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こども化の時代/A childish era

『いままでなんかいも死のうとおもった。でもしんさいでいっぱい死んだから つらいけどぼくはいきるときめた』

最近、もっとも心に残った言葉です。

原発事故で、今まで平和に暮らしていた福島を追われ、横浜に避難した小学生。新しい学校で、名前に「菌」を付けられるなどのいじめに……どんどんエスカレートして「賠償金あるだろ」と金をせびられ、被害額がなんと150万円に……

学校が動かなかったということで避難ゴウゴウですが、テレビである評論家の方が、こんなことを言ってたのが印象に残りました。
『こどもが「賠償金あるだろ」とかいうわけないから、これは、その子らの親が、家でしょっちゅう「あいつらは賠償金あるから」とか言ってたんじゃないかな。』

この言葉を聞いたとき、私にはかすかな違和感があった。この評論家の方は、いつも的確な論評で、私はかなり信用してるんですが、このときのこの言葉だけは、「えっ?そうだろうか……」と思った。

なんか、こどもを、かなり理想化して見ているんじゃないかな……と感じました。こどもって、そんなに「純」なんだろうか……いや、むしろ、「賠償金あるだろ」は、その子の率直な思いがそのまま表われた表現だったのかも……

このことにかぶさって、浮かんできたのは、やっぱり「トランプ現象」ですね。評論家やマスコミ……つまり、「インテリ層」がほぼ全員読み違えた。この「ミス」の中には、先の評論家の方の、「こどもがそんなこと言うはずがないから大人が……」という感覚が、やっぱり重なってきます。

大人は、むしろ率直な物言いはしないのではないか……「賠償金あるだろ」と心の中では思っていても、「理性」がそれを言葉にして口に出すのを止める。そんなことを口に出して言うのは、とても恥ずかしいことで、自分が「大人なら当然持っているはずの理性」を持っていないことを公言するようなものだ……

しかし……トランプ現象や、世界中での「右翼化」を見ていると、もうすでに、その「歯止め」はとっくに乗り越えられていたのかも……という気もします。「大人のこども化」。これが、社会の深部でどんどん進行していて、ついに表層に表われてものすごい地滑りを引き起こしはじめた……なんか、そんな感じです。

日本でも、生活保護を受けている人たちに対して、かなり風当たりがきつくなってきている。私自身、ある人(むろん大人)から、生活保護の受給者を口汚くののしる言葉を聞いて愕然としました。彼は、ある医院でリハビリを担当している整体師で、ものすごく腕がよく、私も受けていて、すっと身体が楽になるのでたいした人だ……と思っていたのですが……話が生活保護のことになったとたんに悪口雑言……あいつらは、働けるのに働かんで、オレたちの税金をかすめとってのうのうと……もう、耳をおおいたいくらい……

生活保護だとたしか医療費も免除されるから、彼自身、そういう患者を担当して「なんだコイツ、こんなに健康な身体で怠けて生活保護かよ」と思ったのかもしれませんが……しかし、ここにある構造は、あの事件の「賠償金あるだろ」と同じだ……

人間って、心の奥底では、やっぱりいろいろとヘンなことを考えるもんだと思います。現に、今これを書いている私もそうで、もし人に知られたら人格を疑われるんじゃないか……というようなことまでやっぱり思っちゃう。でも「理性」があるので、それを口に出して言うようなことはしません。それこそ「口が裂けても」……

でも、それは、一面からいえば「大人」なのかもしれないけれど、他面からいえば「不純」なのかもしれない。自分の「ほんとうの気持ち」をおしかくして、外づらよく世間とつきあってる……いかにも自分が「理性ある」存在のごとく……

「隠れトランプ」……この人たちは、典型的にそういうタイプだったんでしょう。ポリティカル・コレクトをよく知ってるから、「理性」でそれに従ってるように見せているけれど……自身の「奥の心」との矛盾に耐えきれない。有色人種ってヤダなあ……とか、同性愛?うえーキモチわるいー……とか、イスラムって、怖いよなあ……とか……そういう「ホンネ」を「理性」で覆い隠して生きてるって、どうなのよ……

で、選挙でカミングアウト。ここには、まさに「マイノリティの構図」さえみられる……んだけれど、トランプさんが勝っちゃったから、彼らはやっぱりマイノリティとはいえないのかもしれません……

ということで、複雑に錯綜しているようにみえるけれど、見方を変えればものごとは単純で、一言でいうなら、「みんなどんどんこどもになる」ということでしょう。世界中で、これが進行しつつある。人類が、長い間、多大な犠牲を払ってようやく獲得した(かのようにみえる)理性が……もう、みんな、そんなもんにはかまっておられぬ、「奥の心」をストレートに出すのだ……ということで、これからは「こどもの時代」が始まるのかもしれません。

私がここで思うのは……やっぱりこれは、明確な「理性批判」なんだと。ついこの間、「パリの同時多発テロから一年」ということで各局が特集してましたが……あのときのフランス市民の対応は、とにかく「理性」なんだと。だけど、自分たちが「究極の価値」であると思っている「理性」が実はものすごい「暴力装置」で、その影に、おびただしい人々が苦しんでいることはまったく省みない。だから、マホメットを平気で茶化すようなことをやって、それは「エスプリ」(知性、つまり理性)なんだという……

そんな安物の「理性」は、これから始まる「子供化した人々」の圧倒的な「理性批判」にはとうてい耐えられない。あっというまに崩壊してしまう。はっきり言って、イスラム過激派のテロも、トランプ教徒も、「賠償金あるだろ」もみな同じ。それらはすべて「こども化」した人々による「理性批判」なんだと思います。

これからは、その傾向がどんどん強くなる。蓋があけられたら最後ですね。……人間の「理性」は、これに耐えて、生き残ることができるのだろうか……カントが『純粋理性批判』を書いてから200年余。彼が2世紀前に書物の中で試みたことが、今、実践に移されようとしています。たぶん、ホントに悲惨なことになるのでしょうが……

みんなが「こども」になっちゃった社会……200年もあったんだから、その間に、みんなでカントが提起した問題を真剣に考えときゃよかったんでしょうが……『純粋理性批判』の書き方が難しすぎたのか……ある意味、カントさんももうちょっとわかりやすく書いてくれていたら……とも思いますが、やっぱりあの時代では、ああいう書き方しかなかったのかなあ……

ということで、思いがけぬ「実践」になってしまった。おそらく、これからかなりの間続くのでしょう、「みんなこどもになる世界」。

『いままでなんかいも死のうとおもった。でもしんさいでいっぱい死んだから つらいけどぼくはいきるときめた』

最後にやっぱり、この言葉。すごいなあ……小学生の言葉なんですが、これはもう、立派な「大人」の決意表明ですね。今の大人がどんどん「こども化」しているなかで、次の世代のなかに、ちゃんとしっかり「ホンモノ」が育っている。

トランプ現象で、世界はどうなっちゃうんだろう……と、みんな不安に思っていますが……私は、この言葉の中に、「新しい時代を開いていくもの」を見た気がします。そして、今のへなへなの「理性」ではなくて、これから開花するホンモノの「理性」のきざし……

彼が、この言葉にたどりついた道程……それは、身を切り裂く苦しみだったと思う。ベートーヴェンじゃないですが、やっぱりホンモノは、苦しみを避けては得られない。これからの人類……どんな道を辿るのかわかりませんが、地獄の苦しみの果てに得られるもの……それが、すべての人が納得できる「理性」。そうなるのでしょう……

やがてじぶんになるまどろみ/Drowsiness becoming oneself

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昔、「Ich bin Es」という絵を見ました。「私が、ソレである」という訳になるのでしょうか……ネットでさがしてみると……見つかりました。コレ → リンク です(いちばん上の絵)。

ルドルフ・ハウズナー(Rudolf Hausner)という絵描きさんが、1948年に描かれた絵のようです。

ハウズナー(1914 – 1995)は、オーストリアの画家で、いわゆる「ウィーン幻想(写実)派」( Wiener Schule des Phantastischen Realismus )の一人とされています。40年くらい前?に、日本でこの一派の大々的な展覧会があって、私は名古屋で見ましたが、昔の愛知県美術館の壁面いっぱいに、巨大な作品がいくつも、かかっていたのを思い出します。とにかく、デカくて細かい。よう描いたなあ……というのがそのときの印象……

ウィーン幻想派全体については、松田俊哉さんという方(国士舘大学文学部教育学科教授)の論文↓がわかりやすく解説してくれてます。ちなみに、この方自身、絵描きさんで、絵もとてもおもしろい。
リンク(ウィーン幻想派 その背景と5人の画家)
リンク(松田俊哉さんの作品ページ)

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Ich bin Es …… 英語では、I am it ということになるのかな? ドイツ語ー英語の翻訳サイトで見ると、It’s me というふうになっていましたが、この言葉は、元々、聖書に出てくるもののようです。しかも、特別な意味を持って。

たとえば……

マルコ福音書の14章62節。ユダの裏切りによって捕えられたイエスが、大祭司の前で裁かれるシーン。大祭司の、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」という問いに対して、イエスは、「わたしがそれである。」と答えます。

この部分、ギリシア語原文では、「egoo eimi.」(長母音ωをダブルオーで表現)、ラテン語訳は「Ego sum.」、英語訳は「I am.」、フランス語訳は「Je le suis.」そしてドイツ語訳では「Ich bin’s.」(Ich bin Es)となっています。

ギリシア語原文、ラテン語訳、そして英語訳には「es (it)」に相当する単語がなく、人称代名詞の一人称単数主格形とbe動詞の組み合わせ。これに対して、フランス語とドイツ語には、それぞれ suis と es が入ってます。

この言い回しがなぜ「特別」なのかというと……これは、どうやら「神が、自分自身を表わす」という特別の時に用いられる表現であるということのようです。「私が、それである。」つまり、わたしがキリストである……ということをみずから述べる、その決定的なシーンであると。

神は、「在りて在るもの」ともいわれますが、「存在」ということが、神のもっとも基本的な性質になってるみたいです。suis や es に相当する語を入れていないギリシア語、ラテン語、英語だと、一人称の人称代名詞 + be動詞 という構成は、そのまま「私はある」と訳せますが、この感覚だと思います。

私が、私として「在る」のは、なぜだろうか……カントの『純粋理性批判』を読んでいると「統覚」(Apperzeption)という言葉が出てきますが、この言葉を最初に用いたのは、どうもライプニッツのようで、手もとの哲学事典(平凡社)には、次のように書いてありました。

………………………………………………………………
明瞭なる知覚表象および経験を総合統一する作用の意味。この言葉を最初に用いたライプニッツによれば、知覚は世界を映すモナドの内的状態であり、統覚はモナドの内的状態の意識的な反映である。
………………………………………………………………

もうだいぶ以前に、作家の安部公房さんの講演会を聞いたことがあります。『箱男』という作品の書き下ろしのときだったので、40年くらい前かと思いますが……そのときの彼の話で印象に残ってるのが、「一人の人間の表現力」について話されたこと……

彼は、「一人の人間の表現力というのは、それはすさまじいものがある」というようなことを語った。言葉がこのとおりだったかどうかは自信ないのですが、たとえば、街で、だれかが絶叫したり暴れはじめたりする。それが、抑制のきかないものになれば、たった一人でも、ものすごいことになる……なんか、こんな内容だったと思います。

ふつうの暮らしでは、だれでもちゃんと抑制を効かせているので、社会の中の一メンバーとして嵌っているけれど、そういう人でも、ちゃんと「一人の人間としてのすさまじい表現力」というものを持っているんだ……なんか、こんなようなことを語られた。

その後……たとえば、秋葉原で人を車で轢きまくってナイフで刺しまくった事件とか、小学校でこどもを何人も殺した事件とか……そういう、「野蛮な」ニュースに出会うたびに、安部公房さんのあのときの語りを思いだします。おれが、オレが……この「鬼」が目覚めると、人は、「本当の鬼」になる……

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『箱男』は、ダンボールの大きな箱を頭からかぶって、箱の中に生活用品いっさいを吊るして、家もなく街をさまよう男の物語でしたが、今思うと、この「箱の中の世界」は、奇妙にモナドの様態と似ている気がします。「箱」が「内部」と「外部」を完全遮断していて、男の自我は、「箱の中の世界」そのもの……もっとも、この箱には、外界を覗くための「窓」が開けられていた。ここは、「窓を持たない」モナドと違う?

しかし、私は、この「窓」も含んで、なぜかモナドとの類似を感じてしまいます。箱の窓に映る「外界」は、本当に「外の世界」といえるのだろうか……

最近、TVで、「未来の車はこうなる」というのをやってました。それによると、自動運転はむろんのこと、未来の車には「窓」がなく、外の景色は、モニターを介して車内に映しだされる。乗ってる人は、あたかも車の窓から外の景色を見ているかのごとくなのだけれど……実は、それは、モニターに映った「外の景色の映像」なんだと……

見たとき、「アホらしい話……」と思いました。なんでわざわざ、外界そのものではなくモニターにせにゃならんのだ……なに考えとんじゃー最近の車の開発者は……と思ったのですが、ムム、待てよ……と。もしかしたら、これって、モナドのすばらしいアナロジーになってんじゃないのかなあ……

この車には、内部と外部があり、しかも、内部と外部を疎通させる「窓」がありません。車中の人は、車の内壁に映しだされた景色を、「あたかも外の景色そのもの」であるように眺める。で、車が動くと、景色も動く。そのさまは、車と外界が、「あたかも連動しているかのように」動く……

なるほど……もしかしたら、モナドってこんなふうなのか……これはたぶん、どっかオカシイとは思いますが、ちょっと超えてしまえばこういう発想にもなるかもしれない。でも、箱男は微妙です。

箱男のダンボールに開けられた「窓」は、彼自身がダンボールを切り取って開けた「物理的な窓」にほかならない。つまり、窓の部分だけ、ダンボールという物質が欠けていて、そこが内部と外部をつなぐ通路になっている……のですが、さて、はたして本当はどうなのか……

われわれの「目」も、そうだと思います。目は、皮膚の一部が長年の「進化」で変化してできたものだと言われていますが、水晶体というレンズで光を取り入れる段階で、すでに「外界の光景」そのものではなくなっている。しかもその上、眼球に入った光は網膜で電気信号に変換されて脳に送られる。ああ……もうこの時点で、実は、「外界の光」とはまったく縁が切れた、単なる「情報」になってしまっている。

この目の構造は、さきほどの「未来の車」ととてもよく似ています。どちらも、レンズという光に焦点を結ばせるものを用い、さらに光を電気信号に変換して演算処理装置に送る。人間では脳であり、車だとCPUになるのでしょうが、そこで演算処理された結果が、車であればモニターに映しだされ、人間では、脳内で「外界の映像」として認識される……

じゃあ、これをもっと進化させれば、車のCPUと人間の脳を直結して、映像信号が直接脳に送られるようにすればいいわけです。車内の壁をモニターにする必要もなくなり、真っ暗でいい。その方が、モナドのイメージにも近そう……

そういう意味では、われわれの肉体そのものも、一種のモナド的な機構で働いているのかもしれません。肉体の外側を覆う皮膚層でいろんな情報処理を行い、その結果が神経により脳に伝達される。脳は、自分は直接外界に触れていると思っているかもしれないけれど、実はそれは、「処理された外界の投影」にすぎない……

人間の肉体とか、未来の車みたいな高度な情報処理をまたなくても、この次第は、ダンボール一枚でも結局同じことなのかもしれない……安部公房の小説は、そんなことも考えさせてくれます。

ダンボールと、最新の科学技術による車内モニター装置、あるいは人間の目という高度な生物学的造形……それって、くらべものにならないじゃん!……と思ってしまうのは、われわれの思考自体が「高度病」というか「高級病」に冒されて、ものごとの本質が見えなくなっているからであって……「基底から」考えれば、もしかしたら、それはどっちも同じことかもしれません。

たった一枚のダンボールが、ものごとの本質から見れば高度な科学技術の成果や何億年の進化の結果と同じ……安部公房さんの「小説技術」は、ペンと紙だけでそういう「離れワザ」を実現してしまいます。うーん……やっぱり、小説家のスゴさって、こういうところにあるのかなあ……

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やがてじぶんになるまどろみ……なんですが、われわれは、自分で思ってる以上に、「自分になりきっている」のかもしれない。これは寝ているときもそうで、やはり「統覚」は失っていないのではないかと思います。ただ、起きているときとは違うかたちで働いているだけで……

人の脳は、いろんなものが湧き、通り過ぎ、交錯し、わけのわからないものがいっぱい生みだされる、一種の混沌なのかもしれません。ふだん、われわれは、制御棒をいっぱいさしこんでその働きを抑え、コントロールして「常識ある社会人」にふさわしい思考や行動様式となるように、いわば脳を飼いならし、ぎゅうぎゅうに抑制している。しかし、なにかのきっかけで、この制御棒が外れていったりすると……

それが、秋葉原やどこかの小学校みたいな悲惨な事件を起こすのかもしれない……統覚。これはふしぎな言葉だと思います。欧米語だとちょっと語感が違っていて、「a+perception」になる。perceptionの部分は「感覚」とか「知覚」で、「a」は接頭辞だと思いますが、この「a」の意味は、どっちだろう……

接頭辞「a」には2系統あって、ギリシア語からきている「a」は「not」の意味。これに対して、古代英語の「an」(現代英語の「on」に相当)からきている「a」は、「on」、「to」、「in」になるといいます。これで考えれば、「perception」を否定しているわけではないだろうから、やっぱり古代英語の「an」からきているのか……

この考え方からすると、「aperception」は、「知覚にのっかって」とか「知覚へとむかう」みたいな意味になるのでしょうか……先に挙げた哲学事典の、統覚とモナドの関連の記述では、『知覚は世界を映すモナドの内的状態であり、統覚はモナドの内的状態の意識的な反映』とありましたから、統覚、つまり「aperception」は、「世界を映すモナドの内的状態(perception)にのっかって、この内的状態を意識的に反映する」ということになるのでしょうか。

先の「未来の車」の例でいうなら、車内に映しだされたモニターの映像にのっかって、これを意識的に反映する……つまり、オレは、今、こういう「世界」のなかにおるのだ!ということを意識するということ……箱男の例でいえば、ダンボールに開けられた覗き窓に映る「外界」にのっかって、オレのまわりは今、こうなってて、その中に自分はおる!と思う、そのことなのか……

あるいはまた、目や皮膚といった情報伝達器官から送られた情報によって再構成された脳内イメージ(知覚)にのっかって、「オレは今、こういう世界に生きておる!」ということを意識するということなのか……

こういう感覚は、もしかしたらハイデガーのいう「世界内存在」(In-der-Welt-Sein)に近いのかもしれません。彼の表現だと、世界内存在は、タンスの中にモノがある……みたいなものとは根本的に違うんだと。世界に、シームレスに縫いあわされていて、世界そのもののシステムを構成する一部みたいになって、それでも「世界の中に」在る……そういうイメージなのでしょうか?

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やがて、自分になるまどろみ……世界は、もしかしたら、じぶんがじぶんになっていく、それにあわせて世界が世界になっていく……そういうことかもしれない。世界中、こういう「まどろみ」に満ちていて、その中で、「統覚」がムクリと起きあがり、「オレだ……」とポッと萌えて、また無明のまどろみのなかに落ちていく……これだと、あまりに安上がりな妄想になってしまうのかもしれませんが、本当のところはどうなんでしょうか……

今日の emon:カントのボタン/Button of Kant

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カントの肖像画で、なんだかボタンが気になります。大きくて多い……そして、ふしぎな模様。気になりはじめたのは、もう40年近く前かな? なんで、こんなボタンの服を着てるんだろう……日記に、わざわざこのボタンの絵を描いてました。

カントがその生涯をすごした街、ケーニヒベルク。この街が、今はロシア領だと聞いて驚きました。街の名も、ソ連風にカリーニングラートというらしい。フリードリヒ一世の壮麗な都も、今は……って、行ったことはないのですが。

プロイセン……プロシア……世界史で出てきた。でも、詳しくは知りません。フリードリヒという名の王様が複数いて、だれがだれだかわからない。大バッハの次男、エマヌエル・バッハが仕えたフリードリヒ大王って、だれのこと??

カント哲学。ものすごく難しくて、読めない。でも、魅力的……なので、無理無理読んだ。そして、多大な影響を受けました。『純粋理性批判』って、タイトルもスゴイですが、中身もスゴイです。よくこんなの、書いたなあ……

私のイメージとしては、カントは、けっこう自由人……というか、自由を愛する人です。なんというか、どこかわからないところからふとやってきて、この世界に組み入れられる直前の「息吹」みたいなもの……それが、好きなんだ……

その「息吹」は、重さもかたちもなく……しかし、この世界の様相に、ときとして激甚な影響を持ったりします。で、人々がハッと驚いてその姿をさがすと……それは、すでに、この世界に組みこまれて、「この世界のもの」になっている……

つまり、「悟性」の連鎖で扱えるフツーの「モノ」に成り下がってしまっている……詩の源泉、芸術の最初の息吹、そして、日々の出会いに心をハッとつかんでさらってしまうもの……そういうものが、なぜかここにある……

私が、カントの哲学で、たぶんいちばん魅力を感じるのは、そこのところだと思います。まあ、こういう感じ方は邪道であって、カント哲学の本質からは大きくかけはなれてる……けど、そこにイチバン魅力があるという変わった思想……

というか、思想って、もしかしたらたいがい、そんなものなのかもしれません。つかまえたと思ったら、それは死んでる。死者は解体されて生者の糧となるのだけれど、それはただ「餌」になるだけかもしれません。困ったことに……

*ボタン、buttonという言葉の語源……フランク語のbotan、古ノルド語のbauta(いずれも「打つ」という意味)から来ているそうな。カント氏の母国語のドイツ語では der Knopf(クノップフ)。この言葉は、der Knauf(クナウフ、刀の柄の頭部や鍋ぶたのツマミ)、der Knobel(クノーベル、さいころ)と縁語で、どうもコロコロして丸い感じのものを言うようです。英語での縁語は knob、つまり、ドアなんかのノブ。やっぱり丸くてコロコロしてる。

いずれにせよ、ボタンは洋服のものって感じですね。洋服では、おしゃれアイテムの重要な要素ですが、和服では、ボタンみたいなものはほとんど使わないみたい。これは、どうしてなんだろう……布地に孔(ボタン孔)をあけるのをきらったのかな? いずれにせよ、和服は紐(帯)で留める。丸くてコロコロは、帯留、印籠、根付などになるのでしょうか……今でいうケータイのストラップ? ファッションって、ふしぎです。

今日の essay:原子力について・その3

人間の科学技術は、結局、最終的には「自然への収奪」に行き着くのだと思います。昔、学校で習ったマルクス主義の考え方(マルクスの考えかどうかはわからない)では、人は、人から労働力を収奪するのですが、その最終的に行き着く先は習わなかった。それは結局「自然」であって、「収奪の連鎖」はそこで止まる。自然は自然から収奪するということはないから。

これは、なぜそうなんだろう……とふしぎだったし、今でもふしぎです。動物が他の動物を食べるというのは「収奪」ではないのだろうか……と考えると、これはどうも「収奪」とは言えない気がする。それはあくまで「自然」であって、「収奪」というえげつない言葉はそぐわないのだ……なぜ、人間の場合だけ「収奪」といえるのかというと、それは、やはり人間の「自己意識」のなせるワザかも。

自己意識

自己意識、ゼルプスト_ベヴスト_ザインというものは、まことにやっかいですね……自分自身を_知る_存在……自分と、自分のやっていることを反省的意識をもって見られる……ということは、結局「普遍」を知り、そこへ向かおうということにほかならない。昔見た『ベオウルフ』という映画では、デーン人の王がキリスト教に改宗した動機を、ベオウルフに語る。

「われわれの神は、酒と肴しか与えてくれなかった……」まあ、要するに日々の糧というか、毎日をきちんと生きて、そして子孫につなぐ……これを守ってくれる神……しかし、日々を生きて子孫を残すということは、これは動物でもやってることなので、それでは不満というか、そういう神さんではやっていけなくなった事情というものが発生してきたということでしょう。

では、キリスト教の神はなにを与えてくれるのか……といえば、それは、結局「普遍」、アルゲマイネということだと思います。ジェネラルスタンダードというのか……部族が小さいうちは部族の神でやっていけるんだけれど、生産力が向上して大勢の人をやしなっていける段階になると、そういう神では不足だと。まあ、生産力が向上するというのは、それだけたくさん自然から「収奪」できるようになった……

江戸っ子みたいに「宵越しの銭は持たねえ」という生き方ならいいんですが、「宵越しの銭」を蓄積して、未来の生活まで考えるということになると、一日単位でしか守ってくれない神では困る……ということなんでしょうね。また、自分とか家族とかじゃなくて社会的なつながりが広がってくると、いろんな人に共通の利益を調整する必要も出てくるのでしょうし……こりゃ、困ったもんだ……

ということで、砂漠の一神教と、古代ギリシアの、普遍を射程に入れられる哲学が融合してラテン語にのっかったキリスト教の神というのが、やっぱりいちばん使い勝手がいいんじゃなかろうかと……まあ、これは私の想像なんですが、そんな感じで、少なくともデーン人の王は受け入れたんじゃないかな……ということで、人間の自己意識が拡大するにつれて、「自然からの収奪」を意識化する神が導入された??

では、その「普遍化」はどこまでいくのかというと、それは「普遍」なので、むろん制限はない。人が考えられるすべて。宇宙のはてまでいってしまう……そして、この件にかんする「反省的意識」は、結局カントの『純粋理性批判』まで人は得ることができなかったのかもしれませんが……私は(すみません。突然私見です)、やっぱり「普遍化」の限界は「地球」だと思います。

人の思考は、ホントは「地球」で止まる。これは「普遍」の限界であって、人はそれを超えられない。なぜなら、人は、「地球のもの」でできているから……おととい、『ゼロ・グラヴィティ』という映画を見にいったんですが、それなんか、ホントにそんな感じでした。宇宙は黒くて寒い。地球は……宇宙から見る地球は、圧倒的な印象であると……人は、いくら意識が伸びても、やはり地球の一部だ……

gravity

拡大方向の限界は「地球」だと思うんですが、では、これがミクロ方向に行くと……その限界はやっぱり「原子」なんではないか……人は、原子で止まらなければならない。キリスト教の神は人に「智恵の樹の実」を食べることを禁じたけれど、それは、もしかしたら「地球」と「原子」という限界を超えるな!ということだったのかもしれない……私には、この二つの限界が、なぜか「同じもの」のように思えます。

人は……人の文化は、もしかしたら「幻影」の中にあるのかもしれません。人が、実質的に処理できる範囲は、やっぱりデーン人の王が言ってた「酒と肴を与えてくれる神」が統べる領域なのではないか……そして、そこを超えることを求める「普遍指向」は、結局、「地球」という限界、そしてもうひとつは「原子」という限界、これを超えることを人にうながし、誘い、実行させてしまう力……

私がこんなふうに思うのは、やっぱりこどもの頃の自分の経験もあります。こどもの頃、「原子力」と「宇宙旅行」にあこがれた。実際に、こどものための図鑑シリーズに『原子力・宇宙旅行』というのがあって、それはホントに象徴的なタイトルだったと今でも思うのですが……自分の範囲が無限に拡大していくような……それは「言葉の力」なんですが、なにものかを呼び覚ます「サイン」となって……

私は、やっぱりここがキモだと思います。人が、なぜあれほどの悲惨な事故を体験しても「原子力」を止めようとしないのか……「宇宙旅行」の方は、「原子力」にくらべるとまだロマンが残っている感じですが、でも、もう2001年もとっくにすぎているのにまだ月面基地もできていないし、木星探査のディスカヴァリー号に至っては、計画さえない?? やっぱり人には「宇宙」はムリなんじゃ……??

「技術」がきちんと「技術」として成立する範囲って、あると思うんですよね。そこを超えてしまうと、急に莫大な費用がかかるようになって、いくら費用をつぎこんでも思うような結果に至らない……人間の技術範囲を区画してしまうような山脈の壁……それは、あるところから勾配が急に立ち上がって、人の超えようとする試みをすべて挫折に導く……それが、「原子」と「宇宙」として、今、見えている。

やっぱ、これはムリなんじゃないかと思います。これまでの「技術思想」では。いままでうまくいってたから、そのまま延長していけば行けるんじゃないか……甘い。まあ、要するに、つぎ込む資金と労力が加速度的に増加して、どんだけがんばっても一ミリも進めない……どころか、後退を余儀なくされる場面というものがある。そして、それは「難所」じゃなくて、もう原理的に超えられない……

ということがわかってきたら、では、それはなぜ、そうなっているのか……ということを考えるべきだと思います。「普遍」の追求は、あくまで実体と分離してしまわないことを原則としてやらないと、いくら「普遍を得た」と思っても、それは内実のない空虚な、言葉と数式のカタマリにすぎなくなってしまう……人の文明は、もう、これまでのすべてを省みて、あらたな「方法」をさがすべき時期にきている。

私は、「原子力」の問題の核心は、やっぱりここだと思います。放射能とか汚染水とか言ってるけれど、根幹は、人間の技術思想の設定の仕方そのものにある。「原子」と「宇宙」は、どうやっても超えられないほど高い山脈となってそびえているけれど、じゃあその他の技術は……というと、やっぱり「超えた」と思っていても、必ず同様の欠陥がある。それは、人間の技術思想そのものの欠陥だから。

どこまで戻ればいいのでしょうか……「適正技術」ということがよく言われるけれど、それは、根本的な解決にはならないと私は思います。やっぱり徹底して戻るとするなら、人間の「自己意識」の問題にこそ戻るべき。そここそが、「普遍」が立ち現われる場所でもある……もうこれは、技術の問題というよりは完全に哲学の問題なんですが……そこからはじめないとダメだと思います。

二人のインマヌエル……食べ合わせ紳士録/who’s who’s who・その1

「太陽の帝国・ムー」の項で、ジェームズ・チャーチワードとアルフレート・ウェーゲナーをとりあげました。このお二人、なんか似てる……ほぼ同時代人で、「研究分野」も似てる。かたや「ムー大陸」の大御所で、かたや「プレートテクトニクス」の先駆者……なんですが、チャーチワードさんは「トンデモ」の烙印を押されて沈没。なのに、ウェーゲナーさんは「先見の明」で学者としての再評価が……その運命、違いすぎ? 発表当時はなかよく「トンデモ印」だったのに……

チャーチワードとウェーゲナーということで、なんか、学者とか芸術家とかの「食べ合わせ」に興味を持ってしまいました。……で、調べていくと、意外に多いんですね。ほぼ同時代のふしぎな「食べ合わせ学者」とか「食べ合わせ芸術家」……お互いに意識しあったライバル……みたいな関係もあれば、双方面識がなくても、チャーチワードとウェーゲナーみたいにあとから見れば、この二人、似てるよなあ……ということになるケースも……で、とりあえずちょっとこの話題、続けてみようかな……と。第1回は、18世紀の大哲学者、インマヌエル・カント(1724~1804)と、やはり18世紀の大神秘主義思想家、エマヌエル・スウェーデンボルク(1688~1772)。

このお二人、名前が一緒なんですよね。まあ、表記は微妙に違いますが……カントがインマヌエル(Immanuel)で、スウェーデンボルクの方はエマヌエル(Emanuel)。しかし、この二つの名は、元が同じで、旧約聖書(イザヤ書)に登場するインマヌエルという人名から来ているそうです。この名は、ヘブライ語で「インマヌ」(われらとともにいる)と「エル」(神の名のひとつ)を合わせたもので、「神はわれらとともにいる」という意味になるんだとか(ウィキによる)……今でも、欧米系の人の名によくつけられているようです。

で、このお二人はどんな感じだったかというと、スウェーデンボルク(スウェーデンボリが本来の発音? 長いので、以下に「助さん」と表記することも)の方がカント(格さん?)より年長で、親子くらいの差かな。お二人は、互いのことを知っていて、とくにカントの方は、助さんのことをかなり気にしていたという話もあるようですが……余談ですが、『水戸黄門』の格さんは生真面目で堅物、助さんは明るく軟派の二枚目という設定らしくて、これは、カント=格さんにはピッタリだ……スウェーデンボルク=助さん……の方は、ファンの方に怒られるかもしれませんが……(じゃあ、黄門様はダレ?という疑問も……)

スウェーデンボルクは、1759年に故郷のストックホルムで大火が起こったとき、480kmも離れたイェーテボリに滞在していたが、故郷の街が焼けるさまをまざまざと見たそうです。なんか、夕食の席で、その大火を「実況中継」したそうで、友人に「あなたの家は灰になった。私の家も危険だ」とか「ありがたい!火は私の家から三軒目で消えた」とか……2日後にストックホルムから到着した使者の報告で、その状況が助さんの語った「実況中継」と「薄気味悪いほど一致していた」と。(この情報は以下のサイトです)

http://www.geocities.jp/ixtutou144/kant1.htm

ストックホルムの大火この話を聞いたカントは、助さんに長い手紙でいろいろ質問したそうですが、助さんの方はこれを無視……で、後に格さんは、助さんの本(『天界の秘義』)を大批判……ということらしいんですが、助さんはどう思ったのか……まあ、親子ほども年がちがうし、あんまりなんとも思わなかったのか……でも、このお二人のことは、今から考えると、なかなかおもしろい問題を含んでいるように思われます。

カントは、『純粋理性批判』の中で、有名な「純粋理性のアンチノミー」を展開しています。これ、私も読みましたが(岩波の篠田訳)、もうなにがなんだかわかりません……というか、ここに至るまでがさらに強烈な岩盤なので、この「アンチノミー」が出てくるとなんだかホッとするんですが、それでも論理のジャングルだ……でも、結局、彼の言いたいことは、「人間の理性には限界がある」ということだと。要するに、「神の存在」とか、「宇宙にははじめがあるか」とか、そういう問題は、人間の理性で扱うことができる範囲外のことであると。

彼の、この論理は、スウェーデンボルグの生涯の「全否定」にほかならない。というか、助さんにとどまらず、神秘的なものや神の存在や宇宙のはじまりや……そういうものは、人間の理性からは完全にシャットアウトしないとものごとをきちんと考えることができないじゃないか……と。カントのこの考えの影響は、実はものすごく深くて、その後のヨーロッパ思想の大筋を決めてしまったような感さえありますが、それにもかかわらず、カント自身は、「人間の理性の範疇外」のことに興味津々だった……

よく誤解されますが(カントは形而上学を否定したと)、カント自身の考えは、「ホントの形而上学の建設」で、そのためには人間理性の徹底的な批判が必要なんだと。そうなってくると、じゃあ、人間の理性って、いったいなんでしょう……ということなんですが、ふしぎなことに、カント自身、「人間の理性」は「いろんな理性の中の一つにすぎない」と考えていたみたいなんですね(これは私の解釈ですが)。うーん……そうなると、人間の理性以外の理性って、いったいなんだろう……それは、中世スコラ哲学の世界なんかだと「天使の理性」とか「神の理性」になるんでしょうが、今流にいうなら、たとえば「クジラの理性」とか「イルカの理性」、さらには「宇宙人の理性」とか「高次の存在の理性」……

ここまでくると、あれれ……助さんと格さんって、意外に近かったのかもしれない……と思うんですが……まあ、ただ、今はやりの「考えることより感じることがだいじ」なんていうしょうもないイージーゴーングに陥らなかったところは、お二人ともさすがだと思います。カントは理性を徹底的に追及し、スウェーデンボルグは非理性の分野を生涯かけて探求……お二人とも、さすが、黄門様の右腕左腕……うーん、となると、やっぱり「黄門様」ってだれなんだ……これ、気になりませんか?

なんか、目に見えない世界にいる黄門様が、助さん格さんをこの、目に見える世界に派遣して、いろいろ「まとめさせた」みたいな感じもするんですが……ともかく、この二人の巨人の投げかけた問題はあまりに大きく、未だに解かれていない……テレビの『水戸黄門』は印籠を見せれば解決するけど、この世界においては、「この問題」はまだまだ、ぜんぜん解決されていないように思います。人間は、「人間の理性」を超えることができるんだろうか……というか、できなければ先はない。

で、ここで、話は突然、福島の原発事故のことに飛びます。あの事故で、「一般国民」(つまりわれわれのこと)も、「放射能のオソロシサ」を徹底的に認識させられることになったんですが……では、「原子力」は「放射能の影響」さえ克服できれば使っていいのか……という問題が残る。ここ、「反対派」の人たちも、微妙に意見が分かれてくるところじゃないでしょうか……将来、仮に、放射能を「完全にコントロールする技術」(阿部さんみたいだ)が生まれれば、「原子力」は認めていいのか……それとも……

まあ、「放射能なんて完全にコントロールできるはずがないじゃん!」という声が聞こえてきそうで……私もそうだと思うんですが、でも、問題は、実は「放射能のコントロール」とかにはないんですよね。じゃあ、どこにあるのか……というと、私は、「科学的に」言うならば、「原子核の内部に働く力」のことが、よくわかっていない……そこにあるのではないかと。

まあ、私は数式オンチなので、数学的にどうこう……はわかりませんが、いろんな解説書を読むと、原子核の内部で働いている力(相互作用)は、原子と原子、あるいは分子同士の間に働く通常の物理的な力(電磁気力や重力)とはまったく違うもののようです……なので、ここで、「純粋理性の限界」で立ちどまったカントの姿が浮かんでくるんですが……通常の物理的な力の本質もまだよくわかっていないのに、それとはまったく異なる力が働く「核」の中に平気でふみこむ……これは、もう「暴挙」以外のなにものでもない……

この間、NHKテレビで『神の数式』という番組をやってましたが、それがまさにそのことを扱ったものでした。いろんな物理学者が、この「核の中で働く力」を解明しようとした……番組では、それは今、いい線までいってる……ということでしたが、ホントはどうなのか……もはや、数式オンチにはまったくわからない世界だったけど、「物質の究極」が「振動する弦」じゃないか……という考えが、今、注目を集めているそうで、そこには、なぜか「なるほどなあ……」と感心してしまいました。で、そこに「10次元」を導入しないとツジツマが合わないんだとか……

まあ、とにかく、なにがわからないかもシロウトにはわからん世界なんですが……でも、膨大なエネルギーを放出するというだけで、人間は、もう百年も前から、この「核の中」の神秘な力を使おうとしてきた……なんのためにかというと、まあ、くだらない?楽しみや、楽して暮らしたいというワガママな要求のために……これ、基本的にオソロシイことです。理性の届かない範囲には触れないというカントの慎みもなく、かといって、至高の存在に対するスウェーデンボルクのような敬虔さもなく……なにをやってるのか全然認識できていないのにどんどん入っていって略奪する……この性根が腐っておるのじゃ! ええい、この印籠が目に入らぬかーっ!

いんろうテレビの『水戸黄門』だと、一旦は「ハハーっ」となるけど、ワルもんはすぐ頭を起こして「ええい!やってしまえー!」で大立ち回り。懲りない人たち……チェルノブイリにスリーマイルに福島……そのたんびに一旦「ハハー」となるけど、すぐに「ええい!やっちゃえ!」……このくりかえしになるのは、やっぱりカントの「慎み」もスウェーデンボルクの「謙虚」もまったくわかっていない「人間の理性」(というか、理性以前?)の愚かな構造が原因なのか……自分たちが、ホントになにやってんだか知ったら、ちょっと、ホントにオソロシクなると思うんですが……

ということで、最後はまるでゲンパツ問題みたいになりましたが、あの事故は、結局「人間理性の乱用」で必然的に起こってしまったもので、「人間理性」に対するきちんとしたアプローチがない限り、ゲンパツにとどまらず、いろんな面で、これから悲惨なできごとが山のように起こってくると思います。カントとスウェーデンボルクがもう200年も前に投げかけた問題はいまだに未解決のまま……人間理性よ、どこへいく……。

最後に、私は、『水戸黄門』のファンではないです……