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人の一生というものは……/Human’s life

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今年のお正月は、京都ですごしました。何年ぶりかなあ……年末年始を京都で迎えるのは……泊まったのは、高野からちょっと北の方だったんですが、懐かしい……という気持ちが自然に湧いてきた。私は、京都生まれで、下鴨神社の近くの家でこども時代をすごした。

今回泊まった場所は、そこからは1km 弱離れているんですが、まあ下鴨神社の領域内といっていいでしょう。近くには、下鴨神社の摂社である「赤宮」という神社もありますし……なにより、仰ぎ見る比叡山のかたちが、こどもの頃に毎日みていたのといっしょ……

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こどもの頃、夕方になると母親が、すぐ近くを流れる鴨川に散歩に連れてってくれた。川向こうの林のかなたに陽が落ちて、あたりが金色に染まり、水面がきらきら輝いている……で、振り返ると、そこには夕暮れ色に染まった比叡の山が……こどもの頃、毎日見た景色というのは、やっぱり忘れないもんですね。

場所……というのはふしぎなもんです。今回泊まった家の前の道は、いわゆる観光地の京都じゃなくて、全国どこにでもあるごくフツーの街並……あんまり広くない道の両側に、お店があったり会社があったりマンションやアパートがあったり……ちょっと曲がるとコンビニが……

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そういう、「フツーの路地」が、そのものさえ、なぜか懐かしい。これはふしぎでした。「場の力」というのでしょうか……あるいは、下鴨神社の神様の力が、やはりその土地を覆っているのだろうか……私は、こどもの頃に京都を離れて名古屋に移りました。そのあと、学生時代に、京都に一時下宿をしていたこともあるけれど……

もう何十年も、京都から離れて暮らしている。でも、京都を訪れて、こどもの頃に暮らしていた場所のそばにくると、やっぱり「自分の土地」はここだなあ……と思います。人の一生……東照大権現神君家康公のように重い荷を負って遠くまで歩む人もいれば、私のように軽い荷さえいやがって……

できるだけ近道したい……という一生を送った人もいる(まだ過去形じゃないけれど)。人の一生って、いったいなんでしょう。いったい何をやったら、「その人の一生を生きた」ということになるのか……これは、いまだにわかりません。人生あとわずかで? いや百まで生きるのかしらんけど、どっちにしても、それがわからなくいいの?ということなんですが……

たぶんほとんどの人がそうだと思う。ただいえることは、人と土地との結びつきって、意外に強かったなあ……ということです。若い頃は、なんでもできるしどこでも行けると思っていました。でも、もしかしたら、人は、自分でも知らないくらい「土地」に結ばれているんじゃなかろうか……

私がおもしろいなあと思うのは、三河の生まれの神君家康公は、生涯その目を東に向けていたのに対して、尾張生まれの信長公と秀吉さんは、一生西に向かう傾向性を持ち続けていたということ。尾張と三河って、今は同じ愛知県で、その境に大山脈とか大河があるわけでもありません。

境川という小さな川(二級河川)があるんですが、上流はもうほとんど認識できないくらいの小川になっていて、車なんかだと、まったく気がつかないうちに尾張から三河に入ってしまいます。でも、やっぱり尾張と三河は、画然と違う……言葉も、尾張の言葉はすぐ北の美濃(岐阜県)の言葉とよく似ているけれど、三河の言葉は、その東の遠州(静岡県)の言葉とほぼ同じ。

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こういうことは、いろんな土地にあって、その感覚は、そこで生まれ育った人しか、実は正確にはわからないものなのかもしれません。なにが、それを決めるのだろうか……

今は、その土地のものだけじゃなくて、スーパーに行けば「世界の食材」がカンタンに手に入ります。「土地の食べ物」が<その感覚>を養うんだとすれば、今の人は、もうすでに昔の人が持っていた「そういう感覚」をかなり失っているのかもしれない……あるいは、目に見えない「土地の気」のようなものなのでしょうか。

たとえば火山の噴火とかの大災害で、住民全員がその島を離れなければならない……三宅島とかそうでしたが、避難先で暮らしている人のインタビューで、少しでも早く島に戻りたいという人がけっこう多い。一旦おさまっても、いつまた噴火するかわからないのに、なんでそこまで……と思いますが、やっぱりそれは、その土地に生まれ育った人にしかわからない。

だから、難民の方々って、たいへんだなあ……と思います。自分の生まれて、育った土地から、自分の意志じゃなくて強制的に排除され、見知らぬ地域をさまようハメになる……これが「自分の意志」だったら、まだある程度は納得できるかもしれません。いや、人によっては、見知らぬ土地で暮らすことに憧れを抱くということもあるでしょう。

しかし、自分は、この生まれて育った土地で一生を終えたいと思っているにもかかわらず、外側からの圧力で追いだされてしまう……これはもう、そのものが根源的な悲劇だと思います。あるいは、自分が生まれて育った土地に、外国の軍隊がやってきて基地をつくってしまう……これも悲劇だ。

そしてラスボスのゲンパツ……金のために故郷を売る。これほど悔しく、悲しいことはない。おまえらの住んでるところは、街から遠いから、放射能まみれになってもいいんじゃない? その分、金と仕事をやるからさ……これって、ものすごい侮辱だと思う。しかし、いくら悔しくても、生きていくために受け入れてしまった……

世の中、こういう悲劇に満ちています。昔、岐阜県の徳山村というところを、野外活動研究会のみんなと訪れました。岐阜県といっても、もう山一つ越えれば福井県……というところだったんですが、もう今は、この村はありません。

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徳山ダム……これですね。このスゴイダム(ロックフィルという構造では日本一の規模)を造るために、この村の人が住んでいる集落はみな、水の底に……1970年代終わり頃に行ったときはまだ、村は生きてましたが、もうお年寄りばっかりで、みんな静かに「村の死」を待っている状態だった。

いろんな人に話を聞きました。みんな、この村がいいという。それはまあ、何十年も暮らしてきたお年寄りばっかりなので、当然そうなんですが、若い人は、やっぱりほとんどいなかった。もうとっくに保証金をもらって、村の外で「次の暮らし」をはじめていた。

反対運動はなかったんですか?と聞いたんですが、あんまり明確な回答が得られない。もうみんな、「水没」が前提で、今さら……という感じ。のちに、偶然ですが、徳山村出身の青年に名古屋で会いました。反対運動について聞くと、彼自身がその運動に加わっていたそうです。でも、潰してくる側との圧倒的な力の差があって、みんな結局あきらめ、彼自身もインドに行く道を選んだ……

ああ、やっぱり反対運動はあったんだ……そう、思いました。村の中では、ハッキリ聞くことはできませんでしたが……しかし、ダム、こさえたるでー!という勢力にくらべてあまりに微弱……昔から住み暮らしてきた「先祖の地」を追われるんだから、もっと抵抗してもいいのでは……というのはよそ者の考えで、実際の「現場に働く力関係」は、これはもう、なんともならない圧倒的なものだったらしいです。

徳山村は、どこからアプローチするにしても、険しい峠を越えなきゃならない。この峠が、冬は雪で通行止めになる。人の往来も、物流も滞る中での、雪に埋もれた数ヶ月……若い人には絶対にガマンできないから、みんな、ダムの話の前に街へ街へと……仕事、家族、学校のことを考えれば、当然そうなるのでしょう。ということで、「現代文明」を前にして、村の実質はかなり死に近づいていた……ということもいえるわけです。

今、私が住み暮らしているところも、愛知県の「奥三河」と呼ばれる山間地域の入口で、人口がゆるやかに減少しつつある、いわゆる「限界集落」です。 といっても、まだ名古屋とか豊田に近いので(一応豊田市域)ほとんどの人は勤めを村の外に持ち、毎日通ってる。でも、まだまだ、自分の生まれたこの土地に愛着を持ってる人は多い。しかし、こどもたち世代はどうなのかな……

要するに、自分の根っこをどこに感じるか……ということなのかもしれません。私みたいに、こどもの頃に生まれ育った土地を離れてしまったものは、根っこがない。この状態がいいのかわるいのかときかれれば、やっぱりよくないと思います。価値観が、なんというか否定的になる。どっちみち……ということで、神君家康公みたいに「人の一生は……」ということにはなりません。まあ、ぜんぶがそのせいじゃないにしても。

家康の鎖国政策は、いろいろ言われますが、結局はこの問題だったような気がします。つまり、人と土地の結びつきを重視した。そこがちゃんとなってないと、人はホントの力を出せない。この「ホントの力」というのは微妙な考え方で、たとえば海外遊飛(ナント古い言葉)で世界中駆け回って大活躍している人でも、それが「ホントの力」なのかというと、これは考えどころかな……と思います。

今の世界、経済優先で、企業はできるだけ安い人材を求めて世界中に工場をつくる。家康公の考え方からすれば、これはもうムチャクチャです。どれだけ発展しているようにみえても、それは見せかけにすぎず、実は、本質的なところは「破壊」だ。世界一の企業が、今、私の暮らしている街にありますが、この企業のやり方を見ていると、家康公の考えをかなり厳格に守っているところと、まったく反対の考えの二つを持ってるような気がします。

それが、一つの会社としてまとまってるんだからふしぎだなあ……と思うのですが、案外、「生産」にかかわる仕事って、そうなのかもしれません。とすると、ホントに危ないのはいわゆる「虚業」なんでしょうか……歴史には詳しくないですが、家康公は実業タイプ、信長さんと秀吉さんはどっちかというと虚業タイプだったみたいな気がします。海外遊飛に夢を馳せた信長と、朝鮮半島を手がかりに大陸をのっとろうとした秀吉……

これに対して、家康は、「アホなこと言っとらんで、国内をちゃんと固めようよ」という考えだったみたいに見える。幕末から明治期にかけて、アジア諸国が次々と欧米の植民地にされていく中で、日本という島国がナントカ独立を保てたのも、元はといえば家康さんが、「土地に結びつく」政策の基礎を地道に、しかしラジカルにつくったから……これを元にして、日本はちゃんと自前の「19世紀」をやって、「近代」に歩調を合わせていくことができた……

歴史の専門の方からみると、こういう見方はきわめて大雑把で、まちがいだらけなのかもしれませんが……なんか、そう思ってしまいます。人と土地……これは、最大限に広げていくと、この地球という「場所」と、そこに住み暮らすわれわれ人類の「限界」という考え方になる。人類は、地球から出られない。これが、私が最終的に到達した思いなのですが、いかがでしょうか?

今日のehon:世界精神の落日(つづき)

ヘーゲル

世界精神……というと、やっぱりヘーゲルさん。哲学の世界にそびえる巨大な山……フツーに、読めません。ホンヤクしてあっても。『精神現象学』をずっと読んでますが、なんと一年に7ページしか進まない。これじゃあ、死んで生まれ変わってまた死んで……何回輪廻転生をくりかえしても読めない。なんでこんなにわからんのだろう……

ヘーゲルは、ナポレオンのことを、『世界精神がウマに乗ってる』と言ったそうですが、ナポレオンの台頭と失脚は、彼の哲学にかなり甚大な影響を与えたみたいですね……で、もう一人、ナポレオンにかなり深刻な影響を受けた方……あのベートーヴェン氏。分野は音楽ですが、なんかすごくヘーゲルと感じが似てます。年も近いみたいだし。

ベートーヴェンと思って調べてみましたら、二人はなんと、同じ年(1770)の生まれでした。没年も、ヘーゲルが1831年でベートーヴェンが1827年。二人の生涯はほぼぴったりと重なっております……ちなみにナポレオンは1769年生まれの1821年死去で、やっぱりほぼ重なる……この3人、「世界精神3兄弟」だ……すごい……担当分野はそれぞれ、思想、芸術、そして政治。

ナポレオン

「ヴェルトガイスト・ブラザーズ」(独英ちゃんぽん)で売り出したらどうか……というのは冗談ですが、19世紀の幕開けって、そんな感じだったんですね……で、この時代、日本はどうだったかというと、江戸時代も中期で、田沼意次はナポレオンが生まれた1769年に老中格(準老中)になってます。このあと、松平定信の寛政の改革が1787年~1793年。上の3人の青春時代ですね。

では、「新大陸」はどうかな? 調べてみると、アメリカの独立宣言が1776年で、これはヘーゲルとベートーヴェンが6才、ナポレオンが7つのときですね。アメリカも彼らと同時代人? いや、人ではないけれど、なにか「新しいこと」が西と東で同時にはじまったような……要するに、これが「世界精神の夜明け」ということになるのかもしれません。

そのあと、世界精神は、短いけれど豊かな「昼の時代」を迎えます。工業化による大量生産と植民地からの収奪を基盤にした市民社会の繁栄……19世紀初頭にナポレオンははやばやと舞台から去り、大英帝国が世界を席巻する中で、徐々にアメリカが頭をもたげてくる……19世紀の後半に入るとアメリカは南北戦争で国の基礎を固めるが、その頃、日本もやはり幕末で列強の体制に参入する準備を着々と整える。19世紀は、過去からの潮と未来からの風がぴったり合わさって「人類力」の加速度ベクトルが最高潮に達した、ある意味幸せな時代だったのかも。

では、「世界精神の落日」は……というと、やっぱり20世紀初頭、おそらく1911年くらいからではないだろうか……世界は、またたく間に2度の世界大戦に呑みこまれ、「世界精神の凋落」は決定的となる。しかし、人は、残滓のようなわずかな光芒にしがみつき、そのあがきはついに世紀を越えて今にまで至っている……長い、長~い「落日」は、はたしてどこまでつづくのでしょうか。