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こども化の時代/A childish era

『いままでなんかいも死のうとおもった。でもしんさいでいっぱい死んだから つらいけどぼくはいきるときめた』

最近、もっとも心に残った言葉です。

原発事故で、今まで平和に暮らしていた福島を追われ、横浜に避難した小学生。新しい学校で、名前に「菌」を付けられるなどのいじめに……どんどんエスカレートして「賠償金あるだろ」と金をせびられ、被害額がなんと150万円に……

学校が動かなかったということで避難ゴウゴウですが、テレビである評論家の方が、こんなことを言ってたのが印象に残りました。
『こどもが「賠償金あるだろ」とかいうわけないから、これは、その子らの親が、家でしょっちゅう「あいつらは賠償金あるから」とか言ってたんじゃないかな。』

この言葉を聞いたとき、私にはかすかな違和感があった。この評論家の方は、いつも的確な論評で、私はかなり信用してるんですが、このときのこの言葉だけは、「えっ?そうだろうか……」と思った。

なんか、こどもを、かなり理想化して見ているんじゃないかな……と感じました。こどもって、そんなに「純」なんだろうか……いや、むしろ、「賠償金あるだろ」は、その子の率直な思いがそのまま表われた表現だったのかも……

このことにかぶさって、浮かんできたのは、やっぱり「トランプ現象」ですね。評論家やマスコミ……つまり、「インテリ層」がほぼ全員読み違えた。この「ミス」の中には、先の評論家の方の、「こどもがそんなこと言うはずがないから大人が……」という感覚が、やっぱり重なってきます。

大人は、むしろ率直な物言いはしないのではないか……「賠償金あるだろ」と心の中では思っていても、「理性」がそれを言葉にして口に出すのを止める。そんなことを口に出して言うのは、とても恥ずかしいことで、自分が「大人なら当然持っているはずの理性」を持っていないことを公言するようなものだ……

しかし……トランプ現象や、世界中での「右翼化」を見ていると、もうすでに、その「歯止め」はとっくに乗り越えられていたのかも……という気もします。「大人のこども化」。これが、社会の深部でどんどん進行していて、ついに表層に表われてものすごい地滑りを引き起こしはじめた……なんか、そんな感じです。

日本でも、生活保護を受けている人たちに対して、かなり風当たりがきつくなってきている。私自身、ある人(むろん大人)から、生活保護の受給者を口汚くののしる言葉を聞いて愕然としました。彼は、ある医院でリハビリを担当している整体師で、ものすごく腕がよく、私も受けていて、すっと身体が楽になるのでたいした人だ……と思っていたのですが……話が生活保護のことになったとたんに悪口雑言……あいつらは、働けるのに働かんで、オレたちの税金をかすめとってのうのうと……もう、耳をおおいたいくらい……

生活保護だとたしか医療費も免除されるから、彼自身、そういう患者を担当して「なんだコイツ、こんなに健康な身体で怠けて生活保護かよ」と思ったのかもしれませんが……しかし、ここにある構造は、あの事件の「賠償金あるだろ」と同じだ……

人間って、心の奥底では、やっぱりいろいろとヘンなことを考えるもんだと思います。現に、今これを書いている私もそうで、もし人に知られたら人格を疑われるんじゃないか……というようなことまでやっぱり思っちゃう。でも「理性」があるので、それを口に出して言うようなことはしません。それこそ「口が裂けても」……

でも、それは、一面からいえば「大人」なのかもしれないけれど、他面からいえば「不純」なのかもしれない。自分の「ほんとうの気持ち」をおしかくして、外づらよく世間とつきあってる……いかにも自分が「理性ある」存在のごとく……

「隠れトランプ」……この人たちは、典型的にそういうタイプだったんでしょう。ポリティカル・コレクトをよく知ってるから、「理性」でそれに従ってるように見せているけれど……自身の「奥の心」との矛盾に耐えきれない。有色人種ってヤダなあ……とか、同性愛?うえーキモチわるいー……とか、イスラムって、怖いよなあ……とか……そういう「ホンネ」を「理性」で覆い隠して生きてるって、どうなのよ……

で、選挙でカミングアウト。ここには、まさに「マイノリティの構図」さえみられる……んだけれど、トランプさんが勝っちゃったから、彼らはやっぱりマイノリティとはいえないのかもしれません……

ということで、複雑に錯綜しているようにみえるけれど、見方を変えればものごとは単純で、一言でいうなら、「みんなどんどんこどもになる」ということでしょう。世界中で、これが進行しつつある。人類が、長い間、多大な犠牲を払ってようやく獲得した(かのようにみえる)理性が……もう、みんな、そんなもんにはかまっておられぬ、「奥の心」をストレートに出すのだ……ということで、これからは「こどもの時代」が始まるのかもしれません。

私がここで思うのは……やっぱりこれは、明確な「理性批判」なんだと。ついこの間、「パリの同時多発テロから一年」ということで各局が特集してましたが……あのときのフランス市民の対応は、とにかく「理性」なんだと。だけど、自分たちが「究極の価値」であると思っている「理性」が実はものすごい「暴力装置」で、その影に、おびただしい人々が苦しんでいることはまったく省みない。だから、マホメットを平気で茶化すようなことをやって、それは「エスプリ」(知性、つまり理性)なんだという……

そんな安物の「理性」は、これから始まる「子供化した人々」の圧倒的な「理性批判」にはとうてい耐えられない。あっというまに崩壊してしまう。はっきり言って、イスラム過激派のテロも、トランプ教徒も、「賠償金あるだろ」もみな同じ。それらはすべて「こども化」した人々による「理性批判」なんだと思います。

これからは、その傾向がどんどん強くなる。蓋があけられたら最後ですね。……人間の「理性」は、これに耐えて、生き残ることができるのだろうか……カントが『純粋理性批判』を書いてから200年余。彼が2世紀前に書物の中で試みたことが、今、実践に移されようとしています。たぶん、ホントに悲惨なことになるのでしょうが……

みんなが「こども」になっちゃった社会……200年もあったんだから、その間に、みんなでカントが提起した問題を真剣に考えときゃよかったんでしょうが……『純粋理性批判』の書き方が難しすぎたのか……ある意味、カントさんももうちょっとわかりやすく書いてくれていたら……とも思いますが、やっぱりあの時代では、ああいう書き方しかなかったのかなあ……

ということで、思いがけぬ「実践」になってしまった。おそらく、これからかなりの間続くのでしょう、「みんなこどもになる世界」。

『いままでなんかいも死のうとおもった。でもしんさいでいっぱい死んだから つらいけどぼくはいきるときめた』

最後にやっぱり、この言葉。すごいなあ……小学生の言葉なんですが、これはもう、立派な「大人」の決意表明ですね。今の大人がどんどん「こども化」しているなかで、次の世代のなかに、ちゃんとしっかり「ホンモノ」が育っている。

トランプ現象で、世界はどうなっちゃうんだろう……と、みんな不安に思っていますが……私は、この言葉の中に、「新しい時代を開いていくもの」を見た気がします。そして、今のへなへなの「理性」ではなくて、これから開花するホンモノの「理性」のきざし……

彼が、この言葉にたどりついた道程……それは、身を切り裂く苦しみだったと思う。ベートーヴェンじゃないですが、やっぱりホンモノは、苦しみを避けては得られない。これからの人類……どんな道を辿るのかわかりませんが、地獄の苦しみの果てに得られるもの……それが、すべての人が納得できる「理性」。そうなるのでしょう……

愛知トリエンナーレふたたび/Aichi Triennale 2016

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10月23日、愛知トリエンナーレ2016の最終日。ずっと気になっていたんですが、いろいろあって行けず……あっというまに終わり……ということで、名古屋エリアだけでも見ておこうと、あわてて栄へ。朝から回れば、愛知県美術館、栄地区、名古屋市美術館、長者街地区の4会場は見られるだろうと。

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結果として、名古屋エリアの展示の8〜9割くらいは見られました。つかれた……こんなにがんばってアートめぐりをしたのはひさしぶりだ……

で、どうだったか、ということですが……実は、かなり期待していたんです。前回のトリエンナーレが、予想に反してすばらしかったので。まあ、「予想に反して」なんていうと怒られますが、前回は、実はそんなには期待していなかった。でも、いい展示が多かった。

どこに感激したのか……というと、やっぱり作家さんたちの姿勢かな。前回は、あのオソロシイ大震災と原発事故から間もなくだったので、会場全体が緊迫感に満ちていました。やっぱり、あれだけのできごとがあると、作家さんたちも、自分が作品をつくる意味を、かなり真剣にかんがえなくちゃならない。あのできごとを直接反映した作品でなくても、やっぱりそういう、自分をつきつめるという環境はあったんだと思います。

それは、見る方にも直接響いてきました。自分たちは、なにをやってるんだろう……自分たちのやってることの意味って、なんだろう……そういう、みずからへの問いかけみたいなものが会場全体から感じられて、けっこう緊迫感があった。

しかるに今回……三年しかたっていないのに、世の中、大きく変わりました。もう震災も津波も、原発事故さえ過去の話になっちゃって、オリンピックだのなんだのと……社会の格差はますます開き、世界中で戦争や難民が絶えないのに、日本人はもう、あのオソロシイできごとさえ忘れちゃったのでしょうか……沖縄と福島をカッコに入れて、われわれはどこに行こうというのか……

今回のトリエンナーレにも、その「忘却の女神」の力を強く感じました。「虹のキャラバンサライ」……うーん、あたりさわりのない、ふわふわとした夢のようなタイトルだなあ……人間って、すぐに忘れるんですね。で、目は空中に漂って、足はいつのまにか地を離れる……

そもそも、アートって、いったなんだろう……それを、アートをやる人は、片時も忘れてはいけないと思います。とくに、今のように、いろんなものがでてきて、アートといろんなものの境界があいまいになっちゃった時代には、もうアートなんてなくたっていいんじゃない? という疑問が当然のように出てきます。

業界に守られたり、いわんや商業ベースにのっかっちゃったりして、かろうじて存在を保てるようなものは、やっぱり不要なんでしょう。前回のトリエンナーレでは、地震に津波、そしてゲンパツという圧倒的な破壊力が、アートをやる人に、おまえがアートをやってる意味って、なんなの?と強く迫った。アーティストは、ややともすれば眠りにつく心をはねのけて、そのシビアな問いかけに答えなければならなかった。みんな、真剣に答えようとしていたと思います。そのすがすがしさは、たしかに胸に強く迫りました。

じゃあ、今回は……ということなんですが、今回の展示のなかで、いちばん私の心に残ったもの……それは、名古屋市美術館の地下常設展示室にあった、河口龍夫さんの「DARK BOX」でした。これはもう、ずいぶん昔の作品で(たしか、70年代からつくりつづけておられる。いろんな年代のDARK BOXがある)、常設展示だから、一応トリエンナーレとは無関係……なんでしょうが、この作品、ごろんと転がってるだけで、今回私が見たトリエンナーレの全作品に勝ってる……

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昔のアーティストって、こうだったんですね。見るからにウソくさい重金属のカタマリなんですが、なぜか、ゴン!と存在感がある。見る人の想像力にあまり頼らない。今の作品は、見る人に訴えかける秋波が強すぎるんじゃないか……共感を呼びたいのはわかりますが、アートなら、そこはぐっとガマンするところだろう……「見て、見て、スゴイでしょ!」というのはなんか夜の歓楽街みたいな……作品をつくる上でいちばんだいじなのは、「矜持」なのかもしれません。

そもそも、アートをつくる意味って、なんでしょう。崩壊しつつあるこの世界。地震にゲンパツ、イスラム国にトランプ……オソロシイものがゾロゾロでてくる今という時代にあって、アーティストはなんでアートをつくるのか……もう、そのギリギリのところまで戻って考えないと先はないなあ……そんな感じでした。

クリスマスに思うこと/Thinking about Christmas.

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今年も、クリスマスがやってきました。サンタさん、プレゼント、くれたかな……ということで、クリスマスにちょっと思うこと。

クリスマスって、「貧しさを知る」日なんじゃないか……そんなふうに思います。

日本でも、格差拡大が懸念されていますが、世界中、「貧しさ」が満ちているように思います。世界に行ったことがないからわかりませんが、いろんな報道で見るかぎり……

クリスマスの中心人物であるイエス・キリストは、極貧家庭の子だったとか。本田哲郎さんという方の『聖書を発見する』という本に書いてありましたが……「大工の子」と言われているけれど、ギリシア語の原語からすると、「石切りの子」と訳した方が正しいのではないかと(前にも少し書きました)。

イエスの当時、「石切り」は、大工よりはるかに下層の貧しい職業であったとか。日々、なんの希望もなく、ただただ重労働に耐える日々……身体が元気なうちはまだいいけれど、ケガしたり病気になったり、年とったりすれば即、生存の危機になる……

今も、世界では、そういう暮らしをしている人が圧倒的に多いと思います。イエス自身がそういう境遇の出であるなら、やはりクリスマスは、世界に満ちる「貧しさ」について、みんなが真剣に考える日であるべきなのでは……

「貧しさ」には、宗教の区別はない。キリスト教国でも貧しい人は貧しいし、仏教でもイスラム教でもそう。「先進国」と呼ばれる比較的豊かな国々でも、その中で貧しさにあえいでいる人たちはけっこういる。

『金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい』……これは、イエスの言葉ですが、これを文字通りにとるなら、「金持ちが天国に入るのは100%不可能」ということになる。

聖書には、他にも、「貧しきものに幸いあれ」みたいな言葉があったと思います。まあ、この「貧しい」という言葉についてもいろいろ解釈はあるみたいですが……しかし、ストレートに受け取るなら、キリスト教は、徹底して「貧しいものの宗教」だと思います。

この間、TVで、ビル・ゲイツさんが、感染症対策に私財を投げ打って世界中を飛び回ってる……というのをやってました。「慈善活動でも効率を求める」ということで、成果を出さない団体に対しては、即援助金を打ち切る……このあたりは、いかにも元ヤリテ経営者らしいなあと思いましたが……

お金持ちって、あんまり儲けすぎると不安になるのかなあ……お金持ちになったことがないのでわかりませんが……現代なので、「天国」とかは思わないにしても、なんか、このまま人生終わっていいのかなあ……くらいの気分にはなるのかもしれません。

しかし、自分自身が極貧に落ちないかぎり、キリスト教の本質も、クリスマスの本当の意味もわからない……そう思います。明日の、いや、今日食べるものをどうしよう……そうなったとき、はじめてイエスの言葉の本当の意味が、身体でわかる。

そういう意味では、今、世界の大部分を占める極貧状態の人々、国を追われ、難民としてさすらう人……住む家を失い、ホームレスとして生活せざるをえない人……災害や原発事故なんかで家も仕事も失い、途方にくれている人……そういう人々が、今日の日の意味を、本当にわかるのかもしれない……

まあしかし、お金持ちも、死ぬときには、お金はあの世まで持っていけないから、極貧の人と同じになる。つまり、しゅるしゅると縮んで、元の「自分というモナド」そのものに戻るわけだから、全員平等ということなのでしょう。ただ、遅いか早いかだけで。

人生の意味……そして、「死」の持つ本当の意味……限りなく「貧しさ」に近づいていく今日という日の意味を、やっぱりちょっとマジメに、考えた方がいいのかな……そんなふうに思いました。

透明になる力/The power as transparent

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力は、それを持っているものにとっては、往々にして透明になる。

人は、自分のよって立つ場が、「力」に守られていることを、意識しなくなる。
しかし……その「力」によって踏みつけられ、抑圧されている人にとっては、それはものすごい壁であり、大岩のようにのしかかってくる。

こういう構図が、今、世界のどこでも顕著になってきているように思います。

日本では、沖縄と原発の問題が、いちばんこれを現わしているように思う。

米軍基地のほとんどを沖縄に押し付けて、楽しい生活を送っている「本土」の人々……
原発事故のしわ寄せを、福島の人だけに押し付けて、そしらぬ顔で日常を送る我々……

沖縄や福島の人たちにとっては、自分たちに苦しみを押しつけてくる「力」は、眼前にある現実のものだ。
しかし、それを押し付けている側の我々にとっては、その「力」は透明になってしまう。
われわれ自身が、その「力」に押しつぶされる側になるまでは。

なぜ、こういうことになるのかといえば、私たちの感性が、「他者の苦しみ」に対しては、きわめて鈍感にできているからにほかならない。
パリの街に日常を取り戻し、再び「楽しい暮らし」をはじめようとする人々……
恥ずかしいと思わないのだろうか……

自分だけ良ければ、いいのでしょうか?
狂ってる……

そんなに、なんでもトリコロールで塗りつぶしたければ、自分がトリコロールのめがねをかければいいでしょう。
そこで……そういう自分の行為が、「透明になる力」に支えられていることを知る……

これからの世界、「恥ずかしい人々」と「恥ずかしくない人々」に分かれる。

「恥ずかしい人々」は、自分のよって立つ場が、「透明な力」に支えられていることをまったく意識せずに、「テロとのたたかい」とかほざく人々……
「恥ずかしくない人々」とは、どんな人たちをいうことになるのでしょうか……

この問題は、「存在の根」にまで降りていったとき、にわかに、すべての人々にとって、ぬきさしならぬ重大な問題となる……
そう、思います。

The power becomes sometimes transparent for people having it.

We have the tendency that become not aware of “the power” which protects us.
However that power is really huge wall for the people who are suppressed by that, and that power presses them, like gigantic rock.

I think such a situation becomes remarkable in the world now.

And in Japan, I think that Okinawa and a problem of the nuclear power generation show these situation most typically.

People of “the mainland” lives a good life, but their pleasant life is established by pushing most of the US bases to Okinawa.

We send everyday life as if nothing happened, but on the other hand, we force the influence of the nuclear plant accident on only people of Fukushima.

For people of Okinawa and Fukushima, “the power” is a real which forces pains everyday.
However, for us who are protected by that, the power becomes transparent……until we ourselves become the side crushed by the “power.”

Why these situation become?
The reason is the lack of the sensitivity of our mind.
People who enjoy their daily life, become not sensitive for others who send daily life with pains.

The people who regain daily life in the town of Paris, and are going to begin “a pleasant living” again……
You are ashamed ?

Only yourself are good, is it real good ?
In that, is there the truth ?

If you want to see everything as tricolor, you should hang the glasses of tricolor, shouldn’t you.
And you will know that your pleasant daily life are protected by the transparent power which presses other people who have not that power.

I think this world shall become divided two, one will be know shame, and the other will not.

People who don’t know shame, will shout “a fight against terrorism”, but they don’t know that their pleasant daily life is suspended by the transparent power.
So, the word “who know shame”, will mean what type of people?

I think this problem shall be most serious for all people in the world if they descend to the root of “Being”.

日本難民/Japanese refugee

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今、シリアの内戦で、シリア難民の人々が大挙してヨーロッパに押し寄せているというニュースを連日やっています。私は、正直、難民ということについては、漠然とした概念しかなかったんですが、連日の報道をきいているうちに、やっぱりこれは、タイヘンなことだなあ……と思うようになりました。

難民というとどうしてもアフリカとか東南アジアのイメージが強かったんですが、ウィキで調べてみますと、アジアが第1位で562万人、アフリカが2位で230万人、ヨーロッパが3位で163万人、そして以下、北米45万人、南米37万人、オセアニア3万5千人と続きます。1位はアジアだったんですね。

これは、2009年の統計ということで、今は少し違っているのかもしれませんが、とにかく、住む場所を追われてさまよわなければならない人がこれだけいる。シリア難民に対してドイツ政府は大英断で大量の受け入れを発表しましたが、日本は?……というと、難民認定を申請した人5000人のうち、認定が11人……

これは、2014年の数字だそうですが、あまりにも少ないんじゃないか……ということで、いろいろ批判が出ている。たしかに、もっと受け入れてもよさそうなもんだが……とか思っているうちに、ン? まてよ? なんだかヘンだぞ……と。「受け入れ」を前提にしゃべってますが、「難民になる」ということはないの?

つまり、日本人が難民になって、世界に散らばる……外国に「受け入れて」もらわねばならないハメになる……そういう可能性は、ゼロなんでしょうか……あまりにも突飛で、現実離れした空想のように思われるかもしれませんが、でも、先の原発事故のことなんか考えてみると、やっぱり全くの空想ともいえない?

2011年3.11の福島原発の事故は、とりあえずあのかたちで済んでいる……というか、まだぜんぜん済んでないワケですが、場合によっては、東京都民の避難が必要になるというところまでいく可能性もあったとききます。もしそれがホントだとしたら、これはタイヘンなことだ……関東圏に避難対象が及ぶと……

東京都の人口1300万人だけじゃなく、いわゆる広域関東圏(茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、神奈川、長野、新潟、山梨、静岡)の人口5000万人が避難するという事態になったとすると、これはタイヘン。5000万人といえば、日本の全人口1億3000万人の約40%にあたる。アジア難民の562万の十倍近い。

これに、東北の各県(福島、宮城、岩手、青森、秋田、山形)の総人口約900万を加えると、全人口の45%、つまり、日本の約半分の人が住む家を失う……この想定、「ありえねー」と一笑に付す方もおられるかもしれませんが、でも、福島の事故がもうちょっと拡大してたら、現実にそうなったのでは。

というか、あのゲンパツ事故のときは、アメリカなんかは在留米人に、80kmを避難区域としたとききます。日本は20kmだったけど。実際のところはどうだったのでしょうか。政府は、大混乱になるのを怖れて、ホントのところ(汚染状況)を発表しなかったのでは……そういう疑いも払拭できない。

まあ、それくらい、日本政府のいうことは信用できないわけですが……もし、ダレの目から見ても汚染がさらに顕著になってたとしたら、やっぱり「人口の半分避難」が現実的になってたと思います。そうすると、もう日本は崩壊ですから、大量の「難民」が発生したでしょう。そうならなかったのは、単に偶然??

ABくんは、このごにおよんでまだ再稼働・推進!なんて言ってるから、このリスクは、これからも高まりこそすれ、低くはなりません。これに加えて、新安保で日本が武力攻撃やテロの対象になる危険もぐんと高まるし……さらに、政府の「2極化方針」で、経済的に破綻する人がこれから続々出てくる。こっちも大問題。

日本の人口の半分が住む地域が「汚染」されてしまったら、もう物理的にかなりの人が国外に出ざるをえなくなるのでしょうが、「住めなくなる」地域がもっと小さかったとしても、この「2極化」によって、やはり国外に追い出される人がどんどん増えてくるのでは……ということは、日本が内戦状態になる??

こんなことをいうと、また「ありえねー」という声が聞えてきそうですが、これって、そんなに「想定外」ですませていていいのでしょうか……これからは、経済的な格差がどんどん拡大して、「持たざる若者」はものすごく苦しい立場に追いやられていきます。みな、そうならないように必死にがんばってるけど……

ABくんの政策自体が、「格差、広げたるでー」というものだから、もうどうしようもないでしょう。彼が否定している「徴兵制」も、経済徴兵というのでしょうか、「持たざる若者」は否応なくそういう「苦役」に追いこまれる。むろんこれは、男女関係なく……まあ、こんなところで「女性の活躍」というのかなあ……

ということで、2極化するということは、価値観が分裂するということだから、まあ、お定まりの「圧政と弾圧」ということで、ヒサンなことに……その先は考えたくありませんが、国内の価値観が大きく乖離してくると、これは、外からのいろんな力の介入する余地を大きく広げるので、乖離はますますひどくなる。

たとえ原発事故で、国土の半分が住めなくなっても、国内の価値観がある程度統一されていれば、なんとか残った国土に受け入れることができるかもしれません。この場合は「国内難民」で、今、福島の方々はこういう状態になってるわけですが、大部分の人が、見知らぬ外国に出ていかなくてもすむ。

しかし、2極化のはてに国内の価値観に大きな乖離が生まれてしまえば、おそらく多くの人々が国外に脱出せざるをえなくなるでしょう。「ありえねー」と、今は笑いとばせますが、でも、ABくんたちは、着々とその準備を進めている。「原発再稼働」と「2極化推進」。これをふたつとも、ガンガン進めてます。

ということで、私は、近い将来、「日本難民」が大量に発生する可能性が、従来に比べてはるかに高まってきていると思います。原発事故の連鎖(これは十分ありえる)で、沖縄を除く国土全体を放棄しなければならない可能性だってゼロじゃない。その場合、沖縄だけで本土人口全員を受け入れるのはムリだし……

そもそも、沖縄の方々に拒否されるでしょう。今まで米軍基地をいっぱい押しつけておいて、いざとなったら助けて~はあまりにムシがよすぎる。そうすると、日本国民のほとんどが難民となって海外に流出せざるをえない……「日本難民」……じつは、これをシュミレーションした小説が、かつてありました。

小松左京さんの『日本沈没』。半世紀前に書かれた第一部は、日本列島が沈没して、日本人全員が海外に避難せざるをえなくなったところで終わっていましたが、十年くらい前に書かれた第二部(谷甲州氏との共著)では、海外の各地に散った「日本難民」のその後が、かなり詳細に描かれています。

共著者の谷甲州さんは、東南アジアでの生活がけっこう長かったみたいで、そのあたりはかなりリアルです。なるほど、こうなるのか……実際は、なってみないとわからないのでしょうが、「難民ルート」というのは、やっぱりあるんですね。今回の、シリア難民の方々がドイツをめざしたといのもそうなんですが……

シリアとドイツ? 遠い国に住むわれわれには、「なんでドイツなの?」という疑問が湧くわけですが……もちろん、今、ドイツが経済的に繁栄しているというのはいちばん大きいでしょう。でも、歴史的にみると、このルートは、中世末期に、まさにオスマントルコがヨーロッパに迫ったときのルートそのままだ……

中世ヨーロッパでは、その東の入口がオーストリアのウィーンでした。ウィーンは、オスマントルコの皇帝たちから、「黄金のリンゴ」と呼ばれていて、なんとかして手に入れたい「羨望の地」だった。トルコの軍勢は、バルカン半島からセルビア、ハンガリーを手に入れ、ついにウィーンに迫ります。

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ウィーン包囲は、1529年と1683年の2回あったみたいですが、このうち1683年9月12日のウィーン攻防戦は映画化もされてます。このときは、皇帝レオポルト1世のウィーン脱出というところまでいったらしい。当時、ドイツは、神聖ローマ帝国という名ばかりの「帝国」のもとに、実際は封建領主や教会の群雄割拠の四分五烈状態……

ウィーンハプスブルグ家の皇帝レオポルト1世も、「皇帝」という名にふさわしい権力は持ってなかったみたいで、ポーランド王ヤン3世の援助まで頼んで、なんとかこの危機をきりぬけた……今の状況を見てみると、なんか、当時の状況が彷彿とされます。といっても、むろん今のシリア難民の方々は、「攻略」じゃなくて……

母国の危機的な政治状況で国外に「逃げざるをえない」わけですが(実はシリア国内の難民の方がはるかに多いけれど)……ただ、この背景には、アラブ諸国の政治的不安定(これまでの独裁政権のツケ)と、それに乗じたイスラム国やアルカイダの膨張がある。ヨーロッパは、これに対し、かつての神聖ローマ帝国の亡霊?のEUで…

となると、これはあまりに図式的というおしかりを受けるかもしれませんが、どうなんでしょうか。考えてみると、ヨーロッパという地域は、常に「アラブの圧力」で自分たちを形成していったみたいな……そんな歴史の大枠があるんじゃないかと思います。なので、また、その周期がめぐってきたのか……それはわかりませんが。

じゃあ、日本はどうなんだろう……日本を含む東アジアに、そういう「民族圧力往来」みたいなことはあったのか……直近では、やっぱり先の大戦のときの、日本自身の「膨張政策」がアタマに浮かびますが、江戸期300年の鎖国のあいだを除いて、やっぱり日本は、大陸や南方への「膨張」を、たぶんくりかえしていた……

それは、いろんなかたちで、そうだったと思います。神功皇后や秀吉みたいな「わかりやすい軍事作戦」ばっかりじゃなくても。そして、現在も、経済政策というかたちになって、アジア各地域への「膨張」は続く……もし、日本の全人口の半数が難民化した場合には、やっぱりこの「膨張」ルートがベースになるんでしょうか。

もしその場合、アジアの各国は、「日本難民」をちゃんと受け入れてくれるんだろうか……日本国と日本人の、アジアの各国における「受けとられかた」はどうなんでしょうね。少なくとも、中国や朝鮮半島においては、「過去の侵略」があるから、場合によっては大いに反発をくらう可能性も……

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ヨーロッパにおいては、「イスラムの侵攻」は、今も悪夢のように人々の心に残っているから、シリア難民の方々も、けっして諸手を上げて受け入れ……というわけではないのでしょう。しかしちゃんと……受け入れられているように、現段階ではみえます。大人だなあ(むろん、反発する人も多いけれど)……

これは、やっぱり、西欧世界の理性を最高基準とする「思想」の成果なんでしょうか……その点は、率直にスゴイなあと思います。中国なんかも、今は、日本人の目には「メチャクチャの国」に映るけど、もしかしたら、日本よりずっと「大人の国」なのかもしれない……これは、今の日本人の心情と真逆だけれど……

それは、日本から大量の「難民」が発生したときに明らかになるのでしょう。そして、もしかしたらそういう時期も意外に近いのかもしれません(AB政権はまだまだ続きそうだし)。さて、そのとき、日本人は、どういうふうに「評価」され、受け入れられるんだろうか……あるいは、受け入れられないんでしょうか……

なんせ、狭い国土ですから、ちょっとゲンパツがポン!といっただけで、大量の「難民発生」は火を見るより明らか。あの事故のときに反省して「全原発即時廃炉」にふみきってれば、ちょっとはリスクは下がったのでしょうが……もう遅いですね。ナンマンダブ……

愛知トリエンナーレを見る・その2

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★チケット忘れた!

愛知トリエンナーレは全体が膨大なので、とても一日では見られない。というか、前回は半日だったので、「今日は丸一日、めいっぱい見るぞー!」と夫婦ではりきってお出かけ……はよかったんですが、一時間以上かけて名古屋市に到着、駐車場も目の前、というときになって、私は土器っとした。「チケット、忘れた……」すると、おくさんのきんちゃんも石器化……のあと、一言。「私も」。

なにやっとんじゃー! 二人してー!! これ、年寄り?のペアの「典型的破滅的」一場面でした……うわー、往復3時間かけて取りに帰るかよー……家に着いたら、「もーやめとこ」となるに決まってるじゃん……ということで、結局、あらたに2枚、購入するはめに……マナカ(中部圏の磁気交通カード)があったのでちょっとは割引になるものの、ふたりで3000円以上のムダな出費だ……くくく……(受付の女性は終始にこにこ。うらめしやー)

★愛知県美術館10階

でも、これが、結果としては良かった。まあ、そのお話はあとでするとして、早速、この間見残した愛知県美術館の10階会場へ。中国人作家のソン・ドンさんの『貧者の智慧:借権園』(2012-2013)。<借景+借用権>だそうな。ガラスというか鏡が多くて痛そう……これ、タイヘンですよ……なにが大変かはわかりませんが、とにかくたいへんだ……で、次の部屋はコーネリア・パーカーさんの『Perpetual Canon』(2004)。なんか、ホッとしました。

perpetual を辞書で引くと、「腐朽の」とか「永遠の」とかの意味が書いてある。すぐに思い出すのは、大バッハの『音楽のささげもの』の中に出てくる「無限カノン」。曲の終わりがはじめに続いて、無限に上昇していくカノンですが、無限にやったCDは聞いたことがない(あたりまえじゃ!)。で、これをどういうふうにコーネリアさんが解決したのか……まあ、それはおいといて(無責任ですが)、ぐるっと回った中で気になったのが、オランダ人アーティストのアーノウト・ミックさんの『段ボールの壁』(2013)。

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部屋のまんなかに段ボールの壁の迷路ができていて、その上に中くらいのスクリーンが二枚。そこに映し出される映像は、段ボールの壁に仕切られた体育館みたいなところで生活する被災者たち……カメラが、その様子をゆっくりゆっくり舐めていく……ああ、東日本大震災の……しばらく見ていたが、あんまりゆっくりなので一旦他の部屋へ。で、ちょっとたって戻ってみると、今度は、東電幹部とおぼしき方々が被災者たちを前に、一列に並んでひたすらあやまっている光景。音はまったくなし。

へー、こんな光景、こんなきちんと撮っていたのか……とにかくひたすらあやまってる。揃いのうわっぱりを着たおじさま方……しばらくこれが続いて、また避難所の光景。段ボールで区切られた大きな一室に、さきほどの東電のおじさま方が、被災者と同じ毛布や布団で雑魚寝……うーん、そーだったのかー……そら、自分たちだけ高級ホテルに泊まるわけにもいかんもんなー……と妙に感心。しかし、これが後でとんでもないことに……

なんか、突然、みんなが段ボールの壁を崩しだしたんですよね。さすがに変だと思って解説を読んだら、この映像は、避難所そのもののものではなくて、「再構成」だと。つまり、「演技」でした。で、演じていたのは、俳優さんたちと実際に当時避難所に避難していた方々だそうです。……ということは、あの東電のおじさんたちと思ったのは、実は俳優だったのか……ということは、実際には、東電の方々は高級ホテルにご宿泊??……いや、ホントのホントはたぶん日帰りだったんでしょーがー……

考えてみると、あんなふうに、なめらかに映像が推移するはずがない。クレーンを使わないとあの映像は撮れないが、実際の「謝罪会見」なんかでクレーン撮影ができるはずもなく……いやあ、騙されましたね……このあと、なんかみんなで「塔をつくる」ということだったけど、そこまでは見ませんでした。

しかし、この映像で思ったのは……うーん、これは虚偽であるにしても、ホントは、なんかこうだったらいいなー……という気分がやっぱりした。人間というのは、立場や損得なんかで「ホントにいい」ようには動けないもんですが……それは、だれでもそうなんだけど、ホントはこういうふうに動きたいなあと。なんでソレができないのか……途中までですが、この映像は、そんなことを語っているように思えた。うーん……

10階であと印象に残ったのは、青野文昭さん。軽トラがいつのまにかタンスに……舟が机になったり、机が床の模様になったり……なにを言ってるのかワケがわからんと思いますが、実物を見れば一目瞭然。で、これが、漂着物が発端だったそうで……流れ着いたバラバラのかけらを組み合わせる。つなぎ目が一見わからんように(二見するとわかる)なめらかに……この作業は、作家ご自身も被害を受けたあの震災で、加速度的になったのか……

モノって、ふしぎですね。人間の意識と、モノは、結局この作品に見られるように「ないまぜ」になってるんじゃなかろうか……名古屋に、「すがきや」というラーメンチェーンがあるんですが、ここで、ちょっと前まで、スプーンとフォークがくっついたモノを出してた。まあ、スプーンの先がちいちゃなフォークになってるんですが、これ、ラーメン食べるのに便利でしょって……でも、私はそれで食べる気にはならなかった。必ずお箸で食べました。

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そういう考えの人が多かったと見えて、このヘンな器具は廃れたみたいですが……考えた人は、麺類を食べる「普遍的食器」として一般化するか……とか思ってたのかもしれないけれど、ダメでしたね。要するに「アート」だったわけで……青野さんの作品とこのスプーンフォークを一緒にするわけじゃないですが、青野さんの方は、スプーン:フォークよりもうちょっと距離感のあるモノどうしを組む。そこはもう、まるまるアートの世界。

そう。モノが、しゃべりはじめたみたいに見えるんですね。軽トラは軽トラの言葉を、タンスはタンスの言葉を……「オレは軽トラ」「私はタンス」……って、そういう「語り」は、モノがモノとして使われているときには、けっして聞こえてきません。まあ、要するに、人間の「使用意識」がそれを封じるから。でも、長い間使わないで土間にほっぽっといたモンなんかに、ちょっとそれが聞こえてくることがある……

『ゲゲゲの鬼太郎』なんかで、「つくもがみ」というんですか、モノが長い間たつと妖怪になる……というのがありましたが、青野さんの作品は、さしずめ「つくもがみ即席製造装置」みたいなモンかもしれません。……というところで10階は終わり。見たかった平田吾郎さんの作品の場所がわからなかったんですが、後で聞いたら、どっちみち予約制ということで、見られなかったようです。で、名古屋市美術館へ……

Web★名古屋市美術館

雨が降りだしました。今日は台風27号のアタリ日。けっこう距離がある。ようやく市美に着くと、おくさんのきんちゃんが一休みしたいというので、隣の科学館のレストランへ。私は「ブラックホールカレー」なるものを注文。きんちゃんは「ナントカチキンキーマカレー」。けっこうフツーのお値段でしたが、セルフで、しかもお皿もスプーンもプラスチック……そりゃないよなーという感じ。まあ、味はそんなには悪くはなかったけれど。「ブラックホールカレー」は、色がちょっと濃いめなだけ。

で、市美へ。なぜか、入口が正面じゃなくて裏手になってて、雨の中をぐるっと回る……イニシエーション……でややこしかったわりに、内部の展示は拍子抜けでガックリでした……杉戸さん、ダメじゃん! あんな作品では、負けてまっせ……一階全部を使ったチリのアルフレッド・ジャーの作品もいまいち……黒板に「生めん」と書いてある(ウソです。実は「生ましめんかな」という文字が、投影で断続的に現われる)だけ。

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黒板が何枚もあって、それぞれに書体が違う。石巻のこどもたちが書いたそうだけど……なんか、名古屋市美って建築が悪すぎで、その建築の邪念が展示作品にも乗りうつってしまうみたいですね。オソロシイことに……で、がっくり。地下から地上に至る和風庭園には青木野枝さんの作品が植わってるんですが、雨のせいで閉鎖。窓ごしに見るしかない……おくさんのきんちゃんは、係員さんに「なんとかならんのー」とネジこんでたけど、市美としては、雨でお客が滑ってケガしたら責任どーする……とか考えたんでしょうかね。いかにもお役所的に。

でも、窓からの眺めがなかなか面白かった。地下の巨大な窓から、地上にせりあがる和風庭園が見えて、その向こうにどーんと科学館の巨大なプラネタリウムの玉が……この場所は完全な平地なんですが(昔はアメリカ村)、この視覚のみ、なんか、山の中にいるような錯覚を覚えます。黒川紀章のこの建物は本人が遊んでて作品をミナゴロシにするんで良くないなーと思ってたんですが、この視覚だけはオモシロイ。科学館の巨大プラネタリウムが後でできたので救われたということか……

で、市美でがっくりして納屋橋会場へ……と、その前に、建築探偵の藤森照信さんの『空飛ぶ泥舟』という作品が庭にちょこんと吊ってありましたね。かわいい……でも、やっぱりいろんな圧倒的な作品群のカゲに隠れてしまう。こういう「オレの道をいく」という作品は、社会性の強い作品群に向かうと弱いですね……今回はとくに、震災とか原発に触発されようぜ!というのがこのトリエンナーレのテーマだからなおさら……

★納屋橋会場

ということで、納屋橋会場へ向かったんですが、交通機関が歩くしかなくて、雨もちょっと本降りなのでしかたなくタクシー……おおっ、今年はじめてのタクシーではないか……ゼイタク……(どこの世界の人ですか?アンタ)ということで、つぶれたボーリング場を使った納屋橋会場へ到着。で、ここで、冒頭の「チケット忘れた!」が効いてくるんですね。

今年の夏、うちのこどもが京都から里帰りしたときに、私と二人でこの納屋橋会場を見た(おくさんのきんちゃんはお仕事)。この愛知トリエンナーレは、メイン会場が複数なんですが、入場券は共通で一枚。で、それぞれの会場名のところにスタンプが押される。一旦スタンプをもらうと、その会場へは当日しか入れない。スタンプを押してない会場は会期中ならいつでもOK……そういう仕組みです。

なので、家に忘れてきたチケットには、納屋橋会場のところに2枚ともスタンプ済み。だから、そのチケットを持ってきてたら納屋橋会場へはもう入れなかったんですが……ドジで忘れたおかげで買い直したチケットには当然スタンプがない。で、入れた。うーん……この納屋橋会場、充実してました……私は2回目になるけど、前回見られなかったところまでゆっくり見ました。映像作品が多いので、前回途中までしか見なかったのも、今回はシッカリ……

おくさんのきんちゃんはむろんはじめてですが、「良かったー」と。あの市美の展示で終わりだったらけっこうガックリだったんだけれど、この納屋橋会場の充実でじゅうぶんおなかいっぱいに……ここでは、前回、なわこうへいさんの泡の作品にちょっとふれましたが……前回が8月でしたが、あれから二ヶ月。泡たちが「成長」してまして、ビックリ……前回はまだ人の背丈を越す……くらいで向こうも見通せたんですが、今回入ったら、もう泡が天井にまで達していて向こうも見えない……わー、片付けタイヘンだろーなーこれ……

クリスティナ・ノルマンさんの「金色の兵士」の作品もしっかり見た。おくさんのきんちゃんは、オーストリアのアンジェリカ・メシティさんの『シティズンズ・バンド』に感激。正方形の暗い部屋の4面に順次、音楽が映される。それぞれが「移民のパフォーマー」。インターネットの解説から引用しますと……

(以下引用)カメルーン出身のパーカッショニストは、パリの室内プールで水面を舞台に手で見事なドラミングをみせる。アルジェリアからパリに移民してきたストリート・シンガーは、メトロで壊れかけたカシオのキーボードを肩にのせ哀歌を歌う。モンゴルがルーツのホーメイ歌手はシドニーの街角で胡弓を奏でながら独特の声を響かせ、スーダン出身でブリスベンに暮らすタクシー運転手は、運転席で哀愁漂う口笛で曲を奏でる。(引用おわり)

で、最後にそれらが(あとは見てください)……なるほど……人と文明って、こういうもんだ……この作品は、震災や原発関連が多かった今回の展示の中では、一見そういうテーマに関係なさそうに見えるけれど、実はルートのところで深い関係があるんじゃないかと思わせられます。うーん……「文化の崩壊」は、なにも震災や原発事故がきっかけで起こってるんではないんですね。実は、深層で、根っこのところで目にみえない速度で、しかし着実に崩れている……大きなできごとがあると、それが一気にひのもとに晒される……

そういう意味では、この作品も、失われてしまったものに寄せる哀悼……追悼なのでした……今回の展示は、全体にわたって、やっぱりそういうものが多かったように思います。もはや、あらがうことができないと知れば、人は、静かに祈りを捧げるしかありません……なにか巨大な力……それは、震災とか原発事故とかに典型的に現われるのだけれど、実は、それと関係ないところに暮らしてると思ったわれわれの日々の奥深くにも静かに静かに進行している……

★IKA式総括

というところで、今回の「愛知トリエンナーレ2013」の空丸的総括。3.11の震災と原発事故は、同じように地域の人々に大被害をもたらしたけれど、その質は違う。でも同じ。いったい何を言ってるのか自分でもわからなくなりかけですが、要するに、「人が、住んで、暮らすゆえの」ということ。……地震も津波も、「その地」に人が住んでいなかったらなんの被害もない。人が住み、暮らすゆえに、それが破壊されて大きな被害となる。

でも、同じ観点で原発事故をいうことはできない。明らかに人災……なんだけれど、そこに入ってる「システム」は同じ。要するに、「文明のシステム」ということで、これは「法律上の責任」とはまた別に考えられるべきことです。むろん「倫理上の責任」とも異なってくる。要するに、「文明批判になってしまう」という点においては、震災も原発事故も、最終的には「同じ論理」に到達する。

人間の、今の文明は、以前に比べるとはるかに一体感が強くなっています。東京の人の使う電気をつくる原発で東北の人が被災した……絶対不公平だと思う。しかし、では、東北の人は、「東京の文明」を享受していないのか……これは、東京の人は絶対に口が裂けても言えないことなんですが……他の地方の人もやっぱり言ってはイケナイことですが、私はイカなので言います。「ぜんぶつながってる」んです……と。

今回のさまざまな展示を見て思ったのは、とにかくまずそこに辿りつこうじゃないか……と。責任問題、倫理上の問題……いろいろあるんです。で、非難の嵐も起こるでしょう。害をこうむった人が非難するのはわかるけど、「関係ない」モンまでが鬼の首を取ったみたいに非難……そんなことばっかりやってていいんですか……と。そうじゃないでしょう……いちばんモンダイになるのは、今の「人類文明」だ……そこを、根っこから考える方向に向かわんと……

そこへの「着地」はきわめて難しいですよね。ノルマンさんの「金色の兵士」が語っていたことはソレだったと思う。「いかなる勢力にも真実はない」。まず、ここを冷静にみないとなにもはじまらない。アーノウト・ミックさんの、東電幹部が被災者と同じ段ボールで寝ている映像にもそれを感じた。責めるものと責められるもの……そこに「固定」されていていいのか……モンダイの根は、もっと深いところにあるんじゃないのか……

こういうモンダイには当然「結論」は出ません。答えは、これからの時を生きる人々が、長い、ながーい時間をかけて少しずつさぐっていくものなんでしょう……レクイエムを越えて……というか、哀悼と追悼の向こうにしか、その道はないように思う。冷静に、冷静に……もう、そんなにあわてなくてもいい。これからも、加速度的にもっともっといろんなことが起こってくるかもしれないけれど、それは、結局われわれの今までの「文明の借金」が白日のもとに晒されていく姿……

おそらく、ここを越えることなくしては、本当の未来は現われてこないのでしょう。そのことを知る……そういう、静かな「智」が、今、世界中で芽吹きはじめた……そのことを強く感じて、ああ、これからの世界はだいじょうぶじゃないかな……と思いました。アートの力……もう、それは、アーティストの「個」の中には収まりきらない。やっぱり、最後は「普遍」を目指すんですね。人は、自分の時間を生きて、そして去るけれども、「そこを見る」まなざしは受け継がれていく……

なので、今回、そういうまなざしをあんまり感じさせない作品は、いくら力があってもガクンとくすんでみえました……これはしかたのない事実でしょうね……一つだけ例を挙げると、県美術館の8階で見たオノ・ヨーコの『光の家の部分』。たしかにきれいで、言いたいこともわかるけれど……答えも、自分で出してしまっている。で、そこで、作品全体は閉じられてしまう……これは、昔からこの人の傾向だと思うけれど、今回、他の作品群の中にあると、この傾向は目立ってしまう。

まあ、やっぱり「古いなあ」と。作品として立派であるかどうかと、その作品が「今」にどんな力を持つか……これは、とにかく別なんですね。むろん、作品としての完成度が低いとダメなんだけれど、やたら高すぎるというのか……作者が作品をコントロールしつくそうとすると、やっぱり根っこというか、よくわからない「今」につながるチャンネルを失ってしまう……実は、今回、いちばん大事にいろんな作家がしていたのは「そこ」ではないか……

県美10階のメイン作品みたいになっていたヤノベケンジさんも、そういう点では遅れがち……で、あんまり魅力がなかった。ダレよりも早く?原発問題を取り上げていたのに、追い越されちゃった印象。なにをやりたいのかがわからない……納屋橋会場のなわこうへいさんの「泡」も別の意味でそんな感じ。作品としてはがんばってて、美しいのですが、なんか遊離して、ちょっと違う方向に飛んでいっちゃってるような……個展とかで見ればまた全然違うんでしょうけどね。

老舗では青木野枝さんもそうで、作品自体がなんとなく淋しそうでした。いやー……現代美術はやっぱり「イキモノ」ですなー。3.11以降、とくに、なんかアーティストには、キビシイやいばが突きつけられてしまったのか……「我が道を行く」で自身の作品追求も絶対だいじだと思うんですが、でもそれが「根っこ」につながった感がないと孤立するなあ……

ということで、一日たっぷりとアートづけで、最後は新栄の「カフェ・ドゥフィ」でハンバーグ定食。これ、すごいんで、あんまり人には教えたくないんですが、味、量、そしてお値段……どれをとっても大満足。おまけに、これは別メニューになるけどエスプレッソが絶品!……これで、二人でなんと2300円というウソみたいなお値段……てづくり感あふれるお店の雰囲気もいいし……(ライブもときどきある)……ということで、この日は大満足で寝ました。

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