タグ別アーカイブ: 公務員

憲法と一般意志/Constitution and General Will

ハスの実_900
憲法について、もう少し考えてみます……気になるのは、やっぱりルソーさんの「一般意志」のモンダイ。人は、政治家に、なにを求めるのか……「議員を使う」という、イヤな言い方があります。正攻法ではなかなかモンダイが解決しないとき、「議員を使う」。これ、厳密にいえば犯罪なんじゃ……でも、けっこうやってるケースは多いのかな??……犯罪という自覚なしに、金はかかるけど便利……みたいな感じでやってる人はやってるんでしょう。

日本国憲法の第15条2項には、つぎのようにあります。「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」国会議員や地方議会の議員が「公務員」にあたるのかどうかは、いろんな見方があるようですが、いまだにそこはきっちり決めずにグレーゾーンにしているところが、もしかしたらこの第15条2項とのからみなのかもしれないな……とも思ったりします。まあ、私は法律の専門家じゃないので、そういう気がするとしかいえませんが。

もし、議員さんが(国会議員にせよ地方議会の議員さんにせよ)公務員であるとするなら、特別職の公務員ということになるのでしょうが、それでも、この第15条2項にひっかかってくる。つまり、彼(または彼女)は、特定の個人や団体の利益代表みたいな動き方をしてはいけませんということで、それをやったら憲法違反……この場合、「全体」という言葉は、当然「日本国民全体」という意味でしょうから、国会議員はもちろん、地方議会の議員さんも、国民全体のためにしか動けない?

こんどは、議員さんを選ぶ国民の側のことを考えてみます。国民は、一体なにを基準にして投票するのか……といえば、それは明確に、「自分たちに<利>をもたらしてくれる人に入れよう」ということです。まあようするに、投票行動によって、「自分たちのために使える議員」を製造しましょう……ということで、みんな投票所に行く。これは、投票行動をする人々の大半がそうだと思う。ということは、過激な言い方をすれば……

自分が入れる候補者が、憲法第15条2項を冒してくれることを期待して投票するということになります。うーん、これってどうなのよ……ということですが、保守系候補者を支持する人も、革新系候補の支持者も、その他候補の支持者も、その点ではまったく変わりません。私が住んでるところが村だったときには、村会議員の選挙区が12あって、常に候補者が13人立ちました。これって、どういうことだろう?とふしぎだったんですが……

まあ要するに、各地域で利益代表が一人ずつ立って、全員当選するようになってるんだけれど、それでは「選挙」の意味がないので、「ダミー候補」を一人つくってたんじゃないかと……で、その人を除いてめでたく全員が当選して、各候補は自分の地区に道を造ったり河を整備するための予算獲得に精を出す……だれも、「村全体」のことなど考えず、ひたすら「オレの地区」の繁栄のために働く。だって、地区の人にそれを要求されているから……

これは、日本全体の縮図だなあ……と思いました。市町村会議員でも、県会議員、国会議員でも、この構図はほとんど変わらない。地区の利益代表、あるいはいろんな団体の利益代表として、「議員さん」は活動する。まさに「一部の奉仕者」そのものであって、「全体の奉仕者だなあ……」と感じる議員さんって、いないわけです。というか、そもそも「全体」の方が、個人や地区や団体として分割されていて、それぞれに「自分たちに<利>があるように」としか考えていない。

これは……ルソーのいう「一般意志」からはほど遠い状態ですね。まさに「特殊意志」の戦場であって、いろんな「特殊意志」を代表して、議員さんたちは暗躍?する。まあ、堂々と「明躍」する場合の方が多いのかもしれませんが、憲法第15条2項の「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」という条文には完全に違反した状態だ、だから、議員さんを「公務員である」と解釈してしまうとやばいのか……ホントに、そう思ってしまいます。

政治とカネのモンダイが、最近TVをにぎわしていますが、「カネ」が動いた時点でNGになるというのもヘンな話だなあ……と私は思います。もう、有権者の投票行動自体が限りなくグレーゾーンなんだから、それによって製造された議員さんたちは、最初からグレーそのものではないか……で、そのグレーの画面に、「カネ」という黒い点が結晶化した瞬間に、「ハイ、あんたダメよ!」ということになる。もう、こうなると、運不運? いや、それをいっちゃ、お叱りを……

受けるかもしれませんが、選ぶ方も選ばれる方も、「一般意志」からはるか離れたところで「特殊意志」の泥仕合をやってる状況を見てると、ホントにそう思います……本来であれば、有権者の方が、選ぶ際には「一般意志」を心がけなければならないのでは? そうしないと、ルソーのいう「社会契約」は成立しないのでは。主権者たる国民は、自分たちだけの<利>を考えるのではなく、常に「全体」を考えて、投票行動に臨まなければならない……

現実に考えると、そんなことってありえない……と思ってしまうんですが、ここで、前から書いてる、「思惟」と「延長」は本来カンケイすることができない……という、あのふしぎな法則?の登場です。本来、法律をつくる議会の構成員である議員さんたちは、法律が「思惟の世界(精神界)」のものである以上、そのことを常に考えて行動すべきであり、その議員さんたちを選ぶ有権者も、また投票行動にあたっては、そのことを第一に考えなければならない。

ところが、実際の投票行動に際しては、「延長の世界(物質界)」で自分たちに利益をもたらしてくれる候補者を選ぼうということしか考えない。要するに、「一般意志」というものは、「思惟・精神の世界」のものであるべきなんですが、それをさらっと放棄して、「延長・物質の世界」にどっぷり浸った「特殊意志」に対して「利」をもたらしてくれる人を選ぶんだ……としか考えない。これって、みごとに「一般意志」の放棄であって、もうこの投票の時点で、ルソーのいう「社会契約」は成立していません。

私は、憲法は、絶対に変えてはならないとは思いませんが、もし変えるのであれば、その方向性は、必ず「特殊意志をより少なく、一般意志をより大きく」する方向に変えなければダメだと思います。なぜなら、憲法というものは、先に書きましたように、「思惟の世界の純粋住人」なので、よりその理想状態に近づけるように行う変更しか意味を持たず、逆の方向、つまり「特殊意志」により接近させるような方向への変更は、「憲法の自殺」でしかないと思います。

したがって……現在の条文の書き方では議員さんの身分に「解釈の余地」が残る第15条2項を、「<国会議員および地方議会議員を含む>すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」という風に、<>部分を追加するように書き換えるのは、「特殊意志をより少なく、一般意志をより大きく」する方向なので正解だと思いますが、逆に、「<国会議員および地方議会議員を除く>すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」とすると……

これは、「特殊意志をより大きく、一般意志をより少なく」ということで、逆方向です。すなわち、憲法が「思惟の世界」を出て「延長の世界」に汚されていく方向で、名のみのものと成り下がる……では、あの9条はどうなのかといいますと……現行の日本国憲法の9条は、驚くべきことに、現時点でこれ以上ないくらい「全体」をきちんと担保しようという心意気?にあふれてます。もう「全体」が、日本国民全体を越えて、「人類全体」というスケールにまで及んでいる……

いや、これは、おそれいりました。たぶんここが終局地点で、これ以上の全体を考えようとすると、「人類」を抜け出て、「地球上の全存在」から「地球そのもの」にまで至る……ホントは、そこを目指すべきと私は思いますが、現状の人類の状態では、そこまではまだまだ大きなギャップがある……とすれば、日本国憲法の9条(さらに加えて前文)は、現在考えられる範囲で、もっとも「一般意志」を端的に表現した、これ以上は考えられないすばらしい条文であると……

日本国憲法第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
・2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

前文(制定文)から
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

うーん……これぞ、「一般意志」そのものではないか……と、いたく感動するのであります。人によっては「えそらごと」と思う方もおられるかもしれませんが、「思惟の世界」と「延長の世界」が「まったくカンケイを持つことができない」ということを考えたとき、この文章はがぜん生きてきます。そうか……そうだったのか……と思いますね。「憲法」は完全に「思惟の世界」の住人なんだから、それを「延長の世界」の特殊意志で汚してはいけない……

それをやってしまうと、そこで「意味」がなくなる……あとは、その都度、権力を持った「一部」に、自分たちのいいように「書き換えられて」、「思惟の世界」における「真」をどんどんと失ってしまいます。さて、これから、どうなるのでしょうか……今日の写真は、ハスの実が入っていた顎となにかの球根。それに百合の実でしょうか……うちの玄関に、おくさんが置きました。春になれば、またこれを植えて、夏に咲くのを楽しみます。人の生活は、こんな感じで続いていく……

今日のmanga:がびぞりくんの一日・誕生の巻

がびぞりくんの一日

 

「泳げたいやきくん」と「だんご三兄弟」と「黒猫のタンゴ」。この三つは、新作ヒット童謡御三家といいますか……それぞれにはやった時代の雰囲気まで思い出されて、ファッションってすごいなあと思います。

「自我」という言葉は、いい意味にも悪い意味にも使われますが、ホントはたぶんどちらでもない。いいの悪いの……というのは「まわり」の問題であって、たぶん本人には、「どうしようもないこと」の一つなんだと思います。

まあ、これに「欲」がくっついて「自我欲」となりますと、これはほぼ悪い意味になる。思い出すのはドイツの歴史で、17世紀初頭に30年戦争で国や宗教や王家の利害の対立の戦場になって荒れはてて……ドイツ国民が「自我」に目覚めたのは、やっぱりお隣のフランスの、あの革命さわぎを目の当たりにして……ということだと思いますが、ヘーゲルの哲学やベートーヴェンの音楽なんか、まさに「ドイツ民族の自我の目覚め」って感じですが、それが結局、あの「ナチスの暴虐」へと帰結……

では、日本はどうなんだろう……ということなんですが……今、日本人とか日本民族のアイデンティティとか、ぶきみな方面からの働きかけが強まりつつあるように思いますが、「日本」という「自我」の起源って意外に新しくて、おそらく明治時代、それも明治中期以降なのかなとも思います。たかだか百年ちょっと。それまでは、日本は、藩という小国の連合体だった??……まあ、このあたりは、日本史に詳しい方におまかせですが……

個人の「自我」については、やっぱりこれは相当に苦しいもんですね。幼い頃から思春期、そして、いろいろ社会的責任が出てくる働きざかり……それぞれに「自我」のあり方は変わってくるのでしょうが……ただ、一貫して、「自我」と「自由」はセットだと思います。大人になると悪知恵が働いて、なんか見かけは「公共の福祉」のカタマリみたいな顔をして、その中にそっと「自我」を忍ばせて、結果的には広い範囲を自分の自我のままに動かしていく……まあ、そういうことに長けた方が社会的に伸びていくわけですが、これが、「器量」とか「人徳」とかとないまぜになってわかちがたくやっかい……まあ、「大人の社会」って、そういうもんかな?

あるいは、「自我」と「役割」。これもわかちがたく結びついてやっかいですね。どういうふうに処理していったらいいのか、いまだにわからない……まあ、「絵描き」という職業は、「自我のカタマリ」なんですが、これはけっこう直接的な表出でわかりやすい。これに対極にあるのがたぶん「公務員」という職業で、これは「隠密自我王国」になる。実体としては、すべてにおいて「人の自我」は同じ。ただ、「自我」は伏せれば伏せるほど「安定」につながるということは言えると思います。

モノ……植物……動物……人間……こうやって「自我」は増大していきますが、その先にある?「超人」。「超人の自我」って、どうなのかな? そこまでいくと自我は消滅?? でも、もしかしてさらに発展進化してたら、これはオソロシイと思いますが……