![Pasted Graphic_600](https://soraebito.wordpress.com/wp-content/uploads/2014/12/pasted-graphic_600.jpg?w=960)
三位一体とその展開について、もう少し書いてみます。
三位一体というのは、私たち日本人の眼からするととてもふしぎな考え方に映るのですが……唯一神を奉じる人たちからすれば、これは、なんというか、アタリマエといいますか、それ以外のあり方がないみたいなことなんではなかろうか……と思えてきました。
たとえば、プラトンの『ティマイオス』に出てくる「デミウルゴス Dehmiourgos」という神様がいます。この神様は、造物主なんですが、実はニセモノであって……だから、こういうヘンな?神様に造られたこの世界は、正義が通らず、悪がのさばる悲惨な世界になってしまうのだと……
じゃあ、ホンモノの神様がどっかにいるの?……というと、いるんですが、人間にはなかなかよくわからない……人間は、肉体(サルクス)と心(プシュケー)と霊(プネウマ)から成っているが、肉体と心はニセモノの神、デミウルゴス(ヤルダバオト Jaldabaoth)の支配下にあるから……
なので、人間において、唯一ホンモノの神を反映している部分が霊、すなわちプネウマで、これは、本当の神の「断片」なんですと……そしてまた、驚くべきことに、キリスト教では創造主で唯一神であるヤハウェ(エホバ)は、実はデミウルゴス、ニセの神なんだと……
じゃあキリストは?……ということになるんですが、イエス・キリストは、ヘレニズムのグノーシスでは、なんと、ホンモノの神様から遣わされた存在である……ということです。だから、イエスがしょっちゅう唱えていた「父なる神」は、これはホントの神様なんだと……
こういうことになってきますと、これはまさに『旧約聖書』の否定です。「正統派」のキリスト教は、「旧約の神」とイエスが唱えた「父なる神」はむろん同一としますから、グノーシスの連中の言ってることはトンデモナイ異端、異教のバチあたりだと……
キリスト教の基盤が固まっていく1世紀~4世紀あたりにかけては、こういう「バチあたり」(キリスト教からみて)な考え方との大論争があって、もうそれこそ生きるか死ぬか……イエス・キリストをグノーシスの連中に持ってかれるか、奪い返すか……そういう瀬戸際……
そんな状態が続いた。推測ですが……「三位一体」というのは、「正統派」の教会の連中がくりだした捨て身の荒技だった可能性もでてきますね。まあ、要するに、旧約の神ヤハウェとイエスが「本質において同じ」(ホモウーシス)とすれば、イエスを自分たちの方に「奪還」できる……
ここで、もしグノーシスの連中が勝っていたら、どんな世界になっていたか……あまりにも知識が少ないので想像することさえできませんが、世界は、今みたいにまとまらずに(今でもけっこう分裂してるけど)、もっといろんな考え方が乱立する世の中になっていたかも……
今でも、キリスト教とイスラムは、なぜか不倶戴天のカタキみたいな存在になっちゃってますが、しかし元々はけっこう同根といいますか……すくなくとも、どちらも『旧約』と『新約』はちゃんと認めている。しかしグノーシス主義だと、『旧約』は否定することになる。
キリスト教では、この世界は「神が造った世界」ですが、グノーシス主義だと、この世界は「ニセモノの神」、つまり「悪魔が造った世界」になってしまいます。もし、このグノーシス主義が勝ちをおさめていたら、今、世界はどんなふうになっているのでしょうか……
まあ、一口にグノーシス主義といっても、東方で発達したグノーシスもあれば、西方で展開されたものもあって、それぞれに少しずつ考え方がちがっていて、やたら複雑な様相みたいです。もう、そのあたりになると、専門の研究者でも意見がくい違ってきたり……
ということなので、私のようなシロウトにはとてもとてもうかがい知れない世界なんですが……しかし、今のこの世界のあり方、西洋文明が席巻するこの世界のあり方が、もしかしたら根本からちがっていたかもしれない……とすると、これはちょっと興味深いものはありますね。
ただ……デカルトなんかに典型的に見られる物質と精神(思惟と延長)の二元論は、実はかなりグノーシス的ではないか……そんな考え方もできると思います。まあ、要するに、西洋においては、表面的には三位一体を主軸とするキリスト教の「正統派」が勝ちを治めたように見えても……
内面的にはグノーシス的な考え方がずっと尾を曳いていて、それが、ときとして表にあらわれたりまた沈みこんだり……私は、若い頃、ドストエフスキーの小説が大好きで一時期、読みふけりましたが、彼の考えの底を流れていたのも、もしかしたらこのグノーシス的な考え方ではなかったか……
![dostoyevsky](https://soraebito.wordpress.com/wp-content/uploads/2014/12/dostoyevsky_300.jpg?w=960)
この世になぜ、悪があるのか……そして、なぜ、善は悪に勝てず、この世は悪のはびこる世界になってしまうのか……人間は、なぜ、かくもカンタンに「肉の欲求」に屈するのであるか……本当の「救い」とはなにか……本当の「神」とはいかなる存在なのであろうか……
キリスト教の歴史においても、さまざまな考え方が現われ、そのうちのいくつかは「正統派」からみればけっこうグノーシス的なものもあったように思います。アッシジのフランチェスコなんかは、カトリックによって「聖人」とされていますが、彼なんか、どうだったのか……
キリスト教でいう「聖霊」とは、まさにグノーシスでいえば「霊」すなわち「プネウマ」に当たる。これも、グノーシスに取られてはタイヘンだとばかりに、旧約の神ヤハウェと「本質において同じ」であるとする。しかし……やはり「本当の霊」を希求する心は、「この悪の世界」に対する強烈な懐疑によって養われる。
フランチェスコは、青年の頃に兵役で、戦争の悲惨さをまのあたりにして、まあ、今でいう戦闘後遺症みたいな状態になって自分の村に戻り、この世界はなんでこんなに悲惨なのか……これが、ホントに神のつくった世界なのか……と深刻に悩み……そして、真の神の声を聴いた……
もう、こうなると、これはほとんどグノーシス体験だ……『カラマゾフの兄弟』でも、三男のアリョーシャは、やはり「本当の神」を求めて深刻に悩み……彼は、敬愛していた修道僧のゾシマ長老が亡くなって、その遺体が腐敗しはじめたとき、これまでの信仰がガラガラと崩れさる精神的危機にみまわれる……
肉は、腐る。それは、どんなに高い境地に達した聖人においても……『カラマゾフの兄弟』は、まずそこから始まる。肉と精神の分離……それは、いかに考えても、いかに祈っても、どんな原理を考えようと克服できない……人は、チリから生まれたのだから、チリに還る……
おそらくグノーシスは、こういう単純な、しかしオソロシイ驚愕に端を発し……その驚きと恐怖をなんとか克服したいという人間の意識の底にある衝動みたいなものから湧きあがってきたのではないか……そんなふうにも思います。そのようにみたとき、この考え方は、人の意識の構造に、まことに正直に沿っている……
ただ、やはりここに見られるのは、あくまでも「人の意識」であり、「人の霊」のモンダイであって、これがもし、動物の世界とか植物の世界だったらどうなんだろう……そんなことも考えてしまいます。動物や植物は、たとえば「悪」のモンダイとか、「救済」とか、考えるんだろうか……
ここで、私は、ちょっと前に見た『おおかみこどもの雨と雪』という映画のことを思い出しました。この作品は、『サマーウォーズ』や『時をかける少女』をつくった細田守監督のアニメなんですが……私は、この作品が、いちばん考えさせられた……これは、かなりスゴイ作品だと思います。
このアニメでは、「オオカミ男」と結婚した女性、花と、そのこどもの雨(女の子)と雪(男の子)が主人公で、物語は長女の雪の一人称で語られます。花は、大学で寡黙な男性と知り合い、恋に落ちて結婚しますが、その男性は、実はもう絶滅したはずの日本狼の血をひく「おおかみおとこ」だった……
![おおかみおとことはな](https://soraebito.wordpress.com/wp-content/uploads/2014/12/e3818ae3818ae3818be381bfe3818ae381a8e38193e381a8e381afe381aa.jpg?w=960)
彼は、ふだんは人間の姿で、トラックの運転手なんかをやって稼いで(ちゃんと免許も持ってる)花と二人の子(幼児)を養います。しかし、ときどき野生に戻り、狼の姿になって夜の街をさまよい、鳥なんかを狩る……ところがある夜、悲劇が……彼は、狩りに失敗して川に転落し、溺死してしまう。
人間の姿で?……じゃなくて、狼の姿のままで死んでしまいます。明け方、ゴミ収集車が通りかかり、川端で彼を見つけ、大型犬の死体と思って「業務的に」収集する……ちょうどそこに、彼をさがし歩いていた花が遭遇する……私が驚いたのは、ここからのこのアニメのツクリでした。
花は、一目で彼がもう助からない(死んでいる)ことを認識する。そして、今まさに収集されんとしている現場で、作業員の手を止めようとするのですが……しかし、彼女は、そこで泣き叫ぶわけでもなく、とりすがりもせず……結局は無力に、作業員のなすがままにまかせ……
おおかみおとこの彼は、「死体となった大型犬」としてきわめて業務的に「回収」され、収集車の後部扉は無慈悲に閉じられ、ルーチンワークで、次の収集地に向かって発車……花は、その後を追うでもなく、ただその場に崩れてしまう……まさにORZのかっこう……
私は、この場面を見たとき、「おみごと!」と思いました……いや、その瞬間は、なにか奇妙な「違和感」を覚えたといった方が正直でしょう……なんで、取りすがって収集を妨げないのか……「この人は、ホントは人間なのよ!」と叫んでむしゃぶりついて、狂気のように後を追って……
もし、ここで、細田監督がそんな演出をしていたら、この作品は、なんの値打ちもない二流アニメに堕していた。しかし……彼が優れているのは、ここでは一切、花にそんな「人間的な」行動はとらせず、ただ、大きな運命のなすがままに、そのすべてを受け入れさせる……それを貫いた。
この作品は、一見すると、おおかみおとこと結婚した女性がすぐに未亡人となり、おおかみの血を引く二人のこどもを田舎で育てる……そんな、ファンタジックな物語にも見えますし、あるいはまた、ものごとを一面的にしか見ない目からは、単なる自然賛歌、エコ礼賛みたいに受けとられかねないかもしれません。
しかし、監督の目は、実はそんなところにはなくて、それは、もっともっと深刻……今の、われわれ人類の世界にとって深刻という意味ですが、かなり深いところから、遠いところまでを一気にえぐりとる「人類文明批判」的な観点が浸透しているように思えます。それは、全篇にわたってそう……
あまりネタバレは書きたくないので、あらすじとかは控えますが……おおかみおとこの臨終場面も、偶然にあのようにつくられたのではなく、まさに、全篇を貫く「今のわれわれの文明ってどうなのよ?」という深刻な?懐疑から必然的にあのような演出になったのではないかと……
昔読んだライアル・ワトソンという人の本に、アフリカの海岸で、古代の人骨を発掘する話が載ってました。それによると……その古代の人々は、なんら「文明の痕跡」を残しておらず、学会では、彼らは、人類ではないのかもしれない……という説さえあったというのですが……
ワトソンさんが発掘した「遺体」の胸に組んだ手には「花」が握らせてあった……その花は、空気に触れた瞬間にドラキュラのように「雲散霧消」したそうですが……しかし、ワトソンさんの目には、その光景がしっかりと焼き付いた。これはまさに「葬送」の、もっとも初期の形態か……
死んだ人のことを思い、その思い出のために、そして死出の旅路の安かれと祈って沿えられた一輪の花……たとえ、文明の痕跡がなくても、いかに原人ぽく見えようとも、その「死者に寄せる想い」は、われわれとまったく異なるところはないのでは……ワトソンさんは、そこに、「人の想い」を見た……
![CAEg](https://soraebito.wordpress.com/wp-content/uploads/2014/12/e383a9e382a4e382a2e383abe383bbe383afe38388e382bde383b3_300.jpg?w=960)
たしかに、動物は、仲間が死んでも「葬送」ぽいことはやらないのでしょう……いや、そもそも、彼らにとっては、「死」という概念自体がわれわれのものとはまったく異なるのかもしれない……こどもや親、親しいものが死んでしまったとき……たしかに「喪失感」はあるかもしれないが……
しかし、人間のように死者を偲び、そこに思いを寄せて弔う……そこまではやらないと思います。それを考えると、やっぱり人間の意識って、スゴイものだなあ……と思う反面……やっぱり、その「陰画」も、それゆえにけっこう強烈になるんだなあ……と、そこにも思いは至ります。
親しいもの、家族や友人に寄せる思慕の情……その思いはとても美しいものかもしれませんが、しかしその反動といいますか、そこに思いが強烈に引き寄せられるあまり、家族や友人を守るためならなんでもするぞ……と。そこからさらに、家族や友人に危害を加えようとするヤツラは許さんぞ……と。
結局、人が戦争に出かける理由って……まあ、いろいろあるんでしょうが、物語や映画なんかでは、「祖国を守りたい」から、さらに「家族や友人を守るんだ」というところまで……こういう動機は、なぜか「戦争参加」でも、まあ、それはやむをえんだろう……という正当性を与えられる。
それどころか、賞賛される。戦争って、出ていけば殺し、殺される。殺すって、フツーは「絶対悪」なんだけど、祖国を守るとか、家族や友人を守るためなら許される……どころか、賞賛される場合も……で、それをだれも、あんまり疑問に思わない……そういうふうに、映画や物語はつくられる。
ワトソンさんが感動した「葬送の心」はたしかに美しいと思います……しかし……それは、やっぱり、「家族や友人を守る」ために「敵を殺す」という、実はオソロシイ心に、ぴゅっと直結してしまうんではなかろうか……野生動物も殺し合うが、その「殺し」にリクツをつけたりはしない……
生と死……もしかしたら、人間の意識は、そこに、なぜか奇妙にぴったりと貼り付いてしまって、もうどうしても引きはがすことができない……死を悼み、生を尊び……そういう感情はステキだと思いますが、やっぱりあっというまに過剰になって、まわりを、世界を、塗りかえていこうとする……
『おおかみおとこの雨と雪』というアニメでは、こういった人間の「粘着する感情」に対して、野生動物の持っているさらっとした生き方……こういうものを見せるのに成功していたように思います。悪も、善も、そして夢も希望も絶望も……すべては、人の「執着する心」から生まれるのではないだろうか……
その心は、ワトソン博士の見た遺体の花のように人の心をゆさぶり、感動させもするけれど……他面、生に執着し、死を怖れ……自分や家族、友人を囲いこんで特別な価値をそれに与え……これに危害を加えようとするものに対しては、それこそ徹底的に殲滅しようとする……
やっぱり、人間って……人間の意識って、異常だと思います。それが、「美しい」方向に発揮されようと、「オソロシイ」方面に展開しようと……根っこは同じで、それは、「なぜ、こんなふうなんだろう……」と問うところからはじまると思う。人は、なぜ生きて、なぜ死ぬんだろう……
グノーシスの萌芽も、やはりそんなところにあったのではないでしょうか……フランチェスコが味わった人の世の矛盾と苦悩……それは、きわめて人間らしいものと言えば言えますが、やはりまた、そこから、いろんな美といろんな悪といろんな感動といろんな苦悩がいっぱい湧きだしてくる……
この世の中、『おおかみこども』の花みたいに、あっさりといく方法もあると思う……いや、花は人間なので、やっぱりいろんなことに苦悩し、執着も持ち……しかし、彼女は「おおかみおとこ」との結婚生活の中で、「野生の方法」も学んだんだと思います。
わずかの間ではあったけれど、生活を共にし、喜びや悲しみも分けあっただいじなパートナーが、オオカミの姿とはいえ、死体となってゴミ収集車に回収されていく……そのとき、彼女は、わずかな抵抗はみせたものの、ほとんどなすすべなく立ち尽くし……事態の推移に、ただ身をまかせた……
そのとき、彼女の心には、やはり「野生の感覚」みたいなものがあったんだと思います。人類が、数百万年をかけて……ライアル・ワトソンの原人の時代から培ってきた「送る心」……しかし、それがまた人類の悲惨と「悪」も産んでしまう「生と死にししがみつく心」……
ここで、細田監督は、そういう「人の心」、「人の意識」に、根源的なクエスチョンを投じたように思うのですが……人の悪、どうしようもないこの世界を造ってしまわざるをえないデミウルゴスに支配されたこの世界の不気味でオソロシイ部分は、とりあえず「三位一体」で回収に成功したかにみえても……
それは、結局は、西洋の自然科学の方法を支配する精神と物質の二元論にかたちをかえてこの世界を支配し……それは、どこまでもその枝を伸ばし、発展展開させ……ついには原子力みたいなオソロシイもの、「いのち」の根元に真逆に牙をむく「完全否定力」まで産んでしまうに至る……
デミウルゴスの力とグノーシス……そういうことを考えざるをえない人の心……そして、そういうものを「三位一体」で回収しつつもその底流でやはり善と悪のせめぎあいに苦しみ、その苦しみを物質化してこの生命の星の運命まで握ってしまおうとする人の心……いろんなことを考えさせられました。
![Pasted Graphic_300c](https://soraebito.wordpress.com/wp-content/uploads/2014/12/pasted-graphic_300c.jpg?w=960)
今日の写真は、知立団地63号棟の壁面に現れたプラトンの『ティマイオス』の一部です。『ティマイオス』は、プラトンの対話篇の中でも一風変わった構成で、アトランティス伝説やデミウルゴスによる物質世界の創成などが語られます。dehmiourgos は、workman、handicraftsman という意味で……
working for the people、つまり、人のために働く人……そんな意味もある言葉のようですが、この言葉の前半分の dehmi は dehmos つまり国、地方、公共、公民……みたいな意味でしょうか。後半は ergon つまり work ということでしょうか……フォーク・エチモロジーになるかもしれませんが。
『ティマイオス』の一部が現れた知立団地は、愛知県の真ん中くらいにある古い団地で、11月に野外活動研究会の方々と歩きました。できたのが昭和41年(1966)といいますから、東京オリンピックの2年後……当時は最新の郊外生活を満喫できる文化的な住宅団地であったと思われます。
現在は、ブラジル人の方が多く住んでいて、お店の看板や公園の標識など、すべて日本語とポルトガル語の併記になっています。つい最近、警官が銃を奪われて右腕を撃たれるという事件があったそうですが、私たちが行ったときには、とてもそんな事件が起こったとは思われないようなのどかないい雰囲気でした。
団地としては比較的小規模で、数十棟の中層建築に囲まれて、中心に、広場を囲むかわいい商店街がありました。ブラジルの食品をいっぱい売ってる小さなスーパーや、いつまでもいたくなるようないい感じの喫茶店など……ここに住んでる人たちのゆったりとした楽しい暮らしぶりが伝わってくるよう……