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オバマスピーチ@広島に思うこと_01/President Obama’s speech in Hiroshima_01

オバマさん_900
オバマさんのスピーチ、良かったですね。

まあ、立場により、いろんな感想があると思いますが、私はとても感激しました。
きいているうちに、映画『2001年宇宙の旅』のシーンが浮かんできた。
ご覧になった方しかわからない話ですが……猿人の投げた骨が、一瞬にして、宇宙空間に浮かぶ宇宙船になる、あのシーン……映画は魔法ですが、あれだけ映画の魔法性をみせつけるシーンは、これまでなかったし、これからもないのでは……

月みる人_900
オバマさんの演説の、最初の方の箇所。
『広島を際立たせているのは、戦争という事実ではない。過去の遺物は、暴力による争いが最初の人類とともに出現していたことをわれわれに教えてくれる。初期の人類は、火打ち石から刃物を作り、木からやりを作る方法を学び、これらの道具を、狩りだけでなく同じ人類に対しても使った。』

まさにこれ(最初の武器の獲得)が、『2001年宇宙の旅』のはじめの方に出てくる、あのシーン。月と太陽と地球が重なる壮大なオープニングのあと、なんか荒野みたいな情景になる。おそらくは人類誕生の地であるとされるアフリカの大地の光景……で、そこに、誕生まもない人類、猿人が登場する。

彼らはまだ火を知らない。身体を寄せ合って夜の寒さに耐える。
獲物を狩って食べる。しかし、すでにいろんな部族がいて、わずかな水飲み場をめぐる争いとなる。
当然、身体が大きく、力の強い部族が勝つ。小さく弱い部族は、水飲み場から追い立てられる。

この、弱小部族の中に、このシーンの主人公、ムーンウォッチャー(月見るもの)がいた。まあ、これは、映画ではわからないのですが、アーサー・クラークの小説の方では、こういう名前で出てきます。

彼は、部族のなかでは変わりもので、好奇心が強く、頭脳明晰。そしてある夜、彼らの前に、あの物体、モノリスが出現する。

はじめはおそるおそる遠巻きにしていた彼ら……しかし、少しずつ近づき、ついに、ムーンウォッチャーの指がモノリスに触れる!

でもまあ、なんにも起こりません。みかけ上は。ところが……ある日、ムーンウォッチャーは、行き倒れて死んだ大型の動物の骨を前にして、なんか首をかしげて、考えているようなポーズ……そして、おもむろに骨(大腿骨のよう)を手にとり、それで遊びはじめる。骨の端を手にもって、ふにゃふにゃ動かすと、偶然、他端が別の骨に当たり、砕く。

ここから、彼の快進撃がはじまります。つまり……骨を道具として、「撃つ道具」として使うことを覚えた。彼の身体は小さくても、デカイ骨を持つことにより、手のリーチは格段に伸び、しかもテコの原理で先端の破壊力は増す。肉体の制限を超える力……それを、彼はまさに手にする。

そうなるともう、彼は王者です。水飲み場をめぐる争い……ふたたび、身体の大きな部族と対決になるが、彼は、手にした骨をふるって相手を一撃。撃たれた相手はバッタリ倒れて動かない。

威嚇するムーンウォッチャー。身体のでかい部族は、不利とみて、倒れた仲間を捨てて逃げ出す。ヒトはついに「武器」を手にいれた。

次のシーン。ムーンウォッチャーは、手にした骨でガンガン、地面に横たわる動物の白骨を叩きまくる。バラバラと砕ける骨のかけら……狂乱の様相を見せはじめるムーンウォッチャーの手から、骨が空に飛ぶ……くるくると回りながら上昇する骨のアップ。その上昇が上死点をむかえて下降に転ずる、その瞬間……

画面は突然星空となり、その中をゆく細長い宇宙船の姿……宇宙船は、星空に対して降下するような動きなんだけれど、その速度が、先の骨の降下速度にピッタリ合わせてあるので、見ている方は、まるで連続した「動き」を見せられているような印象……「動き」は連続するが、「動くもの」は骨から宇宙船に……

ここ、ホントにみごとです。猿人が武器を手にしてから数百万年。その「時」を一気にとびこして、人類の科学技術が宇宙航行を可能にした時代へ……「骨」が技術のはじまりとすれば、そこを一気に「最先端」へとつなげてしまう……

しかも、その説得力が、なんと「投げあげられた物体の動き」のなかにある。上昇する骨が、上死点に達した瞬間に、次の下降運動を宇宙船に受けわたす……これはもう、映像でしか表現できない世界……キューブリックさん、おみごと!

キューブリック_900
そして……画面ではわからないのですが、あの、骨のような細長い宇宙船のなかには、「核」が搭載されている……そういう設定だったそうです。
ここで、もういちど、オバマ演説のあの箇所を掲げてみましょう。

『広島を際立たせているのは、戦争という事実ではない。過去の遺物は、暴力による争いが最初の人類とともに出現していたことをわれわれに教えてくれる。初期の人類は、火打ち石から刃物を作り、木からやりを作る方法を学び、これらの道具を、狩りだけでなく同じ人類に対しても使った。』

このくだりを聞いたとき、私は、オバマさん、『2001年』のあのシーンを見たんだなあ……と勝手に思ってしまいました。モノリスが人類に与えたのは、「智恵」ということなんでしょうが……人類は、その智恵を、自分たちの生存を有利にするために用いはじめ、それは、結局、あの水飲み場の争奪戦に見られるように、同じ仲間である人類自身に向けられる……

オバマさんのこの演説をめぐっては、謝っとらんとか、具体性に欠けるとかいろいろ批判もあるみたいですが、私は、彼は、もっと高いところ、あるいは、彼の言い方を借りると、「もっと内なる心」を見ていたんだと思う。そういう意味で、彼のこの演説は、すぐには理解されることはないかもしれませんが、今後、年月がたつにつれ、その真価が認識されて、歴史的な名演説だった……と、必ずそうなると思います。びっくりしました……

彼は、政治家というよりは、むしろ思想家、未来を見すえた、これからの人類の導き手のような存在なのかもしれない……そう思いました。よく理解している……なんて、私が偉そうにいうのもヘンですが、人類と科学、技術の本質と、その来歴、そして、未来にそれがどのようになっていくのか……克服しなければならないものはなんなのか……それは明瞭に語っていたと思います。

『現代の戦争はこうした真実をわれわれに伝える。広島はこの真実を伝える。人間社会の発展なき技術の進展はわれわれを破滅させる。原子核の分裂につながった科学的な革命は、倫理上の革命も求められることにつながる。』

まさにここですね。『倫理上の革命』……さらりと書いていますが、ここはかなり重い箇所だと私は思います。『原子核の分裂につながった科学的な革命』……これは、骨をふりあげて相手を威嚇し、ふりおろして打ち砕くムーン・ウォッチャーの心の中にすでに起こった。モノリスは、なぜか、彼の心の中に、『科学上の革命』に至る種子を植え付けたけれど、『倫理上の革命』への道は示さなかった。それは、モノリス(を送った存在)の意図的な試みなのか、それとも……

もしかしたら、人類は、ある意味、試されているのかもしれないな……と思います。『科学上の革命』。それは、外から与えることができる。人類の脳という複雑な機関が、長い年月をかけて「進化」することによって与えられるという解釈もできます(モノリス的な解釈を拒むのであれば)。しかし……『倫理上の革命』。それは、人類が、みずからの自由意志によって選びとり、獲得していくしかないものなのかもしれない。

オバマさんは、さかんに「選択」と「変化」ということを言われますが、それはおそらく、このことを言ってるんではないか……『倫理上の革命』というものは、他から与えられるのではまったく価値のないものであり、「みずから選び、みずから変革していく」ことによってしか自分の身につかないもの……おそらく、基本的にそういう考えがあるのでしょう。

かつて、キリスト教の宣教師が、「未開の地」に出かけていって、その地の「土人」たちにキリスト教の高邁な「倫理観」を植えつけようとした。しかし……そんなものは、おまえらこれ、いいんだから、覚えろ!なんていうやり方では、絶対不可能……というか、そうやって、自分たちの「価値」そのものを押し付けるやり方自体がアカン。落第であって、自分たちが、いかにその「高邁な倫理観」を欠如した存在であるかを証明してしまってるようなもの……

さすがに、モノリスを送ったものたちは、そこはすごかったわけです。科学技術……自然を改変して、自分たちの都合の良い世界をつくりあげる能力をまず付与した。しかし……それをどういうふうに使うか……というか、その力の本質的な意味、その力というのがいったいなんであるか……そこは、その力を使っていろんな体験をするうちに自分自身で考えな……と。

オバマさんの演説は、人類に、そこを考えるのが最重要ではないか……と呼びかけているもののように思えます。そういう意味で、この演説は、小さな政治的駆け引きとか、いろんな感情、どうしようもない人間的な次元のものは少し越えて、もっと大きな視野でものごとを見ていかないと、人類はここで終わるよ……と、そんな切実なメッセージを送っているように私には思えました。

今回のことは、オバマさんの任期と、偶然のような伊勢志摩サミット、それに、関係するたくさんの人たちの努力が突然に相乗効果をひきだして、ほんとに奇跡のように舞い降りた……そんなイメージがあります。71年前に広島の空に舞い降りたのは「死」そのものだったけれど、今、語られたのは、人類が、自分自身のことをもっと深く考えてみよう、というメッセージ……そして、それは、あの日、空から降りてきたような「死」の本質的な克服につながっていくものなのかもしれません。

オバマさんは、大統領を8年やってみて、これはホントに難しい……と実感したのかもしれない。言葉の端々に、その重量感が漂ってる(いささかの疲労感も)。しかし、彼は、結局本質は昔とまったく変わらなかったんだなあ……と思いました。いやあ、立派な方ですね。おまけにカッコいいし……

プラハ演説でカッコよく登場して、ヒロシマ演説でカッコよく去る……で、そのあとに登場するのが、あのトランプくんなんだろうか……ぶるぶる。

トランプくん_900

今日のjimon:空想科学人/science fictionist

空想科学人_04

昔からSF、空想科学小説が好きでした。これは親もそうで、私の父は、SFマガジンのかなり初期の号を毎月買って読んでた。で、私も読むようになりました。ちょうど小松左京さんの『果てしなき流れの果てに』とか、光瀬龍さんの『百億の昼と千億の夜』が連載されていた時代……映画でいうと、『2001年宇宙の旅』とか『猿の惑星』が登場する5年くらい前……

結局、「SF的発想」というものに甚大な影響を受けたんだと思います。スペキュレーション重視。アタマで考えて、どこまでもどこまでも行ってしまう。むろん実体はついていきませんが、それはあとでついてくるんでしょう……と。でも、私の場合、実体は結局ついてこず、妄想ばかりが膨らんで……

いや、浮かれ人生をSFのせいにするわけじゃないんですが、大きな影響を受けてしまったことはたしかです。SFというと「ああ、こども向けね」と思われたり、場合によってはSMとまちがわれたり(実際、昔は、どこの本屋さんでも『SFマガジン』と『SMマガジン』が並べておいてあって、ヒジョーに買いにくかった)……SF作家の方々も「市民権」を得るまでタイヘン苦労されたみたいですが……でも、今でも純文なんかに比べると「格下」扱いなんでしょうね。

SFが市民権を得たのは、映画の力も大きかったと思います。とくに、『2001年宇宙の旅』と『スター・ウォーズ』シリーズの影響は絶大でした。『2001年宇宙の旅』は、当時(1968公開)、とにかく「難解」で「なんかい見てもわからん!」と。監督のキューブリックさんご自身が、「この映画が一回見て理解されたら失敗だ」とおっしゃってたそうですが……

私は、都合9回くらい見たかな。当時はレンタルビデオ店なぞなく……というか、ビデオにさえなってなかったので、やってる劇場を見つけては見にいくという手間とお金のかかる方法で……でも、それだけの価値があったということです。この映画、今でも、初めて見る人はやっぱり「わからん!」と言うと思います。公開当時は、配給会社も困ったらしくて、「家族向け娯楽SF超大作」ということで宣伝した……で、ちっちゃなお子様を連れたお父さんお母さんがけっこう見にきたんですが、途中でギブアップ……

いや、逆に、生意気盛りの中学生なんかは、「家族向けかよ」とバカにして行かなかった。で、あとでウワサを聞いて大後悔……しかし、もう日本のどこでもやってない。その人は、青年になって、インドの映画館でやっと見られたそうですが……ともかく、この時代にこんなもんがあってはイケナイ、というオーパーツみたいな映画でした。

で、次は『スター・ウォーズ』シリーズなんですが……でも、そこへ行く前に、やっぱりタルコフスキーの『惑星ソラリス』が入る。公開は1972年。この映画は、「芸術映画」扱いだったため、劇場ではかからず……私が見たのも、映画館ではなく、どっかのホールを借りた特別上映だった。

A・タルコフスキー

この作品、レムの『ソラリスの陽のもとに』が原作になってるんですが、あきらかに原作とは別物。ほぼ完全にタルコフスキーの作品になってる。私は、原作を読んだときに、ソラリスの海のふしぎな変容に魅せられていたので、タルコフスキーがこれをどんなふうに映像化するんだろう……と興味津々だったんですが……そこはぜんぜんダメ。で、なんか裏切られたような気分に……

でも、あとからじわじわと良くなってきたんですね。なんせ、バッハのコラール(BWV639)が効いてる。電子音楽ヴァージョンなんですが、バッハの本質はまったく損なわれていない。揺れる水草……首都高を回遊速度でめぐる未来の車……そしてソラリス・ステーション……タルコフスキーの基本テーマのひとつ、「水」もたっぷり出てきます。ところが、ふしぎなことに「水」はすべて地球の水……ソラリスの海は、彼の中では水ではないみたい……

もう一つ効いてるのが、ペーテル・ブリューゲルの『雪の中の狩人』の絵です。この絵は、ソラリス・ステーションの図書館の壁にかかってるんですが、カメラが絵の中をなめる。BWV639コラールを伴って……雪の中を、狩人たちが村に帰ってきます。獲物は少ない……眼下に広がる村の光景……凍った池でスケートをする人々……そして、カメラは葉の落ちた木々を上になめ、空へ飛んで、滑空する一羽の鳥をとらえる……

結局、「人間の生活」なんだと思った。SFは、スペキュレーションにのせて、われわれの心をどこまでも……宇宙のはてまで運んでいくけれど、最後に戻るのは「人間の生活」。人間は、人間を超えられるかもしれないけれど、「人間の生活」は超えられない。これは、もう、絶対的な法則として、ある。いくら飛翔の錯覚を持っても、「地の生活」は超えられないのだ……

こういうことがわかってきたのは、実はつい最近でした。『ソラリス』を見たときに感じた、あのブリューゲルの鳥の意味……鳥は、天高く飛ぶ。人の生活を、上から見下ろす……そこにあるのは、やっぱり「引いた視線」……バッハのコラールも、ブリューゲルの絵も、そしてタルコフスキーの映画も、みな、この「引く視線」を持っている。しかし、だからといって「生活」を超えることはできない……

それはなぜかというと、われわれの身体も、そして心も、みな「地のもの」からできているからではないかと思います。「あなたはチリからつくられたのだからチリに還る」という言葉がありましたが……「生活」は、その中で飛翔して、そして「チリに還る」……そのくりかえし……ソラリス・ステーションで、小さな金属の箱の中に育っていた緑の葉……それはそのまま、「地球の水」であり、「地の生活」……

最近見た『オブリビオン』という映画にも、やっぱりこの「小さな緑」が登場しました。この作品も、舞台は地球ですが、やはり「天空のステーション」みたいなところが出てくる。飛翔感に満ちた作品でしたが、やっぱりそのベースは「地の生活」……人は、絶対に「地」を超えられない。しかし、それでも「飛翔」を望む……

SFのスペキュレーションには、やっぱりそういう「自覚」みたいなものがあったと思います。というか、そういう「自覚」を持った作品が、私の中では印象深く残っている……SFマガジンに連載されていた小松左京の『果てしなき流れの果てに』もそうでした。奈良の古墳からはじまって、時空を無限に駆け抜けるが、最後はやっぱり「地」に戻る……

空想科学の流れが、これからどんなふうになっていくのかはわかりませんが、「地を超えることはできない」という骨格部分だけはやはり変わらないのだと思います。