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テロに思う/Terrorism and Technology

車窓のトトロ_900
またテロが起きました。ベルギーのブリュッセルで。
というか……「ヨーロッパ」以外では、頻繁に起きてるということですが、こんなに大きなニュースにならない。ブリュッセルのテロの死者数30人というのは、中東で起きてるテロの死者数にしたら少ない方だと思いますが、「ヨーロッパで起こった」というだけでこんな大ニュースになる。ここがそもそもヘン。

今回のテロは、ベルギーで育ったベルギー国籍の移民の子供たちが、組織に命令されたわけでなく、自分たちで判断してやった……ということらしい。

「武器」の問題が、大きくクローズアップされると思います。

こういう「惨事」は、今のような武器、爆弾や銃や毒ガスなんかがない時代にやろうとすれば、やっぱり「国家」みたいな「組織の力」が必要だったんでしょう。

人類の歴史をみれば、悲惨な大量殺戮は、それこそ古代文明の時代からあるわけですが、そういうものはみな、強大な「権力」を背景にしないとできなかった。

しかし……現代では、それこそ数人のグループ、場合によっては個人でも、かなりの大量殺戮と破壊をもたらす「テロ」がやれてしまう……

これは「武器」の力……もっといえば、個人にさえ、昔の大帝国の持っていた「権力」に近いパワーを与えてしまう「科学技術」の力だと思います。

科学技術の黒い手……こういうと、科学技術自体は中立……というか無性格であって、それを使う人間が悪いヤツなら悪になり、良い人が使えば善になる……という使い古された「科学技術は諸刃の剣」みたいなテーゼが出てくるわけですが、はたして本当にそうなんだろうか……

つまり、科学技術それ自体はなんの色にも染まっていない、善からも悪からも中立なもの……という認識で、ホントにいいんだろうか……ということです。

さて。それはやっぱり「信仰」と同じなんではないでしょうか。

つまり、「科学技術は無色」というテーゼには、なんの論理的根拠もない。

どころか……科学技術は、明らかに、それ自身の「性格」すなわち「色」を持っている。
何色?……というと、それは「全体色」だと思います。

科学技術の普遍性……つまり、日本でやろうがアメリカでやろうがヨーロッパでやろうが、一つの結果になる。この客観性……
これが「無色」に見える大きな理由だと思いますが、これは同時に「普遍色」という色だと思えないだろうか……

科学技術は、「日常性」との間に介在する。

スイッチを入れるとパッと明かりがつく。洗濯をやってくれる。テレビで遠いところのできごとがわかる。
足で歩かなくても車が自動的に動いて運んでくれる。
蛇口をひねると水が出る。

われわれの「日常性」……これが、科学技術を介在させることによって、われわれからけっこう「遠い」ものになっている。
そして、われわれは、常日頃それにほとんど気づいていない。

これは……われわれが、介在している科学技術を、無意識的に、無色であり、客観性があって、普遍的なものとみなしているからではないか……

たとえば……私が、部屋の灯りのスイッチをパチン!と入れるたびに、どこかでだれかが死ぬ、あるいは木が一本切り倒される、または海に放射能がバケツ一杯撒かれる……そういうことが、私に自覚されていたとしましょう。
そうすると、私は、部屋の灯りのスイッチを入れるたびに、躊躇するようになる。

私が、パチンとスイッチを入れて、通電して、電灯が明るく輝く……この「行為」が、ホントはどんな意味を持っているのだろうか……

今回「テロリスト」と呼ばれた方々が、爆弾のスイッチをパチンと(かどうかはしらないけれど)入れる行為……それが結果として「なにを」もたらすのか……それは、彼らはよくわかっていたはず。まあ、自爆テロなので自分も死ぬし。

しかし……私は、自分の部屋の電灯のスイッチをパチンと入れる……その行為がなにをもたらすのか……それについてはよくわからない。
「科学技術」が、私の行為と「その結果」の間に、何重にも介在していて、私は自分の「行為」の結果を見通すことができません。
オソロシイことだと思う……

にもかかわらず、私は、なぜ、「科学技術」を中立であり、「普遍」であると思ってしまうのだろうか……

それは、おそらく、「自然法則は、普遍である」という考え方が、もう無意識に刷りこまれてしまっているからではないだろうか……

いや、まてよ……電灯のスイッチは、こどもでもパチンと入れる。
こどもに、「自然法則は、普遍である」みたいな思考があるのかな?

こうすれば、こうなる……実験のラットの餌付けのシーンが浮かびます。
まあ、自分で実験したわけじゃありませんが……ネズミでも、ここを押せばエサが出てくるということを「学習」できる。
で、ネズミは、その理由を考えない。ネズミじゃないのでわかりませんが、たぶん考えてない。

人間は、考えないことが多いけれど、考えることもある。
で、考えはじめると……結局その理由というのが、究極的に最後までたどれないことに気がつく。

このスイッチは、電線につながっていて、電線には電気が流れていて、その先が発電所につながっていて……そこには、ゲンパツの、あのオソロシイ「地獄の釜」があるのかもしれない……
そこまで考えると、身の毛がよだつ……わけですが……
その「仕組み」のすべてを、私自身がわかっているワケではない。

では、専門の方はどうなのか……というと、やっぱりすべてを究極に知ってる人はいないのでしょう。
電気の正体……これが、ホントに究極までわかれば……それはスゴイことだと思います。
それはおそらく「自然法則の普遍性」の理由の解明にまで至るのでしょう。

日常、われわれは、それを知らず……なんとなく、それはそうなんじゃないかと思って、いや、そこまでも思わずに、ごくフツーに使ってる。
まるで、実験のラットのように。

「テロリスト」と呼ばれた方々も、やっぱりそういう点では、「ごくフツーに」、パチンとスイッチを入れた。
で……その結果に、世界中がおおさわぎ。
これって……実験のラットが、エサの出るスイッチをパチンと押す行為と、どこがちがうのだろう?
私が、部屋の電灯のスイッチをパチンと入れる行為とも。

「結果の重大性」といいますが……じゃあなぜ、「ヨーロッパのテロ」は重大で、「中東のテロ」は重大ではないのか?
私が部屋のスイッチを入れることによって、原発の炉心で本当に起こっていること……その「重大性」を、私は知ることができません。

遊星の壊滅……太陽系の崩壊……時間と空間を超えて、もしかしたら、私がまったく知らない「宇宙」に、その結果は悲惨な運命をもたらしているかもしれない。

空想?夢想?……あるいはそうかもしれませんが、「科学技術」の本質がわからない以上、その可能性は排除できないと思います。

もしかしたら、ものすごい「テロ」をやってしまってるかもしれない……日常の感覚から遠い「科学技術」のスイッチをパチンと入れること……考えてみると、私たちの「日常」は、もうすでに、なにものかによって、はるか遠くにまで拉致されている。

どうやったらそれを取り戻せるのだろう???

*今回の写真は、この間名古屋市内を走ってるときに(車で)、交差点で停止して、隣を見たら、三角ウィンドにトトロの親子?が……ぬいぐるみを車に載せてる人ってよく見ますが、たいてい顔が車内の人に向くように載せてる。けれど、この車の場合は、トトロの顔が車外に向いてる……まるで、外の人に見せるように……これはもう、「展示」にほかならない。で、それを見た私の心境はけっこう複雑でした。あれ?トトロ?……と気持ちがニヤッとする反面、なぜ見せるんだろう??と思う心も。デモンストレーション? じゃあ、なんのため? 「トトロって、いいでしょ?」ということなのかな? ちょっと強制されている感じ……「イスラムって、絶対なんだぜ!」という気持ちがテロリストの方々にあったとしたら、それを何億倍にも薄めたものをちょっと嗅がされた気もします。まあ、私がヘソ曲がりなだけかもしれませんが。

木彫り自販機とハイデガー/Wooden vending machine and Heidegger

木彫り自販機_900
お正月に、こんなん知ってる?と見せられたスマホ画像が、すべて木彫りの自販機。すごい迫力……実はコレ、山本麻璃絵さんという彫刻家の作品で、昨年秋に、町田の東急ツインズというところに展示されていたのでした。

写真を見たい方は、こちら → リンク

この木彫り自販機の画像を見せられたときに、ちょうど読んでいたのがハイデガー。『存在と時間』のはじめの方にある、次のような文章でした(熊野純彦訳・岩波文庫・第一巻352p~)

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利用できないことがこうして発見されることで、道具は〔かえって〕目立ってくる。手もとにある道具が目立ってくるのは、なんらかのしかたで<手もとにはない>というありかたにおいてである。
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うーん……これは、まさにシンクロニシティというヤツではないでしょうか……もうちょっと、引用を続けてみましょう。

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ここにふくまれているのは、だが、使用できないものがただそこにある、ということである ー つまり、使用できないものは、道具である事物としてじぶんを示すのであって、そうした道具は、これこれのように見え、その<手もとにあるありかた>においてそのように〔道具として〕見えながら、頑としてまた目のまえにありつづけていたのだ。
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もうこれ、この木彫り自販機そのもの……というか、ハイデガーさんが、この木彫り自販機を見て書いたとしか思えない……まあ実は、なんかの道具が壊れてて使えない……みたいな場合のことらしいのですが、この自販機を見せられると、やっぱりコレそのものになってしまいます。

なお、ここでよく出てくる「手もとにある」とか「手もとにない」とかの原語は「zuhanden」ツーハンデン、で、zuという前置詞(英語の to に相当)とHand(手)の合成語のようです。まあ、手ですぐつかんで使える……といったようなニュアンスで、ハイデガーにおいては、日常に使う器物や道具を表わすこともけっこう多いようです。

これに対して、「目のまえにある」という言葉は「vorhanden」フォアハンデン、で、vorという前置詞(英語のfor、foreに相当)とHandの 合成語。目の前にごろんと転がってるのが見えるけれど、「zuhanden」ツーハンデンのように、つかんで使えるというものでもない……というニュアンスでしょうか。

zuvorhanden
ドイツ語だと、哲学用語も英語みたいにラテン語やギリシア語から借用することが比較的少なくて、ごく普通の日常用語をそのまま哲学用語として使っているのが多いみたいですが、ハイデガーの場合は、それがとくに多いのかなという気がします。そこまでいろいろ読みこんでないので、当たってないかもしれませんが……

彼は、現象学の流れで(というか現象学そのものの立場で)、「日常」とか「生活」というものを特に重要視する。なんでも、日常から出発しないと「正解」にはたどりつけない。それはもう、信念みたいなもので、空虚な理論、空理空論をきらい、「目の前にあるもの」、「手もとにあるもの」から出発しようとする。

この傾向は、日常生活の器物や、ものつくりに使う道具から「存在」へ至ろうとする彼の姿勢にもよく表われていると思います。世界は、とにかく目の前にあるもの……抽象的な「世界」ではなく、とりあえず手で、触ろうと思えば触れるもの、さらには操作できるもの……そういう感覚なのかな?

ということで、もう少し引用してみましょう(358p~)。

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手もとにあるものの、こうした変様された出会われかたのうちで、手もとにあるものが有する<目のまえにあるありかた>が露呈される。
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「目のまえにあるありかた」(Vorhandenheit フォアハンデンハイト)……これは、いったいどういうことでしょうか? 私にとっては、この木彫りの自販機が、ごろんと目の前にある、その「ありかた」としか思えない。よく知っている自販機に似ているけれど、ちがう。使えない。ボトルも缶も、実物に似ているけれどちがう……「zuhanden」ツーハンデンにならない……

とすると、これは、いったい「どういうもの」として目の前にあるんだろうか……

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目立ってくること、押しつけるようなありかた、手に負えないことにおいて、手もとにあるものは、ある種の様式でじぶんの<手もとにあるありかた>を失ってゆく。
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フツーの自販機に対して、「押しつけるようなありかた」(Aufdringlichkeit アウフドリンクリヒカイト)と思う人は、あんまり多くないと思います。自販機の出現当初はそんな感じもありましたが、近頃ではもう、すっかり街の風景の一部にとけこんでいて、だれも自販機で飲物を買うときに、「おお、これは、なんと、自販機という、お金を入れると飲物が出てくる機械ではないか!」と自問自答しながら買う人はいない。自然にお金を入れて、フツーにボタンを押して、なにごともなく買って、それで終わり。

だけど、この木彫りの自販機は……どっか違う。変。買えない……そんな「不必要な思惟」をめぐらせなければならないようにできてます。「目立つ」とか「押しつける」とかいう感覚は、そんなところを言ってるのか……英語で、機械や道具が不調のときに、「アウト・オブ・オーダー」という言い方をすることがありますが、そんな感じなのか……とすれば、この木彫り自販機は、全身アウト・オブ・オーダーのカタマリ。オーダーになってるところがなに一つない。

「ある種の様式でじぶんの<手もとにあるありかた>を失ってゆく。」という文章は、そういうニュアンスかな?「ある種の様式」(im gewisser Weise イム・ゲヴィッサー・ヴァイゼ)というのは、つまりは「オーダー」のことなのでしょう。その道具や機械がきちんと嵌りこんでいるべき「オーダー」……それを、失っていく……つまり、「手もとにあるもの」から、「手もとにないもの」へと変容していく……

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手もとにあるありかたは単純に消失するのではない。利用できないものが目立ってくるときに、いわばじぶんに別れを告げている。手もとにあるありかたはもう一度じぶんを示し、まさにその告別において、手もとにあるものが世界に適合していることが示されるのである。
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冒頭で紹介したサイトの中に、こんなことを書いている人がいました。
「ICカードリーダーがあったので、試しにかざしてみましたが、PASMOは反応しませんでした。Suica専用かもしれません。……とか、しれっと言ってみる。」
うーん、まさにこの感覚……上の、ハイデガーの言葉を具体的に説明しているとしか思えない。

カードリーダーをかざす人は、当然、そんなことをやっても「買えない」のは知ってるのにそうする。それだけでも足りずに、「PASMOがダメだからSuica専用かも」とか「しれっと」言ってみるわけで……まさに、「手もとにあるありかた」が単純に消失しているのではない、その感覚ズバリです。ハイデガーさん、さすがによく見てますなあ……以下の引用は、少しとんで364p~。

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世界が手もとにあるものから「成立している」のではないことは、とりわけ以下の点において示される。つまり右のように解釈された配慮的な気づかいの様態のうちで世界が閃くこととともに、手もとにあるものの非世界化がおこり、その結果、<たんに目のまえにあるもの>が、<手もとにあるもの>にそくして、おもてにあらわれるということである。
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世界は、手もとにあるものから「成立している」のではない……つまり、まっとうな自販機だけで世界は成立しているのではなく、こんなふしぎな「使えない自販機」もちゃんと世界の中に入っている……そこで「世界が閃く」(Aufleuchten der Welt アウフロイヒテン デア ヴェルト)。そして、手もとにあるものの「非世界化」(Entveltlichung エントヴェルトリフング)……

これまで、ある種の秩序の中で、<手もとにあるもの>だったもの……しかし、この木彫りの自販機! ここには、まさに、<手もとにあるもの>、つまり、自販機のように見える、その見え方にそくして、なにかふしぎな、わけのわからない<たんに目のまえにあるもの>が出てきてしまっている……ということは、普通の自販機も、こういう見方をすれば、そこに、ごろんとした<たんに目のまえにあるもの>が出てくるのだろうか……

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「周囲世界」を日常的に配慮的に気づかうことにあって、手もとにある道具がその「自体的存在 An-sich-sein」において出会われうるためには、目くばりがそのうちに「没入している」さまざまな指示と指示全体性が、この目くばりにとって ー まして、目くばりをすることのない「主題的な」把捉に対しては ー 非主題的なものにとどまっていなければならない。
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指示と指示全体性……ここでは、自販機を使う場合に、1、まず金を入れる。 2、次に、欲しい飲物のボタンを押す。 3、受け取り口にごろんと出てきた飲物を、つかみ出す……といった一連の操作、一種のマニュアルを言ってるんじゃないかと思います。「目くばり」は、普通はこういう一連の操作の中に没入して、いちいちそれを意識することがない……

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世界がじぶんを告げないことが、手もとにあるものが目立たないありかたから踏みださないのを可能とする条件である。さらに、この目立たないありかたのうちで、手もとにある存在者の自体的存在が有する現象的構造が構成されるのである。
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なるほど……ということは、「世界がじぶんを告げる」ということがおこるためには、手もとにあるものが、「目立たないありかたから踏みだす」ことが必要になるのか……まさに、この木彫り自販機そのものですね。この木彫り自販機は、「木彫りである」「使えない自販機」として、「目立たないありかたから踏みだす」道を選択した(というか、作者によってさせられた)……その結果として、「世界がじぶんを告げる」ということが、ここでおこってしまっているわけです……

ということは逆に、フツーの「使える自販機」においては、「目立たないありかた」のうちで、「手もとにある存在者の自体的存在が有する現象的構造が構成され」ている。まあようするに、そういうものを「自体的存在が有する現象的構造」と呼んでいる……この箇所は、さらに次のように説明されます。

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目立たないこと、押しつけてはこないこと、手に負えなくはないこと、といった欠如的な表現は、さしあたり手もとにあるものの存在が有する、積極的な現象的性格を意味している。これらの「ない」が意味するのは、手もとにあるものが控え目にじぶんを持しているという性格であって、このことこそが、私たちが自体的存在というときに注目しているものである。
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なるほど……フツーの「使える自販機」は、「控え目にじぶんを持している」のか……ここから、論は、私たちが日常的に、「アタマで考えて」やってしまう誤りの指摘に入っていきます。

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私たちは、にもかかわらず特徴的なことに、主題的に確認されうる「さしあたり」目のまえにあるものに、この自体的存在を帰属させてしまうのだ。
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「自体的存在 An-sich-sein」とは、それが、自分自身としてそのままにあるありかた……みたいなものだと思いますが、先に「控え目にじぶんを持している」と訳されていた箇所の原語は、「Ansichhalten アンジッヒハルテン」で、元の言葉の感覚からいうと、「自分自身である存在」(アンジッヒザイン)が「自分自身を保っている」(アンジッヒハルテン)ということなのでしょうか……どうも、このあたりから、なにやらハイデガーさんお得意の「言葉の魔術」に巻きこまれていくような予感がするのですが……

「主題的に確認されうる」のところは、原文では「als dem thematisch Feststellbaren」と書いてあります。つまり、これはナニ、これはナニ……と確認できるということでしょうか……これは自販機、これはゴミ箱……みたいな。そうすると、この文章は、私たちはほぼ無意識に、目の前の「これはナニ」と確認できるものが、「自体的存在」、つまりアンジッヒザインであると思いこんでしまう、それがわれわれの認識の特徴なのだと……

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目のまえにあるものに第一次的に、ひたすら方向づけられている場合には、「自体的なもの」は存在論的にはまったく解明されえない。だが、「自体的なもの」について語ることが存在論的に重要ななにごとかであるべきならば、なんらかの解釈が要求されるはずである。ひとはたいてい、存在のこの自体的なものを、存在的に強調するしかたで引きあいに出す。そしてこのことは、現象的には正しいのである。とはいえ、このように存在的に引きあいにだすことでは、そのように引きあいにだすことで与えられている、存在論的な言明の要求がすでに充たされているわけではない。
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ちょっと長いですが、「存在的」と「存在論的」の区別がここで出てきているので、一挙に引用しました。原語では、ontisch(オンティッシュ・存在的)と ontologisch(オントローギッシュ・存在論的)で、この区別は、ハイデガーにおいてはきわめて重要なもののようです。

私の理解では、単に在ること、がオンティッシュ(存在的)で、在ることについて意識する態度がオントローギッシュかな……と思うのですが……言葉の構造としては、ギリシア語の「on」(存在 Sein)がそのまま形容詞化されたのが「ontisch」で、「on」+「logos」(論)が形容詞化されたのが「ontologisch」ということになると思います。

たとえば、毎日の労働で、「つ、つれーえなー」とか「給料安いよ~」とか思うのが「ontisch」で、「オレはなんのためにこんなに働いているんだろう?」という思いがつのっていくと、最後に「人間って、なんだろう?」という、自分自身の存在を問いかけるようなモードになるのが「ontologisch」?

木彫りの自販機の例でいうと、「スゲー」とか、「なんだこりゃ?」とか思うのが「ontisch」で、「うーむ……これを見ていると、自販機って、今まで自販機だとばっかり思ってたけど、ホントはいったいなんなんだろう?」というモードに入っていくのが「ontologisch」?

「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」とホンキで思うなら、それは「ontisch」なんですが、その全体を「しらっと言ってみる」と突き放すモードはすでに「ontologisch」領域に……ということですが、ここでおもしろいのは、こう言ってる人自身、すでに「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」という自分の言葉をまるっと「信じてない」ということ。

つまり、地で「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」と思ってるわけではなく、すでに、はじめからこの自分の言葉に対して批判的な位置に立っている。かなり複雑にいうなら、「PASMOがダメだったからSuica専用かな?という思いが浮かんだとしても、それはもとよりウソの思いであって、自分はすでに、当然のように、そういう思いがホントではないと思える位置におるのだ!」という感覚が、「しれっと言ってみる」という言葉に表われている……

山本麻璃絵さんの木彫りの自販機は、人の思いを、すでに最初から、「ontisch」モードを離れて「ontologisch」モードに呼びだすような力を持っている……これが、<アートの力>なのか……

ハイデガーさんが、この木彫り自販機を見たら、なんと思うでしょうか……「おお!ワシが一生かけて言いたかったことが、ここに、しれっと表現されちゃってるじゃん!……スゲー!!……負けたゼ……orz」とか……

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これまでの分析によってすでにあきらかとなったように、世界内部的存在者の自体的存在は、世界現象にもとづいてのみ、存在論的につかみうるものとなるのである。
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しかし、ハイデガーさんの関心は、やっぱり「ここにある」木彫りの自販機を超えて、「世界」へと向かうのでした。この世界の中に在る、在るがままの存りかた……それは、世界現象(Weltphänomens)を基底(Grunde)としたところからしかとらえられないのだ……と。

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世界とはしたがって、存在者としての現存在が、「そのうちで」そのつどすでに存在していた或るものなのであり、現存在がなにかのしかたでわざわざ出かけていくにしても、つねにただ<そこへ>もどってくるしかない或るものなのである。
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ここで「現存在」(Dasein ダーザイン)と言われているのは、「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」ということを「しれっと」言える存在、すなわち「人間」のことで、彼の有名な言葉である「世界内存在」In – der – Welt – sein という考えかたが、ここにも現われてきます。

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世界内存在とは、これまでの解釈によれば、道具全体の<手もとにあるありかた>を構成する、さまざまな指示のうちに、非主題的に、目くばりをしながら没入していることにほかならない。
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ここで、「非主題的に、目くばりをしながら没入していること」と訳されている部分は、原文では「unthematische, umsichtige Aufgehen」となっています。

「umsichtig ウムジヒティヒ」という形容詞は、辞書を引いてみると、「慎重に」、とか「思慮のある」という訳になっていますが、この言葉の元である「umsehen ウムゼーエン」という動詞は、接頭辞「um」(周囲)+「sehen」(見る)で、「見回す」とか「展望する」という意味もあるようなので、この「um」の意をとって「目くばり」と訳されたのでしょう。

実は、この箇所の少し前に、「Umwelt ウムヴェルト」という言葉が出てきて、これは「周囲世界」とか「環境世界」とか訳されるようですが、この言葉との関連も、ハイデガーの中では意識されているのかなとも思います。

また「Aufgehen」は、動詞「aufgehen」が名詞化されたものだと思いますが、動詞の aufgehen の一般的な意味は、「上がる」とか「昇る」ですけれど、in etwas aufgehen で、なにか(etwas 3格)に「没入する」という意味になる。ここでは、後に「道具全体の<手もとにあるありかた>を構成する、さまざまな指示のうちに」という文章があるので、その中に「没入する」という意味になる。

全体として、穴の中からアタマだけをちょっと出してあたりをキョロキョロ見回しているモグラみたいな姿が浮かんできます。「主題的になる」とモグラ叩きにあうので、「非主題的」になっているのでしょうか? ん……まさか……

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配慮的な気づかいは、世界との親しみにもとづいて、そのつどすでにそれがあるとおりに存在している。この親しみのなかで現存在は、世界内部的に出会われるもののうちでじぶんを喪失して、それに気をとられていることがあるのである。
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ここで、「配慮的な気づかい」と訳されている言葉は「Besorgen ベゾルゲン」で、これもハイデガーのキーワードの一つ。動詞の besorgen (恐れる、気づかう、配慮する)から来ているわけですが、語幹の「Sorge ゾルゲ」は英語の「sorrow」で、心配、不安、懸念、配慮、といった意味を持っています。

これについては、ネットで読める論文があります(リンク)。田邉正俊さんという方の『ハイデガーにおける気づかい(Sorge)をめぐる一考察』というのですが、簡潔ながら要領を得て、わかりやすい。なお、この田邉正俊さんという方は、立命館大学の先生のようです。

私のイメージでは、こどもの頃、夏の昼下がりに、それまでぎらぎら照っていた太陽が雲にさえぎられ、遠くからかすかに雷鳴が響いてくる……そんな状況に、この「Sorge」という言葉はぴったりです。あるいは、仕事で、失敗しないようにいろんなものに気を配って疲れはてる……そんな状況かな。

仕事をやっている最中は、まさに「世界内部的に出会われるもののうちでじぶんを喪失して、それに気をとられている」という状態なのでしょう。特に、わずかのミスが自分や他人を危険や損害にさらすような仕事だとなおさらだと思います。そういうときに、この木彫りの自販機の前を通ったとしても、たぶん振り返りもせずに通りすぎてしまう……

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現存在がそれと親しんでいるものとはなんであり、世界内部的なものの世界適合性が閃くことができるのはなぜだろうか。指示全体性 ー 目くばりがそのうちで「作動して」おり、そのありうべき破れが存在者の<目のまえにあるありかた>をおもて立てる、指示全体性 ー は、さらにどのように理解されるべきなのか。
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しかし、そんなぴりぴりした仕事も終わって、ほっとして家路につくときに、この自販機に出会ったら……「そのありうべき破れ」(mögliche Brüche)……

アート作品は、ハイデガーのように「全体的に考える」とか「思考を普遍性にまでもっていく」ということは、たぶんできない。しかし、「全体」とか「普遍」とかが登場するときに、人が知らずにつくろってしまうこの「破れ」を劇的に見せることはできる。ハイデガーのめざす思考というのは、おそらく、どこまで全体になっても、普遍をめざしたとしても、最初の「日常性」をけっして失わんぞ……と、それが軸になったものだったと思えます。

人は、思考の中で、鎖の環をつないでいく。そのはじまりは、必ず、今生きている「日常」や「生活」の中にあるのだけれど、鎖の環をつないでいくうちに、いつかそこを離れ、空中でそれをやってしまう……おそらく、ハイデガーさんは、そこで、人の思考は「存在」を離れる!と警告したかったんではないか……

存在……存在って、なんだろう……ヨーロッパの思考法では、それは元より「人間存在」なのかもしれない。しかし、ハイデガーは、たぶんそこのところに「イヤケ」がさしたんだろうと思います。彼の、ナチスへの接近は、そういうヨーロッパ的思考への反発の裏がえしだったのか……そこのところはわかりませんが、ここはたぶん重要な問題ではないかと、そう思います。

先に、「1700万円のアイスクリーム」という記事(リンク)で、最愛の奥さんをテロで殺されたフランス人男性の文章を掲げましたが、ああいう「無前提のヒューマニズム」って、どうなんでしょうか……あの文章を読むと、なんか無性に腹が立ってくるのは私だけじゃないと思うのですが……

ハイデガー氏が最後に到達しようとした「存在」。これって、なんでしょうか……人間が、存在の呼び声に召還される……9.11や3.11を境に?そういう時代が、もうすでに始まっているような気がします。

交換価値のある世界/The exchangeability

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この項は、『1700万円のアイスクリーム』(リンク)の続き(リンク)の続きです。

ライプニッツのモナドは、『窓を持たない。』これは、本来モナドというものは、他者との交流が存在しない存在であるということ……こういうふうにしか解釈できません。しかし、現実のこの世界では、われわれは、いろんなモノ、いろんなヒトと「交流」しつつ生きています。これはいったい、どういうことなんだろうか……

私が、私であること、だれかがだれかであること、そしてなにかがなにかであること……「モナド」は、この「一性」を保証するものであって、「……であること」そのものだと思います。しかし、これと「他との交流」は、根本的に矛盾する。私の中に「他者」が入ってきた場合、つまり、モナドに「そこを通じてなにかが出入りする窓があった場合」……

私の「一性」は崩れ、私は、私なのか、それとも流入してきた「他者」なのか、わからなくなる……するとこの世界は、すべてが混沌として、今みられるような、私が私であること、だれかがだれかであること、そして、なにかがなにかであること……そのすべてが混交して、完全なカオスだけがある「全体=一者」とならざるをえない。

アイスクリームが1700万円であること、あるいは300円であること……今の私たちにとっては、その差、つまり1699万9700円は、まことに大きな開きに見えますが、もしモナドに「窓」があったとしたら、1700万円も300円も、どっちでも一緒にになってしまう。すなわち、アイスクリーム一個が1700万円で流通する市場も、300円で流通する市場も同じ……

ということは、「市場」そのものが成立しないことになる……なにを極論を言ってるの?と思われるかもしれませんが、ある一定の「市場」が成立するためには、「私」という「一性」、これを、人間(のモナド)一人一人が具えている必然性がある。そうしないと、アイスクリーム一個のお値段が「市場」で決まることはないでしょう。

私は、以前は、こういう社会経済の問題が苦手で、個としての自分は、いったいなんだろうか……ということにばかり関心が向かっていました。個としての自分の謎……それにくらべれば、社会や経済の問題など、とるにたらないのではないか……ダレが貧しかろうが、ダレが儲けておろうが、そんなことは人間の「我欲」の問題で、「真理」からすればとりあげるに値しない……

しかし、このライプニッツのモナド論に含まれる根源的な矛盾、すなわち、「個であるモナドが、他と交流できるのはなぜか?」という疑問につきあたってからは、もしかしたら、社会経済的な問題というのは、根源的に、「個である自分と他者」の関連に帰着するのではないか……と思うようになってきた。そうすると、ここのところはけっして無視なんかできない大問題だ……

動物はどうなんだろうか……猫なんかを見ていると、もしかしたら人間ほど「自分」と「他者」の区別はないんじゃなかろうか……とも思えてくる。猫になったことがないのでわかりませんが、人間が猫を見ていて、一匹一匹の猫が「分かれて」見えるほどには、猫にとって、自分という猫と他の猫、さらにいうなら、自分をとりまく環境全体は、分かれては認識されていないのでは……

私は、この問題と、「人間だけが市場をつくる」という問題が、どうも不可分のように思えてきました。猫は、交換経済を知らない。他の猫となにかを交換することによって、自分の暮らしを成立させていくということをやりません。しかし、人間はやる。なぜだろう……人間の社会では、どんな世界のすみずみまでも、「交換経済」が行われ、さまざまな「市場」ができあがっていく……

「原始」とか「未開」とかの社会はしりませんが、必ずそれは生まれてくるのではないだろうか……そして、その「市場」がいったん生まれてしまえば、それは、「為替」というマジックによって、一瞬にして「世界全体」に開かれてしまう……これが、今の世界の根源的なありようのように思います。モナドの窓……これは今もないのでしょうが、あたかもあるかのように……

人間というのは、やっぱりふしぎな存在だと思います。猫が「交換経済」を編み出して、世界中の猫と、「市場」を介してつながっていく……こんなことは、考えることも難しい。しかし、たとえば一匹の「蚊」はどうなんだろう……と考えると、これは、なぜか猫より難しいように思えます。「蚊の交換経済」……もし、そういうものがありえるとしたら……

蚊の世界の「貨幣」は、動物の「生き血」になるんだろうか……ドラキュラみたいな「血を吸ういきもの」の世界では、貨幣が「生き血」になることは十分に考えられます。最近公開された映画で『ジュピター』(原題は『ジュピターアセンディング』)というのがありましたが、あの中では、「人間」を収穫して、「命の水」を搾り取り……その「命の水」を貨幣として取引していた……

しかし、蚊を見ていると、「生き血」を貨幣として「市場」を成立させているようには見えないし、猫を見ていても、マタタビを貨幣としているようにも見えません。なにかを「貨幣」として、交換経済を行って「市場」を成立させているのは、おそらくこの地球では、人間だけなんでしょう。とすると、「ヒトのモナド」は、他の存在のモナドと、なにかがちがっているのか……

身体性ということに着目するなら、猫や蚊は、その身体性において、「他者との交流」を行っているように見える。この点は、ヒトもまったく一緒で、なにかを食べて「同化」し、また「異化」して排泄する……呼吸もそうだし、なにか精神的なものさえそのように見えてきます。脳のシナプスは、外界の刺激を受けて組み立てられ、組み直されていく……

しかし、人間の場合には、やっぱりそこに「市場経済」というのが必ず介入する。自給自足という概念があって、最近ちょっとはやりですが……これは、端的にいうなら「市場の否定」であって、これを究極的に実践するということは、「意識してモナドの窓を閉じる」ということになると思います。というか、モナドにはもともと「窓」はないから、「モナドに窓がないということを、どこまでも意識する」ということにほかならない……

日本の江戸期の「鎖国」政策を考えてみますと、あそこでは、日本という島国の中では、「ほぼ自給自足」が成立していた。しかし、日本の中ではやっぱり「市場」が形成されて、いろんな取引がありました。そういう意味では、あれは根源的な「自給自足」とはいえない。じゃあ、ホントの自給自足ってなんだろう……と考えてみると、これは、とても難しいんじゃないかと。

あるTV番組で、瀬戸内の島を買って「自給自足」をやってる人(タレントさん)を紹介していました。でも、太陽電池パネルは反則ですね。工業製品だし……そのほかにも、いろいろ工業製品を使っている。だいたい、島に渡る船だって、だれかが造ったものを買っているわけだし……「市場」の網からは逃れていない。

そもそも「自給自足」をやろうと思った時点で、これは「市場」を意識しているから「負け」だと思います。それより、もしかしたらホームレス生活の方が「自給自足」に近いんじゃないかなあ……やったことがないからわかりませんが、人間がつくりだす「市場」から外れる、外れない……は、もしかしたら、「意識」の問題なのかもしれません。

人のモナドは、なぜか、「他者との交流」に「市場をつくる」道を選択する。これは、おそらく世界のどこでもそうで、この「市場をつくる」という働きが、もしかしたら「人間であること」そのものなのかもしれない……もし、世界に、自分という人間ひとりしかいなかったら、当然「市場」をつくることはできない。要するに、自分以外の他者には、そういう「ヘンなこと」をするヤツがいないから……

では、自分と、もう一人の人間「他者」がいた場合はどうなのか……自然から「取って」きたものを、互いに「交換」するということはありえるでしょう。でも、それを「市場」といえるのか……といえば、ちょっとムリがあるような気がします。まあ、「相場」をつくろうと思えばつくれないことはないのでしょうが、でも、二人だけの「相場」は、はたして「相場」といえるんだろうか……

じゃあ、3人では? 4人では? ということになるんですが、こういう設定もあんまり意味がないのかもしれません。要は、人間と、他のいきものは、いったいどこがどう違うんだろう……ということで、そこは、もしかしたら「普遍」意識がからむのかもしれないと思います。つまり、自分と自分に接するまわりだけで世界が成立しているのではない……という意識なのかな?

これは、もしかしたら想像力なのかもしれませんが……目の前で、リンゴが樹から落ちる……いや、私はまだ、リンゴが樹から落ちる光景を見たことがないから、棚からボタモチが落ちる……とでもしましょう。うちの棚からボタモチが落ちれば、当然、よその家の棚からもボタモチが落ちるだろう……これは想像力ですが、自分とこだけじゃなくてよそも……というのが「普遍」意識の萌芽かも。

「市場」は、この「普遍」意識と密接に関連すると思います。一つの市場で、AさんがBさんにCという品物を100円で売ったとしたら、Aさんは、Dさんにも同じ品物を100円で売らなければならない。これが普遍的な交換価値であって、人によって200円になったり50円になったりするんでは「市場」は成立しない。やっぱり、これを担保するのは「普遍」意識なのでしょう。

ところが、この品物を別の市場に持っていったら、10円になった……あるいは1000円になった……こういうことは、よくあることだと思います。市場は閉じていて、その中だけで「普遍」が成立する。そして、市場には、モナドと違って「窓」があって、それは「おカネ」自体の交換価値を決定する為替の働き……ここらへんになるとよくわかりませんが、たぶんそういうことでしょう。

では、人間以外の動物に、なぜ「市場」がないのか……といえば、それは、やはり、彼らには、「普遍」意識がないからなのでしょう。「普遍」意識はとてもふしぎなもので、本当に存在するのは今、ここにあるモノだけなのに、想像力で「世界」とか「歴史」とかを編み出してしまいます。そして、いったん編み出された「世界」や「歴史」は、あたかも「今、ここ」の「上に」君臨するかのように意識される。

ライプニッツは、「モナドの支配」ということを言っています。これを私の理解で言うと、たとえば、私自身もモナドだけれど、私の身体をつくっている60兆の細胞の一つ一つもモナドである。しかし、私という一つのモナドが「歩くぞ!」と思えば、その60兆のモナドすべてが「私が歩く」に奉仕する。このとき、私という一つのモナドは、60兆のモナドを支配している……

単純な解釈かもしれませんが、そんなように思います。まあ、実際には、一つの細胞を構成しているいろんな要素も一つ一つがモナドだから、60兆のモナドの支配だけで終わるわけはなく、さらにその何兆倍、何十兆倍のモナドを支配する……生命は、みな、こういうふうに、一定期間他のモナドを支配する体勢を与えられているから、まとまった「個体」に見えるし、「個体」としてふるまう。

しかし、通常は、私というモナドに、全身の細胞60兆のモナドを支配しているぞ!という意識はありません。これは私だけじゃなくておそらくどの人もそうだし、どんな生き物でもそうでしょう。まあ「食べる」という行為自体、「他のモナド」を自分に組み込んで「支配するぞ」という宣言になっているわけだし……でも、そのことは意識せず、「うまい、うまい!」と言って食べてます。

しかし、人間が、「普遍」を意識したとき……少し様相は変わると思います。人の目は、人の心は、眼前の「生の現実」から離れて漂いはじめ、「今、ここ」にはない世界へと心が開かれていく……これは、もしかしたら「モナドの窓」が開いたのか……なんて思うんですが、たぶんそういうことはない。なぜなら、モナドに窓はないから……にもかかわらず、ないはずの窓が開く。これはふしぎなことだ……

人が「市場」をつくりだしてしまうのは、もしかしたら、ないはずのモナドの窓が「普遍」意識によって開いてしまったとき、それでもなお「統覚」を保持するために「普遍意識」自体を囲い込みに出る……その働きによるのかもしれないと思います。わかりませんが、「市場」の囲い込む性質を考えてみるとき、なぜかそういう気持ちになる。檻から放たれた獣の不安……

とりあえず、今私に考えられるのはここまでなのですが、この問題は、人の「個」であることと「社会的存在」であることをつなぐねじれた糸のようなもの……吉本隆明さんの言うように、「個である私」と「社会」は常に倒立関係にあるものだとすれば、それはやはり、モナドの持っている根源的性質であり、畢竟、それは、モナドの「一性」に還元できるものなのかもしれません。

関連記事:<金の環>、<愛知トリエンナーレを見る・その3

1700万円のアイスクリーム(続き)/This ice cream costs 170 thousand dollars.(continuation)

イスラムコロール
この間の夢(リンク)がずっと尾を引いています。パリの大評判のお店で注文したアイスクリームが1700万円。そんなアホな……ということで、夢だから……と片づけられればいいんですが、ホントは、実は、それくらいのお値段ではないか……

いや、もしかしたらそれ以上かもしれません。ものの値段の付け方って、きわめていいかげんだと思います。今の値段の付け方は、市場価値というか、求める人がどれだけいて、いくらなら出してもいいと思っているか……そこで決まってくるような。

だから、いくらパリでも、アイスクリーム一皿が1700万円ということはありえない。もしそんな値段を付けたらだれも買わない。宝石や芸術作品なんかは、カンタンにその値段を越えるものもありますが、それは、それくらい高価でも買う人がいるから。

しかし、「市場で決まってくる値段」というのには、実は、その「市場自体が成立するための価格」というのは含まれていないわけです。その市場が成立して、それを前提にして、そこで、需要と供給が決まってくる。そういうことだと思います。

では、いったいなにが、その「市場」を維持するのだろうか……といえば、それは、端的に「力」なんでしょう。たとえば、パリの街で、アイスクリーム一皿が日本円に換算して、300円くらいで食べられたとします。

しかし、その「アイスクリーム一皿300円@パリ」を成立させているのは、フランス軍がシリアに向けて繰り出した、あの「シャルル・ドゴール」というごたいそうな名前を持つ空母なんかに象徴される「力」、もっといえば「暴力」にほかならない。

これは、日本でも一緒で、日本は「軍隊を持たない」とか言ってるけれど、「自衛隊」という立派な軍隊があるし、沖縄をいぢめぬいて米軍という世界最強の「暴力」も駐留させている。その「力」の背景で「市場」が成り立ち……

日本でも、アイスクリームが一皿300円で食べられる……しかし、では、その「しわ寄せ」はどこへ向かうのかというと、世界の多くの「力を持たない人たち」、もっと言えば「力によって支えられている市場を持たない人たち」なのでしょう。

ここを考えてみた場合、パリや日本でアイスクリームが300円といっても、それを成立させている「市場」を支える「力」を加味した場合、この「お値段」は劇的に変化すると思うのです。まあ、陳腐な言葉を使えば「搾取」ということになりますが……

わかりやすく言えば、世界中の人たちに、パリの人がもらっているのと同じ「賃金」を払った場合、どうなるか……「文明国」の市場を支えるためのコストは、一気に膨大なものにふくれあがるでしょう。まあ、「搾取分」を全部払うということです。

「文明国」の、今の市場を支えるために、世界中でどれほど多くの人々が抑圧され、犠牲となっているのだろうか……そこを考えてみた場合、フランス人がテロを行う人たちを「無知」とはけっしていえない。「無知」は自分たちじゃないの? ちょっと考えればわかるのに……

あるいは、米国の同時多発テロで殺された人たちのことを「罪のない人々」ともけっして言えないことはすぐわかる。「力」は、それを持っている側の人たちにとっては「透明」になる傾向があるから、そのことはケロッと忘れてしまうのですが……

実は、「罪のない人々」がモノを売り買いしている「市場」が、「暴力という力」によって支えられている。この力に抑圧されている側の人たちには、これはもう「生存の危機」だからきわめてよく見える……というか、日々壁のような実体として迫ってきます。

これは、ダレが考えても不公平きわまる世界なんですが……さらにもっというなら、「人間の市場」を成立させるために「人間以外の存在」が常にこうむっている強烈な圧迫があるはずです。みずからは力を持たないと思っている人も、人であることによって、この「力」を行使する。

ここのところを考えてみると、「モノの値段」というのはさらに、驚くべき天文学的数字に達するはずです。私は、ここのところを明確にするために、「モノの値段」の一つの根源的算出方法を提案してみたいと思うのですが……

たとえば、パリの街で、アイスクリーム一皿を日本円換算で300円で売ってたとします。じゃあ、この一皿のアイスクリームを客の前に出せる形にするために、どれだけの「存在」が改変をこうむってしまっているか……

それを考えるには、その「一皿のアイスクリーム」が存在しなかった状態にまで「全自然」を戻すために、いったい「いくらかかるか?」それを考えてみればいいと思うのです。その全行程をお金に換算して、それを積算した額が……

実は、この「一皿のアイスクリーム」の本当のお値段である……そう考えてみればいいのではないでしょうか……たとえば、原材料の牛乳をつくるために牛を飼うとしたら、そのスペースがいる。牛舍という形に改変された「自然」を元に戻すためには、いったいいくらかかるか……

あるいは、アイスクリームを冷やす行程でかかっている電気。その電気を供給する発電所を解体して、敷地全体を「元どおりの自然」に戻すためには、いったいいくらかかるのか……もし、発電所が原発だったら、これはタイヘンなことです。

その原子炉の中に溜まった放射性物質を、全部元の状態に戻さなければならない……これは、今、そういう技術はないので、その技術の開発からはじめねばなりません。いったいいくらかかることやら……これはもう「無量大数」というしかない。

牛乳やアイスクリームを輸送するためにトラックを使ったとしたら、燃料の石油を、元あった地面の中に正確に埋め戻すまでやらねばなりません。また、トラックの通った道も、すべて「元の自然」に戻さなければならない……いくらかかるか……

こういうふうに考えていくと、「全存在の負担」をすべて取り除いて、人間の手が入る前の状態にまで戻すには……もうこれは、天文学的という言葉もちっちゃくなるくらい膨大な「お金」がかかる。そういうことを、人は、自然に対してやっている。

「一皿のアイスクリーム」の値段を、「全自然」を背景にして算出しようとすると、そういうことになる。もうこれは、とうてい1700万円とかの「ハシタ金」ですむ話ではないのです。オソロシイ……そこまでして、「パリのアイスクリーム」を食べたいのかなあ……

コロールイスラムのコピー
<補足>
この話で、もしかしたら、「動物だって、昆虫だって、自分のためにまわりを改変するじゃないの?なんで人間だけ、改変したらあかんの?」という疑問をお持ちの方もおられるかもしれません。しかし……動物も昆虫も、「市場」はつくりません。

「市場」というヘンなものをつくって、「お金」でモノを売り買いするのは人間だけ。「人間」の定義には、「言葉を持つ動物」とか、「社会的動物」とか、いろんなものがあるようですが、私はここに、「市場をつくる動物」というのを加えたらどうかと思います。

「市場」というのは、考えてみたらふしぎなものですね。「お金」は人類の「共通言語」で、「為替」の働きによって、世界中をくまなく「一つの価値感」で結びつける。しかし「市場」は、あるグループを形成して、閉鎖する働きをする。

「お金」という、どこまでも開放し連鎖させていく機能と、「市場」という閉鎖し、囲いこんでいく機能が両輪となって、この「人間の世界」は形成されている。むろん、人間の世界にも、この両者にカンケイしない部分はあるが……

いわゆる「カネで買えないモノ」というヤツでしょうが、これについては、実は、人間は、他の動物や存在となんら変わらないんだと思います。いくら高尚ぶっても、それは、人間という種の一つの特性であって、花が咲き、実がなることと本質的に変わらない。

結局、人間が、他の生物とまったく違うのは、この「市場をつくる」という働きではないだろうか……これは「限られた普遍」というまことにやっかいなモノを生み出します。「普遍」であればすなわち「無限定」になるはずなのに……

この「市場」は、「普遍」の顔を装いながら、見事に限定的で排他的である……これは、人間という種のつくりだした、もっとも欺瞞的な「発明」ではないか……そう思います。すると、残る問題は、この「市場」は、人間において本質的なものなのか……

それとも、人間という種は、なにか他のシステムを選ぶ可能性も残っているんでしょうか。TPPの問題なんかも、実はここのところが本質にあるような気がします。もし、別のシステムを選べる能力があるのなら……それは、どんなものになるのでしょうか?

今日のkooga:落ち穂拾い/Des glaneuses/The Gleaners

落ち穂拾い_900

すっかり稲刈りもすんだ田んぼで、カラスが落ち穂拾い……秋のわびしい風情がただよいます。ミレーの有名な『落ち穂拾い』は三人の女性でしたが、それが日本の山里では三匹のカラスになりますか。なるほど……

ミレーの『落ち穂拾い』は、描かれた当時(1857)、「社会主義絵画じゃないの?」と物議をかもしたそうです。当時は、フランス革命(1789)から半世紀以上がたって、ブルジョワ勢力の台頭の時代……

農村では、まだ農奴や小作農が中心で、大地主の畑を耕して、豊かになるのは地主だけで彼らは極貧生活……この絵の農場も大地主のもので、その収穫が終わったあとの畑で、小作農の婦人たちが落ち穂を拾う……

ミレーの落ち穂拾い_900

たしかに、そう考えて、見ると、ひどいなあ……と思います。彼方にはうずたかく積まれた収穫の山……そして、収穫を管理しているとおぼしき馬上の人物……小作農は、大地主のものとなる収穫のおこぼれを拾って生きる……

「これが農村の実態だ!」と告発する絵ととられてもおかしくはないのですが、ミレー自身には、そういった「社会主義的な」意識は薄かったとも言われています。彼が描きたかったのは、むしろ聖書の『ルツ記』の一シーン……

『ルツ記』では、夫を亡くしたルツが、義母の親戚の大農場主のボアズに「どうぞ、わたしに、刈る人たちのあとについて、束のあいだで、落ち穂を拾い集めさせてください」と頼むシーンがあります。これに対して……(以下引用)

『ボアズはルツに言った、「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。人々が刈りとっている畑に目をとめて、そのあとについて行きなさい。わたしは若者たちに命じて、あなたのじゃまをしないようにと、言っておいたではありませんか。あなたがかわく時には水がめのところへ行って、若者たちのくんだのを飲みなさい」。
彼女は、地に伏して拝し、彼に言った、「どうしてあなたは、わたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか」。
ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生まれた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」。
(中略)
そして彼女がまた穂を拾おうと立ちあがったとき、ボアズは若者たちに命じて言った、「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。とがめてはならない。また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」。
こうして彼女は夕暮まで畑で落ち穂を拾った。そして拾った穂を打つと、大麦は1エパほどあった。』

以上、『ルツ記』の2章7節~17節の引用(中略あり)でした。なお、ここで出てくる「1エパ」という単位は、カゴを現わすもので、「1カゴ」、現在の単位に直すと約23リットルだそうです。1合=1.8リットルで換算してみますと13合弱ということで、これはけっこうな量かもしれません。まあ、われわれはお米しか感覚的にわからないのですが、それでいうと、うちの消費量からすると約一ヶ月分になります。

この作品が描かれた当時は、フランスは飢饉でタイヘンだったそうですが、もしミレーが『ルツ記』に触発されてこの作品を描いたんだとしたら、彼の心には、大農場主を責める心はなかった……ということになります。むしろ、農場主の心得というか、そういうものを現わしているということになるのかも。畑の収穫は、きちんと刈り取る分は農場主の財産になるけれど、落ち穂は神に返す……そんな感覚かな。

これについて、おもしろいことが書いてあるサイト↓がありました。聖書の申命記に、次のような記載があるのだと……(以下引用:『申命記』24章19節)
『あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである』
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_109.html

なるほど……日本でも、たとえば、柿の実を収穫する場合に、全部取らずに枝に一つ残しておくという習慣があったとききます。その一つは、鳥のために……また、畑の野菜なんかでも、たとえば白菜を栽培するときに、端っこの一つだけを「これは虫にあげるよ」と心の中で思うと、虫はその白菜だけを食べて、他の白菜は無事……ということを聞いたこともある。私は畑をやらない(やれない)ので、真偽のほどはわかりませんが、そういうこともあるのかなと思います。

家の前の田んぼでカラスが落ち穂を拾っているのを見て、そんなことも思い出しました。まあ、ふつうの感覚だと、カラスや虫なんかに「全部取らずに残りものをあげる」というのは、ちょっと「美しい」感覚なんですが、聖書の場合には、外国人、孤児、寡婦がその対象となっている。これはどうなのか……もっとも、彼らは、その畑を耕していないということなので、もともと「収穫の権利」はないのだけれど、それでも「分け与えなさい」ということだから、それはいいのか……

しかし、ミレーの『落ち穂拾い』の場合には、実際に畑を耕している小作人の女房たちが落ち穂拾いをしている……それはないんじゃないの?ということで、これは社会主義だ!ということに……このあたり、ホントはどうだったのかわかりませんが、ミレー自身が聖書のインスピレーションでこの作品をつくったんだとしたら……もしかしたら、彼の思いは、社会主義とかなんとか、そんなものを貫いて、さらに広く大きなものの中にあったんじゃないかな……と、そんなふうにも思えてくる。

美術作品のテーマとして、虐げられたものへの同情……そして、虐げるものへの怒り……そんなものから、「イデオロギー」を描く作品に発展することもありますが、そういうものは、「美術作品」として見た場合、たいていうまくいっていない。要するに、テーマがなまなましすぎるといいますか、主体が「イデオロギー」の方にあって、作品が、その「イデオロギー」を表現するための単なる「手段」になりさがってしまっている……これは、ほぼ、いい結果にはならない。

とても微妙なところですが……ミレーの『落ち穂拾い』を見ると、やっぱりその陥穽には堕ちていない。きちんと、「作品」の方が主体になってる。もし、「イデオロギー」を叫びたいのなら、それは言葉で、文章で言えばいいのであって、なにも「美術作品」にする必要はないわけです。ミレーの作品は、作品が主体なので、やっぱりこういうかたちの作品として現わさないかぎり表現できないことを語っている。そして、それは、原則的に、言葉や文章にはなりません。だから絵で描く。

聖書の記載との関連は、そういう意味では微妙なところですが、やはりどう考えても、聖書の記載の方が、単なる「イデオロギー」よりは大きいような気はします。それは、いろいろなことを考えさせられる……聖書は、ある特定の地域と特定の時代に限定されて成立したものだから、必然的に、限定された時代と場所にしか通用しないものの考え方を背負ってるわけですが、書かれていることの中には、それを超えて、やっぱり一種の「普遍」に達していると思わせられるところも多い……

これは、なにも聖書に限らず、仏典でもそうだし、私はあんまり読んでませんがコーランでもそうなのでしょう。日本の場合でも『古事記』とか『万葉集』とか、いろいろ深く考えさせられる書は多い。要するに、人の心が、時代や場所の限定を抜けて、なにかもっと大きく広いものの中に移り住めるような……そんな、全体を抱擁してくれるような「手」を感じるとき、人は、広く「宗教的……」みたいなものの中に抱かれる。ジェームズの『宗教的経験の諸相』みたいなもんでしょうか……

今、世界では、いろんなことが起こって、いろんな地域で、もはやどうにもならないような問題が噴出していますが……そういうものって、どうやって解決したらいいのか、それはだれにもわからないものだけれど、ミレーの禁欲的な絵や、うちの前の田んぼで落ち穂を拾っているカラスをみていると、ものごとはなるようになって、結局は広く大きなものの中に、しかるべきかたちで整っていくのではないだろうか……そんな気がしてきます。まあ、エンベロープというのでしょうか……

お茶目新聞_05:佐村河内氏、芥川賞受賞

御茶目新聞_05_935

御茶目新聞_05 
2014年(平成26年)4月29日(火曜日) 
日本御茶目新聞社 名古屋市中区本丸1の1 The Otyame Times
今日のモットー ★売上目標 1人1冊!
 
佐村河内氏、芥川賞受賞
  話題作『マモルとタカシ』で
   売れゆきに拍車 史上初一億部突破?へ

一時は「現代のベートーヴェン」ともてはやされ、クラシックのCDとしては驚異的な売上を記録した「作曲家」佐村河内守氏も、実は新垣隆氏というゴーストライターがいることが発覚、評価が急転して「サギ師」、「ペテン師」としてマスコミで袋叩きとなったが、その後、小説家に転身し、自身と新垣氏をモデルとした長編、『マモルとタカシ』を発表。これが再び世間の耳目を集めてベストセラーに。さらに、売上だけではなく、文学的内容も高く評価され、ついに芥川賞を受賞することとなった。これで、売上もさらに加速されることが予想され、版元によれば「史上初の一億部突破も夢ではない」とのこと。
ただし、今回もまた「ゴーストライターがいるのでは?」との憶測が発売当初からとびかっている。芥川賞受賞の事実からも明らかなように、構成、ストーリー、文体のいずれをとってもハイレベルで洗練され、しかも斬新。文芸評論家の間では、「これだけの文章を書けるのは○○氏、いや△△さん……」と、すでに数名の「ゴーストライター」の名があがっている。これに対し、当の佐村河内氏は、「いや、今回はホントにボクが書きました……というか、文章が天から降りてくる……私はそれを書き留めただけ……ウソいつわりはございません」と語っている。ゴーストライターさがしも含めて、これでまたマスコミも国民も、当分の間、彼にふりまわされることになりそうだ。

ABくんの談話(いいコンビなのかも……)
コレ、うまくいったらノーベル文学賞かもね。賞をとったら官邸に呼んでハグしたげるんだけど……

新垣隆氏の談話(おちついて音楽に専念させてほしい……)
今回は共犯じゃないョ。

写真キャプション

佐村河内氏の話題作
マモルとタカシ
御茶目出版社 刊
USO800円(税込)
(えっ! 横書き?!)

本のオビのコピー
★オビ・表のコピー
重層するウソの奥に輝く真! 御茶目出版社
★オビ・背のコピー
芥川賞!
★オビ・裏のコピー
一人は看板、一人は中身……このコンビで永久にうまくいくはずだったのに……弄び、弄ばれたのはだれか?日本のクラシック界の大激震を、今、キーマンが物語る。

…………………………………………

今までの御茶目新聞の記事の中では、いちばんありえるかな?という気がします。ゴーストライターさえうまく選べば実現できそう……でも、一億部はさすがにムリでしょう……それと、「話題性」だけでは売上は伸びても「芥川賞」はむずかしい。核心の部分に、やっぱり「真実」が光っていないと……今回の騒動を分析してみるといろいろなことがわかってきますが、そこは、うまく書けば、この国の「音楽」というものの受け取り方から、さらに「19世紀」の意味まで、深く考えさせられる作品になるかもしれません。

今回の事件で私がいちばん注目したのは、なぜ新垣さんが、佐村河内氏の指示どおりに18年間も「音楽」を書きつづけてきたのか……ということ。「お金のため」だけでは絶対に続きそうにないし……きけば、新垣さんは、日本の現代音楽の分野ではトップクラスに入る方だという……ははあ、息抜きだったのか……と思いましたが、最近の報道をいろいろ聞いていると、やっぱりそうだったみたいですね。これ、現代音楽というものの特質を如実に現わしてしまった事件ではなかろうか……そんなふうに思えてきます。

現代音楽家って、実は、スゴイらしいんですね。ウィキに、新垣さんの発言として、「あれくらいだったら現代音楽家はみな書ける」とありましたが、実際そうだと思います。私が以前にFMで聞いた話では、現代音楽家のだれそれさん(名前は忘却)は、ピアノの右手で10拍打つ間に左手で11拍打つような曲をつくって、しかも、現代のピアニストはそれを平気で弾いちゃうと……もう、過去の音楽家や演奏家をはるかに凌ぐ技量を、今の現代音楽家はみんな持ってる……

だから、バッハ風とかモーツァルト風とかベートーヴェン風とか注文をつけられてもなんなくこなしてしまう。しかも、それが楽しい……現代音楽家は、調性というものを失なって久しい現代音楽の世界で、日々、一歩でも前に進もうと努力しているから……調性のある音楽を書くということは、やっぱりホッとする喜び……武満さんも、バリバリの現代音楽に混じって調性のある豊かで美しい曲を残していますが……今の現代作曲家は、もうそういうこともやりにくい地点にいる……

要するに、調性感の豊かな作品で勝負するということは、もうかなりできにくい状況が生まれていて、そういう曲は書きたくても書けない……外側からの制限というよりは、むしろ自分の内部からの制限がキツいのでしょう……だから、名前を隠して調性感豊かな音楽をたっぷり書ける……この佐村河内さんの提案は、新垣さんにとっては、とても楽しい息抜きの機会だったことは想像にかたくない……ということで、この「まずい関係」がずるずると18年も続いてしまった……

新垣さんが、会見で、「ボクも共犯者」と語った部分が、私にはいちばん印象に残りました。もし、彼が、佐村河内氏のために書いた自分の作品を「勝負作」と捉えていたら、絶対にこんな発言は出てこなかったでしょう。というか、「著作権を主張する」ということになったかも。しかし、あの作品は、彼自身も、密かに「調性のある音楽」を楽しむ場だった……やっぱり、「音楽そのもの」に対してうしろめたい気持ちはずっと持っておられたのではないか……

「共犯者」という発言は、そういう事情を如実に語っているものではないかと思います。彼が佐村河内氏に書いて渡した作品は、彼にとっては息抜きの、いわば「勝負の間のおアソビ」みたいなイメージだったのに、そういう作品が世間で話題になり、どんどん広がっていく……最初の頃は、たしかに、「世間に受けいれられる喜び」は大きかったんでしょう。しかし、度を越したフィーバーみたいになっていくと、これはさすがにまずいのではないかと……

要するに、ポイントは、「もう終わってしまった曲」を世間に出して、それに世間の人が「名曲だ!」という評価を与えてしまったこと……ここが、彼としてはいちばん気になったし、「罪をおかしている」という気持ちにさせられたところではないかと思います。そして、その罪は、世の人に対して……というよりも、実は、音楽そのものに対する罪……もう終わってしまった音楽を、今発表して、それが世に受け入れられる……これは、「音楽」で世を欺くことにほかならない……

つまり、彼は、やっぱり、「根っからの現代音楽家」なんだと思います。現代音楽に課せられた課題を認識し、その課題を、志を同じくする人々となんとかして、少しずつ砕き、積み上げ、少しでも「音楽」の世界を先に進ませたい……それが、彼の中核の希望であって、私は、それはとても純粋なものだと思う。世間に受け入れられ、世の人を楽しませたり感動させたり……むろん、それも大切だけれど、それは、本当の「今の音楽」によってなされなければ意味がない……

もうとっくに終わってしまった「過去の音楽」の集積によってそれがなされたとしても、それは「音楽」に対する裏切り行為でしかない……はじめは、密かな自分の楽しみとして、ちょっと脱線してもまあ許されるだろう……と思ってはじめたことが、佐村河内氏というキャラクターによってどんどん拡大され、自分は、音楽で音楽を裏切る行為をやってしまって、それがますますひどくなる……これは、純粋な気持ちの現代音楽家には到底耐えられないことだ……

ことの次第は、ほぼこういうことだったのではないか……だから、彼が「共犯者」というとき、その「罪」は、自分がいちばん大事にしなければならない「音楽の道」を汚した罪……そこには、やっぱり「音楽」の持つ現代性といいますか、最先端を行く人の「音楽」と、今の一般の人の楽しむ「音楽」の大きな乖離が現われているように思われる。そして、それは、もう少し大きく……西洋の「19世紀」というものの持つ意味と、さらに「普遍」の問題が、やっぱり絡んでくるように思われます。

したがって、この騒動は、より広い観点から見た場合、単なる「偽作事件」ではすまない、大きな現代的問題を孕んでいると見た方がいいように思います。と同時に、「イメージと本質」というさらに普遍的な問題にもつながっていく。ヨーロッパ中世にさかんだった「普遍論争」のことも思いおこされます。「普遍」が佐村河内氏という一人の人物によって「個」として「存在」してしまった……イメージは実体なのか、無なのか……はたまた、実体の方が無なんだろうか……

今はまだ話題としてホットですが……しばらくすると、こういうようなもう少し大きな観点からこの事件を分析する人がきっと出てくると思います。どんな論が出てくるのか……ちょっと楽しみです。

*本のイラストで、左開きの表紙にしてしまった……「えっ! 横書き?!」というコピーをつけてごまかしましたが、これはまことに恥ずかしいマチガイでした……

外国人お断り……レッズサポーターの根のカルマ/JAPANESE ONLY……The Root of Karma

日本人お断り_900

オソロシイ……外国人締出し……で、あの不気味な無観客試合……ホントにオソロシイことだと思います。だけど、カンタンには反省してほしくない(というか、100%しないだろうけど)……悪は、どこまでも、徹底的に悪であってほしい。懐柔されない悪……それは、ある意味、正直だと思います。

太平洋戦争のときもさんざんやりました。大東亜共栄圏って……ホントにそれが正しいと思ってるのなら、敗戦もゲンバクもなんのその、今でも言い続けるがいい……それができないんだったら、あのときも言わなきゃいい。そう、思います。コロコロ変節するのがいちばん良くない。しかも状況しだいで……

この問題、結局、「カルマの根」あるいは「根のカルマ」にかかわると思う。「カルマ」というと宗教的ですが、他にいい言い方がみつかりません。まあ、彼ら自身、「聖地」という言葉を使ってるんだから、もともとこの事件は宗教的……宗教のオソロシさと根本的に通じるところがある。一方向のみを見て、ダーッといく……

エルサレム奪還の十字軍みたいですね。自分たちとちょっとでも違うものは根絶せよ……ということで、ナチス的でもある。これ、宗教……というか、人の心の暗黒面だ……要するに、業、宿業……なにがどーやってもそーなってしまう……本人にも、もうどうしようもないゴリゴリに固着した傾向性……これは、どっからくるんだろう。

昔、朝日新聞を襲撃して、記者を射殺した右翼さんがいました。「話せばわかる」。この言葉の空しいこと……彼にとっては「銃弾」が唯一の「モノを言う言葉」だった。社説なんかで、最後に「ともかくみなでよく議論することが大切」……そんな書き方が多いけど、これってナンセンス。そらぞらしい……ウソくさい……

「普遍」は、なにも言葉や論理の側にだけあるのではないと思います。今回の「外国人お断り」事件でも、やった人は、なに言われても絶対に納得せんでしょう。というのは、彼の心の奥底に、絶対に解けない「カルマの根」があるから。彼にとっては、これが「絶対普遍」であって、もう論理とかのモンダイじゃない。

そういうものを「論理」で押しこめることはできない。いったんは押しこめられたように見えても、「根」が残っているかぎり、必ず別のところで噴出する……今の日本みたいに、国家のリーダーみずからがそういうものの噴出を許す(というかあおる)ようなムードを醸成している社会にあっては、カンタンに噴き出す。

国際的に「レイシズムはノー」。これは、一種の「普遍」だと思います。人類が、何世紀もの争いを経て掴むに至った「血みどろの普遍」。しかし、一方、「外国人お断り」の横断幕を掲げ、記者を射殺し、『アンネの日記』を破壊し、ヘイトスピーチをくりかえす……これは「普遍」じゃないのか……

難しいところですが、一方を「普遍」であり、他方を「矯正さるべき誤った傾向性」であるとしてしまいますと、それはなんの解決にもならない。カルマの根……こういう、オソロシイ凶暴性を噴出させる宿痾の、ガチガチに凝った真っ黒なカタマリ……そういうモノたちの「普遍」つまり「根っこ」はどこにあるのか……

それは、オソロシイことに、私たち一人一人の心の中にある……これはもう、否定のしようのない事実だ……そういう「曲(まが)事」を、自分は「普遍」の側に立って糾弾する……その、私は客観的に見ますよ……といういかにも超越者然とした態度……それが、銃弾を呼び、破壊と殺戮につながる……そうかもしれない……

なぜ、禍々しいものが、この世に存在できるのか……彼らは、それらが育つにふさわしい土壌(たとえば今の日本)を得ると、あれよあれよという間に急速にでかくなる……私は、戦前の日本を知りませんが、大東亜共栄圏みたいな風変わりな「思想」が、少なくとも「普遍」として歓迎されていた……その空気……

人の心は、今は「外国人お断り」を「普遍違反ですね」として糾弾するけれども、もう少し空気が変わればあっという間にそっちを「普遍」としておしいただき、ソレに反意をもとうものなら、「普遍の意志」として、反対する人々を抹殺する……コロッとそっちに変わる。「カルマの根」は再生して、自らを開花させる……

こういう「根」を断つことが、絶対に必要だと思います。で、それは、今の日本人が唱える「人種差別?よくないねえ」みたいな、あえて言うなら内容のない空疎な言葉ではできない。根に、届かない……レイシズムがダメなことは、みんなアタマではわかっていても、ちょっと心の奥に入られると……コワいことですが。

ホンモノの「フヘンの人」は違うかもしれません。しかし……私もそうですが、大多数の「フツーの人」は、そこまでいってない。それは大事だと思っていても、徹底できないので、社会の空気が変わればコロッと参ってしまう……今の日本、国のリーダー自身が盛んにあおっていることもあって、まさにその変わり目にいると思います。

「無観客試合」の決定は、やっぱり大きかった。けれど、それで「根」が断てたわけではない。横断幕を掲げた方々は、絶対納得していない(し、されてたまるか)。潜伏して、またチャンスを待つ……タチの悪いカルマの根ですが、もともとカルマの根というのはそこまでタチの悪いもの……ヤバいモンが、押えられてブスブスいってる……

これから先、日本は、どうなるんだろうか……根を断つどころか、それをあおって火事をどんどん大きくしていくような政治……結局、根が芽になり、伸びて育って大樹になって「悪の華」が満天に開き、「毒の実」がざくざく成る……あるいは、そうなる前に、別の「宿業」とぶつかって滅ぼされるのか……

出るものは全部出る。徹底的に……それが、もしかしたら唯一の「正解」かもしれません。オソロシイことですが……

グールドというピアニスト

地獄のゴールドベルク_900

グレン・グールドというピアニストについては、もういろんな人が書いているので、今さら私が書いてもはじまらないかもしれませんが……でも、やっぱり書きたい。ホントに「天才」というのは、たぶんこんな人のことを言うんでしょう……暗算少年とかパフォーマンス的にスゴイ人はいっぱいいるけど、人類の文化に、なんらかの「意味」のある足跡を残せないと、それは単なる「見せ物」になって、ホントの意味で「天才」というには値しないと思います。で、人類の文化に足跡を残す……って、なんだろうということなんですが、とりあえず、その人がおるとおらんでは、「人類の意味」自体が変わっちゃうんじゃないだろうか……と思えるくらいのスゴイ人……

このレベルのスゴさって、たとえば思想でいうならヘーゲルとかマルクスとかプラトンとか……ソレ級。絵描きで思い浮かぶのは、やっぱりピカソとかマルセル・デュシャンとか。音楽だとバッハ、ベートーヴェンはまずまちがいなくそう。で、グールドさんも、やっぱりソレクラスじゃないかと……演奏家であって、作曲家じゃないんですが(曲もつくっておられたみたいだけど)、とにかく、「対位法音楽」というものの真の姿を見せてくれた……でもそれだけじゃまだ「天才」とはいえないかも……ですが、もうちょっと構造的?な業績としては、やっぱり、「媒体を通して現象する音楽」というものに逆転的な価値を与えた人として、思想の分野で持つ影響も少なくないのでは……

彼以前は、レコードって、やっぱり補完的な位置付けだったと思うんですよね。実演がホンモノで、レコードは代用品。ホンモノを聴かないと音楽を聞いたことにならないんだけれど、そういう機会もなかなかないので、レコードを聞いてホンモノの演奏に心を馳せる……そういう感じだった。ところが、グールドさんの演奏には、「生演奏」というホンモノが、もともとない。スタジオレコーディングは聴衆を当然入れず、スタッフだけで行われるから、これは「演奏会での演奏」という意味でのホンモノではない。単に、レコードを作るための録音作業にすぎない?わけで……「ホントの演奏」は、レコードを買った人が、自宅のプレーヤーに針を落とす……そこではじまる?

コレ、それまでだれもが夢想だにしなかった革命的なできごとといっていい。要するに金科玉条のごときご本尊である「実演」がない。というか、レコードを買った一人一人が、いろんな装置で、いろんな部屋で、いろんなことをしながら聴く……その一回一回が「実演」なのだ……なんでこの人、ここまで割り切れたというか、進化できたんだろーと驚異的に思いますが、その演奏を聴いていると、なんとなく感じるところがある。それを書いてみますと……まるで、打ちこみみたいだ……これが、私の率直な感想です。とにかく「音」に対する正確さが比類ない。ここまで「音」をコントロールしきれた演奏家は、それまでだれもいなかった……

はっきり言って、グールドさんは、他のピアニストに比べて、テクニック的にはるかに擢んでている。これはもう、だれもが認める事実であろうと思うのですが……その「差」がフツーじゃなくて、何十倍、何百倍もあるような気がする。基本的に、彼くらいのテクニックに達しなければ「ピアニストでござい」と言って名乗るのは恥ずかしいんじゃないか(いいすぎですが)……まあ、現代のピアニストであれば、彼と同程度のテクニックを持つ人もおられると思いますが、彼の時代では、彼は、テクニック的に飛び抜けてました。まるで、3階建ての建物の横に500階の超高層ビルがそびえているように……その「音」に対するコントロールの正確さは、まるで「打ちこみ」のごとく……

試みに、今ネットで聴けるいろいろなピアノ音の打ちこみを聴いていると、ホント、グールドさんそっくりです。いろんなピアニストのいろんな演奏があって、それぞれ、高い評価を受けている人もいるけれど、テクニック的にはグールドさんにははるかに及ばない。「音楽性」という言葉もあるわけですが……私の聴いた範囲では、ホントに「音楽性」でまた別な高みに達した人って、リヒテルとケンプくらいではなかろうか……まあ、あんまり広範囲には聴いてませんので、こんなこというとお叱りを受けるかもしれませんが……最近の方でいえば、ピエール=ロラン・エマールさんくらいか……いや、読んで不愉快に思われる方がおられるといけないので、「比較」はこれくらいでやめておきます。

要するに、私がいいたいのは、グールドさんは、もともと、他のピアニストとは求めるところが全く違っていて、そこのところが充分に「思想的」といいますか、音楽というものに対して、マーケティングまで含んで、発生(個の著作)から受容(個が聴く)に至る全体のプロセスに反省的意識が充分に働いていて、それが、単に音楽のジャンルにとどまらず、人類の文化全体にかんしていろいろ考えさせられるなあと思うわけです。要するに、やっぱり「個」と「普遍」の問題で……たとえば、「生演奏」を聴きにホールに集う聴衆は、一人一人は「個」なんだけれど……そして、演奏する音楽家もやっぱり「個」なんだけれど、その間には、ふしぎな「普遍」が介在していて、よく見えなくなってます。

私が理想とする演奏形態は、たとえば友人にピアニストがいて、彼の家に夕食に招かれて、食後に、彼が、集った数人の人のために客間にあるピアノで数曲奏でてくれる……そんな感じが、ホントの「生演奏」ということではないか……介在するものがなにもなくて、演奏する個としての彼と、聴く個としての私が直接に演奏によって結ばれる……これに比べると、ホールでの演奏は、演奏する個と聴く個の間に、絶対に「欺瞞」が入ると思います。要するに……音楽には直接関係のないなんやかや……お金やネームバリューや、演奏をきちんと味わえるかしらん?という気持ちとか……演奏する側においてもやっぱりそうで、余分なもろもろ……そういうものがジャマして不透明になってる。

しかし、グールドさんの場合には、これは、グールドさんという「個」が、私という「個」のために直接演奏してくれてる……みたいな感じがあるわけで、このあたりも「打ちこみ」と似てます。まあ、CDもタダじゃないんだけれど、演奏会に比べればはるかに安いし、何度でも繰り返し聴くことができる。場所も、家でもクルマでも、歩きながらでも……私は、以前、阪神淡路大震災のとき、神戸に住む友人宅をたずねて、神戸の町を歩いたことがあるんですが、そのときに、グールドさんの『パルティータ』(むろんバッハの)をウォークマン(もどき)でずっと聴いていた。震災で悲惨な状態になった街の光景とあの演奏が、もう完全にくっついて忘れられない……

でも、でもですよ……他のどんな演奏家でも、CDで、いつでもどこでも聴けるじゃありませんか……というのだけれど、なんか、どっかが違う。やっぱり、グールドさん以外の演奏家は、演奏会が「ホント」でディスクは「代用」。そんなイメージが強い……私がここで思い出すのは、カール・リヒターの「地獄のゴールドベルク」。このタイトルは、私が勝手に付けてるだけなんですが、このディスク、まれにみる「ぶっこわれた」演奏……聴いてると、もう、どうしようか?と思っちゃうんですが……1979年にリヒターさんが来日して、東京の石橋メモリアルホールというところでゴルトベルクを弾いた、その録音なんですが……もう最初から、なんか危機感をはらんではじまって……

とにかくミスタッチの山……うわー、これがあの、厳格きわまるリヒターさんの演奏なの??とぎょぎょっとしながら聴いてると、そのうちに「楽譜にない」道をたどりはじめ……と思うと前に戻ってやりなおし……悪戦苦闘しているうちに、もう演奏自体が「玉砕」してすべては地獄の釜の中に投げ入れられて一巻の終わり……あとに残るは無惨な廃墟のみ、という、もう信じられない破滅的なリサイタルになったんですが……よくこの録音、ディスクとして出したなあ……しかし、なんか、いままでの端正の極地のリヒターさんのイメージががらがら崩れて、そこに現われ出たのは原始の森をさまようゲルマン人……うーん、ホントは、彼は、こんな人だったのか……

この演奏会は、聴きものだったでしょう。現実にあの場にいた人は、みんな肝をつぶして、どーなることかとハラハラしながらいつのまにかリヒターさんの鬼のような迫力に引き込まれていったに違いない……そうか……演奏会の真の姿って、これだったのか……で、ここに比べると、メディアの海にダイヴしたグールドさんの演奏は、やっぱり打ちこみだ……でも、なぜか、このリヒターさんの「地獄のゴールドベルク」と共通の「熱い魂」を感じます。あの、震災の街……それまでの人々の生活が根こそぎ破壊されたあの街をさまよう私に、それでもまだ、人の思いはちゃんと残っていて、また新しく、人の生きる場所をつくっていける……と静かに語りかけてくれたグールドさんの音……

いろいろ、考えさせられます。個と普遍の問題は、そんなにカンタンに割り切れるものではなくて、これは、そこに立ち会う人によって、その人にとって、その場、そこにしかないなにか大事なものをもたらしてくれる。グールドさんは、たくさんの「個」、そのときの個だけではなく、これから未来に現われる数えられないくらいの範囲の個に対して、きちんと自分の「個」としての音楽を届けたいと思った。そこに現われるのは、やっぱり「他の中に生きる」という基本姿勢だったのかもしれない……演奏会が「地獄のゴールドベルク」となって崩壊したリヒターさんの思いも、やっぱりそれは同じだったんでしょう……そうならざるをえない「介在物」の巨大さを、改めておもいしらされます……

*リヒターさんのディスクを改めて聴いてみましたが、最初のアリアから、ミスタッチではないもののヘンな音程の音が混ざってきます。これ、調律にモンダイがあったんではないだろうか……調律の狂ったチェンバロを弾くうちに、なんかやぶれかぶれの自暴自棄に……でも、調律なんか、事前になんども確認するはずだし、ヘンだなあ……と思って聴いているうちに、なぜかひきこまれてしまう……ものすごく興味深い演奏です。これ、やっぱりスゴイディスクだ……

素子さんのダイヴ@Ghost in The Shell 1995

グールドのゴルトベルク_900

自分は、自分の中のどこにいるのか……草薙素子さんは、脳だけ生身で、身体は国家のもの。要するに国立?のサイボーグなんですが、それでもまだ、自分は人間だと思ってる。シェルに囲われてゴーストがあるから……ゴーストは、ガイスト、要するに「精神」ということで、もっと言えば「魂」ということかもしれません。となると、身体が有機体でサイボーグではないわれわれも、ゴースト・イン・ザ・シェルという点ではかわりないわけで……自分は、自分の中の、どこにいるんだろう……??

やっぱり「脳」なのでしょうか……臓器移植なんかでも、「脳移植」というのはちょっと考えにくいような気がします。脳が悪くなったので、取り替えようと、他人の脳を移植したら、もうその人は、その人じゃなくて、移植された脳の人のものになってしまう……それほど、「脳」は、自我にとって、決定的な要素であるようにみえる。これは、どうしてなんだろうか……記憶なのか、判断力なのか……意志? 意志は、脳にあるのでしょうか。前頭葉? ロボトミー手術のことなんかが思い浮かびますが……

東大の博物館でしたか、夏目漱石の脳が保存されているという話をきいたことがあります。うーん……漱石も、死んでから、自分の脳が博物館に保存されるとは、夢にも思わんかったでしょうねー……脳さえ保存しておけば、文豪の「創作の秘密」がやがて解明されるとでも考えたのかしらん? なんか、保存しようと提案した人の「知性の欠如」といいますか、知的なものに対する素朴な憧れみたいなモンが感じられて、やるせなくなってしまう話ではあるのですが……

これに対して、草薙素子さんは、最後に、「脳」も棄ててネットの海にダイヴする。「普遍存在」になってしまうわけですが、それでも「個」が完全になくなることはない。続きのお話では、いろんなかたちで昔の仲間の前に現われて助ける。これはもう、クイッディタス・ハエッケイタス、すなわち、普遍でありながら個、個でありながら普遍……という、究極の存在の形にほかならない?? こんなケースを考えてみると、もしかしたら、「個」というものは、それほど「個」ではないのかもしれない……

グレン・グールドというピアニストがいました。彼は、若手ピアニストとして人気上昇の、まさにそのときに、突如「コンサートドロップアウト」を宣言して演奏会から身を引いてしまった……といっても、演奏の発表自体を止めたのではなく、その後は、レコード、CD、放送……という媒体を通じて積極的に活動を続けていく……要するに、ホールの中の「個」という存在形態を棄てて、聴衆の一人一人の再生装置という一種の「普遍」の中に存在する道を選んだ……そして、それゆえに、なお強烈な「個の輝き」を獲得した……これ、素子さんの「ネットへのダイヴ」と、なんとなく似てるような……

『2001年宇宙の旅』という、もう今から40年以上も前に公開された映画では、木星探査船ディスカヴァリ号に、HALという第五世代コンピュータが搭載されていました。「自分で考える」能力を持った、いわゆる「人工知能」なんですが……この映画が発表された当時(1968年)には、33年後にはもうこんなスゴイ?コンピュータができてると予想した。ところが、第五世代コンピュータの開発はスムーズにいきませんでした……21世紀ももう10年以上すぎた今でも、ぜんぜんできていない……でも、かわりに、当時は予想もされていなかった「ネットの海」ができてしまった……

これは、ある意味、HALというスゴイ「個」のかわりに、ネットの海という「普遍」が実現してしまったともいえる……太平洋戦争のとき、日本は「戦艦大和」というものすごい「個」を造って太平洋を制覇したと思ったけれど、結局「無数の飛行機」という「普遍」にやられてしまった……このたとえは少しヘンかもしれませんが……でも、戦後、「大和」を造った技術力は、「クルマ」という「超普遍」?に活かされて、日本はクルマの輸出で大もうけ……こうやって見てくると、「普遍」って、要するに「数が多い」ということなのかな?巨大な「個」より無数の「普遍」?? なんかヘンですが……

昔、「本」は、一冊だけでした。だから貴重……同じ本を読もうとすれば、「写本」という手段に頼るしかなかった……一冊一冊、手で書き写す……これはタイヘンだということで、「印刷」が発明された。グーテンベルクの宇宙……ですが……今は、ネットの海に情報が拡散されて、もう物理的な「印刷」という手段さえ不要になってしまった……ここでおもしろいのは、「個」の位置が、発信者から受信者に移ったように見えること……すなわち、「印刷」においては、最終的に「ブツ」としての本を造るので、制御権は造る側にある。つまり、本を造る側が、本の「個」としての体裁を決定する権利を持ってる。

ところが、ネットにおいては、見え方のかなりの部分を、見る方が担います。むろん、情報発信者の側で、ある程度の体裁は造るわけですが……しかし、その「見え方」は、受ける側の機器の仕様やブラウザの種類によってかなり異なってくる。本の場合には、フォントが、読む人によって変わってしまうということはありえませんが、ネットでは、見る側の持ってるフォントに依存せざるをえない。色の見え方も、画面によってかなり違うし、レイアウトなんかもブラウザによってまちまちになってしまう……要するに、「個」が成立するのは造る側ではなく、見る側の画面の上になってしまう……

こうなってきますと、「個」って、いったいなんだろう……ということですね。私は、私の、どこにいるのだろう……ネットの海に拡散してしまった素子さんのような方にとっては、端末に現われるそれぞれ違った「個」が、それがやっぱりその存在の「個」なのでしょう……要するに、「個」と「一」が一致しない。「個」と「一」の一致は、やはりきわめて「古典的」な考え方であって、グールドさんが、その束縛に耐えられなくなって「メディアの海」にダイヴする道を選んだ……その感覚は、わかる気がします。「そのように見えているのが私なのだ」……それが、本質。

ハエッケイタス、個性原理というものの働き方は、これから先、実に興味深いものになってくるような気がします……それは、もしかしたら、やっぱり「ダイヴ感覚」なのかもしれない……「個」を棄てて「全体」の海にダイヴする……それは、一見、「個の死」に見えるかもしれませんが、そのやり方が、「ハエッケイタス道」の行き着く先なのか……「他者のうちに生きる」というパースの言葉が思い起こされますが……たくさんの人のブラウザの中で、それぞれの姿で、それぞれの時に生きる……私が、今書いている文章も、やっぱりそうなる。私ももう、ダイヴしちゃってるのだ……

今日のessay :普遍を求めて・その3/About Universality – 03

Quidditas_Haecceitas_600

八木雄二さんの『中世哲学への招待』(平凡社新書)。これは、小さい本ですが、まことにおもしろかった。これまでいろいろ疑問に思っていたことの答がきわめて簡潔に、適確に書かれていて……200ページちょっとですが、なんか、けっこうぶ厚い本を一冊読んだ感じ……こんな感覚を味わったのは、ほんと、久しぶりだなあ……この本は、ヨーロッパ中世の哲学者(神学者というべき?)ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスについて書かれた本なんですが、ヨーロッパ中世哲学の概観にもなり、さらに、なぜ、日本人である著者が、中世スコラ哲学という、一見かなりかけ離れた分野の探求に至ったかという必然性も書かれていて、これ、現代日本のいろんな問題にも直結する、けっこう「今の日本と日本人」にもだいじな本かな……と感じました。

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス……この名前、ヨーロッパの哲学者の中でもかなりマイナーな……でも、実は、けっこう重要な位置にいた人みたいです。私は、以前から、クィディタス(Quidditas:通性原理)とハエッケイタス(Haecceitas:個性原理)というものに興味を持っていて、個展のタイトルとしても使わせてもらったりしたんですが……この、なにやら舌を噛みそうな言葉、いや、概念について、画期的な考え方をもたらしたのが、このヨハネスさん……うーん、なるほど……これは、もう、今はやりの?「精神世界」にも通じる……というと、「じゃあ、うさんくさいんのでは?」と思われる方もみえるかもしれませんが、ふんわりやわらかムードの「考えることより感じることが大切」じゃなくて、もうガチガチのハードな論理展開……なんだけれど、柔軟性と新鮮さをいつも失わない。スゴイ人が、700年も前にいたのだ……

「普遍」は「個」を規定する……これがフツーの考え方だと思うのですが、それでは、この世界はできない。「個性原理」すなわち、「個」を「個」たらしめることは、通常の「普遍」−「個」の対応関係の中からはけっして出てこないのではないか……私は、そんなふうに受けとりました。「個」は「個」であるからこそ、「個」たりえるんだと。これは、もしかしたらかなり斬新な考え方なのかもしれません。「自由意志」の問題とも深い関係がある……八木先生の本からちょっと引用させてもらいますと……『ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスは、個別化の原理を、質料ではなく、形相の側にあると考えられた実在性(「形相性」folmalitasという)に求めた。言い方を替えれば、現実態の側に置いた。つまり、受容的可能性の側でなく、「これ」として事物を積極的に規定する構成要素を、個別化の原理として主張したのである。』

だいじなところなので、もう少し引用を続けます。『しいていえば、ヨハネスは個物の個別性にきわめて強い意義をもたらした、ということが言える。個別性の起源をトマスのように質料に置いて考えると、個物が「一つ一つのかたちで在る」ことには大した意義はないと考えられた。すなわち、ものがる時間ある場所にどれだけあるかが当時はまったく偶然的であると見られたように、どのなかの一個の事物も、偶然的な一個でしかなく、重要なのはそれがいったい「何であるか」、すなわちどのような種に属する個体かだ、と考えられた。』『これに対して個別性の起源を形相(現実態)の側に置くと、それが「何であるか」ということも重要であるが、さらにそれよりも、「一つ一つのかたちで在る」ことが、いっそう意義があると見なされることになる。どういう意義かと言えば、一個一個が神の創造の対象となる、あるいは、神の愛の対象となる、という意義である。』

これは、もしかしたら、今でも「革命的」なものの見方かもしれない……私がうまく理解できているかはわからないのですが……たとえば、先に書いてきた音律の問題なんかにこれを当てはめると……今、目の前にある楽器、ピアノでもギターでもいいんですが、それをポローンと鳴らした場合、そこに出現するのは「個」としての音です。で、この「個音」が、たとえば平均律であるとか純正律であるとか……なんらかの一連の音程の中のある音がたまたま鳴らされたと考えるのか……それとも、今、ここに、この「音」が鳴った……そこに、音律とか関係なく一つの「意味」を認めるのか……そういう違いになると思う。言葉で書くと、なんだかわかりにくいんですが(どっちでもいいようにも思えますが)、これ、音楽を演奏する人にとっては、けっこう重大な問題だと思う。というのは、音楽をやる場合、人は、「音律の中のある音を奏でる」というふうには、ふつう考えないと思うから。今、ここに鳴った音は、やっぱりそれだけで、だいじな「意味」を持っている……

ここらへん、「普遍」と「個」において、人が陥りがちなある「考えのワナ」をみごとに指摘してると思うんですよね。音楽を奏でたり聴いたりするとき、人は、フツーは音律のことなど考えず、そこに奏でられる「音楽」に意味を見いだす。ところが、「普遍」と絡めて考えはじめると、そこには「音律」や「和声」の問題が出てきて、現実に鳴ってる音楽が、あたかも、そういう「普遍的な」ものから出てくるように錯覚する。だけど、実際には、そこにある「音楽」がすべて……というか、そこにあるもの以上の「意味」を考えはじめると、人は、かえって、そこにそのままあるものの「存在」を見失ってしまう……これは、絵の方でも同じで、人は、構図や配色や遠近法によって絵を描くのではなく、そこに、そのように存在するように描いていくわけで……これは、人間のアタマの中に生まれてしまう錯覚を鋭く突いた明察……この論が行われていたのが、なんと13世紀……中世って、暗黒でもなんでもなかったんですね。いまでもみずみずしい……

インターネットで音律のことをいろいろ検索してみると、もう山のようにいろんな情報が出てくるのですが……音律と、実際に奏でられる音楽の関係をきちんと押えたものは意外に少ない。すなわち「個」としての音楽の出現の方を重視したものが少なく、多くの論が、音律の複雑な分析に足を取られている……そういう風に感じます。その中で、じゃあ、実際に、オーケストラやバンドで演奏される曲が、なぜ違和感なく響くのか……ということを論じていたサイトがありました。要するに、音楽は、音律で鳴ってるのではなくて、実際には、コレコレという人が、歌ったり、なんか特定の楽器を吹いたり弾いたりして、その「音楽」が鳴る……人の歌声も楽器の音も、単純なサインカーブでできてるんではなく、複雑な倍音を含んでいるし、声も楽器も、演奏の仕方によっては、音程の上げ下げとか微妙にできる。それができないピアノみたいな楽器でも、音量やタッチや声部の入りをちょっとずらすとか……要するに、実際の演奏は実際の演奏なんだと。

つまり……理論的には、平均律だとどの和音も狂ってるとか純正調だと音程がバラバラとか……そういう「欠陥」を、機械がやればそのまま演奏するのかもしれないけれど(しかも、それでも「現実に出現した音」ではあるが)、人が演奏するのは「その曲」なので、パフォーマンスでいろんな欠陥を吸収しつつ、ちゃんとその「曲」を演奏するのだと……そして、もしかしたら、このことは、ヨハネスさんに言わせると、人の「意志」にかかわってるのかもしれないです。自由意志……それは、「自由」であるがゆえに「自由意志」なんだと。これは、今では当たり前みたいに思われることかもしれませんが、時代は13世紀……よくこんな、斬新な考え方ができたもんだなあ……でも、音楽でいっても、12世紀ころから、「ソレ以外に歌い方がなかった」教会音楽を、ポリフォニーにしてさまざまに展開するワザがはじまってますし……「12世紀ルネサンス」といいますが、この時代、なかなか、いろいろ新しいことが生まれてきてたんですね……

「ボクは、絶対音感があるから、耳が聴こえなくても作曲できる。」シツコクこの言葉に戻りますと……この言葉は、まさに「絶対音感」という「平均律に裏打ちされた普遍」をタテにして、その「下」に「個としての音楽」をぶら下げて「どーだ!スゲエだろう」という欺瞞……で、現代の日本の人々は、これにコロコロッとごまかされて「スゲエ!」……ヨハネスさんが、もう700年も前に打ち砕いた「錯覚」でだます方もだます方だが、だまされる方も……やっぱり、ことに音楽の世界では、「絶対音感」なるオーラは、まさに「絶対」。このオーラがかぶってれば、いかなる曲も超名曲に……ということは、聴く方は、「曲」を聴いてなくて、アタマの中のオーラ、つまり「普遍」を聴いてる……まあ、日本における「クラシック」の受容なんて、そんなもんかもしれません。やっぱり「19世紀ヨーロッパオーラ」ってすごいなあ……ホントに作曲した方にすれば、一種の「アソビ」というか「息抜き」だったかもしれませんが、それが「芸術」に……

この事件は、日本において、いかに「日本耳」が淘汰されつくし、絶滅の一歩手前にあるか……そのことを、よく示していると思います。で、この「絶滅」が、音楽の価値そのものによってなされた(つつある)んじゃなくて、そのまわりのさまざまなニセオーラ……まあ、19世紀ヨーロッパに対する根拠のない?あこがれやなんやかや……から醸成されてきたものであるのもまことにナサケナイんですが、人間の文化なんて、いつでもそんなモンかもしれません。ヨハネスさんの頃も今も、そういった事情はあんまり変わりないのでは……だから、ヨハネスさんの言葉が新鮮に響く……八木先生によりますと、ヨハネスさんの故郷のヨーロッパでも事情はよく似ているみたいで、ヨハネスさんの本格的な研究もようやく始まったばかりだそうです。まあ、「中世」に「暗黒」のレッテルをはって処理しちゃったのが、実は、今になって、現代のわれわれの直面しているさまざまな問題の根っこがそこにあったんではないかと……「中世=暗黒」を直輸入しちゃった日本はもっとヒサン……

ということで、「普遍」をめぐるお話もとりあえずひとくぎりなんですが……最後に、フランク・ハーバートの大河SF『デューン』のことを……この作品、読まれた方も多いと思うのですが、最初の方で主人公になってるポウル・アトレイデ・ムアッディブ……彼は、「クイサッツ・ハデラッハ」という特別の存在でした。……いや、最初からそうじゃなくて、物語の中でそういうタイヘンな方になるんですが……これがなんと、「個でありながら普遍である」というモノスゴイ存在……うーん、どうしても、ヨハネスさんの「クィディタス・ハエッケイタス」を思い出してしまいます。「クイサッツ・ハデラッハ」は、原語では Kwisatz Haderach と書くようです。Quidditas Haecceitas と関連があるのかどうか……それはわかりませんが、『デューン』は、全体として、ヨーロッパ中世とアラビアが出会ったみたいなイメージがあって、それが、ヨハネスさんが活躍していたころの中世ヨーロッパのふんいき……アラビア経由でギリシア哲学がもちこまれたときの状況にそっくり……

といっても、私は、中世ヨーロッパには行ったことがないし、まして『デューン』の惑星アラキスにも……ということで、まったくの妄想にすぎないのですが、世の中、ふしぎなことがいっぱいあります……つづきはまた改めて。