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モナドの帰還/An Odyssey of monad

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一旦風邪になると、私の場合、一ヶ月くらい続きます。ノドが良くないので、咳とかがずうっと尾を引く……それでも、徐々に良くなっていくのですが……

一旦引いた風邪が直りかけて、でもなにかの拍子にぶりかえす……そのときのみじめさ……私のモナドが支配権を確立しかけていたのに、再び風邪のモナドに奪還される……まるでイスラム国との戦争ですが(イスラム国のみなさん、風邪に見立ててすんません……)、なんかそんな感じ。

病気って、なんでもそんなものかな……と思います。一年に何回か、こりゃ、ホントに調子いいぜ!と思える日があるんだけれど……そう思える日が年々少なくなっていく。これが、年をとるということなのか……

で、そういう「調子いい日」のことを思いだしてみると、自分が自分として、完全にまとまってる……そんな感じです。よし!今日はなんでもやれるぜ!という……でも、何時間かたつと疲れてきて、ああ、やっぱりアカンではないか……と。

昔、ある前衛アーティストに会ったときのこと。彼は、「自分は疲れない」と公言した。疲れるのは、どっかがオカシイんだ!と。その言葉どおり、彼は疲れなかった。

目の前で、「書」を書く(というか描く)のですが、何枚も、何枚も、延々と描く。それも、まったく同じスピードで。紙を傍らに大量に積み重ねておいて(300枚くらいあったかな)、パッと取って前に置いてササッと描いてハイ!次の紙……これを、機械のようにくりかえす。しかも、描く内容が毎回違う。

スピードが変わらないのが脅威でした。ふつう、人って、白い紙が前にあると、書きたいものが決まっていても、若干のインターバルがあってから筆を紙に降ろして書くもんですが……彼の場合、そのインターバルがゼロで、紙を置くと同時に描く。しかも、毎回違うものを。その動作を、機械のように正確にくりかえして、スピードがまったく落ちない。作品の大量生産……

前衛アーティストHさんC_900
見ている方が疲れてきます……なるほど……前衛アーティストというものは、こういう特殊な訓練をみずからに課しているものなのか……感心しました。フツーじゃない……なんか、人間ではないものの行為を見ているようだった。

で、彼は疲れたかというと、全然そんなことはなく、前にもまして元気。行為が彼に、無限のエネルギーを与える。いわゆる、ポジティヴ・フィードバックというヤツですね。こういう人は、きっと死なないんじゃないか……そんな感さえ受けました。

死なないので有名なのが、ロシアの怪僧ラスプーチンさん。青酸カリを食わしても、頭を割ってもピストルで撃っても死なない。オソロシイ生命力……いったいどこが、われわれと違うんだろう……

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やっぱり、モナドの支配力がケタ違いに増強されている……そんなふうにしか感じられません。いったいどこから、その「支配力」を得ているんだろう??

でも、ライプニッツによれば、モナドそのものが「死ぬ」つまり消滅することはありえないのだから、それは、やっぱり相対的なものなのかもしれません。モナドは、「一挙に創造され」、「滅ぶときもやはり一度に滅ぶ」。

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(仏語原文)Ainsi on peut dire, que les Monades ne sauraient commencer ni finir, que tout d’un coup, c’est-à-dire elles ne sauraient commencer que par création, et finir que par annihilation; au lieu, que ce qui est composé, commence ou finit par parties.

(英訳)Thus it may be said that a Monad can only come into being or come to an end all at once; that is to say, it can come into being only by creation and come to an end only by annihilation, while that which is compound comes into being or comes to an end by parts.

日本語訳(河野与一訳)して見ると単子は生ずるにしても滅びるにしても一挙にする他ないと云ってもいい。言換へれば、創造によってしか生ぜず絶滅によってしか滅びない。ところが合成されたものは部分づつ生ずる、もしくは滅びる。(旧漢字は当用漢字にしてあります)
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つまり、部分的に、あるモナドが消滅し、別のモナドは残る……ということはありえないんだと。

これは、とてもおもしろい考え方だと思います。われわれは、どういうふうにしてかはわかりませんが、時のはじめ(神の創造時点)からずっと存在している。この宇宙のモナドはすべてそう。で、滅ぶときは一挙に滅ぶ。

われわれの肉体は、合成物なので……合成物のレベルだと、「この人は死んだ。でも、この人は生き残っている」ということはありえます。というか、それが当然の世界。しかし、「わたし」というモナドは、モナドである限り、「わたしだけがなくなる」ということが原理的にできない。もし「わたしがなくなる」ということが起こるなら、それは、「世界がなくなる」、つまり、すべてのモナドが消滅する……それ以外の方法ではありえない。

この論理は、原理的に否定不可能なものであるように思います。要するに、モナドは「一性」そのものであって、この「一性」が否定されるということは、原理的にありえない。なぜなら、「一性」は、普遍中の普遍、最大の普遍であるから……

したがって、もし、私というモナドが消滅することがあるとするなら、それは「一性」そのものが否定されるという事態が発生したということで、そういうことになれば、わたし以外の「一性」、すなわち他のモナドの存在も、すべて否定されざるをえない。「最大の普遍」というところから、かならずそうなる。

これって、「死」というものに対する、いちばん合理的な答だと思います。私が今まで知る範囲では……というか、これ以上明解な答はありえないなあ……これは、論理的に、どう考えてもくつがえせない。

つまり、「死」は、肉体という合成物が否定されるということで、この否定は合成物のレベルで起こるものであり、モナドのレベルではない。したがって、モナドの「一性」は、まったく否定されていない。だから、「肉体の死」は、個別に起こる。あの人は死んだけれど、この人はまだ生きている……という具合に。

ただ……ライプニッツは、宇宙のすべてのモナドは、一挙に創造され、いっぺんに死滅する……と言ってるんですが、その「宇宙」の範囲が、問題になるとすれば、唯一問題になるんだと思います。「宇宙」って、どこまでなの?……ライプニッツの時代においては、「宇宙」はすなわち「世界」のことであって、これは即、「神が創造された世界」ということになる。

しかし、現代においては、「宇宙」概念はかなり違ってきていると思います。今の科学では、地球 ー 太陽系 ー 銀河系 ー 小宇宙群 ― 大宇宙……となって、「宇宙」といえば最後の「大宇宙」をさす。まあ、これが一般的な受け取り方ではないでしょうか。

しかし、私は、ここに、「人間は、地球から出られないのではないか?」という問題が、どこまでもついてまわるような気がします。この問題は、前にも取りあげましたが……「え?人類は、もう月にも降り立っているんじゃないの?」ということなんですが、でも、ホントにホントにそう、なのかな……??

アポロ11のアームストロング船長が月面に着地したとき(小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩、と言ったアレ)、彼は、「宇宙服」を着ていました……当然じゃん! なんで、そんなことをモンダイにするの? と笑われそうですが、私はこれは、大きな問題だと思う。

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アームストロングさんは、自分の素足で、月面を踏んだのではなかったのでした……当然のことながら、宇宙服の内部は、「地球環境」になっています。そうでないと、彼は死ぬ。要するに、アームストロングさんは、「地球環境を着て」、もっというなら、「地球を着て」、月面に降り立った。だから、「宇宙服」という名称は、本当は正しくなくて、「地球服」というべきでしょう。

それって、リクツじゃん!と言われるかもしれません。でも、われわれの肉体は、地球からできている。地球のものを食べ、地球の空気を吸い、地球の水を飲んで……その、一時的な結実の連鎖として、われわれの肉体というものがある。これを考えるとき、われわれの肉体という「合成物」は、実は「地球」という惑星の一部……どころか、地球という惑星そのものであると考えざるをえません。

そう考えるとき、われわれは、この肉体として生きているかぎり、原理的に「地球の外に出る」ということが不可能だ……地球の一部であり、地球そのものでもあるものが、地球という範囲を離れるということ、それ以外のものになるということは、原理的な矛盾にほかならないからです。もし、地球以外のものになってしまえば、われわれの肉体は、その本質を失ってしまうということになる。

では、わたしというモナド、はどうなんだろう……ライプニッツの時代においては、漠然と、宇宙と世界は同じであって、それが地球という範囲を出るか否か……そういう議論も、意味のあるものとしては成立しえなかったように思います。しかし……アポロ以後のわれわれにとっては、これは重大なモンダイとなる。

結論からいうなら……私は、わたしというモナドは、地球という最大のモナドの範囲を出ることができない……そう思います。要するに、私は、今の状況としては、「外界を知る」ためには、私の今の肉体を媒介とする以外にありません。しかし、今の私の肉体が地球から出ることができない……つまり、「地球限定」である以上、わたしというモナドも、やはり地球限定、つまり、地球の範囲を出ることができない。

思惟、思弁では、私は、いくらでも「地球の外」に出ることができる。しかしいったん、延長の世界、かたちや大きさがある世界においてモノを考えるということになりますと、結局、わたしは「私の肉体」を媒介として考えざるをえなくなり、そうすると、結局、世界……考えうる最大の範囲は「地球」であるということになる。

ここは、もう明確だと思います。モナドには「窓」がないので、本質的な「外界」というものはありえない。しかし……延長の世界、かたちも大きさもある世界において、延長の世界に対する「支配力」を用いて相互に「自己表出」を行うことにより、モナド相互の「交通」は可能となる。より正確にいうなら、「交通が可能となったかのような状態を現出しえる」。

ライプニッツは、すべて「宇宙単位」でものごとを考えましたが、この「単位」が、今のようなリクツで、本当は「地球限定」だったら……彼の論理は、この地球上のモナドは、すべて一挙に創られ、そして滅ぶときには一挙に滅ぶ……ということになる。そして、私は、これが、この地球という星が、一つの単位としてこの「宇宙」に存在する、その根源的な理由であるような気がします。

私というモナドからはじきとばされた「風邪のモナド」は、しかし、この地球から飛びだしたワケではなく……周回軌道を描いてまた戻ってくる……それが、私に戻るのかどうかはわかりませんが……というか、ソレはイヤなんですが、そういうことになるのかもしれない。

この地球のものは、すべて、この地球から脱出することはできない……太陽系を超えてどっかにいっちゃったように見える人工衛星でも……というか、原理的にそう。地球のものは、その本質からいって、地球から脱出することはできない……

これは、「限定」なのかもしれないけれど、それゆえに、もしかしたらこの「地球」という世界が成立している。しかし……

さらにもしかしたら、原子核の中の世界は違うのかもしれません……まあ、妄想と思われてもしかたありませんが、この物質の世界は、原子核の中で「抜けて」いるように感じられます……ということで、正月早々、モナドな妄想で失礼しました……。

モナドの波/Monad as wave.

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ライプニッツの『モナドロジー』にある、有名な言葉。『モナドには、そこを通じてなにかが出たり入ったりできるような窓がない。』

Les Monades n’ont point de fenêtres, par lesquelles quelque chose y puisse entrer ou sortir.
(The Monads have no windows, through which anything could come in or go out.)

そりゃ、そうだと思います。モナドというのは、ギリシア語のモナス(1という意味)から来ていて、単一性そのものを現わす言葉だから。

もし、モナドに窓があって、そこからなにかが出たり入ったりする……ということになりますと、「単一性」は崩壊します。つまり「自分とちがうもの」が自分の中に入ってきたり、「自分」が自分の外に出ていったり……これを許せば、「単一性」という概念自体が無意味になる。

では、モナドは、他のモナドといっさい「交流」はできないんだろうか……いろいろ考えていくうちに、モナドを「波」として考えれば、これは可能ではないかということに思いあたりました。

ヒントは、先にノーベル賞を受賞された梶田先生の研究。ニュートリノ振動……でしたっけ、μニュートリノが、いつのまにかτニュートリノになり、またμニュートリノにもどり……このふしぎな現象を説明するためには、ニュートリノが基本的に、3種の波の組み合わせでできていると考えるほかないというお話……(リンク

つまり、3種の波の振動がうなりを生じ、そのうなりの各部分が、μニュートリノに見えたり、τニュートリノに見えたりするという解釈……なるほど、これだ!と思いました。

モナドも波であると考えるなら、モナドは究極の単一体であるから、単一の周波数しか持っていないはずです。もし、複数の波の集合体であるとするなら、それは、モナドが複合体であるということになって、モナドの定義自体に反してしまうから。だから、一つのモナドは、それに固有の振動数しかない「一つの波」であるはず。

波の世界では、固有の振動数をそれぞれ持つ複数の波が合成されると、全体の波形は、個々の波の波形とは当然異なってきますが……にもかかわらず、その中においても、「個々の波形」はきちんと保全されており、「全体の波形」は、「個々の波形」の複合に分解できるといいます。これを、数学的には「フーリエ解析」と呼ぶときいたことがありますが……(リンク

名称はともかく、合成されたときにはその波形が元の個々の波の波形とまったく違うものになったとしても、その中には個々の波の波形がそっくり保全されていて、また分解すれば個々の波に戻る……そうであるとすれば、個々の波は、結局、他の波からまったく影響を受けていないことになる。

これは、まったくモナド的な現象だと思います。要するに、「固有性」というものは、いかにしても破壊できない……モナドには窓がないから当然そうなのですが、しかしモナドを「波」と考えるなら、固有性を完全に保ちながらも、他のモナドと「合わさること」ができる……これは、おもしろいと思います。

ライプニッツによると、モナドは、「自然の本当の原子」であるとのこと。たしかに、物理学の「原子」は、アチラ語では「atom」で、これは、「a-tom」、すなわち「できないよー切断」という意味なんだと。それ以上分解できないもの……そういう意味だったんですが、あっという間に分解されて、原子核と電子に……

で、その原子核というのがまた分解されて陽子と中性子に……じゃあ、「本当の原子」というのは陽子、中性子、電子の三つだったのか……というと、それがそうではなく「クォーク」と「レプトン」という究極の素粒子からできているんだと……ということで、どうやらこのゲームは「キリがない」みたいです。つまり、自然科学の方法で「本当の原子」を求めるというのは、その方法自体がもしかしたらアヤシイのではないかと……

理系じゃないのでそれ以上はわかりませんが……でも、ライプニッツの「モナド」はわかります。要するに「モナド」は大きさを持たない。つまり「延長」という属性には無関係に存在する。「延長」という属性を入れてしまうと、分解して、分解して、それをまた分解して……というふうに際限なく続きますが、「大きさを持たない」ということであれば、そういうかたちでの分解はできません。

しかし、「大きさを持たない」ということでも、「振動はする」ということは可能だと思います。「振動」ということを、どういうふうに考えるか……ですが、振動という概念は、「延長」という概念と不即不離というわけではないでしょうから、「大きさをもたないけれど振動はする」というものは、十分に考えることはできると思う。

とすれば、それぞれに固有の振動数で振動する波である一つ一つのモナドが、相互に「影響しあって」、あるいは「影響しあうようにみせかけて」、その全体が合成された「相互影響合成振動」みたいなものを考ええることも可能ではないか……つまり、モナドは、窓は持たないけれど、固有振動を合成することによって、ある一つの「場」を共有することが可能になるのではないだろうか……

ということで、ここから話は突然とびます。エヴィデンスのまったくない話で恐縮ですが、私は、このモナドの共有する場の最大のものが、この惑星地球ではないか……そういうふうに「飛躍して」思ってしまうのでした。

ライプニッツは、「モナドの支配」ということを言ってます。つまり、私が、私の肉体をもって日々生活できているのは、私というモナドが、私の肉体を構成している他の無数のモナド(細胞や、細胞内の要素もすべてモナド)を支配しているからだと。このことは、以前(リンク)に書いたとおりです。

なるほど……こう考えれば、生も死も、とても理解しやすくなる。「生」というのは、私が他のモナドを支配して、自分の肉体を保持している状態。これにたいして「死」は、私が他のモナドに対する「支配権」をすべて喪失して、元々の「自分」という一つのモナドだけの状態に戻っていく過程……

ライプニッツは、「死は急激な縮退」と言ってる(これも、前に書きました)。つまり、それまでたくさんの他のモナドを支配してきた力が急速に緩んで、しゅしゅしゅ……と、自分のモナドの中に縮まっていく状態……これは、今まで私が聞いてきたいろんな「死の解説」の中で、もっともなっとくできる説だ……

これをさきほどの波の話にしますと……ともかく、「自分のモナド」がなぜか中心になって、他のおびただしいモナドの波の全体を「指揮している」……そんなイメージが浮かびます。

オケの指揮者は、メンバーとしては他の団員と同じく「一人の人間」なんだけれど、にもかかわらず演奏においては、他の団員は全員彼に従い、「一つの合成された波」を形成する……

で、演奏が終わると、指揮者もメンバーも、すうっとそれぞれの人間に戻る。音楽が演奏されている間だけは、彼らは指揮者を中心に一体となっていたわけですが、しかし演奏が終わってからも……たとえば、メンバーの肉体どうしがくっついて離れないということはない。ちゃんと肉体としては一人一人別々……そんな感じなのでしょうか。

だから、私の肉体というのは、実は、ものすごくたくさんのモナドたちが、私という指揮者の元に、それぞれの固有の振動数を合わせて、全体で「私」という一つの音楽を奏でている……そう考えればわかりやすい。私の肉体というのは、一つの「場」になっている……

これは、すべての生命においてそうなんですね。動物も植物も……しかし「全体」ということで考えると、その境がよくわからないようなものもある。これが、石や岩、土、水、空気……みたいになると、ますますわからない……でも、それらを総合して総合して、さらに総合していくと、最終的には「地球」といういちばん大きな「場」にたどりつきます。

人間の想像力というのは、実はアヤシイもので、概念を少しずつ膨らませていくうちに、いつのまにかそこに「架空」というエアーが入ってしまう。

たとえば、私にとっては、「私の肉体」は、まあ、「架空」が入りこむ余地がかなり少ない「現実存在」なのかもしれない。ではしかし、「他の人の肉体」というのはどうなんだろう……アチラの人は、よく握手したりハグしたりしますが……

これは、「肉体の確認」みたいなことなのでしょうか。オマエもオレと同じ肉体を持っておるな……と。まあその証拠に、人間以外の動物と握手することは少ないし(ハグはあるけど)、植物と握手している人は、私は見たことがない。岩や水や空気との握手……は、ちょっと考えにくい(岩のハグくらいはあるかもしれない)。

実体感覚でわかるもの……から遠ざかっていけばいくほど、そこには、アタマで考えただけのもの、つまり「架空」が入りこんでくる。しかも、人間のおもしろいところは、その「架空」をなんの検証もなしに「現実」だと思いこんでしまうところ……おそらく、人の社会は、こういった「架空の合成」によって成り立っているのでしょうが、これはよく考えれば、とてもふしぎなことです。

なので……言葉で「地球」とか言った場合、そこには、もうおびただしい「架空」が入りこんでいる。

だれも、本当の「地球の姿」なんか知らないのに、なぜか知っているような錯覚に陥って、いろいろ環境問題とか資源問題とか論じている……ちょっと引いて考えれば、とてもオカシイ空しいことを、なぜか真剣に議論しているわけです。

なので、この論はこれくらいにしたいと思いますが……物理学で、粒子か波動かということが問題にされたり、振動する超弦理論みたいなものができたり……ということで、モナドも波の性質を持っているとしても、おかしくはない気がします。

ライプニッツは、一つのモナドは、宇宙全体のモナドのすべてを反映するということを言ってますが、モナドが波であれば、それもふしぎではない。ただ、やっぱり「宇宙」というのがひっかかるのであって、私は、ここはやっぱり「地球」だと思うのです。ふしぎなことに。

今日のkooga:ハスの鉢の宇宙/Lotus of pond of universe

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うちの前に置いてあるハスを植えた大きな鉢にも秋がきました。
忙しいので、あんまり世話をしていない……ので、そのまま、鉢の中の秋が、濃くなっていきます。
見ていると、ライプニッツの言葉が浮かんできました。

『物質の各部分は植物が一面に生えている庭や魚がいつぱい入っている池のやうなものだと考へることができる。而もその植物の枝やその動物の肢体やその水の滴の一つ一つが又さういふ庭でありもしくは池である。』(河野与一訳)

これは、『モナドロジー』の中の一節ですが、当時、顕微鏡が普及して、「ミクロの世界」が見えるようになったのが影響している……とも言われている有名な箇所です。世界は、無限の入れ子細工になっていて、どこまでいってもまだその先に「世界」がある……この「鉢の中の世界」も、そういう意味では「無限」なのかもしれません。

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モノの究極ってなんだろう……「原子論」の世界なのかもしれないけれど、モノは分子でできていて、分子は原子でできていて、原子はそれ以上分解できない素粒子から成っている……と考える現代科学の階層的な考え方とはかなり違う見方が、ここにはあるような気がします。

バロック?といえばそうなんでしょうが、仏教にも同じような考え方があったような……ただ、これは、マトリョーシカみたいな単純な「入れ子構造」というのではなくて、もっと、モノの本質にかかわるあり方のような気がする。しかもそれは、「観察者の存在」がそこに大きくカンケイするような……

というか、モノを観察しているようで、実は、観察している自分も観察する。モノの世界のあり方というのは、本来そういう複雑な関連を除いてありえない。そして、そのすべては、大きく「地球」という惑星に収斂されていくのではなかろうか……「宇宙」ではなく「地球」。そして、私自身。

そういう意味では、「ハスの鉢の宇宙」ではなく、「ハスの鉢の地球」なのかもしれない。そして、「ハスの池の私」。Lotus of pond of the earth. Lotus of pond of myself. この文章が、英語として意味を持つのかどうかはわかりませんが、「universe」つまり「一韻」というのは、バロック的ではないなあ……

別に、バロックである必要はないんですが、この「ハスの鉢の中……」を眺めていると、やっぱりバロックだなあと思ってしまいます。別に、一つの価値観に統制される必要はないのではないか……いろんなものが混ざりあっていて、それぞれにまた、その中にいろんなものが……

とりあえず、この混沌を統一的に見せているのが「鉢」であって、それを統一的に見るのが「私」……「統覚」の問題も関連するのかもしれませんが、この鉢が割れてしまえば、この中の宇宙も消滅する。私が壊れてしまえば、やっぱり「宇宙も」?いや、それはないでしょう。

というのは、「私」は「宇宙」に属するものであり、「私の身体」は「地球」に属するもの……なのだからでしょうか?「身体」は壊れて「地球」に戻ることができるかもしれないけれど(日々壊れて戻りつつあるけれど)、「私」は壊れることができない……この統覚のふしぎ……

というか、モナドのふしぎ……ライプニッツは、「モナドは本当の原子」だと言った。この「本当の原子」って、どういう意味だろう……見ているうちに、空は曇ってきて、このふしぎな「ハスの鉢の世界」も輝きを失い、「灰色のモノ」の世界に戻っていったのでした。

思想の限界/A limit of the human speculation.

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人の思想の限界は、地球……であると、思います。
その理由は……人は、その身体も心も、すべて「地球から」つくられているから……
「あなたはチリからとられたのだから、チリにかえる」
このバイブルの言葉が、すべてを語っていると思います。

このことは、前にも少し書いたのですが……
たとえば、論理学や数学、あるいは物理の法則、化学の法則……
そういうものを、人は、すぐに、宇宙のすべてに通じるものと思う。
しかし……「地球製」の人のアタマで考えられたものは、「地球」が限界……

そういうふうには、思えないものでしょうか……
「そんなことないよ、ロケットは月にも、火星にも行くじゃん」
そう、言われるかもしれませんが……
オソロシイことに、月も火星も、「地球の範囲内」なのかもしれません。

なぜなら……月といっても火星といっても、最後に「見る」のは人だから。
「地球の人」が、最後に、そのデータを見ます。数式にせよ画像にせよ。
観測機器が、宇宙にまで飛んで行っても、最後に「見る」のは地球製の人。
こういう「地球製の人」は、宇宙のどこまで行っても「地球製」なんだ……

この地球という惑星の上で、身体と心をもらった人です。
「あなたは、チリからとられたのだから、チリにかえる」……これでしょう。
そして、これは、実は「限界」ではなく、ひとつの「恵み」かもしれない……
そういうふうに、考えたことはないでしょうか……

ライプニッツの「モナド」は、全宇宙のモナドが一斉に誕生し、一斉に死ぬ。
一つのモナドは、他のすべてのモナドを映しこみ、宇宙全体に関係する。
このモナドの性格からして、これはそのとおりだと思います。
インドラの網……まさに、一つの水滴が、宇宙全体を映している……

ということになると、これはちょっとタイヘンなことになります。
今、私が指を動かして文字を打つ……その行為さえ、「全宇宙」に及ぶ……
となると、ちょっと、あだやおろそかに、なにもできない?
……んですけど……もし、その「宇宙」が「地球」なんだとしたら……

人の思想の限界が「地球」である……これは、そういう意味です。
そうだとしたら……全宇宙に広がる「インドラの網」も、地球が限界なんだ……
そう考えると、ちょっとは気が楽になりません?(って、ならないかな)
いったいなにを言ってるんだろう……そう考えるのもムリはないんですが……

でも、もっと過激?なことを言うなら、この宇宙には、そういう世界が無数に……
ある……と、そう考えることもできます。いわゆる「多元宇宙」……
だとすると……ホントの「インドラの網」の水滴の一つ一つが……
実は、こういう「宇宙」なのかもしれないな……と。

で、ここで、重要なことは……「インドラの網」には、必ず「ノット」がある……
要するに「結節点」があるということで、これが、つまり「モナド」……
華厳の世界……になるのかもしれませんが、無限のノットに水滴が……
宇宙が宇宙を映しだして、それはもう、タイヘンなことに……

魂は……人の魂といわず、すべてのものの魂は、こういう「ノット」なのかも。
ライプニッツの考えによると、そういう「モナド」であると……
もしそうであるなら、人の思想は、やっぱり「モナドの限界」を越えられない。
ということなんだけれど、それでは「実体の交通」が成立しません……

ということで、まことにふしぎなことに、「モナドの限界」は越えられる……
んですが、いくら越えても、やっぱり「ある限界」に当たってしまう。
それが「地球」……なぜなら、「表出」は、「チリ」によって行われる……
人は、そして地球のいろんな生命は、「地」をもって相互に自己表出を行う……

ここに……やっぱり「地球という限界」があって、それは越えられない。
なので……人の思想も、やっぱりこれを越えられない……
考えてみると、この「地球」というモナドは、ふしぎなもんだと思います。
そこで、「地球の種」はすべて、相互に「実体の交通」をなすことができる。

おそらく……人間以外の地球の生命は、みな、このことを知ってるんでしょう。
というか……それ以外の「あり方」がないので、「それ以外のあり方」を考えない。
ところが……なぜか、人の心だけは、カンタンにこの「制限」を突破します。
なにかを考えると……すぐに、それを、「宇宙全体」に敷衍してしまう……

こういう点では、過去の偉大な哲学者、思想家、科学者……
みんな、そうだったと思います。数学の理論も物理法則も……
「地球という限界」を無視して、スルッと「宇宙全体」へ……
それこそ、「拡大する」という意識もなしに、単純に「ひろげて」しまった……

20世紀……19世紀に「無限に」拡大されたこの「人の思想」が……
それが、「地球という限界」に当たって、試される……そういう世紀だった……
けれども、人は、いまだに気づいていない。これはもしかしたら由々しきこと……
なのでしょう。けれども、この「限界」は実体だから……

やっぱり、どうしても「越えられない」のです。正しいことに……
ということで、今日の画像は、以前に紹介したストームグラスの中の世界……
この前の台風が近づいてきたときの様子です。かなりすごいことに……
「完全密封」されてるはずなのに、なぜ感知するんだろう……ふしぎです。

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今日のkooga:黒い川/Dark river

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フィールドワーク(野外観察)の仲間とともに、弥富の街を訪れました。

弥富は、愛知県の西の端にある、そんなに大きくはない市です。面積49キロ平米、人口43363人(2014年5月1日)。木曽川の下流に面し、市域のほとんどが海面下にある、いわゆるゼロメートル地帯で、伊勢湾台風では大きな被害をだしました。

街中、大小とりまぜていろんな川……というか、水路が流れています。排水路を兼ねているので、水質はかなり悪く、まあ、「ドブ川」と形容されるような状態。写真の川もその一つですが……この日は、雨が降っていて、水面に落ちる雨滴の波紋がみごとでした。

黒い川……私は、やっぱり漱石の小説を思い出してしまった。日本人の心の奥……というか、心の下の黒い流れ……ぶきみに静かで、なんとなくねっとりとして、いろんなものがそこに沈んで流れているような……

この流れはどこからきたのか……いつか見た夢、私ではない、はるか昔のだれかが見た夢……しかし、その夢は、やっぱり私のものなのかもしれません。水面に雨滴が落ちるたびにはっと気がつく、それはまことに小さな覚醒……

しかし……波紋が広がって消えていくと、また意識は眠りに入り、いつとはなく、流れることさえ忘れて心の奥底に淀み……表面意識は日々の忙しいつとめに明け暮れて、もうめったなことでは浮かびあがってくることもなく……

人は、この流れを心の底に抱えて生き、そして死んでいくのでしょう……私が死んでも、この流れはとだえることなくなにかを運びつづける……これは、日本人の心の底に、連綿と流れつづける黒い水……

そんなことを考えていると、雨が少し強くなってきた。傘をかざして歩く……歩く。そうやって、いつから私は歩いてきたのだろう……ときおり通るクルマの音。平成26年の梅雨のある日……宇宙の一日は、そうやってすぎていく……

本当のこと_02/自分は自分の中から出られない/The cage as my body.

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「今、ここ」の「ここ」。これ、自分の身体です。人は、世界中旅行するけれど……宇宙にまで行っちゃう人もいるけれど……しかし、それでも、絶対に「自分の中からは出られない」。まあ、出られる場合もあるけれど、それはたぶん死……幽体離脱とかあるけれど、これについてはまた別の機会に……

で、「ここ」は、まさに「自分の身体」です。世界中どこに旅しても、人は、自分の身体という一種の檻というか、乗物の中から世界を見ている。この乗物は非常によくできていて、たいがいこれが「自分」であると錯覚します。しかし……前に、「透明人間はどこから透明になるのか?」という話をしましたが……

ちょっと蒸し返しますと、透明人間の食べたものはどこから透明になるのか?……あるいは、透明人間の出すものは、どこから不透明になるんだろう……これは、まさに「自分」というか、「肉体」の範囲を区切る、とても重要な問いになると私は思うんですが……これが、「ここ」に大きくかかわる……

先に、「時間ユニット」の話をしましたが、それでいえば、たぶんこの「身体」というものが、先験的な「空間ユニット」になるのかな?……人間みたいな哺乳動物の場合(両生類や爬虫類や魚類、鳥類もそうだけど)、一つの脳とそこから伸びる脊柱からできているけれど、そうでない生物もいる……

たとえば、大昔の恐竜なんかだと、頭にあるメインの脳の他に、手や足にもサブの脳があったという話も聞きましたが……これだと、「身体」としての空間ユニットの「一性」(モナド性)に多少のブレがあることにならいか……ピンボケ写真のように、あんまり輪郭がはっきりしない「ここ」の中に、彼らはいる……

ということで、もしかしたら、人間の場合だって、「ここ」は、実はそんなに確定的ではないのかもしれませんが……ただ、「痛み」の場合に、それはかなりくっきりした像を急激に結びます。痛みを感じる場所と感じない場所……それは、身体の外面においては、重要性の多寡によって決まるのか……

要するに、髪や爪を切っても痛くないけれど、皮膚を切られると痛い。これ、身体が、その外表面に軽重をつけてる、そのあらわれだ……これに対して、身体の内部は複雑ですね。損傷に対して痛いところ、痛くないところがあるけれど、それは、必ずしも部位の軽重によらないようにも見える……

まあ、緊急性とか関係するのかもしれませんが……で、とりあえず言えることは、おそらく「今、ここ」の「ここ」は「身体」であるということで、これは、人間にとっても動物にとってもそう。ただ、植物にとってはちょっと違うのかな……という気もするんですが、植物になったことがないのでわからない。

ということで、「今」の時間ユニットはおそらく3分内外、「ここ」の空間ユニットは、おそらく「自分の身体」ということがわかったのでした。……ということで、今回の冒頭の写真は、うちの近くの土手で見かけたオレンジ色の蝶。調べてみたら、ベニシジミという名前の蝶がこんなかんじ。だぶんそれだと思います。

今日のessay:あいまいでとりとめのない話・その3/Vague and Chaotic Story – 03

ターミネータ_900_C

「透明人間の食べたものって、どこから透明になるんでしょう?」こういう質問をすると、みなさん「?」という顔をされます。「透明人間の出すものはどこから不透明になるのか?」という質問も同じことなんですが……私は、昔から、これがふしぎでしょうがなかった。たとえば、透明人間がパンを食べるとしますと、口の中に入ったトタンにパンは透明になるのか? ふつうの人だったら口を閉じれば当然パンは見えなくなりますが、これは、顔の皮膚が不透明だから。透明人間の場合には、顔の皮膚も透明ですから、当然パンは見えてしまうはず……

もし、透明人間がパンを口に入れたトタンにパンが見えなくなるんだとしたら、透明人間をつくってる「透明要素」が瞬時にパンにも回ってしまうと考えざるをえない。でも、これはちょっと不自然かなという気がします。まあ、「透明要素」がいったいなんであるかということにもよるのですが……ふつうの人間だったら、咀嚼され唾液と混じる過程で、徐々に「その人」がパンの中に浸透していく感じだから、透明人間にこれを当てはめると、パンは、口の中では見えていて、呑みこまれて食道を通るくらいで少しずつ透明になっていく……ということかな?

「パンの変容」を、たとえば胃の中で胃酸で溶かされて完全にパンのかたちがなくなる……くらいまで、パンはパンでありつづけるとしたら、透明人間においても、胃の中で溶けるまでは透明にならないと考えた方が自然ですね。そうすると、透明人間は、服を着ていないかぎり、胃の中の「もやもや」が透けて見えることになって、これはかなり気持ち悪い……で、さらに問題なのは、出すときです。透明人間の排泄物って、どこから不透明になるんだろう……身体から出た瞬間……というのは、食べるときと同じでちょっと不自然すぎる。とすると、出てしばらくたつうちに、徐々に不透明になってくるんでしょうか……なんかこれ、ちょっと恥ずかしいような……

排泄物ばかりじゃなくて、汗なんかでも同じです。透明人間が汗をかいた場合、その汗は透明なのか不透明なのか……もし不透明だとしたら、全身に汗をかいた場合、汗のかたちでだいたいの輪郭がわかってしまう……うーん、これも気持ちわるいかも。唾液とか鼻水とか(ヘンな話に展開してすみません)……髪の毛を切ったらどうでしょう。切った当座は透明でも、はらりと床に落ちる途中で不透明になるのかな? 爪を切ったら……ヒゲをそったら……と、疑問はつきないのですが……このあたりのことを考えていくうちに、これは、結局「自分の範囲はどこまでなのか?」という問題になることに気がつきました。いったい、自分って、どこまでが自分なんだろう??

切られたり突かれたりして痛い範囲が自分……でも、爪や髪の毛は、切られても痛くないけれど、だからといって身体に付いているうちはそれが自分じゃないと言われると、それは違うなあと思います。では、身体に取りこんだ食物は? これが、さっきの「透明人間の食べたもの」の問題になるわけですが、胃や腸の中にあるものは、なんだか完全には自分のものじゃないような気がします。腸の壁から吸収された時点で、はじめて「自分」の一部になる……人間は、トポロジーからいうとドーナツと同じなんだそうですが、そう考えると、胃や腸の内部は「ドーナツの孔」だから、そこにあるものはドーナツ自体ではない。すなわち、胃や腸の内容物は、まだ「自分」ではない……

どーなってんの

マクロバイオティックの創始者の桜沢如一さんの本を読むと、人間の胃や腸の内容物は、植物における「畑の土」と同じなんだということが書いてある……これを読んだとき、ハッと目を開かれたような気がした……そうか、人間は、畑の土を身体の中に抱えているんだ……免疫機構的にも、動物の免疫機構って、皮膚の表面と、胃や腸の表面に集まってるそうです。ということは、やっぱりこのライン、すなわち「ドーナツの表面」が、「自分」と「他者」を区分する重要な領域になっているということが、一応言えそうです。私は、だれか有名な人の講演会を聴きにいくたびに、その人の「皮膚」を見てやろうと思うのですが……人の視線は、皮膚で止まる。そこから先は本人にもわからない未知の世界。本当に自分が自分であるはずの皮膚の内側が、自分にもわからないとは……

人間は、皮膚一枚で宇宙と隔てられている……わけですが、でも、その皮膚の内側も、自分ではまったくわからない宇宙になってる……ということは、その「皮膚一枚」だけが「自分」なんだろーか?? これもなんか、ヘンだなと思います。私がここで思い出すのは、アメリカの有名なコンタクトマンのジョージ・アダムスキさん。彼は、ちょっと宗教的というか、なんか偏ってる感じがするので私はあんまり好きじゃないんですが、でも、一言、すばらしい発言がある。「テレパシーとは、接触感覚なんです。」……うーん……これを読んだとき、さすがにすごいなと思いました。さわってくる感覚……テレパシーって、離れたところから言葉を介さずに意志を伝える……ということから、なんか電波みたいなイメージがあったんですが……

それが、「接触感覚」。そっとタッチしてくるような感覚なんだと。これはやっぱり、自分で実際にテレパシーを受けた人の言葉だなあ……と、妙に感心してしまった。「さわってくる」ということになると、やっぱり「皮膚」ですね。皮膚に触れてくる感覚……これはもう、ものすごく親密です。だから、一旦使い方をまちがえるととんでもないことになる。テレパシーが、「支配」にならない要件というのは、やっぱり「他者」のことを考える。自分が送るテレパシーを受ける人のことを、どこまでホンキで考えることができるか……これが、テレパシーが暴力的な「支配」にならないための絶対条件……ということで、ここでまた、今読んでる『パースの宇宙論』を思い出してしまったんですが……以下、ちょっと引用で……

『物の現われ(appearance)は意識においてのみ存在する。それゆえ、何かを創造すること、つまりそれが現われるようにすることとは、意識を覚醒させ、賦活することである。存在を与えることは、生を与えることであり、あるいは存在とは生なのである。したがって、神の存在とは創造であり、他の事物を賦活し、そのもののうちで生きることである。しかし、他のものにおいて自己の生を生きることは愛することである。したがって、神の本質は愛である。』……なるほど……パースは、アガペ(神の愛)ということを、こんなふうに理解していたのか……「他者のうちで生きる」ことが神の本質であるからこそ、神は、世界を創造した……こんなふうに考えると、なんかすべてがうまくはまっていくような気がします。そうだったんだ……と。

そこで、翻って自分のことを考えてみると、なんか、ほとんどの時間、自分のことしか考えてないなあ……と思います。うーん、これでは、テレパシーは使えないワケだ。こんな状態の人がテレパシー能力を持ってしまったら、それは、「他者への愛」ではなく、まちがいなく「他者への支配」になる。テレパシーは皮膚に効くので(接触感覚だから)それは、ダイレクトに「自分の壁」を壊してくる。考えようによってはオソロシイもの……ということで、ここで思い出すのは、やっぱりインターネットのこと。これ、実は、疑似テレパシーです。ネットのやりとりは、なんか「自分の壁」を浸透して、直接自分の中に染みこんでくるような感覚を私は持つのですが……ようするに、目の前にあるのが「自分のパソコン」(あるいはスマホ)だからかな?

私の解釈では、ネットは「テレパシー網」なんですね。これがもう、世界中に張りめぐらされて、人は新しい思考形態に入ってるんじゃないか……しかし、「他者のうちに生きる」ということは、まだ全然できてないので(できてる人もいるかもしれませんが)、そこに現われるのは「自我の拡張」になってしまいます……物理的なガードが薄い分、いろいろ影響は直接的で、しかも心に深く浸透していく……「ノリ メ タンゲレ」とキリストは言った。墓から甦ったイエスに、マグダラのマリアが触れようとした瞬間に、彼の口から出た言葉。「我に触れるな」と訳されますが、この「タンゲレ」というラテン語は、「さわる」という意味で、今も英語で tangible さわれる、みたいな言葉になって残っている。

イエスは、地上の肉を失ったとたんに「触れることができない存在」になった……ということは、逆にいえば、それまでは「触れることのできる存在」として地上にあった……つまり、この世界のものは、すべてが同じく「触れることができる」存在なんだけれど、それは、この世界のものがすべて「地球という材料からできている」ということなんだと思います。要するに、いろいろと個別に分かれているように見えるんだけれども、実は、そう思ってしまうのはわれわれの「脳」(の一部)なのではないか……犬や猫が、「自分」とか「他者」をどのように感じているのか……わかりませんが、おそらく人間が思っているほどには自他の区別はないのではなかろうか……ということは、彼らの皮膚感覚、つまりテレパシーの感覚は、さほど「脳」にジャマされていない……

ということで、「透明人間」の話に戻るのですが……皮膚感覚が自他の境界になるのではなく、逆に自他の交流点というか交感点になっているのだとしたら、もしかしたら他の生き物は、人間より「透明感覚」が強いのではないか……そんなふうにも思います。犬や猫の感覚になれないのでよくわかりませんが……「不透明」という感覚自体が、もしかしたら人間に特有の感覚なのかもしれません。うーん、この世界は、彼らにはいったいどんなふうに見えているんだろう……自分が、皮膚を超えて広がったり、他者が皮膚を超えて入ってきたり……透明、不透明の感覚があいまいになって、ちょっと夢の中のような気分なのかもしれません。そして、そこで、どんなことが行われるんだろう……まあ、人間以外のものに生まれかわればわかるのかもしれませんが……

いずれにせよ、この星のものは、結局、一体として、物質やエネルギーや情報を交換しあって生きている……この星の上には、これまでこの星でいのちをつないできたすべてのものの歴史が積み重なっているわけです。とすると、いったいなにが「進化」して、なにが「星を出る」のでしょうか……あるいは、どこからか、違うところからの影響……ゲートを超えて到達するような「なにか」があるのでしょうか……晴れた日に、太陽が沈んで星が輝きはじめると、やっぱり「宇宙の響き」がきこえてくるような気がします。雪の日の朝に向こうの山から昇ってくる太陽……流れる雲。自然の息吹の中に、なぜか遠い星の声をきいてしまう……それは、もしかしたら、私たちを造っている原子のゲートを超えて、伝わってくるものかもしれません……宇宙の層、それは、まことに深い……

今日のessay:あいまいでとりとめのない話・その2/Vague and Chaotic Story – 02

ファルコンギターc_900

佐治晴夫さんという方がおられて、この方は、グレン・グールドのバッハ演奏をボイジャーのゴールデンレコード(異星人へのメッセージ)に載せることを提案された物理学者なんですが、『からだは星からできている』という本に、おもしろいことを書いておられます。「宇宙背景放射」についてのお話なんですが……まあ、要するに、レーダでとらえられる「宇宙の雑音」ということなんですが、これがじつは「ビッグ・バン」のときの名残りの雑音なんですと……

で、全天からくるこの電波を調べてみると、そこにわずかの「ゆらぎ」があって、その変化が、現在の宇宙の大規模な構造を形成しているもとになってる……観測されたゆらぎのパターンをもとにコンピュータでシュミレーションしてみたら、現在の銀河の構造とぴったり一致したとか。それで、このわずかな「ゆらぎ」が生じる前は、宇宙はまったく均一で、それは結局「なにもない」と等しいと……うーん、このあたり、パースの宇宙論とそっくり一緒だ。彼は、百年も前にビッグ・バン理論を……でも、佐治先生によると、古代『リグ・ヴェーダ』にも似た表現はあるそうで……

「ゆらぎ」というとホントの偶然。それで「均衡」が破れて宇宙がはじまる……で、その痕跡が今もなお、宇宙全体に響いている……ボイジャーのゴールド・ディスクは宇宙人の手でグールドのバッハを宇宙に響かせるのかもしれませんが、その音も、もとはといえば、「はじまりのわずかなゆらぎ」から発している……「宇宙の終わり」は、おそらく現代物理学では、光瀬さんの考えみたいな「熱的死」になるのかもしれないけれど、パースが考えるみたいに「完全な秩序の実現」という様相もおもしろいと思います。これ、物理学で表現するとどうなるのかな?

たぶん、「量子論の不成立」みたいなことになる?? 物体の位置も速度も完璧に決まってしまって、あいまいなところは微塵もない。みな、ガラスに貼り付いたみたいに永遠に固定されてしまって……まあ、要するに「自由」が一切ない世界。これ、困りますね……私のような、束縛されることを嫌う人間は、もう居る場所がない。まあ、世の中、束縛されるのが好きという方は珍しいでしょうから、大多数の人にとっては地獄……なんだけれど、もう、そう考えることさえできない。究極のロボトミーの世界……おそろしい……

私は、こどもの頃から「ゼノンのパラドックス」に興味を持っていました。「飛んでいる矢は飛ばない」とか「アキレスは亀に絶対に追いつけない」というアレです。で、卒論のタイトルも『無限と連続』。カントールとかデデキントとかいろいろ読んで、わけのわからない文章をでっちあげた記憶がありますが……そこで、やっぱりふしぎだったのは、実数の連続が「線」になるってこと。要するに、「点」の連続(集合)が「線」という、まったく次元のちがうものに「変身」してしまうということで、これはふしぎだった……

基本的に、今でもふしぎ……と思う気持ちにかわりはないのですが……でも、いろいろわかってきました。この問題、実は、微積分の成立根拠にも深い関連があって、高校生のときに、微積分が出てきて、その証明を「ε-δ法」でやってる。コレ、理解できませんでした。「微小」を無限に微小にしていくと……ということがわからなかった。「点」ではないものは、いくら小さくしていっても、どうやっても「点」にはならないのではないか……理系の方にたずねると、紙に数式を書いて「証明おわり」となるんですが、こっちはナニが証明されたんだか……

それで、1977年、神戸の映画館で、『スター・ウォーズ』の第一作(エピソード4)を見ました。で、びっくりしたのが、宇宙船のなめらかな動き……模型を撮影してるんでしょうが、それまでの特撮技術とは明らかに一線を画している……『2001年宇宙の旅』の宇宙船もなめらかでしたが、この『スター・ウォーズ』では、宇宙空間を高速で飛び回る……ダイクストラフレックス Dykstraflex とかいうそうですが、模型の動きとカメラの動きをコンピュータで連動させて撮影する……フィルムの一コマを見ると、宇宙船がブレて映ってる……

おお、これはまさに「量子論」そのものではないか……要するに、物体の「位置」と「速度」を二つながら確定することはできないというアレですが……といっても、この場合には、映画のフィルムが1秒24コマという限定から、1コマがこういう映像になってるワケですが……でも、私にはとっては、「無限と連続」を絵で見せられたみたいな感激?でした。つまり、「ブレ」の問題で、フィルムの1コマを「点」とするなら、「点」は実は「点」ではなくて「ブレ」をもった幅、つまり、小さな「線」みたいなものなんだと……

ここで連想されるのがライプニッツ。ニュートンと微積分の「著作権」?を争ったお方でもありますが……彼の「モナド」もやっぱりこんなかんじでした。「モナド」は、どうしても「点」を連想させる。「点」だったら、大きさがないから、中にはなにも入らないはず。ところが、モナドの内部には「襞」があるという……これ、ふしぎです。大きさのないものの内部になぜ「襞」ができるんでしょう……たとえば、y=x2(二乗)という方程式を考えてみます。グラフは放物線になるわけですが、線であるかぎり、「点」の集合として形成されている……

Web

「点」であるかぎりにおいては、どの点もみな「同じ」のはず……ところが、このグラフ上の点は、みな違う。そこにできる接線の傾きとか、X軸Y軸上の位置とか……接線の傾きが一次微分で速度になって、そこにおける加速度が二次微分でしたっけ……違ってるかもしれませんが、要するに、「点」はいろんな異なる性質をもっていて、この性質が、結局モナドの「襞」ということになるんじゃなかろうか……そうすると、ダイクストラフレックスの一画面(点)においてブレて映ってる宇宙船が、つまりはモナドの「襞」という姿になるんじゃなかろうか……

特撮を手がける人のだれもが影響を受けたレイ・ハリーハウゼンという方がおられますが、この方の得意技は「ストップ・モーション」で、要するに人形のコマ取り撮影。これですと、フィルムの一コマ一コマが正確に止まってる。「位置」が完全に確定されている……そのかわり、映像でみるとカクカクとした動きで不自然。日本のアニメみたいにカクカク動く。とくに「速度」が上がるとその不自然さが目立ちます。しかし、一コマでみると映像が流れているダイクストラフレックスの場合、映写で見るとものすごく自然に動く……

これ、要するに、一コマに入るべき情報、つまり「モナドの襞」をコンピュターで正確に制御して、それを連続させているから自然に見えるんではないか……そう思いました。で、パースの『宇宙論』に戻るんですが……彼の場合にも、やはり「点」の集合が「線」になるとは考えていない。なんといったらいいのか……それぞれが内容を持つ「部分」の集合が「線」になるというんですかね……ダイクストラフレックスの一コマみたいに、完全に確定されていない幅をもってブレているぼやっとしたものの集合体が「線」を形成していく……

なるほど……これならよくわかります。そういう「部分」は、いくら小さくしていってもやっぱり「幅」を持っているので、数学的にいう完全な「点」にはならないわけです。で、これを「無限に小さくしていく」ということは、やはり人間の脳内のスペキュレーションだけで可能なこと。これをやると、たしかに「点」にできるのかもしれないけれど、そこには大きな「飛躍」が生じる。ここで「モナドの詐術」みたいなものが働くと思うんですが……ライプニッツのモナドは、これは完全にスピリチュアルな存在なので、本来、物質の世界には関連をもたない……

ところが、微積分においては、このスピリチュアルなモナド(点)と、実体的な世界(物理的世界といってもいい)が「ε-δ法」でムリヤリ?関連づけられます。私は、どうしてもここに「詐術」を感じるのですが……そういえば、ライプニッツにおいては、「死」は「縮退」(コントラクション)なんだそうで、今まで物理的世界に関連してみずからを表出していたモナドが、その表出を無限小にしてモナドの姿へと縮退する……うーん、まさにこれは、人は死して霊魂になるというオーソドックスな考えと一緒ではないだろうか……でも、物理的世界にさまざまな痕跡は、やはり残してしまう……

ボイジャーにその演奏が乗って宇宙に運ばれてるグールドさんは、50才という「若さ」でお亡くなりになりました。その身体は分解されて残ってないわけですが、その演奏は世界中に残っている。いや、彼の身体の一部は、物理的にもさまざまなものに姿を変えて残っているといえる。まあ、これは誰しも同じで、人間でなくてもどんな生物でも……生物でなくてもそうなんですが、痕跡というものが完全消滅することはない……これ、「モナドへの縮退」ということにかんして、いろいろなことを考えさせられてしまいます。

「ヒーラ細胞」というのがあって……ヒーラというのは、かつて生きていたアメリカ人女性の名前らしいんですが、彼女の身体から採取したガン細胞が培養されて世界中の研究所に配られ、本人はとっくに死んでいるのに、その身体から分けられたガン細胞は、世界中で今も生きてる……これ、本人はモナドへと縮退したいのかもしれませんが、それが許されない、ある意味ヒサンな状況……車で道を走っていると、轢かれた動物の死骸をよくみかけますが、彼らの身体は、いろんな車の車輪に一部がくっついて、世界中?に運ばれてしまう……オソロシイ……

人間というモナドは、「文化財」をつくるので、グールドさんの演奏みたいにそれが世界中に拡散して、もうもとのモナドには収集しきれない……それは、原理的にはこういうインターネットの書きこみも同じなんですが、一旦拡散してしまえば「点」には戻りようがありません。これはまた、「個」というものの範囲をどう考えるかということとつながってくるのですが……昔、「透明人間」はどこまでが「透明」なんだろうと考えたことがありました。透明人間がモノを食べたら、どこの時点から透明になるんだろうか……はたまた、透明人間が出したものは??

ということで、ますますとりとめがなくわけがわからなくなりましたので、このへんで。つづきはまた。

今日の kooga:雪の朝/A Snowy Morning

雪の朝_01

小雪のちらつく朝、向いの山から陽がのぼる。いろいろなものの遠近感がよくわからなくなる瞬間、光がすべてをおおう。雪の朝は、絶対。

地球にいて、宇宙を感じる。この惑星……CMに出てくる悲しげな目をしたオジサン宇宙人じゃないけれど、そんな言葉が出てくる。

見ていると、少し強く、雪が降りはじめた……静かだ……また、ここからはじめてみよう……そう思った。

雪の朝_02

In the morning with a light snow, the sun is just rising from an opposite hill, and I lost my sense of perspective of everything.
The light overcomes all.
A snowy morning is absolute.

I’m on this planet earth, but I feel that I’m in the universe.
This planet……like a word which was spoken by a middle-age alien who often appears for the commercial of TV……

While I’m looking, snow became strong.
Silence.
I want to begin walking from here again……I thought so.

今日の essay:原子力について・その3

人間の科学技術は、結局、最終的には「自然への収奪」に行き着くのだと思います。昔、学校で習ったマルクス主義の考え方(マルクスの考えかどうかはわからない)では、人は、人から労働力を収奪するのですが、その最終的に行き着く先は習わなかった。それは結局「自然」であって、「収奪の連鎖」はそこで止まる。自然は自然から収奪するということはないから。

これは、なぜそうなんだろう……とふしぎだったし、今でもふしぎです。動物が他の動物を食べるというのは「収奪」ではないのだろうか……と考えると、これはどうも「収奪」とは言えない気がする。それはあくまで「自然」であって、「収奪」というえげつない言葉はそぐわないのだ……なぜ、人間の場合だけ「収奪」といえるのかというと、それは、やはり人間の「自己意識」のなせるワザかも。

自己意識

自己意識、ゼルプスト_ベヴスト_ザインというものは、まことにやっかいですね……自分自身を_知る_存在……自分と、自分のやっていることを反省的意識をもって見られる……ということは、結局「普遍」を知り、そこへ向かおうということにほかならない。昔見た『ベオウルフ』という映画では、デーン人の王がキリスト教に改宗した動機を、ベオウルフに語る。

「われわれの神は、酒と肴しか与えてくれなかった……」まあ、要するに日々の糧というか、毎日をきちんと生きて、そして子孫につなぐ……これを守ってくれる神……しかし、日々を生きて子孫を残すということは、これは動物でもやってることなので、それでは不満というか、そういう神さんではやっていけなくなった事情というものが発生してきたということでしょう。

では、キリスト教の神はなにを与えてくれるのか……といえば、それは、結局「普遍」、アルゲマイネということだと思います。ジェネラルスタンダードというのか……部族が小さいうちは部族の神でやっていけるんだけれど、生産力が向上して大勢の人をやしなっていける段階になると、そういう神では不足だと。まあ、生産力が向上するというのは、それだけたくさん自然から「収奪」できるようになった……

江戸っ子みたいに「宵越しの銭は持たねえ」という生き方ならいいんですが、「宵越しの銭」を蓄積して、未来の生活まで考えるということになると、一日単位でしか守ってくれない神では困る……ということなんでしょうね。また、自分とか家族とかじゃなくて社会的なつながりが広がってくると、いろんな人に共通の利益を調整する必要も出てくるのでしょうし……こりゃ、困ったもんだ……

ということで、砂漠の一神教と、古代ギリシアの、普遍を射程に入れられる哲学が融合してラテン語にのっかったキリスト教の神というのが、やっぱりいちばん使い勝手がいいんじゃなかろうかと……まあ、これは私の想像なんですが、そんな感じで、少なくともデーン人の王は受け入れたんじゃないかな……ということで、人間の自己意識が拡大するにつれて、「自然からの収奪」を意識化する神が導入された??

では、その「普遍化」はどこまでいくのかというと、それは「普遍」なので、むろん制限はない。人が考えられるすべて。宇宙のはてまでいってしまう……そして、この件にかんする「反省的意識」は、結局カントの『純粋理性批判』まで人は得ることができなかったのかもしれませんが……私は(すみません。突然私見です)、やっぱり「普遍化」の限界は「地球」だと思います。

人の思考は、ホントは「地球」で止まる。これは「普遍」の限界であって、人はそれを超えられない。なぜなら、人は、「地球のもの」でできているから……おととい、『ゼロ・グラヴィティ』という映画を見にいったんですが、それなんか、ホントにそんな感じでした。宇宙は黒くて寒い。地球は……宇宙から見る地球は、圧倒的な印象であると……人は、いくら意識が伸びても、やはり地球の一部だ……

gravity

拡大方向の限界は「地球」だと思うんですが、では、これがミクロ方向に行くと……その限界はやっぱり「原子」なんではないか……人は、原子で止まらなければならない。キリスト教の神は人に「智恵の樹の実」を食べることを禁じたけれど、それは、もしかしたら「地球」と「原子」という限界を超えるな!ということだったのかもしれない……私には、この二つの限界が、なぜか「同じもの」のように思えます。

人は……人の文化は、もしかしたら「幻影」の中にあるのかもしれません。人が、実質的に処理できる範囲は、やっぱりデーン人の王が言ってた「酒と肴を与えてくれる神」が統べる領域なのではないか……そして、そこを超えることを求める「普遍指向」は、結局、「地球」という限界、そしてもうひとつは「原子」という限界、これを超えることを人にうながし、誘い、実行させてしまう力……

私がこんなふうに思うのは、やっぱりこどもの頃の自分の経験もあります。こどもの頃、「原子力」と「宇宙旅行」にあこがれた。実際に、こどものための図鑑シリーズに『原子力・宇宙旅行』というのがあって、それはホントに象徴的なタイトルだったと今でも思うのですが……自分の範囲が無限に拡大していくような……それは「言葉の力」なんですが、なにものかを呼び覚ます「サイン」となって……

私は、やっぱりここがキモだと思います。人が、なぜあれほどの悲惨な事故を体験しても「原子力」を止めようとしないのか……「宇宙旅行」の方は、「原子力」にくらべるとまだロマンが残っている感じですが、でも、もう2001年もとっくにすぎているのにまだ月面基地もできていないし、木星探査のディスカヴァリー号に至っては、計画さえない?? やっぱり人には「宇宙」はムリなんじゃ……??

「技術」がきちんと「技術」として成立する範囲って、あると思うんですよね。そこを超えてしまうと、急に莫大な費用がかかるようになって、いくら費用をつぎこんでも思うような結果に至らない……人間の技術範囲を区画してしまうような山脈の壁……それは、あるところから勾配が急に立ち上がって、人の超えようとする試みをすべて挫折に導く……それが、「原子」と「宇宙」として、今、見えている。

やっぱ、これはムリなんじゃないかと思います。これまでの「技術思想」では。いままでうまくいってたから、そのまま延長していけば行けるんじゃないか……甘い。まあ、要するに、つぎ込む資金と労力が加速度的に増加して、どんだけがんばっても一ミリも進めない……どころか、後退を余儀なくされる場面というものがある。そして、それは「難所」じゃなくて、もう原理的に超えられない……

ということがわかってきたら、では、それはなぜ、そうなっているのか……ということを考えるべきだと思います。「普遍」の追求は、あくまで実体と分離してしまわないことを原則としてやらないと、いくら「普遍を得た」と思っても、それは内実のない空虚な、言葉と数式のカタマリにすぎなくなってしまう……人の文明は、もう、これまでのすべてを省みて、あらたな「方法」をさがすべき時期にきている。

私は、「原子力」の問題の核心は、やっぱりここだと思います。放射能とか汚染水とか言ってるけれど、根幹は、人間の技術思想の設定の仕方そのものにある。「原子」と「宇宙」は、どうやっても超えられないほど高い山脈となってそびえているけれど、じゃあその他の技術は……というと、やっぱり「超えた」と思っていても、必ず同様の欠陥がある。それは、人間の技術思想そのものの欠陥だから。

どこまで戻ればいいのでしょうか……「適正技術」ということがよく言われるけれど、それは、根本的な解決にはならないと私は思います。やっぱり徹底して戻るとするなら、人間の「自己意識」の問題にこそ戻るべき。そここそが、「普遍」が立ち現われる場所でもある……もうこれは、技術の問題というよりは完全に哲学の問題なんですが……そこからはじめないとダメだと思います。