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MZくんの一日……強制終了の巻/A day of Mr.MZ_Forced determination

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MZくん、強制終了になっちゃいました。で、世間の関心はもう「次の都知事候補はダレ?」
一部の知識人の方々は「これで終わりはダメ。疑惑の解明がすんでない」という。しかしそれも、お定まりの儀式のようにつぶやかれて消え、もうMZくんは過去の人……

『自己には自分を外化する力が……自分を物にし、その存在に耐えていく力が……欠けているのだ。』

これは、ヘーゲルさんの『精神現象学』の中にあった言葉です。(長谷川宏訳の445ページ)
なるほど……これは、今のMZくんの状況にピッタリ……であると同時に、自分自身に照らしても、かなりぎくっとする言葉です。

「自分を、外化する」、「自分を、物にする」……これは、「公共」(republic)という言葉の語源になったラテン語の「res pbulica」を思わせます。つまり、「the public thing」とか「the public affair」ということで、「公共の物」とか「公共の事」ということでしょう(res は、thing とか affair という意味)。

まあ要するに、自分の内面はみんな「自分の物」だけれど、一旦自分を「外化」して外へだしたならば、それは、多かれ少なかれ「公共」、つまり「res pbulica」の呪縛を帯びてくる……これは、なにもしらない赤ちゃんでも、原則的にそうなんでしょう。こどもが、みんながおおぜいいる場で泣き叫ぶと、親に怒られる。小さい赤ちゃんだと親があやし、それでも泣きやまないと、親がその場から抱いて連れだす。

そうか……「公共」というのは、自分を「物」として、自分の外に出す、ということだったのか……ちょっと、目を開かれる思いでした。自分を「物」として冷たく見放して外に出す力……MZくんには、これが決定的に欠けていたのかな……というか、これは、私自身にも欠けているし、日本人にはちょっとなじみのない考え方かもしれない。

日本の場合には、これに代わって「恥」という感性があって、これが、「自分を物として見る」という西洋型の厳密な論理と同じような機能をはたしていたのかな?という気がします。おそらくMZくんの育った環境では、これ(日本型感性)がかなり濃厚だったんでしょうが、彼は頭脳で攻めて、ソレを克服した(と思った)。しかし……案外、それは尾を引いて、西洋型の、あの厳密で冷酷な「自己外化」が結局できなかった……その結果、論理に基づかない「恥」のような感性は否定するけど、それに代わる「自分を物として見る」論理も身につかず……

これは、結局、今のわれわれ日本人の状況をかなりよく示しているんじゃないかと思います。民主主義も自由も平等も博愛も……そういう西洋型の理念には憧れるけれど、その根底をなす「res pbulica」ということについては、まったくわかっていない……そういう状況で、いろんな行政や自治が行われ、議員さんやお役人が横行し、企業人もそれにならう……こんなんでこの日本、よく今までやってこれたもんだなあ……と、そこは逆にふしぎになります。

私は、かねがね、アチラの人が、公式の場に家族を伴うことが理解できなかった……欧米のひとつの習慣なんだけれど、日本人的考え方からすると、自分の「家庭」と「公共」はきっちり分けるから、欧米の人たちのそうしたふるいまいがなじまない。「恥ずかしくないの?」という、あえていえばそういう思いです。

しかし、ヘーゲルさんの上の言葉に接してみて、もしかしたらそれはこうだったんじゃないか……と。「公共」の場に「家族」を伴って現われるのは、自分を外化するだけではなく、「自分の家族」も、「公共の場」に「外化」する……そういう、一種の決意表明?みたいなもんなのかな?と。

地位が上になったり、公共的に重要な役職を果たす人ほどそれが求められる。つまり、そういう人は、もう「自分」という要素はほとんど奪取されて、家族さえ、すべて「公共の場」に晒される……それによって、自分は、「自分の全部」を「外化」して、「物」として扱う決心ができてるんです、と。

で、みなは、そこを見る。そこがきちんといってれば、その人にその仕事(役職)を任せてもいいんじゃないか……そういうことだったのかも。

まあ、要するに、「私だけじゃなく、私の家族も res pbulica として捧げます」という決意表明。我が身だけではなく家族も、「公共の人質」としてさしだす……そういう意味なら、とてもよくわかります。つまり、われわれ日本人が、「家族」を「恥」とするところを、アチラでは逆で、「家族」も「公共物」であると……ここまで真反対の状況にどうしてなるのかはわかりませんが、現実にはそうなってる?

とすると、もしかしたらMZくんの場合も、そういう「思い違い」があったのかもしれません。彼は、根っこは非論理的な「恥」の文化の日本人なのに、アタマが西洋型を受けいれて、自分も家族も、「その地位」にあると思った……要するにスタイルだけ真似て、本質は真逆の行動……なので、「都知事の家族なんだから、公共なんだから、公費が当然」……そんな思考回路をたどったんだろうか……ものすごくオソロシイ話ですが……

蕎麦打ちにパスタの石釜にコンサートにアート……これ、典型的な日本人の文化人オッサンのパターン……ここには、実はとても難しいものがあると思います。かつてカール・レーヴィットが鋭く批判したように、日本の文化人にどこまでもついてまわる「西洋化」の問題……結局、彼もこれを克服できなかった……そういうことなのでしょうか。

*ヘーゲルさんの上の引用箇所の原文は、以下のとおりです。(英訳もつけます)

Es fehlt ihm die Kraft der Entäußerung, die Kraft, sich zum Dinge zu machen und das Sein zu ertragen.

It lacks the force to relinquish itself, that is, lacks the force to make itself into a thing and to suffer the burden of being.

*日本のマンガやアニメが海外に受けるというのも、実は上のような事情によるのかもしれないなと、ちょっと思いました。自分も家族も「物」として「公共」にさしだすことを要請される西洋型社会……そこで生まれ育った人でも、その厳しさにはちょっと耐えられんなあ……ということもあるのでしょう。そういう人が、日本のマンガやアニメを見ると、そこにはまったく違う世界が……つまり、「自分の内面」を極度に重視し、最後には、それが、「世界」に均衡するところまでいく……そういうものの感じ方は、おそらくものすごく新鮮で、大切なものに映るのかもしれません。

先に引用したヘーゲルさんの文章のあとには、次のように書いてありました。

『自己は自分の内面の栄光が行為と生活によって汚されまいかと不安をいだいて生きている。心の純粋さを保持するために、自己は現実との接触を避け、抽象の極に追いこまれた自己を断念して、外界の秩序をとりいれたり、思考を存在へと転化して、絶対の区別を受けいれたり、といったことはとてもできないとかたくなに思いこんでいる。だから、自己のうみだすうつろな対象は、空虚な意識でもって自己を満たすばかりである。自己の行為は、自分の心のままに頼りない対象におのれをゆだねるだけのあこがれであって、そこから身を引き離して自分に還ってきても、見いだされるのは失われた自分でしかないのだ。……自分の内面においてこのような透明な純粋さを保って生きるのが、不幸な「美しい魂」なのだが、その内面の光はしだいに弱まり、いつしか大気に溶けこむ形なき靄(もや)さながらに、消えていくのである。』(長谷川宏訳)

すべてが見透かされているような……オソロシイ人ですね、ヘーゲルさんは……

イスラム国の意味は?/Can IS have any meaning?

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「イスラム国のやっていることは、むろん非人道的で残虐で、許せないものであるということは当然あたりまえのことですが……」TVなんかで、知識人の方々がイスラム国にかんして発言するときに、こういった言葉の前置きをするのが目立つように思います。つまり、まず否定であり、それを前提にして話をする。政府の対応やABくんのカイロ演説を批判したりするときに、直接入らずにこの言葉を置く。これによって、「私は、常識ある健全な立ち位置でものを言ってます」ということを、まずつまびらかにしておく。そうしないと、「え?あんたイスラム国に味方するの?」と思われても困る……と。つまり、イスラム国は絶対悪であって、それはもう「みんなの常識」なんだと。

しかし……本当にそうなのでしょうか?……なんていうと「え?あんたイスラム国に味方するの?」という言葉がとんできそうですが……でも、ものごとを「客観的に」見るばあい、片方を「絶対悪」として話をはじめるということは避けなきゃならんのでは……と、私なんか、思ってしまいます。まあ、イスラム国の側からみれば、日本もそこに入っている「有志連合」の国々こそが「絶対悪」なんでしょうし、客観的にみれば「ケンカ両成敗」で、どっちもどっちということにならないでしょうか……ここで、私は、今読んでいるヘーゲルの『精神現象学』のことを思い出すのですが……この本は、まだ読んでいる途中なので、あんまりなにも言えないんですが、でも、言いたい。

ヘーゲルというと「弁証法」で、弁証法というと「正ー反ー合」、つまり、テーゼとアンチテーゼが止揚されてジンテーゼになって……という、学校で習った「図式」が思い浮かぶわけですが……実際に元の本を読んでみると、ずいぶん印象がちがいます。ヘーゲル弁証法の図式的理解では、テーゼとアンチテーゼは、ジンテーゼを産むための材料?みたいな感覚で、その結果として生まれるジンテーゼがだいじで、まるで桃から産まれた桃太郎みたいにメデタシメデタシ……となるんですが、実際のヘーゲルは、もう「血みどろの闘争」で、対立する両者は絶対に引かず、お互いがお互いを「悪」として、相手を完全に崩壊消滅させる、ただそのことのみに全力を注ぐ……

なので、その戦いはもう悲惨そのもので、まったく妥協点がない。そんな、ジンテーゼみたいなものを産みだしてやろうなんて互いに毛ほども考えておらず、ただ、相手を滅ぼし、この世界から抹消することしか考えない……これはまさに、今のイスラム国と「有志連合」の状態そのものだ……もう、リクツもなにもなく、相手は「絶対悪」であって、この地球上から相手を消し去ってしまいたいという……ただ、そのことのみで悲惨きわまるぶつかりあいを続けています。これって、ホント、どう考えたらいいんでしょう……と悩むわけですが、ただ「イスラム国が<悪い>のは当然の前提なんですが、その上で……」という話のしかただけはしてはいけないと思う。

イスラム国とか、あるいはボコハラムとか、その他イスラム過激派の言ってることって、ずいぶんショッキングだと思います。奴隷制の復活とか、女性には教育を受けさせないとか……人類が、何千年もかけてようやく到達した「今の状態」を、ちゃぶ台返しみたいに根底からひっくり返して時計の針を巻き戻そうとしているかのような……それで、今の「文明世界」はゲゲッと驚いて、「それはまず、ありえんでしょう」ということになるわけですが……でも、今の、この先進国中心のものの考え方が「人類スタンダード」になってしまっている状況を、思いっきりひっくり返すというか、問い直す、これはもっとも鮮烈な考え方であると見ることはできないのかな?

なんていうと、「お前はイスラム国の味方か!奴隷制を肯定するのか? 女性には教育はいらんというのか!」ということになるので困るのですが……でも、そういった「健全な考え」を無条件に前提とした今のこの「文明社会」において、人々がなにも考えずに目先の幸福の追求や、自分と家族の幸せだけを考えて日々を送っている……その、見えない地脈のかなたにおいて、なにやらぶきみで複雑な動きが起こり、それが知らぬ間に成長して、ある日、「文明社会」のただなかに噴き出す……人は、それを「テロ」だというかもしれませんが、その「根」を産んでしまったのが、自分たちの「なにも考えない幸せなくらしの追求」であったことにはけっして気がつかない。

いや、気がついているのかもしれませんが、それは、実感としては感じていない。だから、テロの犠牲者に対して、「罪のない人々が殺された」という。で、テロをやった側を「極悪非道で凶暴で残忍な卑劣漢」みたいな……しかし、自分たちの「文明社会」を形成してきた根本的な考え方自体が、今、問われているのだ……というところにまでは結局、至りません。自由や平等、民主主義や、科学技術の与える快適な暮らし……今の「文明社会」が、もう無条件に「善し」としているものの「根底」を疑うべきだ……もしかしたら、イスラム国のつきつけている「本当の意味」というものは、そこにあるのではないだろうか……そういう可能性は、ホントにゼロなんでしょうか?

ものごとは、結局、すべてが相対的で、絶対悪、絶対善というものはない。そういうことなのかもしれませんが……私は、もし本当に「絶対悪」というものがあるとすれば、それは「原子力」で、これだけはもう、なんの弁明の余地もない「悪」だと思いますけれど(これについては、別のところで書いてますが)、それ以外のものごとはみな相対的で、「おまえは悪だ!」と決めつける、そういう考えの方にモンダイがあるんじゃなかろうか……やっぱり、そう思ってしまいます。ものごとを、片面から見ないこと。あっちの側に立ってみたらどう見えるんだろう……常にそういう視点を失わない……これって、なかなか難しいことだと思いますが……

イヤなものをいくら拒否しようと、それが「存在する」のは「事実」なのだから、「悪だ」という言葉だけで否定しても、なにも解決しない。イスラム国の問題は、「文明社会」の人たちが考えているみたいに、少なくとも「ボクメツ」するだけではすまないし、そういうことも、結局できないでしょう。「イスラム国」という存在ではなく、「イスラム国現象」として考えてみた場合、モンダイの意外な広がりと根深さに気がつく。人類社会は、数千年をかけて、どういうところに到達したのか……最近、TVで、スティーヴン・ピンカーさんという方の、「実は、暴力は減っている」というスピーチを見ました。以下のサイトで、その概要を知ることができますが……

1月7日放送 | これまでの放送 | スーパープレゼンテーション|Eテレ NHKオンライン
スティーブン・ピンカー: 暴力にまつわる社会的通念 | Talk Subtitles and Transcript | TED.com

この方は、ハーバート大学の心理学の先生で、いろんなデータを駆使して、「暴力は確実に減っている」ことを論証……なかなか説得力があるお話で、感心して聞いていたんですが……要するに、みんな無意識に、現代に至るほど人類社会は残酷で暴力的になりつつあると思っているけれど、実は逆なんだと。報道の発達でそういうシーンを目にする機会が多くなっただけで、ホントは昔の方がはるかに暴力的だったんだ……と。このお話からすると、イスラム国なんか、せっかく築いてきた平和な人類社会を全否定して、昔の「暴力の時代」の復活を企む、まさに悪魔のごとき……となるんですが……ちょっと待てよ……と。たしかに、人々の意識から、暴力的で残虐なものは、追い出されつつある……

それは確かだと思うのですが、でも、追い出された暴力的なもの、残虐なもの……そういったものを好む人の思いの「根っこ」は、はたしてどこへ行くのだろうか……さらにいうなら、人は、人に対しては暴力を控えるようになったのだとしても、では、人以外の存在に対してはどうなのか……クジラやイルカなんかは必死で守る人もいるけれど、現代文明というものは、昔に比べて、はるかに「自然」に、大きな負荷をかけているんではないだろうか……そこんところは、西洋的な考え方ではオッケーになるんでしょうか……いやいや、環境問題への取組みは、西洋文明の諸国こそが先進的なんだと……そういうことかもしれませんが、でも、ちょっと待てよ……と。

環境問題に熱心になるのも、最終目標が、「人間が住めなくなると困る」という、人間の利己的動機だったとすれば、それは結局「人にはやさしく、そのために、自然にもやさしく」ということで、それはおんなじこと。あくまで自然は、人間が利用するためにあるのだ……西洋スタンダードの発想は、結局、どうしても、こういう人間中心の考えを抜け出ることはできないのか……最近公開された映画の『地球が静止する日』じゃないですが、「地球と自然を守るために人類を滅ぼす」……イスラム国と有志連合の、互いに互いをサタンとののしっている掛け合いを見ていると、実は、根底で、このプロセスが、静かに進行しているんじゃなかろうか……とも思えてきます。

浜の真砂は尽きるとも、イスラム国の種はつきまじ……ものごとは、その見えてる現象の奥に、ずーっと、暗い、深い世界にまで達する「根」があって、表層の「悪」を刈りこむだけではなんにも解決しない。じゃあ、その根をなんとかしたい……と思って掘り下げていくうちに、実は、自分たち自身がその「根」にしっかりつながっているのを知って愕然とする……人類社会は、「良くなった」んじゃなくて、実は、「良くなったように見えている」だけなのか……ヘーゲルさんの『精神現象学』に、上昇する「アウフヘーベン」よりも、下降する「ウンターゲーエン」の必要性を読んでしまうのは、これは正しい読み方じゃないかもしれませんが……どうなんでしょうかね……

写真は、うちの近くの田んぼの畦みち……冬の朝日の光を受けて、なにか祈っているように見えた……中央に見える、四角い屋根のある小さな構造物は、イノシシから田んぼを守るための電気柵のコントロール装置です。ここらあたりでは、数年前からイノシシの数がやたらに増えて、田畑を荒らし、土手を壊し……もうタイヘン。こうやって、スタンガンなみの電気ショックで「防衛」したり……昨年は、小川に逃げこんだうりんこ(イノシシのこども)を村のオジサンたち数人が追いまわし、撲殺している光景をまのあたりにしてしまった……棒で、うりんこを何度もなんども殴る。息絶えるまで……なぜ、イノシシがこんなに増えたのか……そこは不問。ただ、殺す。

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オスカー君、スゴイ!……正義と公正への道/You are great, Oskar!

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自身の被害感の中に、黒く沈む心……「ワリくってるのはオレたちだ……」これは、「正義感」への芽かもしれないが、それはもうすでに黒くただれて腐った芽……正義と公正へ向かう一歩かもしれないけれど、それはどこまで行っても「自分のため」だけの正義と公正……ということで、もうちょっと、「盲導犬刺傷事件」の犯人のことを考えてみます。

こういう歪んでしなびた心が、きちんとした「正義と公正」に向かうことがあるんだろうか……というと、それは「ない」気がする。ホントの「正義と公正」に向かう心は、最初からもっと違うんじゃないか……たとえば、刺された盲導犬のオスカー君の心みたいな……自分が刺されているのに、まったくゆらぐことなく「自分の役割」だけをまっとうする……

このオスカー君の心の方が、刺したヤツのねじくれた黒い心よりは、はるかに「正義と公正」に近い……これは、だれしも認めることだと思います。むろん「盲導犬は飼い主の目だから……」という人間のことしか考えてない発想よりもはるかに「人間的な」、「正義と公正の感覚」を持ち合わせている。オスカー君は犬なので、人の言葉はしゃべりませんが……

もし、彼がしゃべることができたら……という発想は無意味ですね。もし、しゃべることができても、彼はなにも語らないだろう……ただ、黙々とみずからの「役」をこなすのみ……われわれはここで、「沈黙の力」にうたれます。ヘイトスピーチの、あの「ぎゃあぎゃあ」とは雲泥の差だ。恥ずかしいとは思わないのか……あの方々は……

なにも語らず、ただ黙々とみずからに与えられた「役」をこなす……これは、「奴隷の発想」だという見方もあるかもしれない。たしかにそれはそうかもしれませんが……私は、こどものころ、『ロビンソン・クルーソー』を読んで、かすかな違和感を覚えた。それは、クルーソーが「奴隷の」フライデーに対する、その態度というか見方というか……

あまりはっきりは覚えていませんが、「忠実な友」みたいな扱いだったと思います。でも、これって矛盾してる。クルーソーに「忠実」ということは、彼のいうなり思うまま……で、そこを「友」と評価する。じゃあ、ちょっとでも反対意見を述べたらもう「友」じゃないのか……ビーグル号でのダーウィンと艦長フィッツロイは、「奴隷」の扱いをめぐって口論に……

激高したフィッツロイは、ダーウィンを食卓から追い出してしまったといいますが……(あとで謝って仲直りしたというけれど)ヨーロッパ社会は、こういう「考え方の違い」を徹底的にぶつけ合うことで形成されてきた。ときに、それは暴力沙汰になろうとも……で、彼らは、そうやって徹底的に反論してこないものたちを「奴隷」にしていったのでしょうか……

たぶん……おそらく、ですが、彼らは、徹底的にやり合うことによって、その対立の果てに、「対立を超えるもの」をきっと見つけられる……そういう思いはあるんだと思います。プラトンの対話篇を読んでもそう思うし、ヘーゲルの『精神現象学』なんかでも妥協なく、お互いが滅びてしまうまで徹底的にやる。ローマとカルタゴの戦いもそうだったし……

黒く、ねじまがった「自分だけの正義感」が、きちんとした「正義」に育つルートがもしあるとするならば、もはやこういう道しかないのかもしれません。とにかく、いっさいの妥協を排して、お互いが滅びるまで徹底的にやる。両者が滅びたあとに「これではさすがにいかんかったなあ……」という、ホントの「正義と公正」に向かう芽が出るのか……

しかし、オスカー君の考え方は、まったく違う。そういう「徹底した対立の道」ではないルートをわれわれに示してくれて、みごとです。マッカーサーは日本人のことを「12才」と言ったが、彼がオスカー君のことを知ったら「0才だね」というかもしれない。いや、「犬のようだね」というかもしれません。まあ、そりゃそうだ。実際、犬……

なんですが、私には、人間、少なくとも彼を刺した人間なんかよりはるかに立派に見える。刺した人は、こんどはぜひ、盲導犬に生まれかわってくださいね、と言いたくなる……まあ、せっかく犬に生まれかわっても、訓練の初期で脱落するでしょうけど。「魂の輝き」みたいなものはやっぱりあって、オスカー君みたいな「任」をになえる魂というのは……

やっぱりあるのでしょう。私にソレができるか……と問われれば、やっぱりできないと思う。四六時中、自分のことばっかり考えている。自分の幸不幸、自分の未来(もうあんまりないけど)、で、あとは家族のこと……友だちのこと……せいぜい、考えが及ぶ範囲はそこまでで、この範囲に「害」を及ぼしてくるヤツは、やっぱり「敵」とみなす……

昔、政治家という方々が嫌いでした。今でも嫌いなんですが……でも、彼らが、「自分のこと」から出ようとしていることだけは、ようやくわかってきました。「被害感」でなみなみと満たされた「一般大衆」は、「政治家はきっと裏でいっぱい悪いことをやってる」と思う。私もそう思ってたし、今でもやっぱりそう思う。でも、待てよ……

自分があの立場に置かれたら、どうするんだろうか……ABくんが、園遊会で天皇に直訴した某議員のことを評して「アレはないよな」と言った。なるほど……やっぱりこの人、首相という立場に立ってるだけのことはあるなあ……言ってることもやることも「ウソ」だらけでまったく信用できないんだけれど、この一言にはちょっと感心……

「正義と公正への道」……オスカー君は、もう無言で達成しているけれど、人間にはなかなか難しい。ガンジーの「非暴力・不服従」が、人間にできる、ソレにいちばん近いものかもしれない……でも、オスカー君は、「非暴力」に加えて「絶対的服従」なので、ここが人間とまったく違う。人から見れば「奴隷の態度」なんですが、はたしてどうなんでしょうか……

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インド独立の父、マハトマ・ガンジー。この方は、なぜか日本のインキ消しの商標になってしまってます。最初に掲げた画像なんですが……大阪の丸十化成という会社が出している、2液式の修正液で、赤い液と透明の液の小瓶が並んで入っている赤い箱が、昔はどこの家庭にも一つはありました。いつのまにかみなくなりましたが……

まだ、発売はされているようですね。この会社は、昭和10年(1935)に野口忠二さんという方が起こされて、翌年からこのインキ消しを発売したそうです。おりしも、昭和5年(1930)には、ガンジーの独立運動で、有名な「塩の行進」が行われていた……野口さんは、ガンジーの「非暴力」にいたく感激して、商標に使うことにしたとか……

詳しく書いてあるサイトがありました。
http://www.maboroshi-ch.com/old/sun/toy_16.htm

強いヤツの中の弱いヤツ/Weak guys among strong guys.

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盲導犬がフォークとおぼしきもので、身体の四カ所を刺された……でも、吼えもせず、騒ぎもしなかったので、飼い主はずっと気がつかなかった……このニュースを聞いたときに、「あんたん」たる気持ちになりました……まず浮かんだのは、「刺したヤツを死刑に」という言葉だった。でも、このニュースの含むものは、それだけでは済まなかった……

なんでそんなことをしたんだろう……と思って考えていくと、自分が「ゼッタイにそんなことをやらない」とは100%言い切れない……ということにつながって、こんどは「がくぜん」とした。むろんやらないんだけれど、やったヤツの気持ちが「まったくわからん」とはちょっと言い切れない。わかる、とはいわないけれど、わからん、ともいえない……

街を歩く盲導犬。やっぱり犬だし、それもけっこうでっかい犬なので、犬の持ってる「コワさ」みたいなもんはどうしても共通してある。電車にも乗るし、レストランにも入る。そういう、「フツー犬が入ってはいけない場所」にも自然に入ってくる……テレビなんかで盲導犬のことはよくやってるから、それは「公共的に」許可されてることはわかってる……

おそらく、刺した人物も、それは知っていたのでしょう。でも、自分の「ヤだな」と思う気持ちに勝てなかった……テレビでは、盲導犬関係の人が、「盲導犬は、飼い主の<目>だから、犬に対する攻撃は、飼い主の<目>に対する攻撃」と言ってた。この言葉には、イジョーに反発を覚えた。これ、ある意味、刺したヤツといっしょだ……

そーですか……盲導犬は、飼い主の「目」にすぎんのですか……なんという人間中心の考え……犬がかわいそうではないんですか……飼い主の「目」がかわいそうなんですか……刺した人物は、おそらくそんなことは考えてなかったと思いますが、その行為には、こういう「盲導犬をつくりだした人間社会」に対する反発が……

刺したヤツは、「強いヤツの中の弱いヤツ」だと思います。この点、ヘイトスピーチといっしょ。「なぜ、あんなヤツらの利益を守るんだ、オカシイ!」という、社会に対するこういう思いが、あのナサケナイ行進を呼ぶ……ナチスの台頭のときもそうだった。「なぜ、ユダヤ人が野放しにされてるんだ!」

マイノリティは、成熟した社会では、法律で守られます。でも「強いヤツの中の弱いヤツ」にはこれが納得できない。なんであんなヤツらの利益を、国が守ってやんなきゃならないんだ……ヒドい目に会ってるのはオレたちなんだ……オレたちをほっといて、あんなヤツらを、この社会は守るのか……「強いヤツの中の弱いヤツ」はこういう。

今回の「盲導犬刺傷事件」にも同じような「沈黙の叫び」を感じる。「強いヤツの中の弱いヤツ」は、自分が、いつもワリをくってる……くわされていると感じる。それで、社会や法律によって守られてるマイノリティを見ると、「あんなヤツらのためにオレたちが……」となる。
「強いヤツの中の強いヤツ」はたぶんこうはならない。

というか、なる必要がない。強いので……「強いヤツの中の弱いヤツ」は、自分が「強いヤツ」の中にいることを知らない(フリをしている)。被害感情がなみなみと注がれているから、それは自然にあふれかえってヘイトスピーチになったり、盲導犬をみるとフォークで刺したくなったりする。盲導犬が……

攻撃を受けても、人間にはゼッタイに反撃しないということを知ってやってる。まさに「強いヤツの中の弱いヤツ」の真骨頂だ……ここまで「堕ちる」ことができるのか……「強いヤツの中の弱いヤツ」は、自分で自分を救うしかない。自分がそういう気持ちになるとき、やっぱり「オレってサイテイ」と思う心……

コレがだいじだと思います。コレがないと、ホントにやっちゃう……ユダヤ人400万をガス室に送ったのは、こういう「強いヤツの中の弱いヤツ」でした。でも、今度は、やられたユダヤ人が、パレスチナに同じことをやってる……「被害感情」は、必ず「弱いヤツ」のものだ。「強いヤツ」は当然、こんな余分なモノは持ってない。

でも、多くの人間は、やっぱり「弱いヤツ」……それは、自分も当然含めてなんだけれど……だから、「盲導犬に対する攻撃は飼い主の<目>に対する攻撃」なんて言葉が平気で言える。これにかんするかぎり、どっちもどっちだ。犬を人の<目>として使うなんて発想は、やっぱり、コレ、ヨーロッパのものでしょう。

昔は、奴隷をそうやって使っていた。そういう社会の中から「盲導犬」が生まれ、大虐殺も生まれる。法律でマイノリティの権利を守るということは、そうしなきゃならないような必然性が社会自体の中にあるから……だから、力と力の抗争になる。ヘイトスピーチのような「汚物」も、当然そこから生まれてくる……

「汚物」……「強いヤツの中の強いヤツ」は、逆にヘイトスピーチを批判している。国際的に恥ずかしい行為だと。で「日本人よ、誇りを持て」という……なんという無神経な言葉……まあ、「強いヤツ」の言葉です。フツーの「弱いヤツ」は誇りもなんもない。ただ、「被害感」がなみなみとあふれて、溺れている……

この、平成日本という社会も、だんだん危ないところに近づいてきたなあとつくづく思います。みんなが「強いヤツの中の弱いヤツ」になっていく……それは、結局「弱いヤツ」の社会だ……どうなるのでしょうか……最後に、今読んでるヘーゲルさんの『精神現象学』の中から、ちょっと関連ありそうなところを……

『意識のもとにあるこの自然が「感覚」と呼ばれるもので、それが意志の形をとってあらわれたのが「欲求」とか「好悪の情」と呼ばれるものだが、それは自分独自の確固たる思いや個別の目的をもっていて、だから、純粋な道徳意志や意志の純粋な目的に対立するのである。が、純粋な道徳意志にとっては、この対立を押しのけて、感覚と意識の関係を、もっといえば、感覚と意識の絶対の統一を、作りだすことが肝要である。意識のもとにある純粋な思考と感覚とは、もともと一つの意識に包含されるもので、純粋な思考とはこの純粋な統一を自覚し、うみだすものである。が、意識にとっては、思考と衝動の対立は否定のしようがない。そのように理性と感覚が対立するなかで、理性のとるべき態度は、対立を解体し、両者の統一という結果をもたらすことである。この統一は、両者が同一の個人のうちにあるという当初の統一とちがって、対立の認識を踏まえてそこから生じてくる統一である。そうした統一こそ現実の道徳と呼ぶにふさわしいもので、そこには、現実の意識としての自己と共同的なものとしての自己との対立がふくまれている。いいかえれば、見られるように、道徳の本質に根ざす媒介の運動がそこには表現されているのである。』(長谷川宏訳:ヘーゲル『精神現象学』p.411から)

なるほど……こうやって、ヨーロッパの思考は、「道徳」というものを社会的に形成してきたのか……個人のうちにとどまる段階と、それが社会共同体の中で展開される段階……しかし、ヘーゲルさんの思考は、この部分では「まっとう」に見えるけれど、やっぱりこれだけでは済まないのでした……そこが、おもしろいところなんですが。

今日のehon:世界精神の落日(つづき)

ヘーゲル

世界精神……というと、やっぱりヘーゲルさん。哲学の世界にそびえる巨大な山……フツーに、読めません。ホンヤクしてあっても。『精神現象学』をずっと読んでますが、なんと一年に7ページしか進まない。これじゃあ、死んで生まれ変わってまた死んで……何回輪廻転生をくりかえしても読めない。なんでこんなにわからんのだろう……

ヘーゲルは、ナポレオンのことを、『世界精神がウマに乗ってる』と言ったそうですが、ナポレオンの台頭と失脚は、彼の哲学にかなり甚大な影響を与えたみたいですね……で、もう一人、ナポレオンにかなり深刻な影響を受けた方……あのベートーヴェン氏。分野は音楽ですが、なんかすごくヘーゲルと感じが似てます。年も近いみたいだし。

ベートーヴェンと思って調べてみましたら、二人はなんと、同じ年(1770)の生まれでした。没年も、ヘーゲルが1831年でベートーヴェンが1827年。二人の生涯はほぼぴったりと重なっております……ちなみにナポレオンは1769年生まれの1821年死去で、やっぱりほぼ重なる……この3人、「世界精神3兄弟」だ……すごい……担当分野はそれぞれ、思想、芸術、そして政治。

ナポレオン

「ヴェルトガイスト・ブラザーズ」(独英ちゃんぽん)で売り出したらどうか……というのは冗談ですが、19世紀の幕開けって、そんな感じだったんですね……で、この時代、日本はどうだったかというと、江戸時代も中期で、田沼意次はナポレオンが生まれた1769年に老中格(準老中)になってます。このあと、松平定信の寛政の改革が1787年~1793年。上の3人の青春時代ですね。

では、「新大陸」はどうかな? 調べてみると、アメリカの独立宣言が1776年で、これはヘーゲルとベートーヴェンが6才、ナポレオンが7つのときですね。アメリカも彼らと同時代人? いや、人ではないけれど、なにか「新しいこと」が西と東で同時にはじまったような……要するに、これが「世界精神の夜明け」ということになるのかもしれません。

そのあと、世界精神は、短いけれど豊かな「昼の時代」を迎えます。工業化による大量生産と植民地からの収奪を基盤にした市民社会の繁栄……19世紀初頭にナポレオンははやばやと舞台から去り、大英帝国が世界を席巻する中で、徐々にアメリカが頭をもたげてくる……19世紀の後半に入るとアメリカは南北戦争で国の基礎を固めるが、その頃、日本もやはり幕末で列強の体制に参入する準備を着々と整える。19世紀は、過去からの潮と未来からの風がぴったり合わさって「人類力」の加速度ベクトルが最高潮に達した、ある意味幸せな時代だったのかも。

では、「世界精神の落日」は……というと、やっぱり20世紀初頭、おそらく1911年くらいからではないだろうか……世界は、またたく間に2度の世界大戦に呑みこまれ、「世界精神の凋落」は決定的となる。しかし、人は、残滓のようなわずかな光芒にしがみつき、そのあがきはついに世紀を越えて今にまで至っている……長い、長~い「落日」は、はたしてどこまでつづくのでしょうか。