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グールドというピアニスト

地獄のゴールドベルク_900

グレン・グールドというピアニストについては、もういろんな人が書いているので、今さら私が書いてもはじまらないかもしれませんが……でも、やっぱり書きたい。ホントに「天才」というのは、たぶんこんな人のことを言うんでしょう……暗算少年とかパフォーマンス的にスゴイ人はいっぱいいるけど、人類の文化に、なんらかの「意味」のある足跡を残せないと、それは単なる「見せ物」になって、ホントの意味で「天才」というには値しないと思います。で、人類の文化に足跡を残す……って、なんだろうということなんですが、とりあえず、その人がおるとおらんでは、「人類の意味」自体が変わっちゃうんじゃないだろうか……と思えるくらいのスゴイ人……

このレベルのスゴさって、たとえば思想でいうならヘーゲルとかマルクスとかプラトンとか……ソレ級。絵描きで思い浮かぶのは、やっぱりピカソとかマルセル・デュシャンとか。音楽だとバッハ、ベートーヴェンはまずまちがいなくそう。で、グールドさんも、やっぱりソレクラスじゃないかと……演奏家であって、作曲家じゃないんですが(曲もつくっておられたみたいだけど)、とにかく、「対位法音楽」というものの真の姿を見せてくれた……でもそれだけじゃまだ「天才」とはいえないかも……ですが、もうちょっと構造的?な業績としては、やっぱり、「媒体を通して現象する音楽」というものに逆転的な価値を与えた人として、思想の分野で持つ影響も少なくないのでは……

彼以前は、レコードって、やっぱり補完的な位置付けだったと思うんですよね。実演がホンモノで、レコードは代用品。ホンモノを聴かないと音楽を聞いたことにならないんだけれど、そういう機会もなかなかないので、レコードを聞いてホンモノの演奏に心を馳せる……そういう感じだった。ところが、グールドさんの演奏には、「生演奏」というホンモノが、もともとない。スタジオレコーディングは聴衆を当然入れず、スタッフだけで行われるから、これは「演奏会での演奏」という意味でのホンモノではない。単に、レコードを作るための録音作業にすぎない?わけで……「ホントの演奏」は、レコードを買った人が、自宅のプレーヤーに針を落とす……そこではじまる?

コレ、それまでだれもが夢想だにしなかった革命的なできごとといっていい。要するに金科玉条のごときご本尊である「実演」がない。というか、レコードを買った一人一人が、いろんな装置で、いろんな部屋で、いろんなことをしながら聴く……その一回一回が「実演」なのだ……なんでこの人、ここまで割り切れたというか、進化できたんだろーと驚異的に思いますが、その演奏を聴いていると、なんとなく感じるところがある。それを書いてみますと……まるで、打ちこみみたいだ……これが、私の率直な感想です。とにかく「音」に対する正確さが比類ない。ここまで「音」をコントロールしきれた演奏家は、それまでだれもいなかった……

はっきり言って、グールドさんは、他のピアニストに比べて、テクニック的にはるかに擢んでている。これはもう、だれもが認める事実であろうと思うのですが……その「差」がフツーじゃなくて、何十倍、何百倍もあるような気がする。基本的に、彼くらいのテクニックに達しなければ「ピアニストでござい」と言って名乗るのは恥ずかしいんじゃないか(いいすぎですが)……まあ、現代のピアニストであれば、彼と同程度のテクニックを持つ人もおられると思いますが、彼の時代では、彼は、テクニック的に飛び抜けてました。まるで、3階建ての建物の横に500階の超高層ビルがそびえているように……その「音」に対するコントロールの正確さは、まるで「打ちこみ」のごとく……

試みに、今ネットで聴けるいろいろなピアノ音の打ちこみを聴いていると、ホント、グールドさんそっくりです。いろんなピアニストのいろんな演奏があって、それぞれ、高い評価を受けている人もいるけれど、テクニック的にはグールドさんにははるかに及ばない。「音楽性」という言葉もあるわけですが……私の聴いた範囲では、ホントに「音楽性」でまた別な高みに達した人って、リヒテルとケンプくらいではなかろうか……まあ、あんまり広範囲には聴いてませんので、こんなこというとお叱りを受けるかもしれませんが……最近の方でいえば、ピエール=ロラン・エマールさんくらいか……いや、読んで不愉快に思われる方がおられるといけないので、「比較」はこれくらいでやめておきます。

要するに、私がいいたいのは、グールドさんは、もともと、他のピアニストとは求めるところが全く違っていて、そこのところが充分に「思想的」といいますか、音楽というものに対して、マーケティングまで含んで、発生(個の著作)から受容(個が聴く)に至る全体のプロセスに反省的意識が充分に働いていて、それが、単に音楽のジャンルにとどまらず、人類の文化全体にかんしていろいろ考えさせられるなあと思うわけです。要するに、やっぱり「個」と「普遍」の問題で……たとえば、「生演奏」を聴きにホールに集う聴衆は、一人一人は「個」なんだけれど……そして、演奏する音楽家もやっぱり「個」なんだけれど、その間には、ふしぎな「普遍」が介在していて、よく見えなくなってます。

私が理想とする演奏形態は、たとえば友人にピアニストがいて、彼の家に夕食に招かれて、食後に、彼が、集った数人の人のために客間にあるピアノで数曲奏でてくれる……そんな感じが、ホントの「生演奏」ということではないか……介在するものがなにもなくて、演奏する個としての彼と、聴く個としての私が直接に演奏によって結ばれる……これに比べると、ホールでの演奏は、演奏する個と聴く個の間に、絶対に「欺瞞」が入ると思います。要するに……音楽には直接関係のないなんやかや……お金やネームバリューや、演奏をきちんと味わえるかしらん?という気持ちとか……演奏する側においてもやっぱりそうで、余分なもろもろ……そういうものがジャマして不透明になってる。

しかし、グールドさんの場合には、これは、グールドさんという「個」が、私という「個」のために直接演奏してくれてる……みたいな感じがあるわけで、このあたりも「打ちこみ」と似てます。まあ、CDもタダじゃないんだけれど、演奏会に比べればはるかに安いし、何度でも繰り返し聴くことができる。場所も、家でもクルマでも、歩きながらでも……私は、以前、阪神淡路大震災のとき、神戸に住む友人宅をたずねて、神戸の町を歩いたことがあるんですが、そのときに、グールドさんの『パルティータ』(むろんバッハの)をウォークマン(もどき)でずっと聴いていた。震災で悲惨な状態になった街の光景とあの演奏が、もう完全にくっついて忘れられない……

でも、でもですよ……他のどんな演奏家でも、CDで、いつでもどこでも聴けるじゃありませんか……というのだけれど、なんか、どっかが違う。やっぱり、グールドさん以外の演奏家は、演奏会が「ホント」でディスクは「代用」。そんなイメージが強い……私がここで思い出すのは、カール・リヒターの「地獄のゴールドベルク」。このタイトルは、私が勝手に付けてるだけなんですが、このディスク、まれにみる「ぶっこわれた」演奏……聴いてると、もう、どうしようか?と思っちゃうんですが……1979年にリヒターさんが来日して、東京の石橋メモリアルホールというところでゴルトベルクを弾いた、その録音なんですが……もう最初から、なんか危機感をはらんではじまって……

とにかくミスタッチの山……うわー、これがあの、厳格きわまるリヒターさんの演奏なの??とぎょぎょっとしながら聴いてると、そのうちに「楽譜にない」道をたどりはじめ……と思うと前に戻ってやりなおし……悪戦苦闘しているうちに、もう演奏自体が「玉砕」してすべては地獄の釜の中に投げ入れられて一巻の終わり……あとに残るは無惨な廃墟のみ、という、もう信じられない破滅的なリサイタルになったんですが……よくこの録音、ディスクとして出したなあ……しかし、なんか、いままでの端正の極地のリヒターさんのイメージががらがら崩れて、そこに現われ出たのは原始の森をさまようゲルマン人……うーん、ホントは、彼は、こんな人だったのか……

この演奏会は、聴きものだったでしょう。現実にあの場にいた人は、みんな肝をつぶして、どーなることかとハラハラしながらいつのまにかリヒターさんの鬼のような迫力に引き込まれていったに違いない……そうか……演奏会の真の姿って、これだったのか……で、ここに比べると、メディアの海にダイヴしたグールドさんの演奏は、やっぱり打ちこみだ……でも、なぜか、このリヒターさんの「地獄のゴールドベルク」と共通の「熱い魂」を感じます。あの、震災の街……それまでの人々の生活が根こそぎ破壊されたあの街をさまよう私に、それでもまだ、人の思いはちゃんと残っていて、また新しく、人の生きる場所をつくっていける……と静かに語りかけてくれたグールドさんの音……

いろいろ、考えさせられます。個と普遍の問題は、そんなにカンタンに割り切れるものではなくて、これは、そこに立ち会う人によって、その人にとって、その場、そこにしかないなにか大事なものをもたらしてくれる。グールドさんは、たくさんの「個」、そのときの個だけではなく、これから未来に現われる数えられないくらいの範囲の個に対して、きちんと自分の「個」としての音楽を届けたいと思った。そこに現われるのは、やっぱり「他の中に生きる」という基本姿勢だったのかもしれない……演奏会が「地獄のゴールドベルク」となって崩壊したリヒターさんの思いも、やっぱりそれは同じだったんでしょう……そうならざるをえない「介在物」の巨大さを、改めておもいしらされます……

*リヒターさんのディスクを改めて聴いてみましたが、最初のアリアから、ミスタッチではないもののヘンな音程の音が混ざってきます。これ、調律にモンダイがあったんではないだろうか……調律の狂ったチェンバロを弾くうちに、なんかやぶれかぶれの自暴自棄に……でも、調律なんか、事前になんども確認するはずだし、ヘンだなあ……と思って聴いているうちに、なぜかひきこまれてしまう……ものすごく興味深い演奏です。これ、やっぱりスゴイディスクだ……

今日のessay:あいまいでとりとめのない話・その2/Vague and Chaotic Story – 02

ファルコンギターc_900

佐治晴夫さんという方がおられて、この方は、グレン・グールドのバッハ演奏をボイジャーのゴールデンレコード(異星人へのメッセージ)に載せることを提案された物理学者なんですが、『からだは星からできている』という本に、おもしろいことを書いておられます。「宇宙背景放射」についてのお話なんですが……まあ、要するに、レーダでとらえられる「宇宙の雑音」ということなんですが、これがじつは「ビッグ・バン」のときの名残りの雑音なんですと……

で、全天からくるこの電波を調べてみると、そこにわずかの「ゆらぎ」があって、その変化が、現在の宇宙の大規模な構造を形成しているもとになってる……観測されたゆらぎのパターンをもとにコンピュータでシュミレーションしてみたら、現在の銀河の構造とぴったり一致したとか。それで、このわずかな「ゆらぎ」が生じる前は、宇宙はまったく均一で、それは結局「なにもない」と等しいと……うーん、このあたり、パースの宇宙論とそっくり一緒だ。彼は、百年も前にビッグ・バン理論を……でも、佐治先生によると、古代『リグ・ヴェーダ』にも似た表現はあるそうで……

「ゆらぎ」というとホントの偶然。それで「均衡」が破れて宇宙がはじまる……で、その痕跡が今もなお、宇宙全体に響いている……ボイジャーのゴールド・ディスクは宇宙人の手でグールドのバッハを宇宙に響かせるのかもしれませんが、その音も、もとはといえば、「はじまりのわずかなゆらぎ」から発している……「宇宙の終わり」は、おそらく現代物理学では、光瀬さんの考えみたいな「熱的死」になるのかもしれないけれど、パースが考えるみたいに「完全な秩序の実現」という様相もおもしろいと思います。これ、物理学で表現するとどうなるのかな?

たぶん、「量子論の不成立」みたいなことになる?? 物体の位置も速度も完璧に決まってしまって、あいまいなところは微塵もない。みな、ガラスに貼り付いたみたいに永遠に固定されてしまって……まあ、要するに「自由」が一切ない世界。これ、困りますね……私のような、束縛されることを嫌う人間は、もう居る場所がない。まあ、世の中、束縛されるのが好きという方は珍しいでしょうから、大多数の人にとっては地獄……なんだけれど、もう、そう考えることさえできない。究極のロボトミーの世界……おそろしい……

私は、こどもの頃から「ゼノンのパラドックス」に興味を持っていました。「飛んでいる矢は飛ばない」とか「アキレスは亀に絶対に追いつけない」というアレです。で、卒論のタイトルも『無限と連続』。カントールとかデデキントとかいろいろ読んで、わけのわからない文章をでっちあげた記憶がありますが……そこで、やっぱりふしぎだったのは、実数の連続が「線」になるってこと。要するに、「点」の連続(集合)が「線」という、まったく次元のちがうものに「変身」してしまうということで、これはふしぎだった……

基本的に、今でもふしぎ……と思う気持ちにかわりはないのですが……でも、いろいろわかってきました。この問題、実は、微積分の成立根拠にも深い関連があって、高校生のときに、微積分が出てきて、その証明を「ε-δ法」でやってる。コレ、理解できませんでした。「微小」を無限に微小にしていくと……ということがわからなかった。「点」ではないものは、いくら小さくしていっても、どうやっても「点」にはならないのではないか……理系の方にたずねると、紙に数式を書いて「証明おわり」となるんですが、こっちはナニが証明されたんだか……

それで、1977年、神戸の映画館で、『スター・ウォーズ』の第一作(エピソード4)を見ました。で、びっくりしたのが、宇宙船のなめらかな動き……模型を撮影してるんでしょうが、それまでの特撮技術とは明らかに一線を画している……『2001年宇宙の旅』の宇宙船もなめらかでしたが、この『スター・ウォーズ』では、宇宙空間を高速で飛び回る……ダイクストラフレックス Dykstraflex とかいうそうですが、模型の動きとカメラの動きをコンピュータで連動させて撮影する……フィルムの一コマを見ると、宇宙船がブレて映ってる……

おお、これはまさに「量子論」そのものではないか……要するに、物体の「位置」と「速度」を二つながら確定することはできないというアレですが……といっても、この場合には、映画のフィルムが1秒24コマという限定から、1コマがこういう映像になってるワケですが……でも、私にはとっては、「無限と連続」を絵で見せられたみたいな感激?でした。つまり、「ブレ」の問題で、フィルムの1コマを「点」とするなら、「点」は実は「点」ではなくて「ブレ」をもった幅、つまり、小さな「線」みたいなものなんだと……

ここで連想されるのがライプニッツ。ニュートンと微積分の「著作権」?を争ったお方でもありますが……彼の「モナド」もやっぱりこんなかんじでした。「モナド」は、どうしても「点」を連想させる。「点」だったら、大きさがないから、中にはなにも入らないはず。ところが、モナドの内部には「襞」があるという……これ、ふしぎです。大きさのないものの内部になぜ「襞」ができるんでしょう……たとえば、y=x2(二乗)という方程式を考えてみます。グラフは放物線になるわけですが、線であるかぎり、「点」の集合として形成されている……

Web

「点」であるかぎりにおいては、どの点もみな「同じ」のはず……ところが、このグラフ上の点は、みな違う。そこにできる接線の傾きとか、X軸Y軸上の位置とか……接線の傾きが一次微分で速度になって、そこにおける加速度が二次微分でしたっけ……違ってるかもしれませんが、要するに、「点」はいろんな異なる性質をもっていて、この性質が、結局モナドの「襞」ということになるんじゃなかろうか……そうすると、ダイクストラフレックスの一画面(点)においてブレて映ってる宇宙船が、つまりはモナドの「襞」という姿になるんじゃなかろうか……

特撮を手がける人のだれもが影響を受けたレイ・ハリーハウゼンという方がおられますが、この方の得意技は「ストップ・モーション」で、要するに人形のコマ取り撮影。これですと、フィルムの一コマ一コマが正確に止まってる。「位置」が完全に確定されている……そのかわり、映像でみるとカクカクとした動きで不自然。日本のアニメみたいにカクカク動く。とくに「速度」が上がるとその不自然さが目立ちます。しかし、一コマでみると映像が流れているダイクストラフレックスの場合、映写で見るとものすごく自然に動く……

これ、要するに、一コマに入るべき情報、つまり「モナドの襞」をコンピュターで正確に制御して、それを連続させているから自然に見えるんではないか……そう思いました。で、パースの『宇宙論』に戻るんですが……彼の場合にも、やはり「点」の集合が「線」になるとは考えていない。なんといったらいいのか……それぞれが内容を持つ「部分」の集合が「線」になるというんですかね……ダイクストラフレックスの一コマみたいに、完全に確定されていない幅をもってブレているぼやっとしたものの集合体が「線」を形成していく……

なるほど……これならよくわかります。そういう「部分」は、いくら小さくしていってもやっぱり「幅」を持っているので、数学的にいう完全な「点」にはならないわけです。で、これを「無限に小さくしていく」ということは、やはり人間の脳内のスペキュレーションだけで可能なこと。これをやると、たしかに「点」にできるのかもしれないけれど、そこには大きな「飛躍」が生じる。ここで「モナドの詐術」みたいなものが働くと思うんですが……ライプニッツのモナドは、これは完全にスピリチュアルな存在なので、本来、物質の世界には関連をもたない……

ところが、微積分においては、このスピリチュアルなモナド(点)と、実体的な世界(物理的世界といってもいい)が「ε-δ法」でムリヤリ?関連づけられます。私は、どうしてもここに「詐術」を感じるのですが……そういえば、ライプニッツにおいては、「死」は「縮退」(コントラクション)なんだそうで、今まで物理的世界に関連してみずからを表出していたモナドが、その表出を無限小にしてモナドの姿へと縮退する……うーん、まさにこれは、人は死して霊魂になるというオーソドックスな考えと一緒ではないだろうか……でも、物理的世界にさまざまな痕跡は、やはり残してしまう……

ボイジャーにその演奏が乗って宇宙に運ばれてるグールドさんは、50才という「若さ」でお亡くなりになりました。その身体は分解されて残ってないわけですが、その演奏は世界中に残っている。いや、彼の身体の一部は、物理的にもさまざまなものに姿を変えて残っているといえる。まあ、これは誰しも同じで、人間でなくてもどんな生物でも……生物でなくてもそうなんですが、痕跡というものが完全消滅することはない……これ、「モナドへの縮退」ということにかんして、いろいろなことを考えさせられてしまいます。

「ヒーラ細胞」というのがあって……ヒーラというのは、かつて生きていたアメリカ人女性の名前らしいんですが、彼女の身体から採取したガン細胞が培養されて世界中の研究所に配られ、本人はとっくに死んでいるのに、その身体から分けられたガン細胞は、世界中で今も生きてる……これ、本人はモナドへと縮退したいのかもしれませんが、それが許されない、ある意味ヒサンな状況……車で道を走っていると、轢かれた動物の死骸をよくみかけますが、彼らの身体は、いろんな車の車輪に一部がくっついて、世界中?に運ばれてしまう……オソロシイ……

人間というモナドは、「文化財」をつくるので、グールドさんの演奏みたいにそれが世界中に拡散して、もうもとのモナドには収集しきれない……それは、原理的にはこういうインターネットの書きこみも同じなんですが、一旦拡散してしまえば「点」には戻りようがありません。これはまた、「個」というものの範囲をどう考えるかということとつながってくるのですが……昔、「透明人間」はどこまでが「透明」なんだろうと考えたことがありました。透明人間がモノを食べたら、どこの時点から透明になるんだろうか……はたまた、透明人間が出したものは??

ということで、ますますとりとめがなくわけがわからなくなりましたので、このへんで。つづきはまた。

メンデルスゾーンの『マタイ』

メンデルマタイ900CC

メンデルスゾーンがバッハの復興に大いに力があった……特に、『マタイ受難曲』の復活初演をやった……ということは、よく知られているわけですが、では、その「メンデルスゾーンのマタイ」がどんなものだったのか……これは、楽譜を通じて推測するしかありませんでした。

メンデルスゾーンは、14才のときにおばあさんからバッハの『マタイ』自筆譜の写本をプレゼントされた。これ、スゴイお宝ですが、メンデルスゾーンの家は銀行家ということで、お金持ちだったんでしょう……で、このときにもらった楽譜をもとにして、20才のときに「復活初演」を果たすわけですが……

そのとき、彼は、かなりの改変を行ったといいます。曲数を3分の2に減らし、楽器も一部変更し、音符自体も少し書き換えてる。まあ「編曲」ということですが、そうしなければ、当時の聴衆には受け入れられないだろう……という事情もあったようです。なんせ、もろに19世紀なんで……

彼は、1829年にベルリンで初演を行い、1841年にバッハゆかりの地、ライプツィヒで再演をしています。両者、同じ楽譜ではなく、楽器も違い、曲数もライプツィヒの方が少し多いみたいです。ここにとりあげたディスクは、1841年のライプツィヒ再演版にもとづくものだそうで、収録は1992年、ドイツのケルンということです。

私は、神戸に友人がいるので、よく神戸に遊びにいきましたが……このディスクは、大震災の一年くらい前に神戸に行ったとき、三宮のCD店で「発見」しました。このお店は、他では売ってないような変わったディスクを置いてるところでしたが……これを見つけたとき、わが目を疑った……

そうか……「メンデルスゾーンのマタイ」も、演奏すれば聴けるんだ……しかし、実際にそれをやった人がおったとは……世の中、わからんもんです。スキモンです……うーん、これはもう、手に入れるしかないではないか……ということで、買ってしまいました。で、聴いてみてまたビックリ。

「メンデルスゾーンのマタイ」……もろ19世紀だし、ロマン派だし、もうめろめろに溶けて流れて……と思ってたんですが、意外やいがい……これはなんともスッキリした、ハッカ飴のような味わい……いや、これはどうして……意外にいけるかも……いやいや、もしかしたらこれはかなりの名演ではなかろうか……

とにかくテンポ、速いです。マクリーシュ盤にむしろ近いくらいのさわやかテンポで迫ります。で、こだわらない。かちっとまとまって輪郭線がキレイ……合唱も厚くなく、すっきりさわやかで、独唱がまた力があって、管弦楽もその位置を心得てたくみに合唱、独唱をサポートしている……これは、いけるんじゃ……

やっぱり録音が新しいからかな? とも思ったんですが、いろいろ解説をみると、指揮者のクリストフ・シュペリングさんは、「史料に基づいて」このテンポを採ったということ。要するに、メンデルスゾーン自身がこのテンポでやってたんじゃ! ということのようです。うーん……そうすると、またイメージ、変わるなあ……

ということで、ここから先は推測ですが、19世紀そのものよりも、もしかしたら20世紀前半の方が、より「19世紀」らしかったんではなかろうか……これは、ヘンな言い方ですが、とくに19世紀も前半は、今、われわれが想像しているような「19世紀」とはちょっと違ってたんじゃなかろうか……とも思うのでありますが……

トーマス・マンに『ファウストゥス博士』というやたらに長い小説がありますが、これを読むと、マンが、19世紀に対して強烈なあこがれを抱きつつも、もうどうしようもなく20世紀という新しい世界を、前に、進まなくちゃならないなあ……という「途方に暮れ感」が濃厚に漂ってます。ある意味、だだっ子みたいに……

過ぎ去った19世紀という世界を懐かしがってる。時をねじまげて戻したい……そんな、ないものねだりの思いが渦巻いて、小説全体が「19世紀病」に浸食されてしまっている……メンゲルベルクの『マタイ』にも似たようなものを感じましたが……それにくらべて、このシュペリング版「メンデルスゾーンのマタイ」のさわやかなこと……

ものごとって、ふしぎですね。去っていったもの、二度と帰らないものは、過剰に美しく見える。人の人生でもそうですが、人類の歴史においてもそういうことはあるのかな……「19世紀病」を残酷に打ち砕いたものは、二度の世界大戦でしたが、それでもまだ完治?せず……いや、大戦自体が、「19世紀病」の結果だったのか……

いずれにせよ、これから先、やっぱり人は、この「19世紀病」をなんとかしなくてはならない。都知事選の候補者で、「ゲンパツは19世紀のテクノロジー」と言った人がいましたが、あそこの部分だけは「名言」だ……ゲンパツも宇宙開発も、結局「19世紀病」のただれきった結果なのかもしれません……

宇宙開発までおとしめるとなると、反発をおぼえる方もおられるかもしれないけれど、私には、その2つを含めて、人類の科学技術の根幹そのものが、やはりまだ、「19世紀」にどっぷり浸かってると思えます。にもかかわらず、IT技術だけは英語にのっかって世界中に繁殖拡大の一途……これ、どーなるんでしょーね……

かつて、キリスト教は、ギリシア語とラテン語という「2大国際語@古代」にのっかって世界中に拡散しましたが……今は、英語にのっかったIT技術がキリスト教のかわりに世界を席巻してるのか……「19世紀病」とは別の範疇から出てきたものであることは確かだと思いますが、はたしてどう位置づけられるのか……

で、この、クリストフ・シュペリングさんの「メンデルスゾーンのマタイ」に戻りまして……今、聴きながら書いているのですが、やっぱり名盤だと思います。キワモノではなく、「バッハのマタイ」の演奏として、かなりアタリじゃないでしょうか……今、手に入るかどうかはわかりませんが、一応CD番号を。<OPS-30-72/73>

なお、「メンデルスゾーンのマタイ」には、もう一枚、ディエゴ・ファゾリスという方がスイス放送合唱団、管弦楽団を指揮したディスクがあるそうですが、これは持ってないのでなんとも言えません……ちなみに、CD番号は<assai 222312-MU702>だそうです。楽譜は、シュペリング盤同様1841年ライプツィヒ再演時のものとか。