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3度の勝利?~ベートーヴェン第九のヒミツ/The triumph of 3rd, or……

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名古屋の中古CD店でみつけたアーノンクールのベートーヴェン第九。なんと投売りの324円(税込)で、こういうのを掘出しモンというんでしょうか……

で、さっそく聴いてみました。アーノンクールさんは、ついこの間(2016年3月5日)お亡くなりになったばっかりで、ホントなら、CD売場に特設コーナーができてもいい感じなんですが、ここでは300円投売り……カワイソウ……というか、得したなあというか。

harnoncourt_900
アーノンクールというと、古楽ファンにはよく知られた名前……というか大御所なんですが、最近ではベルリンフィルとかウィーンフィルとか、いわゆるモダンオーケストラも指揮して、モーツァルトからベートーヴェン、さらにはロマン派まで……ついに「巨匠」と呼ばれる方々の仲間入り……

しかし、経歴を見ると、この方、1952年から1969年までウィーン交響楽団(ウィーンフィルではない)のチェロ奏者だったということで、一旦古楽に入ってぐるっと大回りの道をたどって、だんだん現代に近づいていって、ついに「巨匠」として復帰……そんな見方もできるのかな?

ということで、聴いてみました。なるほど……えらくスッキリした演奏で、かつての第九の、重戦車隊が地を轟かせて迫ってくるイメージとはかなり違う。まあ、演奏がヨーロッパ室内管弦楽団ということで、オーケストラメンバーの数からして違うから……ということもあるのでしょうが、タメがなく、コダワリがなく……しかし、決めるところはガツンと決めてる印象。

合唱も、現代音楽を得意とするアーノルト・シェーンベルク合唱団ということで、スッキリしてます。第九の第四楽章で、ソプラノのおどろおどろしいビブラートでげんなりした経験のある私でも、この合唱団なら許せる……許せるって、大きく出たもんですが、あの過剰テルミンみたいなビブラートは、クラシックに免疫のない人が聴いたらだれでも気持ち悪くなるんじゃなかろうか……

まあ、そういう過剰ビブラートもなくて、歌の面でもスッキリ……して、いい演奏……のはずなんですが、なぜかあんまり感動しなかった。なんでだろう……まあ、ベートヴェンの第九、ほんのわずかしか聴いてないから比較もできないんですが……でも、今まで聴いた中では、やっぱりフルトヴェングラーの1951年バイロイト録音と、1989年バーンスタインのベルリンの壁崩壊コンサートのCDがダントツにすごかった……

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そういう「巨峰的録音」にくらべると、このアーノンクール盤、なんか魅力が乏しい……まあ、これは、私の耳がクラシックの世界に慣れてないというか、圧倒的に聴いてる数が足りないからかもしれませんが……でも、自分で感じたところは偽れません。やっぱりフルトヴェングラー盤の岩山大崩壊のあのド迫力や、バーンスタイン盤の、奏者全員がなんかに取り憑かれたかのような超常現象的録音とくらべると……

で、思ったんですが……このベートヴェンの第九って、演奏の善し悪しとかの音楽的範疇をやっぱり少し超え出たところで、その魅力が決まるんじゃないかな……と。フルトヴェングラー盤は世界中を巻きこんだ第二次大戦がようやく終結して数年、ナチに協力したという嫌疑をかけられてたフルトヴェングラーが、いろんな複雑な思いを一杯に呑み込んで、音楽でドカーンと噴火させた解答……そしてバーンスタイン盤はヨーロッパ諸国とアメリカ、つまり西洋世界の戦後が終わってベルリンの壁崩壊とともに輝く未来が……

今となってみれば、そういう「未来」は訪れなかったことはほぼ決定的ですが、あの当時は、西洋世界の人じゃなくても、たとえば日本人なんかでも、なんか雪どけというか、ああ、ようやく桎梏に満ちた世界が終わって、新しいすばらしい世界が開けてくるんじゃないか……そんな、今から見れば根拠のない期待感というか展望といいますか……

それが証拠に、バーンスタイン盤では、元の歌詞の「 Freude」(フロイデ・喜び)の部分を「Freiheit」(フライハイト・自由)に変えて歌っています。クラシックの世界では、オリジナルテキストは絶対だから、これはよくよくよほどのこと……つまりそれだけ、「あの瞬間」は特別だったんですね。バーンスタイン自身が、ライナーノーツでそんなことを書いてるし。

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ということでこの第九、やっぱり音楽以外の要素と申しますか、なにか大きな流れに関係してある存在みたいな……そこまでいうと大げさかもしれませんが、「じゃあ次の演奏会は第九やってみようか」という感じでは決められないような……ただ、なぜそうなるのかということを、第九の音楽的な構造からさぐっていければ……

音楽的構造による解析!……むろん、こういうことは、私みたいなシロウトじゃなくて、音楽をやってる人とか、音楽を研究している人がやるべきだし、もうすでにかなり解明されているのかもしれません。私が知らないだけで……ただ、私もシロウトながら、あっ、こういうことかもしれない……と気づいたこともあるので、今回はそれを書いてみようかな……と。

そういうことで、まず第一楽章の冒頭から。ここに鳴る弦の5度下降。この曲を最初に聴いたとき、なんてとりとめもなくはじまるんだろう……と思ったことを覚えてます。なんか、まともな曲のはじまりじゃなくて、オーケストラがまちがえたみたいな、あるいは音合わせをやり続けてるような……しかも、その感じがなんとなく不安で、頼りなげで、なんかカゲロウが死んでふわっと落ちてくるみたな……あとで知ったんですが、これがあの有名な「空虚5度」のオープニングでした。

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空虚5度……これについては、前に書いたことがあります。リンク 現代人の耳には、5度の和音が虚ろな響きに聴こえる(ロックでいう、パワーコード)……この第九交響曲は、調性がニ短調(D minor)ということで、ニ短調だと主音がDで5度(属音)は A になる。なので、主音から属音への下降形は D↓A になるはずなんですが、実際に鳴る音は E↓Aです。これはふしぎだ。なんでこんなことをしたんだろう……E↓A だと、3度に C をとればイ短調(A minor)あるいは C# をとるならイ長調(A major)、このどっちかになるはず……

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主音の D から5度上がると A だけど、D から下の A への下降は 4度になる。空虚5度を鳴らすためには、Dから A に降りるのではダメで、一つ上の E から A に降りないといけない……そういうことで、E↓A と鳴らしているのだろうか……ところが、このカゲロウのような不安定な音型の後にフォルテで出てくる第一主題は主調のニ短調の D↓A の下降型になってます。

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このあたりの問題は、正直よくわかりませんが、最初の下降音型で5度を表現したかったのではないか……これは、実は第四楽章に深く関連していて、第四楽章のあの有名な「歓喜の歌」の途中で、まさにこの5度の下降音型 E↓A が出てくるんですが、私が読んだり調べたりした範囲では、このことに触れたものは見当たりませんでした。もしかしたら新発見?

いや、まさか……これだけ細部まで研究され尽くしているベートーヴェンの第九に、もういまさら新発見はないだろうから、絶対にだれかがどっかで書いてるはずなんですが(つまり、私の調べ不足)、この第一楽章冒頭の5度の下降音型と第四楽章の歓喜の歌の途中で出てくる同じ5度の下降音型は、絶対に関連しているとしか思えません。というのは、歌詞までがそこを表現するようにつくってあるから……

第四楽章の「歓喜の歌」は良く知られたメロディーですが、その中に、一回だけ、この E↓A 下降音型が出てくる場所があります。そして、そこに対応する歌詞は……というと、「streng geteilt」。シュトレンゲタイルト、強く分けられた、という意味のところです。ここに対する音型は、streng(D)↑ ge(E)↓ teilt(A)となっており、主音 D から E に上がり(2nd)、E から A に 5度(5th)の下降を見せます。

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geteilt(ゲタイルト)は、動詞 teilen(タイレン・分ける)の過去分詞で、「分けられた」という意味。この箇所の全体は「Was die Mode streng geteilt」で、Mode(今の風潮・規範。つまり石頭の考え)によって強く分かたれたもの、あるいは、Mode が強く分けへだてたもの、という意味になると思いますが、これが、天国(エリジウム)の乙女の魔法によって再び結ばれる(binden wieder)ということです。全体を書くと、次のようになります。

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これは、良く知られているように、ベートーヴェンがシラーの詩を(一部改変しつつ)テキストとして使っているわけですが、この「歓喜の歌」は主音 D の3度上の F# から始まり、F#↑G↑A(Freude, Schöner)__A↓G↓F#↓E(Gotterfunken)__D↑E↑F#(Tochter aus)__F#↓E(Elysium)__F#↑G↑A(Wir betreten)__A↓G↓F#↓E(Feuertrunken)__D↑E↑F#(Himmlische dein)__E↓D(Heilligtum)というふうに、主音 D と属音 A の間を行ったりきたりで、この5度圏内からは出ません。

そして、この5度圏内で、常に中心にあるのが3度の F#音。ニ長調(D major)なので、主音はむろん D なんだけれど、このメロディーにおいては、ニュートラルの位置にあるのが実は3度の F# 音で、この F# 音は、剣豪が常にニュートラルの位置から刃をくりだすように、あるいはロボットアームがどんな動作をする場合にも常に一旦ニュートラルの位置に帰ってから次の動作をするように、全体の動作を常時コントロールするベースとなっている……そんな感じを受けます。

これは、実際にこのメロディーをピアノの鍵盤で鳴らしてみると、なるほど……と体感できます(中指を F# に置くと、右手の五本指で簡単に弾ける。中指が全体の支点になり、右の薬指と小指、左の人差指と親指が、天秤のようにきれいにバランスをとる)。これは、メロディーのはじまりのFreude、そしてなかほどのElysium、Wir、(Himmli)sche dein と、強拍になる部分に常に3度のF#音がきているから、ベートーヴェンがかなり意識して使っていると私は思うのですが、いかがでしょうか。

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エリジウムの乙女の魔法が、Mode が強く分けへだててしまったものを、再び結びつける……こういう意味で、全体としては肯定的なんですが、「強く分けへだてた」という否定の部分で E↓A の5度下降音型を、ここぞ!とばかりに使っています。そして、この歓喜の歌では、ここだけが「D – A」の5度圏域を飛び抜けて下の A に落ちる。この箇所がなければ全体が「D – A」の5度圏域に納まったものが、ここがあるために全体がオクターブ8度圏域になってしまいます。

そしてまさに、この E↓A の下降音型は、この第九の冒頭の第一楽章で出てきた、あの空虚5度の E↓A にほかならない……こうして考えてみると、ベートーヴェンは、この第九交響曲を、空虚5度の E↓A で開始し、第一楽章、第二楽章、第三楽章……ときて、ついに第四楽章の歓喜の歌で F#(3度)の全面肯定に至った……この歓喜の歌の中で、唯一否定的な歌詞である「強く分かたれた」streng geteilt の部分には E↓A の下降音型をわざわざ用いて最初の空虚5度を思い起こさせるものの……

それもすぐに鳴る F#(3度)で再び全面肯定されます。F#↑G↑A(Alle Menschen)__A↓G↓F#↓E(werden Brüder)__D↑E↑F#(Wo dein sanfter)__E↓D(Flügel weilt)すべての人は兄弟となる。汝(エリジウムの乙女)のやわらかな翼の憩うところ(エリジウム)で。

このように考えてみると、この交響曲はまさに5度と3度の主導権争いであって、5度は第一楽章と第二楽章をずっと支配し続ける。これに対して第三楽章は、調性B♭になるものの3度(長3度)の無意識的な肯定(そうです!第三楽章は、ベタな3度の肯定になってる……)、そして第四楽章において、最終的に5度と3度をさらに高い位置から比較した結果としての、知性による3度の意識的な肯定……そんな図式になっているのかな……と、まずは思うのですが(後になるとちょっと考えが変わる)。

そして、ここでやっぱり思い出すのが、音律と和声の話。ヨーロッパ音楽の音律は、中世においてはピタゴラス音律に基づく教会旋法であって、単旋律聖歌が延々と歌いつがれてきたわけですが、12世紀において対位法ができてくるとともに、5度が意識されるようになった。ピタゴラス音律においては、うなり(ビート)なしにきれいに響くのは8度(オクターブ)と5度だけで、これだけが「和声」として認められていたということだった。(あと、補足的に4度も)

しかし、14、15世紀(いわゆるルネサンス)に入ると、これまでは不協和音と考えられてきた3度や6度が和音の仲間入りをしてきます。そして、3度や6度がきれいに響かないこれまでのピタゴラス音律に変わって、純正調や、3度や6度、とくに3度の響きが美しいミーントーン(中全音律)が支配的になってきます。

なぜ、こういう現象が起こってきたのか……そこのところをわかりやすく解説してくれている本がありました。作曲家の藤枝守さんの『響きの考古学』(平凡社ライブラリー)。以下、少し引用してみます(pp..85-86)。

(引用はじめ)………………………………

ピタゴラス音律が支配していた中世において、8度と5度、4度の3つだけが協和音程とみなされ、ほかの音程は経過的に使用されるだけであった。特に、ピタゴラス音律の3度は、81/64という高次の比率となり、不協和音程として扱われていた。このようにピタゴラス音律においては、音程に関してかなりの制約があったといえよう。数比的な秩序が、響きに対する感覚の自由さを妨げていたとも考えられる。ところが、ピタゴラス音律が支配的であったこの時代でも、この音律の制約を受けず、より感覚的な音程を保持していた地域があった。

イギリス・アイルランド地方では、フランスやドイツなどの大陸とは異なった傾向の音楽が展開していた。その大きな違いを生みだしたのが、3度(あるいはその転回音程の6度)に対するイギリス・アイルランド地方の人たちの好みなのである。彼らの好んだ3度は、ピタゴラス音律による不協和なものではなく、純正に協和する状態(すなわち5/4の比率)のものであったという。なぜ、このような純正3度に対する感覚をイギリス・アイルランド地方の人たちがもっていたかについては定かではないが、おそらく、この地方に移り住んだといわれるケルト人と関係があるように思われる。

………………………………(引用おわり)

ケルト人、カエサルの『ガリア戦記』に登場するガリア人(厳密にはケルト人とイコールでないといわれますが)は、はじめはヨーロッパのほぼ全域に分布していたけれど、ローマ帝国によって追いやられ、イギリスのアイルランドなどに極限されたとするのがこれまでの定説だったようですが、最近では、イギリスのケルト文明と大陸のケルト文明の相関に疑問が呈されることにもなっている……その点はちょっと気になりますが、この藤枝さんの本では、「3度の担い手」として、「ケルト」があったんじゃないかという仮説に立っています。もう少し引用を続けてみましょう(pp..86-87)。

(引用はじめ)………………………………

イギリス・アイルランド地方の民衆のなかで培われた純正3度は、「イギリス風ディスカント」という独特の歌唱法を生みだした。この歌唱法では、もとの旋律に対して、あらたな旋律が3度や6度の平行音程によってなぞるのである。すると、ピタゴラス音律では得られない豊かで甘美な響きが生み出される。(中略)14世紀から15世紀にかけて、この3度によるイギリス独自のスタイルは、イギリスを代表する作曲家のジョン・ダンスタブルによって、大陸へ伝えられたといわれている。そして、フランスにおいて「フォーブルドン」という技法を生み、純正3度の響きが大陸の音楽のなかにしだいに浸透していった。それにともなって、ピタゴラス音律によるそれまでのポリフォニーの響きが一変させられたのである。

純正3度の登場。それは、純正5度に基づくピタゴラス音律の支配を終わらせ、純正調の新しい時代の到来を告げるものであった。このような音律の変化は、また、中世からルネッサンスへの大きな時代の移行も意味していた。

では、なぜ、純正3度が大陸でこのように広まったのだろうか。それは多くの人々が、純正3度が生みだす甘美でとろけるような響きに魅了されたからである。ピタゴラス音律の厳粛で禁欲的な響きは、たしかに神の存在を暗示しながら、宗教的な活力を与えていた。しかしながら、響きに快楽性を求めた耳の欲求が、純正3度の音律を受け入れていったようにみえる。

15世紀になり、ポリフォニーのスタイルはさらに複雑になっていくが、それとともに、純正3度の響きは、そのポリフォニーに協和する縦の関係を生みだしたといえる。つまり、ピタゴラス音律のポリフォニーでは、絡み合った声部が分離して聴こえるが、純正3度が入り込んでくると、それぞれの声部が音響的に溶け合ってくる。その結果、ポリフォニーのスタイルが和音の響きとして、つまり、同時に響き合うホモフォニー的な傾向となっていった。イギリス・アイルランド地方からやってきた純正3度は、このように大陸の人々の耳に豊かで甘美な響きを与えながら、音楽スタイルの変化を引き起こすひとつの要因となった。

………………………………(引用おわり)

藤枝さんの本のこの部分をずっと読んでいると、まさにベートヴェンの第九の解説じゃないか……これは……という錯覚に囚われてしまいます。まあ、逆にいえば、このベートヴェンの第九交響曲というのは、作曲時点は19世紀初頭だけれど、実は、はるか古代から中世にわたる教会でのピタゴラス音律による単旋律聖歌、それが12世紀に入って5度のポリフォニーを生み、さらにルネサンスを迎えて3度音程による現代につながる西洋音楽の誕生(長3度の長調と、短3度の短調)……そのすべてを、70分前後の4つの楽章の中にとじこめた、いわば西洋音楽の古代から現代に至るタイムライン、時間圧縮タイムカプセルみたいな音楽だった……そんなふうにもいえるのではないか……

したがって、ここで考えなくてはならないのは、5度に象徴される「しばる力」(交感神経的)と3度に象徴される「ゆるめる力」(副交感神経的)の関係じゃないかな……と思います。この第九は、さらっとみると「3度の勝利」で、空虚5度にはじまる不安感、どうしようもなく頼りなく、けれどぎりぎりと縛られていくような不快感……そんなものが、最終的には「ヒューマニズム3度」で解決されて、人類はみな兄弟になる……戦争も仲たがいも争いも支配も服従もない、自由で幸福なエリジウムに入る……そんなふうにも読めるのだけれど、本当にそうなんだろうか……

ベルリンの壁崩壊直後のバーンスタインの演奏……そこにはたしかに、「自由に対する希求」が強く現われている。しかし、第二次大戦の終了まもないフルトヴェングラー盤は、聴いていてなぜか不安になる。バーンスタイン盤は、もうこれ以上ないくらいの肯定的感情が溢れかえっているものの、では、その後の世界の経過はどうだったか……そういうことを考えると、この曲の持っている性格は、もしかしたら意外に複雑なものなのかもしれない……そんな思いもしてきます。

たとえば、この曲では、第一楽章と第二楽章は、空虚5度が支配するメロディーの断片が飛び交う、まさに戦場のような雰囲気ですが、第三楽章に入ると突然、すべてが一変して、3度が支配する甘美なメロディーの洪水にみまわれます。なるほど、これがエリジウムの世界……私は、以前に見たイギリスの画家、ジョン・マーチンの天上世界の絵をどうしても思い浮かべてしまうのですが……しかし、作者のベートーヴェン自身は、この「3度の洪水」を無条件には肯定していない。

藤枝さんの本では「純正3度が生みだす甘美でとろけるような響き」とありますが、まさにこの第三楽章がそのもの(調律は純正調ではないけれど)……しかし、この響きは、第四楽章の冒頭で否定されます。第一楽章、第二楽章のメロディー断片を「これではない」、「これも違う」と否定したあと、流れてくる第三楽章の断片に対して「うーむ……いいんだけど、どっか違う。もっといいのはないんかい?」とくる。要するに、ベートーヴェンとしては、空虚5度が支配する厳格でオソロシイ世界はむろん否定するんだけれど、その対立項として現われる3度の甘美な世界も、そのままでは肯定する気になれんなあ……とそんな感じです。

私は、ここに、ベートーヴェン自身の人類の歴史(というかヨーロッパ文明の歴史)に対する一つの見方をみるような気がする。ベートーヴェンも、詩を書いたシラーも実はフリーメーソンだったとかいう話もありますが、そういうややこしいことを考えなくても……まあ、考えてもいいんですが、やっぱりもっと大きく、この時代に現われてきた、一種の自己批判的精神(文明の自己批判)ではなかったか……これは……19世紀という時代が、うちにそういうものを孕んでいて、それはいまだに解決されていない……そんなふうにも思います。

その一つの引っかかりとして、第四楽章に登場する「Cherub」(ケルブ、ドイツ語読みではケルプ)というヘンな?存在のことを考えてみたいと思います。これはむろん、シラーの原詩にも出てくるようですが、かなり位の高い(第2位)の天使だそうで、その天使が、神の前に立つ!(und der Cherub steht vor Gott.)ここです。この箇所は、合唱のなかでたしか3回くりかえされて、そのたびに感情が高まっていきます。

で、この歌詞の前にあるのが、Wollust ward dem Wurm gegeben. 快楽は虫ケラに与えられん、という一句。やや、これはなんだ……ということですが……私はここで、どうしてもあの第三楽章の「3度の甘美の洪水」を思い出してしまう。Cherub(天使ケルビム)と Wurm(虫)は対になってるように思えます。天使ケルビム(ケルビムは複数形で、単数はケルブ)は、「智天使」ともいわれ、「智」をつかさどる。その天使が神の前に立ちふさがって神を守る。虫けらども、ここはお前たちのくるところではない!と……

なるほど、感情の喜びに流されて知性も理性も失ったものは、本当の神の前にブロックされるということなんだろうか……そういえば、ここで思い出すのは、第四楽章の開始を告げる、あの「恐怖のファンファーレ」。第三楽章の甘美に酔いしれていた聴衆は、ここでドカーン!とその存在自体を葬りさられる……そんなふうに感じるほどアレは強烈で、私のようなバッハ以前の古楽が好きなものは、「あ、やっぱりベートーヴェン、ダメ」と、ここでスイッチを切りたくなる、そういう過激な……

譜面をみると、あの不協和音の構造がわかってきます。なんと、Dマイナー(D+F+A)とB♭メジャー(B♭+D+F)を同時に鳴らしている。鳴る音は、D、F、A、B♭の四つなんですが、AとB♭が半音でケンカしてあの不協和。しかも大音量で。Dマイナーは第一楽章、第二楽章の主調だからわかるにしても、B♭メジャーは? ということで譜面を見ると、これはなんと、第三楽章の調だった。つまり、この第四楽章の冒頭では、第一楽章、第二楽章、第三楽章の主和音を同時に鳴らすことによって、これまでの全部の音楽の総決算だぜ!ということを聴くものに告げ知らせる……

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と同時に、これは、甘美きわまる第三楽章、B♭メジャーの徹底的な否定にもなっている。DマイナーをB♭メジャーに思いっきりかぶせることによって甘美な第三楽章全体を惨殺する……そんなイメージです。で、これが、第四楽章の後の方で、智天使ケルビムと虫けらの対比になって出てくる。ということはつまり、ケルビムは、もしかしたら Dマイナー、あるいは空虚5度そのものなのかもしれない。

ケルビムって、現代のふにゃふにゃアートではぽっちゃりしたかわいい天使の姿に描かれることも多いそうですが、旧約聖書に出てくるその姿は、まさに怪物そのもの。この天使は、創世記とエゼキエル書に出てきますが、エゼキエル書における詳細な描写は次のとおりです(以下引用。10章9-14節)

『わたしが見ていると、見よ、ケルビムのかたわらに四つの輪があり、一つの輪はひとりのケルブのかたわらに、他の輪は他のケルブのかたわらにあった。輪のさまは、光る貴かんらん石のようであった。そのさまは四つとも同じ形で、あたかも輪の中に輪があるようであった。その行く時は四方のどこへでも行く。その行く時は回らない。ただ先頭の輪の向くところに従い、その行く時は回ることをしない。その輪縁、その輻(や)、および輪には、まわりに目が満ちていた。-その輪は四つともこれを持っていた。その輪はわたしの聞いている所で、「回る輪」と呼ばれた。そのおのおのには四つの顔があった。第一の顔はケルブの顔、第二の顔は人の顔、第三はししの顔、第四はわしの顔であった。』(引用おわり)

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これはまるで怪物……具体的な姿をイメージとして思い浮かべることは困難ですが、絵画作品として描かれたその姿は、たとえば上の絵に出てくるみたいな異様なもので、えっ、これが天使なの?という言葉が思わずでてきそうな……同じような「怪物」の出現は、エゼキエル書の冒頭(第一章)にもあり、そこでは、この「生き物」は「人の顔、ししの顔、わしの顔、牛の顔」を持つとされています。

しかし……この箇所をまともに読んでみると、もうこれはとても「天使」(現代の)のイメージではないし、「生き物」というにもほど遠い。なんか、機械装置、あるいは車か飛行機みたいな……ジョージ・ハント・ウィリアムソンみたいに、これこそ円盤、宇宙船にちがいないという人もいるんですが……

正直、どうなんでしょうか。ただ、この存在が徹底して「4」に関係することだけはたしかなようです。それと、「人の顔、獅子の顔、牛の顔、ワシの顔」がおそらくは、「水瓶座、獅子座、牡牛座、サソリ座」に関連することも。なぜなら、サソリ座は、古くは鷲座とされることもあったらしいので……

まあ、このあたりは、もしかしたら本質から遠い?のかもしれませんが、おそらくケルビムという存在は、神の前に立ち塞がり、神へのアプローチを妨害する門番みたいな役割であったことはまちがいないと思います。そして、それで思い出すのがやっぱりデミウルゴスとグノーシス……これについては前に書きました。リンク

そして、もう一つ気に留めなければならないことが……それは、智天使ケルビムが登場する前の、この箇所(かなりの超意訳をつけます)。
Wem der große Wurf gelungen,(大きな幸いを得た者よ)
Eines Freundes Freund zu sein,(真の友を得た者よ)
Wer ein holdes Weib errungen,(やさしき伴侶を得た者よ)
Mische seinen Jubel ein!(いざ、この喜びを共にせん)
Ja, wer auch nur eine Seele(そうだ、ただ一つの魂でも)
Sein nennt auf dem Erdenrund!(この地に、共にある!といえる者があるならば……)
Und wer’s nie gekonnt, der stehle(そしてもし、そういう魂を得られなかった者は)
Weinend sich aus diesem Bund!(忍び泣き、この輪から去るがよい)

これはけっこう厳しい……つまり、心が空虚5度に満たされて、この世界に満ちるこわばった掟(Mode)をふりかざし、真実の心の友も得られず、パートナーからも嫌われて、真の世界で孤立した者は、立ち去れ!……この地上に、お前のようなやつのおる場所はないのだ!と。しかも、「stehle」(英語のsteal)なので、大騒ぎせずにそっと消えてしまえ! ということで、空虚5度の心の持ち主に対しては容赦ない。

そして……3度の甘美に酔いしれる「虫けら」のようなヤツも、当然この輪には入れない……ということで、ここではじめて、この「第九」の大きな枠構造が浮かびあがってくるような気がします。つまりこの1時間超の大作は、全体として、空虚5度のガチガチの分断する心も、3度の甘美に酔いしれてふにゃふにゃになった心も、両方ともアカンと言っている。

さて……われわれ人類は、これからどこへ行くのだろうか……ベートーヴェンの時代には、すでにストレートな?神への信仰は失われはじめていたのでしょう。この第九では、vor Gott、神の前に、という言葉が何回も出てくるけれど、その場所に立っているのはあのおそろしいケルビム……すべての人が兄弟となる……しかし、それはなんによって?

ベルリンの壁が崩壊したときには、おそらく多くの人がそういう思い(万人皆兄弟)に満たされたのではないでしょうか。しかし……「すべての人が兄弟となる」世界は訪れなかった。いや、今の状況は、もしかしたらさらに深刻なのかもしれません。世界中で多発するテロや戦争……あいかわらずCO2を垂れ流し、資源を食いつくす人類……そして、あの身の毛もよだつゲンパツの大増殖……まるで、あの「恐怖のファンファーレ」そのもののような……

ベートーヴェンって、ホントに一筋縄ではいかないやっちゃなあ……そう、思います。第九の中にあるさまざまな「仕掛け」は、もしかしたらまだあんまり読み解かれていないのかもしれません。

たとえば……演奏者の間で、常に問題になる第四楽章の「vor Gott」がくりかえされる部分(上に述べた部分)。この箇所は、オーケストラも合唱もff(フォルティシモ)指定で目一杯、大音響でがなりたてる(失礼)のに、ティンパニだけはその部分にff > p つまり、フォルティッシモからピアノにディミュヌエンドしないさいという指示があって、これがために、みんなが大音響で「vor Gott!」と連呼しているなか、ひとりティンパニだけは少しずつ音を弱めながらさびしく消えていかねばならない……

実は、この指示は、かなり最近まで定番楽譜として用いられてきたブライトコップフ版にあったそうですが、最近出されたベーレンライーター版では、ティンパニも一緒にffしましょうという指示になってる。で、これで喜んだのがティンパニ奏者の方々で、なんでオレだけ……という鬱屈した思いを吹き飛ばすようにティンパニの強打……指揮者の中にも、なんでティンパニを p にせにゃならんの?という理由がわからなくて、ブライトコップフ版の指示を無視してティンパニも ff でやってこられた方も多かったとか。

しかし、この部分の前の歌詞の意味を考えてみると、上のように、神の前に立つケルビムに拒まれて立ち去らねばならないものがいるわけです。これは、私の解釈では、Mode(世の掟)にガチガチになった空虚5度の石頭連と、逆に3度の甘美に酔いしれてふにゃふにゃになった虫けらども……となるわけですが、もしかしたらティンパニに与えられた ff > p の指示は、こういう連中がさびしく去っていく姿を、音楽表現の上でやらせている……そういう解釈も成り立つのでは?

この箇所は、昔から演奏者の間では大問題だったらしくて、音量バランス上の問題とかいろいろ言われてますが、歌詞の内容に関連した表現ではないかという解釈は、私はみたことがない。でも、フツーに単純に考えれば、そうなるんではないだろうか……そもそも、ベートーヴェンの楽譜の校訂作業というのは困難を極めているそうで(自筆譜や献呈譜やいろんな出版譜があるので)、文献上からこうだ!という決定はできないそうなんですが……しかし、もしこの箇所で、ベートーヴェンがなにも考えてなかったら、当然ティンパニの ff > p という不自然な指示が生まれるはずはない……ということは、この ff > p にはやっぱりなにかの表現意図がある……そう考えるのが自然ではないかと思うのですが。

まあ、音楽の専門でない私の思いつきなので、なんともいえないのですが……音楽は、聴けば直接になにかが伝わってくる。それはたしかです。しかし……演奏する人も、聴く人も、もしかしたらそこに鳴っているその音楽の中に、なにかかなりのものを聴き逃しているのかもしれない。聴く方はともかく、そういう、よくわからない状態で演奏ってできるの?ということなんですが……でも、今も、たくさんの指揮者、演奏家、声楽家が、世界中で「第九」をやってます。で、さらにさらに多くの人が聴いている……

演奏技法の問題だけではなく、この曲には、とくに第四楽章のケルビムが出てくるところで、私には、先に書いたように、デミウルゴス、グノーシスの問題がかなり本質的にからんでいるように思えてなりません。これは、西洋世界にとっては、やっぱり古代から今に続いて、まったく解決されていない大きな問題のように思いますが……すくなくとも、この「第九」は、従来言われている「人類愛」とか「ヒューマニズムの勝利」みたいな歯の浮くようなウソくさい言葉では歯が立たない、ややこしい巨大な問題を抱えこんでいるように思えます。

この第九の「ナゾ」、いったい解明される日がくるんだろうか……またいつの日か、続きを書ければ……

能を見る・隅田川/Noh Sumidagawa

こうかく_900

2014 年3月8日土曜日。豊田市能楽堂にて、金剛流『隅田川』。シテは豊嶋三千春さん。ワキは宝生閑さん。『隅田川』は世阿弥の息子で若くして世を去った観世元雅の代表的な名曲で、上演の機会も多いが、私は見るのははじめて。あらすじは知っていたけれど、前夜にみっちりお勉強して臨んだ。シテの三千春さんが舞台からダイヴするというハプニングもあったけれど、なかなかの名演だったと思う……なんか、ワキの宝生閑さんが、シテを懸命に支えていた感じ……なんですが、これは、ストーリー的にも隅田川の渡しの船頭(ワキ)が、わが子をさがす狂女(シテ)をガイドするという話なので、ぴったりうまくはまっていました。

この作品は、元雅と父の世阿弥の間で、最後に、子方(今は霊となった狂女の子)を舞台に出すかいなか……で論争になったという。といっても、ストーリーがわからないとこの論争の意味もわからないので、カンタンにストーリーを紹介してみますと……場所は、隅田川。とはいえ、今の隅田川とはちょっと違って、昔の隅田川は利根川の支流になっていたそうで、武蔵国と下総国を分ける大河だった。この川の渡し船の船頭がワキ。そこへ、狂女が登場……笠を深くかぶり、手には笹を持ち、独特の不安定な歩みが心の揺れを表わす……船頭は最初、乗船を拒否するが、狂女は伊勢物語の業平を持ち出し……ここらへんで、おう、これは単なる狂人じゃないなあ……と。

そんな風に思わせるのが、また元雅の演出のうまいところだと思いますが、船頭もこれで態度を改め、船に乗せます。船が対岸に近づくと、そこにはなにやら人だかりが……船頭は、以前、京から人買いにかどわかされて連れてこられた子がここで病死し、そのなきがらを葬ったが、ちょうど一年になるので、その塚にみながお参りしているのだと……シテの狂女はガーン!となって、その子の姓名を聞くと、それはまさに、一年前に人買いにさらわれたわが子梅若……なんと、まさに命日に、母は、はるか東国で死んだこどもに対面……なんですが、ここで、ホントに対面になるのか、それとも、子方をださない、つまり「対面」は母の心の中だけで行われたのか……

舞台には、塚の作り物が置かれます。元雅は、その作り物の中に子方(梅若)をあらかじめ入れておいて、最後のクライマックスで母子対面……つまり、母は、子の霊と出会う……そういう演出を考えた。しかし、父の世阿弥はこれに反対し、「子方は出さない方がいい」と主張。その意見対立が『猿楽談義』に残されているそうなんですが、私は原文は未読です。ただ、この意見の違いは、かなり重要なことだったみたいで、後々まで、現在に至るまで、この能を演じようとする側に、どの演出でいくのか……それを悩ませることとなった。ともあれ、「子方」については、次の3種類の演出方法が考えられるみたいです。

1.最後の「母の祈り」(念仏)によって、梅若の霊が塚から登場する。演出としては、子方の役者が、塚から実際に姿を舞台上に現わす。これは、元雅の考えた演出になるのでしょう。
2.子方は一切登場させない。子との対面は、母の想念の中で行われたのだと、見るものにも納得のいく演出。これは、父の世阿弥の考え。
3.塚の作り物の中に子方が入っているが、最後まで姿は現わさない。ただ、子方の声だけが塚の中からきこえる。これは、世阿弥と元雅の中間に位置するみたいな演出。
私が豊田市能楽堂で見た舞台は、3つめ、すなわち、子方の声だけが聴こえるという演出を採ってました。

実際に舞台で見ると、この演出(声だけ)はかなり効果的で、おそらく子方の姿が現われる元雅の演出よりいいんじゃないか……というのは、今の人間の感性なんでしょうか……ただ、私がふしぎだったのは、元雅が子方の姿を現わすべきだと主張し、父の世阿弥が子方は出さない方がいいと主張したことです。私は、最初は逆に思っていて、元雅が「出さない」。父の世阿弥は「出す」。ということだと勘違いしてました。でも、実際は逆だった……私が勘違いした理由は、やっぱり世阿弥が夢幻能の大家だったというところにあります。夢幻能では、武者の亡霊なんかがだいたい後シテとして舞台に登場し、ワキ(たいてい僧)の前で舞い、踊り、消えていく……

夢幻能の構造はたいへん良くできていて、後シテの亡霊は、だいたい前シテとして、里の女とか老人の姿でワキ(の僧)の前に現われて、亡霊にまつわるストーリーを語ってきかせる。で、いったん前シテが退場すると、こんどはアイ(狂言方がつとめるケースが多い)がそのストーリーをもっとはっきりと語る(これは、現世のフツーの人間として)そのアイ語りの間にシテは装束を変えて、今度は亡霊の姿になってワキの前に現われ、夜が白むまで舞い続ける……これが、一種の昇華作用となって、亡霊は今までのすべての怨みから解き放たれて浄土へと去っていく(成仏する)……およそこんな感じで進むのが多いかと思います。

だから、ここには、はっきりと2重構造が提示されています。目に見える世界と目に見えない世界……中世の人々が、どれだけ「目に見えない世界」を意識していたのかはわかりませんが……今、そういう舞台を見ると、うまい役者が演じた場合ですが、実際に、舞台に「霊」が降りてくるのがはっきりわかります。「降りてくる」というのか、シテ役の役者に霊が「かかる」というのか……それはともかく、まちがいなく数百年も昔に亡くなった人物の「霊」がそこに現前する……それがわかるので、私は毎度びっくりするんですが……これがあるから能を見るのはやめられんわい……と思う単純な人なんですが、ともかくオドロキです。

世界の演劇で、舞台の上に、実際に「霊」を降ろすことができるものがどれだけあるのか……わかりませんが、能は、現実にその力を持っている。といっても、シテの役者さんは別に降霊術師とか、そんないかがわしい?超能力者ではなくて、ただ、室町時代から伝えられた「カタ」をきちんと、伝えられたままにそこで再現しているにすぎない。西洋の演劇ですと、悲しみや喜びを伝えるには役者の演技力で……となるんですが、能においては、ただ「伝承のカタ」をきちんと再現するのみ。それ以上、演者の演技力とか不要なわけですが……それでいて、実際に、目の前の舞台に、「霊」がかかってきます。これ、ホントにふしぎなんですが……

世阿弥の「夢幻能」という形式自体、そして、その形式を舞台上に実現していくさまざまな細かいカタの積み重ねが、そういう力を持っているのでしょう……今の役者も、そのとおりにカタをきちんとこなしていくと、自然に「見えない世界」の存在が、舞台上に「現前」してしまうのです。これは……ホントにいろんなことを考えさせられる「方法」なんですが……しかし、世阿弥の子である元雅にとっては、もうそのやり方は「古い」と感じられたのかもしれない……あんまりたくさん見ていないのでわからないのですが、世阿弥と、その子の元雅の間には、なにか「古代」と「近代」を分けてしまう、深い裂け目があるように感じます。

元雅の作であるこの『隅田川』では、シテは、もう亡霊ではなくて、生身の肉体を持っている狂女(母)です。前シテと後シテという区分(構造)もなくなって、母である狂女が最初から最後までシテになる。それで、亡霊である梅若は、シテではなくて、単なる「対象」になる……ここには、やはり世阿弥の夢幻能の「古代的世界」を抜け出て、近代的な自我の目覚めと申しますか……「人間の心の動き」みたいなものに焦点が合わせられているのがわかります。すなわち、ちょっと大げさにいうと、ここでは、目に見えない世界の神々や亡霊が、なにかの拍子に次元の裂け目を超えてこの目に見える現象の世界に現われ出る……そういう古代的世界の否定がある。

世阿弥と元雅親子が活躍した14世紀、15世紀は、ヨーロッパでいうとちょうどルネサンスの頃で、「人間中心主義」といいますか、近代的な自我の目覚めとともに、音楽でも絵画でも演劇でも、さまざまな新しい試み……近代から現代に至る「人の考え」の萌芽がどんどん現われた時期……とされていますが、これは、音律の問題で、「3度」を重視するミーントーンが導入されて、ヨーロッパ音楽を特徴付ける「長調」と「短調」が現われてきた時期でもありました。まあ、要するに、「神の世界」から「人間の世界」へ……ということなんですが、世阿弥の考え方と元雅の考え方の差には、やはりそんなようなものを感じます。東と西で、おんなじようなことが……

ということで、私は、無意識に、亡霊の姿を舞台上に見せる演出が父の世阿弥で、これを見せない、つまりすべては母の心理の中の展開であるとする演出が子の元雅のやり方である……こんなふうに思っていたのでした。でも、実際は逆。これはふしぎだ……なぜ、ここが「逆転」しているのだろうか……このナゾは、私自身の中でも、これからかなりの期間、「解けない問題」として残るような気がします。

*この日の公演では、シテの豊嶋三千春さんが舞台から落ちるというハプニングがありました。以前から、舞台から落ちた人がいる……という話は聞いていたんですが、なぜか、この日の公演で、シテの豊嶋さんが登場されたときからその話が浮かんできてしかたなかった。歩みが非常に危なっかしかったのが、そう感じた原因なのかもしれませんが……でも、それは、狂女に特有のステップなんだと理解……しようとしたけれどやっぱり大丈夫かな? もしかして落ちるんじゃ……と思ってたら、シテ柱のところでついにダイヴ……しかし、引き上げようとする後見を断って、ご自分で正面きざはしまで歩き再び舞台に……その間、お囃子はなにごともなかったかのように……

豊嶋三千春さんは1939年生まれといいますから、もう七十代半ば。舞台は最後まで努められましたが、大丈夫だったでしょうか……こころなしか、舞台で右足を押えておられたように見えましたが……

今日のessay :普遍を求めて・その2/About Universality – 02

ゴシック期の音楽900C

「3度の卓越」ということでもう一つ連想するのは、ミーントーン(中全音律)という調律法のことです。これは、ルネサンス時代から登場する調律法だそうで、長3度を純正にするという点に特徴があるそうな。以前、小林道夫さんがバッハの『パルティータ』の全曲演奏をされるというので聴きにいったんですが、演奏後、質疑応答の時間が設けられたので、今日の調律法は?ときいてみました。するとお答は「ミーントーンです。」ミーントーンは、♯3個、あるいは♭2個の調までしか使えないとされている調律法なんですが……

バッハの『パルティータ』を構成する6曲の調をそれぞれ調べてみますと……第1番/変ロ長調(♭2個)、第2番/ハ短調(♭3個)、第3番/イ短調(♯♭なし)、第4番/二長調(♯2個)、第5番/ト長調(♯1個)、第6番/ホ短調(♯1個)となっていて、第2番以外はこの基準に当てはまります……ということは、ここからいうと、バッハは、このミーントーンを念頭にこの組曲を書いたんでしょうか……それはわかりませんが、バッハの時代にも、この調律法が広く用いられていたことは想像できます。純正長3度へのこだわり……

そのかわり、このミーントーンでは、5度が純正にならないそうです。本来、かなり重要なはずの5度の響きを犠牲にしても長3度を純正に響かせたい……そこには、一体どういうモチベーションがあったのだろうか……ピアノ調律師の岡本芳雄さんという方のサイトを見ると、次のような興味深いことが書いてありました。ちょっと引用させていただきますと……『ピタゴラス音律で生じる「唸りの多い長三度」の和音は、当時の人々には「不協和音と感じられたであろう」と言われています。一方、自然倍音に由来する純正長三度の和音は厳格などっしりした響きで、祈りを象徴する和音とも考えられます。』
http://pianotuning.jp/?page_id=691

なるほど……唸りのない長3度は「祈り」だったのか……ところが、いろいろ調べてみますと、純正長3度の和音は、イギリスから来たみたいなことが書いてあるサイトも多い。中世の教会音楽、まあグレゴリオ聖歌ですが、あれはやっぱりピタゴラス音律で、5度は純正になるけれど、3度は不協和音。これは、岡本さんの書いておられるとおり。ところが、ルネサンス時代に、イギリス発で、3度と6度を「協和音」とする考え方が大陸にも流れこみ、イタリア中心で大流行したといいます。先に、3度の重視は12世紀ノートルダム楽派から?と書きましたが、大陸にかんするかぎり、もう2世紀くらい遅かったようで。

それにしても、今回いろいろ調べて、私自身の耳が、もうすでに完全に学校の西洋音楽教育に侵されてしまっているのにあらためて驚いた。3度と6度が不協和音! これ、絶対に、今の人の耳じゃない……ドとミ、ドとラですが……ちゃんと、ここちよく響きます。でも、ヨーロッパの中世の人の耳には、これが不協和音で、悪魔の響きみたいにきこえたんですね。想像できないけど……まあ、その時代の音楽が、3度と6度が不快なうなりを生じるピタゴラス音律でできていたということもあるとは思うのですが……で、イギリス渡来のミーントーンで、とくに3度が純正に協和するようになって、新しい世界が開けた……

現代のわれわれからすると、中世の平行5度のオルガヌムなんかは、ちょっと不気味というといいすぎですが、「なにがあったんですか?」といいたくなるような壮絶気味の響きに聴こえるんですが……ピタゴラス音階の純正5度の和音は、ハ長調でいうとドの鍵盤とソの鍵盤を一緒に押したときに出る音なので、これだけではハ長調なのかハ短調なのかがわからない。つまり、長調なのか短調なのか、耳も脳も聞き分けることができないところから、得体の知れない不安感が漂う……ベートヴェンの第9交響曲の冒頭が、この「空虚5度」を使ってるので有名みたいですが、たしかに暗闇をさまよってるみたいな不安感があります。

空虚5度

しかし……これが、実は、ルネサンス以来の3度を卓越させた「ヨーロッパの音階」に馴れた耳のせいであるとは……「ヨーロッパ音楽教育」を受けていない人の耳には、われわれとは全然違うように聴こえるはず……むろん、ヨーロッパ中世の人も含めてですが、そもそも「長調」とか「短調」とか知らなければ、そのどっちでもない和音が「いったいどっちなんだろう……」という不安を与えることは考えにくい。ので、これはおそらく、心地よい響き……というか、なんか、神を想像させるような響きとして聴こえたんでしょうか……私のイメージでは、ゴシック彫刻なんかの、あの、ちょっと非人間的な感じとよく似ているような……

そうしてみると、3度を卓越させて「長調」(喜び)と「短調」(哀しみ)を形成していくヨーロッパの音律の進化過程は、なんか「人間的なものを求めて」という感じも受けます……で、ここで思い出すのが、わが国における能と狂言の展開なんですが……14世紀室町時代に成立した能と狂言は、まさにヨーロッパで3度が重視されて長調と短調が形成されてきた過程とパラレルに感じます。というと、かなりヒヤクしてるなあ……と思われる方も多いと思いますが……実は私も、書いててヒヤクだなあ……と思うんですが、でも、世界を、2つの範疇で理解していくという試みとしては、やっぱりすごく共通点を感じます。なにか、ここで、洋の東西共通して、「世界を人の側に取っていく」……みたいな動きが出てきたような……

それはともかく、現代のわれわれの耳が、ルネサンス期のヨーロッパで形成されてきた「長調」、「短調」の範疇からなお形成されているというのも、やっぱり驚きですね。ロックみたいな「新しい」音楽でも、「パワーコード」といって、空虚5度を効果的に使う方法があるらしい……今はもう、世界中にラジオやテレビやインターネットがあふれて、「ヨーロッパ基準の音楽」が世界標準になりつつあるので、世界中の人々の耳が「ヨーロッパ耳」になりつつあるんでしょう。おそらく、「ヨーロッパ耳」に関係ない耳の持ち主をさがすことは困難……で、この困難は、年々増大しつつある……昔の日本人の耳って、どんなだったんか……まだ、今ならそういう人もおられるのかもしれませんが、あと少しで絶滅……

耳の絶滅は、あんまり表立って現われないので、すごくわかりにくくて、知らない間に、世界の各地で「オリジナル耳」が消えてなくなっていく……これは、考えようによっては爆弾とかよりコワい話なのかもしれません。なんせ、無くなっていくということさえよくわからないうちに消えていってしまうのだから……「普遍」というものは、「例外」がなくなったときに完成するものなのかもしれませんが……すると、音律というか「オリジナル耳」にかんする限りは、「普遍」は一歩一歩、実現しつつあるのかもしれません。で、それが完成したときには、もはや完成したことさえわからない。なぜなら、「対立物」が完全消滅しているから……オソロシイ……

しかし……「普遍」の完全な完成をはばむもの……それもまた、世界と人のかかわりの中にある……オクターブの中に5度を取り、それを12回くりかえすと、元のオクターブをわずかにズレてしまう……ピタゴラス・コンマ。約4分の1音のズレは、耳で聴いてもはっきりわかるくらいです。このズレが、「完全な調律」つまり「普遍」をはばむ。これは、なぜ一年がきっちり360日になってないのか……これと似た問題だというとあきれられるかもしれませんが……一年が360日であれば、地球は太陽のまわりを一日できっちり1度動きます。1月はきっちり30日になり、1日は完全に24時間になる。これが、神の造られた「完全な姿」か……ここに、「普遍」は、それ以外にない完全さで実現される。

要するに、「普遍」というものは、やっぱりイデアの世界なのかもしれません。イデアの世界では、オクターブの中に12回くりかえして5度を取れば、それはきちんと元の音に戻るのでしょう。世界の響きのすべては簡潔な倍音で構成され、濁りや雑味、唸りのような「不快な存在」は現われなくなる。これが、ヨーロッパの求めた「究極の普遍の姿」なのか……しかし、それはまた、「完全な死」でもある。なぜなら、もうそこには「規格外」のものはなにも発生しないから。確率論が成立しなくなり、物体の位置と速度は両方とも完全に決定される。過去も未来も完全に連鎖して、ものごとはシュミレーションと完全に一致して発生する。そこには、ホントの意味での「進歩」というものがもはや存在しない「死の天国」……

パースの語る、世界の最終の姿なのかもしれません。今の世界は、雑味と不確定だらけで、人々は不安にさいなまれて生き、そして死んでいかなければならない。病気も苦労もなく、ただ幸いのみがある世界……「普遍」の彼方にはそういうものがあるのかもしれませんが、それは、もしかしたら今の不安だらけの世界とは段違いにオソロシイ世界かもしれない……しかし、人の「普遍」を希求する心がなくなることはないでしょう。たしかに「普遍」は、目先の生活を多少は良くしてくれるものかもしれない。しかし、それは、この世界にある「普遍」である以上、みせかけであって、どこかでその「代償」が払われている。それは……あのオソロシイ「核の事故」になって……いや、さらにさらにオソロシイ姿となって……

これはもう、一種の「感覚」の問題だと思う。「ボクは絶対音感があるから耳が聴こえなくても作曲できる」と言った方がおられましたが、こういう「神話」にコロリと騙されて「すごいなあ……」と思ってしまう……その心の中には、やはり「普遍」にはイチコロで参ってしまう、なんというか素朴すぎる心情があるんだと思います。絶対音感持ちは、なんか「普遍」の体現者、つまり「神」のように見えてしまうかもしれないけれど、そこには、必ずなにか、どっかの部分で大きく失われてしまっているものがあるはずです。ということは、つまりは、一種の「バランス感覚」なんだろうか……この世界において、「普遍」に見えるものが実は内包している、裏腹のうさんくささ……そこに、われわれは気がつかず……

結局、人の歴史って、こういうことの繰り返しなのかもしれません。より大なる「普遍」は、より大なる「代償」を伴う。一見「進歩」に見えても、裏側で大きく崩れているところがあって、結局はプラマイゼロ。うーん……そうすると、つまり、「進歩」はないってことなのかな。進歩幻想。これは、ホントにそうなのかもしれません。あるいは、ホントの進歩は、この目に見えてる世界じゃなくて、なんか、この世界にピッタリ貼り付いている「もう一つの場所」で行われているのかも……私は、どっちかというとそんな感覚を持ってるんですが……「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。」これはイエスの言葉ですが、もしかしたらこのことを言ってたのかもしれません。

人類の「普遍」を求める旅……それは、いつまで、どこまで続くのだろう……もう、21世紀も4分の1を過ぎてしまいましたが……

J・S・バッハ『マタイ受難曲』

マタイ900_c

私は、バロック音楽やルネサンス音楽が好きです。いわゆる「古楽」というヤツですが……今、いちばん気にいってるのは、15世紀~17世紀にかけてのヨーロッパの音楽ということになりますが、昔はやっぱりバッハ、すなわち「大バッハ」と呼ばれる J・S・バッハさんでした。むろん今でも大好きなんですが……

演奏形態は、人の声の入ってるのよりは、器楽の方が好みなんですが、『マタイ受難曲』だけはなぜか、何度も聴きたくなりますね。まあ、昔から聴いてきたというのもあるのかもしれませんが……以前「木の十字架合唱団」だったかな? なんか、そんな名前の団体の来日公演をカセットテープに録音して、くりかえしくりかえし聴いていました。

レクラム文庫でドイツ語歌詞を買って(たまたま丸善に売ってた)対照しながら聴くと、新約聖書のストーリーはだいたい覚えているので、なんとなくわかります。やっぱり歌が入る曲は、歌詞の意味がわからないと、伝わってくるものも半分かそれ以下になってしまう……ということで、わからんところは辞書を引いたりして聴いてました。

今では、ネットで原文も対訳もカンタンに手に入る……便利な時代になったモンですが、苦労して意味を調べながら聴くのもまたいいモンです。ということで、いろんな演奏者の演奏が聴きたくなって、ディスクもいろいろ集めました……といっても、この曲のディスクは数えきれないくらい出てるので、ホンの一部なんですが……

やっぱり正当派というか、基準になるのはリヒター盤なんでしょうね。で、新たな基準がレオンハルト盤かな。これを聴いたとき、かなり新鮮に感じた。でも、そのあと、マクリーシュ盤を聴いてビックリ。古い写真を、色調や損傷を復元して、スッキリ鮮やかに色が甦ったような感覚……これはスゴイと思いました。

バッハの初演のときには、合唱の各パートがなんと一人!だったという話があって、マクリーシュ盤はこれにならってやってるとか。各パートが一人だと「合唱」にならんかったんではないか……とも思いますが、その理由が「お金がなかったから」ということらしくて、なんか、バッハさん、かわいそう……そんなに困ってたのかな……

それはともかく、ぶ厚い合唱団の雲が渦巻くような『マタイ』に馴れた耳には、これは新鮮。旋律線が筆で鮮やかに引かれた墨の線のようにクッキリ浮かびあがってくる。そしてテンポはけっこう速め。冒頭の合唱が「ワルツ」だったことが、このマクリーシュ盤ではじめてわかった。そうか、これなら踊れるかも……

マクリーシュ盤を聴いてはじめてよくわかったのは、やっぱり「19世紀の影」ということでしょうかね……市民社会で、お金ができて、娯楽は大ホールでのオペラや管弦楽。楽器の音量もでかくなり、オケのピッチもあがり、演奏者の人数も膨れあがり、何千人もの人が一度に同じ演奏を聴く……音楽が、「興行」として成立しはじめる。

オケは、オペラでなくとも「物語」、ロマンを奏しはじめる。ぶ厚く、感情をこめて盛りあげなきゃならない……ので、当然テンポも遅くなる……というか、通奏低音の壊れた19世紀の音楽には、元々「リズム」というものが物語に奉仕するシモベになってるので、要するに演奏者の持ってる「物語」のルバートが強烈にかかっている……

バッハの『シャコンヌ』をピアノ版にしたブゾー二の『シャコンヌ』なんかその典型だと思うのですが……で、そういう解釈というか演奏も、それはそれでなかなかすばらしいのですが、やっぱりバッハ本人が聴いたらたまげて『ナニコレ?』というかもしれません。それほど、おそらくルネサンス、バロック時代と違うモノになっている。

マクリーシュの演奏は、そういう「19世紀の影」をできるだけ払拭して、「当時の姿」を浮かびあがらせようというここ数十年の努力のはてに生まれてきたものであるように思います。リヒター、レオンハルトというエポックがあって、そしてこんなかたちで『マタイ』が甦った……むろん「当時の演奏」は、だれにも正確にはわからないわけだけど……

でも、マクリーシュ盤を聴いてると、確実に「19世紀の影」が払われていったあとの姿が見えてきます。やっぱりこの演奏は、今後の一つの基準になるんじゃないだろうか……まあ、それと極端に対照的なのが、メンゲルベルク盤なんですが、実は、こちらも、私は大好きです。ナチスの影が迫る1939年のアムステルダムでの演奏会……

むろん音質は、現代とは比べものにはなりませんが……それでもスゴイ。ヴァイオリンなんか、徹底的にポルタメントで、まるでテルミンです。もう、すべてが渾然一体となって、まさに19世紀そのもの……って、時代的には20世紀なんですが、濃厚に19世紀をやってる。物語が溢れ、すべてに浸潤して厚く熱く重なっていく……

この演奏には、第二部の「ペテロの否認」の部分で、観客席から女性客のすすり泣きが入ってる……というオマケもあります。聴いてみますと、たしかにそれらしい音は入ってるのですが……でも、確たる証拠はない。にもかかわらず「そうに違いない」と思わせてしまうのは、やっぱりメンゲルベルクのスゴさ?というか魔力というのか……

昔、まだSP盤だったころの、演奏会と記録媒体にまつわるユーレイ的なエピソードの一つか……「音楽の力」が信じられていた時代。音楽は、人の霊を動かす。魂に働きかけて人の、もしかしたら生涯までも決めてしまう力を持つ……このことは、現在でもあんまり変わっていないような気もします。というか、ますます巨大化しているのかも。

それにしても、やっぱりバッハという人はスゴイですね……『受難曲』はバッハ以外の作曲家もいろいろ作ってるわけですが……ある意味、この曲は、いろんな「受難曲」のやぱり頂点なのかもしれません。まあ、そんなにたくさん聴いてるわけじゃないので、なんともいえないんですが……これからどんな演奏が出てくるのか、楽しみです。