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お茶目新聞_05:佐村河内氏、芥川賞受賞

御茶目新聞_05_935

御茶目新聞_05 
2014年(平成26年)4月29日(火曜日) 
日本御茶目新聞社 名古屋市中区本丸1の1 The Otyame Times
今日のモットー ★売上目標 1人1冊!
 
佐村河内氏、芥川賞受賞
  話題作『マモルとタカシ』で
   売れゆきに拍車 史上初一億部突破?へ

一時は「現代のベートーヴェン」ともてはやされ、クラシックのCDとしては驚異的な売上を記録した「作曲家」佐村河内守氏も、実は新垣隆氏というゴーストライターがいることが発覚、評価が急転して「サギ師」、「ペテン師」としてマスコミで袋叩きとなったが、その後、小説家に転身し、自身と新垣氏をモデルとした長編、『マモルとタカシ』を発表。これが再び世間の耳目を集めてベストセラーに。さらに、売上だけではなく、文学的内容も高く評価され、ついに芥川賞を受賞することとなった。これで、売上もさらに加速されることが予想され、版元によれば「史上初の一億部突破も夢ではない」とのこと。
ただし、今回もまた「ゴーストライターがいるのでは?」との憶測が発売当初からとびかっている。芥川賞受賞の事実からも明らかなように、構成、ストーリー、文体のいずれをとってもハイレベルで洗練され、しかも斬新。文芸評論家の間では、「これだけの文章を書けるのは○○氏、いや△△さん……」と、すでに数名の「ゴーストライター」の名があがっている。これに対し、当の佐村河内氏は、「いや、今回はホントにボクが書きました……というか、文章が天から降りてくる……私はそれを書き留めただけ……ウソいつわりはございません」と語っている。ゴーストライターさがしも含めて、これでまたマスコミも国民も、当分の間、彼にふりまわされることになりそうだ。

ABくんの談話(いいコンビなのかも……)
コレ、うまくいったらノーベル文学賞かもね。賞をとったら官邸に呼んでハグしたげるんだけど……

新垣隆氏の談話(おちついて音楽に専念させてほしい……)
今回は共犯じゃないョ。

写真キャプション

佐村河内氏の話題作
マモルとタカシ
御茶目出版社 刊
USO800円(税込)
(えっ! 横書き?!)

本のオビのコピー
★オビ・表のコピー
重層するウソの奥に輝く真! 御茶目出版社
★オビ・背のコピー
芥川賞!
★オビ・裏のコピー
一人は看板、一人は中身……このコンビで永久にうまくいくはずだったのに……弄び、弄ばれたのはだれか?日本のクラシック界の大激震を、今、キーマンが物語る。

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今までの御茶目新聞の記事の中では、いちばんありえるかな?という気がします。ゴーストライターさえうまく選べば実現できそう……でも、一億部はさすがにムリでしょう……それと、「話題性」だけでは売上は伸びても「芥川賞」はむずかしい。核心の部分に、やっぱり「真実」が光っていないと……今回の騒動を分析してみるといろいろなことがわかってきますが、そこは、うまく書けば、この国の「音楽」というものの受け取り方から、さらに「19世紀」の意味まで、深く考えさせられる作品になるかもしれません。

今回の事件で私がいちばん注目したのは、なぜ新垣さんが、佐村河内氏の指示どおりに18年間も「音楽」を書きつづけてきたのか……ということ。「お金のため」だけでは絶対に続きそうにないし……きけば、新垣さんは、日本の現代音楽の分野ではトップクラスに入る方だという……ははあ、息抜きだったのか……と思いましたが、最近の報道をいろいろ聞いていると、やっぱりそうだったみたいですね。これ、現代音楽というものの特質を如実に現わしてしまった事件ではなかろうか……そんなふうに思えてきます。

現代音楽家って、実は、スゴイらしいんですね。ウィキに、新垣さんの発言として、「あれくらいだったら現代音楽家はみな書ける」とありましたが、実際そうだと思います。私が以前にFMで聞いた話では、現代音楽家のだれそれさん(名前は忘却)は、ピアノの右手で10拍打つ間に左手で11拍打つような曲をつくって、しかも、現代のピアニストはそれを平気で弾いちゃうと……もう、過去の音楽家や演奏家をはるかに凌ぐ技量を、今の現代音楽家はみんな持ってる……

だから、バッハ風とかモーツァルト風とかベートーヴェン風とか注文をつけられてもなんなくこなしてしまう。しかも、それが楽しい……現代音楽家は、調性というものを失なって久しい現代音楽の世界で、日々、一歩でも前に進もうと努力しているから……調性のある音楽を書くということは、やっぱりホッとする喜び……武満さんも、バリバリの現代音楽に混じって調性のある豊かで美しい曲を残していますが……今の現代作曲家は、もうそういうこともやりにくい地点にいる……

要するに、調性感の豊かな作品で勝負するということは、もうかなりできにくい状況が生まれていて、そういう曲は書きたくても書けない……外側からの制限というよりは、むしろ自分の内部からの制限がキツいのでしょう……だから、名前を隠して調性感豊かな音楽をたっぷり書ける……この佐村河内さんの提案は、新垣さんにとっては、とても楽しい息抜きの機会だったことは想像にかたくない……ということで、この「まずい関係」がずるずると18年も続いてしまった……

新垣さんが、会見で、「ボクも共犯者」と語った部分が、私にはいちばん印象に残りました。もし、彼が、佐村河内氏のために書いた自分の作品を「勝負作」と捉えていたら、絶対にこんな発言は出てこなかったでしょう。というか、「著作権を主張する」ということになったかも。しかし、あの作品は、彼自身も、密かに「調性のある音楽」を楽しむ場だった……やっぱり、「音楽そのもの」に対してうしろめたい気持ちはずっと持っておられたのではないか……

「共犯者」という発言は、そういう事情を如実に語っているものではないかと思います。彼が佐村河内氏に書いて渡した作品は、彼にとっては息抜きの、いわば「勝負の間のおアソビ」みたいなイメージだったのに、そういう作品が世間で話題になり、どんどん広がっていく……最初の頃は、たしかに、「世間に受けいれられる喜び」は大きかったんでしょう。しかし、度を越したフィーバーみたいになっていくと、これはさすがにまずいのではないかと……

要するに、ポイントは、「もう終わってしまった曲」を世間に出して、それに世間の人が「名曲だ!」という評価を与えてしまったこと……ここが、彼としてはいちばん気になったし、「罪をおかしている」という気持ちにさせられたところではないかと思います。そして、その罪は、世の人に対して……というよりも、実は、音楽そのものに対する罪……もう終わってしまった音楽を、今発表して、それが世に受け入れられる……これは、「音楽」で世を欺くことにほかならない……

つまり、彼は、やっぱり、「根っからの現代音楽家」なんだと思います。現代音楽に課せられた課題を認識し、その課題を、志を同じくする人々となんとかして、少しずつ砕き、積み上げ、少しでも「音楽」の世界を先に進ませたい……それが、彼の中核の希望であって、私は、それはとても純粋なものだと思う。世間に受け入れられ、世の人を楽しませたり感動させたり……むろん、それも大切だけれど、それは、本当の「今の音楽」によってなされなければ意味がない……

もうとっくに終わってしまった「過去の音楽」の集積によってそれがなされたとしても、それは「音楽」に対する裏切り行為でしかない……はじめは、密かな自分の楽しみとして、ちょっと脱線してもまあ許されるだろう……と思ってはじめたことが、佐村河内氏というキャラクターによってどんどん拡大され、自分は、音楽で音楽を裏切る行為をやってしまって、それがますますひどくなる……これは、純粋な気持ちの現代音楽家には到底耐えられないことだ……

ことの次第は、ほぼこういうことだったのではないか……だから、彼が「共犯者」というとき、その「罪」は、自分がいちばん大事にしなければならない「音楽の道」を汚した罪……そこには、やっぱり「音楽」の持つ現代性といいますか、最先端を行く人の「音楽」と、今の一般の人の楽しむ「音楽」の大きな乖離が現われているように思われる。そして、それは、もう少し大きく……西洋の「19世紀」というものの持つ意味と、さらに「普遍」の問題が、やっぱり絡んでくるように思われます。

したがって、この騒動は、より広い観点から見た場合、単なる「偽作事件」ではすまない、大きな現代的問題を孕んでいると見た方がいいように思います。と同時に、「イメージと本質」というさらに普遍的な問題にもつながっていく。ヨーロッパ中世にさかんだった「普遍論争」のことも思いおこされます。「普遍」が佐村河内氏という一人の人物によって「個」として「存在」してしまった……イメージは実体なのか、無なのか……はたまた、実体の方が無なんだろうか……

今はまだ話題としてホットですが……しばらくすると、こういうようなもう少し大きな観点からこの事件を分析する人がきっと出てくると思います。どんな論が出てくるのか……ちょっと楽しみです。

*本のイラストで、左開きの表紙にしてしまった……「えっ! 横書き?!」というコピーをつけてごまかしましたが、これはまことに恥ずかしいマチガイでした……

今日のessay :普遍を求めて・その3/About Universality – 03

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八木雄二さんの『中世哲学への招待』(平凡社新書)。これは、小さい本ですが、まことにおもしろかった。これまでいろいろ疑問に思っていたことの答がきわめて簡潔に、適確に書かれていて……200ページちょっとですが、なんか、けっこうぶ厚い本を一冊読んだ感じ……こんな感覚を味わったのは、ほんと、久しぶりだなあ……この本は、ヨーロッパ中世の哲学者(神学者というべき?)ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスについて書かれた本なんですが、ヨーロッパ中世哲学の概観にもなり、さらに、なぜ、日本人である著者が、中世スコラ哲学という、一見かなりかけ離れた分野の探求に至ったかという必然性も書かれていて、これ、現代日本のいろんな問題にも直結する、けっこう「今の日本と日本人」にもだいじな本かな……と感じました。

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス……この名前、ヨーロッパの哲学者の中でもかなりマイナーな……でも、実は、けっこう重要な位置にいた人みたいです。私は、以前から、クィディタス(Quidditas:通性原理)とハエッケイタス(Haecceitas:個性原理)というものに興味を持っていて、個展のタイトルとしても使わせてもらったりしたんですが……この、なにやら舌を噛みそうな言葉、いや、概念について、画期的な考え方をもたらしたのが、このヨハネスさん……うーん、なるほど……これは、もう、今はやりの?「精神世界」にも通じる……というと、「じゃあ、うさんくさいんのでは?」と思われる方もみえるかもしれませんが、ふんわりやわらかムードの「考えることより感じることが大切」じゃなくて、もうガチガチのハードな論理展開……なんだけれど、柔軟性と新鮮さをいつも失わない。スゴイ人が、700年も前にいたのだ……

「普遍」は「個」を規定する……これがフツーの考え方だと思うのですが、それでは、この世界はできない。「個性原理」すなわち、「個」を「個」たらしめることは、通常の「普遍」−「個」の対応関係の中からはけっして出てこないのではないか……私は、そんなふうに受けとりました。「個」は「個」であるからこそ、「個」たりえるんだと。これは、もしかしたらかなり斬新な考え方なのかもしれません。「自由意志」の問題とも深い関係がある……八木先生の本からちょっと引用させてもらいますと……『ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスは、個別化の原理を、質料ではなく、形相の側にあると考えられた実在性(「形相性」folmalitasという)に求めた。言い方を替えれば、現実態の側に置いた。つまり、受容的可能性の側でなく、「これ」として事物を積極的に規定する構成要素を、個別化の原理として主張したのである。』

だいじなところなので、もう少し引用を続けます。『しいていえば、ヨハネスは個物の個別性にきわめて強い意義をもたらした、ということが言える。個別性の起源をトマスのように質料に置いて考えると、個物が「一つ一つのかたちで在る」ことには大した意義はないと考えられた。すなわち、ものがる時間ある場所にどれだけあるかが当時はまったく偶然的であると見られたように、どのなかの一個の事物も、偶然的な一個でしかなく、重要なのはそれがいったい「何であるか」、すなわちどのような種に属する個体かだ、と考えられた。』『これに対して個別性の起源を形相(現実態)の側に置くと、それが「何であるか」ということも重要であるが、さらにそれよりも、「一つ一つのかたちで在る」ことが、いっそう意義があると見なされることになる。どういう意義かと言えば、一個一個が神の創造の対象となる、あるいは、神の愛の対象となる、という意義である。』

これは、もしかしたら、今でも「革命的」なものの見方かもしれない……私がうまく理解できているかはわからないのですが……たとえば、先に書いてきた音律の問題なんかにこれを当てはめると……今、目の前にある楽器、ピアノでもギターでもいいんですが、それをポローンと鳴らした場合、そこに出現するのは「個」としての音です。で、この「個音」が、たとえば平均律であるとか純正律であるとか……なんらかの一連の音程の中のある音がたまたま鳴らされたと考えるのか……それとも、今、ここに、この「音」が鳴った……そこに、音律とか関係なく一つの「意味」を認めるのか……そういう違いになると思う。言葉で書くと、なんだかわかりにくいんですが(どっちでもいいようにも思えますが)、これ、音楽を演奏する人にとっては、けっこう重大な問題だと思う。というのは、音楽をやる場合、人は、「音律の中のある音を奏でる」というふうには、ふつう考えないと思うから。今、ここに鳴った音は、やっぱりそれだけで、だいじな「意味」を持っている……

ここらへん、「普遍」と「個」において、人が陥りがちなある「考えのワナ」をみごとに指摘してると思うんですよね。音楽を奏でたり聴いたりするとき、人は、フツーは音律のことなど考えず、そこに奏でられる「音楽」に意味を見いだす。ところが、「普遍」と絡めて考えはじめると、そこには「音律」や「和声」の問題が出てきて、現実に鳴ってる音楽が、あたかも、そういう「普遍的な」ものから出てくるように錯覚する。だけど、実際には、そこにある「音楽」がすべて……というか、そこにあるもの以上の「意味」を考えはじめると、人は、かえって、そこにそのままあるものの「存在」を見失ってしまう……これは、絵の方でも同じで、人は、構図や配色や遠近法によって絵を描くのではなく、そこに、そのように存在するように描いていくわけで……これは、人間のアタマの中に生まれてしまう錯覚を鋭く突いた明察……この論が行われていたのが、なんと13世紀……中世って、暗黒でもなんでもなかったんですね。いまでもみずみずしい……

インターネットで音律のことをいろいろ検索してみると、もう山のようにいろんな情報が出てくるのですが……音律と、実際に奏でられる音楽の関係をきちんと押えたものは意外に少ない。すなわち「個」としての音楽の出現の方を重視したものが少なく、多くの論が、音律の複雑な分析に足を取られている……そういう風に感じます。その中で、じゃあ、実際に、オーケストラやバンドで演奏される曲が、なぜ違和感なく響くのか……ということを論じていたサイトがありました。要するに、音楽は、音律で鳴ってるのではなくて、実際には、コレコレという人が、歌ったり、なんか特定の楽器を吹いたり弾いたりして、その「音楽」が鳴る……人の歌声も楽器の音も、単純なサインカーブでできてるんではなく、複雑な倍音を含んでいるし、声も楽器も、演奏の仕方によっては、音程の上げ下げとか微妙にできる。それができないピアノみたいな楽器でも、音量やタッチや声部の入りをちょっとずらすとか……要するに、実際の演奏は実際の演奏なんだと。

つまり……理論的には、平均律だとどの和音も狂ってるとか純正調だと音程がバラバラとか……そういう「欠陥」を、機械がやればそのまま演奏するのかもしれないけれど(しかも、それでも「現実に出現した音」ではあるが)、人が演奏するのは「その曲」なので、パフォーマンスでいろんな欠陥を吸収しつつ、ちゃんとその「曲」を演奏するのだと……そして、もしかしたら、このことは、ヨハネスさんに言わせると、人の「意志」にかかわってるのかもしれないです。自由意志……それは、「自由」であるがゆえに「自由意志」なんだと。これは、今では当たり前みたいに思われることかもしれませんが、時代は13世紀……よくこんな、斬新な考え方ができたもんだなあ……でも、音楽でいっても、12世紀ころから、「ソレ以外に歌い方がなかった」教会音楽を、ポリフォニーにしてさまざまに展開するワザがはじまってますし……「12世紀ルネサンス」といいますが、この時代、なかなか、いろいろ新しいことが生まれてきてたんですね……

「ボクは、絶対音感があるから、耳が聴こえなくても作曲できる。」シツコクこの言葉に戻りますと……この言葉は、まさに「絶対音感」という「平均律に裏打ちされた普遍」をタテにして、その「下」に「個としての音楽」をぶら下げて「どーだ!スゲエだろう」という欺瞞……で、現代の日本の人々は、これにコロコロッとごまかされて「スゲエ!」……ヨハネスさんが、もう700年も前に打ち砕いた「錯覚」でだます方もだます方だが、だまされる方も……やっぱり、ことに音楽の世界では、「絶対音感」なるオーラは、まさに「絶対」。このオーラがかぶってれば、いかなる曲も超名曲に……ということは、聴く方は、「曲」を聴いてなくて、アタマの中のオーラ、つまり「普遍」を聴いてる……まあ、日本における「クラシック」の受容なんて、そんなもんかもしれません。やっぱり「19世紀ヨーロッパオーラ」ってすごいなあ……ホントに作曲した方にすれば、一種の「アソビ」というか「息抜き」だったかもしれませんが、それが「芸術」に……

この事件は、日本において、いかに「日本耳」が淘汰されつくし、絶滅の一歩手前にあるか……そのことを、よく示していると思います。で、この「絶滅」が、音楽の価値そのものによってなされた(つつある)んじゃなくて、そのまわりのさまざまなニセオーラ……まあ、19世紀ヨーロッパに対する根拠のない?あこがれやなんやかや……から醸成されてきたものであるのもまことにナサケナイんですが、人間の文化なんて、いつでもそんなモンかもしれません。ヨハネスさんの頃も今も、そういった事情はあんまり変わりないのでは……だから、ヨハネスさんの言葉が新鮮に響く……八木先生によりますと、ヨハネスさんの故郷のヨーロッパでも事情はよく似ているみたいで、ヨハネスさんの本格的な研究もようやく始まったばかりだそうです。まあ、「中世」に「暗黒」のレッテルをはって処理しちゃったのが、実は、今になって、現代のわれわれの直面しているさまざまな問題の根っこがそこにあったんではないかと……「中世=暗黒」を直輸入しちゃった日本はもっとヒサン……

ということで、「普遍」をめぐるお話もとりあえずひとくぎりなんですが……最後に、フランク・ハーバートの大河SF『デューン』のことを……この作品、読まれた方も多いと思うのですが、最初の方で主人公になってるポウル・アトレイデ・ムアッディブ……彼は、「クイサッツ・ハデラッハ」という特別の存在でした。……いや、最初からそうじゃなくて、物語の中でそういうタイヘンな方になるんですが……これがなんと、「個でありながら普遍である」というモノスゴイ存在……うーん、どうしても、ヨハネスさんの「クィディタス・ハエッケイタス」を思い出してしまいます。「クイサッツ・ハデラッハ」は、原語では Kwisatz Haderach と書くようです。Quidditas Haecceitas と関連があるのかどうか……それはわかりませんが、『デューン』は、全体として、ヨーロッパ中世とアラビアが出会ったみたいなイメージがあって、それが、ヨハネスさんが活躍していたころの中世ヨーロッパのふんいき……アラビア経由でギリシア哲学がもちこまれたときの状況にそっくり……

といっても、私は、中世ヨーロッパには行ったことがないし、まして『デューン』の惑星アラキスにも……ということで、まったくの妄想にすぎないのですが、世の中、ふしぎなことがいっぱいあります……つづきはまた改めて。