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モナドの帰還/An Odyssey of monad

ika's life_02c
一旦風邪になると、私の場合、一ヶ月くらい続きます。ノドが良くないので、咳とかがずうっと尾を引く……それでも、徐々に良くなっていくのですが……

一旦引いた風邪が直りかけて、でもなにかの拍子にぶりかえす……そのときのみじめさ……私のモナドが支配権を確立しかけていたのに、再び風邪のモナドに奪還される……まるでイスラム国との戦争ですが(イスラム国のみなさん、風邪に見立ててすんません……)、なんかそんな感じ。

病気って、なんでもそんなものかな……と思います。一年に何回か、こりゃ、ホントに調子いいぜ!と思える日があるんだけれど……そう思える日が年々少なくなっていく。これが、年をとるということなのか……

で、そういう「調子いい日」のことを思いだしてみると、自分が自分として、完全にまとまってる……そんな感じです。よし!今日はなんでもやれるぜ!という……でも、何時間かたつと疲れてきて、ああ、やっぱりアカンではないか……と。

昔、ある前衛アーティストに会ったときのこと。彼は、「自分は疲れない」と公言した。疲れるのは、どっかがオカシイんだ!と。その言葉どおり、彼は疲れなかった。

目の前で、「書」を書く(というか描く)のですが、何枚も、何枚も、延々と描く。それも、まったく同じスピードで。紙を傍らに大量に積み重ねておいて(300枚くらいあったかな)、パッと取って前に置いてササッと描いてハイ!次の紙……これを、機械のようにくりかえす。しかも、描く内容が毎回違う。

スピードが変わらないのが脅威でした。ふつう、人って、白い紙が前にあると、書きたいものが決まっていても、若干のインターバルがあってから筆を紙に降ろして書くもんですが……彼の場合、そのインターバルがゼロで、紙を置くと同時に描く。しかも、毎回違うものを。その動作を、機械のように正確にくりかえして、スピードがまったく落ちない。作品の大量生産……

前衛アーティストHさんC_900
見ている方が疲れてきます……なるほど……前衛アーティストというものは、こういう特殊な訓練をみずからに課しているものなのか……感心しました。フツーじゃない……なんか、人間ではないものの行為を見ているようだった。

で、彼は疲れたかというと、全然そんなことはなく、前にもまして元気。行為が彼に、無限のエネルギーを与える。いわゆる、ポジティヴ・フィードバックというヤツですね。こういう人は、きっと死なないんじゃないか……そんな感さえ受けました。

死なないので有名なのが、ロシアの怪僧ラスプーチンさん。青酸カリを食わしても、頭を割ってもピストルで撃っても死なない。オソロシイ生命力……いったいどこが、われわれと違うんだろう……

ラスプーチンc_900
やっぱり、モナドの支配力がケタ違いに増強されている……そんなふうにしか感じられません。いったいどこから、その「支配力」を得ているんだろう??

でも、ライプニッツによれば、モナドそのものが「死ぬ」つまり消滅することはありえないのだから、それは、やっぱり相対的なものなのかもしれません。モナドは、「一挙に創造され」、「滅ぶときもやはり一度に滅ぶ」。

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(仏語原文)Ainsi on peut dire, que les Monades ne sauraient commencer ni finir, que tout d’un coup, c’est-à-dire elles ne sauraient commencer que par création, et finir que par annihilation; au lieu, que ce qui est composé, commence ou finit par parties.

(英訳)Thus it may be said that a Monad can only come into being or come to an end all at once; that is to say, it can come into being only by creation and come to an end only by annihilation, while that which is compound comes into being or comes to an end by parts.

日本語訳(河野与一訳)して見ると単子は生ずるにしても滅びるにしても一挙にする他ないと云ってもいい。言換へれば、創造によってしか生ぜず絶滅によってしか滅びない。ところが合成されたものは部分づつ生ずる、もしくは滅びる。(旧漢字は当用漢字にしてあります)
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つまり、部分的に、あるモナドが消滅し、別のモナドは残る……ということはありえないんだと。

これは、とてもおもしろい考え方だと思います。われわれは、どういうふうにしてかはわかりませんが、時のはじめ(神の創造時点)からずっと存在している。この宇宙のモナドはすべてそう。で、滅ぶときは一挙に滅ぶ。

われわれの肉体は、合成物なので……合成物のレベルだと、「この人は死んだ。でも、この人は生き残っている」ということはありえます。というか、それが当然の世界。しかし、「わたし」というモナドは、モナドである限り、「わたしだけがなくなる」ということが原理的にできない。もし「わたしがなくなる」ということが起こるなら、それは、「世界がなくなる」、つまり、すべてのモナドが消滅する……それ以外の方法ではありえない。

この論理は、原理的に否定不可能なものであるように思います。要するに、モナドは「一性」そのものであって、この「一性」が否定されるということは、原理的にありえない。なぜなら、「一性」は、普遍中の普遍、最大の普遍であるから……

したがって、もし、私というモナドが消滅することがあるとするなら、それは「一性」そのものが否定されるという事態が発生したということで、そういうことになれば、わたし以外の「一性」、すなわち他のモナドの存在も、すべて否定されざるをえない。「最大の普遍」というところから、かならずそうなる。

これって、「死」というものに対する、いちばん合理的な答だと思います。私が今まで知る範囲では……というか、これ以上明解な答はありえないなあ……これは、論理的に、どう考えてもくつがえせない。

つまり、「死」は、肉体という合成物が否定されるということで、この否定は合成物のレベルで起こるものであり、モナドのレベルではない。したがって、モナドの「一性」は、まったく否定されていない。だから、「肉体の死」は、個別に起こる。あの人は死んだけれど、この人はまだ生きている……という具合に。

ただ……ライプニッツは、宇宙のすべてのモナドは、一挙に創造され、いっぺんに死滅する……と言ってるんですが、その「宇宙」の範囲が、問題になるとすれば、唯一問題になるんだと思います。「宇宙」って、どこまでなの?……ライプニッツの時代においては、「宇宙」はすなわち「世界」のことであって、これは即、「神が創造された世界」ということになる。

しかし、現代においては、「宇宙」概念はかなり違ってきていると思います。今の科学では、地球 ー 太陽系 ー 銀河系 ー 小宇宙群 ― 大宇宙……となって、「宇宙」といえば最後の「大宇宙」をさす。まあ、これが一般的な受け取り方ではないでしょうか。

しかし、私は、ここに、「人間は、地球から出られないのではないか?」という問題が、どこまでもついてまわるような気がします。この問題は、前にも取りあげましたが……「え?人類は、もう月にも降り立っているんじゃないの?」ということなんですが、でも、ホントにホントにそう、なのかな……??

アポロ11のアームストロング船長が月面に着地したとき(小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩、と言ったアレ)、彼は、「宇宙服」を着ていました……当然じゃん! なんで、そんなことをモンダイにするの? と笑われそうですが、私はこれは、大きな問題だと思う。

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アームストロングさんは、自分の素足で、月面を踏んだのではなかったのでした……当然のことながら、宇宙服の内部は、「地球環境」になっています。そうでないと、彼は死ぬ。要するに、アームストロングさんは、「地球環境を着て」、もっというなら、「地球を着て」、月面に降り立った。だから、「宇宙服」という名称は、本当は正しくなくて、「地球服」というべきでしょう。

それって、リクツじゃん!と言われるかもしれません。でも、われわれの肉体は、地球からできている。地球のものを食べ、地球の空気を吸い、地球の水を飲んで……その、一時的な結実の連鎖として、われわれの肉体というものがある。これを考えるとき、われわれの肉体という「合成物」は、実は「地球」という惑星の一部……どころか、地球という惑星そのものであると考えざるをえません。

そう考えるとき、われわれは、この肉体として生きているかぎり、原理的に「地球の外に出る」ということが不可能だ……地球の一部であり、地球そのものでもあるものが、地球という範囲を離れるということ、それ以外のものになるということは、原理的な矛盾にほかならないからです。もし、地球以外のものになってしまえば、われわれの肉体は、その本質を失ってしまうということになる。

では、わたしというモナド、はどうなんだろう……ライプニッツの時代においては、漠然と、宇宙と世界は同じであって、それが地球という範囲を出るか否か……そういう議論も、意味のあるものとしては成立しえなかったように思います。しかし……アポロ以後のわれわれにとっては、これは重大なモンダイとなる。

結論からいうなら……私は、わたしというモナドは、地球という最大のモナドの範囲を出ることができない……そう思います。要するに、私は、今の状況としては、「外界を知る」ためには、私の今の肉体を媒介とする以外にありません。しかし、今の私の肉体が地球から出ることができない……つまり、「地球限定」である以上、わたしというモナドも、やはり地球限定、つまり、地球の範囲を出ることができない。

思惟、思弁では、私は、いくらでも「地球の外」に出ることができる。しかしいったん、延長の世界、かたちや大きさがある世界においてモノを考えるということになりますと、結局、わたしは「私の肉体」を媒介として考えざるをえなくなり、そうすると、結局、世界……考えうる最大の範囲は「地球」であるということになる。

ここは、もう明確だと思います。モナドには「窓」がないので、本質的な「外界」というものはありえない。しかし……延長の世界、かたちも大きさもある世界において、延長の世界に対する「支配力」を用いて相互に「自己表出」を行うことにより、モナド相互の「交通」は可能となる。より正確にいうなら、「交通が可能となったかのような状態を現出しえる」。

ライプニッツは、すべて「宇宙単位」でものごとを考えましたが、この「単位」が、今のようなリクツで、本当は「地球限定」だったら……彼の論理は、この地球上のモナドは、すべて一挙に創られ、そして滅ぶときには一挙に滅ぶ……ということになる。そして、私は、これが、この地球という星が、一つの単位としてこの「宇宙」に存在する、その根源的な理由であるような気がします。

私というモナドからはじきとばされた「風邪のモナド」は、しかし、この地球から飛びだしたワケではなく……周回軌道を描いてまた戻ってくる……それが、私に戻るのかどうかはわかりませんが……というか、ソレはイヤなんですが、そういうことになるのかもしれない。

この地球のものは、すべて、この地球から脱出することはできない……太陽系を超えてどっかにいっちゃったように見える人工衛星でも……というか、原理的にそう。地球のものは、その本質からいって、地球から脱出することはできない……

これは、「限定」なのかもしれないけれど、それゆえに、もしかしたらこの「地球」という世界が成立している。しかし……

さらにもしかしたら、原子核の中の世界は違うのかもしれません……まあ、妄想と思われてもしかたありませんが、この物質の世界は、原子核の中で「抜けて」いるように感じられます……ということで、正月早々、モナドな妄想で失礼しました……。

小松左京『虚無回廊』を読む_03/Sakyo Komatsu ” The Imaginary Corridor “_03

ナジャの旅_300

この作品で、やっぱり考えさせられるのは、人が、どこまで考えられるのか……その限界……みたいなことでした。落語の「頭山」じゃないですが、シュールなことはいくらでも考えられるけれども、「実体」が伴わない……アンドレ・ブルトンの『ナジャ』をはじめて読んだとき、なんて奇妙なことを考えるんだろう……と驚きましたが、それが、なんか妙な実感をもって迫ってくるのは、やっぱりそこに、いくら奇妙でも「実体」を感じたからだろうと思います。ふしぎなんですが……スペキュレーションだけではなくて、裏打ちがあってモノを言ってる……そんな感じかな。

小松さんのこの作品の場合は、やっぱり実体感は希薄です。それはなぜかというと……スペキュレーションにサイエンスを介在させているからではないか……サイエンスを介在させる以上、そこで「実体感」が切れないために、小松さんご自身が猛勉強をして、科学上の「概念補強」をガッチリやってるんですが……にもかかわらず「実体感」が希薄なのは、サイエンス自身に「穴」がやたらに多いからだと思います。世の中は、まだまだサイエンス絶対というか、科学信仰というか……科学的に裏付けがとれればそれは絶対……みたいな見方が多いですが、その「科学的裏付け」というのが……

いかに困難を極めるものであるかは、先の「STAP細胞事件」で明らかになったみたいに、なかなか大変なものだと思います。それと、おそらく、やっぱり「第五世代」の困難さ……これは、直接「生命とはなにか」とか「知性とはなにか」にかかわってくる。この点も、今の科学の限界みたいなものを感じさせられる……この小説では、ハード的な、たとえば素子の問題とかにはそんなに詳しく触れておらず、ただ、人工知能は「育てないと」ヒューリスティックにならない、つまり「人間ぽい」知性にはならないんじゃないか……ということで、ソフト的な「育て方」の問題を大きく取りあげている……

ただ、ハード的な素子の問題で、それが、半導体技術を伸ばしていったものであるとするならば、「育てる」というところで、やっぱり大きな壁にぶつかるような気がします。つまり……これは、ヨゼフ・ボイスが『7000本の樫の木』で提示したテーマなんですが……花崗岩の柱の横に植えられた樫の木……樫は大きく育って大樹になるけれど、花崗岩の柱はそのまま……この、地球表面という環境で「育つ」のはやはり炭素型生命であると。鉱物型は、長い年月をかければ育つのかもしれませんが、フツーの感覚で「育つ」というにはムリがある……炭素型は、化学反応でシグナル伝達を行うので、反応速度は遅いけれど、環境内で「育つ」ことができる……

これに対して、鉱物型の生命は、コンピュータのように計算速度は異常に早いけれど、「育つ」のがむずかしい。ほっといたらコンピュータが育った……という話はきいたことがありません。むろん、鉱物型が育ちやすい環境を作ってやれば育つのかもしれませんが、この地球表面という環境にオープンにしていって「育つ」のは、やぱり炭素型生命なのでしょう。ここのあたりは見過ごされがちですが、実は、重要なところではないかと思います。ただ、炭素型には「反応速度が遅い」という以外にも大きな欠点があって、それは、地球表面という環境でないと、育たないのは無論のこと、生きてもいけないということ……

人が宇宙に出るときは、宇宙船や宇宙服というかたちで地球表面の環境を「持って」いく。これはまあ、当然のことととらえられているわけですが……コンピュータには、地球表面の環境というものは特に必要ではない。育たないかわりに、隔たりなく宇宙に出て行けるわけです。このあたりも考えさせられる……この小説の主人公である人工実存の「彼」にとっては、宇宙という環境も地球という環境もどちらも同じ……特に「地球表面」という環境が必要なわけではない。しかも「育つ」ことができる存在である……このあたりが、「実体感」が希薄になる、これまた一つの要素ではないかと思います。

地球の生命は、地球以外では「育つ」ことはもちろん「生きる」こともできない。これは厳然たる事実であって、だから、人の知も、行動範囲も、本当は「地球表面」に限られているのだと思います。人が「宇宙に出られる」と思うのは、それは一種の「錯覚」であって、人のスペキュレーションの見せる「夢」なのですが……人は、この地球表面と「同じもの」からできているがゆえに、この地上において「育つ」ことができる。そして、その育った結果として、宇宙を夢見ることもできるのですが……しかし、実際に宇宙に出ていくことはできない。人が生きることのできる場所は、この地球表面だけ……それが、厳然たる事実だと思います。

小松さんのこの小説も、だから、何光年も先の宇宙に出ていくのは、「人工実存」である「彼」になっている。小松さんは、人が考えることの「無限の広がり」に対して、人がその身体から限定を受ける「生命」がいかに限られ、わずかな範囲しか動けないか……それを、この小説でも他の小説でもくりかえし書いておられますが……そして、「サイエンス」という手段を介してその限定を超えようとされておられますが……結局は、その不可能性を論じてしまった……サイエンス方面の論理補強をやればやるほど、現実感は希薄になって、その不可能性が際立ってしまう……そんな、根本的な矛盾を感じたのは私だけだろうか……

ブルトンの『ナジャ』が、シュールであるにもかかわらず「現実感」を失わないのは、それが、当時ブルトン自身が体験した「気分」であり、そこから皮一枚も遊離していない……そこにおいて、読む人は、リアリティを感じるのではないか……これに比べると、サイエンスは、ちょっと進むとすぐに人の「実体感」を離れます。特に、現代物理学のように相対性理論とか量子力学になると……空間や時間が伸び縮みし、モノの位置や速度が不確定になって「確率の雲」の中に隠れてしまう世界……そういうものは、この、われわれが生活している地球表面の世界としては、実感としてまことにそぐわない……しかし、現代のSFは、そこに触れざるをえない。

小松さんのこの作品は、ある意味、その極限だと思う……この作品でずしっと重みがあるのは、人間の主人公の遠藤さんとその妻のアンジェラさんのかかわるくだり……そこは、やはり「実感」が色濃く迫ってくるのだけれど、アンジェラさんが死んで、人工実存のアンジェラ・Eになると、ちょっと夢の中の世界みたいなところに入っていきます。そして、主人公の遠藤さんも死んで、彼の人工実存の「彼」が主人公になるあたりで、ほぼ完全に「実体感」がなくなります……つくづく難しい。SFが、やっぱりいまだに「純文学」を超えられないのは、おそらくはサイエンス自体にリアリティがないから……で、この関係は、たぶんこれからも続く……

いや、リアリティをもってとらえられないサイエンスでつくった装置類が、今は、この人間の世界に深く浸食していますから……大事故なんかが起こると、それは、リアリティのない世界が突然、この現実の世界を浸食して崩壊させるというオソロシイ結果となる。よく言われることですが……もう、今の世界は、現実の方がSFよりSFぽい。人は、リアリティを欠いたままにさまざまな科学技術に手を出して、それで自分たちの世界を変貌させていく……いやはや、SFのつくりにくい世の中になったもの……小松さんのこの小説は、なんか、SFからの「最後の挑戦」みたいな感もあります。なるほど『虚無回廊』か……まことにうがったタイトルだなあ……