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お茶目新聞_07:佐村河内氏 ゴーストライターがノーベル文学賞受賞

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御茶目新聞_07 
2014年(平成26年)5月13日(火曜日) 
亞細亞御茶目新聞社 名古屋市中区本丸1の1 The Ochame Times
今日のモットー ★わたし、とりあえずおちゃめじゃないし……
 
佐村河内氏 GWゴーストライターがノーベル文学賞受賞

ノーベル財団は、佐村河内守氏の文学的業績に対して、ノーベル文学賞を授与すると発表。ただし、賞をもらうのは、佐村河内氏自身ではなく、氏の作品を実際に執筆したと推定されているゴーストライターの方で、その名前がまだ確定されていない現状では、名称のわからない人物に賞が与えられることとなり、むろんノーベル賞の長い歴史上でもはじめての椿事。
佐村河内氏は、小説家に転身してから、第一作の『マモルとタカシ』で芥川賞を受賞するなど華々しい活躍ぶりで、その後も、『ヒロシマ』、『第九交響曲』、『3.11』など傑作をやつぎばやに発表し、累計2億部をこえる驚異的な売上げを記録。最新作『守とマモル』では、自身の文学上のゴーストライターを「マモル」と呼び、その錯雑した関係を精妙な筆づかいでえぐり、読者を虚と実の迷宮に誘う。その作品は海外でも高く評価され、十数ヶ国語に翻訳されて世界中の人々に熱狂的な指示を受け、ついに今回のノーベル文学賞の受賞に至った。ノーベル財団では、氏のゴーストライターに、早く出てきて氏名を明かしてほしいと呼びかけているが、いまだにその名前を確定するに至っていない。このままでは、氏名不詳のまま文学賞が授与されるという前代未聞の事態は避けられない。

佐村河内守氏の談話
ボクにゴーストライターがいるとしたら、それは「天」ですね……天からコトバが降りてくる……

ABくんの談話
日本文学ってやっぱ、すごいねー……とりあえず文化クンショーもあげなくちゃ。

写真のキャプション

最新作 守とマモル 売れゆき絶好調!
(オビのコピー)
ボクのマモル!ボクは、キミがいなければなにもできないんだ……
御茶目出版社

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ノーベル賞って、名前がわからない人でも受賞できるんでしょうか……とりあえず、生きてないとダメという規定はあるみたいですが……もし受賞できたとしたら、賞金はだれがもらうことになるのでしょう? 佐村河内さんがもらうのもなんか許せない気がしますし、かといって、たとえば「日本ペンクラブ」みたいな業界団体?がもらうのもヘンな気がする。佐村河内さんがもらって、そっくりゴーストライターに渡してくれればいちばんいいのでしょうが、それはやらない気がするし……以上、「いらん心配余計なお世話」でした。

お茶目新聞_05:佐村河内氏、芥川賞受賞

御茶目新聞_05_935

御茶目新聞_05 
2014年(平成26年)4月29日(火曜日) 
日本御茶目新聞社 名古屋市中区本丸1の1 The Otyame Times
今日のモットー ★売上目標 1人1冊!
 
佐村河内氏、芥川賞受賞
  話題作『マモルとタカシ』で
   売れゆきに拍車 史上初一億部突破?へ

一時は「現代のベートーヴェン」ともてはやされ、クラシックのCDとしては驚異的な売上を記録した「作曲家」佐村河内守氏も、実は新垣隆氏というゴーストライターがいることが発覚、評価が急転して「サギ師」、「ペテン師」としてマスコミで袋叩きとなったが、その後、小説家に転身し、自身と新垣氏をモデルとした長編、『マモルとタカシ』を発表。これが再び世間の耳目を集めてベストセラーに。さらに、売上だけではなく、文学的内容も高く評価され、ついに芥川賞を受賞することとなった。これで、売上もさらに加速されることが予想され、版元によれば「史上初の一億部突破も夢ではない」とのこと。
ただし、今回もまた「ゴーストライターがいるのでは?」との憶測が発売当初からとびかっている。芥川賞受賞の事実からも明らかなように、構成、ストーリー、文体のいずれをとってもハイレベルで洗練され、しかも斬新。文芸評論家の間では、「これだけの文章を書けるのは○○氏、いや△△さん……」と、すでに数名の「ゴーストライター」の名があがっている。これに対し、当の佐村河内氏は、「いや、今回はホントにボクが書きました……というか、文章が天から降りてくる……私はそれを書き留めただけ……ウソいつわりはございません」と語っている。ゴーストライターさがしも含めて、これでまたマスコミも国民も、当分の間、彼にふりまわされることになりそうだ。

ABくんの談話(いいコンビなのかも……)
コレ、うまくいったらノーベル文学賞かもね。賞をとったら官邸に呼んでハグしたげるんだけど……

新垣隆氏の談話(おちついて音楽に専念させてほしい……)
今回は共犯じゃないョ。

写真キャプション

佐村河内氏の話題作
マモルとタカシ
御茶目出版社 刊
USO800円(税込)
(えっ! 横書き?!)

本のオビのコピー
★オビ・表のコピー
重層するウソの奥に輝く真! 御茶目出版社
★オビ・背のコピー
芥川賞!
★オビ・裏のコピー
一人は看板、一人は中身……このコンビで永久にうまくいくはずだったのに……弄び、弄ばれたのはだれか?日本のクラシック界の大激震を、今、キーマンが物語る。

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今までの御茶目新聞の記事の中では、いちばんありえるかな?という気がします。ゴーストライターさえうまく選べば実現できそう……でも、一億部はさすがにムリでしょう……それと、「話題性」だけでは売上は伸びても「芥川賞」はむずかしい。核心の部分に、やっぱり「真実」が光っていないと……今回の騒動を分析してみるといろいろなことがわかってきますが、そこは、うまく書けば、この国の「音楽」というものの受け取り方から、さらに「19世紀」の意味まで、深く考えさせられる作品になるかもしれません。

今回の事件で私がいちばん注目したのは、なぜ新垣さんが、佐村河内氏の指示どおりに18年間も「音楽」を書きつづけてきたのか……ということ。「お金のため」だけでは絶対に続きそうにないし……きけば、新垣さんは、日本の現代音楽の分野ではトップクラスに入る方だという……ははあ、息抜きだったのか……と思いましたが、最近の報道をいろいろ聞いていると、やっぱりそうだったみたいですね。これ、現代音楽というものの特質を如実に現わしてしまった事件ではなかろうか……そんなふうに思えてきます。

現代音楽家って、実は、スゴイらしいんですね。ウィキに、新垣さんの発言として、「あれくらいだったら現代音楽家はみな書ける」とありましたが、実際そうだと思います。私が以前にFMで聞いた話では、現代音楽家のだれそれさん(名前は忘却)は、ピアノの右手で10拍打つ間に左手で11拍打つような曲をつくって、しかも、現代のピアニストはそれを平気で弾いちゃうと……もう、過去の音楽家や演奏家をはるかに凌ぐ技量を、今の現代音楽家はみんな持ってる……

だから、バッハ風とかモーツァルト風とかベートーヴェン風とか注文をつけられてもなんなくこなしてしまう。しかも、それが楽しい……現代音楽家は、調性というものを失なって久しい現代音楽の世界で、日々、一歩でも前に進もうと努力しているから……調性のある音楽を書くということは、やっぱりホッとする喜び……武満さんも、バリバリの現代音楽に混じって調性のある豊かで美しい曲を残していますが……今の現代作曲家は、もうそういうこともやりにくい地点にいる……

要するに、調性感の豊かな作品で勝負するということは、もうかなりできにくい状況が生まれていて、そういう曲は書きたくても書けない……外側からの制限というよりは、むしろ自分の内部からの制限がキツいのでしょう……だから、名前を隠して調性感豊かな音楽をたっぷり書ける……この佐村河内さんの提案は、新垣さんにとっては、とても楽しい息抜きの機会だったことは想像にかたくない……ということで、この「まずい関係」がずるずると18年も続いてしまった……

新垣さんが、会見で、「ボクも共犯者」と語った部分が、私にはいちばん印象に残りました。もし、彼が、佐村河内氏のために書いた自分の作品を「勝負作」と捉えていたら、絶対にこんな発言は出てこなかったでしょう。というか、「著作権を主張する」ということになったかも。しかし、あの作品は、彼自身も、密かに「調性のある音楽」を楽しむ場だった……やっぱり、「音楽そのもの」に対してうしろめたい気持ちはずっと持っておられたのではないか……

「共犯者」という発言は、そういう事情を如実に語っているものではないかと思います。彼が佐村河内氏に書いて渡した作品は、彼にとっては息抜きの、いわば「勝負の間のおアソビ」みたいなイメージだったのに、そういう作品が世間で話題になり、どんどん広がっていく……最初の頃は、たしかに、「世間に受けいれられる喜び」は大きかったんでしょう。しかし、度を越したフィーバーみたいになっていくと、これはさすがにまずいのではないかと……

要するに、ポイントは、「もう終わってしまった曲」を世間に出して、それに世間の人が「名曲だ!」という評価を与えてしまったこと……ここが、彼としてはいちばん気になったし、「罪をおかしている」という気持ちにさせられたところではないかと思います。そして、その罪は、世の人に対して……というよりも、実は、音楽そのものに対する罪……もう終わってしまった音楽を、今発表して、それが世に受け入れられる……これは、「音楽」で世を欺くことにほかならない……

つまり、彼は、やっぱり、「根っからの現代音楽家」なんだと思います。現代音楽に課せられた課題を認識し、その課題を、志を同じくする人々となんとかして、少しずつ砕き、積み上げ、少しでも「音楽」の世界を先に進ませたい……それが、彼の中核の希望であって、私は、それはとても純粋なものだと思う。世間に受け入れられ、世の人を楽しませたり感動させたり……むろん、それも大切だけれど、それは、本当の「今の音楽」によってなされなければ意味がない……

もうとっくに終わってしまった「過去の音楽」の集積によってそれがなされたとしても、それは「音楽」に対する裏切り行為でしかない……はじめは、密かな自分の楽しみとして、ちょっと脱線してもまあ許されるだろう……と思ってはじめたことが、佐村河内氏というキャラクターによってどんどん拡大され、自分は、音楽で音楽を裏切る行為をやってしまって、それがますますひどくなる……これは、純粋な気持ちの現代音楽家には到底耐えられないことだ……

ことの次第は、ほぼこういうことだったのではないか……だから、彼が「共犯者」というとき、その「罪」は、自分がいちばん大事にしなければならない「音楽の道」を汚した罪……そこには、やっぱり「音楽」の持つ現代性といいますか、最先端を行く人の「音楽」と、今の一般の人の楽しむ「音楽」の大きな乖離が現われているように思われる。そして、それは、もう少し大きく……西洋の「19世紀」というものの持つ意味と、さらに「普遍」の問題が、やっぱり絡んでくるように思われます。

したがって、この騒動は、より広い観点から見た場合、単なる「偽作事件」ではすまない、大きな現代的問題を孕んでいると見た方がいいように思います。と同時に、「イメージと本質」というさらに普遍的な問題にもつながっていく。ヨーロッパ中世にさかんだった「普遍論争」のことも思いおこされます。「普遍」が佐村河内氏という一人の人物によって「個」として「存在」してしまった……イメージは実体なのか、無なのか……はたまた、実体の方が無なんだろうか……

今はまだ話題としてホットですが……しばらくすると、こういうようなもう少し大きな観点からこの事件を分析する人がきっと出てくると思います。どんな論が出てくるのか……ちょっと楽しみです。

*本のイラストで、左開きの表紙にしてしまった……「えっ! 横書き?!」というコピーをつけてごまかしましたが、これはまことに恥ずかしいマチガイでした……