昔、「Ich bin Es」という絵を見ました。「私が、ソレである」という訳になるのでしょうか……ネットでさがしてみると……見つかりました。コレ → リンク です(いちばん上の絵)。
ルドルフ・ハウズナー(Rudolf Hausner)という絵描きさんが、1948年に描かれた絵のようです。
ハウズナー(1914 – 1995)は、オーストリアの画家で、いわゆる「ウィーン幻想(写実)派」( Wiener Schule des Phantastischen Realismus )の一人とされています。40年くらい前?に、日本でこの一派の大々的な展覧会があって、私は名古屋で見ましたが、昔の愛知県美術館の壁面いっぱいに、巨大な作品がいくつも、かかっていたのを思い出します。とにかく、デカくて細かい。よう描いたなあ……というのがそのときの印象……
ウィーン幻想派全体については、松田俊哉さんという方(国士舘大学文学部教育学科教授)の論文↓がわかりやすく解説してくれてます。ちなみに、この方自身、絵描きさんで、絵もとてもおもしろい。
リンク(ウィーン幻想派 その背景と5人の画家)
リンク(松田俊哉さんの作品ページ)
Ich bin Es …… 英語では、I am it ということになるのかな? ドイツ語ー英語の翻訳サイトで見ると、It’s me というふうになっていましたが、この言葉は、元々、聖書に出てくるもののようです。しかも、特別な意味を持って。
たとえば……
マルコ福音書の14章62節。ユダの裏切りによって捕えられたイエスが、大祭司の前で裁かれるシーン。大祭司の、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」という問いに対して、イエスは、「わたしがそれである。」と答えます。
この部分、ギリシア語原文では、「egoo eimi.」(長母音ωをダブルオーで表現)、ラテン語訳は「Ego sum.」、英語訳は「I am.」、フランス語訳は「Je le suis.」そしてドイツ語訳では「Ich bin’s.」(Ich bin Es)となっています。
ギリシア語原文、ラテン語訳、そして英語訳には「es (it)」に相当する単語がなく、人称代名詞の一人称単数主格形とbe動詞の組み合わせ。これに対して、フランス語とドイツ語には、それぞれ suis と es が入ってます。
この言い回しがなぜ「特別」なのかというと……これは、どうやら「神が、自分自身を表わす」という特別の時に用いられる表現であるということのようです。「私が、それである。」つまり、わたしがキリストである……ということをみずから述べる、その決定的なシーンであると。
神は、「在りて在るもの」ともいわれますが、「存在」ということが、神のもっとも基本的な性質になってるみたいです。suis や es に相当する語を入れていないギリシア語、ラテン語、英語だと、一人称の人称代名詞 + be動詞 という構成は、そのまま「私はある」と訳せますが、この感覚だと思います。
私が、私として「在る」のは、なぜだろうか……カントの『純粋理性批判』を読んでいると「統覚」(Apperzeption)という言葉が出てきますが、この言葉を最初に用いたのは、どうもライプニッツのようで、手もとの哲学事典(平凡社)には、次のように書いてありました。
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明瞭なる知覚表象および経験を総合統一する作用の意味。この言葉を最初に用いたライプニッツによれば、知覚は世界を映すモナドの内的状態であり、統覚はモナドの内的状態の意識的な反映である。
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もうだいぶ以前に、作家の安部公房さんの講演会を聞いたことがあります。『箱男』という作品の書き下ろしのときだったので、40年くらい前かと思いますが……そのときの彼の話で印象に残ってるのが、「一人の人間の表現力」について話されたこと……
彼は、「一人の人間の表現力というのは、それはすさまじいものがある」というようなことを語った。言葉がこのとおりだったかどうかは自信ないのですが、たとえば、街で、だれかが絶叫したり暴れはじめたりする。それが、抑制のきかないものになれば、たった一人でも、ものすごいことになる……なんか、こんな内容だったと思います。
ふつうの暮らしでは、だれでもちゃんと抑制を効かせているので、社会の中の一メンバーとして嵌っているけれど、そういう人でも、ちゃんと「一人の人間としてのすさまじい表現力」というものを持っているんだ……なんか、こんなようなことを語られた。
その後……たとえば、秋葉原で人を車で轢きまくってナイフで刺しまくった事件とか、小学校でこどもを何人も殺した事件とか……そういう、「野蛮な」ニュースに出会うたびに、安部公房さんのあのときの語りを思いだします。おれが、オレが……この「鬼」が目覚めると、人は、「本当の鬼」になる……
『箱男』は、ダンボールの大きな箱を頭からかぶって、箱の中に生活用品いっさいを吊るして、家もなく街をさまよう男の物語でしたが、今思うと、この「箱の中の世界」は、奇妙にモナドの様態と似ている気がします。「箱」が「内部」と「外部」を完全遮断していて、男の自我は、「箱の中の世界」そのもの……もっとも、この箱には、外界を覗くための「窓」が開けられていた。ここは、「窓を持たない」モナドと違う?
しかし、私は、この「窓」も含んで、なぜかモナドとの類似を感じてしまいます。箱の窓に映る「外界」は、本当に「外の世界」といえるのだろうか……
最近、TVで、「未来の車はこうなる」というのをやってました。それによると、自動運転はむろんのこと、未来の車には「窓」がなく、外の景色は、モニターを介して車内に映しだされる。乗ってる人は、あたかも車の窓から外の景色を見ているかのごとくなのだけれど……実は、それは、モニターに映った「外の景色の映像」なんだと……
見たとき、「アホらしい話……」と思いました。なんでわざわざ、外界そのものではなくモニターにせにゃならんのだ……なに考えとんじゃー最近の車の開発者は……と思ったのですが、ムム、待てよ……と。もしかしたら、これって、モナドのすばらしいアナロジーになってんじゃないのかなあ……
この車には、内部と外部があり、しかも、内部と外部を疎通させる「窓」がありません。車中の人は、車の内壁に映しだされた景色を、「あたかも外の景色そのもの」であるように眺める。で、車が動くと、景色も動く。そのさまは、車と外界が、「あたかも連動しているかのように」動く……
なるほど……もしかしたら、モナドってこんなふうなのか……これはたぶん、どっかオカシイとは思いますが、ちょっと超えてしまえばこういう発想にもなるかもしれない。でも、箱男は微妙です。
箱男のダンボールに開けられた「窓」は、彼自身がダンボールを切り取って開けた「物理的な窓」にほかならない。つまり、窓の部分だけ、ダンボールという物質が欠けていて、そこが内部と外部をつなぐ通路になっている……のですが、さて、はたして本当はどうなのか……
われわれの「目」も、そうだと思います。目は、皮膚の一部が長年の「進化」で変化してできたものだと言われていますが、水晶体というレンズで光を取り入れる段階で、すでに「外界の光景」そのものではなくなっている。しかもその上、眼球に入った光は網膜で電気信号に変換されて脳に送られる。ああ……もうこの時点で、実は、「外界の光」とはまったく縁が切れた、単なる「情報」になってしまっている。
この目の構造は、さきほどの「未来の車」ととてもよく似ています。どちらも、レンズという光に焦点を結ばせるものを用い、さらに光を電気信号に変換して演算処理装置に送る。人間では脳であり、車だとCPUになるのでしょうが、そこで演算処理された結果が、車であればモニターに映しだされ、人間では、脳内で「外界の映像」として認識される……
じゃあ、これをもっと進化させれば、車のCPUと人間の脳を直結して、映像信号が直接脳に送られるようにすればいいわけです。車内の壁をモニターにする必要もなくなり、真っ暗でいい。その方が、モナドのイメージにも近そう……
そういう意味では、われわれの肉体そのものも、一種のモナド的な機構で働いているのかもしれません。肉体の外側を覆う皮膚層でいろんな情報処理を行い、その結果が神経により脳に伝達される。脳は、自分は直接外界に触れていると思っているかもしれないけれど、実はそれは、「処理された外界の投影」にすぎない……
人間の肉体とか、未来の車みたいな高度な情報処理をまたなくても、この次第は、ダンボール一枚でも結局同じことなのかもしれない……安部公房の小説は、そんなことも考えさせてくれます。
ダンボールと、最新の科学技術による車内モニター装置、あるいは人間の目という高度な生物学的造形……それって、くらべものにならないじゃん!……と思ってしまうのは、われわれの思考自体が「高度病」というか「高級病」に冒されて、ものごとの本質が見えなくなっているからであって……「基底から」考えれば、もしかしたら、それはどっちも同じことかもしれません。
たった一枚のダンボールが、ものごとの本質から見れば高度な科学技術の成果や何億年の進化の結果と同じ……安部公房さんの「小説技術」は、ペンと紙だけでそういう「離れワザ」を実現してしまいます。うーん……やっぱり、小説家のスゴさって、こういうところにあるのかなあ……
やがてじぶんになるまどろみ……なんですが、われわれは、自分で思ってる以上に、「自分になりきっている」のかもしれない。これは寝ているときもそうで、やはり「統覚」は失っていないのではないかと思います。ただ、起きているときとは違うかたちで働いているだけで……
人の脳は、いろんなものが湧き、通り過ぎ、交錯し、わけのわからないものがいっぱい生みだされる、一種の混沌なのかもしれません。ふだん、われわれは、制御棒をいっぱいさしこんでその働きを抑え、コントロールして「常識ある社会人」にふさわしい思考や行動様式となるように、いわば脳を飼いならし、ぎゅうぎゅうに抑制している。しかし、なにかのきっかけで、この制御棒が外れていったりすると……
それが、秋葉原やどこかの小学校みたいな悲惨な事件を起こすのかもしれない……統覚。これはふしぎな言葉だと思います。欧米語だとちょっと語感が違っていて、「a+perception」になる。perceptionの部分は「感覚」とか「知覚」で、「a」は接頭辞だと思いますが、この「a」の意味は、どっちだろう……
接頭辞「a」には2系統あって、ギリシア語からきている「a」は「not」の意味。これに対して、古代英語の「an」(現代英語の「on」に相当)からきている「a」は、「on」、「to」、「in」になるといいます。これで考えれば、「perception」を否定しているわけではないだろうから、やっぱり古代英語の「an」からきているのか……
この考え方からすると、「aperception」は、「知覚にのっかって」とか「知覚へとむかう」みたいな意味になるのでしょうか……先に挙げた哲学事典の、統覚とモナドの関連の記述では、『知覚は世界を映すモナドの内的状態であり、統覚はモナドの内的状態の意識的な反映』とありましたから、統覚、つまり「aperception」は、「世界を映すモナドの内的状態(perception)にのっかって、この内的状態を意識的に反映する」ということになるのでしょうか。
先の「未来の車」の例でいうなら、車内に映しだされたモニターの映像にのっかって、これを意識的に反映する……つまり、オレは、今、こういう「世界」のなかにおるのだ!ということを意識するということ……箱男の例でいえば、ダンボールに開けられた覗き窓に映る「外界」にのっかって、オレのまわりは今、こうなってて、その中に自分はおる!と思う、そのことなのか……
あるいはまた、目や皮膚といった情報伝達器官から送られた情報によって再構成された脳内イメージ(知覚)にのっかって、「オレは今、こういう世界に生きておる!」ということを意識するということなのか……
こういう感覚は、もしかしたらハイデガーのいう「世界内存在」(In-der-Welt-Sein)に近いのかもしれません。彼の表現だと、世界内存在は、タンスの中にモノがある……みたいなものとは根本的に違うんだと。世界に、シームレスに縫いあわされていて、世界そのもののシステムを構成する一部みたいになって、それでも「世界の中に」在る……そういうイメージなのでしょうか?
やがて、自分になるまどろみ……世界は、もしかしたら、じぶんがじぶんになっていく、それにあわせて世界が世界になっていく……そういうことかもしれない。世界中、こういう「まどろみ」に満ちていて、その中で、「統覚」がムクリと起きあがり、「オレだ……」とポッと萌えて、また無明のまどろみのなかに落ちていく……これだと、あまりに安上がりな妄想になってしまうのかもしれませんが、本当のところはどうなんでしょうか……