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やがてじぶんになるまどろみ/Drowsiness becoming oneself

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昔、「Ich bin Es」という絵を見ました。「私が、ソレである」という訳になるのでしょうか……ネットでさがしてみると……見つかりました。コレ → リンク です(いちばん上の絵)。

ルドルフ・ハウズナー(Rudolf Hausner)という絵描きさんが、1948年に描かれた絵のようです。

ハウズナー(1914 – 1995)は、オーストリアの画家で、いわゆる「ウィーン幻想(写実)派」( Wiener Schule des Phantastischen Realismus )の一人とされています。40年くらい前?に、日本でこの一派の大々的な展覧会があって、私は名古屋で見ましたが、昔の愛知県美術館の壁面いっぱいに、巨大な作品がいくつも、かかっていたのを思い出します。とにかく、デカくて細かい。よう描いたなあ……というのがそのときの印象……

ウィーン幻想派全体については、松田俊哉さんという方(国士舘大学文学部教育学科教授)の論文↓がわかりやすく解説してくれてます。ちなみに、この方自身、絵描きさんで、絵もとてもおもしろい。
リンク(ウィーン幻想派 その背景と5人の画家)
リンク(松田俊哉さんの作品ページ)

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Ich bin Es …… 英語では、I am it ということになるのかな? ドイツ語ー英語の翻訳サイトで見ると、It’s me というふうになっていましたが、この言葉は、元々、聖書に出てくるもののようです。しかも、特別な意味を持って。

たとえば……

マルコ福音書の14章62節。ユダの裏切りによって捕えられたイエスが、大祭司の前で裁かれるシーン。大祭司の、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」という問いに対して、イエスは、「わたしがそれである。」と答えます。

この部分、ギリシア語原文では、「egoo eimi.」(長母音ωをダブルオーで表現)、ラテン語訳は「Ego sum.」、英語訳は「I am.」、フランス語訳は「Je le suis.」そしてドイツ語訳では「Ich bin’s.」(Ich bin Es)となっています。

ギリシア語原文、ラテン語訳、そして英語訳には「es (it)」に相当する単語がなく、人称代名詞の一人称単数主格形とbe動詞の組み合わせ。これに対して、フランス語とドイツ語には、それぞれ suis と es が入ってます。

この言い回しがなぜ「特別」なのかというと……これは、どうやら「神が、自分自身を表わす」という特別の時に用いられる表現であるということのようです。「私が、それである。」つまり、わたしがキリストである……ということをみずから述べる、その決定的なシーンであると。

神は、「在りて在るもの」ともいわれますが、「存在」ということが、神のもっとも基本的な性質になってるみたいです。suis や es に相当する語を入れていないギリシア語、ラテン語、英語だと、一人称の人称代名詞 + be動詞 という構成は、そのまま「私はある」と訳せますが、この感覚だと思います。

私が、私として「在る」のは、なぜだろうか……カントの『純粋理性批判』を読んでいると「統覚」(Apperzeption)という言葉が出てきますが、この言葉を最初に用いたのは、どうもライプニッツのようで、手もとの哲学事典(平凡社)には、次のように書いてありました。

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明瞭なる知覚表象および経験を総合統一する作用の意味。この言葉を最初に用いたライプニッツによれば、知覚は世界を映すモナドの内的状態であり、統覚はモナドの内的状態の意識的な反映である。
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もうだいぶ以前に、作家の安部公房さんの講演会を聞いたことがあります。『箱男』という作品の書き下ろしのときだったので、40年くらい前かと思いますが……そのときの彼の話で印象に残ってるのが、「一人の人間の表現力」について話されたこと……

彼は、「一人の人間の表現力というのは、それはすさまじいものがある」というようなことを語った。言葉がこのとおりだったかどうかは自信ないのですが、たとえば、街で、だれかが絶叫したり暴れはじめたりする。それが、抑制のきかないものになれば、たった一人でも、ものすごいことになる……なんか、こんな内容だったと思います。

ふつうの暮らしでは、だれでもちゃんと抑制を効かせているので、社会の中の一メンバーとして嵌っているけれど、そういう人でも、ちゃんと「一人の人間としてのすさまじい表現力」というものを持っているんだ……なんか、こんなようなことを語られた。

その後……たとえば、秋葉原で人を車で轢きまくってナイフで刺しまくった事件とか、小学校でこどもを何人も殺した事件とか……そういう、「野蛮な」ニュースに出会うたびに、安部公房さんのあのときの語りを思いだします。おれが、オレが……この「鬼」が目覚めると、人は、「本当の鬼」になる……

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『箱男』は、ダンボールの大きな箱を頭からかぶって、箱の中に生活用品いっさいを吊るして、家もなく街をさまよう男の物語でしたが、今思うと、この「箱の中の世界」は、奇妙にモナドの様態と似ている気がします。「箱」が「内部」と「外部」を完全遮断していて、男の自我は、「箱の中の世界」そのもの……もっとも、この箱には、外界を覗くための「窓」が開けられていた。ここは、「窓を持たない」モナドと違う?

しかし、私は、この「窓」も含んで、なぜかモナドとの類似を感じてしまいます。箱の窓に映る「外界」は、本当に「外の世界」といえるのだろうか……

最近、TVで、「未来の車はこうなる」というのをやってました。それによると、自動運転はむろんのこと、未来の車には「窓」がなく、外の景色は、モニターを介して車内に映しだされる。乗ってる人は、あたかも車の窓から外の景色を見ているかのごとくなのだけれど……実は、それは、モニターに映った「外の景色の映像」なんだと……

見たとき、「アホらしい話……」と思いました。なんでわざわざ、外界そのものではなくモニターにせにゃならんのだ……なに考えとんじゃー最近の車の開発者は……と思ったのですが、ムム、待てよ……と。もしかしたら、これって、モナドのすばらしいアナロジーになってんじゃないのかなあ……

この車には、内部と外部があり、しかも、内部と外部を疎通させる「窓」がありません。車中の人は、車の内壁に映しだされた景色を、「あたかも外の景色そのもの」であるように眺める。で、車が動くと、景色も動く。そのさまは、車と外界が、「あたかも連動しているかのように」動く……

なるほど……もしかしたら、モナドってこんなふうなのか……これはたぶん、どっかオカシイとは思いますが、ちょっと超えてしまえばこういう発想にもなるかもしれない。でも、箱男は微妙です。

箱男のダンボールに開けられた「窓」は、彼自身がダンボールを切り取って開けた「物理的な窓」にほかならない。つまり、窓の部分だけ、ダンボールという物質が欠けていて、そこが内部と外部をつなぐ通路になっている……のですが、さて、はたして本当はどうなのか……

われわれの「目」も、そうだと思います。目は、皮膚の一部が長年の「進化」で変化してできたものだと言われていますが、水晶体というレンズで光を取り入れる段階で、すでに「外界の光景」そのものではなくなっている。しかもその上、眼球に入った光は網膜で電気信号に変換されて脳に送られる。ああ……もうこの時点で、実は、「外界の光」とはまったく縁が切れた、単なる「情報」になってしまっている。

この目の構造は、さきほどの「未来の車」ととてもよく似ています。どちらも、レンズという光に焦点を結ばせるものを用い、さらに光を電気信号に変換して演算処理装置に送る。人間では脳であり、車だとCPUになるのでしょうが、そこで演算処理された結果が、車であればモニターに映しだされ、人間では、脳内で「外界の映像」として認識される……

じゃあ、これをもっと進化させれば、車のCPUと人間の脳を直結して、映像信号が直接脳に送られるようにすればいいわけです。車内の壁をモニターにする必要もなくなり、真っ暗でいい。その方が、モナドのイメージにも近そう……

そういう意味では、われわれの肉体そのものも、一種のモナド的な機構で働いているのかもしれません。肉体の外側を覆う皮膚層でいろんな情報処理を行い、その結果が神経により脳に伝達される。脳は、自分は直接外界に触れていると思っているかもしれないけれど、実はそれは、「処理された外界の投影」にすぎない……

人間の肉体とか、未来の車みたいな高度な情報処理をまたなくても、この次第は、ダンボール一枚でも結局同じことなのかもしれない……安部公房の小説は、そんなことも考えさせてくれます。

ダンボールと、最新の科学技術による車内モニター装置、あるいは人間の目という高度な生物学的造形……それって、くらべものにならないじゃん!……と思ってしまうのは、われわれの思考自体が「高度病」というか「高級病」に冒されて、ものごとの本質が見えなくなっているからであって……「基底から」考えれば、もしかしたら、それはどっちも同じことかもしれません。

たった一枚のダンボールが、ものごとの本質から見れば高度な科学技術の成果や何億年の進化の結果と同じ……安部公房さんの「小説技術」は、ペンと紙だけでそういう「離れワザ」を実現してしまいます。うーん……やっぱり、小説家のスゴさって、こういうところにあるのかなあ……

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やがてじぶんになるまどろみ……なんですが、われわれは、自分で思ってる以上に、「自分になりきっている」のかもしれない。これは寝ているときもそうで、やはり「統覚」は失っていないのではないかと思います。ただ、起きているときとは違うかたちで働いているだけで……

人の脳は、いろんなものが湧き、通り過ぎ、交錯し、わけのわからないものがいっぱい生みだされる、一種の混沌なのかもしれません。ふだん、われわれは、制御棒をいっぱいさしこんでその働きを抑え、コントロールして「常識ある社会人」にふさわしい思考や行動様式となるように、いわば脳を飼いならし、ぎゅうぎゅうに抑制している。しかし、なにかのきっかけで、この制御棒が外れていったりすると……

それが、秋葉原やどこかの小学校みたいな悲惨な事件を起こすのかもしれない……統覚。これはふしぎな言葉だと思います。欧米語だとちょっと語感が違っていて、「a+perception」になる。perceptionの部分は「感覚」とか「知覚」で、「a」は接頭辞だと思いますが、この「a」の意味は、どっちだろう……

接頭辞「a」には2系統あって、ギリシア語からきている「a」は「not」の意味。これに対して、古代英語の「an」(現代英語の「on」に相当)からきている「a」は、「on」、「to」、「in」になるといいます。これで考えれば、「perception」を否定しているわけではないだろうから、やっぱり古代英語の「an」からきているのか……

この考え方からすると、「aperception」は、「知覚にのっかって」とか「知覚へとむかう」みたいな意味になるのでしょうか……先に挙げた哲学事典の、統覚とモナドの関連の記述では、『知覚は世界を映すモナドの内的状態であり、統覚はモナドの内的状態の意識的な反映』とありましたから、統覚、つまり「aperception」は、「世界を映すモナドの内的状態(perception)にのっかって、この内的状態を意識的に反映する」ということになるのでしょうか。

先の「未来の車」の例でいうなら、車内に映しだされたモニターの映像にのっかって、これを意識的に反映する……つまり、オレは、今、こういう「世界」のなかにおるのだ!ということを意識するということ……箱男の例でいえば、ダンボールに開けられた覗き窓に映る「外界」にのっかって、オレのまわりは今、こうなってて、その中に自分はおる!と思う、そのことなのか……

あるいはまた、目や皮膚といった情報伝達器官から送られた情報によって再構成された脳内イメージ(知覚)にのっかって、「オレは今、こういう世界に生きておる!」ということを意識するということなのか……

こういう感覚は、もしかしたらハイデガーのいう「世界内存在」(In-der-Welt-Sein)に近いのかもしれません。彼の表現だと、世界内存在は、タンスの中にモノがある……みたいなものとは根本的に違うんだと。世界に、シームレスに縫いあわされていて、世界そのもののシステムを構成する一部みたいになって、それでも「世界の中に」在る……そういうイメージなのでしょうか?

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やがて、自分になるまどろみ……世界は、もしかしたら、じぶんがじぶんになっていく、それにあわせて世界が世界になっていく……そういうことかもしれない。世界中、こういう「まどろみ」に満ちていて、その中で、「統覚」がムクリと起きあがり、「オレだ……」とポッと萌えて、また無明のまどろみのなかに落ちていく……これだと、あまりに安上がりな妄想になってしまうのかもしれませんが、本当のところはどうなんでしょうか……

モナドの帰還/An Odyssey of monad

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一旦風邪になると、私の場合、一ヶ月くらい続きます。ノドが良くないので、咳とかがずうっと尾を引く……それでも、徐々に良くなっていくのですが……

一旦引いた風邪が直りかけて、でもなにかの拍子にぶりかえす……そのときのみじめさ……私のモナドが支配権を確立しかけていたのに、再び風邪のモナドに奪還される……まるでイスラム国との戦争ですが(イスラム国のみなさん、風邪に見立ててすんません……)、なんかそんな感じ。

病気って、なんでもそんなものかな……と思います。一年に何回か、こりゃ、ホントに調子いいぜ!と思える日があるんだけれど……そう思える日が年々少なくなっていく。これが、年をとるということなのか……

で、そういう「調子いい日」のことを思いだしてみると、自分が自分として、完全にまとまってる……そんな感じです。よし!今日はなんでもやれるぜ!という……でも、何時間かたつと疲れてきて、ああ、やっぱりアカンではないか……と。

昔、ある前衛アーティストに会ったときのこと。彼は、「自分は疲れない」と公言した。疲れるのは、どっかがオカシイんだ!と。その言葉どおり、彼は疲れなかった。

目の前で、「書」を書く(というか描く)のですが、何枚も、何枚も、延々と描く。それも、まったく同じスピードで。紙を傍らに大量に積み重ねておいて(300枚くらいあったかな)、パッと取って前に置いてササッと描いてハイ!次の紙……これを、機械のようにくりかえす。しかも、描く内容が毎回違う。

スピードが変わらないのが脅威でした。ふつう、人って、白い紙が前にあると、書きたいものが決まっていても、若干のインターバルがあってから筆を紙に降ろして書くもんですが……彼の場合、そのインターバルがゼロで、紙を置くと同時に描く。しかも、毎回違うものを。その動作を、機械のように正確にくりかえして、スピードがまったく落ちない。作品の大量生産……

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見ている方が疲れてきます……なるほど……前衛アーティストというものは、こういう特殊な訓練をみずからに課しているものなのか……感心しました。フツーじゃない……なんか、人間ではないものの行為を見ているようだった。

で、彼は疲れたかというと、全然そんなことはなく、前にもまして元気。行為が彼に、無限のエネルギーを与える。いわゆる、ポジティヴ・フィードバックというヤツですね。こういう人は、きっと死なないんじゃないか……そんな感さえ受けました。

死なないので有名なのが、ロシアの怪僧ラスプーチンさん。青酸カリを食わしても、頭を割ってもピストルで撃っても死なない。オソロシイ生命力……いったいどこが、われわれと違うんだろう……

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やっぱり、モナドの支配力がケタ違いに増強されている……そんなふうにしか感じられません。いったいどこから、その「支配力」を得ているんだろう??

でも、ライプニッツによれば、モナドそのものが「死ぬ」つまり消滅することはありえないのだから、それは、やっぱり相対的なものなのかもしれません。モナドは、「一挙に創造され」、「滅ぶときもやはり一度に滅ぶ」。

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(仏語原文)Ainsi on peut dire, que les Monades ne sauraient commencer ni finir, que tout d’un coup, c’est-à-dire elles ne sauraient commencer que par création, et finir que par annihilation; au lieu, que ce qui est composé, commence ou finit par parties.

(英訳)Thus it may be said that a Monad can only come into being or come to an end all at once; that is to say, it can come into being only by creation and come to an end only by annihilation, while that which is compound comes into being or comes to an end by parts.

日本語訳(河野与一訳)して見ると単子は生ずるにしても滅びるにしても一挙にする他ないと云ってもいい。言換へれば、創造によってしか生ぜず絶滅によってしか滅びない。ところが合成されたものは部分づつ生ずる、もしくは滅びる。(旧漢字は当用漢字にしてあります)
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つまり、部分的に、あるモナドが消滅し、別のモナドは残る……ということはありえないんだと。

これは、とてもおもしろい考え方だと思います。われわれは、どういうふうにしてかはわかりませんが、時のはじめ(神の創造時点)からずっと存在している。この宇宙のモナドはすべてそう。で、滅ぶときは一挙に滅ぶ。

われわれの肉体は、合成物なので……合成物のレベルだと、「この人は死んだ。でも、この人は生き残っている」ということはありえます。というか、それが当然の世界。しかし、「わたし」というモナドは、モナドである限り、「わたしだけがなくなる」ということが原理的にできない。もし「わたしがなくなる」ということが起こるなら、それは、「世界がなくなる」、つまり、すべてのモナドが消滅する……それ以外の方法ではありえない。

この論理は、原理的に否定不可能なものであるように思います。要するに、モナドは「一性」そのものであって、この「一性」が否定されるということは、原理的にありえない。なぜなら、「一性」は、普遍中の普遍、最大の普遍であるから……

したがって、もし、私というモナドが消滅することがあるとするなら、それは「一性」そのものが否定されるという事態が発生したということで、そういうことになれば、わたし以外の「一性」、すなわち他のモナドの存在も、すべて否定されざるをえない。「最大の普遍」というところから、かならずそうなる。

これって、「死」というものに対する、いちばん合理的な答だと思います。私が今まで知る範囲では……というか、これ以上明解な答はありえないなあ……これは、論理的に、どう考えてもくつがえせない。

つまり、「死」は、肉体という合成物が否定されるということで、この否定は合成物のレベルで起こるものであり、モナドのレベルではない。したがって、モナドの「一性」は、まったく否定されていない。だから、「肉体の死」は、個別に起こる。あの人は死んだけれど、この人はまだ生きている……という具合に。

ただ……ライプニッツは、宇宙のすべてのモナドは、一挙に創造され、いっぺんに死滅する……と言ってるんですが、その「宇宙」の範囲が、問題になるとすれば、唯一問題になるんだと思います。「宇宙」って、どこまでなの?……ライプニッツの時代においては、「宇宙」はすなわち「世界」のことであって、これは即、「神が創造された世界」ということになる。

しかし、現代においては、「宇宙」概念はかなり違ってきていると思います。今の科学では、地球 ー 太陽系 ー 銀河系 ー 小宇宙群 ― 大宇宙……となって、「宇宙」といえば最後の「大宇宙」をさす。まあ、これが一般的な受け取り方ではないでしょうか。

しかし、私は、ここに、「人間は、地球から出られないのではないか?」という問題が、どこまでもついてまわるような気がします。この問題は、前にも取りあげましたが……「え?人類は、もう月にも降り立っているんじゃないの?」ということなんですが、でも、ホントにホントにそう、なのかな……??

アポロ11のアームストロング船長が月面に着地したとき(小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩、と言ったアレ)、彼は、「宇宙服」を着ていました……当然じゃん! なんで、そんなことをモンダイにするの? と笑われそうですが、私はこれは、大きな問題だと思う。

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アームストロングさんは、自分の素足で、月面を踏んだのではなかったのでした……当然のことながら、宇宙服の内部は、「地球環境」になっています。そうでないと、彼は死ぬ。要するに、アームストロングさんは、「地球環境を着て」、もっというなら、「地球を着て」、月面に降り立った。だから、「宇宙服」という名称は、本当は正しくなくて、「地球服」というべきでしょう。

それって、リクツじゃん!と言われるかもしれません。でも、われわれの肉体は、地球からできている。地球のものを食べ、地球の空気を吸い、地球の水を飲んで……その、一時的な結実の連鎖として、われわれの肉体というものがある。これを考えるとき、われわれの肉体という「合成物」は、実は「地球」という惑星の一部……どころか、地球という惑星そのものであると考えざるをえません。

そう考えるとき、われわれは、この肉体として生きているかぎり、原理的に「地球の外に出る」ということが不可能だ……地球の一部であり、地球そのものでもあるものが、地球という範囲を離れるということ、それ以外のものになるということは、原理的な矛盾にほかならないからです。もし、地球以外のものになってしまえば、われわれの肉体は、その本質を失ってしまうということになる。

では、わたしというモナド、はどうなんだろう……ライプニッツの時代においては、漠然と、宇宙と世界は同じであって、それが地球という範囲を出るか否か……そういう議論も、意味のあるものとしては成立しえなかったように思います。しかし……アポロ以後のわれわれにとっては、これは重大なモンダイとなる。

結論からいうなら……私は、わたしというモナドは、地球という最大のモナドの範囲を出ることができない……そう思います。要するに、私は、今の状況としては、「外界を知る」ためには、私の今の肉体を媒介とする以外にありません。しかし、今の私の肉体が地球から出ることができない……つまり、「地球限定」である以上、わたしというモナドも、やはり地球限定、つまり、地球の範囲を出ることができない。

思惟、思弁では、私は、いくらでも「地球の外」に出ることができる。しかしいったん、延長の世界、かたちや大きさがある世界においてモノを考えるということになりますと、結局、わたしは「私の肉体」を媒介として考えざるをえなくなり、そうすると、結局、世界……考えうる最大の範囲は「地球」であるということになる。

ここは、もう明確だと思います。モナドには「窓」がないので、本質的な「外界」というものはありえない。しかし……延長の世界、かたちも大きさもある世界において、延長の世界に対する「支配力」を用いて相互に「自己表出」を行うことにより、モナド相互の「交通」は可能となる。より正確にいうなら、「交通が可能となったかのような状態を現出しえる」。

ライプニッツは、すべて「宇宙単位」でものごとを考えましたが、この「単位」が、今のようなリクツで、本当は「地球限定」だったら……彼の論理は、この地球上のモナドは、すべて一挙に創られ、そして滅ぶときには一挙に滅ぶ……ということになる。そして、私は、これが、この地球という星が、一つの単位としてこの「宇宙」に存在する、その根源的な理由であるような気がします。

私というモナドからはじきとばされた「風邪のモナド」は、しかし、この地球から飛びだしたワケではなく……周回軌道を描いてまた戻ってくる……それが、私に戻るのかどうかはわかりませんが……というか、ソレはイヤなんですが、そういうことになるのかもしれない。

この地球のものは、すべて、この地球から脱出することはできない……太陽系を超えてどっかにいっちゃったように見える人工衛星でも……というか、原理的にそう。地球のものは、その本質からいって、地球から脱出することはできない……

これは、「限定」なのかもしれないけれど、それゆえに、もしかしたらこの「地球」という世界が成立している。しかし……

さらにもしかしたら、原子核の中の世界は違うのかもしれません……まあ、妄想と思われてもしかたありませんが、この物質の世界は、原子核の中で「抜けて」いるように感じられます……ということで、正月早々、モナドな妄想で失礼しました……。

モナドの波/Monad as wave.

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ライプニッツの『モナドロジー』にある、有名な言葉。『モナドには、そこを通じてなにかが出たり入ったりできるような窓がない。』

Les Monades n’ont point de fenêtres, par lesquelles quelque chose y puisse entrer ou sortir.
(The Monads have no windows, through which anything could come in or go out.)

そりゃ、そうだと思います。モナドというのは、ギリシア語のモナス(1という意味)から来ていて、単一性そのものを現わす言葉だから。

もし、モナドに窓があって、そこからなにかが出たり入ったりする……ということになりますと、「単一性」は崩壊します。つまり「自分とちがうもの」が自分の中に入ってきたり、「自分」が自分の外に出ていったり……これを許せば、「単一性」という概念自体が無意味になる。

では、モナドは、他のモナドといっさい「交流」はできないんだろうか……いろいろ考えていくうちに、モナドを「波」として考えれば、これは可能ではないかということに思いあたりました。

ヒントは、先にノーベル賞を受賞された梶田先生の研究。ニュートリノ振動……でしたっけ、μニュートリノが、いつのまにかτニュートリノになり、またμニュートリノにもどり……このふしぎな現象を説明するためには、ニュートリノが基本的に、3種の波の組み合わせでできていると考えるほかないというお話……(リンク

つまり、3種の波の振動がうなりを生じ、そのうなりの各部分が、μニュートリノに見えたり、τニュートリノに見えたりするという解釈……なるほど、これだ!と思いました。

モナドも波であると考えるなら、モナドは究極の単一体であるから、単一の周波数しか持っていないはずです。もし、複数の波の集合体であるとするなら、それは、モナドが複合体であるということになって、モナドの定義自体に反してしまうから。だから、一つのモナドは、それに固有の振動数しかない「一つの波」であるはず。

波の世界では、固有の振動数をそれぞれ持つ複数の波が合成されると、全体の波形は、個々の波の波形とは当然異なってきますが……にもかかわらず、その中においても、「個々の波形」はきちんと保全されており、「全体の波形」は、「個々の波形」の複合に分解できるといいます。これを、数学的には「フーリエ解析」と呼ぶときいたことがありますが……(リンク

名称はともかく、合成されたときにはその波形が元の個々の波の波形とまったく違うものになったとしても、その中には個々の波の波形がそっくり保全されていて、また分解すれば個々の波に戻る……そうであるとすれば、個々の波は、結局、他の波からまったく影響を受けていないことになる。

これは、まったくモナド的な現象だと思います。要するに、「固有性」というものは、いかにしても破壊できない……モナドには窓がないから当然そうなのですが、しかしモナドを「波」と考えるなら、固有性を完全に保ちながらも、他のモナドと「合わさること」ができる……これは、おもしろいと思います。

ライプニッツによると、モナドは、「自然の本当の原子」であるとのこと。たしかに、物理学の「原子」は、アチラ語では「atom」で、これは、「a-tom」、すなわち「できないよー切断」という意味なんだと。それ以上分解できないもの……そういう意味だったんですが、あっという間に分解されて、原子核と電子に……

で、その原子核というのがまた分解されて陽子と中性子に……じゃあ、「本当の原子」というのは陽子、中性子、電子の三つだったのか……というと、それがそうではなく「クォーク」と「レプトン」という究極の素粒子からできているんだと……ということで、どうやらこのゲームは「キリがない」みたいです。つまり、自然科学の方法で「本当の原子」を求めるというのは、その方法自体がもしかしたらアヤシイのではないかと……

理系じゃないのでそれ以上はわかりませんが……でも、ライプニッツの「モナド」はわかります。要するに「モナド」は大きさを持たない。つまり「延長」という属性には無関係に存在する。「延長」という属性を入れてしまうと、分解して、分解して、それをまた分解して……というふうに際限なく続きますが、「大きさを持たない」ということであれば、そういうかたちでの分解はできません。

しかし、「大きさを持たない」ということでも、「振動はする」ということは可能だと思います。「振動」ということを、どういうふうに考えるか……ですが、振動という概念は、「延長」という概念と不即不離というわけではないでしょうから、「大きさをもたないけれど振動はする」というものは、十分に考えることはできると思う。

とすれば、それぞれに固有の振動数で振動する波である一つ一つのモナドが、相互に「影響しあって」、あるいは「影響しあうようにみせかけて」、その全体が合成された「相互影響合成振動」みたいなものを考ええることも可能ではないか……つまり、モナドは、窓は持たないけれど、固有振動を合成することによって、ある一つの「場」を共有することが可能になるのではないだろうか……

ということで、ここから話は突然とびます。エヴィデンスのまったくない話で恐縮ですが、私は、このモナドの共有する場の最大のものが、この惑星地球ではないか……そういうふうに「飛躍して」思ってしまうのでした。

ライプニッツは、「モナドの支配」ということを言ってます。つまり、私が、私の肉体をもって日々生活できているのは、私というモナドが、私の肉体を構成している他の無数のモナド(細胞や、細胞内の要素もすべてモナド)を支配しているからだと。このことは、以前(リンク)に書いたとおりです。

なるほど……こう考えれば、生も死も、とても理解しやすくなる。「生」というのは、私が他のモナドを支配して、自分の肉体を保持している状態。これにたいして「死」は、私が他のモナドに対する「支配権」をすべて喪失して、元々の「自分」という一つのモナドだけの状態に戻っていく過程……

ライプニッツは、「死は急激な縮退」と言ってる(これも、前に書きました)。つまり、それまでたくさんの他のモナドを支配してきた力が急速に緩んで、しゅしゅしゅ……と、自分のモナドの中に縮まっていく状態……これは、今まで私が聞いてきたいろんな「死の解説」の中で、もっともなっとくできる説だ……

これをさきほどの波の話にしますと……ともかく、「自分のモナド」がなぜか中心になって、他のおびただしいモナドの波の全体を「指揮している」……そんなイメージが浮かびます。

オケの指揮者は、メンバーとしては他の団員と同じく「一人の人間」なんだけれど、にもかかわらず演奏においては、他の団員は全員彼に従い、「一つの合成された波」を形成する……

で、演奏が終わると、指揮者もメンバーも、すうっとそれぞれの人間に戻る。音楽が演奏されている間だけは、彼らは指揮者を中心に一体となっていたわけですが、しかし演奏が終わってからも……たとえば、メンバーの肉体どうしがくっついて離れないということはない。ちゃんと肉体としては一人一人別々……そんな感じなのでしょうか。

だから、私の肉体というのは、実は、ものすごくたくさんのモナドたちが、私という指揮者の元に、それぞれの固有の振動数を合わせて、全体で「私」という一つの音楽を奏でている……そう考えればわかりやすい。私の肉体というのは、一つの「場」になっている……

これは、すべての生命においてそうなんですね。動物も植物も……しかし「全体」ということで考えると、その境がよくわからないようなものもある。これが、石や岩、土、水、空気……みたいになると、ますますわからない……でも、それらを総合して総合して、さらに総合していくと、最終的には「地球」といういちばん大きな「場」にたどりつきます。

人間の想像力というのは、実はアヤシイもので、概念を少しずつ膨らませていくうちに、いつのまにかそこに「架空」というエアーが入ってしまう。

たとえば、私にとっては、「私の肉体」は、まあ、「架空」が入りこむ余地がかなり少ない「現実存在」なのかもしれない。ではしかし、「他の人の肉体」というのはどうなんだろう……アチラの人は、よく握手したりハグしたりしますが……

これは、「肉体の確認」みたいなことなのでしょうか。オマエもオレと同じ肉体を持っておるな……と。まあその証拠に、人間以外の動物と握手することは少ないし(ハグはあるけど)、植物と握手している人は、私は見たことがない。岩や水や空気との握手……は、ちょっと考えにくい(岩のハグくらいはあるかもしれない)。

実体感覚でわかるもの……から遠ざかっていけばいくほど、そこには、アタマで考えただけのもの、つまり「架空」が入りこんでくる。しかも、人間のおもしろいところは、その「架空」をなんの検証もなしに「現実」だと思いこんでしまうところ……おそらく、人の社会は、こういった「架空の合成」によって成り立っているのでしょうが、これはよく考えれば、とてもふしぎなことです。

なので……言葉で「地球」とか言った場合、そこには、もうおびただしい「架空」が入りこんでいる。

だれも、本当の「地球の姿」なんか知らないのに、なぜか知っているような錯覚に陥って、いろいろ環境問題とか資源問題とか論じている……ちょっと引いて考えれば、とてもオカシイ空しいことを、なぜか真剣に議論しているわけです。

なので、この論はこれくらいにしたいと思いますが……物理学で、粒子か波動かということが問題にされたり、振動する超弦理論みたいなものができたり……ということで、モナドも波の性質を持っているとしても、おかしくはない気がします。

ライプニッツは、一つのモナドは、宇宙全体のモナドのすべてを反映するということを言ってますが、モナドが波であれば、それもふしぎではない。ただ、やっぱり「宇宙」というのがひっかかるのであって、私は、ここはやっぱり「地球」だと思うのです。ふしぎなことに。

クリスマスに思うこと/Thinking about Christmas.

聖書を発見する_500
今年も、クリスマスがやってきました。サンタさん、プレゼント、くれたかな……ということで、クリスマスにちょっと思うこと。

クリスマスって、「貧しさを知る」日なんじゃないか……そんなふうに思います。

日本でも、格差拡大が懸念されていますが、世界中、「貧しさ」が満ちているように思います。世界に行ったことがないからわかりませんが、いろんな報道で見るかぎり……

クリスマスの中心人物であるイエス・キリストは、極貧家庭の子だったとか。本田哲郎さんという方の『聖書を発見する』という本に書いてありましたが……「大工の子」と言われているけれど、ギリシア語の原語からすると、「石切りの子」と訳した方が正しいのではないかと(前にも少し書きました)。

イエスの当時、「石切り」は、大工よりはるかに下層の貧しい職業であったとか。日々、なんの希望もなく、ただただ重労働に耐える日々……身体が元気なうちはまだいいけれど、ケガしたり病気になったり、年とったりすれば即、生存の危機になる……

今も、世界では、そういう暮らしをしている人が圧倒的に多いと思います。イエス自身がそういう境遇の出であるなら、やはりクリスマスは、世界に満ちる「貧しさ」について、みんなが真剣に考える日であるべきなのでは……

「貧しさ」には、宗教の区別はない。キリスト教国でも貧しい人は貧しいし、仏教でもイスラム教でもそう。「先進国」と呼ばれる比較的豊かな国々でも、その中で貧しさにあえいでいる人たちはけっこういる。

『金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい』……これは、イエスの言葉ですが、これを文字通りにとるなら、「金持ちが天国に入るのは100%不可能」ということになる。

聖書には、他にも、「貧しきものに幸いあれ」みたいな言葉があったと思います。まあ、この「貧しい」という言葉についてもいろいろ解釈はあるみたいですが……しかし、ストレートに受け取るなら、キリスト教は、徹底して「貧しいものの宗教」だと思います。

この間、TVで、ビル・ゲイツさんが、感染症対策に私財を投げ打って世界中を飛び回ってる……というのをやってました。「慈善活動でも効率を求める」ということで、成果を出さない団体に対しては、即援助金を打ち切る……このあたりは、いかにも元ヤリテ経営者らしいなあと思いましたが……

お金持ちって、あんまり儲けすぎると不安になるのかなあ……お金持ちになったことがないのでわかりませんが……現代なので、「天国」とかは思わないにしても、なんか、このまま人生終わっていいのかなあ……くらいの気分にはなるのかもしれません。

しかし、自分自身が極貧に落ちないかぎり、キリスト教の本質も、クリスマスの本当の意味もわからない……そう思います。明日の、いや、今日食べるものをどうしよう……そうなったとき、はじめてイエスの言葉の本当の意味が、身体でわかる。

そういう意味では、今、世界の大部分を占める極貧状態の人々、国を追われ、難民としてさすらう人……住む家を失い、ホームレスとして生活せざるをえない人……災害や原発事故なんかで家も仕事も失い、途方にくれている人……そういう人々が、今日の日の意味を、本当にわかるのかもしれない……

まあしかし、お金持ちも、死ぬときには、お金はあの世まで持っていけないから、極貧の人と同じになる。つまり、しゅるしゅると縮んで、元の「自分というモナド」そのものに戻るわけだから、全員平等ということなのでしょう。ただ、遅いか早いかだけで。

人生の意味……そして、「死」の持つ本当の意味……限りなく「貧しさ」に近づいていく今日という日の意味を、やっぱりちょっとマジメに、考えた方がいいのかな……そんなふうに思いました。

風邪をひきました/I caught a cold.

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風邪をひきました。

年にいっぺんくらいひく風邪を、モナドで考えてみると……

私というモナドは、通常は、私の身体を構成するおびただしい数のモナドたちを、だいたい「支配」しています。まあ、「支配」という言い方が悪ければ、コントロール、「制御」といいかえてもいいけれど……

言い方はなんにせよ、「私」というモナドは、私の身体を構成するモナド群を、自分の意のままに機能させている。まあ、不随意筋とかありますが、とりあえず「私」がうまく機能するようにもっていってます。

ところが、風邪をひくと……一部のモナドが、私の支配下を脱するようになる……というか、「私」というモナドの支配から、私の身体のモナドが部分的に「支配」を逃れていく……その現象を、「風邪」とよんでもいいのかもしれません。

ということは、これは、風邪に限らず、すべてにおいてなのですが……いろんな病気やケガは、それまで「私」というモナドに統御されていた私の身体のモナドたちが、部分的に、「私の支配」から逃れてしまう現象ということができると思います。

そして……私の身体のモナドのすべてが、「私」の支配から逸脱してしまった状態……それが、死。

ライプニッツは、死を、「急激な縮退」といってたと思いますが……これはつまり、「私」というモナドが、自分の範囲を大幅に越えて、他の数多くのモナドたちを支配して、「私の身体」として動かしていた状態から、すべてが急激に縮退して、私は他のモナドたちに対する支配権を一挙に失い、元々の自分というモナドだけの状態に縮んでいく……そのことを現わしている。

これは、おもしろい考え方だと思います。まあ、通常でも、私は、私の身体の中に私ではないものをとりこみ(同化)、同時に、これまで私の身体であったものを自分の外に排出する(異化)。この同化と異化が常に進行するプロセスにおいて、「私」という現象が成立している。

この、同化と異化は、通常はふしぎにバランスがとれていて、それを私は「正常」、つまり健康な状態と感じるのかもしれませんが……そのバランスが崩れて、それが「私」に認識されるようになると、私は「ン?ちょっと具合が悪いなあ……」と感じる。

今回の風邪は、ノドの一点に突然生じた痛みからはじまりました。

仕事中に、突然、ノドの一点がピキン!と痛くなった。

やばいなあ……と思って、これがコレ以上広がりませんように……と祈る気持ちで仕事を続けたんですが……痛みは、予想どおり?に拡大して、その日の夕方にはノド全体の痛みに……それでも、翌日まではなんとか持ちましたが、次の日にはダウン。まる2日間寝こみ、その影響は今もなお尾をひいてます。

こういう、病気やケガによって、私は、私というモナドが、私という「大帝国」の支配者であったことに気がつく。

人は、まず最低限は「自分の身体」というモナド群の支配者としてこの世界に君臨する。

これは、どんなに力の弱い人でも、こどもでも赤ん坊でもそう。胎児のうちからそうです。

自分のモナド以外に、支配するモナドを一つ以上持つこと。
これが、「私」が「この世界」に出現するための、最低限の原理となる。

テロなんかで、よく「罪のない人々が犠牲に……」とか言いますが、「罪がない」なんてトンデモない。自分以外のモナドを、しかもおびただしい数のモナドを、「自分の身体」として支配している絶対権力者、皇帝だ……

人は、そういう「罪深い」状態から、「死」によって、はじめて開放されます。

以上は、「私の身体」にかんしてのことですが、「モナドの支配」は身体だけでは終わらない。

「支配」を、自分の身体以上のものに及ぼしていく……生きものの生き方というのは、必然的にそういう傾向にある。

特に、人間はスゴイ。

財産、権力、精神的な支配……

オソロシイ……

今のこの世界は、なぜか「支配」という様式が、モナド間の交通の基盤になっていってるみたいですが……

どこかの世界には、別の、もっと紳士的なモナド間の交通の様式があるのでしょうか……

交換価値のある世界/The exchangeability

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この項は、『1700万円のアイスクリーム』(リンク)の続き(リンク)の続きです。

ライプニッツのモナドは、『窓を持たない。』これは、本来モナドというものは、他者との交流が存在しない存在であるということ……こういうふうにしか解釈できません。しかし、現実のこの世界では、われわれは、いろんなモノ、いろんなヒトと「交流」しつつ生きています。これはいったい、どういうことなんだろうか……

私が、私であること、だれかがだれかであること、そしてなにかがなにかであること……「モナド」は、この「一性」を保証するものであって、「……であること」そのものだと思います。しかし、これと「他との交流」は、根本的に矛盾する。私の中に「他者」が入ってきた場合、つまり、モナドに「そこを通じてなにかが出入りする窓があった場合」……

私の「一性」は崩れ、私は、私なのか、それとも流入してきた「他者」なのか、わからなくなる……するとこの世界は、すべてが混沌として、今みられるような、私が私であること、だれかがだれかであること、そして、なにかがなにかであること……そのすべてが混交して、完全なカオスだけがある「全体=一者」とならざるをえない。

アイスクリームが1700万円であること、あるいは300円であること……今の私たちにとっては、その差、つまり1699万9700円は、まことに大きな開きに見えますが、もしモナドに「窓」があったとしたら、1700万円も300円も、どっちでも一緒にになってしまう。すなわち、アイスクリーム一個が1700万円で流通する市場も、300円で流通する市場も同じ……

ということは、「市場」そのものが成立しないことになる……なにを極論を言ってるの?と思われるかもしれませんが、ある一定の「市場」が成立するためには、「私」という「一性」、これを、人間(のモナド)一人一人が具えている必然性がある。そうしないと、アイスクリーム一個のお値段が「市場」で決まることはないでしょう。

私は、以前は、こういう社会経済の問題が苦手で、個としての自分は、いったいなんだろうか……ということにばかり関心が向かっていました。個としての自分の謎……それにくらべれば、社会や経済の問題など、とるにたらないのではないか……ダレが貧しかろうが、ダレが儲けておろうが、そんなことは人間の「我欲」の問題で、「真理」からすればとりあげるに値しない……

しかし、このライプニッツのモナド論に含まれる根源的な矛盾、すなわち、「個であるモナドが、他と交流できるのはなぜか?」という疑問につきあたってからは、もしかしたら、社会経済的な問題というのは、根源的に、「個である自分と他者」の関連に帰着するのではないか……と思うようになってきた。そうすると、ここのところはけっして無視なんかできない大問題だ……

動物はどうなんだろうか……猫なんかを見ていると、もしかしたら人間ほど「自分」と「他者」の区別はないんじゃなかろうか……とも思えてくる。猫になったことがないのでわかりませんが、人間が猫を見ていて、一匹一匹の猫が「分かれて」見えるほどには、猫にとって、自分という猫と他の猫、さらにいうなら、自分をとりまく環境全体は、分かれては認識されていないのでは……

私は、この問題と、「人間だけが市場をつくる」という問題が、どうも不可分のように思えてきました。猫は、交換経済を知らない。他の猫となにかを交換することによって、自分の暮らしを成立させていくということをやりません。しかし、人間はやる。なぜだろう……人間の社会では、どんな世界のすみずみまでも、「交換経済」が行われ、さまざまな「市場」ができあがっていく……

「原始」とか「未開」とかの社会はしりませんが、必ずそれは生まれてくるのではないだろうか……そして、その「市場」がいったん生まれてしまえば、それは、「為替」というマジックによって、一瞬にして「世界全体」に開かれてしまう……これが、今の世界の根源的なありようのように思います。モナドの窓……これは今もないのでしょうが、あたかもあるかのように……

人間というのは、やっぱりふしぎな存在だと思います。猫が「交換経済」を編み出して、世界中の猫と、「市場」を介してつながっていく……こんなことは、考えることも難しい。しかし、たとえば一匹の「蚊」はどうなんだろう……と考えると、これは、なぜか猫より難しいように思えます。「蚊の交換経済」……もし、そういうものがありえるとしたら……

蚊の世界の「貨幣」は、動物の「生き血」になるんだろうか……ドラキュラみたいな「血を吸ういきもの」の世界では、貨幣が「生き血」になることは十分に考えられます。最近公開された映画で『ジュピター』(原題は『ジュピターアセンディング』)というのがありましたが、あの中では、「人間」を収穫して、「命の水」を搾り取り……その「命の水」を貨幣として取引していた……

しかし、蚊を見ていると、「生き血」を貨幣として「市場」を成立させているようには見えないし、猫を見ていても、マタタビを貨幣としているようにも見えません。なにかを「貨幣」として、交換経済を行って「市場」を成立させているのは、おそらくこの地球では、人間だけなんでしょう。とすると、「ヒトのモナド」は、他の存在のモナドと、なにかがちがっているのか……

身体性ということに着目するなら、猫や蚊は、その身体性において、「他者との交流」を行っているように見える。この点は、ヒトもまったく一緒で、なにかを食べて「同化」し、また「異化」して排泄する……呼吸もそうだし、なにか精神的なものさえそのように見えてきます。脳のシナプスは、外界の刺激を受けて組み立てられ、組み直されていく……

しかし、人間の場合には、やっぱりそこに「市場経済」というのが必ず介入する。自給自足という概念があって、最近ちょっとはやりですが……これは、端的にいうなら「市場の否定」であって、これを究極的に実践するということは、「意識してモナドの窓を閉じる」ということになると思います。というか、モナドにはもともと「窓」はないから、「モナドに窓がないということを、どこまでも意識する」ということにほかならない……

日本の江戸期の「鎖国」政策を考えてみますと、あそこでは、日本という島国の中では、「ほぼ自給自足」が成立していた。しかし、日本の中ではやっぱり「市場」が形成されて、いろんな取引がありました。そういう意味では、あれは根源的な「自給自足」とはいえない。じゃあ、ホントの自給自足ってなんだろう……と考えてみると、これは、とても難しいんじゃないかと。

あるTV番組で、瀬戸内の島を買って「自給自足」をやってる人(タレントさん)を紹介していました。でも、太陽電池パネルは反則ですね。工業製品だし……そのほかにも、いろいろ工業製品を使っている。だいたい、島に渡る船だって、だれかが造ったものを買っているわけだし……「市場」の網からは逃れていない。

そもそも「自給自足」をやろうと思った時点で、これは「市場」を意識しているから「負け」だと思います。それより、もしかしたらホームレス生活の方が「自給自足」に近いんじゃないかなあ……やったことがないからわかりませんが、人間がつくりだす「市場」から外れる、外れない……は、もしかしたら、「意識」の問題なのかもしれません。

人のモナドは、なぜか、「他者との交流」に「市場をつくる」道を選択する。これは、おそらく世界のどこでもそうで、この「市場をつくる」という働きが、もしかしたら「人間であること」そのものなのかもしれない……もし、世界に、自分という人間ひとりしかいなかったら、当然「市場」をつくることはできない。要するに、自分以外の他者には、そういう「ヘンなこと」をするヤツがいないから……

では、自分と、もう一人の人間「他者」がいた場合はどうなのか……自然から「取って」きたものを、互いに「交換」するということはありえるでしょう。でも、それを「市場」といえるのか……といえば、ちょっとムリがあるような気がします。まあ、「相場」をつくろうと思えばつくれないことはないのでしょうが、でも、二人だけの「相場」は、はたして「相場」といえるんだろうか……

じゃあ、3人では? 4人では? ということになるんですが、こういう設定もあんまり意味がないのかもしれません。要は、人間と、他のいきものは、いったいどこがどう違うんだろう……ということで、そこは、もしかしたら「普遍」意識がからむのかもしれないと思います。つまり、自分と自分に接するまわりだけで世界が成立しているのではない……という意識なのかな?

これは、もしかしたら想像力なのかもしれませんが……目の前で、リンゴが樹から落ちる……いや、私はまだ、リンゴが樹から落ちる光景を見たことがないから、棚からボタモチが落ちる……とでもしましょう。うちの棚からボタモチが落ちれば、当然、よその家の棚からもボタモチが落ちるだろう……これは想像力ですが、自分とこだけじゃなくてよそも……というのが「普遍」意識の萌芽かも。

「市場」は、この「普遍」意識と密接に関連すると思います。一つの市場で、AさんがBさんにCという品物を100円で売ったとしたら、Aさんは、Dさんにも同じ品物を100円で売らなければならない。これが普遍的な交換価値であって、人によって200円になったり50円になったりするんでは「市場」は成立しない。やっぱり、これを担保するのは「普遍」意識なのでしょう。

ところが、この品物を別の市場に持っていったら、10円になった……あるいは1000円になった……こういうことは、よくあることだと思います。市場は閉じていて、その中だけで「普遍」が成立する。そして、市場には、モナドと違って「窓」があって、それは「おカネ」自体の交換価値を決定する為替の働き……ここらへんになるとよくわかりませんが、たぶんそういうことでしょう。

では、人間以外の動物に、なぜ「市場」がないのか……といえば、それは、やはり、彼らには、「普遍」意識がないからなのでしょう。「普遍」意識はとてもふしぎなもので、本当に存在するのは今、ここにあるモノだけなのに、想像力で「世界」とか「歴史」とかを編み出してしまいます。そして、いったん編み出された「世界」や「歴史」は、あたかも「今、ここ」の「上に」君臨するかのように意識される。

ライプニッツは、「モナドの支配」ということを言っています。これを私の理解で言うと、たとえば、私自身もモナドだけれど、私の身体をつくっている60兆の細胞の一つ一つもモナドである。しかし、私という一つのモナドが「歩くぞ!」と思えば、その60兆のモナドすべてが「私が歩く」に奉仕する。このとき、私という一つのモナドは、60兆のモナドを支配している……

単純な解釈かもしれませんが、そんなように思います。まあ、実際には、一つの細胞を構成しているいろんな要素も一つ一つがモナドだから、60兆のモナドの支配だけで終わるわけはなく、さらにその何兆倍、何十兆倍のモナドを支配する……生命は、みな、こういうふうに、一定期間他のモナドを支配する体勢を与えられているから、まとまった「個体」に見えるし、「個体」としてふるまう。

しかし、通常は、私というモナドに、全身の細胞60兆のモナドを支配しているぞ!という意識はありません。これは私だけじゃなくておそらくどの人もそうだし、どんな生き物でもそうでしょう。まあ「食べる」という行為自体、「他のモナド」を自分に組み込んで「支配するぞ」という宣言になっているわけだし……でも、そのことは意識せず、「うまい、うまい!」と言って食べてます。

しかし、人間が、「普遍」を意識したとき……少し様相は変わると思います。人の目は、人の心は、眼前の「生の現実」から離れて漂いはじめ、「今、ここ」にはない世界へと心が開かれていく……これは、もしかしたら「モナドの窓」が開いたのか……なんて思うんですが、たぶんそういうことはない。なぜなら、モナドに窓はないから……にもかかわらず、ないはずの窓が開く。これはふしぎなことだ……

人が「市場」をつくりだしてしまうのは、もしかしたら、ないはずのモナドの窓が「普遍」意識によって開いてしまったとき、それでもなお「統覚」を保持するために「普遍意識」自体を囲い込みに出る……その働きによるのかもしれないと思います。わかりませんが、「市場」の囲い込む性質を考えてみるとき、なぜかそういう気持ちになる。檻から放たれた獣の不安……

とりあえず、今私に考えられるのはここまでなのですが、この問題は、人の「個」であることと「社会的存在」であることをつなぐねじれた糸のようなもの……吉本隆明さんの言うように、「個である私」と「社会」は常に倒立関係にあるものだとすれば、それはやはり、モナドの持っている根源的性質であり、畢竟、それは、モナドの「一性」に還元できるものなのかもしれません。

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今日のkooga:ハスの鉢の宇宙/Lotus of pond of universe

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うちの前に置いてあるハスを植えた大きな鉢にも秋がきました。
忙しいので、あんまり世話をしていない……ので、そのまま、鉢の中の秋が、濃くなっていきます。
見ていると、ライプニッツの言葉が浮かんできました。

『物質の各部分は植物が一面に生えている庭や魚がいつぱい入っている池のやうなものだと考へることができる。而もその植物の枝やその動物の肢体やその水の滴の一つ一つが又さういふ庭でありもしくは池である。』(河野与一訳)

これは、『モナドロジー』の中の一節ですが、当時、顕微鏡が普及して、「ミクロの世界」が見えるようになったのが影響している……とも言われている有名な箇所です。世界は、無限の入れ子細工になっていて、どこまでいってもまだその先に「世界」がある……この「鉢の中の世界」も、そういう意味では「無限」なのかもしれません。

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モノの究極ってなんだろう……「原子論」の世界なのかもしれないけれど、モノは分子でできていて、分子は原子でできていて、原子はそれ以上分解できない素粒子から成っている……と考える現代科学の階層的な考え方とはかなり違う見方が、ここにはあるような気がします。

バロック?といえばそうなんでしょうが、仏教にも同じような考え方があったような……ただ、これは、マトリョーシカみたいな単純な「入れ子構造」というのではなくて、もっと、モノの本質にかかわるあり方のような気がする。しかもそれは、「観察者の存在」がそこに大きくカンケイするような……

というか、モノを観察しているようで、実は、観察している自分も観察する。モノの世界のあり方というのは、本来そういう複雑な関連を除いてありえない。そして、そのすべては、大きく「地球」という惑星に収斂されていくのではなかろうか……「宇宙」ではなく「地球」。そして、私自身。

そういう意味では、「ハスの鉢の宇宙」ではなく、「ハスの鉢の地球」なのかもしれない。そして、「ハスの池の私」。Lotus of pond of the earth. Lotus of pond of myself. この文章が、英語として意味を持つのかどうかはわかりませんが、「universe」つまり「一韻」というのは、バロック的ではないなあ……

別に、バロックである必要はないんですが、この「ハスの鉢の中……」を眺めていると、やっぱりバロックだなあと思ってしまいます。別に、一つの価値観に統制される必要はないのではないか……いろんなものが混ざりあっていて、それぞれにまた、その中にいろんなものが……

とりあえず、この混沌を統一的に見せているのが「鉢」であって、それを統一的に見るのが「私」……「統覚」の問題も関連するのかもしれませんが、この鉢が割れてしまえば、この中の宇宙も消滅する。私が壊れてしまえば、やっぱり「宇宙も」?いや、それはないでしょう。

というのは、「私」は「宇宙」に属するものであり、「私の身体」は「地球」に属するもの……なのだからでしょうか?「身体」は壊れて「地球」に戻ることができるかもしれないけれど(日々壊れて戻りつつあるけれど)、「私」は壊れることができない……この統覚のふしぎ……

というか、モナドのふしぎ……ライプニッツは、「モナドは本当の原子」だと言った。この「本当の原子」って、どういう意味だろう……見ているうちに、空は曇ってきて、このふしぎな「ハスの鉢の世界」も輝きを失い、「灰色のモノ」の世界に戻っていったのでした。

今日のemon:三筒紙筒あるいは口鉛芝231/Three paper pipes or Mouth lead turf 231

三筒紙筒あるいは口鉛芝231_900
これは、死刑囚に最後に小市民的世界を覗かせてやる三筒紙筒で、口鉛芝231ともいいます。しかし、これで死刑囚が覗くのか、死刑囚を覗くのかはきわめて疑問……小市民、プチブルという言葉は、以前はけっこう卑称として使われることが多かったが、最近はどうなのでしょうか……プチブルは、小ブルジョワジーということですが、ではブルジョワジーとは……というと、これは「中産階級」ということで、語源は、ウィキによりますと「城壁の中の住民」ということだそうな。Bourgeoisie の中の「bour」はたしかに「城壁に囲まれた都市」という意味だ。なるほど、そこからきているのか……

城壁があった頃のヨーロッパでは、城壁の中に暮らす人たちと城壁の外で暮らす人たちは、仕事から生活スタイルから、まったく違っていたようです。といっても、城壁の中で暮らす人たちがそんなに裕福な人たちばかりではなかったと思いますが……ただ、産業革命以降、中産階級の台頭によって、この言葉は階級的な意味を持つようになり、とくにマルクス主義の用語となって定着します。私の学生時代は、「おまえのその考え、プチブルやなあ」という感じでよく使われていました。あの頃は、とにかく、マルクス主義者にあらずんば人にあらずという風潮で(とくに学内では)……

ちょっとでも「マルクス道」にはずれた?ことを言おうものならすぐに「プチブル!」とか「日和見主義者!」という言葉がとんできて、タイヘンでした。いちど、クラス集会で「学生の本文は勉学では?」と言ったら、たちまちみんなに取り囲まれて吊るしあげに……幸い、過激な人がいなかったので激論だけですみましたが、元気過剰の人が何人か混じっていたら、袋だたきにあって、悪くするとご臨終のはめに……なんか、そんな時代でした。ほどなく学校の建物がすべて封鎖になり、それからは半年以上の長〜い休み状態に……これからの日本、もう一度あんなことが起こるのかなあ……

この「プチブル」という言葉、本来なら「小中産階級」という訳が正確だと思うのですが、なぜか「小市民」と訳される。「市民」は「シトワイヤン」とか「シチズン」の訳語だからヘンだなあ……と思いますが、これで定着してしまっています。しかし、厳密にいうと、ブルジョワジーとか中産階級という言葉は階級概念をそのうちに含んでいるけれど、市民という言葉には階級概念は含まれていない。このへんの「誤訳」は、日本語だけにあるものなのか、それともけっこういろんな国でそういうことがあるのでしょうか?……それはともかく、「市民」という言葉の意味が、日本では、あまり正確に理解されていないのではないかと思います。まあ、私も含めて、あんまりみんなよくわかっていないのでは……??

「市民」は、国民(ネーション)とも違うし、臣民(サブジェクト)とも違う。たぶん、「主権者」意識がかなり濃く結びついた言葉であると思われます。ルソーの『社会契約論』では、国家の構成員を、主権者としての立場からいう場合には「市民」という言葉を用い、行政の対象者としての立場からいう場合には「臣民」という言葉を用いていた。「臣民」というと、なにか、王や皇帝に支配される人々みたいな感じですが、これもやっぱり日本語訳が悪くって、「サブジェクト」という場合には、たとえば政府が共和制でも違和感なく使うことが可能です。単に「対象者」ということなので。

ということで、今の日本のような政治体制(立憲君主制)においても、われわれ国民の一人一人が、「主権者」という立場からみれば「市民」となり、行政の対象者という立場からみれば「臣民」となります。そこで、上の三筒紙筒が関係する「死刑」という制度を考えてみますと、主権者たる「市民」は、みずからの持っている主権を公使して「死刑」を可能とする法律をつくり、この法律によって「臣民」たる国民の一人が死刑になる……そういうことなのでしょうか。死刑が執行されました、というニュースを聴くと、自分も「殺したうちの一人なのかな?」という気になるのですが……

ただ、主権者である市民の一人としての自分がかかわれるのは「立法」までで、しかもここも、「代議制」というゴマカシによって断ち切られています。しかし、もっと根源的な「切断」は「立法」と「行政」の間にあって……たしかに政府は、立法府である国会の決めた法律にしたがって行政を行うわけですが、ここには本質的に架橋不可能な深淵がある……そんなふうに感じます。そして、これは、デカルトのいう「思惟」と「延長」、もしくは「精神」と「身体」の間に架橋が可能なのか……そういう、哲学上の大問題とも深く関連してくるように思われます。

手を動かしたいと思うこと(思惟・精神)と手を動かすこと(延長・身体)とは、いったいどういうふうに結びついているのだろうか……デカルトはここに「松実腺」という肉体的な器官を介在させたが、ライプニッツは、基本的に両者は「まったく関係がない」と考えた。前にも書きましたが、私はこのライプニッツの考えに賛成です。延長的な要素をまったく持たない思惟が、延長(物理的世界)に関係を持てるはずがない……これを、国家の仕組みにあてはめれば、延長的な要素をまったく持たない「立法」が、延長的な要素のみで構成されている「行政」とどうして関係できるのか……

したがって、「行政府は、立法府の制定した法律に則って行政を行う」というのは、「私は、右手を動かしたいという私の思惟に則って右手を動かす」ということとまったく同じ構造の「根源的切断」を含んでいる、いわばマカフカシギな神秘なのであります……行政は、執行前に、死刑囚に三筒紙筒をもって小市民的世界を覗かせてやりますが、その世界の小市民たちは、三筒紙筒の逆側から死刑囚を覗く……この構造には、精神と身体の切断に苦しむモナドの謎が現われる。窓を持たないモナドが、いったいどうやって「小市民的世界」を覗くのか……三筒紙筒って、いったいなんだろう……

思想の限界/A limit of the human speculation.

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人の思想の限界は、地球……であると、思います。
その理由は……人は、その身体も心も、すべて「地球から」つくられているから……
「あなたはチリからとられたのだから、チリにかえる」
このバイブルの言葉が、すべてを語っていると思います。

このことは、前にも少し書いたのですが……
たとえば、論理学や数学、あるいは物理の法則、化学の法則……
そういうものを、人は、すぐに、宇宙のすべてに通じるものと思う。
しかし……「地球製」の人のアタマで考えられたものは、「地球」が限界……

そういうふうには、思えないものでしょうか……
「そんなことないよ、ロケットは月にも、火星にも行くじゃん」
そう、言われるかもしれませんが……
オソロシイことに、月も火星も、「地球の範囲内」なのかもしれません。

なぜなら……月といっても火星といっても、最後に「見る」のは人だから。
「地球の人」が、最後に、そのデータを見ます。数式にせよ画像にせよ。
観測機器が、宇宙にまで飛んで行っても、最後に「見る」のは地球製の人。
こういう「地球製の人」は、宇宙のどこまで行っても「地球製」なんだ……

この地球という惑星の上で、身体と心をもらった人です。
「あなたは、チリからとられたのだから、チリにかえる」……これでしょう。
そして、これは、実は「限界」ではなく、ひとつの「恵み」かもしれない……
そういうふうに、考えたことはないでしょうか……

ライプニッツの「モナド」は、全宇宙のモナドが一斉に誕生し、一斉に死ぬ。
一つのモナドは、他のすべてのモナドを映しこみ、宇宙全体に関係する。
このモナドの性格からして、これはそのとおりだと思います。
インドラの網……まさに、一つの水滴が、宇宙全体を映している……

ということになると、これはちょっとタイヘンなことになります。
今、私が指を動かして文字を打つ……その行為さえ、「全宇宙」に及ぶ……
となると、ちょっと、あだやおろそかに、なにもできない?
……んですけど……もし、その「宇宙」が「地球」なんだとしたら……

人の思想の限界が「地球」である……これは、そういう意味です。
そうだとしたら……全宇宙に広がる「インドラの網」も、地球が限界なんだ……
そう考えると、ちょっとは気が楽になりません?(って、ならないかな)
いったいなにを言ってるんだろう……そう考えるのもムリはないんですが……

でも、もっと過激?なことを言うなら、この宇宙には、そういう世界が無数に……
ある……と、そう考えることもできます。いわゆる「多元宇宙」……
だとすると……ホントの「インドラの網」の水滴の一つ一つが……
実は、こういう「宇宙」なのかもしれないな……と。

で、ここで、重要なことは……「インドラの網」には、必ず「ノット」がある……
要するに「結節点」があるということで、これが、つまり「モナド」……
華厳の世界……になるのかもしれませんが、無限のノットに水滴が……
宇宙が宇宙を映しだして、それはもう、タイヘンなことに……

魂は……人の魂といわず、すべてのものの魂は、こういう「ノット」なのかも。
ライプニッツの考えによると、そういう「モナド」であると……
もしそうであるなら、人の思想は、やっぱり「モナドの限界」を越えられない。
ということなんだけれど、それでは「実体の交通」が成立しません……

ということで、まことにふしぎなことに、「モナドの限界」は越えられる……
んですが、いくら越えても、やっぱり「ある限界」に当たってしまう。
それが「地球」……なぜなら、「表出」は、「チリ」によって行われる……
人は、そして地球のいろんな生命は、「地」をもって相互に自己表出を行う……

ここに……やっぱり「地球という限界」があって、それは越えられない。
なので……人の思想も、やっぱりこれを越えられない……
考えてみると、この「地球」というモナドは、ふしぎなもんだと思います。
そこで、「地球の種」はすべて、相互に「実体の交通」をなすことができる。

おそらく……人間以外の地球の生命は、みな、このことを知ってるんでしょう。
というか……それ以外の「あり方」がないので、「それ以外のあり方」を考えない。
ところが……なぜか、人の心だけは、カンタンにこの「制限」を突破します。
なにかを考えると……すぐに、それを、「宇宙全体」に敷衍してしまう……

こういう点では、過去の偉大な哲学者、思想家、科学者……
みんな、そうだったと思います。数学の理論も物理法則も……
「地球という限界」を無視して、スルッと「宇宙全体」へ……
それこそ、「拡大する」という意識もなしに、単純に「ひろげて」しまった……

20世紀……19世紀に「無限に」拡大されたこの「人の思想」が……
それが、「地球という限界」に当たって、試される……そういう世紀だった……
けれども、人は、いまだに気づいていない。これはもしかしたら由々しきこと……
なのでしょう。けれども、この「限界」は実体だから……

やっぱり、どうしても「越えられない」のです。正しいことに……
ということで、今日の画像は、以前に紹介したストームグラスの中の世界……
この前の台風が近づいてきたときの様子です。かなりすごいことに……
「完全密封」されてるはずなのに、なぜ感知するんだろう……ふしぎです。

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今日のkooga:路上の幼生/Larva on the road.

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脊椎動物の発生の初期は、みなかたちが似ているといいます。個体発生は系統発生をくりかえす……でしたっけ。この御言葉は、ドイツの生物学者、エルンスト・ヘッケルさんが述べられたものだそうで、この方は、ドイツでチャールズ・ダーウィンの「進化論」を広めた人物だそうですが……

この方については、いろいろ「悪いウワサ」もあるようですね。特にアブナイのは、彼の考え方が、いわゆる「優生学」の大元になって、のちにナチスのレイシズムにつながっていったという……要するに、「劣った人種」は、人類という種の系統発生の初期状態だ……みたいな考え方でしょうか。

ただ、一方、彼については、今日のエコロジーの元祖みたいなとらえ方もあるみたいだし、『生物の驚異的な形』(Kunstformer der Natur)という本に、すばらしく美しい生物の図版を載せている生物画家でもあるし……ということで、まことに19世紀的な、ふしぎな人物だったらしい……

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進化論というのは、ほんとによくわからない学説だなあと、つくづく思います。とにかく、前提に、すでに「価値観」が濃厚に入っていて、まあ、いわば「色眼鏡」でいろんなものを見ている感じ……なんですが、それなりに「説得力」があって、まるっと否定することもできないような……

とにかく、この「幼生のかたち」というのは、「おもうしろうて、やがてかなしき」という風情が漂っていて、やっぱりどこかヘンだと思います。デヴィッド・リンチ監督の『イレイザーヘッド』でしたっけ、こんなふうな造形が出てきましたが、やっぱりおんなじふうに感じてるんだと……

この「幼生」を見たのは、愛知県東海市の名鉄太田川駅から尾張横須賀駅へ歩いている途中の路上……なにかがコンクリートに埋まってる……「あ、幼生だ」と思いました。この日は雲ひとつないかんかん照りで、おまけにお祭りで、たくさんの人でわいわいがやがや屋台もいっぱい……

でも、この「幼生」のまわりだけは静かな夜でした。闇から光へ……なにを思い、なにを考えているのか……みずからのモナドの闇から、みずからのうちに湧く衝動で、まさに自己表出をなさんと……物質の世界、延長の世界へ漂い出た瞬間のような……彼は、まだ闇の中にまどろみつつ……

明るい昼の世界を夢みているのだろうか……少しずつ、闇が溶けて、彼のまわりに「世界」ができていきます。彼の光はまだ少なく、闇が果てしなく濃いゆえに、彼はまださめていない……しかし、では、われわれの光は、闇は……そう考えると、この「幼生」とたいして変わらない気もします。

いつか……この日のお天気のように、闇が完全にはれて、くまなくすべてが照らしだされるときがくるのだろうか……もし、私にそういうときが来たとしても、私の中の「幼生」は、やはり濃い闇の中にまどろみ、いつか昼の光の中に出る日を夢みるのでしょう……カフカの密書を待つ「私」のように……

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