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短々話:ゆるキャラチューリン/Yuru-Chara Turing

ゆるキャラチューリンC_300
ショートショートを書いてみました……

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私の職業はチューリングテスター。チューリングテストって、知ってるかな? アラン・チューリングって科学者が開発した、人工知能の性能を判別する試験なんだけど、てっとりばやくいえば、ブラックボックスの中にコンピュータを入れといて、いろんな質問をして、中に入ってるのが人間かコンピュータかを当てるっていうテストのことだ。

ここは、イベント会場。舞台の上にはいろんなゆるキャラがずらっと並んでる。一体ずつ呼び出されて、人間と並んで同じ質問を受ける。その答え方によって、ゆるキャラの中に入ってるのが、人間かコンピュータかを判定するのが私の仕事だ。ん?なんでそんなことをやるかって? まあ、昔は、ゆるキャラの中に入ってるのはみんな人間だったけど……

近頃は、人工知能の進歩で、そんなヤツが中に入ってるゆるキャラもいる(らしい)。で、私のような職業が成立するわけさ。そんなことしてどうするのって? まあ、それは、イベント。客寄せのイベントだね。みんな、あのゆるキャラは人間なのかコンピュータなのかって気にしてる。だから、その判別テストをやる。これがけっこう人気でね。

いろんな質問をしてみる。たとえばこんなふう。「このしんしはしんしのこ。ハイ、これは回文でしょうか?」人間だと、やっぱ、ちょっと考えるよね。コンピュータなら一瞬で判断できる。でも、即答するとバレちゃうから、いかにも人間が考えて答えるような間をおいて答えてくる。「えーっと……回文になってると思いますね」まあ、こんなふう。

ところが、私の方も、そこはプロだからね。ビッグデータから、コンピュータと人間との回答パターンのわずかな差を解析して質問別に備えてあって、それと参照して見抜くんだ。人間の回答と、それをまねたコンピュータの回答には、細かなパターンの差があって、何度も質問を重ねるうちに、おおよその見当がついてくる。

もちろんコンピュータ側もビッグデータを参照して、見抜かれないように人間そっくりの回答パターンで答えてくるんだが……そこはそれ、プロにしかわからないようなほんのわずかのちがいを見抜く技術ってもんがある。ん? それはどうやるんだって? いやあ、ダメダメ。それこそ企業ヒミツってもんだよ。ぜったいに公開できないね。

まあ、そんなこんなで、いろんな質問で会場を盛りあげるんだけど、とどめを刺すのは御法度。決めつけたりせずに、たとえばこんなかたちでしめくくる。「フナモンさん、あなたは96%コンピュータだという判定になりますね」これに対して、反論するヤツもいればとぼけるヤツもいる。その反応に、またいちいち会場が盛りあがるって寸法で……

といってるうちに、舞台上のゆるキャラ全員のテストが終了。すると、司会の女性が、おもむろに私の方をふりかえって言う。「それではみなさん、お待たせしました。最後に、このチューリンがチューリングテストを受けますよ。さあ、結果はどうなるでしょうか?」すると、会場全体から拍手。私は、おもむろに被験者席に移動する。

そう。なにをかくそう……実は、私自身も、チューリンというゆるキャラなんだ。チューリングテストを専門にやるゆるキャラとして、私の名も、もう全国に知られている。ゆるキャラチューリングテストの最後に、私自身のテストがあって、わっと盛りあがっておひらき……まあ、だいたい、そういうパターンなのさ。

「じゃあ、いいですか、チューリンさん。第一問、いきますよ。」最後は、人間の試験官が私に質問してくる。もう慣れっこになってるので、できるだけ人間らしく答えてやる。まあ、これは、私の方が、人間の試験官がホントに人間なのか、それを判定するチューリングテストみたいなものかもしれないね……

さて、みなさん、この私、ゆるキャラチューリンは、はたして人間なのか、それともコンピュータなんでしょうか……実は、私自身にも、そろそろわからなくなってきたんだけど……(おしまい)

……………………

この間、野外活動研究会の人たちと、ゆるキャラの話題で盛りあがりました。で、おもしろかったのが、「ゆるキャラの中にコンピュータが入ってるヤツっているんだろうか……」というギモン。なるほど……みんな、無条件に人間が入ってるって信じているけど、もしかしたら中にコンピュータが入っていたということも……

それで考えたのが、このショートショートです。まあ、コンピュータと人間の判別テストというとまっさきに浮かぶのが、このチューリングテスト。これは、実際には、人工知能の性能を判定するテストらしいんですが、そこはまあ、強引に、コンピュータか人間かを判別するテスト……というふうにしちゃいました。

現在のゆるキャラは、なぜかふなっしーを除いてはみんな喋りませんが、チューリングテストは、喋らなくてもいいみたいです。キーボードを打つとか字を書くとか、どんな通信手段でもOK。要は、「考える能力」を見るということなんですが……ただ、「考える能力」というのであれば、単純計算なんかだと当然コンピュータが勝つ……

なので、これは、「人間が考える」というその特殊性に着目したテスト方法らしい。そのあたりが、実は、精神と物質の二元論みたいな哲学的モンダイにも関連しているらしいのですが……もし、「物質から造られた」人工知能が、このテストで完全に人間であると判定されてしまったら、それは逆に、人間の「精神」自体も物質的なものだと……

判定されてしまうということになる……チューリングさんの基本的な考えは、もしかしたらそんなところにあったんじゃないかなと思います。ということは、人工知能の研究は、実は人間精神の研究にもなっているということで……これは、観点としては実におもしろい。マルクスの唯物論とはまたちがったかたちの唯物論の提唱になっている。

人間は、人間の精神を真似られるくらいの高度な人工知能を開発しようとするけれど、それは同時に、人間の精神が、完全に物質の中に取りこまれていくということを意味する。人間は、自分の精神は「安全地帯」に置いといて、あくまで主体として、客体としての「人工知能」を開発しているつもりになっているんだけれど……

それが、実は、その研究の一歩一歩が、人間の精神を物質の側に引きずり出している行為となっているのにそれを知らない……チューリングという人は、こういう意味において、かなりやっかいな哲学的な難問を提出した人という評価もできるのではないでしょうか……今日のコンピュータの基礎理論は、多くを彼に負っているといいますが……

これはまた、新しい時代の哲学といいますか、ものの考え方にも非常に大きな影響を与えているといえるかもしれません。これからの数十年間は、人工知能のモンダイが、社会的に相当大きなインパクトを与える……つまり、今の原子力みたいに、いったん造りだしてしまったらもうコントロールが効かないような状態になるとも……

いわれていますが、それはそうかもしれない。原子力のモンダイは、いかにも19世紀的なパワーとダメージの鉄槌みたいに人類を襲いますが、人工知能のモンダイは、生命科学のモンダイと合わせて、人間の哲学観や倫理観に強烈な打撃を与える「20世紀的毒」として、もしかしたら致命的な影響力をもってくるかもしれません。

ゆるキャラ……このぶきみな方々が世の中を席巻しはじめたのは20世紀の終わり頃だと思いますが……中に入っているのが人間であると信じて疑わない……信じることができ、疑がえない時代は、もしかしたらもうすぐ終わるんではないでしょうか。で、その先は……というと、もう、人間と人工知能が、「原理的に」判別不能の時代に突入する……

それは、人工知能が人間的になっていくという方向性と同時並行的に、人間が人工知能的になっていくという方向性を含んでいる。おめでたい人間の方は、前者の方向性しか認識していませんが……つまり、自分が主体で不変であるという根拠のないふしぎな立ち位置を信じて疑いませんが、その間にも、人間の人工知能化が着々と進んでいるとしたら……

この間、TVで、人工知能とプロ棋士の対戦というのをやってましたが……勝ち負けよりも気になったのは、人間の棋士が、人工知能の「さし手」を研究して、人間同士の対戦でも、その「人工知能の一手」を積極的に使おうという傾向が出てきているという報道でした。ときどき、人工知能は、人間には考えつかない手を使うことがあるそうで……

それに感心した?プロ棋士が、それを真似てみたらけっこううまくいくじゃないかと……これって、使ってる本人は、あくまで自分は人間であって、その人間が、人工知能の考えたさし手を応用してるにすぎないと思っているかもしれないけれど……実は、その人は、その分だけ人工知能になっちゃってるんじゃないか……そうは考えられないかな?

まあ、そこは考え方しだい……と言ってるうちはいいのですが、そのやり方がはやると、それぞれプロ棋士は、「おかかえ人工知能」みたいなものを持つようになって、その連中が「考えた」手に頼るようになるかも……もう、そうなると、すでに半分以上人工知能にのっとられているともいえるわけで……

まあ、それが嵩じてきますと、人間特有のものだと漠然と思っている情緒や感情の分野、さらには芸術みたいなものに至るまで、人間が人工知能化して、新しい人工知能的感情や情緒、芸術が生まれて、それがまた影響を与えて……そういうふうにして、人間自身も大きく変化していきます。

SFで、人間と機械の対決というのは一つのパターンになってる感じですが、これの場合は、あくまで人間は人間、機械は機械という一種の「二元論」がベースにある。しかし、実際に現在進行しているパターンは、人間が人工知能を進化させると同じ度合いで、人工知能が人間自身に変化を加えている……ということなのではないでしょうか。

アラン・チューリングの覚めた熱い心は、もしかしたらそんな世界をすでに見透していたのではないか……そんなふうにも思います。人間の精神は、それだけで囲われた絶対不変のものではない。むしろそれは、環境に従い、自分の造りだしたものによってどんどん自分自身が変化させられていく……そういう、アマルガムなものかもしれない……

そういうことになりますと、あらためて、「人間の心って、なんだろう?」というクエスチョンが生じてきます。それは、もしかしたら、人間自身が思っているほど特別なものではないのかもしれない……この21世紀という新しい時代は、それを人間が認識して、それでも「人間の役割って、なに?」と問い続ける世紀になるのかもしれません。

チューリング
最後に、ちょっとチューリングさんのことを……彼は、イギリス生まれの早熟の天才で、現在のコンピュータ理論の基礎をつくった人といわれています。ハードウェアが追いついてないうちにソフトウェアの基礎理論をつくってしまったみたいな感じらしくて、現在のコンピュータはみな、彼の設計した理論の上で動いている……まあ、サイバー釈迦みたいな……

その掌から出られないということで、今、いくらスゴイコンピュータをつくっても、ぜんぶ彼の設計した理論マシン(チューリングマシン)の上で動く……そういう人だったらしいのですが、人間的にはかなり欠陥が多かったみたいで(いわゆる変人)、さらに同性愛が発覚して、社会的名誉を剥奪されてついには自殺(といわれている)……。

当時(20世紀なかば)のイギリスでは、同性愛は御法度だったみたいで、彼の名誉が公式に回復されたのは、なんとつい最近、2009年のことだったそうです(英首相が公式に謝罪)。もっとも、数学やコンピュータテクノロジーの分野では早くから評価が高まり、コンピュータ関連のノーベル賞といわれる「チューリング賞」が創設されたのは1966年……

彼の死については、ナゾが多く……ウィキによりますと、青酸中毒で、ベッドの脇にはかじりかけのリンゴが……このリンゴに青酸が塗ってあったかどうかはわからないらしいのですが、まるで白雪姫のようだ……で、チューリングは永遠の眠りについたけれど、彼のマシンはその後、粘菌のように繁殖して今のコンピュータ社会をつくった……

そういうことのようです。いずれにしても、彼は、ある意味、哲学者でもあると思います。まあ、実際に、ヴィトゲンシュタインの講義なんかも聴いていたらしいですが……私は、ニコラ・テスラ、テルミン、バックミンスター・フラーの三人はまちがいなく宇宙人だと思ってましたが、一人増えました。アラン・チューリング。彼も……

宇宙人? いや、もしかしたら人工知能だったかもしれません。96%?の確率で……

グールドというピアニスト

地獄のゴールドベルク_900

グレン・グールドというピアニストについては、もういろんな人が書いているので、今さら私が書いてもはじまらないかもしれませんが……でも、やっぱり書きたい。ホントに「天才」というのは、たぶんこんな人のことを言うんでしょう……暗算少年とかパフォーマンス的にスゴイ人はいっぱいいるけど、人類の文化に、なんらかの「意味」のある足跡を残せないと、それは単なる「見せ物」になって、ホントの意味で「天才」というには値しないと思います。で、人類の文化に足跡を残す……って、なんだろうということなんですが、とりあえず、その人がおるとおらんでは、「人類の意味」自体が変わっちゃうんじゃないだろうか……と思えるくらいのスゴイ人……

このレベルのスゴさって、たとえば思想でいうならヘーゲルとかマルクスとかプラトンとか……ソレ級。絵描きで思い浮かぶのは、やっぱりピカソとかマルセル・デュシャンとか。音楽だとバッハ、ベートーヴェンはまずまちがいなくそう。で、グールドさんも、やっぱりソレクラスじゃないかと……演奏家であって、作曲家じゃないんですが(曲もつくっておられたみたいだけど)、とにかく、「対位法音楽」というものの真の姿を見せてくれた……でもそれだけじゃまだ「天才」とはいえないかも……ですが、もうちょっと構造的?な業績としては、やっぱり、「媒体を通して現象する音楽」というものに逆転的な価値を与えた人として、思想の分野で持つ影響も少なくないのでは……

彼以前は、レコードって、やっぱり補完的な位置付けだったと思うんですよね。実演がホンモノで、レコードは代用品。ホンモノを聴かないと音楽を聞いたことにならないんだけれど、そういう機会もなかなかないので、レコードを聞いてホンモノの演奏に心を馳せる……そういう感じだった。ところが、グールドさんの演奏には、「生演奏」というホンモノが、もともとない。スタジオレコーディングは聴衆を当然入れず、スタッフだけで行われるから、これは「演奏会での演奏」という意味でのホンモノではない。単に、レコードを作るための録音作業にすぎない?わけで……「ホントの演奏」は、レコードを買った人が、自宅のプレーヤーに針を落とす……そこではじまる?

コレ、それまでだれもが夢想だにしなかった革命的なできごとといっていい。要するに金科玉条のごときご本尊である「実演」がない。というか、レコードを買った一人一人が、いろんな装置で、いろんな部屋で、いろんなことをしながら聴く……その一回一回が「実演」なのだ……なんでこの人、ここまで割り切れたというか、進化できたんだろーと驚異的に思いますが、その演奏を聴いていると、なんとなく感じるところがある。それを書いてみますと……まるで、打ちこみみたいだ……これが、私の率直な感想です。とにかく「音」に対する正確さが比類ない。ここまで「音」をコントロールしきれた演奏家は、それまでだれもいなかった……

はっきり言って、グールドさんは、他のピアニストに比べて、テクニック的にはるかに擢んでている。これはもう、だれもが認める事実であろうと思うのですが……その「差」がフツーじゃなくて、何十倍、何百倍もあるような気がする。基本的に、彼くらいのテクニックに達しなければ「ピアニストでござい」と言って名乗るのは恥ずかしいんじゃないか(いいすぎですが)……まあ、現代のピアニストであれば、彼と同程度のテクニックを持つ人もおられると思いますが、彼の時代では、彼は、テクニック的に飛び抜けてました。まるで、3階建ての建物の横に500階の超高層ビルがそびえているように……その「音」に対するコントロールの正確さは、まるで「打ちこみ」のごとく……

試みに、今ネットで聴けるいろいろなピアノ音の打ちこみを聴いていると、ホント、グールドさんそっくりです。いろんなピアニストのいろんな演奏があって、それぞれ、高い評価を受けている人もいるけれど、テクニック的にはグールドさんにははるかに及ばない。「音楽性」という言葉もあるわけですが……私の聴いた範囲では、ホントに「音楽性」でまた別な高みに達した人って、リヒテルとケンプくらいではなかろうか……まあ、あんまり広範囲には聴いてませんので、こんなこというとお叱りを受けるかもしれませんが……最近の方でいえば、ピエール=ロラン・エマールさんくらいか……いや、読んで不愉快に思われる方がおられるといけないので、「比較」はこれくらいでやめておきます。

要するに、私がいいたいのは、グールドさんは、もともと、他のピアニストとは求めるところが全く違っていて、そこのところが充分に「思想的」といいますか、音楽というものに対して、マーケティングまで含んで、発生(個の著作)から受容(個が聴く)に至る全体のプロセスに反省的意識が充分に働いていて、それが、単に音楽のジャンルにとどまらず、人類の文化全体にかんしていろいろ考えさせられるなあと思うわけです。要するに、やっぱり「個」と「普遍」の問題で……たとえば、「生演奏」を聴きにホールに集う聴衆は、一人一人は「個」なんだけれど……そして、演奏する音楽家もやっぱり「個」なんだけれど、その間には、ふしぎな「普遍」が介在していて、よく見えなくなってます。

私が理想とする演奏形態は、たとえば友人にピアニストがいて、彼の家に夕食に招かれて、食後に、彼が、集った数人の人のために客間にあるピアノで数曲奏でてくれる……そんな感じが、ホントの「生演奏」ということではないか……介在するものがなにもなくて、演奏する個としての彼と、聴く個としての私が直接に演奏によって結ばれる……これに比べると、ホールでの演奏は、演奏する個と聴く個の間に、絶対に「欺瞞」が入ると思います。要するに……音楽には直接関係のないなんやかや……お金やネームバリューや、演奏をきちんと味わえるかしらん?という気持ちとか……演奏する側においてもやっぱりそうで、余分なもろもろ……そういうものがジャマして不透明になってる。

しかし、グールドさんの場合には、これは、グールドさんという「個」が、私という「個」のために直接演奏してくれてる……みたいな感じがあるわけで、このあたりも「打ちこみ」と似てます。まあ、CDもタダじゃないんだけれど、演奏会に比べればはるかに安いし、何度でも繰り返し聴くことができる。場所も、家でもクルマでも、歩きながらでも……私は、以前、阪神淡路大震災のとき、神戸に住む友人宅をたずねて、神戸の町を歩いたことがあるんですが、そのときに、グールドさんの『パルティータ』(むろんバッハの)をウォークマン(もどき)でずっと聴いていた。震災で悲惨な状態になった街の光景とあの演奏が、もう完全にくっついて忘れられない……

でも、でもですよ……他のどんな演奏家でも、CDで、いつでもどこでも聴けるじゃありませんか……というのだけれど、なんか、どっかが違う。やっぱり、グールドさん以外の演奏家は、演奏会が「ホント」でディスクは「代用」。そんなイメージが強い……私がここで思い出すのは、カール・リヒターの「地獄のゴールドベルク」。このタイトルは、私が勝手に付けてるだけなんですが、このディスク、まれにみる「ぶっこわれた」演奏……聴いてると、もう、どうしようか?と思っちゃうんですが……1979年にリヒターさんが来日して、東京の石橋メモリアルホールというところでゴルトベルクを弾いた、その録音なんですが……もう最初から、なんか危機感をはらんではじまって……

とにかくミスタッチの山……うわー、これがあの、厳格きわまるリヒターさんの演奏なの??とぎょぎょっとしながら聴いてると、そのうちに「楽譜にない」道をたどりはじめ……と思うと前に戻ってやりなおし……悪戦苦闘しているうちに、もう演奏自体が「玉砕」してすべては地獄の釜の中に投げ入れられて一巻の終わり……あとに残るは無惨な廃墟のみ、という、もう信じられない破滅的なリサイタルになったんですが……よくこの録音、ディスクとして出したなあ……しかし、なんか、いままでの端正の極地のリヒターさんのイメージががらがら崩れて、そこに現われ出たのは原始の森をさまようゲルマン人……うーん、ホントは、彼は、こんな人だったのか……

この演奏会は、聴きものだったでしょう。現実にあの場にいた人は、みんな肝をつぶして、どーなることかとハラハラしながらいつのまにかリヒターさんの鬼のような迫力に引き込まれていったに違いない……そうか……演奏会の真の姿って、これだったのか……で、ここに比べると、メディアの海にダイヴしたグールドさんの演奏は、やっぱり打ちこみだ……でも、なぜか、このリヒターさんの「地獄のゴールドベルク」と共通の「熱い魂」を感じます。あの、震災の街……それまでの人々の生活が根こそぎ破壊されたあの街をさまよう私に、それでもまだ、人の思いはちゃんと残っていて、また新しく、人の生きる場所をつくっていける……と静かに語りかけてくれたグールドさんの音……

いろいろ、考えさせられます。個と普遍の問題は、そんなにカンタンに割り切れるものではなくて、これは、そこに立ち会う人によって、その人にとって、その場、そこにしかないなにか大事なものをもたらしてくれる。グールドさんは、たくさんの「個」、そのときの個だけではなく、これから未来に現われる数えられないくらいの範囲の個に対して、きちんと自分の「個」としての音楽を届けたいと思った。そこに現われるのは、やっぱり「他の中に生きる」という基本姿勢だったのかもしれない……演奏会が「地獄のゴールドベルク」となって崩壊したリヒターさんの思いも、やっぱりそれは同じだったんでしょう……そうならざるをえない「介在物」の巨大さを、改めておもいしらされます……

*リヒターさんのディスクを改めて聴いてみましたが、最初のアリアから、ミスタッチではないもののヘンな音程の音が混ざってきます。これ、調律にモンダイがあったんではないだろうか……調律の狂ったチェンバロを弾くうちに、なんかやぶれかぶれの自暴自棄に……でも、調律なんか、事前になんども確認するはずだし、ヘンだなあ……と思って聴いているうちに、なぜかひきこまれてしまう……ものすごく興味深い演奏です。これ、やっぱりスゴイディスクだ……

今日の essay:原子力について・その3

人間の科学技術は、結局、最終的には「自然への収奪」に行き着くのだと思います。昔、学校で習ったマルクス主義の考え方(マルクスの考えかどうかはわからない)では、人は、人から労働力を収奪するのですが、その最終的に行き着く先は習わなかった。それは結局「自然」であって、「収奪の連鎖」はそこで止まる。自然は自然から収奪するということはないから。

これは、なぜそうなんだろう……とふしぎだったし、今でもふしぎです。動物が他の動物を食べるというのは「収奪」ではないのだろうか……と考えると、これはどうも「収奪」とは言えない気がする。それはあくまで「自然」であって、「収奪」というえげつない言葉はそぐわないのだ……なぜ、人間の場合だけ「収奪」といえるのかというと、それは、やはり人間の「自己意識」のなせるワザかも。

自己意識

自己意識、ゼルプスト_ベヴスト_ザインというものは、まことにやっかいですね……自分自身を_知る_存在……自分と、自分のやっていることを反省的意識をもって見られる……ということは、結局「普遍」を知り、そこへ向かおうということにほかならない。昔見た『ベオウルフ』という映画では、デーン人の王がキリスト教に改宗した動機を、ベオウルフに語る。

「われわれの神は、酒と肴しか与えてくれなかった……」まあ、要するに日々の糧というか、毎日をきちんと生きて、そして子孫につなぐ……これを守ってくれる神……しかし、日々を生きて子孫を残すということは、これは動物でもやってることなので、それでは不満というか、そういう神さんではやっていけなくなった事情というものが発生してきたということでしょう。

では、キリスト教の神はなにを与えてくれるのか……といえば、それは、結局「普遍」、アルゲマイネということだと思います。ジェネラルスタンダードというのか……部族が小さいうちは部族の神でやっていけるんだけれど、生産力が向上して大勢の人をやしなっていける段階になると、そういう神では不足だと。まあ、生産力が向上するというのは、それだけたくさん自然から「収奪」できるようになった……

江戸っ子みたいに「宵越しの銭は持たねえ」という生き方ならいいんですが、「宵越しの銭」を蓄積して、未来の生活まで考えるということになると、一日単位でしか守ってくれない神では困る……ということなんでしょうね。また、自分とか家族とかじゃなくて社会的なつながりが広がってくると、いろんな人に共通の利益を調整する必要も出てくるのでしょうし……こりゃ、困ったもんだ……

ということで、砂漠の一神教と、古代ギリシアの、普遍を射程に入れられる哲学が融合してラテン語にのっかったキリスト教の神というのが、やっぱりいちばん使い勝手がいいんじゃなかろうかと……まあ、これは私の想像なんですが、そんな感じで、少なくともデーン人の王は受け入れたんじゃないかな……ということで、人間の自己意識が拡大するにつれて、「自然からの収奪」を意識化する神が導入された??

では、その「普遍化」はどこまでいくのかというと、それは「普遍」なので、むろん制限はない。人が考えられるすべて。宇宙のはてまでいってしまう……そして、この件にかんする「反省的意識」は、結局カントの『純粋理性批判』まで人は得ることができなかったのかもしれませんが……私は(すみません。突然私見です)、やっぱり「普遍化」の限界は「地球」だと思います。

人の思考は、ホントは「地球」で止まる。これは「普遍」の限界であって、人はそれを超えられない。なぜなら、人は、「地球のもの」でできているから……おととい、『ゼロ・グラヴィティ』という映画を見にいったんですが、それなんか、ホントにそんな感じでした。宇宙は黒くて寒い。地球は……宇宙から見る地球は、圧倒的な印象であると……人は、いくら意識が伸びても、やはり地球の一部だ……

gravity

拡大方向の限界は「地球」だと思うんですが、では、これがミクロ方向に行くと……その限界はやっぱり「原子」なんではないか……人は、原子で止まらなければならない。キリスト教の神は人に「智恵の樹の実」を食べることを禁じたけれど、それは、もしかしたら「地球」と「原子」という限界を超えるな!ということだったのかもしれない……私には、この二つの限界が、なぜか「同じもの」のように思えます。

人は……人の文化は、もしかしたら「幻影」の中にあるのかもしれません。人が、実質的に処理できる範囲は、やっぱりデーン人の王が言ってた「酒と肴を与えてくれる神」が統べる領域なのではないか……そして、そこを超えることを求める「普遍指向」は、結局、「地球」という限界、そしてもうひとつは「原子」という限界、これを超えることを人にうながし、誘い、実行させてしまう力……

私がこんなふうに思うのは、やっぱりこどもの頃の自分の経験もあります。こどもの頃、「原子力」と「宇宙旅行」にあこがれた。実際に、こどものための図鑑シリーズに『原子力・宇宙旅行』というのがあって、それはホントに象徴的なタイトルだったと今でも思うのですが……自分の範囲が無限に拡大していくような……それは「言葉の力」なんですが、なにものかを呼び覚ます「サイン」となって……

私は、やっぱりここがキモだと思います。人が、なぜあれほどの悲惨な事故を体験しても「原子力」を止めようとしないのか……「宇宙旅行」の方は、「原子力」にくらべるとまだロマンが残っている感じですが、でも、もう2001年もとっくにすぎているのにまだ月面基地もできていないし、木星探査のディスカヴァリー号に至っては、計画さえない?? やっぱり人には「宇宙」はムリなんじゃ……??

「技術」がきちんと「技術」として成立する範囲って、あると思うんですよね。そこを超えてしまうと、急に莫大な費用がかかるようになって、いくら費用をつぎこんでも思うような結果に至らない……人間の技術範囲を区画してしまうような山脈の壁……それは、あるところから勾配が急に立ち上がって、人の超えようとする試みをすべて挫折に導く……それが、「原子」と「宇宙」として、今、見えている。

やっぱ、これはムリなんじゃないかと思います。これまでの「技術思想」では。いままでうまくいってたから、そのまま延長していけば行けるんじゃないか……甘い。まあ、要するに、つぎ込む資金と労力が加速度的に増加して、どんだけがんばっても一ミリも進めない……どころか、後退を余儀なくされる場面というものがある。そして、それは「難所」じゃなくて、もう原理的に超えられない……

ということがわかってきたら、では、それはなぜ、そうなっているのか……ということを考えるべきだと思います。「普遍」の追求は、あくまで実体と分離してしまわないことを原則としてやらないと、いくら「普遍を得た」と思っても、それは内実のない空虚な、言葉と数式のカタマリにすぎなくなってしまう……人の文明は、もう、これまでのすべてを省みて、あらたな「方法」をさがすべき時期にきている。

私は、「原子力」の問題の核心は、やっぱりここだと思います。放射能とか汚染水とか言ってるけれど、根幹は、人間の技術思想の設定の仕方そのものにある。「原子」と「宇宙」は、どうやっても超えられないほど高い山脈となってそびえているけれど、じゃあその他の技術は……というと、やっぱり「超えた」と思っていても、必ず同様の欠陥がある。それは、人間の技術思想そのものの欠陥だから。

どこまで戻ればいいのでしょうか……「適正技術」ということがよく言われるけれど、それは、根本的な解決にはならないと私は思います。やっぱり徹底して戻るとするなら、人間の「自己意識」の問題にこそ戻るべき。そここそが、「普遍」が立ち現われる場所でもある……もうこれは、技術の問題というよりは完全に哲学の問題なんですが……そこからはじめないとダメだと思います。

芸術には値段はつけられない?/by Calamar

先頃亡くなったやなせたかしさん。ヤフーにニュースかなんかで、自治体のゆるキャラをたくさんつくっておられたと書いてあった。しかも無料で。

このことが、ちょっと問題になっているらしい。

昔、高校の倫理社会の時間で、マルクス主義のことを習ったとき、先生は、「人間の労働力が価値になる。つまり、モノの値段というのは、その中に、人間の労働力がどれだけ入っているかによるのだ」と説明された。

たとえば、ダイアモンドなんかは、なかなかなくて、掘り出すのにタイヘンな苦労をする。それだけ分の「労働力」が入っているからあんなに高い。

逆に、簡単にできるものは、入っている「労働力」が少ないから安い。

えらいカンタンな説明ですが、高校生くらいを納得させるのには充分で、「はー、なるほど……」と感心した(けれど結局マルクス主義者にはならなかった)。

で、授業の最後に、先生が困った顔で、こうつけ加えた。

「実は、この理論は、<芸術作品>には当てはまらないんですね……」

なるほど……カンタンにひねった茶碗がン千万の世界……

ゴッホやピカソの絵になると、キレに絵具を塗っただけのものが億単位……

ということで、「芸術作品には、マルクス理論は無効」というフォーマットがインプットされました。

まあ、要するに、ゲージュツにお値段はつかない……ということなのかなあ……と思っていたんですが、で、今回のやなせさんのお話。

おそらく、自治体の担当者も、そんな感じでもちかけたんでしょう。

「公共のことですから、ひとつボランティアで……」

やなせさんのことだから、「ああ、いいですよ」って感じでお引き受けになったんでしょうか……

ところが……世の中には、絵が売れないで困っているゲージュツ家もたくさんいる(私もその一人)。

たとえば、やなせさんみたいな「大物」(って、なにを大物というかわからないですが、まあ、オオモノ)が「タダでいいですよ」なんていうと、「小物」ゲージュツ家は、そりゃあ絶対「ワシは有料じゃ」とは言えなくなりますね。

自治体の人「あんた、あのやなせさんでさえ、ボランティアでっせ。なんであんたクラスの人がお金取るの?」

まあ、こんな感じで、ダダダーッと総崩れになる。

それは困る……ということで、クリエイティヴな方々が、問題にしているということなんでしょう。

で、さっきのマルクス理論。これが、やっとわかりかけてきました。

要するに、ゲージュツ作品だからといって、マルクスさんの外に出られるわけではない。

ただ、「価値の偏在」ということなんですよね。

たとえば、やなせさんと同業の方(マンガ家ということになるのかな)は、たくさんおられますよね。で、マンガを描く労力(要するに、マルクスのいう労働力)は、そんなにものすごく違いません。

でも、原稿料はピンキリ。

「価値の偏在」です。

フツーの「製品」だったら、メーカーによって、そんなに値段は変わらない。よそより高くすると、あっという間に売れなくなる。

でも、ゲージュツ作品は違うんですね。

同じくらいの労力で作っても、お値段はケタが3つも4つも違う。

要するに……一握りのゲージュツ家が、残りの方々の「労働価値」をすべて集めてしまうワケです。

やなせさんに「タダ働き」をさせたお役所の人々を糾弾する「正当な理由」もたぶん、このあたりにある。

要するに、やなせさんが持っていく「価値」は、名前ではやなせさんということになるけれど、「労働価値」という点からすれば、「その他おおぜい」に分配されるはず??の「価値」だ……そういうことになります。

それを、やなせさんが「タダでいいよ」って言っちゃうと……「その他おおぜい」の労働価値も全部ゼロになってしまう。

自治体の担当者のみなさん、このあたりをよーく考えてね……ということかもしれません。

ともかく、ゲージュツ作品と「労働価値」の関連が、なんとなくわかってきました。

人間の意識って、複雑です。

とくに、それが、「物理的世界」に関連していくとき、タダではすまない。

タダではすまんぞ……という有象無象?の世界からの怨嗟の声……オソロシイ……