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個展も終盤になりました/My show will end this week.

アラクネンシス_凪_2016_04_19_900
一ヶ月の会期。長いなあと思ってはじめましたが、すぐに終わりです。短いなあ……

いろんな方に見ていただいて、うれしかったです。とくに、会場のカフェ・カノンの常連さんたち。とてもユニークな方々で、いろんな意見や感想が聞けて、よかったなあ。それと、作品とは関係なく、いろんな話が……

カノン店内_900
落語の師匠、アフリカ音楽の研究家、鍛冶屋さん、現代美術作家、写真家、街歩きの人……カノンには、ありとあらゆる分野でさまざまなことをやってる方々が集まります。古い歴史のある土地柄だけに、いろんな人が惹かれ、育つのでしょうか……おもしろい場所です。

うちからちょっと遠い(車で一時間半)ので、あんまり通えなかったのが残念ですが、いい体験でした。野外活動研究会のある方が、「間主観性」ということをよくおっしゃってたのを思い出しました。

これは、哲学者のフッサールの言葉のようですが、人間は、一人ではダメで、2人以上、いろんな人の主観の間に生まれてくるもの……ということでしょうか。個展は一人でやるから個展なんですが、考えてみると、見る人がいるから成立する。そういう意味では、「個」展ではないかも……

私の作品は、よく「アール・ブリュット」あるいは「ボーダーレスアート」の作品みたいだといわれます。しかし、描いているときは、やっぱり「見る人」を意識して描いてます。その意識があるかぎり、上記ジャンルの作品といわれる「権利」はないのかもしれません。

あるいは、よっぽど集中して描いてるんだね、ともいわれますが、まったく逆で、テレビを見ながら描いてることが多いです。この作品(アラクネンシス)の発端は、学生時代に、講義を聴きながらノートの片隅に描いていた落書き……

だれでも経験があると思いますが、長電話しながら、メモ帳になんかへんな図形をぐるぐる描いてる……アレです。アレを、意識的にやってみたらおもしろいんじゃなかろうか……と。

考えてみると、テレビも講義も長電話も、すべて「他者との関連」のうちに成立する事象です。してみると、このシリーズは、もともと「他者との関連」が無意識的にせよそのベースにあるのかな?

しかし、テレビがなくても講義や電話がなくても、コレは描けます。「他者」があって描いた線と、自分しかいなくて描いた線と、違うか?といわれると、そんなにちがいがないような気もする。まあ、そこは結局はっきりわからないのですが。

それに、たとえ「他者」がいない状態でも、できあがっていく線は、明確に「他者」です。私ではないもの……私の手が描くけれど、紙に現われた瞬間から、それは「他者」となる。ペンと紙の抵抗感……

それは、まさに、私という自分と、ペンや紙という「他者」……いや、ペンや紙だけじゃなく、その場の空気や音や感触や光と影……そういうものがすべて一種のオーラのようにないまぜになって「作品の胎盤」となる……

そういう意味では作品って、ふしぎです。これまで明確に「なかったもの」が、今、ここにある……これは、ピカソでもダヴィンチでも、私のような無名絵描きでもそう。赤ちゃんの絵でもチンパンジーの絵でも、そうです。そこは平等。

間主観性というのは、おそらく「場」の問題なのかもしれません。人の主観は「場」として、あるいは「ゲート」として働く。そして、そのはたらきは、かならず「他の主観」と混交しあうときに十全に機能する……ハイデガーは、現存在(人)は、そこにある存在(フォアハンデンザイン)ではなく、利用できる存在(ツーハンデンザイン)でもないといいますが、もしかしたらそれは、いつもぐるぐるとこうやって「作品」をつくりだしている、そのものなのかもしれません。

カノン_900
ということで、一ヶ月間、どうもありがとうございました。また、こうやってできたらいいなと思います。

シャガール展を見る(実は、ピカソの『青いショールの女』を見る)

シャガール展_500

ピカソの『青いショールの女』を、また見てしまいました。愛知県美術館でやっている『シャガール展』を見にいったんですが……肝心のシャガールは、日曜だったこともあってかなりの人だかりで、一気に見る気がしぼみ……そこで、シャガールはそこそこに、コレクション展(常設展)の方に……こちらはガラガラで、木村なんとかさんの小川芋銭のコレクションなんか、会場にだれもおらず……なんともったいない、芋銭の作品をこんなにたくさん見られる機会なのに……と思いましたが……にぎやかに入ってきた家族連れもくるくるっと回って二三分で外へ。まあ、こんなもんなのかな……

ということで、この常設展で、再び(というか何度目かな?)ピカソの『青いショールの女』に出会ってしまったのでした……この作品、常設展には必ず飾られているんですが、やっぱり他のすべての作品を圧するほどのオーラがある……最初に見たときの強烈なインパクトはさすがに失せてますが……そのかわり、じわじわと、すごいことがわかってきました……なるほど……この作品、ほかの作品とまったく違うと思っておったが、さもありなんじゃのう……(と、いつのまにか長老?みたいなしゃべり方になるくらい、すごい)……こう思ったのは、最近読んだある本の影響なのかも。

八木雄二さんという西欧中世哲学の研究者の『神を哲学した中世』という本なんですが、この本に、ヨーロッパ思想でいう「理性」の中には、「感情」も含まれるんだということが書いてある。なるほど……これは目からウロコでしたが……日本人の場合、「理性」というと、なにか、「感情」を排除した冷たい合理主義的な知性みたいなものを思い浮かべるんですが……ヨーロッパ思想では、「感情」さえも「理性」の中に取りこんでしまおうとするんですと。なので、当然日本人が思う、理性を欠いた、いわば盲目の状態の「感情」もあるのだけれど、かたや、「理性的な感情」もある……というか、「感情」さえも「理性」によって扱っていこうとするところに特徴がある……

うーん……なるほど……おっしゃろうとすることはとてもよくわかるんですが、私は日本人だし、頭では理解できるけれど、実際、「理性的な感情」ってどんなんだろう……と思ってましたら、このピカソ。『青いショールの女』……じーっと見ているうちに、やっぱりそうだったんだ……と思いました。この女性はきっと貧しい。しかも、その日の食べ物にもことかくくらい貧しいんでしょう……その人生も、いろいろ苦労ばっかりで報われることが少なく……ただ、なんとか日々を耐え忍んでいるうちに、もう四十、五十の盛りもすぎて肉体は衰え、心も冷え固まってどんどん「物質化」していく……人間としての、いや、生き物としての、最後の光が、じりじりと燃え尽きて、ものいわぬモノに、なりはてていく……

この女性の「感情」。それは、もうすでに、外側に向けて「爆発」するようなものでもない。もう「解放」のときも来ず、このまま、うちがわでくすぶり続けて徐々に冷え固まっていく……しかし、まだ、彼女は、自分を取り巻くまわりに対して「発信」を続けています。ピカソの筆は、その彼女の「冷えていくいのちのオーラ」をみごとにキャンバスにうつした……ちょっとオカルト的にいうなら、「封じこめた」といってもいい。しかし、ピカソの絵の力がオカルトと異なるのは、そこに、まごうかたなき「理性」の制御がきちんと働いている点……なるほど、こういうことだったのか……「理性的な感情?」なんじゃろ??と思っていたものが、今、目の前にある……この絵の中に、静かに、しかし確実に、それがある……

そうだったのか!……私は、ちょっと興奮しました。たしかに……これは、ヨーロッパ思想の「石を根気よく積んでいく働き」でしか到達しえないものなのかもしれません。ピカソの作品は、わがくにの画家にも大きな影響を与え、そのスタイルを模倣した作家は数限りない。しかし……このピカソの筆のように、「感情を理性で救いとる」ことのできた人が、いったいどれくらいいるんだろうか……私は、ここで、日本画の村上華岳のことを思う。彼は、ピカソのスタイルとはまったく違う。しかし……もしかしたら、日本で、ピカソとおんなじようなことをやっているんではなかろうか……華岳は日本人なので、「理性的な感情」とかにはもちろん縁はありません。しかし……でてくる絵が、とても似ている……

ピカソの場合には、頭の中で知識として、中世哲学の「理性的感情」みたいなものを知ってたかどうかはわかりませんが、やっぱり彼は「ヨーロッパの人」なので、そこに対する血肉段階での理解というものが、ベースにあるような気がします。とくに、彼の「青の時代」の作品群はそんなかんじですが……対象を描いて、対象に感情的に没することなく……そこにある感情、思い、さまざまにうごめくもの……それを、あの暗い青の中に浄化して、そしてやはり「理性」としか呼べないものの中にきちんとその位置を与え、「理性の言葉」で語らせようとする……この作業は、とても大変なものだったと思いますが、彼の、「これをやらなくては次に進めない」という気迫が、不可能を可能にして、「理性感情」がそこにある……

では、華岳の場合はどうだったのか……華岳の血肉ベースは、ヨーロッパの石の教会ではなく、日本の、木と紙でできた建物の中に渦巻く男と女のさまざまな感情……そこに流れる三味線の音……そして、それを取り巻く豊かすぎる自然……なんか、そんなものだったように思う。そこに流れるのは、ヨーロッパ的な「理性」とはまるで違うけれど、やはり、いろんな感情を理解し、そして、どんな感情も、あえていうなら「優しく」包みこんでいこうとするふしぎな流れのようなもの……これを、「観音力」といってもいいのかもしれませんが……この国でいう「観音力」は、あきらかに、人間だけではなく、さまざまな動物や植物、そして山河……自然全体を、大きく包摂して救いあげていこうとする、そんなものかもしれない……

ピカソの『青いショールの女』は、これからも、必ず常設展には出てくるのでしょう。これまで、なんども見たけれど、いまだに、これに「勝つ」作品がない。これは、ちょっと驚くべきことだと思います。たしかにモジリアニもクリムトもすごいんですが、「普遍性」という観点から見ると、やっぱりどっか偏っていて、ピカソの敵ではない。なぜ、ここまで「普遍性」を自分のものとすることができたのか……それはナゾですが、たしかに達成している。だから……感情が理性の翼を持って、全体を覆うオーラとなる……華岳の作品は、「普遍性」という点では、たしかに西欧風の「普遍性」にはほど遠いかもしれないけれど、西欧の「普遍性」が限界を画した部分、つまり「人間」の境界の外にあふれて、山河も宇宙も、すべてを豊かな「感情」の中に救いとっていこうとする、その力がある……

絵って、ふしぎだなあと思います。理性も普遍も、通常は「言葉」で語られるんですが……必ずしも「言葉」が、それを語る道具として唯一のものではない。それを教えてくれる……いろんな画家が、いろんなものを表現しようとして戦ってきたわけですが……絵が、一旦、ある限界を超えてしまうと、それは、数十センチの画布の中に留めておけない「宇宙」を展開します。物理的には、布の上に置かれた絵具の集合……なのに……これだから、絵を見るのはやめられないし、まして描くのはやめられません。私自身の作品が、どれだけそういうことに成功しているかはわかりませんが……それは、結局、私自身が、今、この時代に、ここに生きているということと大きくかかわってるんでしょうが……でも、やっぱりそれを超えて、なにかの場所、どこかの「家」に到達したいなあと思いますね。たとえ、そのときに、自分の肉体が、もうこの場所にいなくても……

グールドというピアニスト

地獄のゴールドベルク_900

グレン・グールドというピアニストについては、もういろんな人が書いているので、今さら私が書いてもはじまらないかもしれませんが……でも、やっぱり書きたい。ホントに「天才」というのは、たぶんこんな人のことを言うんでしょう……暗算少年とかパフォーマンス的にスゴイ人はいっぱいいるけど、人類の文化に、なんらかの「意味」のある足跡を残せないと、それは単なる「見せ物」になって、ホントの意味で「天才」というには値しないと思います。で、人類の文化に足跡を残す……って、なんだろうということなんですが、とりあえず、その人がおるとおらんでは、「人類の意味」自体が変わっちゃうんじゃないだろうか……と思えるくらいのスゴイ人……

このレベルのスゴさって、たとえば思想でいうならヘーゲルとかマルクスとかプラトンとか……ソレ級。絵描きで思い浮かぶのは、やっぱりピカソとかマルセル・デュシャンとか。音楽だとバッハ、ベートーヴェンはまずまちがいなくそう。で、グールドさんも、やっぱりソレクラスじゃないかと……演奏家であって、作曲家じゃないんですが(曲もつくっておられたみたいだけど)、とにかく、「対位法音楽」というものの真の姿を見せてくれた……でもそれだけじゃまだ「天才」とはいえないかも……ですが、もうちょっと構造的?な業績としては、やっぱり、「媒体を通して現象する音楽」というものに逆転的な価値を与えた人として、思想の分野で持つ影響も少なくないのでは……

彼以前は、レコードって、やっぱり補完的な位置付けだったと思うんですよね。実演がホンモノで、レコードは代用品。ホンモノを聴かないと音楽を聞いたことにならないんだけれど、そういう機会もなかなかないので、レコードを聞いてホンモノの演奏に心を馳せる……そういう感じだった。ところが、グールドさんの演奏には、「生演奏」というホンモノが、もともとない。スタジオレコーディングは聴衆を当然入れず、スタッフだけで行われるから、これは「演奏会での演奏」という意味でのホンモノではない。単に、レコードを作るための録音作業にすぎない?わけで……「ホントの演奏」は、レコードを買った人が、自宅のプレーヤーに針を落とす……そこではじまる?

コレ、それまでだれもが夢想だにしなかった革命的なできごとといっていい。要するに金科玉条のごときご本尊である「実演」がない。というか、レコードを買った一人一人が、いろんな装置で、いろんな部屋で、いろんなことをしながら聴く……その一回一回が「実演」なのだ……なんでこの人、ここまで割り切れたというか、進化できたんだろーと驚異的に思いますが、その演奏を聴いていると、なんとなく感じるところがある。それを書いてみますと……まるで、打ちこみみたいだ……これが、私の率直な感想です。とにかく「音」に対する正確さが比類ない。ここまで「音」をコントロールしきれた演奏家は、それまでだれもいなかった……

はっきり言って、グールドさんは、他のピアニストに比べて、テクニック的にはるかに擢んでている。これはもう、だれもが認める事実であろうと思うのですが……その「差」がフツーじゃなくて、何十倍、何百倍もあるような気がする。基本的に、彼くらいのテクニックに達しなければ「ピアニストでござい」と言って名乗るのは恥ずかしいんじゃないか(いいすぎですが)……まあ、現代のピアニストであれば、彼と同程度のテクニックを持つ人もおられると思いますが、彼の時代では、彼は、テクニック的に飛び抜けてました。まるで、3階建ての建物の横に500階の超高層ビルがそびえているように……その「音」に対するコントロールの正確さは、まるで「打ちこみ」のごとく……

試みに、今ネットで聴けるいろいろなピアノ音の打ちこみを聴いていると、ホント、グールドさんそっくりです。いろんなピアニストのいろんな演奏があって、それぞれ、高い評価を受けている人もいるけれど、テクニック的にはグールドさんにははるかに及ばない。「音楽性」という言葉もあるわけですが……私の聴いた範囲では、ホントに「音楽性」でまた別な高みに達した人って、リヒテルとケンプくらいではなかろうか……まあ、あんまり広範囲には聴いてませんので、こんなこというとお叱りを受けるかもしれませんが……最近の方でいえば、ピエール=ロラン・エマールさんくらいか……いや、読んで不愉快に思われる方がおられるといけないので、「比較」はこれくらいでやめておきます。

要するに、私がいいたいのは、グールドさんは、もともと、他のピアニストとは求めるところが全く違っていて、そこのところが充分に「思想的」といいますか、音楽というものに対して、マーケティングまで含んで、発生(個の著作)から受容(個が聴く)に至る全体のプロセスに反省的意識が充分に働いていて、それが、単に音楽のジャンルにとどまらず、人類の文化全体にかんしていろいろ考えさせられるなあと思うわけです。要するに、やっぱり「個」と「普遍」の問題で……たとえば、「生演奏」を聴きにホールに集う聴衆は、一人一人は「個」なんだけれど……そして、演奏する音楽家もやっぱり「個」なんだけれど、その間には、ふしぎな「普遍」が介在していて、よく見えなくなってます。

私が理想とする演奏形態は、たとえば友人にピアニストがいて、彼の家に夕食に招かれて、食後に、彼が、集った数人の人のために客間にあるピアノで数曲奏でてくれる……そんな感じが、ホントの「生演奏」ということではないか……介在するものがなにもなくて、演奏する個としての彼と、聴く個としての私が直接に演奏によって結ばれる……これに比べると、ホールでの演奏は、演奏する個と聴く個の間に、絶対に「欺瞞」が入ると思います。要するに……音楽には直接関係のないなんやかや……お金やネームバリューや、演奏をきちんと味わえるかしらん?という気持ちとか……演奏する側においてもやっぱりそうで、余分なもろもろ……そういうものがジャマして不透明になってる。

しかし、グールドさんの場合には、これは、グールドさんという「個」が、私という「個」のために直接演奏してくれてる……みたいな感じがあるわけで、このあたりも「打ちこみ」と似てます。まあ、CDもタダじゃないんだけれど、演奏会に比べればはるかに安いし、何度でも繰り返し聴くことができる。場所も、家でもクルマでも、歩きながらでも……私は、以前、阪神淡路大震災のとき、神戸に住む友人宅をたずねて、神戸の町を歩いたことがあるんですが、そのときに、グールドさんの『パルティータ』(むろんバッハの)をウォークマン(もどき)でずっと聴いていた。震災で悲惨な状態になった街の光景とあの演奏が、もう完全にくっついて忘れられない……

でも、でもですよ……他のどんな演奏家でも、CDで、いつでもどこでも聴けるじゃありませんか……というのだけれど、なんか、どっかが違う。やっぱり、グールドさん以外の演奏家は、演奏会が「ホント」でディスクは「代用」。そんなイメージが強い……私がここで思い出すのは、カール・リヒターの「地獄のゴールドベルク」。このタイトルは、私が勝手に付けてるだけなんですが、このディスク、まれにみる「ぶっこわれた」演奏……聴いてると、もう、どうしようか?と思っちゃうんですが……1979年にリヒターさんが来日して、東京の石橋メモリアルホールというところでゴルトベルクを弾いた、その録音なんですが……もう最初から、なんか危機感をはらんではじまって……

とにかくミスタッチの山……うわー、これがあの、厳格きわまるリヒターさんの演奏なの??とぎょぎょっとしながら聴いてると、そのうちに「楽譜にない」道をたどりはじめ……と思うと前に戻ってやりなおし……悪戦苦闘しているうちに、もう演奏自体が「玉砕」してすべては地獄の釜の中に投げ入れられて一巻の終わり……あとに残るは無惨な廃墟のみ、という、もう信じられない破滅的なリサイタルになったんですが……よくこの録音、ディスクとして出したなあ……しかし、なんか、いままでの端正の極地のリヒターさんのイメージががらがら崩れて、そこに現われ出たのは原始の森をさまようゲルマン人……うーん、ホントは、彼は、こんな人だったのか……

この演奏会は、聴きものだったでしょう。現実にあの場にいた人は、みんな肝をつぶして、どーなることかとハラハラしながらいつのまにかリヒターさんの鬼のような迫力に引き込まれていったに違いない……そうか……演奏会の真の姿って、これだったのか……で、ここに比べると、メディアの海にダイヴしたグールドさんの演奏は、やっぱり打ちこみだ……でも、なぜか、このリヒターさんの「地獄のゴールドベルク」と共通の「熱い魂」を感じます。あの、震災の街……それまでの人々の生活が根こそぎ破壊されたあの街をさまよう私に、それでもまだ、人の思いはちゃんと残っていて、また新しく、人の生きる場所をつくっていける……と静かに語りかけてくれたグールドさんの音……

いろいろ、考えさせられます。個と普遍の問題は、そんなにカンタンに割り切れるものではなくて、これは、そこに立ち会う人によって、その人にとって、その場、そこにしかないなにか大事なものをもたらしてくれる。グールドさんは、たくさんの「個」、そのときの個だけではなく、これから未来に現われる数えられないくらいの範囲の個に対して、きちんと自分の「個」としての音楽を届けたいと思った。そこに現われるのは、やっぱり「他の中に生きる」という基本姿勢だったのかもしれない……演奏会が「地獄のゴールドベルク」となって崩壊したリヒターさんの思いも、やっぱりそれは同じだったんでしょう……そうならざるをえない「介在物」の巨大さを、改めておもいしらされます……

*リヒターさんのディスクを改めて聴いてみましたが、最初のアリアから、ミスタッチではないもののヘンな音程の音が混ざってきます。これ、調律にモンダイがあったんではないだろうか……調律の狂ったチェンバロを弾くうちに、なんかやぶれかぶれの自暴自棄に……でも、調律なんか、事前になんども確認するはずだし、ヘンだなあ……と思って聴いているうちに、なぜかひきこまれてしまう……ものすごく興味深い演奏です。これ、やっぱりスゴイディスクだ……

空間と物体・その2/Space and Object 02

ものはのもの_900

「もの派」の作品なんかを見ると、「もの」なんですが、「もの」のまわりにビーンと緊張させられている空間も感じます。うーん、これも、あきらかに彫刻じゃないなあ……といって、インスタレーションでもない。いったいなんだろう……「もの派」の作品は、見る人に「考えること」を強います。その意味で、コンセプチュアル・アートと似た感じ。「もの」を「言葉」として扱ってるんだろうか……スウィフトの『ガリバー旅行記』で、どこの国だったか忘れましたが(ラピュタ国だったかな?)、「言葉」を使うことが許されなくて、たとえば「馬」と言いたいときには、実物の馬を持ってくるべし、というめんどくさいところがありました……

すると、「もの派」の提示している「実物」は、いったいどんな言葉に対応するモノなんでしょうか……それは、もしかしたら「メタ言語」みたいなものかもしれない。言語についての言語。これが「もの」になるというのは、なんかおかしい。だけど「もの」に見えるのは、実はかたちだけのことで、そこに響いているのは、ホントは「空間」なのかもしれない。ピアノの弦は、全体で20トンもの力で鋼鉄の枠に張られているといいますが、その緊張感を見ている感じかな……永遠の時がすぎて、ピアニストの指がポン!と(あるいはそっと)ある鍵盤を押す……と同時に弦に貯えられていたエネルギーが音となって、まわりの空間に解放される……

ところが、「もの派」のものたちには、この「解放のとき」は永遠にこない。「もの派」なので、ものはいつまでもものでありつづける。「もの」であることを未来永劫に背負わされた「もの」たち……なので、まわりの空間も、永遠の緊張が解かれることがない……ここまで「ゆるみ」を許さない「意志」は珍しいなあ……と思うと、伊勢の唯一神明造りが浮かんできました。あれもすごいです。汚れを微塵も許さない……日本刀なんかもそんな感じですね。やっぱり「もの派」は日本の古典的伝統を受け継いでいるのでしょうか……けれど、「もの派」の空間は、あまりにもぎりぎりの均衡にありすぎて、永遠の固定の中にあるみたいな感じ……

実力の拮抗した剣客どうしが睨みあって、時の果てるまで動かない……相撲でもがっぷり組んで静止……ちょっとでも動いた方が負ける……これに比べると、縄文土器には、みごとな動きがある。空間に渦動を生んで、全体が回転をはじめる……まさにジェネレータ。あのみごとさは、やっぱり現代美術の中にはないですね。かたちが空間の動きを呼ぶ。空間というのは、動きが与えられてはじめて「意味」を生じるのかもしれない。「もの」からゆっくり離陸して、いのちのちからを得て、解放されていく空間……インスタレーションでも、こういう空間を造ることは、なぜかできない。静止空間の緊張感は造れるのですが……

インスタレーションは、おそらく絵画の延長だと思います。そういう意味で、はじめから「ブツ」である彫刻とは全然違う。絵は、2次元なので、空間とか関係ないと思われがちですが、実は、絵と空間は切っても切れない関係にある。少なくとも、彫刻なんかよりは全然空間です。彫刻は3Dなのに空間じゃない。ところが、絵の中には空間があり、その空間は必ず絵の外に湧きでて、ホントに空間を造っていきます……で、そこに発生される空間は、まさにその絵の性格を色濃く帯びた「個」としての性質を強く持つ。ドゥンス・スコトゥスのいう「ハエッケイタス」、つまり、「これ性」(this-ness ? )といいましょうか……

私は、愛知県美術館の常設展に飾られているピカソの『青いショールの女』を見たときに、このことを強く感じた。小さな絵なんですが、常設展の広い会場全体を抱きとめてしまうほどのみごとな空間ジェネレータ……で、その空間は、悲哀と慈愛といいますか……ピカソがこの作品を造ったときの、世の中に対するなんともいえない思い……その思いに満ちている。単なる物理空間ではなく、それはもう、当時のピカソの心と世界の関係をそのまま凍結……解凍したみたいな……これには驚いた。絵って、スゴイ。こんなスゴイことができるんだ……むろん、だれにでもできるわけではない。ピカソはピカソだから、こういう空間ジェネレータになれた……

もう一つ、思い出すのは、セザンヌのサン・ヴィクトワール山を描いたシリーズ……パッと筆を置いた瞬間、その山肌は、画家から数kmの距離を一瞬で飛んで、実際のサン・ヴィクトワール山に貼り付く……またパッと置くと、瞬間、その空間は画家のすぐ手前に飛ぶ……自由自在に空間が伸び縮みして、画家と山と間の空気の関係を造っていく……こりゃ、やめられんでしょうなあ……こんな楽しいこと、ほかにない。目の前のキャンバス1枚の中に、無限の空間を作り、また壊し……なので、絵の中には、画家の世界に対するあり方次第で、無限の、そしてありとあらゆる性格の空間を発生できる……この空間生成装置である絵が、実際に空間に伸びていったのがインスタレーション……なんか、そんな感覚を持っているのですが……

最後にできあがるのは、1枚の平面なんだけれど、その平面が、実は、画家の筆先の4次元時空間に連なる運動を、最終的に1枚の平面で切り取ったもの……こう考えると、ホントは、そこに交わるすべての軌跡を見ていることになります。これもまたふしぎなことで……われわれの目と脳が、そういうふうにしか世界を見られないようにできているので、実は「平面の絵」というのは成り立っているともいえる。そして、この「無限に生成されてしまう空間」を限定するには、実は「もの派」みたいにやるしかないのかもしれない。そういう意味で、「もの派」の作品は不自然の極地なんですが、それはまた、人間の思考の優位性のあくなき追求ともいえる……

今のところ、人類に生成できる空間、人類が制御できる空間というのは、こんなところなのかもしれません……実に荒々しい段階で、それはもう、まったくコントロールが効いていない状態であるともいえます。コントロールを効かせようとすると、「もの派」の作品のように、あるいは伊勢の空間のように、ビーンと破綻できない緊張感が漂う……そこから見ると、やっぱり縄文土器の空間の支配力はたいしたもんだと思います。ピカソの『青いショールの女』もちょっと似たところがあります。どちらも、「もの」としてはそれだけの「もの」なのに、圧倒的な空間支配力を持っている。これはなぜだろう……柔軟性としなやかな思考力といいますか……

世界に対する「受け入れてなお毅然と」という、なにか「一人で立ってる」というものを感じます。「もの派」の場合、空間を緊張させる力はスゴイのだけれど、やっぱりどこか、人間の、それを受け入れる思考力、感受性……それは、人に一般的に備わっているものでありますが、どこかでそういうものに頼ってる感じがあります。伊勢の場合には、どこまでも垂直に降りてくるものに奉仕する……空間に対して自由度を持ちながらも大きくそれをコントロールしていくということは、どこかで気分の中にゆとりがあるといいますか……ピカソの青の時代には、気持ちにそんなにゆとりがあったはずがないのに、あれだけ空間に豊かな波を伝播できるというのはふしぎです。

まあ、「器量」という言葉を使ってしまえばそれまでなんですが……やっぱりふしぎだ……

今日のessay :普遍を求めて・その1/About Universality – 01

「普遍」って、なんだろう……英語ではユニヴァサリティ、ドイツ語だとアルゲマイネ……かな。要するに、なんにでも通用すること。万能。以前、物理学の要諦で、それ以前の法則を特殊解として含むさらに普遍性のある法則を求めるんだ……という話を聴きました。ニュートン力学は、相対性理論の特殊解である……みたいな。そーやって、次々と「より普遍性のある法則」を求めていくと、宇宙は、ついに1個の数式で書き表わせるようになる……いわゆる「神の数式」ってヤツですが……物理学者は、みなこれを求める……

ところが、絵描きはたぶんそんなものは求めません。「この一枚の絵が、宇宙のすべてを表わす」……そんなことはありえない。じゃあ、音楽家はどうか。「この一曲が、宇宙のすべてを表わす」……同様に、これもありえません。ただ、音楽は、曲ではなく調律法で普遍を求めて「平均律」に達した。音楽は数学と仲がいいので、美術よりは普遍を求める気持ちが強いのでしょう……美術でも、セザンヌからピカソに至る近代洋画の流れの中には、やっぱり数学や物理学と仲良くして「普遍」を求める気持ちがあったと思う……。

きり_900

以前、自動車の構造を勉強したとき、ユニヴァーサル・ジョイントとディファレンシャル・ギアの働きに、驚きました。あったまいい……だれが考えたんでしょ、こんなこと……ユニヴァーサル・ジョイントはもろに普遍結合ですが、いうだけのことはあってたしかに普遍だ……ディファレンシャル・ギアの方はもちっと特殊なのかもしれないけれど、働きはみごとに普遍です。これがあるからカーブがスムーズに曲がれる……西洋人って、こんなこと考えるからたしかにすごい……西洋と普遍は渾然として表裏一体ですが、さすがに「言葉は神」というだけのことはあります。外在していた旧約の神を、処女力を使って世界の内に捕えてしまう……

例の、「ユニコーンと処女」の物語ですが……この観点から見ると、普遍を求める心は、すなわち「世界に内在するロゴス」を紐解くということになって、これはやっぱり一神教の世界観濃厚ですね。まあ、当然といえば当然のことなんだけど……そうすると、同じ一神教のイスラムが、「普遍」レースで乗り遅れたように見えるのはなぜなんだろう……ヨーロッパとイスラム。どこがどう違ったのか……ここで思いだすのは、ヨーロッパの音楽を特徴付ける「3度の卓越」です。オクターブと5度は、たしかに音階として自然に出てきそうですが、3度になると、これを他の音程より卓越させるには、なんか、それなりの理由が要りそうな……

まあ、理由はともかく、3度が伸びてきますと、それは5度といっしょになって最初の「和音」をつくります。3度には、長3度と短3度があって、長3度が長調音階をつくり、短3度が短調音階をつくる……われわれの脳は、日本人でもすでに学校西洋音楽教育の成果で、この長調音階と短調音階に馴れてしまってますが……ヨーロッパの音楽でも、少し遡ると、長調音階、短調音階というモノはありませんでした。グレゴリオ聖歌の時代ですが……それが、少しずつ3度が優越してきて、長調音階、短調音階が形成されてきます。たぶんそれは、12世紀くらいからなのかな? レオナンペロタンのノートルダム楽派の時代でしょうか……

3度

それで、ここから先は推測ですが、「3度の優越」はおそらく「ポリフォニーの形成」と関連があって、これがまた、「平均律」への長い歩みのはじまりとなったのでは……そしてこれは、たぶんゴシック建築の形成とも関連しているんじゃないかと思います。……もうこうなると「推測の山」なんですが……ゴシック建築の、あの空間の響きがポリフォニーと「3度の優越」を誘いだしたのか……空間の高さを求めていくと、そこに音が積み重なって自然にポリフォニックな響きが誘発されてくるのでしょうか……わかりませんが、もしそうだとするならば、やっぱり、その大元は、ヨーロッパの「深い、暗い森」にあったのかもしれません。

日本の森林みたいな照葉樹林帯や落葉広葉樹林帯では、温度と湿度の関連から下草が伸び放題になるので、針葉樹林帯みたいなカテドラル的雰囲気にはなりにくいのかな……とも思います。大きな空間を造っていく森と、小さな細分化された空間を無限に生みだす森……森の違いが「普遍」を生んだのかな……まことに乱暴な議論で申し訳ないんですが、そういう要素もあるんじゃないかと……たぶん「砂漠の一神教」だけでは、あそこまで「普遍」に執着する心は生まれないのでは……といって、日本の森みたいにどこにでも生命が満ちあふれていると、やっぱり「一本化」に執念を燃やす「普遍」には至りにくい。そんな感じなんでしょうか……

今日の kooga:鉄塔

鉄塔600

うちのわりと近くにある鉄塔です。かなり前に撮ったので、今はないかもしれません。おそらくテレビ電波の中継塔? 山の上にあるので……今は、ほとんどケーブルになってるので、機能としてはご用済みかも。

カンディンスキーのコンポジションみたいです。これを設計した人は、別にカンディンスキーを意識してたわけじゃないでしょうが……見てると、機能とかよりも、そのかたちの面白さに惹かれてしまいます。

カンディンスキーの作品は、今見ると、なぜか古くさく見えてしまう。ところが、ピカソの作品は、今も新しい生命力を失っていない。これは、なぜだろう……

むろんこれは私の私見で、カンディンスキーは今見ても新しいという人もいるかもしれません。でも、私には、彼の作品は、やっぱり過ぎ去った過去の未来といいますか、レトロな未来だなあ……と感じてしまう。

以前、美術は、「新しいこと」が無条件の価値だった。だれも見たこともないもの……それは、今でも大いにあるんですが……でも、20世紀の美術は、とにかく「新しい」が至上の価値でした。単純。

やっぱり、ピカソってスゴイなあと思います。愛知県美術館の常設展示室に入ると、いつもピカソの『青いショールの女』がかかっている。小さな絵なんですが、それが、展示室にずらりと並ぶ巨大な作品群を圧倒して輝いている。

「絵の力」がまるで違う。ピカソの「青の時代」の作品で、色調も暗く、地味なんですが……なぜか、底の知れないエネルギーがそこにある。絵の中にこれだけのちからを、百年も封じこめる……これは、尋常でわない。

カンディンスキーの作品は、やっぱり「理」が勝ってしまっている。絵の場合、理が勝つと、その分、ちからが減る。これはいえるように思います。まあ、エッシャーみたいにとことん理で貫くと、逆にふしぎなことになるんですが……

ピカソもいろいろリクツを言ったけれど、彼の絵を見ていると、そんなリクツは飾りにすぎなかったんだな……と思います。とにかく「絵の力」がものすごい。絵描きは「絵の力」だな……やっぱり。

存在しているものにはちからがある。だいたい、それを消滅させるに要するちから……それを持ってる。上の鉄塔なんか、素人が解体しようと思っても、ちょっとキビシイ。かなり疲れそうです。

絵を消滅させるのはカンタン。ライターで火をつければいい。ラクチンです。ピカソでも、火をつければなくなる。でも、やっぱりものすごいちからを感じる。「存在」以上のもの……

絵は、「存在以上のもの」だと思います。それは、なにか、人の思いの集積に関係するのかもしれないけれど……ピカソに匹敵するちからのある絵というと、やっぱり村上華岳……彼のことが、まず浮かびます。

そういうちからは、「与えられたもの」なのかもしれません。「顕現像」といわれるものがあって、かの世界から降りてきた神や仏を描く。それは、フツーの絵にはない「ちから」を持つ。

ピカソや村上華岳の絵にも、その「顕現像のちから」みたいなものを感じてしまいます。絵は、ふしぎです……。

今日のemon:テレビリモコン(終章:人類の勤勉の敗北)

以前、学校で「透視図法」を習ったとき、なるほどこれが「正解」なんだと思いました。近くのものは大きく、遠くのものは小さくなる。建物の地上に接する辺と屋上の辺を延長すると、水平線の一点で交わる。世界をこういうふうに見る西洋のパースペクティヴの手法は厳然としてあらがいようがなく、これに比べると、日本の描画方法、建物の上下の線がどこまでも平行で消失点のない描き方はいかにも知的に劣ったもののように感じた……日本、負けてるね……と思いました。

西洋式パース1

日本式パース

しかし……そこに、かすかな疑問があったのも事実です。地球は丸いから、まっすぐな「水平線」というものが、そもそもありえないのではなかろうか。もし、水平線がまっすくでないとするならば、建物の上の線と下の線が、存在しえない水平線の一点で交わることになるから、西洋の遠近法、透視図法も、その絶対のはずのシステムに、基本的にキズがあるんではなかろうか……

西洋式パース2

いやいや、たとえば宇宙空間を見よ。宇宙空間においては、地球のような丸い水平線はないから、たとえば、宇宙空間に四角い建物をうかべた場合、その上下の辺は無限遠で一点に交わるはずではないか……ということで一旦は納得しかけたのですが、ここでもまてよ……と。相対性理論によると、空間は重力によって歪んでいて、それは、皆既日食のおりに、太陽の両端に見える星の観測で実験的にも証明されている。ということは、宇宙空間に四角い建物を浮かべた場合、もし他になにもなかったとしても、その建物の「重さ」で空間が歪むから、そもそも「まっすぐな線」というものがありえなくなる。

じゃあ、ホントになんにもない空間ではどうなるのか……というと、なんにもないから、そもそも建物の上下の辺とかナンセンス。というか、観測する自分自身もいないんだから、そんな空間は、頭で描いても、実はまったく意味がない……ということで、西洋の遠近法、透視図法の「絶対性」というものが、私の中で、がらがらと崩れ去ったのでした……実は、これ、現代物理学においても、けっこう重要な問題らしいのですが、理科系オンチの私にはわからない……

わからないのですが、絵描きの本能みたいなものでいいますと、空間をどうあらわすか、あるいは、空間の中にある物体をどういうふうに描くか……これは、かなりの部分が「描き手」側の問題であるんじゃなかろうか……ということです。つまり、西洋の遠近法で想定しているような「完全に客観的な空間」というものが実はない。空間というものは、そこにあることを意識しないうちは一種の「無」であって、物体ばかりが目に入る。しかし、その物体を「どう描くか」という場所にくると、突然「空間の問題」というものが、どうしても乗り越えなければならない大問題として現われてきます。

この場合、現代においては、西洋式の「透視図法」に則って描くのが、たぶんいちばん楽な手法なんだと思います。水平線を直線とみなし、建物の上下の線も完全な直線とみなせば、あとは透視図法がほぼ自動的に導いて「絵」を完成してくれる。で、絵描きの方も、ある安心感というか、なんか大銀行に預貯金たっぷり……みたいな余裕でちゃっちゃっと色を塗ったりして完成……たぶんそんなところではないかと思います。

しかし、実際はそうはいきません。というか、そもそも、絵というものは、三次元の空間をムリヤリ二次元に「射影」するものなので……透視図法は、基本的に射影幾何学の「デザルグの定理」を数学的にはベースにしているものなんでしょうが、「デザルグの定理」自体、非理科系人間の私にはまことにややこしいのでここでとりあげるのはやめときます。ともかく、空間自体がユークリッド空間でない以上、「デザルグの定理」は本質的には無効であって、それは自動的に、「西洋式の透視図法は現実そのものである」というテーゼの崩壊を意味する。

要するに、日本式の上辺と下辺がどこまでいっても交わらない透視図法?も西洋式の透視図法と「同等の権利」をもって存在できるということがわかって、私はなぜか、安心したのでした……この問題は、20世紀絵画において、ピカソやブラックが「キュビズム」を開発したことともつながってきて、なかなか面白いのですが、今回はこのあたりでやめておきます(とにかく透視図法の話は頭が痛くなるので……)。また、あらためて……