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MZくんの一日……強制終了の巻/A day of Mr.MZ_Forced determination

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MZくん、強制終了になっちゃいました。で、世間の関心はもう「次の都知事候補はダレ?」
一部の知識人の方々は「これで終わりはダメ。疑惑の解明がすんでない」という。しかしそれも、お定まりの儀式のようにつぶやかれて消え、もうMZくんは過去の人……

『自己には自分を外化する力が……自分を物にし、その存在に耐えていく力が……欠けているのだ。』

これは、ヘーゲルさんの『精神現象学』の中にあった言葉です。(長谷川宏訳の445ページ)
なるほど……これは、今のMZくんの状況にピッタリ……であると同時に、自分自身に照らしても、かなりぎくっとする言葉です。

「自分を、外化する」、「自分を、物にする」……これは、「公共」(republic)という言葉の語源になったラテン語の「res pbulica」を思わせます。つまり、「the public thing」とか「the public affair」ということで、「公共の物」とか「公共の事」ということでしょう(res は、thing とか affair という意味)。

まあ要するに、自分の内面はみんな「自分の物」だけれど、一旦自分を「外化」して外へだしたならば、それは、多かれ少なかれ「公共」、つまり「res pbulica」の呪縛を帯びてくる……これは、なにもしらない赤ちゃんでも、原則的にそうなんでしょう。こどもが、みんながおおぜいいる場で泣き叫ぶと、親に怒られる。小さい赤ちゃんだと親があやし、それでも泣きやまないと、親がその場から抱いて連れだす。

そうか……「公共」というのは、自分を「物」として、自分の外に出す、ということだったのか……ちょっと、目を開かれる思いでした。自分を「物」として冷たく見放して外に出す力……MZくんには、これが決定的に欠けていたのかな……というか、これは、私自身にも欠けているし、日本人にはちょっとなじみのない考え方かもしれない。

日本の場合には、これに代わって「恥」という感性があって、これが、「自分を物として見る」という西洋型の厳密な論理と同じような機能をはたしていたのかな?という気がします。おそらくMZくんの育った環境では、これ(日本型感性)がかなり濃厚だったんでしょうが、彼は頭脳で攻めて、ソレを克服した(と思った)。しかし……案外、それは尾を引いて、西洋型の、あの厳密で冷酷な「自己外化」が結局できなかった……その結果、論理に基づかない「恥」のような感性は否定するけど、それに代わる「自分を物として見る」論理も身につかず……

これは、結局、今のわれわれ日本人の状況をかなりよく示しているんじゃないかと思います。民主主義も自由も平等も博愛も……そういう西洋型の理念には憧れるけれど、その根底をなす「res pbulica」ということについては、まったくわかっていない……そういう状況で、いろんな行政や自治が行われ、議員さんやお役人が横行し、企業人もそれにならう……こんなんでこの日本、よく今までやってこれたもんだなあ……と、そこは逆にふしぎになります。

私は、かねがね、アチラの人が、公式の場に家族を伴うことが理解できなかった……欧米のひとつの習慣なんだけれど、日本人的考え方からすると、自分の「家庭」と「公共」はきっちり分けるから、欧米の人たちのそうしたふるいまいがなじまない。「恥ずかしくないの?」という、あえていえばそういう思いです。

しかし、ヘーゲルさんの上の言葉に接してみて、もしかしたらそれはこうだったんじゃないか……と。「公共」の場に「家族」を伴って現われるのは、自分を外化するだけではなく、「自分の家族」も、「公共の場」に「外化」する……そういう、一種の決意表明?みたいなもんなのかな?と。

地位が上になったり、公共的に重要な役職を果たす人ほどそれが求められる。つまり、そういう人は、もう「自分」という要素はほとんど奪取されて、家族さえ、すべて「公共の場」に晒される……それによって、自分は、「自分の全部」を「外化」して、「物」として扱う決心ができてるんです、と。

で、みなは、そこを見る。そこがきちんといってれば、その人にその仕事(役職)を任せてもいいんじゃないか……そういうことだったのかも。

まあ、要するに、「私だけじゃなく、私の家族も res pbulica として捧げます」という決意表明。我が身だけではなく家族も、「公共の人質」としてさしだす……そういう意味なら、とてもよくわかります。つまり、われわれ日本人が、「家族」を「恥」とするところを、アチラでは逆で、「家族」も「公共物」であると……ここまで真反対の状況にどうしてなるのかはわかりませんが、現実にはそうなってる?

とすると、もしかしたらMZくんの場合も、そういう「思い違い」があったのかもしれません。彼は、根っこは非論理的な「恥」の文化の日本人なのに、アタマが西洋型を受けいれて、自分も家族も、「その地位」にあると思った……要するにスタイルだけ真似て、本質は真逆の行動……なので、「都知事の家族なんだから、公共なんだから、公費が当然」……そんな思考回路をたどったんだろうか……ものすごくオソロシイ話ですが……

蕎麦打ちにパスタの石釜にコンサートにアート……これ、典型的な日本人の文化人オッサンのパターン……ここには、実はとても難しいものがあると思います。かつてカール・レーヴィットが鋭く批判したように、日本の文化人にどこまでもついてまわる「西洋化」の問題……結局、彼もこれを克服できなかった……そういうことなのでしょうか。

*ヘーゲルさんの上の引用箇所の原文は、以下のとおりです。(英訳もつけます)

Es fehlt ihm die Kraft der Entäußerung, die Kraft, sich zum Dinge zu machen und das Sein zu ertragen.

It lacks the force to relinquish itself, that is, lacks the force to make itself into a thing and to suffer the burden of being.

*日本のマンガやアニメが海外に受けるというのも、実は上のような事情によるのかもしれないなと、ちょっと思いました。自分も家族も「物」として「公共」にさしだすことを要請される西洋型社会……そこで生まれ育った人でも、その厳しさにはちょっと耐えられんなあ……ということもあるのでしょう。そういう人が、日本のマンガやアニメを見ると、そこにはまったく違う世界が……つまり、「自分の内面」を極度に重視し、最後には、それが、「世界」に均衡するところまでいく……そういうものの感じ方は、おそらくものすごく新鮮で、大切なものに映るのかもしれません。

先に引用したヘーゲルさんの文章のあとには、次のように書いてありました。

『自己は自分の内面の栄光が行為と生活によって汚されまいかと不安をいだいて生きている。心の純粋さを保持するために、自己は現実との接触を避け、抽象の極に追いこまれた自己を断念して、外界の秩序をとりいれたり、思考を存在へと転化して、絶対の区別を受けいれたり、といったことはとてもできないとかたくなに思いこんでいる。だから、自己のうみだすうつろな対象は、空虚な意識でもって自己を満たすばかりである。自己の行為は、自分の心のままに頼りない対象におのれをゆだねるだけのあこがれであって、そこから身を引き離して自分に還ってきても、見いだされるのは失われた自分でしかないのだ。……自分の内面においてこのような透明な純粋さを保って生きるのが、不幸な「美しい魂」なのだが、その内面の光はしだいに弱まり、いつしか大気に溶けこむ形なき靄(もや)さながらに、消えていくのである。』(長谷川宏訳)

すべてが見透かされているような……オソロシイ人ですね、ヘーゲルさんは……

きめられないのは悪いこと?/Is ”not decided” bad?

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きめられない政治……ABくんは、民主党から政権を奪還して、「決められる政治になったぞ!」といばってる。でも、「決められない」って、ホントにそんなに「悪いこと」なんだろうか……

「決められる政治」の究極は独裁。ABくんが、なんでも勝手に思いどおりに「決める」。ほかの人は、それにしたがうだけ。北朝鮮みたい……「決められる」は、決める側にとっては常に「善」だけど、決められる側は迷惑。お前にとってはこれがいいのだ!と、他の人に決められて従うしかない。地獄です。

昨今、なんでも「決められる」が「いいこと」だという風潮が、あまりに安易にいきわたりすぎてるんじゃなかろうか……政治でも、会社の仕事でも、いろんなサークル活動でも……トップの力量を「決められる」で測る。まあ、そりゃ、団体だったらそれもアリかもしれませんが、万事そうなりつつあるような気がしてコワい。

哲学の本なんか、読んでてわからんという声をよくききます。私もワカラン。私の頭がアホなのか、それとも…… 絵描き仲間と、昔、カントの『判断力批判』を読んだことがありました。数ページ分をプリントして、みんなで少しずつ読む。『判断力批判』は、美学について書いてあるので、みんな興味をもったワケです……しかし、ワカラン。

数行、いや、一行だって、コレ、なにが書いてあるの? というくらいワカラン。むろん日本語訳(岩波文庫)で、日本語の文章なんだけれど、やっぱりわからない……で、ある人が、「これって、ボクの頭が悪いからワカランの? それとも、実は、無意味なことが勝手に書いてあるだけだからワカランの?」と……

なるほど……言われてみればそのとおりです。これだけワカランと、そうも思いたくなる。哲学書って難しいから、やっぱ、こっちの頭がついていかない……と、最初はみなそう思うのですが、なんべん読んでもワカラン。ふつうだったら、くりかえし読めば、なんとなくわかる……あるいは、わかりそうな気分になってくるもんなんですが、カントさんは鉄壁のごとく立ちはだかって、「わかるかも……」という気がぜんぜんしてきません。

うーん……やっぱり、われわれの頭が悪いのか……それとも、実はまったく意味のないことが書かれているのか……専門家って、どうなんだろう……と思ったら、やっぱり専門家もそうみたいです。つまり、哲学書って、ふつうの本とちがって、「なにかを伝達する」ようには書かれていないんだと。

ふつうの本って、なんらかの知識なり情報なり……あるいは気分みたいなものでも、伝えようとして書かれています。著者は、これこれはこうなんだと読者に伝えたい、言いたい、ということで本を書く。きちんとした文章で書いてあれば、ふつうの能力の読者には、ちゃんとそれが伝わる。

しかし……哲学書にかぎっては、そういう書き方じゃないそうです。つまり、人生とはなにか……とか、生とはなにか、死とはなにか、人の生きる意味って、なんだろう……そういうものを「教えてくれる」書物として、みんな哲学書のことをイメージするんだけれど、実はぜんぜん違う。だから、いくら哲学書を読んでも、そういうものについての知識も、教訓も、なにも伝わらない。そもそも、著者自身が、そういうものの知識や教訓を伝えようとして書いていない。

じゃあ……なんのために書いてるの? 哲学書を読んで、伝わるもの、受け取れるものってなんなの? ということですが、それは、結局「自分で考える」ということに尽きるようです。

つまり……哲学書が取り扱うような問題については、「正解」というのがないのですね。読者は、生とか死とか、生きる意味とか……そういう「深遠な」ものについて、「それはこうだよ!」という明解な答を、やっぱり期待してしまう。ところが……うにゃうにゃ、なんたらかんたら……と、いくら読んでもまったくわからない。いや、読む前よりももっとわからなくなる……

でも、それが、ある意味、正解なんだそうです。読む前は、なんとなくわかったつもりになっていて、たぶん今、自分が漠然と思ってることが、「哲学書」にはきちんとした言葉で明確に書かれているんだろう……と思って読み始めるのですが、すぐに薮にぶちあたる。薮はジャングルとなり、沼に足をとられ……かと思うと蚊や蛭や……で、もう立ち往生……

ということで、読者の期待は大きく裏切られる。読んでもまったくわからない。この人、いったいなにがいいたいんだろう……そして、いつしか昼寝の枕に……

でも、哲学書の読み方としては、それが「正解」だそうです。もし、「人生とはコレコレである。」と明解に書いてある哲学書があったら、ソレはニセモノ。まあ、「10分でわかるニーチェ」とか、それに類する本はいくらも出てますから、「わからなくちゃヤダ」という人はそれらを読めばいいんですが、そういうたぐいの本は、結局「哲学書」とはいえない……

ニーチェなら、やっぱ、本人の書いたものを読むべき。ドイツ語のわかる人は原書で。そうすると、まったくわからない……鉄壁にブチ当たる。カントもヘーゲルもそう。ハイデガーもメルロ=ポンティも同じく。古いのならいいのかな?と思っても、プラトンもアリストテレスもやっぱり薮の中に……

それは、そういう書物は、結局「しっかり自分で考えなさい」というメッセージなんだと。なるほど……そう思って読むと、そんな気がしてきます。

ということで「決められない」に戻るんですが、最近の短絡的な「決められるのはいいことだ」的風潮からすれば、読めば読むだけ思考の迷路に迷いこんで出てこられなくなるような「哲学書」はまったくのムダということになります。まあ、ニーチェが知りたければ、専門家が解説してくれる「10分でわかる……」を読めばいいと。そこでは、チャート式に哲学者の「考え」がくっきり、はっきり書いてあります。ふーむ、なるほど……ということでニーチェがわかった気になって、いろんな人に「ニーチェはこう考えてたんだよね」なんてしゃべりはじめる。

うーん……「決めるのはいいことだ」式の考えからすれば、これは立派に「いいこと」なんでしょうね。なんせ、自分で考える必要がない。あたかも「自分で考えたかのように」ちゃんと書いてあるんだから、それを違和感なく「自分の考え」とすればいい。そして、すぐ行動せよ!

そうなんですね。すべて「行動」を前提としている。「決められる」は「行動」に直結する。迷わず、自信をもって、さあ行動だ!

ぐずぐず、うにゃうにゃと迷ってる人は、おいてかれます。そしてヒノメを見ない。それがイヤならさっさと決めて、即行動せよ!

こういう価値観も、わからないではないです。しかし、みんながソレでいいんですか? いや、アナタはソレで、いいのかな?

迷うことの価値……それは、短絡的に結論を出さずに、持続的に、根気よく考えていく……そのことにつながると思う。脆弱で、頼りなさげに見えるけれど、自分でとことん考える……それはたいせつだと思う。

結論が出ない……ということは、やっぱり、そういうことなんですよ。ばっさり、はっきりと、ダレでも軍人のようになれるワケではない。迷うことの価値……それは、自分で、気のすむまで考えて、考えぬくということに通じる。その結果として、いっさい行動できないように見えても、そこには、実は、短絡的行動がやすやすと破壊してかえりみないものを、ホントに大切に思って育てていこうという意志があるのかもしれません。

わたしは、どっちかというと「決められない」派です。バシバシ決める人は、カッコいいとは思うけど、自分はそうはなれないなあ……

哲学はなんのため?/For what do I do philosophy?

同志社_600
私は、昔、哲学科でした。より正確にいえば、哲学倫理学専攻……京都の某私大の。で、若干の哲学書を読み、友人と議論もした。幼い議論は白熱し、その結果、友人二人と絶交した。その友人二人も互いに絶交したみたいなので、三人は三人とも、それぞれ絶交状態となった。まあ、今にして思えば、青かったなあ……と。

哲学って、なんのためにやるんだろう……自分をふりかえって、「3つの段階」を考えてみました。
1.「自己満足」ではない。
2.「世界を統一理論でみたい」でもない。
3.「本当のことを知りたい」……たぶん、これが正解かな(今のところ……ですが)

1の、「自己満足」の段階は、これは他愛のないもので、まあ「居酒屋で議論に勝つ」みたいな段階だと思います。「カント読んだ?」とか、「ヘーゲル知ってるぜ」みたいな感じで、生物学的に言えばオスの示威行動のような……最近では、オスメス限らないみたいですが、こういう他愛のない自己満足は、アホな姿を人前に晒すだけで、あんまり実害はない。

書店にときどき並ぶ、「10分でわかるカント」みたいな解説書のたぐいは、こういう「素朴な自己満足」段階を狙って書かれたもので、読んでもナンの役にも立たないばかりか、かえって「本当の理解」から遠ざかっていくだけ……ただ、こういう自己満足段階でも、その底に、「本当のことを知りたい」という強い気持ちがあるのはたしかで、ソレは大切にしなければと思います。

で、こういう段階の次にくるのが(というか、オーバーラップしてるのが)、2の「世界を統一理論でみたい」ということじゃないかな……これは、要するに、人間のアタマのサガみたいなもので、「矛盾」を許せないというか、矛盾があると気持ち悪いという、一種の「生理的感覚」なんですが、それをまことに「高尚な」ものと勘違いしてしまう。

これはまた、「究極の自己満足」といってもいい段階だと思う。うちには、今、毎週木曜日の午後2時きっかりに「ものみの塔」(エホバの証人)の方がこられて、1時間ほど聖書の話をしていかれるんですが、強烈にコレを感じます。すごくマジメで熱心な方なんですが、それだけに、世界に毛スジほどの矛盾、裂け目があるのも耐えられない……そんな感じ。(リンク

この気持ち、わかります。私もけっこうそういう感じだった……というか、今でもそうなんですが、そのたびにン?と思うようになった。裂け目も矛盾も、自分がイヤでもちゃんとある。なにより、自分自身が矛盾のカタマリではないか……それをさしおいて、「世界に矛盾があるのは許せん!」なんて、よくいうなあ……「聖戦ジハード」も、「十字軍」も、たぶんここから起こった。

いや、そういうものを起こす人たちは、もしかしたらもっと政治的に狡猾なのかもしれないが、狩り出される若者たちの心は、おそらくこの「矛盾は許せん!」というものだったのではないか……日本が、幕末から明治維新、そしてあの悲惨な敗戦へと辿った道にも大きくコレを感じます。「戦争に狩り出された」というばかりではなくて、「進んで参加した」、そういう面もあったのでは……

この点からもわかるように、この2の「世界を統一理論でみたい」という気持ちは、必ず「他への押しつけ」になる。相手もそうだった場合には、「互いの全面否定」になって、最後は実力行使で相手を「この世界から消したるで!」というサタンにならざるをえない。ちょっと離れてみればバカげたことですが……当事者どうしは気づかず、互いに「オレが正しい!」と譲らない。

これに対して、3の「本当のことを知りたい」という気持ちは、常に謙虚だと思います。なぜなら、自分が、「本当のことを知っていない」という思いがいつもあるから。進んでも進んでも、道は遠のく……これに対し、1の「自己満足」は正反対で、ここには、「自分がどんどん大きくなる」という感覚がある。2の「統一理論」の場合には、「自分が世界と一致する」感覚がある。

ところが、3の「本当のことを知りたい」という気持ちは、人を、つねに「無限の謙虚」へと導く。この指標は大切だと思います。自分の気持ちが、今、どんなふうなのか……「自己満足」という風船でどんどん膨らんでいるのか、「世界と一致」という「虚の満足」に満たされているのか……それとも……

3の「本当のことを知りたい」という気持ちだけで哲学をやるとき、つまりいろんな書を読んだり考えたりするとき、人は、正しい道を辿っているのだと思う。これに対して、1の「自己満足」でやっているときは、まったく逆の道を辿っていることを知るべき。そして、3の「世界統一理論」みたいなものを考えているとき、人は、自分が「危険人物」になっていることを知るべきだと思う。

昔、秋葉原で、人を轢きまくり、ナイフで刺しまくった方がおられました。電車内でサリンを撒いたり、小学校で子供たちを殺しまくったり……そういうものって、やっぱり、結局は「統一理論」からくるものだと思う。自分が思い描く「世界」と現実が違っている。じゃあ、ソレを埋めなければ……これはもう、人類的な「愚行」ですね。

世界って、矛盾して見えるもので、それはやっぱり、自分自身が「矛盾している」ことに根本原因があるのではなかろうか……むろん、社会体制なんかで「抑圧」されていることはあるんだけれど、それが完全に「対象の側」にあるものなんだろうか……いや、ソレよりももっと大事なことがあるのであって、それは、3の「本当のことを知りたい」という、コレだと思います。

「本当のこと」は、実は、どんな状態にあっても知ることができる。なぜなら、今、目の前にある世界と自分、それこそが、すべて、まるっと「本当のこと」だから。これ、タイヘンなごちそうを目の前にしながら、「コレは食い物ではない!食べられるものをよこせ!」と言ってるようなもので、まことにもったいない話です。でも、やっぱりだれでもそうなってしまう……

これは、人が、というか、人の意識が、必ず通らなければならない道なのでしょうか……私の学生時代をふりかえってみると、1の「自己満足」と2の「統一理論への希求」がかなり前面に出ていたと思います。むろん、ベースには3の「本当のことを知りたい」という気持ちが常にあったのですが、でもそれは、おうおうにして1と2の「まわり道」に隠されていた……

ふりかえってみると、勉強において、3の「本当のこと」に最も近づけたのは、哲学書を読んだり友人と議論することではなく、当時とっていた「ギリシア語」の初級と中級のクラスでだったと思う。これは、哲学とかじゃなくて純粋に語学のクラスだったんですが、そこで私は、「自己満足」とか「統一理論」から少しでも「離れる感覚」を味わいました。

なるほど、こうなってたのか……それは、ちょっと「職人の感覚」に近いもので、実直に、真摯に、モノと向き合う……ギリシア語は「モノ」じゃありませんが、感覚としてはソレに近かった。2500年前の古代の人々が実際に使っていた言葉……ソレは、どんなものなんだろう……ソレは、数百にのぼる動詞の変化形をくりかえすうちに、少しずつ近くなる……

私にとって、その感覚をちょっとでも味合わせてもらえたことは、大きかったと思います。でも、当時の私は青かったので(今でもあんまり変わらんけど)、その大切さがわからず、いろんな哲学書を、原語では読めないから翻訳で読もうとしたり、友人と真っ青な議論をくりかえしたり……つまり、1「自己満足」と、2「統一理論」のどうどうめぐりにエネルギーを「浪費」してました。

その結果、友人に、「哲学は、キミを、峻拒するであろう」と言われて絶交……今では、彼の言の意味はよくわかります。人はおのれのかがみ……彼の言は、今、自分が、「人に、どう見えているか」をまことによく表わすものであったのですが……青年が、こういう道を辿らざるをえないというのは、まことに非効率だと思いますが、しょうがないのかな。

にしても、この1「自己満足」と、2「統一理論」の、いわばハシカのような状態は、さっさと済ますにこしたことはない。本当にアタマのいい人は、たとえば私のギリシア語受講のときのようなちょっとした経験があれば、「ン?正しい道はこっちじゃん!」とサッとわかってハシカ状態を抜けだすことができるんでしょうが、当時の私には、わからんかったなあ……

でも、やっぱり、A「ものすごい勉強」と、B「友人との徹底的な議論」は必要だと思います……というか、私のような人間には、結局この道しかない。私は、Aをさぼり、Bを「絶交」によって回避してしまいましたが……まあ、過去は戻らないので、しかたないといえばしかたないですね。ということで、「後悔する」という気持ちは、あんまりありません。

というか、3の、「本当のことを知る」という道は、これは無限に続くので、それはそれでいいのだと思います。生命の不死とか、生まれ変わりとかいうけれど、そういうものの根底には、実はこの「無限に続く道」があって、それが結局「基体 substance」、つまり、ヒュポ(下に)ケイメノン(置かれたもの)ということで、全部を受けて進んでいくのでしょう。

「無限」というのは、アタマで考えるものではなくて、実は、実質的に、ココにあるものだと思う。そして、それは、小さな自我を越えて、なぜか、目の前にある宇宙全体に、なにごともなくつながっていく……まあ、だから、目の前にある「汚れた皿」がだいじなのかな。「洗わなくちゃ」という感覚がある→洗う……それだけのことなんですが……
皿を洗う_500

イスラム国の意味は?/Can IS have any meaning?

冬の朝日_900
「イスラム国のやっていることは、むろん非人道的で残虐で、許せないものであるということは当然あたりまえのことですが……」TVなんかで、知識人の方々がイスラム国にかんして発言するときに、こういった言葉の前置きをするのが目立つように思います。つまり、まず否定であり、それを前提にして話をする。政府の対応やABくんのカイロ演説を批判したりするときに、直接入らずにこの言葉を置く。これによって、「私は、常識ある健全な立ち位置でものを言ってます」ということを、まずつまびらかにしておく。そうしないと、「え?あんたイスラム国に味方するの?」と思われても困る……と。つまり、イスラム国は絶対悪であって、それはもう「みんなの常識」なんだと。

しかし……本当にそうなのでしょうか?……なんていうと「え?あんたイスラム国に味方するの?」という言葉がとんできそうですが……でも、ものごとを「客観的に」見るばあい、片方を「絶対悪」として話をはじめるということは避けなきゃならんのでは……と、私なんか、思ってしまいます。まあ、イスラム国の側からみれば、日本もそこに入っている「有志連合」の国々こそが「絶対悪」なんでしょうし、客観的にみれば「ケンカ両成敗」で、どっちもどっちということにならないでしょうか……ここで、私は、今読んでいるヘーゲルの『精神現象学』のことを思い出すのですが……この本は、まだ読んでいる途中なので、あんまりなにも言えないんですが、でも、言いたい。

ヘーゲルというと「弁証法」で、弁証法というと「正ー反ー合」、つまり、テーゼとアンチテーゼが止揚されてジンテーゼになって……という、学校で習った「図式」が思い浮かぶわけですが……実際に元の本を読んでみると、ずいぶん印象がちがいます。ヘーゲル弁証法の図式的理解では、テーゼとアンチテーゼは、ジンテーゼを産むための材料?みたいな感覚で、その結果として生まれるジンテーゼがだいじで、まるで桃から産まれた桃太郎みたいにメデタシメデタシ……となるんですが、実際のヘーゲルは、もう「血みどろの闘争」で、対立する両者は絶対に引かず、お互いがお互いを「悪」として、相手を完全に崩壊消滅させる、ただそのことのみに全力を注ぐ……

なので、その戦いはもう悲惨そのもので、まったく妥協点がない。そんな、ジンテーゼみたいなものを産みだしてやろうなんて互いに毛ほども考えておらず、ただ、相手を滅ぼし、この世界から抹消することしか考えない……これはまさに、今のイスラム国と「有志連合」の状態そのものだ……もう、リクツもなにもなく、相手は「絶対悪」であって、この地球上から相手を消し去ってしまいたいという……ただ、そのことのみで悲惨きわまるぶつかりあいを続けています。これって、ホント、どう考えたらいいんでしょう……と悩むわけですが、ただ「イスラム国が<悪い>のは当然の前提なんですが、その上で……」という話のしかただけはしてはいけないと思う。

イスラム国とか、あるいはボコハラムとか、その他イスラム過激派の言ってることって、ずいぶんショッキングだと思います。奴隷制の復活とか、女性には教育を受けさせないとか……人類が、何千年もかけてようやく到達した「今の状態」を、ちゃぶ台返しみたいに根底からひっくり返して時計の針を巻き戻そうとしているかのような……それで、今の「文明世界」はゲゲッと驚いて、「それはまず、ありえんでしょう」ということになるわけですが……でも、今の、この先進国中心のものの考え方が「人類スタンダード」になってしまっている状況を、思いっきりひっくり返すというか、問い直す、これはもっとも鮮烈な考え方であると見ることはできないのかな?

なんていうと、「お前はイスラム国の味方か!奴隷制を肯定するのか? 女性には教育はいらんというのか!」ということになるので困るのですが……でも、そういった「健全な考え」を無条件に前提とした今のこの「文明社会」において、人々がなにも考えずに目先の幸福の追求や、自分と家族の幸せだけを考えて日々を送っている……その、見えない地脈のかなたにおいて、なにやらぶきみで複雑な動きが起こり、それが知らぬ間に成長して、ある日、「文明社会」のただなかに噴き出す……人は、それを「テロ」だというかもしれませんが、その「根」を産んでしまったのが、自分たちの「なにも考えない幸せなくらしの追求」であったことにはけっして気がつかない。

いや、気がついているのかもしれませんが、それは、実感としては感じていない。だから、テロの犠牲者に対して、「罪のない人々が殺された」という。で、テロをやった側を「極悪非道で凶暴で残忍な卑劣漢」みたいな……しかし、自分たちの「文明社会」を形成してきた根本的な考え方自体が、今、問われているのだ……というところにまでは結局、至りません。自由や平等、民主主義や、科学技術の与える快適な暮らし……今の「文明社会」が、もう無条件に「善し」としているものの「根底」を疑うべきだ……もしかしたら、イスラム国のつきつけている「本当の意味」というものは、そこにあるのではないだろうか……そういう可能性は、ホントにゼロなんでしょうか?

ものごとは、結局、すべてが相対的で、絶対悪、絶対善というものはない。そういうことなのかもしれませんが……私は、もし本当に「絶対悪」というものがあるとすれば、それは「原子力」で、これだけはもう、なんの弁明の余地もない「悪」だと思いますけれど(これについては、別のところで書いてますが)、それ以外のものごとはみな相対的で、「おまえは悪だ!」と決めつける、そういう考えの方にモンダイがあるんじゃなかろうか……やっぱり、そう思ってしまいます。ものごとを、片面から見ないこと。あっちの側に立ってみたらどう見えるんだろう……常にそういう視点を失わない……これって、なかなか難しいことだと思いますが……

イヤなものをいくら拒否しようと、それが「存在する」のは「事実」なのだから、「悪だ」という言葉だけで否定しても、なにも解決しない。イスラム国の問題は、「文明社会」の人たちが考えているみたいに、少なくとも「ボクメツ」するだけではすまないし、そういうことも、結局できないでしょう。「イスラム国」という存在ではなく、「イスラム国現象」として考えてみた場合、モンダイの意外な広がりと根深さに気がつく。人類社会は、数千年をかけて、どういうところに到達したのか……最近、TVで、スティーヴン・ピンカーさんという方の、「実は、暴力は減っている」というスピーチを見ました。以下のサイトで、その概要を知ることができますが……

1月7日放送 | これまでの放送 | スーパープレゼンテーション|Eテレ NHKオンライン
スティーブン・ピンカー: 暴力にまつわる社会的通念 | Talk Subtitles and Transcript | TED.com

この方は、ハーバート大学の心理学の先生で、いろんなデータを駆使して、「暴力は確実に減っている」ことを論証……なかなか説得力があるお話で、感心して聞いていたんですが……要するに、みんな無意識に、現代に至るほど人類社会は残酷で暴力的になりつつあると思っているけれど、実は逆なんだと。報道の発達でそういうシーンを目にする機会が多くなっただけで、ホントは昔の方がはるかに暴力的だったんだ……と。このお話からすると、イスラム国なんか、せっかく築いてきた平和な人類社会を全否定して、昔の「暴力の時代」の復活を企む、まさに悪魔のごとき……となるんですが……ちょっと待てよ……と。たしかに、人々の意識から、暴力的で残虐なものは、追い出されつつある……

それは確かだと思うのですが、でも、追い出された暴力的なもの、残虐なもの……そういったものを好む人の思いの「根っこ」は、はたしてどこへ行くのだろうか……さらにいうなら、人は、人に対しては暴力を控えるようになったのだとしても、では、人以外の存在に対してはどうなのか……クジラやイルカなんかは必死で守る人もいるけれど、現代文明というものは、昔に比べて、はるかに「自然」に、大きな負荷をかけているんではないだろうか……そこんところは、西洋的な考え方ではオッケーになるんでしょうか……いやいや、環境問題への取組みは、西洋文明の諸国こそが先進的なんだと……そういうことかもしれませんが、でも、ちょっと待てよ……と。

環境問題に熱心になるのも、最終目標が、「人間が住めなくなると困る」という、人間の利己的動機だったとすれば、それは結局「人にはやさしく、そのために、自然にもやさしく」ということで、それはおんなじこと。あくまで自然は、人間が利用するためにあるのだ……西洋スタンダードの発想は、結局、どうしても、こういう人間中心の考えを抜け出ることはできないのか……最近公開された映画の『地球が静止する日』じゃないですが、「地球と自然を守るために人類を滅ぼす」……イスラム国と有志連合の、互いに互いをサタンとののしっている掛け合いを見ていると、実は、根底で、このプロセスが、静かに進行しているんじゃなかろうか……とも思えてきます。

浜の真砂は尽きるとも、イスラム国の種はつきまじ……ものごとは、その見えてる現象の奥に、ずーっと、暗い、深い世界にまで達する「根」があって、表層の「悪」を刈りこむだけではなんにも解決しない。じゃあ、その根をなんとかしたい……と思って掘り下げていくうちに、実は、自分たち自身がその「根」にしっかりつながっているのを知って愕然とする……人類社会は、「良くなった」んじゃなくて、実は、「良くなったように見えている」だけなのか……ヘーゲルさんの『精神現象学』に、上昇する「アウフヘーベン」よりも、下降する「ウンターゲーエン」の必要性を読んでしまうのは、これは正しい読み方じゃないかもしれませんが……どうなんでしょうかね……

写真は、うちの近くの田んぼの畦みち……冬の朝日の光を受けて、なにか祈っているように見えた……中央に見える、四角い屋根のある小さな構造物は、イノシシから田んぼを守るための電気柵のコントロール装置です。ここらあたりでは、数年前からイノシシの数がやたらに増えて、田畑を荒らし、土手を壊し……もうタイヘン。こうやって、スタンガンなみの電気ショックで「防衛」したり……昨年は、小川に逃げこんだうりんこ(イノシシのこども)を村のオジサンたち数人が追いまわし、撲殺している光景をまのあたりにしてしまった……棒で、うりんこを何度もなんども殴る。息絶えるまで……なぜ、イノシシがこんなに増えたのか……そこは不問。ただ、殺す。

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オスカー君、スゴイ!……正義と公正への道/You are great, Oskar!

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自身の被害感の中に、黒く沈む心……「ワリくってるのはオレたちだ……」これは、「正義感」への芽かもしれないが、それはもうすでに黒くただれて腐った芽……正義と公正へ向かう一歩かもしれないけれど、それはどこまで行っても「自分のため」だけの正義と公正……ということで、もうちょっと、「盲導犬刺傷事件」の犯人のことを考えてみます。

こういう歪んでしなびた心が、きちんとした「正義と公正」に向かうことがあるんだろうか……というと、それは「ない」気がする。ホントの「正義と公正」に向かう心は、最初からもっと違うんじゃないか……たとえば、刺された盲導犬のオスカー君の心みたいな……自分が刺されているのに、まったくゆらぐことなく「自分の役割」だけをまっとうする……

このオスカー君の心の方が、刺したヤツのねじくれた黒い心よりは、はるかに「正義と公正」に近い……これは、だれしも認めることだと思います。むろん「盲導犬は飼い主の目だから……」という人間のことしか考えてない発想よりもはるかに「人間的な」、「正義と公正の感覚」を持ち合わせている。オスカー君は犬なので、人の言葉はしゃべりませんが……

もし、彼がしゃべることができたら……という発想は無意味ですね。もし、しゃべることができても、彼はなにも語らないだろう……ただ、黙々とみずからの「役」をこなすのみ……われわれはここで、「沈黙の力」にうたれます。ヘイトスピーチの、あの「ぎゃあぎゃあ」とは雲泥の差だ。恥ずかしいとは思わないのか……あの方々は……

なにも語らず、ただ黙々とみずからに与えられた「役」をこなす……これは、「奴隷の発想」だという見方もあるかもしれない。たしかにそれはそうかもしれませんが……私は、こどものころ、『ロビンソン・クルーソー』を読んで、かすかな違和感を覚えた。それは、クルーソーが「奴隷の」フライデーに対する、その態度というか見方というか……

あまりはっきりは覚えていませんが、「忠実な友」みたいな扱いだったと思います。でも、これって矛盾してる。クルーソーに「忠実」ということは、彼のいうなり思うまま……で、そこを「友」と評価する。じゃあ、ちょっとでも反対意見を述べたらもう「友」じゃないのか……ビーグル号でのダーウィンと艦長フィッツロイは、「奴隷」の扱いをめぐって口論に……

激高したフィッツロイは、ダーウィンを食卓から追い出してしまったといいますが……(あとで謝って仲直りしたというけれど)ヨーロッパ社会は、こういう「考え方の違い」を徹底的にぶつけ合うことで形成されてきた。ときに、それは暴力沙汰になろうとも……で、彼らは、そうやって徹底的に反論してこないものたちを「奴隷」にしていったのでしょうか……

たぶん……おそらく、ですが、彼らは、徹底的にやり合うことによって、その対立の果てに、「対立を超えるもの」をきっと見つけられる……そういう思いはあるんだと思います。プラトンの対話篇を読んでもそう思うし、ヘーゲルの『精神現象学』なんかでも妥協なく、お互いが滅びてしまうまで徹底的にやる。ローマとカルタゴの戦いもそうだったし……

黒く、ねじまがった「自分だけの正義感」が、きちんとした「正義」に育つルートがもしあるとするならば、もはやこういう道しかないのかもしれません。とにかく、いっさいの妥協を排して、お互いが滅びるまで徹底的にやる。両者が滅びたあとに「これではさすがにいかんかったなあ……」という、ホントの「正義と公正」に向かう芽が出るのか……

しかし、オスカー君の考え方は、まったく違う。そういう「徹底した対立の道」ではないルートをわれわれに示してくれて、みごとです。マッカーサーは日本人のことを「12才」と言ったが、彼がオスカー君のことを知ったら「0才だね」というかもしれない。いや、「犬のようだね」というかもしれません。まあ、そりゃそうだ。実際、犬……

なんですが、私には、人間、少なくとも彼を刺した人間なんかよりはるかに立派に見える。刺した人は、こんどはぜひ、盲導犬に生まれかわってくださいね、と言いたくなる……まあ、せっかく犬に生まれかわっても、訓練の初期で脱落するでしょうけど。「魂の輝き」みたいなものはやっぱりあって、オスカー君みたいな「任」をになえる魂というのは……

やっぱりあるのでしょう。私にソレができるか……と問われれば、やっぱりできないと思う。四六時中、自分のことばっかり考えている。自分の幸不幸、自分の未来(もうあんまりないけど)、で、あとは家族のこと……友だちのこと……せいぜい、考えが及ぶ範囲はそこまでで、この範囲に「害」を及ぼしてくるヤツは、やっぱり「敵」とみなす……

昔、政治家という方々が嫌いでした。今でも嫌いなんですが……でも、彼らが、「自分のこと」から出ようとしていることだけは、ようやくわかってきました。「被害感」でなみなみと満たされた「一般大衆」は、「政治家はきっと裏でいっぱい悪いことをやってる」と思う。私もそう思ってたし、今でもやっぱりそう思う。でも、待てよ……

自分があの立場に置かれたら、どうするんだろうか……ABくんが、園遊会で天皇に直訴した某議員のことを評して「アレはないよな」と言った。なるほど……やっぱりこの人、首相という立場に立ってるだけのことはあるなあ……言ってることもやることも「ウソ」だらけでまったく信用できないんだけれど、この一言にはちょっと感心……

「正義と公正への道」……オスカー君は、もう無言で達成しているけれど、人間にはなかなか難しい。ガンジーの「非暴力・不服従」が、人間にできる、ソレにいちばん近いものかもしれない……でも、オスカー君は、「非暴力」に加えて「絶対的服従」なので、ここが人間とまったく違う。人から見れば「奴隷の態度」なんですが、はたしてどうなんでしょうか……

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インド独立の父、マハトマ・ガンジー。この方は、なぜか日本のインキ消しの商標になってしまってます。最初に掲げた画像なんですが……大阪の丸十化成という会社が出している、2液式の修正液で、赤い液と透明の液の小瓶が並んで入っている赤い箱が、昔はどこの家庭にも一つはありました。いつのまにかみなくなりましたが……

まだ、発売はされているようですね。この会社は、昭和10年(1935)に野口忠二さんという方が起こされて、翌年からこのインキ消しを発売したそうです。おりしも、昭和5年(1930)には、ガンジーの独立運動で、有名な「塩の行進」が行われていた……野口さんは、ガンジーの「非暴力」にいたく感激して、商標に使うことにしたとか……

詳しく書いてあるサイトがありました。
http://www.maboroshi-ch.com/old/sun/toy_16.htm

強いヤツの中の弱いヤツ/Weak guys among strong guys.

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盲導犬がフォークとおぼしきもので、身体の四カ所を刺された……でも、吼えもせず、騒ぎもしなかったので、飼い主はずっと気がつかなかった……このニュースを聞いたときに、「あんたん」たる気持ちになりました……まず浮かんだのは、「刺したヤツを死刑に」という言葉だった。でも、このニュースの含むものは、それだけでは済まなかった……

なんでそんなことをしたんだろう……と思って考えていくと、自分が「ゼッタイにそんなことをやらない」とは100%言い切れない……ということにつながって、こんどは「がくぜん」とした。むろんやらないんだけれど、やったヤツの気持ちが「まったくわからん」とはちょっと言い切れない。わかる、とはいわないけれど、わからん、ともいえない……

街を歩く盲導犬。やっぱり犬だし、それもけっこうでっかい犬なので、犬の持ってる「コワさ」みたいなもんはどうしても共通してある。電車にも乗るし、レストランにも入る。そういう、「フツー犬が入ってはいけない場所」にも自然に入ってくる……テレビなんかで盲導犬のことはよくやってるから、それは「公共的に」許可されてることはわかってる……

おそらく、刺した人物も、それは知っていたのでしょう。でも、自分の「ヤだな」と思う気持ちに勝てなかった……テレビでは、盲導犬関係の人が、「盲導犬は、飼い主の<目>だから、犬に対する攻撃は、飼い主の<目>に対する攻撃」と言ってた。この言葉には、イジョーに反発を覚えた。これ、ある意味、刺したヤツといっしょだ……

そーですか……盲導犬は、飼い主の「目」にすぎんのですか……なんという人間中心の考え……犬がかわいそうではないんですか……飼い主の「目」がかわいそうなんですか……刺した人物は、おそらくそんなことは考えてなかったと思いますが、その行為には、こういう「盲導犬をつくりだした人間社会」に対する反発が……

刺したヤツは、「強いヤツの中の弱いヤツ」だと思います。この点、ヘイトスピーチといっしょ。「なぜ、あんなヤツらの利益を守るんだ、オカシイ!」という、社会に対するこういう思いが、あのナサケナイ行進を呼ぶ……ナチスの台頭のときもそうだった。「なぜ、ユダヤ人が野放しにされてるんだ!」

マイノリティは、成熟した社会では、法律で守られます。でも「強いヤツの中の弱いヤツ」にはこれが納得できない。なんであんなヤツらの利益を、国が守ってやんなきゃならないんだ……ヒドい目に会ってるのはオレたちなんだ……オレたちをほっといて、あんなヤツらを、この社会は守るのか……「強いヤツの中の弱いヤツ」はこういう。

今回の「盲導犬刺傷事件」にも同じような「沈黙の叫び」を感じる。「強いヤツの中の弱いヤツ」は、自分が、いつもワリをくってる……くわされていると感じる。それで、社会や法律によって守られてるマイノリティを見ると、「あんなヤツらのためにオレたちが……」となる。
「強いヤツの中の強いヤツ」はたぶんこうはならない。

というか、なる必要がない。強いので……「強いヤツの中の弱いヤツ」は、自分が「強いヤツ」の中にいることを知らない(フリをしている)。被害感情がなみなみと注がれているから、それは自然にあふれかえってヘイトスピーチになったり、盲導犬をみるとフォークで刺したくなったりする。盲導犬が……

攻撃を受けても、人間にはゼッタイに反撃しないということを知ってやってる。まさに「強いヤツの中の弱いヤツ」の真骨頂だ……ここまで「堕ちる」ことができるのか……「強いヤツの中の弱いヤツ」は、自分で自分を救うしかない。自分がそういう気持ちになるとき、やっぱり「オレってサイテイ」と思う心……

コレがだいじだと思います。コレがないと、ホントにやっちゃう……ユダヤ人400万をガス室に送ったのは、こういう「強いヤツの中の弱いヤツ」でした。でも、今度は、やられたユダヤ人が、パレスチナに同じことをやってる……「被害感情」は、必ず「弱いヤツ」のものだ。「強いヤツ」は当然、こんな余分なモノは持ってない。

でも、多くの人間は、やっぱり「弱いヤツ」……それは、自分も当然含めてなんだけれど……だから、「盲導犬に対する攻撃は飼い主の<目>に対する攻撃」なんて言葉が平気で言える。これにかんするかぎり、どっちもどっちだ。犬を人の<目>として使うなんて発想は、やっぱり、コレ、ヨーロッパのものでしょう。

昔は、奴隷をそうやって使っていた。そういう社会の中から「盲導犬」が生まれ、大虐殺も生まれる。法律でマイノリティの権利を守るということは、そうしなきゃならないような必然性が社会自体の中にあるから……だから、力と力の抗争になる。ヘイトスピーチのような「汚物」も、当然そこから生まれてくる……

「汚物」……「強いヤツの中の強いヤツ」は、逆にヘイトスピーチを批判している。国際的に恥ずかしい行為だと。で「日本人よ、誇りを持て」という……なんという無神経な言葉……まあ、「強いヤツ」の言葉です。フツーの「弱いヤツ」は誇りもなんもない。ただ、「被害感」がなみなみとあふれて、溺れている……

この、平成日本という社会も、だんだん危ないところに近づいてきたなあとつくづく思います。みんなが「強いヤツの中の弱いヤツ」になっていく……それは、結局「弱いヤツ」の社会だ……どうなるのでしょうか……最後に、今読んでるヘーゲルさんの『精神現象学』の中から、ちょっと関連ありそうなところを……

『意識のもとにあるこの自然が「感覚」と呼ばれるもので、それが意志の形をとってあらわれたのが「欲求」とか「好悪の情」と呼ばれるものだが、それは自分独自の確固たる思いや個別の目的をもっていて、だから、純粋な道徳意志や意志の純粋な目的に対立するのである。が、純粋な道徳意志にとっては、この対立を押しのけて、感覚と意識の関係を、もっといえば、感覚と意識の絶対の統一を、作りだすことが肝要である。意識のもとにある純粋な思考と感覚とは、もともと一つの意識に包含されるもので、純粋な思考とはこの純粋な統一を自覚し、うみだすものである。が、意識にとっては、思考と衝動の対立は否定のしようがない。そのように理性と感覚が対立するなかで、理性のとるべき態度は、対立を解体し、両者の統一という結果をもたらすことである。この統一は、両者が同一の個人のうちにあるという当初の統一とちがって、対立の認識を踏まえてそこから生じてくる統一である。そうした統一こそ現実の道徳と呼ぶにふさわしいもので、そこには、現実の意識としての自己と共同的なものとしての自己との対立がふくまれている。いいかえれば、見られるように、道徳の本質に根ざす媒介の運動がそこには表現されているのである。』(長谷川宏訳:ヘーゲル『精神現象学』p.411から)

なるほど……こうやって、ヨーロッパの思考は、「道徳」というものを社会的に形成してきたのか……個人のうちにとどまる段階と、それが社会共同体の中で展開される段階……しかし、ヘーゲルさんの思考は、この部分では「まっとう」に見えるけれど、やっぱりこれだけでは済まないのでした……そこが、おもしろいところなんですが。

グールドというピアニスト

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グレン・グールドというピアニストについては、もういろんな人が書いているので、今さら私が書いてもはじまらないかもしれませんが……でも、やっぱり書きたい。ホントに「天才」というのは、たぶんこんな人のことを言うんでしょう……暗算少年とかパフォーマンス的にスゴイ人はいっぱいいるけど、人類の文化に、なんらかの「意味」のある足跡を残せないと、それは単なる「見せ物」になって、ホントの意味で「天才」というには値しないと思います。で、人類の文化に足跡を残す……って、なんだろうということなんですが、とりあえず、その人がおるとおらんでは、「人類の意味」自体が変わっちゃうんじゃないだろうか……と思えるくらいのスゴイ人……

このレベルのスゴさって、たとえば思想でいうならヘーゲルとかマルクスとかプラトンとか……ソレ級。絵描きで思い浮かぶのは、やっぱりピカソとかマルセル・デュシャンとか。音楽だとバッハ、ベートーヴェンはまずまちがいなくそう。で、グールドさんも、やっぱりソレクラスじゃないかと……演奏家であって、作曲家じゃないんですが(曲もつくっておられたみたいだけど)、とにかく、「対位法音楽」というものの真の姿を見せてくれた……でもそれだけじゃまだ「天才」とはいえないかも……ですが、もうちょっと構造的?な業績としては、やっぱり、「媒体を通して現象する音楽」というものに逆転的な価値を与えた人として、思想の分野で持つ影響も少なくないのでは……

彼以前は、レコードって、やっぱり補完的な位置付けだったと思うんですよね。実演がホンモノで、レコードは代用品。ホンモノを聴かないと音楽を聞いたことにならないんだけれど、そういう機会もなかなかないので、レコードを聞いてホンモノの演奏に心を馳せる……そういう感じだった。ところが、グールドさんの演奏には、「生演奏」というホンモノが、もともとない。スタジオレコーディングは聴衆を当然入れず、スタッフだけで行われるから、これは「演奏会での演奏」という意味でのホンモノではない。単に、レコードを作るための録音作業にすぎない?わけで……「ホントの演奏」は、レコードを買った人が、自宅のプレーヤーに針を落とす……そこではじまる?

コレ、それまでだれもが夢想だにしなかった革命的なできごとといっていい。要するに金科玉条のごときご本尊である「実演」がない。というか、レコードを買った一人一人が、いろんな装置で、いろんな部屋で、いろんなことをしながら聴く……その一回一回が「実演」なのだ……なんでこの人、ここまで割り切れたというか、進化できたんだろーと驚異的に思いますが、その演奏を聴いていると、なんとなく感じるところがある。それを書いてみますと……まるで、打ちこみみたいだ……これが、私の率直な感想です。とにかく「音」に対する正確さが比類ない。ここまで「音」をコントロールしきれた演奏家は、それまでだれもいなかった……

はっきり言って、グールドさんは、他のピアニストに比べて、テクニック的にはるかに擢んでている。これはもう、だれもが認める事実であろうと思うのですが……その「差」がフツーじゃなくて、何十倍、何百倍もあるような気がする。基本的に、彼くらいのテクニックに達しなければ「ピアニストでござい」と言って名乗るのは恥ずかしいんじゃないか(いいすぎですが)……まあ、現代のピアニストであれば、彼と同程度のテクニックを持つ人もおられると思いますが、彼の時代では、彼は、テクニック的に飛び抜けてました。まるで、3階建ての建物の横に500階の超高層ビルがそびえているように……その「音」に対するコントロールの正確さは、まるで「打ちこみ」のごとく……

試みに、今ネットで聴けるいろいろなピアノ音の打ちこみを聴いていると、ホント、グールドさんそっくりです。いろんなピアニストのいろんな演奏があって、それぞれ、高い評価を受けている人もいるけれど、テクニック的にはグールドさんにははるかに及ばない。「音楽性」という言葉もあるわけですが……私の聴いた範囲では、ホントに「音楽性」でまた別な高みに達した人って、リヒテルとケンプくらいではなかろうか……まあ、あんまり広範囲には聴いてませんので、こんなこというとお叱りを受けるかもしれませんが……最近の方でいえば、ピエール=ロラン・エマールさんくらいか……いや、読んで不愉快に思われる方がおられるといけないので、「比較」はこれくらいでやめておきます。

要するに、私がいいたいのは、グールドさんは、もともと、他のピアニストとは求めるところが全く違っていて、そこのところが充分に「思想的」といいますか、音楽というものに対して、マーケティングまで含んで、発生(個の著作)から受容(個が聴く)に至る全体のプロセスに反省的意識が充分に働いていて、それが、単に音楽のジャンルにとどまらず、人類の文化全体にかんしていろいろ考えさせられるなあと思うわけです。要するに、やっぱり「個」と「普遍」の問題で……たとえば、「生演奏」を聴きにホールに集う聴衆は、一人一人は「個」なんだけれど……そして、演奏する音楽家もやっぱり「個」なんだけれど、その間には、ふしぎな「普遍」が介在していて、よく見えなくなってます。

私が理想とする演奏形態は、たとえば友人にピアニストがいて、彼の家に夕食に招かれて、食後に、彼が、集った数人の人のために客間にあるピアノで数曲奏でてくれる……そんな感じが、ホントの「生演奏」ということではないか……介在するものがなにもなくて、演奏する個としての彼と、聴く個としての私が直接に演奏によって結ばれる……これに比べると、ホールでの演奏は、演奏する個と聴く個の間に、絶対に「欺瞞」が入ると思います。要するに……音楽には直接関係のないなんやかや……お金やネームバリューや、演奏をきちんと味わえるかしらん?という気持ちとか……演奏する側においてもやっぱりそうで、余分なもろもろ……そういうものがジャマして不透明になってる。

しかし、グールドさんの場合には、これは、グールドさんという「個」が、私という「個」のために直接演奏してくれてる……みたいな感じがあるわけで、このあたりも「打ちこみ」と似てます。まあ、CDもタダじゃないんだけれど、演奏会に比べればはるかに安いし、何度でも繰り返し聴くことができる。場所も、家でもクルマでも、歩きながらでも……私は、以前、阪神淡路大震災のとき、神戸に住む友人宅をたずねて、神戸の町を歩いたことがあるんですが、そのときに、グールドさんの『パルティータ』(むろんバッハの)をウォークマン(もどき)でずっと聴いていた。震災で悲惨な状態になった街の光景とあの演奏が、もう完全にくっついて忘れられない……

でも、でもですよ……他のどんな演奏家でも、CDで、いつでもどこでも聴けるじゃありませんか……というのだけれど、なんか、どっかが違う。やっぱり、グールドさん以外の演奏家は、演奏会が「ホント」でディスクは「代用」。そんなイメージが強い……私がここで思い出すのは、カール・リヒターの「地獄のゴールドベルク」。このタイトルは、私が勝手に付けてるだけなんですが、このディスク、まれにみる「ぶっこわれた」演奏……聴いてると、もう、どうしようか?と思っちゃうんですが……1979年にリヒターさんが来日して、東京の石橋メモリアルホールというところでゴルトベルクを弾いた、その録音なんですが……もう最初から、なんか危機感をはらんではじまって……

とにかくミスタッチの山……うわー、これがあの、厳格きわまるリヒターさんの演奏なの??とぎょぎょっとしながら聴いてると、そのうちに「楽譜にない」道をたどりはじめ……と思うと前に戻ってやりなおし……悪戦苦闘しているうちに、もう演奏自体が「玉砕」してすべては地獄の釜の中に投げ入れられて一巻の終わり……あとに残るは無惨な廃墟のみ、という、もう信じられない破滅的なリサイタルになったんですが……よくこの録音、ディスクとして出したなあ……しかし、なんか、いままでの端正の極地のリヒターさんのイメージががらがら崩れて、そこに現われ出たのは原始の森をさまようゲルマン人……うーん、ホントは、彼は、こんな人だったのか……

この演奏会は、聴きものだったでしょう。現実にあの場にいた人は、みんな肝をつぶして、どーなることかとハラハラしながらいつのまにかリヒターさんの鬼のような迫力に引き込まれていったに違いない……そうか……演奏会の真の姿って、これだったのか……で、ここに比べると、メディアの海にダイヴしたグールドさんの演奏は、やっぱり打ちこみだ……でも、なぜか、このリヒターさんの「地獄のゴールドベルク」と共通の「熱い魂」を感じます。あの、震災の街……それまでの人々の生活が根こそぎ破壊されたあの街をさまよう私に、それでもまだ、人の思いはちゃんと残っていて、また新しく、人の生きる場所をつくっていける……と静かに語りかけてくれたグールドさんの音……

いろいろ、考えさせられます。個と普遍の問題は、そんなにカンタンに割り切れるものではなくて、これは、そこに立ち会う人によって、その人にとって、その場、そこにしかないなにか大事なものをもたらしてくれる。グールドさんは、たくさんの「個」、そのときの個だけではなく、これから未来に現われる数えられないくらいの範囲の個に対して、きちんと自分の「個」としての音楽を届けたいと思った。そこに現われるのは、やっぱり「他の中に生きる」という基本姿勢だったのかもしれない……演奏会が「地獄のゴールドベルク」となって崩壊したリヒターさんの思いも、やっぱりそれは同じだったんでしょう……そうならざるをえない「介在物」の巨大さを、改めておもいしらされます……

*リヒターさんのディスクを改めて聴いてみましたが、最初のアリアから、ミスタッチではないもののヘンな音程の音が混ざってきます。これ、調律にモンダイがあったんではないだろうか……調律の狂ったチェンバロを弾くうちに、なんかやぶれかぶれの自暴自棄に……でも、調律なんか、事前になんども確認するはずだし、ヘンだなあ……と思って聴いているうちに、なぜかひきこまれてしまう……ものすごく興味深い演奏です。これ、やっぱりスゴイディスクだ……

今日のmanga:がびぞりくんの一日・誕生の巻

がびぞりくんの一日

 

「泳げたいやきくん」と「だんご三兄弟」と「黒猫のタンゴ」。この三つは、新作ヒット童謡御三家といいますか……それぞれにはやった時代の雰囲気まで思い出されて、ファッションってすごいなあと思います。

「自我」という言葉は、いい意味にも悪い意味にも使われますが、ホントはたぶんどちらでもない。いいの悪いの……というのは「まわり」の問題であって、たぶん本人には、「どうしようもないこと」の一つなんだと思います。

まあ、これに「欲」がくっついて「自我欲」となりますと、これはほぼ悪い意味になる。思い出すのはドイツの歴史で、17世紀初頭に30年戦争で国や宗教や王家の利害の対立の戦場になって荒れはてて……ドイツ国民が「自我」に目覚めたのは、やっぱりお隣のフランスの、あの革命さわぎを目の当たりにして……ということだと思いますが、ヘーゲルの哲学やベートーヴェンの音楽なんか、まさに「ドイツ民族の自我の目覚め」って感じですが、それが結局、あの「ナチスの暴虐」へと帰結……

では、日本はどうなんだろう……ということなんですが……今、日本人とか日本民族のアイデンティティとか、ぶきみな方面からの働きかけが強まりつつあるように思いますが、「日本」という「自我」の起源って意外に新しくて、おそらく明治時代、それも明治中期以降なのかなとも思います。たかだか百年ちょっと。それまでは、日本は、藩という小国の連合体だった??……まあ、このあたりは、日本史に詳しい方におまかせですが……

個人の「自我」については、やっぱりこれは相当に苦しいもんですね。幼い頃から思春期、そして、いろいろ社会的責任が出てくる働きざかり……それぞれに「自我」のあり方は変わってくるのでしょうが……ただ、一貫して、「自我」と「自由」はセットだと思います。大人になると悪知恵が働いて、なんか見かけは「公共の福祉」のカタマリみたいな顔をして、その中にそっと「自我」を忍ばせて、結果的には広い範囲を自分の自我のままに動かしていく……まあ、そういうことに長けた方が社会的に伸びていくわけですが、これが、「器量」とか「人徳」とかとないまぜになってわかちがたくやっかい……まあ、「大人の社会」って、そういうもんかな?

あるいは、「自我」と「役割」。これもわかちがたく結びついてやっかいですね。どういうふうに処理していったらいいのか、いまだにわからない……まあ、「絵描き」という職業は、「自我のカタマリ」なんですが、これはけっこう直接的な表出でわかりやすい。これに対極にあるのがたぶん「公務員」という職業で、これは「隠密自我王国」になる。実体としては、すべてにおいて「人の自我」は同じ。ただ、「自我」は伏せれば伏せるほど「安定」につながるということは言えると思います。

モノ……植物……動物……人間……こうやって「自我」は増大していきますが、その先にある?「超人」。「超人の自我」って、どうなのかな? そこまでいくと自我は消滅?? でも、もしかしてさらに発展進化してたら、これはオソロシイと思いますが……

今日のehon:世界精神の落日(つづき)

ヘーゲル

世界精神……というと、やっぱりヘーゲルさん。哲学の世界にそびえる巨大な山……フツーに、読めません。ホンヤクしてあっても。『精神現象学』をずっと読んでますが、なんと一年に7ページしか進まない。これじゃあ、死んで生まれ変わってまた死んで……何回輪廻転生をくりかえしても読めない。なんでこんなにわからんのだろう……

ヘーゲルは、ナポレオンのことを、『世界精神がウマに乗ってる』と言ったそうですが、ナポレオンの台頭と失脚は、彼の哲学にかなり甚大な影響を与えたみたいですね……で、もう一人、ナポレオンにかなり深刻な影響を受けた方……あのベートーヴェン氏。分野は音楽ですが、なんかすごくヘーゲルと感じが似てます。年も近いみたいだし。

ベートーヴェンと思って調べてみましたら、二人はなんと、同じ年(1770)の生まれでした。没年も、ヘーゲルが1831年でベートーヴェンが1827年。二人の生涯はほぼぴったりと重なっております……ちなみにナポレオンは1769年生まれの1821年死去で、やっぱりほぼ重なる……この3人、「世界精神3兄弟」だ……すごい……担当分野はそれぞれ、思想、芸術、そして政治。

ナポレオン

「ヴェルトガイスト・ブラザーズ」(独英ちゃんぽん)で売り出したらどうか……というのは冗談ですが、19世紀の幕開けって、そんな感じだったんですね……で、この時代、日本はどうだったかというと、江戸時代も中期で、田沼意次はナポレオンが生まれた1769年に老中格(準老中)になってます。このあと、松平定信の寛政の改革が1787年~1793年。上の3人の青春時代ですね。

では、「新大陸」はどうかな? 調べてみると、アメリカの独立宣言が1776年で、これはヘーゲルとベートーヴェンが6才、ナポレオンが7つのときですね。アメリカも彼らと同時代人? いや、人ではないけれど、なにか「新しいこと」が西と東で同時にはじまったような……要するに、これが「世界精神の夜明け」ということになるのかもしれません。

そのあと、世界精神は、短いけれど豊かな「昼の時代」を迎えます。工業化による大量生産と植民地からの収奪を基盤にした市民社会の繁栄……19世紀初頭にナポレオンははやばやと舞台から去り、大英帝国が世界を席巻する中で、徐々にアメリカが頭をもたげてくる……19世紀の後半に入るとアメリカは南北戦争で国の基礎を固めるが、その頃、日本もやはり幕末で列強の体制に参入する準備を着々と整える。19世紀は、過去からの潮と未来からの風がぴったり合わさって「人類力」の加速度ベクトルが最高潮に達した、ある意味幸せな時代だったのかも。

では、「世界精神の落日」は……というと、やっぱり20世紀初頭、おそらく1911年くらいからではないだろうか……世界は、またたく間に2度の世界大戦に呑みこまれ、「世界精神の凋落」は決定的となる。しかし、人は、残滓のようなわずかな光芒にしがみつき、そのあがきはついに世紀を越えて今にまで至っている……長い、長~い「落日」は、はたしてどこまでつづくのでしょうか。