス音律においては、うなり(ビート)なしにきれいに響くのは8度(オクターブ)と5度だけで、これだけが「和声」として認められていたということだった。(あと、補足的に4度も)

しかし、14、15世紀(いわゆるルネサンス)に入ると、これまでは不協和音と考えられてきた3度や6度が和音の仲間入りをしてきます。そして、3度や6度がきれいに響かないこれまでのピタゴラス音律に変わって、純正調や、3度や6度、とくに3度の響きが美しいミーントーン(中全音律)が支配的になってきます。

なぜ、こういう現象が起こってきたのか……そこのところをわかりやすく解説してくれている本がありました。作曲家の藤枝守さんの『響きの考古学』(平凡社ライブラリー)。以下、少し引用してみます(pp..85-86)。

(引用はじめ)………………………………

ピタゴラス音律が支配していた中世において、8度と5度、4度の3つだけが協和音程とみなされ、ほかの音程は経過的に使用されるだけであった。特に、ピタゴラス音律の3度は、81/64という高次の比率となり、不協和音程として扱われていた。このようにピタゴラス音律においては、音程に関してかなりの制約があったといえよう。数比的な秩序が、響きに対する感覚の自由さを妨げていたとも考えられる。ところが、ピタゴラス音律が支配的であったこの時代でも、この音律の制約を受けず、より感覚的な音程を保持していた地域があった。

イギリス・アイルランド地方では、フランスやドイツなどの大陸とは異なった傾向の音楽が展開していた。その大きな違いを生みだしたのが、3度(あるいはその転回音程の6度)に対するイギリス・アイルランド地方の人たちの好みなのである。彼らの好んだ3度は、ピタゴラス音律による不協和なものではなく、純正に協和する状態(すなわち5/4の比率)のものであったという。なぜ、このような純正3度に対する感覚をイギリス・アイルランド地方の人たちがもっていたかについては定かではないが、おそらく、この地方に移り住んだといわれるケルト人と関係があるように思われる。

………………………………(引用おわり)

ケルト人、カエサルの『ガリア戦記』に登場するガリア人(厳密にはケルト人とイコールでないといわれますが)は、はじめはヨーロッパのほぼ全域に分布していたけれど、ローマ帝国によって追いやられ、イギリスのアイルランドなどに極限されたとするのがこれまでの定説だったようですが、最近では、イギリスのケルト文明と大陸のケルト文明の相関に疑問が呈されることにもなっている……その点はちょっと気になりますが、この藤枝さんの本では、「3度の担い手」として、「ケルト」があったんじゃないかという仮説に立っています。もう少し引用を続けてみましょう(pp..86-87)。

(引用はじめ)………………………………

イギリス・アイルランド地方の民衆のなかで培われた純正3度は、「イギリス風ディスカント」という独特の歌唱法を生みだした。この歌唱法では、もとの旋律に対して、あらたな旋律が3度や6度の平行音程によってなぞるのである。すると、ピタゴラス音律では得られない豊かで甘美な響きが生み出される。(中略)14世紀から15世紀にかけて、この3度によるイギリス独自のスタイルは、イギリスを代表する作曲家のジョン・ダンスタブルによって、大陸へ伝えられたといわれている。そして、フランスにおいて「フォーブルドン」という技法を生み、純正3度の響きが大陸の音楽のなかにしだいに浸透していった。それにともなって、ピタゴラス音律によるそれまでのポリフォニーの響きが一変させられたのである。

純正3度の登場。それは、純正5度に基づくピタゴラス音律の支配を終わらせ、純正調の新しい時代の到来を告げるものであった。このような音律の変化は、また、中世からルネッサンスへの大きな時代の移行も意味していた。

では、なぜ、純正3度が大陸でこのように広まったのだろうか。それは多くの人々が、純正3度が生みだす甘美でとろけるような響きに魅了されたからである。ピタゴラス音律の厳粛で禁欲的な響きは、たしかに神の存在を暗示しながら、宗教的な活力を与えていた。しかしながら、響きに快楽性を求めた耳の欲求が、純正3度の音律を受け入れていったようにみえる。

15世紀になり、ポリフォニーのスタイルはさらに複雑になっていくが、それとともに、純正3度の響きは、そのポリフォニーに協和する縦の関係を生みだしたといえる。つまり、ピタゴラス音律のポリフォニーでは、絡み合った声部が分離して聴こえるが、純正3度が入り込んでくると、それぞれの声部が音響的に溶け合ってくる。その結果、ポリフォニーのスタイルが和音の響きとして、つまり、同時に響き合うホモフォニー的な傾向となっていった。イギリス・アイルランド地方からやってきた純正3度は、このように大陸の人々の耳に豊かで甘美な響きを与えながら、音楽スタイルの変化を引き起こすひとつの要因となった。

………………………………(引用おわり)

藤枝さんの本のこの部分をずっと読んでいると、まさにベートヴェンの第九の解説じゃないか……これは……という錯覚に囚われてしまいます。まあ、逆にいえば、このベートヴェンの第九交響曲というのは、作曲時点は19世紀初頭だけれど、実は、はるか古代から中世にわたる教会でのピタゴラス音律による単旋律聖歌、それが12世紀に入って5度のポリフォニーを生み、さらにルネサンスを迎えて3度音程による現代につながる西洋音楽の誕生(長3度の長調と、短3度の短調)……そのすべてを、70分前後の4つの楽章の中にとじこめた、いわば西洋音楽の古代から現代に至るタイムライン、時間圧縮タイムカプセルみたいな音楽だった……そんなふうにもいえるのではないか……

したがって、ここで考えなくてはならないのは、5度に象徴される「しばる力」(交感神経的)と3度に象徴される「ゆるめる力」(副交感神経的)の関係じゃないかな……と思います。この第九は、さらっとみると「3度の勝利」で、空虚5度にはじまる不安感、どうしようもなく頼りなく、けれどぎりぎりと縛られていくような不快感……そんなものが、最終的には「ヒューマニズム3度」で解決されて、人類はみな兄弟になる……戦争も仲たがいも争いも支配も服従もない、自由で幸福なエリジウムに入る……そんなふうにも読めるのだけれど、本当にそうなんだろうか……

ベルリンの壁崩壊直後のバーンスタインの演奏……そこにはたしかに、「自由に対する希求」が強く現われている。しかし、第二次大戦の終了まもないフルトヴェングラー盤は、聴いていてなぜか不安になる。バーンスタイン盤は、もうこれ以上ないくらいの肯定的感情が溢れかえっているものの、では、その後の世界の経過はどうだったか……そういうことを考えると、この曲の持っている性格は、もしかしたら意外に複雑なものなのかもしれない……そんな思いもしてきます。

たとえば、この曲では、第一楽章と第二楽章は、空虚5度が支配するメロディーの断片が飛び交う、まさに戦場のような雰囲気ですが、第三楽章に入ると突然、すべてが一変して、3度が支配する甘美なメロディーの洪水にみまわれます。なるほど、これがエリジウムの世界……私は、以前に見たイギリスの画家、ジョン・マーチンの天上世界の絵をどうしても思い浮かべてしまうのですが……しかし、作者のベートーヴェン自身は、この「3度の洪水」を無条件には肯定していない。

藤枝さんの本では「純正3度が生みだす甘美でとろけるような響き」とありますが、まさにこの第三楽章がそのもの(調律は純正調ではないけれど)……しかし、この響きは、第四楽章の冒頭で否定されます。第一楽章、第二楽章のメロディー断片を「これではない」、「これも違う」と否定したあと、流れてくる第三楽章の断片に対して「うーむ……いいんだけど、どっか違う。もっといいのはないんかい?」とくる。要するに、ベートーヴェンとしては、空虚5度が支配する厳格でオソロシイ世界はむろん否定するんだけれど、その対立項として現われる3度の甘美な世界も、そのままでは肯定する気になれんなあ……とそんな感じです。

私は、ここに、ベートーヴェン自身の人類の歴史(というかヨーロッパ文明の歴史)に対する一つの見方をみるような気がする。ベートーヴェンも、詩を書いたシラーも実はフリーメーソンだったとかいう話もありますが、そういうややこしいことを考えなくても……まあ、考えてもいいんですが、やっぱりもっと大きく、この時代に現われてきた、一種の自己批判的精神(文明の自己批判)ではなかったか……これは……19世紀という時代が、うちにそういうものを孕んでいて、それはいまだに解決されていない……そんなふうにも思います。

その一つの引っかかりとして、第四楽章に登場する「Cherub」(ケルブ、ドイツ語読みではケルプ)というヘンな?存在のことを考えてみたいと思います。これはむろん、シラーの原詩にも出てくるようですが、かなり位の高い(第2位)の天使だそうで、その天使が、神の前に立つ!(und der Cherub steht vor Gott.)ここです。この箇所は、合唱のなかでたしか3回くりかえされて、そのたびに感情が高まっていきます。

で、この歌詞の前にあるのが、Wollust ward dem Wurm gegeben. 快楽は虫ケラに与えられん、という一句。やや、これはなんだ……ということですが……私はここで、どうしてもあの第三楽章の「3度の甘美の洪水」を思い出してしまう。Cherub(天使ケルビム)と Wurm(虫)は対になってるように思えます。天使ケルビム(ケルビムは複数形で、単数はケルブ)は、「智天使」ともいわれ、「智」をつかさどる。その天使が神の前に立ちふさがって神を守る。虫けらども、ここはお前たちのくるところではない!と……

なるほど、感情の喜びに流されて知性も理性も失ったものは、本当の神の前にブロックされるということなんだろうか……そういえば、ここで思い出すのは、第四楽章の開始を告げる、あの「恐怖のファンファーレ」。第三楽章の甘美に酔いしれていた聴衆は、ここでドカーン!とその存在自体を葬りさられる……そんなふうに感じるほどアレは強烈で、私のようなバッハ以前の古楽が好きなものは、「あ、やっぱりベートーヴェン、ダメ」と、ここでスイッチを切りたくなる、そういう過激な……

譜面をみると、あの不協和音の構造がわかってきます。なんと、Dマイナー(D+F+A)とB♭メジャー(B♭+D+F)を同時に鳴らしている。鳴る音は、D、F、A、B♭の四つなんですが、AとB♭が半音でケンカしてあの不協和。しかも大音量で。Dマイナーは第一楽章、第二楽章の主調だからわかるにしても、B♭メジャーは? ということで譜面を見ると、これはなんと、第三楽章の調だった。つまり、この第四楽章の冒頭では、第一楽章、第二楽章、第三楽章の主和音を同時に鳴らすことによって、これまでの全部の音楽の総決算だぜ!ということを聴くものに告げ知らせる……

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と同時に、これは、甘美きわまる第三楽章、B♭メジャーの徹底的な否定にもなっている。DマイナーをB♭メジャーに思いっきりかぶせることによって甘美な第三楽章全体を惨殺する……そんなイメージです。で、これが、第四楽章の後の方で、智天使ケルビムと虫けらの対比になって出てくる。ということはつまり、ケルビムは、もしかしたら Dマイナー、あるいは空虚5度そのものなのかもしれない。

ケルビムって、現代のふにゃふにゃアートではぽっちゃりしたかわいい天使の姿に描かれることも多いそうですが、旧約聖書に出てくるその姿は、まさに怪物そのもの。この天使は、創世記とエゼキエル書に出てきますが、エゼキエル書における詳細な描写は次のとおりです(以下引用。10章9-14節)

『わたしが見ていると、見よ、ケルビムのかたわらに四つの輪があり、一つの輪はひとりのケルブのかたわらに、他の輪は他のケルブのかたわらにあった。輪のさまは、光る貴かんらん石のようであった。そのさまは四つとも同じ形で、あたかも輪の中に輪があるようであった。その行く時は四方のどこへでも行く。その行く時は回らない。ただ先頭の輪の向くところに従い、その行く時は回ることをしない。その輪縁、その輻(や)、および輪には、まわりに目が満ちていた。-その輪は四つともこれを持っていた。その輪はわたしの聞いている所で、「回る輪」と呼ばれた。そのおのおのには四つの顔があった。第一の顔はケルブの顔、第二の顔は人の顔、第三はししの顔、第四はわしの顔であった。』(引用おわり)

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これはまるで怪物……具体的な姿をイメージとして思い浮かべることは困難ですが、絵画作品として描かれたその姿は、たとえば上の絵に出てくるみたいな異様なもので、えっ、これが天使なの?という言葉が思わずでてきそうな……同じような「怪物」の出現は、エゼキエル書の冒頭(第一章)にもあり、そこでは、この「生き物」は「人の顔、ししの顔、わしの顔、牛の顔」を持つとされています。

しかし……この箇所をまともに読んでみると、もうこれはとても「天使」(現代の)のイメージではないし、「生き物」というにもほど遠い。なんか、機械装置、あるいは車か飛行機みたいな……ジョージ・ハント・ウィリアムソンみたいに、これこそ円盤、宇宙船にちがいないという人もいるんですが……

正直、どうなんでしょうか。ただ、この存在が徹底して「4」に関係することだけはたしかなようです。それと、「人の顔、獅子の顔、牛の顔、ワシの顔」がおそらくは、「水瓶座、獅子座、牡牛座、サソリ座」に関連することも。なぜなら、サソリ座は、古くは鷲座とされることもあったらしいので……

まあ、このあたりは、もしかしたら本質から遠い?のかもしれませんが、おそらくケルビムという存在は、神の前に立ち塞がり、神へのアプローチを妨害する門番みたいな役割であったことはまちがいないと思います。そして、それで思い出すのがやっぱりデミウルゴスとグノーシス……これについては前に書きました。リンク

そして、もう一つ気に留めなければならないことが……それは、智天使ケルビムが登場する前の、この箇所(かなりの超意訳をつけます)。
Wem der große Wurf gelungen,(大きな幸いを得た者よ)
Eines Freundes Freund zu sein,(真の友を得た者よ)
Wer ein holdes Weib errungen,(やさしき伴侶を得た者よ)
Mische seinen Jubel ein!(いざ、この喜びを共にせん)
Ja, wer auch nur eine Seele(そうだ、ただ一つの魂でも)
Sein nennt auf dem Erdenrund!(この地に、共にある!といえる者があるならば……)
Und wer’s nie gekonnt, der stehle(そしてもし、そういう魂を得られなかった者は)
Weinend sich aus diesem Bund!(忍び泣き、この輪から去るがよい)

これはけっこう厳しい……つまり、心が空虚5度に満たされて、この世界に満ちるこわばった掟(Mode)をふりかざし、真実の心の友も得られず、パートナーからも嫌われて、真の世界で孤立した者は、立ち去れ!……この地上に、お前のようなやつのおる場所はないのだ!と。しかも、「stehle」(英語のsteal)なので、大騒ぎせずにそっと消えてしまえ! ということで、空虚5度の心の持ち主に対しては容赦ない。

そして……3度の甘美に酔いしれる「虫けら」のようなヤツも、当然この輪には入れない……ということで、ここではじめて、この「第九」の大きな枠構造が浮かびあがってくるような気がします。つまりこの1時間超の大作は、全体として、空虚5度のガチガチの分断する心も、3度の甘美に酔いしれてふにゃふにゃになった心も、両方ともアカンと言っている。

さて……われわれ人類は、これからどこへ行くのだろうか……ベートーヴェンの時代には、すでにストレートな?神への信仰は失われはじめていたのでしょう。この第九では、vor Gott、神の前に、という言葉が何回も出てくるけれど、その場所に立っているのはあのおそろしいケルビム……すべての人が兄弟となる……しかし、それはなんによって?

ベルリンの壁が崩壊したときには、おそらく多くの人がそういう思い(万人皆兄弟)に満たされたのではないでしょうか。しかし……「すべての人が兄弟となる」世界は訪れなかった。いや、今の状況は、もしかしたらさらに深刻なのかもしれません。世界中で多発するテロや戦争……あいかわらずCO2を垂れ流し、資源を食いつくす人類……そして、あの身の毛もよだつゲンパツの大増殖……まるで、あの「恐怖のファンファーレ」そのもののような……

ベートーヴェンって、ホントに一筋縄ではいかないやっちゃなあ……そう、思います。第九の中にあるさまざまな「仕掛け」は、もしかしたらまだあんまり読み解かれていないのかもしれません。

たとえば……演奏者の間で、常に問題になる第四楽章の「vor Gott」がくりかえされる部分(上に述べた部分)。この箇所は、オーケストラも合唱もff(フォルティシモ)指定で目一杯、大音響でがなりたてる(失礼)のに、ティンパニだけはその部分にff > p つまり、フォルティッシモからピアノにディミュヌエンドしないさいという指示があって、これがために、みんなが大音響で「vor Gott!」と連呼しているなか、ひとりティンパニだけは少しずつ音を弱めながらさびしく消えていかねばならない……

実は、この指示は、かなり最近まで定番楽譜として用いられてきたブライトコップフ版にあったそうですが、最近出されたベーレンライーター版では、ティンパニも一緒にffしましょうという指示になってる。で、これで喜んだのがティンパニ奏者の方々で、なんでオレだけ……という鬱屈した思いを吹き飛ばすようにティンパニの強打……指揮者の中にも、なんでティンパニを p にせにゃならんの?という理由がわからなくて、ブライトコップフ版の指示を無視してティンパニも ff でやってこられた方も多かったとか。

しかし、この部分の前の歌詞の意味を考えてみると、上のように、神の前に立つケルビムに拒まれて立ち去らねばならないものがいるわけです。これは、私の解釈では、Mode(世の掟)にガチガチになった空虚5度の石頭連と、逆に3度の甘美に酔いしれてふにゃふにゃになった虫けらども……となるわけですが、もしかしたらティンパニに与えられた ff > p の指示は、こういう連中がさびしく去っていく姿を、音楽表現の上でやらせている……そういう解釈も成り立つのでは?

この箇所は、昔から演奏者の間では大問題だったらしくて、音量バランス上の問題とかいろいろ言われてますが、歌詞の内容に関連した表現ではないかという解釈は、私はみたことがない。でも、フツーに単純に考えれば、そうなるんではないだろうか……そもそも、ベートーヴェンの楽譜の校訂作業というのは困難を極めているそうで(自筆譜や献呈譜やいろんな出版譜があるので)、文献上からこうだ!という決定はできないそうなんですが……しかし、もしこの箇所で、ベートーヴェンがなにも考えてなかったら、当然ティンパニの ff > p という不自然な指示が生まれるはずはない……ということは、この ff > p にはやっぱりなにかの表現意図がある……そう考えるのが自然ではないかと思うのですが。

まあ、音楽の専門でない私の思いつきなので、なんともいえないのですが……音楽は、聴けば直接になにかが伝わってくる。それはたしかです。しかし……演奏する人も、聴く人も、もしかしたらそこに鳴っているその音楽の中に、なにかかなりのものを聴き逃しているのかもしれない。聴く方はともかく、そういう、よくわからない状態で演奏ってできるの?ということなんですが……でも、今も、たくさんの指揮者、演奏家、声楽家が、世界中で「第九」をやってます。で、さらにさらに多くの人が聴いている……

演奏技法の問題だけではなく、この曲には、とくに第四楽章のケルビムが出てくるところで、私には、先に書いたように、デミウルゴス、グノーシスの問題がかなり本質的にからんでいるように思えてなりません。これは、西洋世界にとっては、やっぱり古代から今に続いて、まったく解決されていない大きな問題のように思いますが……すくなくとも、この「第九」は、従来言われている「人類愛」とか「ヒューマニズムの勝利」みたいな歯の浮くようなウソくさい言葉では歯が立たない、ややこしい巨大な問題を抱えこんでいるように思えます。

この第九の「ナゾ」、いったい解明される日がくるんだろうか……またいつの日か、続きを書ければ……

Q-book_02/ガリア戦記_02/Notebook about the Gallic War_02

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Q-bookシリーズの第2弾も、やっぱりカエサルの『ガリア戦記』でした(第1弾は、6月22日のブログに掲載)。今回は、東京の TOKI Art Space (渋谷区神宮前)という現代美術のギャラリーで今月5日から16日まで開催される『THE LIBRARY 2014』というグループ展に出品するためにつくったもので、A4サイズくらいのオイルステンを塗った木箱の中につくりこんでいます。内容は、第1弾の『ガリア戦記』と一緒で、タイトルを含め46語で構成しています。前回よりも箱が大きくなったぶん、文字も大きくしていますが、いちばんちがうのは、前回と比較して、単語の高さを決めるウェイトの配分をほぼ逆転させたことです。

つまり、前回は、長い単語ほど上に浮かんでくるという構成でしたが、今回は逆に、長い単語を沈ませ、短い単語を浮きあがらせてみました。設計としては、いちばん文字数の多い単語(上でいうとAPPELLANTVRなど)がいちばん重いと考えて、これを基盤面から5mm浮上させた位置に置き、10文字の単語は10mm、9文字の単語は15mm ……というふうに、単語が一個増えるごとに5mmずつ浮かせていくと、1文字単語(Aなど)は基盤面から55mm浮上した位置になります。したがって、この1文字単語がぎりぎり収まるように箱の高さを決めました。こういうふうにしてなにがいいかというと……まあ、本人の納得だけなんですけど。

箱の蓋をしめると、蓋の表面には、「CAESARIS COMMENTARII DE BELLO GALLICO」(ガリア戦役にかんするカエサルの注釈)というタイトルが金文字でレタリングしてあります。これを、ちょっとスター・ウォーズ風にやってみますと……

SWふう_900

この書体は、箱の中の本文の書体とおなじく「トラヤヌス帝碑文」のローマン・キャピタルから自作したものです。トラヤヌスは紀元1世紀から2世紀にかけての皇帝で、カエサルの時代からすれば百年くらい後になると思いますが……ローマ時代のフォントというとこれが有名なので、これを使っています。調べてみれば、カエサル時代のフォントも出てくるのかもしれませんが……この、トラヤヌス帝の碑文は、次のサイトで見ることができます。
http://www.codex99.com/typography/21.html

ということで、ギャラリーの近くにお住まいの方は、よろしければお出かけください。なお、この展覧会は、アートと本のかかわりを考えてみようということで、もう十年以上前から毎年一回開かれています。今年は160人の作家が参加するということで、本の好きな方、アートの好きな方、両方ともいろいろ楽しめそうな……イベントも各種企画されているようです。この展覧会についてもっと詳しく知りたい方は、次のサイトをのぞいてみてください(この展覧会のキュレータの方のサイトです)
http://www.ab.auone-net.jp/~library/

DM_900

私の作品の内容(つまり、なにが書いてあるのか)については、前(6/22)に載せたものを再掲しますと、次のような感じです。

およその日本語訳は以下のとおりです。

ガリア戦役についてのカエサルのコメント 第1巻
ガリアは、およそ3つの部分に分けられる。ある部分にはべルガエ人が住み、別の部分にはアクィターニ人が住み、そして3つめの部分には彼らの言葉でケルト人、われわれの言葉でガリア人と呼ばれる人々が住んでいる。この人たちはみな、異なる言葉で話し、習慣も法律もお互いに異なっている。ガルンナ川がガリア人をアクィターニ人から隔て、マトローナ川とセーヌ川がべルガエ人から隔てている。

原文をちゃんと書くとこんな感じ。

CAESARIS COMMENTARII DE BELLO GALLICO
I
GALLIA EST OMNIS DIVISA IN PARTES TRES QVARVM VNAM INCOLVNT BELGAE ALIAM AQVITANI TERTIAM QVI IPSORVM LINGVA CELTAE NOSTRA GALLI APPELLANTVR
HI OMNES LINGVA INSTITVTIS LEGIBVS INTER SE DIFFERVNT
GALLOS AB AQVITANIS GARVMNA FLVMEN A BELGIS MATRONA ET SEQVANA DIVIDIT

英訳だとこんな感じになるようです。

Gaius Julius Caesar’s
Commentaries on the Gallic War
Book 1
All Gaul is divided into three parts, one of which the Belgae inhabit, the Aquitani another, those who in their own language are called Celts, in our Gauls, the third.
All these differ from each other in language, customs and laws.
The river Garonne separates the Gauls from the Aquitani ; the Marne and the Seine separate them from the Belgae.

独訳だとこんな感じ(ウムラウトはe付きの二重母音で表現してます)。

Gaius Julius Caesar
Ueber den Gallischen Krieg
Liber 1
Ganz Gallien ist in drei Teile geteilt, deren einen die Belger bewohnen, den anderen die Aquitaner, den dritten, die in eigener Sprache “Kelten” genannt werden, in unserer Gallier. Diese alle unterscheiden sich in Sprache, Gewohnheiten und Gesetzen. Der Fluss Garonne trennt die Gallier von den Aquitanern, die Marne und die Seine trennt die Gallier von den Belger.

カエサルC-300v

カエサルは、自分が体験したガリア戦役であるにもかかわらず、この本の中では「カエサルは……云々した」というふうに、ひとごとみたいに書いています。そういう書き方がこの当時、一般的だったのか、それとも、これはカエサル独特の表現なんでしょうか……いずれにせよ、「戦記」の冒頭が地理的記載から始まっているのは「ヨユーやなあ……」という感じですが……なにか、自分のやってる戦いを、ちょっとひいて外側から眺めて客観的に書いている風もあり、やっぱ、こんなヤツには勝てんだろうなー……と。たぶん、かなりふしぎな人だったんじゃないかと。

ローマは、このカエサルと、その後を継いだオクタヴィアヌス(アウグストゥス)によって帝政の基礎を築くわけですが、ちょうどそのころ、ローマに征服されていたユダヤ民族の中から、後にローマを宗教的に征服してしまう「キリスト教」を拓いたイエスが現われていた……これは、考えてみれば、ふしぎなめぐりあわせだと思います。まあ、「キリスト教」が「ローマ」を征服したのか、逆に征服されてしまったのかは微妙なところだと思いますけど……私が、この『ガリア戦記』にひかれるのは、なぜだかわからないけれど、もしかしたら、これは「一つ前の時代」のピリオドみたいな性格を持ったものだからかもしれない……

この後、ヨーロッパ世界は、キリスト教とその神の巨大な影に覆われて、人々は、もうそれなしにはなにも考えられなくなってしまう……ニーチェじゃありませんが、「それがなかったヨーロッパ」みたいなものを考える場合……たぶん、このカエサルの『ガリア戦記』の中に「それの影」はそれとなく含まれていたのかな……と。そういう意味では、この書物自体が「次への扉」になっていたのかもしれない……わかりませんが、そんな感じもいたします……

Q-book_01/ガリア戦記/Notebook about the Gallic War

Q-book_Gallia_Senki_600

Q-bookシリーズの第一弾は、カエサルの『ガリア戦記』。Q-bookは私の造語で、Cubookと書いてもいいんですが、日本語では「箱本」。つまり箱の中に造りこんだ本のことです。豆本とかありますが、そのたぐい?で、普通の本は平面の重なりですが、この箱本は、ページ自体が3D……というか、もうページという概念にははまりません。

立体的になってるかわりに収録語数は極端に少ない。この『ガリア戦記』でも、第一巻の冒頭のほんの一部です。タイトルも入れて46語。これを、長さ21cm、幅7cmのお菓子の箱の中に造りこんでいます……なぜ『ガリア戦記』なのか……それは単純で、私が『ガリア戦記』が好きだから。でも、好きというわりに全文は読んでいません。

ということで、けっこういいかげんなんですが……なぜか、特にこの冒頭部分が気にいってます。原文のラテン語でつくってあります。書体は、オールドローマンの母型である「トラヤヌス帝碑文」から採りました。カウンターがゆったりと広く、Qの文字のテールがすうっと伸びてる。古代の文字は、気品があっていいですね。印刷ってことを全然考えてない書体です。まあ、石に刻んであったんだから当然か……で、だいたい次のようなことを言ってます。

ガリア戦役についてのカエサルのコメント 第1巻
ガリアは、およそ3つの部分に分けられる。ある部分にはべルガエ人が住み、別の部分にはアクィターニ人が住み、そして3つめの部分には彼らの言葉でケルト人、われわれの言葉でガリア人と呼ばれる人々が住んでいる。この人たちはみな、異なる言葉で話し、習慣も法律もお互いに異なっている。ガルンナ川がガリア人をアクィターニ人から隔て、マトローナ川とセーヌ川がべルガエ人から隔てている。

原文をちゃんと書くとこんな感じ。

CAESARIS COMMENTARII DE BELLO GALLICO
I
GALLIA EST OMNIS DIVISA IN PARTES TRES QVARVM VNAM INCOLVNT BELGAE ALIAM AQVITANI TERTIAM QVI IPSORVM LINGVA CELTAE NOSTRA GALLI APPELLANTVR
HI OMNES LINGVA INSTITVTIS LEGIBVS INTER SE DIFFERVNT
GALLOS AB AQVITANIS GARVMNA FLVMEN A BELGIS MATRONA ET SEQVANA DIVIDIT

英訳だとこんな感じになるようです。

Gaius Julius Caesar’s
Commentaries on the Gallic War
Book 1
All Gaul is divided into three parts, one of which the Belgae inhabit, the Aquitani another, those who in their own language are called Celts, in our Gauls, the third.
All these differ from each other in language, customs and laws.
The river Garonne separates the Gauls from the Aquitani ; the Marne and the Seine separate them from the Belgae.

独訳だとこんな感じ(ウムラウトはe付きの二重母音で表現してます)。

Gaius Julius Caesar
Ueber den Gallischen Krieg
Liber 1
Ganz Gallien ist in drei Teile geteilt, deren einen die Belger bewohnen, den anderen die Aquitaner, den dritten, die in eigener Sprache “Kelten” genannt werden, in unserer Gallier. Diese alle unterscheiden sich in Sprache, Gewohnheiten und Gesetzen. Der Fluss Garonne trennt die Gallier von den Aquitanern, die Marne und die Seine trennt die Gallier von den Belger.

英訳、独訳と原文ラテン語を比べてみると、原文がいかにすっきりしてるかが、字面だけでもわかります。ラテン語には冠詞がないというのも影響してるんでしょうが、それだけではない……言語の構造自体が極めて簡潔でムダがないというか……日本語はかなり遠いので比べることはできませんが、やっぱりどうしても冗長気味になってる気がします……

言葉って、ふしぎですね。ラテン語の場合、1つ1つの単語に粘着性があんまりなくて、ぱきぱきしてます。言葉自体がモナド化してるといいますか……なので、箱の中に3D化しても、とてもよくはまる。それぞれの言葉が、それぞれの処を得ている……一個一個が、高価な果物みたいにみえないラップで丁寧に梱包されてる……Q-book化にはまことにお似合いと感じます。

今回のQ-bookでは、各単語の長さと高さが同じになるようにつくりました。1cmの長さの単語は高さも1cm。2cmの長さの単語は高さも2cm。つまり、長い単語ほど高くなる。いちばん長い単語は、タイトルの中の「COMMENTARII」で、高さもいちばん。この単語の高さがきっちり箱に収まって蓋ができるようにつくりました。蓋を閉めるとこんな感じ。

フタツキ

若草……どんなお菓子だったか、あんまり印象がない……ので、調べてみましたら、松江にある彩雲堂という老舗の銘菓で、求肥(餅+砂糖)を短い角棒状に練って、それに緑色のそぼろ(餅からつくった寒梅粉)をまぶした茶菓子でした。松江藩の7代目藩主だった松平治郷公の作とか。これを、明治30年(1897)に彩雲堂初代山口善右衛門が研究復元し、今なおつくられています。右肩に「不昧公好」とありますが、元々の創作者の松平治郷公は、別名「不昧公」と呼ばれていたので、こう書いてあるようです。また、「若草」という命名も、この不昧公の歌、
曇るぞよ 雨ふらぬうち 摘んでおけ 栂尾の山の 春の若草
からとったといいます。

「栂尾」(とがのお)は今も残る京都の地名ですが(京都市右京区梅ヶ畑栂尾町)、なんで京都なのか……というと、鎌倉時代に、明恵上人が、京都の栂尾山にお茶の樹を植えた。この明恵上人に若草を詠んだ歌があるのですが、それにちなんで不昧公が先に挙げた歌を詠んだから……じゃあ、その明恵上人の歌って?……ということで、これも調べてみましたら、次のようなのが出てきました。
曇るなり 雨ふらぬまに つみてをけ とがのお山の 春の若草 「春雨抄」
じゃあ、明恵上人は、お茶の樹をどっから入手したのか……というと、元は、あの栄西さんでした。つまり……

栄西さんは、仁安3年(1168)、南宋に行きますが、建久2年(1191)に帰国し、京都に建仁寺を建立(建仁2年・1202)します。彼が明恵さんにお茶を伝えたのは、この頃だったのでしょうか……当時は、今みたいに嗜好品ではなくて、むしろ薬みたいに考えられていたようですが……なお、日本に最初にお茶を伝えたのは最澄さんで、そのときは比叡山のふもとの坂本に植えたとか……一時は盛んに飲まれたらしいが、遣唐使が廃れてくるにしたがい、喫茶の習慣もいつしか止み……で、それを再興したのが栄西さんだったらしい。いずれにせよ、お茶は、当時はハイカラ飲料(今でいうワインやコーラ?)で、これが利休とかにつながっていくわけですね。宇治茶のルーツも、この栄西―明恵ラインのようです。

松平不昧公は、おそらくお茶のルーツを、明恵上人の栂尾山と考えていたんでしょうね。それにしても……明恵さんと不昧公の歌を比べてみますと、ほぼ一緒だ……これ、パロディにもなってません。いいのだろうか……今なら「著作権」云々になりそうなほど同じ。なんで、こんな、先人と変わらない歌を詠んだんでしょう……まあ、それはともかく、千年近く前の故事に由来するお茶菓子の箱の中に、二千年以上前のカエサルの『ガリア戦記』をつくってしまったのでした……でも、まあ、それがどうした? ということなんですけど。

ちなみにこの箱は、若草六個入りで、お値段は864円(本体価格800円)のものです。したがって、この若草というお菓子は、一個が130円相当。けっこう安いなあ……30個入り(4148円)までは紙箱のようですが、32個入り(5184円)になると木箱になるみたいです。彩雲堂のhpは以下のとおり。(別に宣伝をするわけではありませんが)
http://www.saiundo.co.jp/2shop_wakakusa.html

金(かね)の環_03/Ring of Money, Ring of Gold_03

お金というものは、唯一の世界共通言語である……そう、思います。

今、世界共通語として幅を利かせているのは英語。これはだれしも依存がないことであろうと思いますが……でも、世界のどこでも英語が通じるわけではない。私は、以前、エクアドルの首都キトの街で、ホテルへの帰り道がわからなくなったとき、ホントに困りました。街の人に英語(といっても片言の)で道を尋ねてもまったく通用しません。スペイン語……首都のキトでさえ、街中ではスペイン語しか通じない……今は、もうだいぶ事情が違うのかもしれませんが……身ぶり手ぶりと紙に絵を描いたりして案内してもらい、やっとホテルが見えてきたときの安堵感……

でも、そういうところでも、お金が使えないということはない。まあ、両替という手続きは必要ですが、世界中、どこでも、為替という翻訳機能?で、お金はモノをいいます……かつて、2 . 26 事件の折、「反乱軍」兵士たちが捕えられ事態がおさまったとき、昭和天皇がおっしゃった一言。「為替が停止になると困ると思っていた」……なるほど……これはやっぱり国家元首としての御言葉……この一言だけでも、昭和天皇という方の人物がよくわかるわけですが……それはともかく、「為替の停止」は、世界の共通言語である「お金」から締出されるということで、国として、埒外、範疇外に放り出される……つまり、国家規模で「金の環」から滑り落ちる……

こんな経過を見ても、やっぱりお金は、言葉と不可分の関係にある。そして、言葉は人であることと不可分なので、お金は、人が人であることの基本に位置しているのだと思います……好むと好まざるとにかかわらず……すると、フランシスコのように、一切の「所有」を否定してしまう態度というのは、金(かね)の環からみずからを締出してしまうことになるのでは……たしかにそのとおりだと思いますが、でも、ふしぎなことに、彼は、みずからを人類、人のたぐいから締出しはしなかった……というか、多くの賛同する人たちが現われて、彼の一行は、いつのまにかカトリックの中の一大勢力に……法皇も無視できないくらいの……

私は、ここで、やっぱりイエスの「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」という言葉を思い出してしまいます。「神のものは神に」……これは、いったいどういう意味だろう……イエスはここで、みずからの信仰、神への思いというものは、一切「金の環」には関係しないと言い切ってます。で、それを実践したのがフランシスコ……でも、彼についてくる人たちの中には、やっぱりあんまり徹底していない人もいて、フランシスコの存命中から「教団」はいろんな考えに分裂気味だったみたいです。徹底的に彼の信念に従うという人もおれば、やっぱりあんまり過激なので、基本は「無所有」でも、実際の生活や行動はある程度便宜的に……

そういう人たちは、「所有権と使用権は違うのだ」という便利な論法を考えたとか。要するに、自分はなにも持ってません、「所有権」は放棄した、そういいながら、でも、「使用権」はあるんだと……なるほど、これはずる賢い……サタンのささやきとしかいえないアタマのいい言い訳……これで、どんなゼイタクでも、またし放題になるわけで……まあ、実際には、フランシスコ会にいるかぎり、開祖フランシスコのテーゼが効いてますから、そんなゼイタクをしようという人は少なかったんでしょうが(ゼイタクしたければ会をやめればいいので)、それでも、次々とそういう人々が出てくるのを、フランシスコはどんな思いで見ていたのか……

彼には、「確信」があったんだと思います。地上の、人の言葉……これは、要するに、「お金」である……しかし、キリストが如実に示したように、そういうものに全く無縁でいながら、しかも「人」である方法があるではないか……そして、その方法は、「人の言葉」に縛られない分、「人」の範疇を超えて、全自然、全存在に共通の、まったく別の「言葉」を得ることができる……地上の多くの人は、「人の言葉」そして「金の環」から逃れられないがゆえに、その目は狭くなり、「自然」を「人間のための資源」としてしか見ない……そういう、「金に染まったまなざし」は、自然からの「収奪」を無反省的に、いな、むしろ積極的な価値観で行うようになり……

その「収奪の連鎖」は、自然を末端として、人間の世界全体に及ぶ。人は、この「収奪の連鎖」のいずれかに位置づけられることを余儀なくされ、下位の……ということは、より「自然に近い」位置の人は、上位の、つまり、より「自然から遠い」位置の人に、必然的に「収奪」され、この「収奪の連鎖」は連綿と、金の環の辺縁から中心に至るまで、とぎれることなく続きます……そして、人は、「カエサルのものはカエサルに」ということが全てのように錯覚して、苦しみの、苦悶の一生を終わる……マリー・アントワネットが、宮殿の庭園に田舎屋を模した建物を造らせたとかききますが……金(かね)の環の中心に近い人々の、この「疑似自然」ほど、人間の、金の環に囚われたものがなしいあり方を語るエピソードはないわけで……

「別荘の自然」と「ホントの自然」は違っていて、「ホントの自然」は街の真ん中にもあります。行くあてもなく、日々をその日ぐらしで朽ちていかなければならない人々……人間にとって、最後に残る「自然」はみずからの肉体なんだけれど……臓器売買なんかがはじまると、そこまで「金(かね)の環」は及んでくる……「人の言葉」に残るもう一つの要素である「理性」がそこで戦うわけですが……戦う理性そのものが、もうすでに「金の環」にとりこまれて「カエサルのもの」になりかかっている……STAP細胞事件なんか、典型的にソレを感じます。モロに「金(かね)」という姿をとっていないのでわかりにくいですが……まあ、STAP細胞で「自前の臓器」を育てようということで、臓器売買に理性が勝った……みたいに見えても……

実際は、人間にとって最後に残された自然である「肉体」を、システマチックに金(かね)の環に組み入れていこうとする発想が根元にあるので、それは臓器売買なんかと一蓮の托生……未熟な研究者とか、故意だったのかどうなのか……ということではなくて、そもそものベースになってる発想の苗床の問題で、あんまりにも無反省的(つまり、再生医療は無条件的に善であると)……人間って、ホントに、言葉で自分自身をだますのがうまいなあ……と思います。フランシスコは、そんな「人の言葉の欺瞞」にうんざりしたんでしょう……彼は、「鳥の言葉」のわかる人だったから……そういう人の目から見れば、この、人の世界、金の環にどこまでも囚われて、真っ黒な空間にひぃぃーんとうすら寒い音をたてながら無限に回る世界って……

金の環03_500

今日のessay :普遍を求めて・その2/About Universality – 02

ゴシック期の音楽900C

「3度の卓越」ということでもう一つ連想するのは、ミーントーン(中全音律)という調律法のことです。これは、ルネサンス時代から登場する調律法だそうで、長3度を純正にするという点に特徴があるそうな。以前、小林道夫さんがバッハの『パルティータ』の全曲演奏をされるというので聴きにいったんですが、演奏後、質疑応答の時間が設けられたので、今日の調律法は?ときいてみました。するとお答は「ミーントーンです。」ミーントーンは、♯3個、あるいは♭2個の調までしか使えないとされている調律法なんですが……

バッハの『パルティータ』を構成する6曲の調をそれぞれ調べてみますと……第1番/変ロ長調(♭2個)、第2番/ハ短調(♭3個)、第3番/イ短調(♯♭なし)、第4番/二長調(♯2個)、第5番/ト長調(♯1個)、第6番/ホ短調(♯1個)となっていて、第2番以外はこの基準に当てはまります……ということは、ここからいうと、バッハは、このミーントーンを念頭にこの組曲を書いたんでしょうか……それはわかりませんが、バッハの時代にも、この調律法が広く用いられていたことは想像できます。純正長3度へのこだわり……

そのかわり、このミーントーンでは、5度が純正にならないそうです。本来、かなり重要なはずの5度の響きを犠牲にしても長3度を純正に響かせたい……そこには、一体どういうモチベーションがあったのだろうか……ピアノ調律師の岡本芳雄さんという方のサイトを見ると、次のような興味深いことが書いてありました。ちょっと引用させていただきますと……『ピタゴラス音律で生じる「唸りの多い長三度」の和音は、当時の人々には「不協和音と感じられたであろう」と言われています。一方、自然倍音に由来する純正長三度の和音は厳格などっしりした響きで、祈りを象徴する和音とも考えられます。』
http://pianotuning.jp/?page_id=691

なるほど……唸りのない長3度は「祈り」だったのか……ところが、いろいろ調べてみますと、純正長3度の和音は、イギリスから来たみたいなことが書いてあるサイトも多い。中世の教会音楽、まあグレゴリオ聖歌ですが、あれはやっぱりピタゴラス音律で、5度は純正になるけれど、3度は不協和音。これは、岡本さんの書いておられるとおり。ところが、ルネサンス時代に、イギリス発で、3度と6度を「協和音」とする考え方が大陸にも流れこみ、イタリア中心で大流行したといいます。先に、3度の重視は12世紀ノートルダム楽派から?と書きましたが、大陸にかんするかぎり、もう2世紀くらい遅かったようで。

それにしても、今回いろいろ調べて、私自身の耳が、もうすでに完全に学校の西洋音楽教育に侵されてしまっているのにあらためて驚いた。3度と6度が不協和音! これ、絶対に、今の人の耳じゃない……ドとミ、ドとラですが……ちゃんと、ここちよく響きます。でも、ヨーロッパの中世の人の耳には、これが不協和音で、悪魔の響きみたいにきこえたんですね。想像できないけど……まあ、その時代の音楽が、3度と6度が不快なうなりを生じるピタゴラス音律でできていたということもあるとは思うのですが……で、イギリス渡来のミーントーンで、とくに3度が純正に協和するようになって、新しい世界が開けた……

現代のわれわれからすると、中世の平行5度のオルガヌムなんかは、ちょっと不気味というといいすぎですが、「なにがあったんですか?」といいたくなるような壮絶気味の響きに聴こえるんですが……ピタゴラス音階の純正5度の和音は、ハ長調でいうとドの鍵盤とソの鍵盤を一緒に押したときに出る音なので、これだけではハ長調なのかハ短調なのかがわからない。つまり、長調なのか短調なのか、耳も脳も聞き分けることができないところから、得体の知れない不安感が漂う……ベートヴェンの第9交響曲の冒頭が、この「空虚5度」を使ってるので有名みたいですが、たしかに暗闇をさまよってるみたいな不安感があります。

空虚5度

しかし……これが、実は、ルネサンス以来の3度を卓越させた「ヨーロッパの音階」に馴れた耳のせいであるとは……「ヨーロッパ音楽教育」を受けていない人の耳には、われわれとは全然違うように聴こえるはず……むろん、ヨーロッパ中世の人も含めてですが、そもそも「長調」とか「短調」とか知らなければ、そのどっちでもない和音が「いったいどっちなんだろう……」という不安を与えることは考えにくい。ので、これはおそらく、心地よい響き……というか、なんか、神を想像させるような響きとして聴こえたんでしょうか……私のイメージでは、ゴシック彫刻なんかの、あの、ちょっと非人間的な感じとよく似ているような……

そうしてみると、3度を卓越させて「長調」(喜び)と「短調」(哀しみ)を形成していくヨーロッパの音律の進化過程は、なんか「人間的なものを求めて」という感じも受けます……で、ここで思い出すのが、わが国における能と狂言の展開なんですが……14世紀室町時代に成立した能と狂言は、まさにヨーロッパで3度が重視されて長調と短調が形成されてきた過程とパラレルに感じます。というと、かなりヒヤクしてるなあ……と思われる方も多いと思いますが……実は私も、書いててヒヤクだなあ……と思うんですが、でも、世界を、2つの範疇で理解していくという試みとしては、やっぱりすごく共通点を感じます。なにか、ここで、洋の東西共通して、「世界を人の側に取っていく」……みたいな動きが出てきたような……

それはともかく、現代のわれわれの耳が、ルネサンス期のヨーロッパで形成されてきた「長調」、「短調」の範疇からなお形成されているというのも、やっぱり驚きですね。ロックみたいな「新しい」音楽でも、「パワーコード」といって、空虚5度を効果的に使う方法があるらしい……今はもう、世界中にラジオやテレビやインターネットがあふれて、「ヨーロッパ基準の音楽」が世界標準になりつつあるので、世界中の人々の耳が「ヨーロッパ耳」になりつつあるんでしょう。おそらく、「ヨーロッパ耳」に関係ない耳の持ち主をさがすことは困難……で、この困難は、年々増大しつつある……昔の日本人の耳って、どんなだったんか……まだ、今ならそういう人もおられるのかもしれませんが、あと少しで絶滅……

耳の絶滅は、あんまり表立って現われないので、すごくわかりにくくて、知らない間に、世界の各地で「オリジナル耳」が消えてなくなっていく……これは、考えようによっては爆弾とかよりコワい話なのかもしれません。なんせ、無くなっていくということさえよくわからないうちに消えていってしまうのだから……「普遍」というものは、「例外」がなくなったときに完成するものなのかもしれませんが……すると、音律というか「オリジナル耳」にかんする限りは、「普遍」は一歩一歩、実現しつつあるのかもしれません。で、それが完成したときには、もはや完成したことさえわからない。なぜなら、「対立物」が完全消滅しているから……オソロシイ……

しかし……「普遍」の完全な完成をはばむもの……それもまた、世界と人のかかわりの中にある……オクターブの中に5度を取り、それを12回くりかえすと、元のオクターブをわずかにズレてしまう……ピタゴラス・コンマ。約4分の1音のズレは、耳で聴いてもはっきりわかるくらいです。このズレが、「完全な調律」つまり「普遍」をはばむ。これは、なぜ一年がきっちり360日になってないのか……これと似た問題だというとあきれられるかもしれませんが……一年が360日であれば、地球は太陽のまわりを一日できっちり1度動きます。1月はきっちり30日になり、1日は完全に24時間になる。これが、神の造られた「完全な姿」か……ここに、「普遍」は、それ以外にない完全さで実現される。

要するに、「普遍」というものは、やっぱりイデアの世界なのかもしれません。イデアの世界では、オクターブの中に12回くりかえして5度を取れば、それはきちんと元の音に戻るのでしょう。世界の響きのすべては簡潔な倍音で構成され、濁りや雑味、唸りのような「不快な存在」は現われなくなる。これが、ヨーロッパの求めた「究極の普遍の姿」なのか……しかし、それはまた、「完全な死」でもある。なぜなら、もうそこには「規格外」のものはなにも発生しないから。確率論が成立しなくなり、物体の位置と速度は両方とも完全に決定される。過去も未来も完全に連鎖して、ものごとはシュミレーションと完全に一致して発生する。そこには、ホントの意味での「進歩」というものがもはや存在しない「死の天国」……

パースの語る、世界の最終の姿なのかもしれません。今の世界は、雑味と不確定だらけで、人々は不安にさいなまれて生き、そして死んでいかなければならない。病気も苦労もなく、ただ幸いのみがある世界……「普遍」の彼方にはそういうものがあるのかもしれませんが、それは、もしかしたら今の不安だらけの世界とは段違いにオソロシイ世界かもしれない……しかし、人の「普遍」を希求する心がなくなることはないでしょう。たしかに「普遍」は、目先の生活を多少は良くしてくれるものかもしれない。しかし、それは、この世界にある「普遍」である以上、みせかけであって、どこかでその「代償」が払われている。それは……あのオソロシイ「核の事故」になって……いや、さらにさらにオソロシイ姿となって……

これはもう、一種の「感覚」の問題だと思う。「ボクは絶対音感があるから耳が聴こえなくても作曲できる」と言った方がおられましたが、こういう「神話」にコロリと騙されて「すごいなあ……」と思ってしまう……その心の中には、やはり「普遍」にはイチコロで参ってしまう、なんというか素朴すぎる心情があるんだと思います。絶対音感持ちは、なんか「普遍」の体現者、つまり「神」のように見えてしまうかもしれないけれど、そこには、必ずなにか、どっかの部分で大きく失われてしまっているものがあるはずです。ということは、つまりは、一種の「バランス感覚」なんだろうか……この世界において、「普遍」に見えるものが実は内包している、裏腹のうさんくささ……そこに、われわれは気がつかず……

結局、人の歴史って、こういうことの繰り返しなのかもしれません。より大なる「普遍」は、より大なる「代償」を伴う。一見「進歩」に見えても、裏側で大きく崩れているところがあって、結局はプラマイゼロ。うーん……そうすると、つまり、「進歩」はないってことなのかな。進歩幻想。これは、ホントにそうなのかもしれません。あるいは、ホントの進歩は、この目に見えてる世界じゃなくて、なんか、この世界にピッタリ貼り付いている「もう一つの場所」で行われているのかも……私は、どっちかというとそんな感覚を持ってるんですが……「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。」これはイエスの言葉ですが、もしかしたらこのことを言ってたのかもしれません。

人類の「普遍」を求める旅……それは、いつまで、どこまで続くのだろう……もう、21世紀も4分の1を過ぎてしまいましたが……

能を見る・天鼓

天鼓

 

豊田市能楽堂にて、能『天鼓』をみる。古代中国のお話です。作者は、一時期世阿弥とされていたようですが、今では作者不詳ということになっているらしい。まあ、ここでは、世阿弥(仮)としておきましょう。

天鼓(てんこ)は人名。こどもながら鼓の名手……というか、鼓そのもののような子。天鼓が生まれる前、母の王母は、天から鼓が降り下って胎内に宿る夢を見る。そして天鼓が生まれるわけだけれど、その後、実際に天から鼓が降りてくる。天鼓は、その鼓を打つ。たえなる音色は、この世のものとも思われず……その噂は、やがて帝の耳に入る。

ここからが、帝の横暴。権力の絶頂にある帝は、ぜひともそのふしぎな鼓を手に入れたいと思って兵を送る。それを知った天鼓は、鼓を持って山に逃げるが、捕まってしまう。天鼓は反逆の罪で呂水に沈められ、鼓は帝のものになる。帝は、国中の名手を集めてその鼓を打たせるが、鼓は鳴らない……そこで、帝は、勅使に命じて、天鼓の父、王伯を連れてこさせる。

舞台はここから始まる。勅使は、父の王伯の家に行き、帝がお召しだと伝える。王伯は、自分も殺されるのではないかとおびえつつ帝の前へ。そして、王伯は、命じられるままに天鼓の鼓を打つ。鼓はみごとに鳴り、その音は帝の心に響く。感動した帝は、王伯に褒美を与え、さらに、呂水のほとりにて、天鼓の霊をなぐさめる祀りを執り行うことにする。

ここで、前シテの王伯は退場。狂言方が口上を述べ、舞台は呂水のほとりとなる。帝が祀りを行うと、霊となった天鼓が現われ、喜びのままに鼓を打つ。天鼓は、帝に反逆した罪で地獄に落とされていたが、今、帝に祀りを行ってもらったことにより罪が赦され、昇天できる喜びを述べて消えていく……

私は、実際の舞台を見る前に、台本にあたる謡本を読んで、「こりゃ、理不尽だ……」と思った。悪いのは帝ではないか……権力にまかせて天鼓からだいじな鼓を取りあげようとする。天鼓が鼓を持って逃げ出すと、捕えて殺してしまう。で、鼓が鳴らないと父親まで召し出して打たせる。横暴だ……露骨な権力者……ヤだなあ……

ところが王伯は、自分の息子を殺されてるのに帝の権力にひたすらおびえるばかり。霊になった天鼓も、帝に祀ってもらってありがとうって喜んでる……これって、ないじゃないですか。なんで、被害者が加害者に対してこんな低姿勢なの? 恨んでやる呪ってやる……となって当たり前じゃないの? 帝に祀ってもらって昇天できるって……帝って、そんなに偉いの? みんな、どーかしてんじゃないの???

ところが……実際の舞台を見て、すべての疑問は氷解したのでした……これは、現世の権力に対する芸術の、美の勝利だ……しょせん、帝って、いくら絶対権力でも、それは「この世」のものでしかない。ところが、芸術の、美の力は、まったく次元が違っていて、そんなものカンケイなしにどこまでも輝く……

そうなんですね。実際の舞台を見ていると、すべては天鼓の舞、ただひたすら、舞うために舞う、その舞の力に、ぜんぶが圧倒されていく……もう、帝の権力も、なんもかもカンケイなしに、ただ天鼓の舞だけが舞台にあって、それがぜんぶになってしまう……これ、「実演」のチカラです。すごい……すべてがそこで、「舞」となって行われ、消えていく……

なるほどなあ……作者の世阿弥(仮)も、当時、いろんな現世の権力の中で微妙な立場に立たされ、煮え湯をのまされ……能楽師って、当時は所詮一介の芸人だから、絶大な権力の前では虫けら同然……なんだけれど、見よ、この自信。己の美だけは絶対にゆるがない。「舞」が舞いはじめたら、それはたちまち全宇宙の中心に位置する「美のブラックホール」となって、すべてをごうごうと呑みこんでしまう……

芸術家のフテキさ……というか、危なっかしさって、こういうところにあるんですね。「ソレ」が始まったら、もう終わり。なんせ、現世のものじゃないから、どんな権力も勝てない……これ、スゴイです。結局、台本は、やっぱり一種の安全装置というか、防御を何重にも掛けて書いてある。だから、台本だけ読むと権力者の勝ち。それも圧倒的な勝ちで、天鼓も父の王伯も、ひたすら権力者を怖れ敬い、はいつくばってるようにみえる。

ところが……勝負は、やっぱり「実際の舞台」なんですな、これが……ここでは、圧倒的な天鼓の勝ち。権力者の帝も、まったく次元の異なる「美」には無力……だいたい、帝役自身が舞台には出てこないわけで、舞台は、ワキの勅使と後シテの天鼓の間だけで進む。むろん前場は勅使と前シテの王伯。

そしてまた、今回すごかったのはお囃子。私は、笛の松田さんも鼓の林さんもはじめて聞いたんですが、いやなんとも……笛方の微妙な微分音がウニーンと伸びていってポン!カン!……まるで、全体が生き物のように律動し、うねり、心の奥に深くふかく裏打ち縫われて、知らぬ間に私は説得されてしまってるのです……オソロシイ……

ということで、能ってすごいなあ……舞台を見ると、いつもそう思います。台本(謡本)で読んでただけとはまったく違う。とくに今回は、台本は「帝の勝ち」ってはっきり書いてあるのに、舞台でみると天鼓の圧倒的勝利だ……帝なんて、もはやどこにもおらん! あんなもん、天鼓の「真実の美」をくっきりと際立たせるためだけのカゲだったんだ……

これ、つい錯覚しそうになるんですが、実際の現世、つまり、今、私が暮らしているこの世界においては、やっぱり現世の権力ってすごいなあ……と。秘密保護法とか原発とか……あんな怪物と、これから戦ってくのか……とゲッソリするわけですけれど、ちょっと待てよと。世阿弥(仮)の智恵があるじゃないか……と。残って証拠になる台本では、みごとに現世の権力にへつらい通したようにみせかけといて、実際に演じた瞬間には圧倒的に勝つ! すごい……

演技……というか、舞自体は瞬間的に消えてしまうもんなんですが、にもかかわらず、今に伝える演者の力によってみごとに甦ります。世阿弥(仮)の心が、数百年の時を超えて、今見る私に直に伝達されてしまうんですから……つくづく、能って、すごいなあ……これだから、見るのをやめられんなあ……

ということで、データ的なことも少々書いておきます。2013年12月8日、豊田市能楽堂にて。シテの王伯と天鼓は、喜多流の友枝昭世さん。ワキの勅使は宝生閑さん。ともに今、人気絶頂の役者さんです。アイの狂言語りは若手の井上松次郎さん。この方は、豊田市能楽堂でよく拝見します。独特の微分音を奏でた笛は松田弘之さん(狂言の茶子味梅のときからすごかった)。小鼓林吉兵衛さん、大鼓國川純さん、そして太鼓が前川光長さん。みなさん名手でした。

この能では、よくいわれることのようですが、「対比の美」がきわめて意識的に計算されてます。前シテの天鼓の父の王伯は地味の極地の老人の姿で現われる。そのいかにも弱々しく力のなさそうな趣に対して後シテの天鼓の若々しく溌剌とした美少年の姿……そして、帝の暗い現世の権力に対して天鼓の、すべてを圧倒する真実の美……さらには、高み(high)から降り下る鼓としての天鼓が、一旦は呂水の深み(deep)に沈められるが、また再び天(high)に還る……この3次元の対比が立体構造となって、ゆるぎない「世界の構造」を造る。

まことによく計算されてます。この舞台。これ、考えた人、世阿弥じゃないかもしれないけど、エライ。で、これを今に伝えた人、そして、今現在、私の目の前で、数百年の時をあっという間に無に返してしまう演者、お囃子、地謡の方々……すごい。この「能」というかたちが、この先いつまで残るのかはわかりませんが、やっぱり今、これを見られたということは、月並みな言葉ですが、「一期一会」というしかないでしょう……

以下蛇足。私が昔、デザインの仕事(グラフィック)を一所懸命にやっていた頃、デザイナーの中には、やっぱり「反権威」とか「反権力」みたいな風潮があって、自由を求めるといいますか、あえて南洋の鳥みたいな原色をちりばめたケバいスーツを着てみたり、大御所の岡本太郎さんのアートを茶化してみたり……そんな雰囲気がありました。でも、そういう「反」は表面だけで、いざクライアントの前に出ると、結局唯々諾々とつきしたがう……

この『天鼓』という作品を見てみると、ホントの「反骨」をやっぱり骨身にしみて感じさせられますね。うーん……ホントの「反骨」って、やっぱり命がけです。で、「反」の瞬間は、ホントにだいじなときまでとっておく。表面的には従順に見えても、心中「絶対の自信」があるから、そういうガマン、忍従もできてしまう。で、ここぞ!というときに、絶対権力をも無化してしまうほどのものすごい「美」を見せる。

これはやっぱり、真実、あるいはホントの美というものは、絶対になにものにも勝つ、輝く……そういう信念と実感があるからこそできるワザなんではないかと思います。現世の権力はやっぱりオソロシイけれど、でも、帝がなぜ鼓を求めるかといえば、そこには「唯一の宝」をわがものとしたいという欲望もあるかもしれないけれど、でも、それを超えて、帝の中にも「真実の美」に感応する心がちゃんとあるから。そして、その心は、帝といえどもフツーの庶民の持ってる「美に感動する心」となんら変わらない。(そこを考えると、強奪や殺戮という方法でしか美を求める心を表現できない帝はかえってあわれです)

この『天鼓』という能は、帝(権力者)の中にもちゃんとある「美をわかり、それを求める心」を知っているからこそ、こういうかたちに書かれたのだと思います。もし作者の中にそれを理解する心がなければ、この作品は「呪いの復讐劇」として書かれていてもふしぎはなかった……でも、それをやってしまうと、みずから「真実の美」を手放すことになる。そして、すべては「現世のこと」に堕落してしまう。

この作者の炯眼は、そこをきちんと見抜いていたことですね。そしてそれは、「世の力」というものに対する理解にもつながっていきます。真実の美は、いったんこの世界に降りるけれど……そして、表面的には、この世界の「力」に支配されてしまうように見えるけれど……しかし、実は、この世界の力は、「真実」には指一本、ふれることはできない。なぜなら、それは基本的に次元が違うものだから……「美」は、人の中にあるように見えるけれど、実は、それは、現世のどこにもない。

そして……「真実の美」が現われる瞬間がある。それは、皇帝の力もすべての現世の力も、一瞬にして全部を無にしてしまいます……この「真実の美」の前では、皇帝といえど普通の人間となんら変わらない。作者はそれを知っていて、そこにかけた。だからこそ、それ以外のところでは、唯々諾々と現世の力にしたがっているように見える。

私は、ここで、新約聖書のエピソードの一つを思い出しました。当時、ユダヤの地を武力で支配していたローマ帝国に税金を納めるのが正しいのか、納めないのが正しいのか……聴衆からそんな質問を受けたイエスの答。「貨幣の表に彫ってあるのはだれの顔か?」「カエサルの顔です」「では、カエサルのものはカエサルに。神のものは神に。」

イエスの王国は、武力が支配する現世の権力とはまったく別のところにあると諭した。

まさにここなんだと思います。これがわかれば、自分の小さな自由を強調するために、あえて南洋の鳥みたいなナサケナイ服を着なくてもいい。岡本太郎がビッグネームの政府御用達だからといって茶化したりけなしたりする必要もないわけで……これ、ホントにキモだと思うんですが……ここをやらないと、意味ないかな。