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きめられないのは悪いこと?/Is ”not decided” bad?

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きめられない政治……ABくんは、民主党から政権を奪還して、「決められる政治になったぞ!」といばってる。でも、「決められない」って、ホントにそんなに「悪いこと」なんだろうか……

「決められる政治」の究極は独裁。ABくんが、なんでも勝手に思いどおりに「決める」。ほかの人は、それにしたがうだけ。北朝鮮みたい……「決められる」は、決める側にとっては常に「善」だけど、決められる側は迷惑。お前にとってはこれがいいのだ!と、他の人に決められて従うしかない。地獄です。

昨今、なんでも「決められる」が「いいこと」だという風潮が、あまりに安易にいきわたりすぎてるんじゃなかろうか……政治でも、会社の仕事でも、いろんなサークル活動でも……トップの力量を「決められる」で測る。まあ、そりゃ、団体だったらそれもアリかもしれませんが、万事そうなりつつあるような気がしてコワい。

哲学の本なんか、読んでてわからんという声をよくききます。私もワカラン。私の頭がアホなのか、それとも…… 絵描き仲間と、昔、カントの『判断力批判』を読んだことがありました。数ページ分をプリントして、みんなで少しずつ読む。『判断力批判』は、美学について書いてあるので、みんな興味をもったワケです……しかし、ワカラン。

数行、いや、一行だって、コレ、なにが書いてあるの? というくらいワカラン。むろん日本語訳(岩波文庫)で、日本語の文章なんだけれど、やっぱりわからない……で、ある人が、「これって、ボクの頭が悪いからワカランの? それとも、実は、無意味なことが勝手に書いてあるだけだからワカランの?」と……

なるほど……言われてみればそのとおりです。これだけワカランと、そうも思いたくなる。哲学書って難しいから、やっぱ、こっちの頭がついていかない……と、最初はみなそう思うのですが、なんべん読んでもワカラン。ふつうだったら、くりかえし読めば、なんとなくわかる……あるいは、わかりそうな気分になってくるもんなんですが、カントさんは鉄壁のごとく立ちはだかって、「わかるかも……」という気がぜんぜんしてきません。

うーん……やっぱり、われわれの頭が悪いのか……それとも、実はまったく意味のないことが書かれているのか……専門家って、どうなんだろう……と思ったら、やっぱり専門家もそうみたいです。つまり、哲学書って、ふつうの本とちがって、「なにかを伝達する」ようには書かれていないんだと。

ふつうの本って、なんらかの知識なり情報なり……あるいは気分みたいなものでも、伝えようとして書かれています。著者は、これこれはこうなんだと読者に伝えたい、言いたい、ということで本を書く。きちんとした文章で書いてあれば、ふつうの能力の読者には、ちゃんとそれが伝わる。

しかし……哲学書にかぎっては、そういう書き方じゃないそうです。つまり、人生とはなにか……とか、生とはなにか、死とはなにか、人の生きる意味って、なんだろう……そういうものを「教えてくれる」書物として、みんな哲学書のことをイメージするんだけれど、実はぜんぜん違う。だから、いくら哲学書を読んでも、そういうものについての知識も、教訓も、なにも伝わらない。そもそも、著者自身が、そういうものの知識や教訓を伝えようとして書いていない。

じゃあ……なんのために書いてるの? 哲学書を読んで、伝わるもの、受け取れるものってなんなの? ということですが、それは、結局「自分で考える」ということに尽きるようです。

つまり……哲学書が取り扱うような問題については、「正解」というのがないのですね。読者は、生とか死とか、生きる意味とか……そういう「深遠な」ものについて、「それはこうだよ!」という明解な答を、やっぱり期待してしまう。ところが……うにゃうにゃ、なんたらかんたら……と、いくら読んでもまったくわからない。いや、読む前よりももっとわからなくなる……

でも、それが、ある意味、正解なんだそうです。読む前は、なんとなくわかったつもりになっていて、たぶん今、自分が漠然と思ってることが、「哲学書」にはきちんとした言葉で明確に書かれているんだろう……と思って読み始めるのですが、すぐに薮にぶちあたる。薮はジャングルとなり、沼に足をとられ……かと思うと蚊や蛭や……で、もう立ち往生……

ということで、読者の期待は大きく裏切られる。読んでもまったくわからない。この人、いったいなにがいいたいんだろう……そして、いつしか昼寝の枕に……

でも、哲学書の読み方としては、それが「正解」だそうです。もし、「人生とはコレコレである。」と明解に書いてある哲学書があったら、ソレはニセモノ。まあ、「10分でわかるニーチェ」とか、それに類する本はいくらも出てますから、「わからなくちゃヤダ」という人はそれらを読めばいいんですが、そういうたぐいの本は、結局「哲学書」とはいえない……

ニーチェなら、やっぱ、本人の書いたものを読むべき。ドイツ語のわかる人は原書で。そうすると、まったくわからない……鉄壁にブチ当たる。カントもヘーゲルもそう。ハイデガーもメルロ=ポンティも同じく。古いのならいいのかな?と思っても、プラトンもアリストテレスもやっぱり薮の中に……

それは、そういう書物は、結局「しっかり自分で考えなさい」というメッセージなんだと。なるほど……そう思って読むと、そんな気がしてきます。

ということで「決められない」に戻るんですが、最近の短絡的な「決められるのはいいことだ」的風潮からすれば、読めば読むだけ思考の迷路に迷いこんで出てこられなくなるような「哲学書」はまったくのムダということになります。まあ、ニーチェが知りたければ、専門家が解説してくれる「10分でわかる……」を読めばいいと。そこでは、チャート式に哲学者の「考え」がくっきり、はっきり書いてあります。ふーむ、なるほど……ということでニーチェがわかった気になって、いろんな人に「ニーチェはこう考えてたんだよね」なんてしゃべりはじめる。

うーん……「決めるのはいいことだ」式の考えからすれば、これは立派に「いいこと」なんでしょうね。なんせ、自分で考える必要がない。あたかも「自分で考えたかのように」ちゃんと書いてあるんだから、それを違和感なく「自分の考え」とすればいい。そして、すぐ行動せよ!

そうなんですね。すべて「行動」を前提としている。「決められる」は「行動」に直結する。迷わず、自信をもって、さあ行動だ!

ぐずぐず、うにゃうにゃと迷ってる人は、おいてかれます。そしてヒノメを見ない。それがイヤならさっさと決めて、即行動せよ!

こういう価値観も、わからないではないです。しかし、みんながソレでいいんですか? いや、アナタはソレで、いいのかな?

迷うことの価値……それは、短絡的に結論を出さずに、持続的に、根気よく考えていく……そのことにつながると思う。脆弱で、頼りなさげに見えるけれど、自分でとことん考える……それはたいせつだと思う。

結論が出ない……ということは、やっぱり、そういうことなんですよ。ばっさり、はっきりと、ダレでも軍人のようになれるワケではない。迷うことの価値……それは、自分で、気のすむまで考えて、考えぬくということに通じる。その結果として、いっさい行動できないように見えても、そこには、実は、短絡的行動がやすやすと破壊してかえりみないものを、ホントに大切に思って育てていこうという意志があるのかもしれません。

わたしは、どっちかというと「決められない」派です。バシバシ決める人は、カッコいいとは思うけど、自分はそうはなれないなあ……

三位一体とグノーシス/Trinity and Gnosticism

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三位一体とその展開について、もう少し書いてみます。

三位一体というのは、私たち日本人の眼からするととてもふしぎな考え方に映るのですが……唯一神を奉じる人たちからすれば、これは、なんというか、アタリマエといいますか、それ以外のあり方がないみたいなことなんではなかろうか……と思えてきました。

たとえば、プラトンの『ティマイオス』に出てくる「デミウルゴス Dehmiourgos」という神様がいます。この神様は、造物主なんですが、実はニセモノであって……だから、こういうヘンな?神様に造られたこの世界は、正義が通らず、悪がのさばる悲惨な世界になってしまうのだと……

じゃあ、ホンモノの神様がどっかにいるの?……というと、いるんですが、人間にはなかなかよくわからない……人間は、肉体(サルクス)と心(プシュケー)と霊(プネウマ)から成っているが、肉体と心はニセモノの神、デミウルゴス(ヤルダバオト Jaldabaoth)の支配下にあるから……

なので、人間において、唯一ホンモノの神を反映している部分が霊、すなわちプネウマで、これは、本当の神の「断片」なんですと……そしてまた、驚くべきことに、キリスト教では創造主で唯一神であるヤハウェ(エホバ)は、実はデミウルゴス、ニセの神なんだと……

じゃあキリストは?……ということになるんですが、イエス・キリストは、ヘレニズムのグノーシスでは、なんと、ホンモノの神様から遣わされた存在である……ということです。だから、イエスがしょっちゅう唱えていた「父なる神」は、これはホントの神様なんだと……

こういうことになってきますと、これはまさに『旧約聖書』の否定です。「正統派」のキリスト教は、「旧約の神」とイエスが唱えた「父なる神」はむろん同一としますから、グノーシスの連中の言ってることはトンデモナイ異端、異教のバチあたりだと……

キリスト教の基盤が固まっていく1世紀~4世紀あたりにかけては、こういう「バチあたり」(キリスト教からみて)な考え方との大論争があって、もうそれこそ生きるか死ぬか……イエス・キリストをグノーシスの連中に持ってかれるか、奪い返すか……そういう瀬戸際……

そんな状態が続いた。推測ですが……「三位一体」というのは、「正統派」の教会の連中がくりだした捨て身の荒技だった可能性もでてきますね。まあ、要するに、旧約の神ヤハウェとイエスが「本質において同じ」(ホモウーシス)とすれば、イエスを自分たちの方に「奪還」できる……

ここで、もしグノーシスの連中が勝っていたら、どんな世界になっていたか……あまりにも知識が少ないので想像することさえできませんが、世界は、今みたいにまとまらずに(今でもけっこう分裂してるけど)、もっといろんな考え方が乱立する世の中になっていたかも……

今でも、キリスト教とイスラムは、なぜか不倶戴天のカタキみたいな存在になっちゃってますが、しかし元々はけっこう同根といいますか……すくなくとも、どちらも『旧約』と『新約』はちゃんと認めている。しかしグノーシス主義だと、『旧約』は否定することになる。

キリスト教では、この世界は「神が造った世界」ですが、グノーシス主義だと、この世界は「ニセモノの神」、つまり「悪魔が造った世界」になってしまいます。もし、このグノーシス主義が勝ちをおさめていたら、今、世界はどんなふうになっているのでしょうか……

まあ、一口にグノーシス主義といっても、東方で発達したグノーシスもあれば、西方で展開されたものもあって、それぞれに少しずつ考え方がちがっていて、やたら複雑な様相みたいです。もう、そのあたりになると、専門の研究者でも意見がくい違ってきたり……

ということなので、私のようなシロウトにはとてもとてもうかがい知れない世界なんですが……しかし、今のこの世界のあり方、西洋文明が席巻するこの世界のあり方が、もしかしたら根本からちがっていたかもしれない……とすると、これはちょっと興味深いものはありますね。

ただ……デカルトなんかに典型的に見られる物質と精神(思惟と延長)の二元論は、実はかなりグノーシス的ではないか……そんな考え方もできると思います。まあ、要するに、西洋においては、表面的には三位一体を主軸とするキリスト教の「正統派」が勝ちを治めたように見えても……

内面的にはグノーシス的な考え方がずっと尾を曳いていて、それが、ときとして表にあらわれたりまた沈みこんだり……私は、若い頃、ドストエフスキーの小説が大好きで一時期、読みふけりましたが、彼の考えの底を流れていたのも、もしかしたらこのグノーシス的な考え方ではなかったか……

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この世になぜ、悪があるのか……そして、なぜ、善は悪に勝てず、この世は悪のはびこる世界になってしまうのか……人間は、なぜ、かくもカンタンに「肉の欲求」に屈するのであるか……本当の「救い」とはなにか……本当の「神」とはいかなる存在なのであろうか……

キリスト教の歴史においても、さまざまな考え方が現われ、そのうちのいくつかは「正統派」からみればけっこうグノーシス的なものもあったように思います。アッシジのフランチェスコなんかは、カトリックによって「聖人」とされていますが、彼なんか、どうだったのか……

キリスト教でいう「聖霊」とは、まさにグノーシスでいえば「霊」すなわち「プネウマ」に当たる。これも、グノーシスに取られてはタイヘンだとばかりに、旧約の神ヤハウェと「本質において同じ」であるとする。しかし……やはり「本当の霊」を希求する心は、「この悪の世界」に対する強烈な懐疑によって養われる。

フランチェスコは、青年の頃に兵役で、戦争の悲惨さをまのあたりにして、まあ、今でいう戦闘後遺症みたいな状態になって自分の村に戻り、この世界はなんでこんなに悲惨なのか……これが、ホントに神のつくった世界なのか……と深刻に悩み……そして、真の神の声を聴いた……

もう、こうなると、これはほとんどグノーシス体験だ……『カラマゾフの兄弟』でも、三男のアリョーシャは、やはり「本当の神」を求めて深刻に悩み……彼は、敬愛していた修道僧のゾシマ長老が亡くなって、その遺体が腐敗しはじめたとき、これまでの信仰がガラガラと崩れさる精神的危機にみまわれる……

肉は、腐る。それは、どんなに高い境地に達した聖人においても……『カラマゾフの兄弟』は、まずそこから始まる。肉と精神の分離……それは、いかに考えても、いかに祈っても、どんな原理を考えようと克服できない……人は、チリから生まれたのだから、チリに還る……

おそらくグノーシスは、こういう単純な、しかしオソロシイ驚愕に端を発し……その驚きと恐怖をなんとか克服したいという人間の意識の底にある衝動みたいなものから湧きあがってきたのではないか……そんなふうにも思います。そのようにみたとき、この考え方は、人の意識の構造に、まことに正直に沿っている……

ただ、やはりここに見られるのは、あくまでも「人の意識」であり、「人の霊」のモンダイであって、これがもし、動物の世界とか植物の世界だったらどうなんだろう……そんなことも考えてしまいます。動物や植物は、たとえば「悪」のモンダイとか、「救済」とか、考えるんだろうか……

ここで、私は、ちょっと前に見た『おおかみこどもの雨と雪』という映画のことを思い出しました。この作品は、『サマーウォーズ』や『時をかける少女』をつくった細田守監督のアニメなんですが……私は、この作品が、いちばん考えさせられた……これは、かなりスゴイ作品だと思います。

このアニメでは、「オオカミ男」と結婚した女性、花と、そのこどもの雨(女の子)と雪(男の子)が主人公で、物語は長女の雪の一人称で語られます。花は、大学で寡黙な男性と知り合い、恋に落ちて結婚しますが、その男性は、実はもう絶滅したはずの日本狼の血をひく「おおかみおとこ」だった……

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彼は、ふだんは人間の姿で、トラックの運転手なんかをやって稼いで(ちゃんと免許も持ってる)花と二人の子(幼児)を養います。しかし、ときどき野生に戻り、狼の姿になって夜の街をさまよい、鳥なんかを狩る……ところがある夜、悲劇が……彼は、狩りに失敗して川に転落し、溺死してしまう。

人間の姿で?……じゃなくて、狼の姿のままで死んでしまいます。明け方、ゴミ収集車が通りかかり、川端で彼を見つけ、大型犬の死体と思って「業務的に」収集する……ちょうどそこに、彼をさがし歩いていた花が遭遇する……私が驚いたのは、ここからのこのアニメのツクリでした。

花は、一目で彼がもう助からない(死んでいる)ことを認識する。そして、今まさに収集されんとしている現場で、作業員の手を止めようとするのですが……しかし、彼女は、そこで泣き叫ぶわけでもなく、とりすがりもせず……結局は無力に、作業員のなすがままにまかせ……

おおかみおとこの彼は、「死体となった大型犬」としてきわめて業務的に「回収」され、収集車の後部扉は無慈悲に閉じられ、ルーチンワークで、次の収集地に向かって発車……花は、その後を追うでもなく、ただその場に崩れてしまう……まさにORZのかっこう……

私は、この場面を見たとき、「おみごと!」と思いました……いや、その瞬間は、なにか奇妙な「違和感」を覚えたといった方が正直でしょう……なんで、取りすがって収集を妨げないのか……「この人は、ホントは人間なのよ!」と叫んでむしゃぶりついて、狂気のように後を追って……

もし、ここで、細田監督がそんな演出をしていたら、この作品は、なんの値打ちもない二流アニメに堕していた。しかし……彼が優れているのは、ここでは一切、花にそんな「人間的な」行動はとらせず、ただ、大きな運命のなすがままに、そのすべてを受け入れさせる……それを貫いた。

この作品は、一見すると、おおかみおとこと結婚した女性がすぐに未亡人となり、おおかみの血を引く二人のこどもを田舎で育てる……そんな、ファンタジックな物語にも見えますし、あるいはまた、ものごとを一面的にしか見ない目からは、単なる自然賛歌、エコ礼賛みたいに受けとられかねないかもしれません。

しかし、監督の目は、実はそんなところにはなくて、それは、もっともっと深刻……今の、われわれ人類の世界にとって深刻という意味ですが、かなり深いところから、遠いところまでを一気にえぐりとる「人類文明批判」的な観点が浸透しているように思えます。それは、全篇にわたってそう……

あまりネタバレは書きたくないので、あらすじとかは控えますが……おおかみおとこの臨終場面も、偶然にあのようにつくられたのではなく、まさに、全篇を貫く「今のわれわれの文明ってどうなのよ?」という深刻な?懐疑から必然的にあのような演出になったのではないかと……

昔読んだライアル・ワトソンという人の本に、アフリカの海岸で、古代の人骨を発掘する話が載ってました。それによると……その古代の人々は、なんら「文明の痕跡」を残しておらず、学会では、彼らは、人類ではないのかもしれない……という説さえあったというのですが……

ワトソンさんが発掘した「遺体」の胸に組んだ手には「花」が握らせてあった……その花は、空気に触れた瞬間にドラキュラのように「雲散霧消」したそうですが……しかし、ワトソンさんの目には、その光景がしっかりと焼き付いた。これはまさに「葬送」の、もっとも初期の形態か……

死んだ人のことを思い、その思い出のために、そして死出の旅路の安かれと祈って沿えられた一輪の花……たとえ、文明の痕跡がなくても、いかに原人ぽく見えようとも、その「死者に寄せる想い」は、われわれとまったく異なるところはないのでは……ワトソンさんは、そこに、「人の想い」を見た……

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たしかに、動物は、仲間が死んでも「葬送」ぽいことはやらないのでしょう……いや、そもそも、彼らにとっては、「死」という概念自体がわれわれのものとはまったく異なるのかもしれない……こどもや親、親しいものが死んでしまったとき……たしかに「喪失感」はあるかもしれないが……

しかし、人間のように死者を偲び、そこに思いを寄せて弔う……そこまではやらないと思います。それを考えると、やっぱり人間の意識って、スゴイものだなあ……と思う反面……やっぱり、その「陰画」も、それゆえにけっこう強烈になるんだなあ……と、そこにも思いは至ります。

親しいもの、家族や友人に寄せる思慕の情……その思いはとても美しいものかもしれませんが、しかしその反動といいますか、そこに思いが強烈に引き寄せられるあまり、家族や友人を守るためならなんでもするぞ……と。そこからさらに、家族や友人に危害を加えようとするヤツラは許さんぞ……と。

結局、人が戦争に出かける理由って……まあ、いろいろあるんでしょうが、物語や映画なんかでは、「祖国を守りたい」から、さらに「家族や友人を守るんだ」というところまで……こういう動機は、なぜか「戦争参加」でも、まあ、それはやむをえんだろう……という正当性を与えられる。

それどころか、賞賛される。戦争って、出ていけば殺し、殺される。殺すって、フツーは「絶対悪」なんだけど、祖国を守るとか、家族や友人を守るためなら許される……どころか、賞賛される場合も……で、それをだれも、あんまり疑問に思わない……そういうふうに、映画や物語はつくられる。

ワトソンさんが感動した「葬送の心」はたしかに美しいと思います……しかし……それは、やっぱり、「家族や友人を守る」ために「敵を殺す」という、実はオソロシイ心に、ぴゅっと直結してしまうんではなかろうか……野生動物も殺し合うが、その「殺し」にリクツをつけたりはしない……

生と死……もしかしたら、人間の意識は、そこに、なぜか奇妙にぴったりと貼り付いてしまって、もうどうしても引きはがすことができない……死を悼み、生を尊び……そういう感情はステキだと思いますが、やっぱりあっというまに過剰になって、まわりを、世界を、塗りかえていこうとする……

『おおかみおとこの雨と雪』というアニメでは、こういった人間の「粘着する感情」に対して、野生動物の持っているさらっとした生き方……こういうものを見せるのに成功していたように思います。悪も、善も、そして夢も希望も絶望も……すべては、人の「執着する心」から生まれるのではないだろうか……

その心は、ワトソン博士の見た遺体の花のように人の心をゆさぶり、感動させもするけれど……他面、生に執着し、死を怖れ……自分や家族、友人を囲いこんで特別な価値をそれに与え……これに危害を加えようとするものに対しては、それこそ徹底的に殲滅しようとする……

やっぱり、人間って……人間の意識って、異常だと思います。それが、「美しい」方向に発揮されようと、「オソロシイ」方面に展開しようと……根っこは同じで、それは、「なぜ、こんなふうなんだろう……」と問うところからはじまると思う。人は、なぜ生きて、なぜ死ぬんだろう……

グノーシスの萌芽も、やはりそんなところにあったのではないでしょうか……フランチェスコが味わった人の世の矛盾と苦悩……それは、きわめて人間らしいものと言えば言えますが、やはりまた、そこから、いろんな美といろんな悪といろんな感動といろんな苦悩がいっぱい湧きだしてくる……

この世の中、『おおかみこども』の花みたいに、あっさりといく方法もあると思う……いや、花は人間なので、やっぱりいろんなことに苦悩し、執着も持ち……しかし、彼女は「おおかみおとこ」との結婚生活の中で、「野生の方法」も学んだんだと思います。

わずかの間ではあったけれど、生活を共にし、喜びや悲しみも分けあっただいじなパートナーが、オオカミの姿とはいえ、死体となってゴミ収集車に回収されていく……そのとき、彼女は、わずかな抵抗はみせたものの、ほとんどなすすべなく立ち尽くし……事態の推移に、ただ身をまかせた……

そのとき、彼女の心には、やはり「野生の感覚」みたいなものがあったんだと思います。人類が、数百万年をかけて……ライアル・ワトソンの原人の時代から培ってきた「送る心」……しかし、それがまた人類の悲惨と「悪」も産んでしまう「生と死にししがみつく心」……

ここで、細田監督は、そういう「人の心」、「人の意識」に、根源的なクエスチョンを投じたように思うのですが……人の悪、どうしようもないこの世界を造ってしまわざるをえないデミウルゴスに支配されたこの世界の不気味でオソロシイ部分は、とりあえず「三位一体」で回収に成功したかにみえても……

それは、結局は、西洋の自然科学の方法を支配する精神と物質の二元論にかたちをかえてこの世界を支配し……それは、どこまでもその枝を伸ばし、発展展開させ……ついには原子力みたいなオソロシイもの、「いのち」の根元に真逆に牙をむく「完全否定力」まで産んでしまうに至る……

デミウルゴスの力とグノーシス……そういうことを考えざるをえない人の心……そして、そういうものを「三位一体」で回収しつつもその底流でやはり善と悪のせめぎあいに苦しみ、その苦しみを物質化してこの生命の星の運命まで握ってしまおうとする人の心……いろんなことを考えさせられました。

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今日の写真は、知立団地63号棟の壁面に現れたプラトンの『ティマイオス』の一部です。『ティマイオス』は、プラトンの対話篇の中でも一風変わった構成で、アトランティス伝説やデミウルゴスによる物質世界の創成などが語られます。dehmiourgos は、workman、handicraftsman という意味で……

working for the people、つまり、人のために働く人……そんな意味もある言葉のようですが、この言葉の前半分の dehmi は dehmos つまり国、地方、公共、公民……みたいな意味でしょうか。後半は ergon つまり work ということでしょうか……フォーク・エチモロジーになるかもしれませんが。

『ティマイオス』の一部が現れた知立団地は、愛知県の真ん中くらいにある古い団地で、11月に野外活動研究会の方々と歩きました。できたのが昭和41年(1966)といいますから、東京オリンピックの2年後……当時は最新の郊外生活を満喫できる文化的な住宅団地であったと思われます。

現在は、ブラジル人の方が多く住んでいて、お店の看板や公園の標識など、すべて日本語とポルトガル語の併記になっています。つい最近、警官が銃を奪われて右腕を撃たれるという事件があったそうですが、私たちが行ったときには、とてもそんな事件が起こったとは思われないようなのどかないい雰囲気でした。

団地としては比較的小規模で、数十棟の中層建築に囲まれて、中心に、広場を囲むかわいい商店街がありました。ブラジルの食品をいっぱい売ってる小さなスーパーや、いつまでもいたくなるようないい感じの喫茶店など……ここに住んでる人たちのゆったりとした楽しい暮らしぶりが伝わってくるよう……

オスカー君、スゴイ!……正義と公正への道/You are great, Oskar!

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自身の被害感の中に、黒く沈む心……「ワリくってるのはオレたちだ……」これは、「正義感」への芽かもしれないが、それはもうすでに黒くただれて腐った芽……正義と公正へ向かう一歩かもしれないけれど、それはどこまで行っても「自分のため」だけの正義と公正……ということで、もうちょっと、「盲導犬刺傷事件」の犯人のことを考えてみます。

こういう歪んでしなびた心が、きちんとした「正義と公正」に向かうことがあるんだろうか……というと、それは「ない」気がする。ホントの「正義と公正」に向かう心は、最初からもっと違うんじゃないか……たとえば、刺された盲導犬のオスカー君の心みたいな……自分が刺されているのに、まったくゆらぐことなく「自分の役割」だけをまっとうする……

このオスカー君の心の方が、刺したヤツのねじくれた黒い心よりは、はるかに「正義と公正」に近い……これは、だれしも認めることだと思います。むろん「盲導犬は飼い主の目だから……」という人間のことしか考えてない発想よりもはるかに「人間的な」、「正義と公正の感覚」を持ち合わせている。オスカー君は犬なので、人の言葉はしゃべりませんが……

もし、彼がしゃべることができたら……という発想は無意味ですね。もし、しゃべることができても、彼はなにも語らないだろう……ただ、黙々とみずからの「役」をこなすのみ……われわれはここで、「沈黙の力」にうたれます。ヘイトスピーチの、あの「ぎゃあぎゃあ」とは雲泥の差だ。恥ずかしいとは思わないのか……あの方々は……

なにも語らず、ただ黙々とみずからに与えられた「役」をこなす……これは、「奴隷の発想」だという見方もあるかもしれない。たしかにそれはそうかもしれませんが……私は、こどものころ、『ロビンソン・クルーソー』を読んで、かすかな違和感を覚えた。それは、クルーソーが「奴隷の」フライデーに対する、その態度というか見方というか……

あまりはっきりは覚えていませんが、「忠実な友」みたいな扱いだったと思います。でも、これって矛盾してる。クルーソーに「忠実」ということは、彼のいうなり思うまま……で、そこを「友」と評価する。じゃあ、ちょっとでも反対意見を述べたらもう「友」じゃないのか……ビーグル号でのダーウィンと艦長フィッツロイは、「奴隷」の扱いをめぐって口論に……

激高したフィッツロイは、ダーウィンを食卓から追い出してしまったといいますが……(あとで謝って仲直りしたというけれど)ヨーロッパ社会は、こういう「考え方の違い」を徹底的にぶつけ合うことで形成されてきた。ときに、それは暴力沙汰になろうとも……で、彼らは、そうやって徹底的に反論してこないものたちを「奴隷」にしていったのでしょうか……

たぶん……おそらく、ですが、彼らは、徹底的にやり合うことによって、その対立の果てに、「対立を超えるもの」をきっと見つけられる……そういう思いはあるんだと思います。プラトンの対話篇を読んでもそう思うし、ヘーゲルの『精神現象学』なんかでも妥協なく、お互いが滅びてしまうまで徹底的にやる。ローマとカルタゴの戦いもそうだったし……

黒く、ねじまがった「自分だけの正義感」が、きちんとした「正義」に育つルートがもしあるとするならば、もはやこういう道しかないのかもしれません。とにかく、いっさいの妥協を排して、お互いが滅びるまで徹底的にやる。両者が滅びたあとに「これではさすがにいかんかったなあ……」という、ホントの「正義と公正」に向かう芽が出るのか……

しかし、オスカー君の考え方は、まったく違う。そういう「徹底した対立の道」ではないルートをわれわれに示してくれて、みごとです。マッカーサーは日本人のことを「12才」と言ったが、彼がオスカー君のことを知ったら「0才だね」というかもしれない。いや、「犬のようだね」というかもしれません。まあ、そりゃそうだ。実際、犬……

なんですが、私には、人間、少なくとも彼を刺した人間なんかよりはるかに立派に見える。刺した人は、こんどはぜひ、盲導犬に生まれかわってくださいね、と言いたくなる……まあ、せっかく犬に生まれかわっても、訓練の初期で脱落するでしょうけど。「魂の輝き」みたいなものはやっぱりあって、オスカー君みたいな「任」をになえる魂というのは……

やっぱりあるのでしょう。私にソレができるか……と問われれば、やっぱりできないと思う。四六時中、自分のことばっかり考えている。自分の幸不幸、自分の未来(もうあんまりないけど)、で、あとは家族のこと……友だちのこと……せいぜい、考えが及ぶ範囲はそこまでで、この範囲に「害」を及ぼしてくるヤツは、やっぱり「敵」とみなす……

昔、政治家という方々が嫌いでした。今でも嫌いなんですが……でも、彼らが、「自分のこと」から出ようとしていることだけは、ようやくわかってきました。「被害感」でなみなみと満たされた「一般大衆」は、「政治家はきっと裏でいっぱい悪いことをやってる」と思う。私もそう思ってたし、今でもやっぱりそう思う。でも、待てよ……

自分があの立場に置かれたら、どうするんだろうか……ABくんが、園遊会で天皇に直訴した某議員のことを評して「アレはないよな」と言った。なるほど……やっぱりこの人、首相という立場に立ってるだけのことはあるなあ……言ってることもやることも「ウソ」だらけでまったく信用できないんだけれど、この一言にはちょっと感心……

「正義と公正への道」……オスカー君は、もう無言で達成しているけれど、人間にはなかなか難しい。ガンジーの「非暴力・不服従」が、人間にできる、ソレにいちばん近いものかもしれない……でも、オスカー君は、「非暴力」に加えて「絶対的服従」なので、ここが人間とまったく違う。人から見れば「奴隷の態度」なんですが、はたしてどうなんでしょうか……

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インド独立の父、マハトマ・ガンジー。この方は、なぜか日本のインキ消しの商標になってしまってます。最初に掲げた画像なんですが……大阪の丸十化成という会社が出している、2液式の修正液で、赤い液と透明の液の小瓶が並んで入っている赤い箱が、昔はどこの家庭にも一つはありました。いつのまにかみなくなりましたが……

まだ、発売はされているようですね。この会社は、昭和10年(1935)に野口忠二さんという方が起こされて、翌年からこのインキ消しを発売したそうです。おりしも、昭和5年(1930)には、ガンジーの独立運動で、有名な「塩の行進」が行われていた……野口さんは、ガンジーの「非暴力」にいたく感激して、商標に使うことにしたとか……

詳しく書いてあるサイトがありました。
http://www.maboroshi-ch.com/old/sun/toy_16.htm

本当のこと_03/死ぬって、どういうこと?/About Death

死に残れるヒメジョオン_600

死、です。プラトンでしたっけ、「肉体の牢獄」という言葉。人は、肉体という牢獄に囚われていて、死によってそっから自由になれるんだと。こういう考え方からすると、「死」は「解放」であって、死によって、はじめて人は、本当の自由を得る。どこへ行っても出られなかった「身体」から出られる……

これは、はっきりと、現代的な考え方ではありません。現代的な考え方では、死ぬと、自分は「無」になる。肉体の崩壊とともに、なんにもなくなってしまう。「科学的な」考え方からすると、「自分」という意識も、すべては「肉体」からできあがってるんだから、肉体がなくなれば自分も消える……

同じ一つの「死」ということに対して、ここまで正反対の考え方……これは、とてもおもしろいことだと思います……私は、かつて、ベトナム戦争で身体を吹き飛ばされた兵士の写真をみましたが……仲間の兵士によってもちあげられた彼は、頭と首と、そして右手だけでした……

この写真は、けっこうショックでしたね。よくこんな写真が本になったなあ……と(まあ、そういう時代だった)……見ていると、どうもプラトンの言ってることって、甘いというか、現実を知らないんじゃないの? と思えてくる。原爆の爆心直下にいた人は、すべてが「蒸発」してしまったと……

そういう話も聞きましたが、ますます「無」になるという現代科学の御説が正しそうに思えてきました。意識……自己意識を成立させている脳さえ「蒸発」してしまって、それで、なんで「自分」が残るといえるんだろう……ということで、人は、こういうことから、「死んだら無」と思うのかなと。

ただ、一方で、私を「無説」から離していったのが、ライプニッツの「モナド」説でした。私の理解が学問的に正しいのかどうかは知りませんが、ライプニッツは、「思惟」の世界と「延長」の世界は、まったく「無関係」だと言ってるように私には思える。これは、ナルホド……と感心しました。

大きさや形がある「延長」の世界と、大きさや形が一切ない「思惟」の世界……この両者が「いかなる関係も持つことはできない」というのは、考えてみれば当然のことです。だって、一方の属性を、もう一方は完全否定している……こういう構造である以上、両者は本質的に無関係にしかなれない……

たとえば、私が「右手を動かしたい」と思う……これは「思惟」です。それで右手が動く……これは「延長」。現代科学的な考え方だと、「右手を動かしたい」というのは単なる脳内電気パルスで、それは「思惟」ではなく「延長」なんだというのかもしれませんが……まてよ、まてよ……

私の脳内には、「右手」はないし、「動かす」という動作もありません。あくまで「電気パルス」しかない。「右手を動かしたい」という私の思いと、「電気パルス」の間には、ふかーい深い、それこそ無限に底の見えないクレバスがある……この両者を強引に結びつけてしまう、その粗暴なふるまい……

つまり、「右手を動かしたい」という私の思いはやっぱり「思惟」であり、「電気パルス」はどう考えても「延長」であって、結局問題は全然解決されていません。私の「右手を動かしたい」という思いが、なぜ「電気パルス」や、実際に右手を動かすという動作になるのか……この断絶は、やはり未解決……

ライプニッツは、結局この両者は「無関係」と見切った(と私は思う)。この点、「松果線」みたいなあいまいな媒介者を持ちだしたデカルトより徹底してます。なんでムリに関係づけなきゃならないの? 無関係なものは無関係でいいじゃん! というサバサバした態度は、私は好きです。

だから……「死」というものをこの観点から見るなら、「私」という「思惟の世界の住人」と、「私の身体」という「延長の世界の存在物」は、もともと無関係……というか、関係することができない。もし、「死」が、「私の肉体の崩壊」ということであるとするなら、やっぱりそれは、基本的に……

「私」という「思惟の存在」には無関係ということになります。コレ、理論的にいって、正しいと思う……ということで、今回の冒頭の写真は、草刈りの終わった土手に、一本だけ死に残ったヒメジョオン。しかし、よく見ると根が切られていた……翌日通ったら、もう枯死されておりました……

グールドというピアニスト

地獄のゴールドベルク_900

グレン・グールドというピアニストについては、もういろんな人が書いているので、今さら私が書いてもはじまらないかもしれませんが……でも、やっぱり書きたい。ホントに「天才」というのは、たぶんこんな人のことを言うんでしょう……暗算少年とかパフォーマンス的にスゴイ人はいっぱいいるけど、人類の文化に、なんらかの「意味」のある足跡を残せないと、それは単なる「見せ物」になって、ホントの意味で「天才」というには値しないと思います。で、人類の文化に足跡を残す……って、なんだろうということなんですが、とりあえず、その人がおるとおらんでは、「人類の意味」自体が変わっちゃうんじゃないだろうか……と思えるくらいのスゴイ人……

このレベルのスゴさって、たとえば思想でいうならヘーゲルとかマルクスとかプラトンとか……ソレ級。絵描きで思い浮かぶのは、やっぱりピカソとかマルセル・デュシャンとか。音楽だとバッハ、ベートーヴェンはまずまちがいなくそう。で、グールドさんも、やっぱりソレクラスじゃないかと……演奏家であって、作曲家じゃないんですが(曲もつくっておられたみたいだけど)、とにかく、「対位法音楽」というものの真の姿を見せてくれた……でもそれだけじゃまだ「天才」とはいえないかも……ですが、もうちょっと構造的?な業績としては、やっぱり、「媒体を通して現象する音楽」というものに逆転的な価値を与えた人として、思想の分野で持つ影響も少なくないのでは……

彼以前は、レコードって、やっぱり補完的な位置付けだったと思うんですよね。実演がホンモノで、レコードは代用品。ホンモノを聴かないと音楽を聞いたことにならないんだけれど、そういう機会もなかなかないので、レコードを聞いてホンモノの演奏に心を馳せる……そういう感じだった。ところが、グールドさんの演奏には、「生演奏」というホンモノが、もともとない。スタジオレコーディングは聴衆を当然入れず、スタッフだけで行われるから、これは「演奏会での演奏」という意味でのホンモノではない。単に、レコードを作るための録音作業にすぎない?わけで……「ホントの演奏」は、レコードを買った人が、自宅のプレーヤーに針を落とす……そこではじまる?

コレ、それまでだれもが夢想だにしなかった革命的なできごとといっていい。要するに金科玉条のごときご本尊である「実演」がない。というか、レコードを買った一人一人が、いろんな装置で、いろんな部屋で、いろんなことをしながら聴く……その一回一回が「実演」なのだ……なんでこの人、ここまで割り切れたというか、進化できたんだろーと驚異的に思いますが、その演奏を聴いていると、なんとなく感じるところがある。それを書いてみますと……まるで、打ちこみみたいだ……これが、私の率直な感想です。とにかく「音」に対する正確さが比類ない。ここまで「音」をコントロールしきれた演奏家は、それまでだれもいなかった……

はっきり言って、グールドさんは、他のピアニストに比べて、テクニック的にはるかに擢んでている。これはもう、だれもが認める事実であろうと思うのですが……その「差」がフツーじゃなくて、何十倍、何百倍もあるような気がする。基本的に、彼くらいのテクニックに達しなければ「ピアニストでござい」と言って名乗るのは恥ずかしいんじゃないか(いいすぎですが)……まあ、現代のピアニストであれば、彼と同程度のテクニックを持つ人もおられると思いますが、彼の時代では、彼は、テクニック的に飛び抜けてました。まるで、3階建ての建物の横に500階の超高層ビルがそびえているように……その「音」に対するコントロールの正確さは、まるで「打ちこみ」のごとく……

試みに、今ネットで聴けるいろいろなピアノ音の打ちこみを聴いていると、ホント、グールドさんそっくりです。いろんなピアニストのいろんな演奏があって、それぞれ、高い評価を受けている人もいるけれど、テクニック的にはグールドさんにははるかに及ばない。「音楽性」という言葉もあるわけですが……私の聴いた範囲では、ホントに「音楽性」でまた別な高みに達した人って、リヒテルとケンプくらいではなかろうか……まあ、あんまり広範囲には聴いてませんので、こんなこというとお叱りを受けるかもしれませんが……最近の方でいえば、ピエール=ロラン・エマールさんくらいか……いや、読んで不愉快に思われる方がおられるといけないので、「比較」はこれくらいでやめておきます。

要するに、私がいいたいのは、グールドさんは、もともと、他のピアニストとは求めるところが全く違っていて、そこのところが充分に「思想的」といいますか、音楽というものに対して、マーケティングまで含んで、発生(個の著作)から受容(個が聴く)に至る全体のプロセスに反省的意識が充分に働いていて、それが、単に音楽のジャンルにとどまらず、人類の文化全体にかんしていろいろ考えさせられるなあと思うわけです。要するに、やっぱり「個」と「普遍」の問題で……たとえば、「生演奏」を聴きにホールに集う聴衆は、一人一人は「個」なんだけれど……そして、演奏する音楽家もやっぱり「個」なんだけれど、その間には、ふしぎな「普遍」が介在していて、よく見えなくなってます。

私が理想とする演奏形態は、たとえば友人にピアニストがいて、彼の家に夕食に招かれて、食後に、彼が、集った数人の人のために客間にあるピアノで数曲奏でてくれる……そんな感じが、ホントの「生演奏」ということではないか……介在するものがなにもなくて、演奏する個としての彼と、聴く個としての私が直接に演奏によって結ばれる……これに比べると、ホールでの演奏は、演奏する個と聴く個の間に、絶対に「欺瞞」が入ると思います。要するに……音楽には直接関係のないなんやかや……お金やネームバリューや、演奏をきちんと味わえるかしらん?という気持ちとか……演奏する側においてもやっぱりそうで、余分なもろもろ……そういうものがジャマして不透明になってる。

しかし、グールドさんの場合には、これは、グールドさんという「個」が、私という「個」のために直接演奏してくれてる……みたいな感じがあるわけで、このあたりも「打ちこみ」と似てます。まあ、CDもタダじゃないんだけれど、演奏会に比べればはるかに安いし、何度でも繰り返し聴くことができる。場所も、家でもクルマでも、歩きながらでも……私は、以前、阪神淡路大震災のとき、神戸に住む友人宅をたずねて、神戸の町を歩いたことがあるんですが、そのときに、グールドさんの『パルティータ』(むろんバッハの)をウォークマン(もどき)でずっと聴いていた。震災で悲惨な状態になった街の光景とあの演奏が、もう完全にくっついて忘れられない……

でも、でもですよ……他のどんな演奏家でも、CDで、いつでもどこでも聴けるじゃありませんか……というのだけれど、なんか、どっかが違う。やっぱり、グールドさん以外の演奏家は、演奏会が「ホント」でディスクは「代用」。そんなイメージが強い……私がここで思い出すのは、カール・リヒターの「地獄のゴールドベルク」。このタイトルは、私が勝手に付けてるだけなんですが、このディスク、まれにみる「ぶっこわれた」演奏……聴いてると、もう、どうしようか?と思っちゃうんですが……1979年にリヒターさんが来日して、東京の石橋メモリアルホールというところでゴルトベルクを弾いた、その録音なんですが……もう最初から、なんか危機感をはらんではじまって……

とにかくミスタッチの山……うわー、これがあの、厳格きわまるリヒターさんの演奏なの??とぎょぎょっとしながら聴いてると、そのうちに「楽譜にない」道をたどりはじめ……と思うと前に戻ってやりなおし……悪戦苦闘しているうちに、もう演奏自体が「玉砕」してすべては地獄の釜の中に投げ入れられて一巻の終わり……あとに残るは無惨な廃墟のみ、という、もう信じられない破滅的なリサイタルになったんですが……よくこの録音、ディスクとして出したなあ……しかし、なんか、いままでの端正の極地のリヒターさんのイメージががらがら崩れて、そこに現われ出たのは原始の森をさまようゲルマン人……うーん、ホントは、彼は、こんな人だったのか……

この演奏会は、聴きものだったでしょう。現実にあの場にいた人は、みんな肝をつぶして、どーなることかとハラハラしながらいつのまにかリヒターさんの鬼のような迫力に引き込まれていったに違いない……そうか……演奏会の真の姿って、これだったのか……で、ここに比べると、メディアの海にダイヴしたグールドさんの演奏は、やっぱり打ちこみだ……でも、なぜか、このリヒターさんの「地獄のゴールドベルク」と共通の「熱い魂」を感じます。あの、震災の街……それまでの人々の生活が根こそぎ破壊されたあの街をさまよう私に、それでもまだ、人の思いはちゃんと残っていて、また新しく、人の生きる場所をつくっていける……と静かに語りかけてくれたグールドさんの音……

いろいろ、考えさせられます。個と普遍の問題は、そんなにカンタンに割り切れるものではなくて、これは、そこに立ち会う人によって、その人にとって、その場、そこにしかないなにか大事なものをもたらしてくれる。グールドさんは、たくさんの「個」、そのときの個だけではなく、これから未来に現われる数えられないくらいの範囲の個に対して、きちんと自分の「個」としての音楽を届けたいと思った。そこに現われるのは、やっぱり「他の中に生きる」という基本姿勢だったのかもしれない……演奏会が「地獄のゴールドベルク」となって崩壊したリヒターさんの思いも、やっぱりそれは同じだったんでしょう……そうならざるをえない「介在物」の巨大さを、改めておもいしらされます……

*リヒターさんのディスクを改めて聴いてみましたが、最初のアリアから、ミスタッチではないもののヘンな音程の音が混ざってきます。これ、調律にモンダイがあったんではないだろうか……調律の狂ったチェンバロを弾くうちに、なんかやぶれかぶれの自暴自棄に……でも、調律なんか、事前になんども確認するはずだし、ヘンだなあ……と思って聴いているうちに、なぜかひきこまれてしまう……ものすごく興味深い演奏です。これ、やっぱりスゴイディスクだ……