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グールドというピアニスト

地獄のゴールドベルク_900

グレン・グールドというピアニストについては、もういろんな人が書いているので、今さら私が書いてもはじまらないかもしれませんが……でも、やっぱり書きたい。ホントに「天才」というのは、たぶんこんな人のことを言うんでしょう……暗算少年とかパフォーマンス的にスゴイ人はいっぱいいるけど、人類の文化に、なんらかの「意味」のある足跡を残せないと、それは単なる「見せ物」になって、ホントの意味で「天才」というには値しないと思います。で、人類の文化に足跡を残す……って、なんだろうということなんですが、とりあえず、その人がおるとおらんでは、「人類の意味」自体が変わっちゃうんじゃないだろうか……と思えるくらいのスゴイ人……

このレベルのスゴさって、たとえば思想でいうならヘーゲルとかマルクスとかプラトンとか……ソレ級。絵描きで思い浮かぶのは、やっぱりピカソとかマルセル・デュシャンとか。音楽だとバッハ、ベートーヴェンはまずまちがいなくそう。で、グールドさんも、やっぱりソレクラスじゃないかと……演奏家であって、作曲家じゃないんですが(曲もつくっておられたみたいだけど)、とにかく、「対位法音楽」というものの真の姿を見せてくれた……でもそれだけじゃまだ「天才」とはいえないかも……ですが、もうちょっと構造的?な業績としては、やっぱり、「媒体を通して現象する音楽」というものに逆転的な価値を与えた人として、思想の分野で持つ影響も少なくないのでは……

彼以前は、レコードって、やっぱり補完的な位置付けだったと思うんですよね。実演がホンモノで、レコードは代用品。ホンモノを聴かないと音楽を聞いたことにならないんだけれど、そういう機会もなかなかないので、レコードを聞いてホンモノの演奏に心を馳せる……そういう感じだった。ところが、グールドさんの演奏には、「生演奏」というホンモノが、もともとない。スタジオレコーディングは聴衆を当然入れず、スタッフだけで行われるから、これは「演奏会での演奏」という意味でのホンモノではない。単に、レコードを作るための録音作業にすぎない?わけで……「ホントの演奏」は、レコードを買った人が、自宅のプレーヤーに針を落とす……そこではじまる?

コレ、それまでだれもが夢想だにしなかった革命的なできごとといっていい。要するに金科玉条のごときご本尊である「実演」がない。というか、レコードを買った一人一人が、いろんな装置で、いろんな部屋で、いろんなことをしながら聴く……その一回一回が「実演」なのだ……なんでこの人、ここまで割り切れたというか、進化できたんだろーと驚異的に思いますが、その演奏を聴いていると、なんとなく感じるところがある。それを書いてみますと……まるで、打ちこみみたいだ……これが、私の率直な感想です。とにかく「音」に対する正確さが比類ない。ここまで「音」をコントロールしきれた演奏家は、それまでだれもいなかった……

はっきり言って、グールドさんは、他のピアニストに比べて、テクニック的にはるかに擢んでている。これはもう、だれもが認める事実であろうと思うのですが……その「差」がフツーじゃなくて、何十倍、何百倍もあるような気がする。基本的に、彼くらいのテクニックに達しなければ「ピアニストでござい」と言って名乗るのは恥ずかしいんじゃないか(いいすぎですが)……まあ、現代のピアニストであれば、彼と同程度のテクニックを持つ人もおられると思いますが、彼の時代では、彼は、テクニック的に飛び抜けてました。まるで、3階建ての建物の横に500階の超高層ビルがそびえているように……その「音」に対するコントロールの正確さは、まるで「打ちこみ」のごとく……

試みに、今ネットで聴けるいろいろなピアノ音の打ちこみを聴いていると、ホント、グールドさんそっくりです。いろんなピアニストのいろんな演奏があって、それぞれ、高い評価を受けている人もいるけれど、テクニック的にはグールドさんにははるかに及ばない。「音楽性」という言葉もあるわけですが……私の聴いた範囲では、ホントに「音楽性」でまた別な高みに達した人って、リヒテルとケンプくらいではなかろうか……まあ、あんまり広範囲には聴いてませんので、こんなこというとお叱りを受けるかもしれませんが……最近の方でいえば、ピエール=ロラン・エマールさんくらいか……いや、読んで不愉快に思われる方がおられるといけないので、「比較」はこれくらいでやめておきます。

要するに、私がいいたいのは、グールドさんは、もともと、他のピアニストとは求めるところが全く違っていて、そこのところが充分に「思想的」といいますか、音楽というものに対して、マーケティングまで含んで、発生(個の著作)から受容(個が聴く)に至る全体のプロセスに反省的意識が充分に働いていて、それが、単に音楽のジャンルにとどまらず、人類の文化全体にかんしていろいろ考えさせられるなあと思うわけです。要するに、やっぱり「個」と「普遍」の問題で……たとえば、「生演奏」を聴きにホールに集う聴衆は、一人一人は「個」なんだけれど……そして、演奏する音楽家もやっぱり「個」なんだけれど、その間には、ふしぎな「普遍」が介在していて、よく見えなくなってます。

私が理想とする演奏形態は、たとえば友人にピアニストがいて、彼の家に夕食に招かれて、食後に、彼が、集った数人の人のために客間にあるピアノで数曲奏でてくれる……そんな感じが、ホントの「生演奏」ということではないか……介在するものがなにもなくて、演奏する個としての彼と、聴く個としての私が直接に演奏によって結ばれる……これに比べると、ホールでの演奏は、演奏する個と聴く個の間に、絶対に「欺瞞」が入ると思います。要するに……音楽には直接関係のないなんやかや……お金やネームバリューや、演奏をきちんと味わえるかしらん?という気持ちとか……演奏する側においてもやっぱりそうで、余分なもろもろ……そういうものがジャマして不透明になってる。

しかし、グールドさんの場合には、これは、グールドさんという「個」が、私という「個」のために直接演奏してくれてる……みたいな感じがあるわけで、このあたりも「打ちこみ」と似てます。まあ、CDもタダじゃないんだけれど、演奏会に比べればはるかに安いし、何度でも繰り返し聴くことができる。場所も、家でもクルマでも、歩きながらでも……私は、以前、阪神淡路大震災のとき、神戸に住む友人宅をたずねて、神戸の町を歩いたことがあるんですが、そのときに、グールドさんの『パルティータ』(むろんバッハの)をウォークマン(もどき)でずっと聴いていた。震災で悲惨な状態になった街の光景とあの演奏が、もう完全にくっついて忘れられない……

でも、でもですよ……他のどんな演奏家でも、CDで、いつでもどこでも聴けるじゃありませんか……というのだけれど、なんか、どっかが違う。やっぱり、グールドさん以外の演奏家は、演奏会が「ホント」でディスクは「代用」。そんなイメージが強い……私がここで思い出すのは、カール・リヒターの「地獄のゴールドベルク」。このタイトルは、私が勝手に付けてるだけなんですが、このディスク、まれにみる「ぶっこわれた」演奏……聴いてると、もう、どうしようか?と思っちゃうんですが……1979年にリヒターさんが来日して、東京の石橋メモリアルホールというところでゴルトベルクを弾いた、その録音なんですが……もう最初から、なんか危機感をはらんではじまって……

とにかくミスタッチの山……うわー、これがあの、厳格きわまるリヒターさんの演奏なの??とぎょぎょっとしながら聴いてると、そのうちに「楽譜にない」道をたどりはじめ……と思うと前に戻ってやりなおし……悪戦苦闘しているうちに、もう演奏自体が「玉砕」してすべては地獄の釜の中に投げ入れられて一巻の終わり……あとに残るは無惨な廃墟のみ、という、もう信じられない破滅的なリサイタルになったんですが……よくこの録音、ディスクとして出したなあ……しかし、なんか、いままでの端正の極地のリヒターさんのイメージががらがら崩れて、そこに現われ出たのは原始の森をさまようゲルマン人……うーん、ホントは、彼は、こんな人だったのか……

この演奏会は、聴きものだったでしょう。現実にあの場にいた人は、みんな肝をつぶして、どーなることかとハラハラしながらいつのまにかリヒターさんの鬼のような迫力に引き込まれていったに違いない……そうか……演奏会の真の姿って、これだったのか……で、ここに比べると、メディアの海にダイヴしたグールドさんの演奏は、やっぱり打ちこみだ……でも、なぜか、このリヒターさんの「地獄のゴールドベルク」と共通の「熱い魂」を感じます。あの、震災の街……それまでの人々の生活が根こそぎ破壊されたあの街をさまよう私に、それでもまだ、人の思いはちゃんと残っていて、また新しく、人の生きる場所をつくっていける……と静かに語りかけてくれたグールドさんの音……

いろいろ、考えさせられます。個と普遍の問題は、そんなにカンタンに割り切れるものではなくて、これは、そこに立ち会う人によって、その人にとって、その場、そこにしかないなにか大事なものをもたらしてくれる。グールドさんは、たくさんの「個」、そのときの個だけではなく、これから未来に現われる数えられないくらいの範囲の個に対して、きちんと自分の「個」としての音楽を届けたいと思った。そこに現われるのは、やっぱり「他の中に生きる」という基本姿勢だったのかもしれない……演奏会が「地獄のゴールドベルク」となって崩壊したリヒターさんの思いも、やっぱりそれは同じだったんでしょう……そうならざるをえない「介在物」の巨大さを、改めておもいしらされます……

*リヒターさんのディスクを改めて聴いてみましたが、最初のアリアから、ミスタッチではないもののヘンな音程の音が混ざってきます。これ、調律にモンダイがあったんではないだろうか……調律の狂ったチェンバロを弾くうちに、なんかやぶれかぶれの自暴自棄に……でも、調律なんか、事前になんども確認するはずだし、ヘンだなあ……と思って聴いているうちに、なぜかひきこまれてしまう……ものすごく興味深い演奏です。これ、やっぱりスゴイディスクだ……

今日のessay :普遍を求めて・その2/About Universality – 02

ゴシック期の音楽900C

「3度の卓越」ということでもう一つ連想するのは、ミーントーン(中全音律)という調律法のことです。これは、ルネサンス時代から登場する調律法だそうで、長3度を純正にするという点に特徴があるそうな。以前、小林道夫さんがバッハの『パルティータ』の全曲演奏をされるというので聴きにいったんですが、演奏後、質疑応答の時間が設けられたので、今日の調律法は?ときいてみました。するとお答は「ミーントーンです。」ミーントーンは、♯3個、あるいは♭2個の調までしか使えないとされている調律法なんですが……

バッハの『パルティータ』を構成する6曲の調をそれぞれ調べてみますと……第1番/変ロ長調(♭2個)、第2番/ハ短調(♭3個)、第3番/イ短調(♯♭なし)、第4番/二長調(♯2個)、第5番/ト長調(♯1個)、第6番/ホ短調(♯1個)となっていて、第2番以外はこの基準に当てはまります……ということは、ここからいうと、バッハは、このミーントーンを念頭にこの組曲を書いたんでしょうか……それはわかりませんが、バッハの時代にも、この調律法が広く用いられていたことは想像できます。純正長3度へのこだわり……

そのかわり、このミーントーンでは、5度が純正にならないそうです。本来、かなり重要なはずの5度の響きを犠牲にしても長3度を純正に響かせたい……そこには、一体どういうモチベーションがあったのだろうか……ピアノ調律師の岡本芳雄さんという方のサイトを見ると、次のような興味深いことが書いてありました。ちょっと引用させていただきますと……『ピタゴラス音律で生じる「唸りの多い長三度」の和音は、当時の人々には「不協和音と感じられたであろう」と言われています。一方、自然倍音に由来する純正長三度の和音は厳格などっしりした響きで、祈りを象徴する和音とも考えられます。』
http://pianotuning.jp/?page_id=691

なるほど……唸りのない長3度は「祈り」だったのか……ところが、いろいろ調べてみますと、純正長3度の和音は、イギリスから来たみたいなことが書いてあるサイトも多い。中世の教会音楽、まあグレゴリオ聖歌ですが、あれはやっぱりピタゴラス音律で、5度は純正になるけれど、3度は不協和音。これは、岡本さんの書いておられるとおり。ところが、ルネサンス時代に、イギリス発で、3度と6度を「協和音」とする考え方が大陸にも流れこみ、イタリア中心で大流行したといいます。先に、3度の重視は12世紀ノートルダム楽派から?と書きましたが、大陸にかんするかぎり、もう2世紀くらい遅かったようで。

それにしても、今回いろいろ調べて、私自身の耳が、もうすでに完全に学校の西洋音楽教育に侵されてしまっているのにあらためて驚いた。3度と6度が不協和音! これ、絶対に、今の人の耳じゃない……ドとミ、ドとラですが……ちゃんと、ここちよく響きます。でも、ヨーロッパの中世の人の耳には、これが不協和音で、悪魔の響きみたいにきこえたんですね。想像できないけど……まあ、その時代の音楽が、3度と6度が不快なうなりを生じるピタゴラス音律でできていたということもあるとは思うのですが……で、イギリス渡来のミーントーンで、とくに3度が純正に協和するようになって、新しい世界が開けた……

現代のわれわれからすると、中世の平行5度のオルガヌムなんかは、ちょっと不気味というといいすぎですが、「なにがあったんですか?」といいたくなるような壮絶気味の響きに聴こえるんですが……ピタゴラス音階の純正5度の和音は、ハ長調でいうとドの鍵盤とソの鍵盤を一緒に押したときに出る音なので、これだけではハ長調なのかハ短調なのかがわからない。つまり、長調なのか短調なのか、耳も脳も聞き分けることができないところから、得体の知れない不安感が漂う……ベートヴェンの第9交響曲の冒頭が、この「空虚5度」を使ってるので有名みたいですが、たしかに暗闇をさまよってるみたいな不安感があります。

空虚5度

しかし……これが、実は、ルネサンス以来の3度を卓越させた「ヨーロッパの音階」に馴れた耳のせいであるとは……「ヨーロッパ音楽教育」を受けていない人の耳には、われわれとは全然違うように聴こえるはず……むろん、ヨーロッパ中世の人も含めてですが、そもそも「長調」とか「短調」とか知らなければ、そのどっちでもない和音が「いったいどっちなんだろう……」という不安を与えることは考えにくい。ので、これはおそらく、心地よい響き……というか、なんか、神を想像させるような響きとして聴こえたんでしょうか……私のイメージでは、ゴシック彫刻なんかの、あの、ちょっと非人間的な感じとよく似ているような……

そうしてみると、3度を卓越させて「長調」(喜び)と「短調」(哀しみ)を形成していくヨーロッパの音律の進化過程は、なんか「人間的なものを求めて」という感じも受けます……で、ここで思い出すのが、わが国における能と狂言の展開なんですが……14世紀室町時代に成立した能と狂言は、まさにヨーロッパで3度が重視されて長調と短調が形成されてきた過程とパラレルに感じます。というと、かなりヒヤクしてるなあ……と思われる方も多いと思いますが……実は私も、書いててヒヤクだなあ……と思うんですが、でも、世界を、2つの範疇で理解していくという試みとしては、やっぱりすごく共通点を感じます。なにか、ここで、洋の東西共通して、「世界を人の側に取っていく」……みたいな動きが出てきたような……

それはともかく、現代のわれわれの耳が、ルネサンス期のヨーロッパで形成されてきた「長調」、「短調」の範疇からなお形成されているというのも、やっぱり驚きですね。ロックみたいな「新しい」音楽でも、「パワーコード」といって、空虚5度を効果的に使う方法があるらしい……今はもう、世界中にラジオやテレビやインターネットがあふれて、「ヨーロッパ基準の音楽」が世界標準になりつつあるので、世界中の人々の耳が「ヨーロッパ耳」になりつつあるんでしょう。おそらく、「ヨーロッパ耳」に関係ない耳の持ち主をさがすことは困難……で、この困難は、年々増大しつつある……昔の日本人の耳って、どんなだったんか……まだ、今ならそういう人もおられるのかもしれませんが、あと少しで絶滅……

耳の絶滅は、あんまり表立って現われないので、すごくわかりにくくて、知らない間に、世界の各地で「オリジナル耳」が消えてなくなっていく……これは、考えようによっては爆弾とかよりコワい話なのかもしれません。なんせ、無くなっていくということさえよくわからないうちに消えていってしまうのだから……「普遍」というものは、「例外」がなくなったときに完成するものなのかもしれませんが……すると、音律というか「オリジナル耳」にかんする限りは、「普遍」は一歩一歩、実現しつつあるのかもしれません。で、それが完成したときには、もはや完成したことさえわからない。なぜなら、「対立物」が完全消滅しているから……オソロシイ……

しかし……「普遍」の完全な完成をはばむもの……それもまた、世界と人のかかわりの中にある……オクターブの中に5度を取り、それを12回くりかえすと、元のオクターブをわずかにズレてしまう……ピタゴラス・コンマ。約4分の1音のズレは、耳で聴いてもはっきりわかるくらいです。このズレが、「完全な調律」つまり「普遍」をはばむ。これは、なぜ一年がきっちり360日になってないのか……これと似た問題だというとあきれられるかもしれませんが……一年が360日であれば、地球は太陽のまわりを一日できっちり1度動きます。1月はきっちり30日になり、1日は完全に24時間になる。これが、神の造られた「完全な姿」か……ここに、「普遍」は、それ以外にない完全さで実現される。

要するに、「普遍」というものは、やっぱりイデアの世界なのかもしれません。イデアの世界では、オクターブの中に12回くりかえして5度を取れば、それはきちんと元の音に戻るのでしょう。世界の響きのすべては簡潔な倍音で構成され、濁りや雑味、唸りのような「不快な存在」は現われなくなる。これが、ヨーロッパの求めた「究極の普遍の姿」なのか……しかし、それはまた、「完全な死」でもある。なぜなら、もうそこには「規格外」のものはなにも発生しないから。確率論が成立しなくなり、物体の位置と速度は両方とも完全に決定される。過去も未来も完全に連鎖して、ものごとはシュミレーションと完全に一致して発生する。そこには、ホントの意味での「進歩」というものがもはや存在しない「死の天国」……

パースの語る、世界の最終の姿なのかもしれません。今の世界は、雑味と不確定だらけで、人々は不安にさいなまれて生き、そして死んでいかなければならない。病気も苦労もなく、ただ幸いのみがある世界……「普遍」の彼方にはそういうものがあるのかもしれませんが、それは、もしかしたら今の不安だらけの世界とは段違いにオソロシイ世界かもしれない……しかし、人の「普遍」を希求する心がなくなることはないでしょう。たしかに「普遍」は、目先の生活を多少は良くしてくれるものかもしれない。しかし、それは、この世界にある「普遍」である以上、みせかけであって、どこかでその「代償」が払われている。それは……あのオソロシイ「核の事故」になって……いや、さらにさらにオソロシイ姿となって……

これはもう、一種の「感覚」の問題だと思う。「ボクは絶対音感があるから耳が聴こえなくても作曲できる」と言った方がおられましたが、こういう「神話」にコロリと騙されて「すごいなあ……」と思ってしまう……その心の中には、やはり「普遍」にはイチコロで参ってしまう、なんというか素朴すぎる心情があるんだと思います。絶対音感持ちは、なんか「普遍」の体現者、つまり「神」のように見えてしまうかもしれないけれど、そこには、必ずなにか、どっかの部分で大きく失われてしまっているものがあるはずです。ということは、つまりは、一種の「バランス感覚」なんだろうか……この世界において、「普遍」に見えるものが実は内包している、裏腹のうさんくささ……そこに、われわれは気がつかず……

結局、人の歴史って、こういうことの繰り返しなのかもしれません。より大なる「普遍」は、より大なる「代償」を伴う。一見「進歩」に見えても、裏側で大きく崩れているところがあって、結局はプラマイゼロ。うーん……そうすると、つまり、「進歩」はないってことなのかな。進歩幻想。これは、ホントにそうなのかもしれません。あるいは、ホントの進歩は、この目に見えてる世界じゃなくて、なんか、この世界にピッタリ貼り付いている「もう一つの場所」で行われているのかも……私は、どっちかというとそんな感覚を持ってるんですが……「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。」これはイエスの言葉ですが、もしかしたらこのことを言ってたのかもしれません。

人類の「普遍」を求める旅……それは、いつまで、どこまで続くのだろう……もう、21世紀も4分の1を過ぎてしまいましたが……