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44

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トランプさん支持が44%……
えっ、44%もいるの?ってリカイが、日本では大勢みたいだけれど……
まあ、51%が不支持らしいですが。

信じられない……アメリカ国民、ナニやっとんじゃー……
そういう声もきこえてきます。
でも、なんとなく、ワカル気もする。
私はアメリカ国民でもないし、英語もわからんので、単に「そういう気がする」ってだけですが……

トランプさん、オバマケアをひっくり返すそうな。
ここで、日本人としての疑問。
トランプさんの支持層のプア・ホワイトの方々……
当然、プアだから、保険入れないという人も多い?
だとしたら、なんでオバマケアを潰そうとするトランプさんを支持するの?
これ、疑問でした。

でも……以前に読んだ本田哲郎さんというカトリックの方の『聖書を発見する』という本に書いてあったことを思い出して、なんとなく、その理由がわかったような気がします。

本田さんは、大阪の釜ヶ先に布教の拠点をもって、日雇い労働者たちと生活をともにしながら長年、イエスの教えを実践してきた。
そのなかで、キリスト教の信者たちが、日雇い労働者たちに「炊き出し」をする、その心理に疑問を持つようになったといいます。

炊き出しの列に並ぶ労働者たち……アルミのお玉が鍋の底をこする音がしてくると心配になる。自分の番まで、鍋の粥がもつんだろうか……
かつては、本田さん自身も炊き出しのとき、イエスの教えを「実践」しているような気になっていた。
しかし、それは大きな誤りである……これに気づいた。

たしかに、労働者たちにとっては、炊き出しはありがたいものだし、ときに生命にかかわることだってある。
しかしそれでも、この炊き出しは、労働者たちの「誇り」を傷つけてるんじゃないか……本田さんは、そう思うようになったそうです。

労働者も、そんな炊き出しに並ぶよりは、ちゃんと仕事をして、それで得た金で安食堂のノレンをくぐって、サバ焼き定食でもなんでも、自分の好きなものを注文して、食う。
そっちの方が、はるかにいい。
でも、仕事がないから並ぶ。
これは……実は、ありがたいんじゃなくて、屈辱なのかもしれない。

そうか……そりゃ、そうだよなー
そう、思いました。
もし自分がそういう境遇になったら、絶対そうだと思う。
そんな「施し」にすがって生命をつなぐよりは、自分の力で働いて得たお金で、自分の好きなものを注文して食う。
もう、それは、比べられないです。
でも、仕事がないから、しかたなく列に並ぶ。
それは、やっぱり「屈辱」だ……

トランプさんを支持した44%の心がわかったような気がした。
オバマケアで、貧しくても保険に入れる。
そりゃ、たしかにいいかもしれない。
だけど……
それって、もしかしたら「施し」とニアミスではないだろうか……

バカにしやがって!
と怒る人も、いないではないかもしれません。
オレだって、仕事さえあれば、ちゃんと稼いで、マトモに保険にも入る。
仕事がないから、それができないんじゃないか……
そういう「貧民」でも、保険に入れるようにしてあげましょう。って?
バカにするんじゃないよ!
そんなおジヒなんかいらねえ!
まともなシゴトをよこせよ!

44%は、きっとこう言いたいんじゃないかなあ……

トヨタがメキシコに工場つくって、関税ゼロで安いクルマがアメリカに入ってくる。
これ、もーどーにもガマンならねえ!
トヨタはどっちの味方や!
アメリカか、メキシコか!

そこへトランプさんの登場だ。
トヨタがメキシコで造ったクルマをアメリカへ入れるなら、高い関税かけるぜ!
よく言った、トランプ!
さすが、オレたちの大統領だ!
……
ということで、女性を蔑視しようが障害者をおちょくろうが、そんなのカンケイねえ!
オレたちは、なにがあろうがアンタを支持するぜ!

評論家やマスコミ、インテリ層が読み誤ったのは、まさにここではないでしょうか。
仕事……その意味……人としての誇り……
そういうものが、ぜんぜん見えてなかったのでは。
それって……炊き出しに並ぶ労働者たちは、きっと「ありがたい」と思ってるはず……
そう思いながら、粥をすくって労働者の差しだす椀に注いでいるキリスト教の方々の心と同じだ……
あなたは、意識してないでしょうが、彼らの「誇り」も「人としての意識」も粉々に踏み砕いてるんだ!
で、そのことを、「私ってなんてすばらしいキリスト者でしょう」と、まちがって思いこんでる。

本田さんの筆は、容赦ないです。
彼は、
「イエスはどっちの側にいる?」
と問います。
炊き出しをするキリスト者の方?
それとも、列に並ぶ労働者の方?
むろん……と彼は言い切る。
列にならんで、自分の番まで鍋がもつか……
そう思う労働者の列に、イエスは並んでおられる。

これ……もしかしたら、最終的な地点なのかもしれない。
ここを読み誤ると、ぜんぶがぐるんとひっくりかえる。
そういう地点に、今、私たちはいるんではなかろうか……

トランプさんに、「メキシコでクルマつくるなら、高い関税をかけるぜ!」
こう言われた豊田章男社長。
彼の発言で、「あっ」と思った箇所があった。

「私たちは、地域社会に責任があるから、メキシコの工場計画はやめない」
なるほど……と思いました。
トヨタの社長は、こういう考え方をするんだ……

私が今、くらしている地域は、豊田市です。
昔は小さな村でしたが、今は町村合併で豊田市に……
でも、村だった頃から、あんまりかわらない。
うちのまわりの人たちは、ほとんどがトヨタか、そのケイレツ企業で働く。
この地域は、トヨタなしにはもう成り立たないでしょう。

で、みんな、どんなふう?
というと、けっこう楽しくやってます。

まず、給金がいい。
下請けや部品メーカーまで、安定して生活できるだけの給料がもらえるんですね。
年金もしっかりしてるから、将来の生活の不安もない。
道路もきれいに整備され、大型ショッピング施設も多い。
生活に、なんの不安もありません。

福祉施設も充実してる。
お休みもちゃんと取れる。
いろんなところに旅行にも行ける。
孫ができても、小遣いくらいやれる。

うーん……これが、「大企業」の実力なんだ……
豊田社長は、その点に、誇りと責任感を持ってるように見えました。
単に、自分たちが儲けるだけじゃなくて……
オレたちは、「地域」そのものをつくってるんだ!と。

で、会社としては、できるだけ生産性を上げないと他社にやられるので、安い労働力を求めて……世界中、どこへでも行く。
行った先の地域全体の生活を向上させて、人々に安定した暮しを約束する。
どーだ、こんなこと、「国」とかにはできんだろー……
私の気のせいか、そんなふうに言ってるようにも見えた。

で、トランプさんですが、彼は、やっぱり44%を気にかけてるんだと思います。
評論家や学者や、インテリどもに見放された44%……
コイツらをなんとかしてやらなにゃー、男がすたるぜ!
そんなふうに思ってるんでしょうか……

44%の心の、奥の奥までグイグイくいこむ。
男トランプ、よっ、大統領!
ということで、ホントに大統領になっちまいました。

でも、私には、やっぱり気にかかることがあります。
経済オンチなんで、よくわからないのですが……
経済のシステムには、かならずどこかに「収奪の構造」ができるはず。

たとえば……18世紀後半~19世紀にかけて、イギリスの産業革命が成功し、イギリスは、オランダにとってかわって、世界の派遣国家となった。
その「成功」を支えたシステムの一つが、大西洋をはさんだ世界貿易システム。

この時代、アフリカでたくさんの人を奴隷にして、新大陸に送りこんだ。
その奴隷たちは、アメリカの南部でインド原産の綿花を栽培し、それによって生まれた大量の綿をイギリスが輸入して、工場で綿織物に加工し、ヨーロッパをはじめ世界中に輸出する。
この、世界貿易システムが、イギリスを世界の派遣国家に押し上げた大きな原動力の一つだったんだと……

そうすると、この貿易システムは、もちろん win-win ではなく、かなりいびつで狂ったものだ。
イギリスやアメリカの資本家にとっては win-win なんだけど……アフリカから刈られて、新大陸に送りこまれたおびただしいアフリカの人たち……
ここには、もう、だれがなんと言おうと、明白な「収奪システム」がある。

もちろん、現代の世界では、こんなロコツな収奪システムを機能させることはできません。
しかし……たとえば、さっきのトヨタのメキシコ工場のことを考えると……
やっぱり、そこには、明白な収奪システムが機能している。
この場合、「収奪される」のは、低賃金で働くメキシコの労働者です。
で、会社はもうかり、安いクルマを買えるアメリカの消費者も儲かる。
しかし……
ここで注意せねばならないのは、「仕事」を得たメキシコの労働者も、やっぱり「喜ぶ」ということです。
明白に、「収奪」されているにもかかわらず……
豊田社長の「オレたちは地域をつくる」という自負も、やっぱりこの「労働者たちが喜んでいる」という事実からくるのでしょう。
ホントの事実は、そこに「収奪」があるにもかかわらず。

もし、「収奪」がないとしたら……
トランプさんを支持した44%は生まれていない。
メキシコの労働者たちに、アメリカの労働者たちと同じ賃金を払う……
それでは、「会社として」は意味がない。

ということで、トランプさんは、きわめて難しいことをやろうとしているのがわかります。
メキシコに工場を造らせないということは、メキシコとか他の低賃金地帯を含む「貿易システム」を拒否することになる。
ということは……アメリカの国内だけで、ソレをつくらなくちゃならない。
じゃあ、どっから「収奪」するの?
会社のシステムとしては、それはほとんど不可能のように見えます。
どうするんだろう……

保護主義貿易は、裏をかえせば、「収奪システム」を世界に拡散させないという、実は、もしかしたら、倫理的には?きわめて立派なシステムなのかもしれません。

しかし……今まで鬼のように、悪魔のように、なりふりかまわず世界中をあさって、「より儲かるシステム」を構築してきた経済システム……
それを、根元から否定することにならないか……

豊田社長のように、収奪システムを、「オレたちは地域をつくる」と胸をはって言い換える人もいる。
実際……彼と、彼の祖先の「作品」であるこの「豊田地域」は、実に立派に仕上がってます。

去年、豊田市のお隣の知立(ちりゅう)の街を歩いたとき、「由布」でしたか……九州の地名を冠した飲み屋があった。
なんで「由布」なんだろう……
同行の人にきいてみると、かつて、集団就職で、この地域は、九州からくる人たちもけっこう多かったみたいです。
で、その人たちが、故郷を偲んで、故郷の名前の飲み屋をつくったりする……と、そこに、その地の人たちが集まる……
なるほど……この「豊田システム」は、こういう人たちによって支えられてきたんだ……
そう、思いました。

もう、この地域の人たちは、みんな豊かです。
かつて、集団就職でこの地にきて、何十年と勤めあげ、今は年金生活の人に話をきいた。
「今の自分があるのは、トヨタのおかげだ」
彼は、そう言いました。

そこに、なんらかの暗い色が混じっていたのか……
それはわかりませんが、少なくとも、感謝の気持ちは明白に示されていた。
「オレたちは地域を造る」
トヨタ社長の言葉が思い起こされました。

人生に失敗すると、家も故郷も失い、大都会を職を求めてさまようホームレスにならざるをえません。
そうか……自分は、そうならなかったし、定年退職後も一生が保証される。
たとえ自分の故郷ではなくても、トヨタのおかげで、自分は「人」になれた。
この地域の人々の、多くの思いかもしれません。

「収奪」は絶対あると思うんですね。今も。
でも……人は、トヨタに感謝する。

ふしぎだ……

44%は、まず救われないと思う。
彼らを含む「収奪システムの再構築」は、アメリカ国内限定では……それは、できっこないでしょう。

移民がどうのというけれど……
移民を受け入れる国は、単に「福祉」でやってるんじゃないでしょう。
「移民を含む収奪システム」を構築して、それで国をまわしてきた。

アメリカだって、さんざんそれをやってきた。
44%が錆ついちゃったからといって……
いまさら、国内だけで、「収奪システムの再構築」ができるんでしょうか……

ま、トランプさんは経済の専門家だから、私みたいな経済オンチにはとうてい理解も、誤解さえできないふしぎな経済システムを用意してるのかもしれませんが……

人間って、ふしぎな生き物ですね……

人の一生というものは……/Human’s life

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今年のお正月は、京都ですごしました。何年ぶりかなあ……年末年始を京都で迎えるのは……泊まったのは、高野からちょっと北の方だったんですが、懐かしい……という気持ちが自然に湧いてきた。私は、京都生まれで、下鴨神社の近くの家でこども時代をすごした。

今回泊まった場所は、そこからは1km 弱離れているんですが、まあ下鴨神社の領域内といっていいでしょう。近くには、下鴨神社の摂社である「赤宮」という神社もありますし……なにより、仰ぎ見る比叡山のかたちが、こどもの頃に毎日みていたのといっしょ……

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こどもの頃、夕方になると母親が、すぐ近くを流れる鴨川に散歩に連れてってくれた。川向こうの林のかなたに陽が落ちて、あたりが金色に染まり、水面がきらきら輝いている……で、振り返ると、そこには夕暮れ色に染まった比叡の山が……こどもの頃、毎日見た景色というのは、やっぱり忘れないもんですね。

場所……というのはふしぎなもんです。今回泊まった家の前の道は、いわゆる観光地の京都じゃなくて、全国どこにでもあるごくフツーの街並……あんまり広くない道の両側に、お店があったり会社があったりマンションやアパートがあったり……ちょっと曲がるとコンビニが……

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そういう、「フツーの路地」が、そのものさえ、なぜか懐かしい。これはふしぎでした。「場の力」というのでしょうか……あるいは、下鴨神社の神様の力が、やはりその土地を覆っているのだろうか……私は、こどもの頃に京都を離れて名古屋に移りました。そのあと、学生時代に、京都に一時下宿をしていたこともあるけれど……

もう何十年も、京都から離れて暮らしている。でも、京都を訪れて、こどもの頃に暮らしていた場所のそばにくると、やっぱり「自分の土地」はここだなあ……と思います。人の一生……東照大権現神君家康公のように重い荷を負って遠くまで歩む人もいれば、私のように軽い荷さえいやがって……

できるだけ近道したい……という一生を送った人もいる(まだ過去形じゃないけれど)。人の一生って、いったいなんでしょう。いったい何をやったら、「その人の一生を生きた」ということになるのか……これは、いまだにわかりません。人生あとわずかで? いや百まで生きるのかしらんけど、どっちにしても、それがわからなくいいの?ということなんですが……

たぶんほとんどの人がそうだと思う。ただいえることは、人と土地との結びつきって、意外に強かったなあ……ということです。若い頃は、なんでもできるしどこでも行けると思っていました。でも、もしかしたら、人は、自分でも知らないくらい「土地」に結ばれているんじゃなかろうか……

私がおもしろいなあと思うのは、三河の生まれの神君家康公は、生涯その目を東に向けていたのに対して、尾張生まれの信長公と秀吉さんは、一生西に向かう傾向性を持ち続けていたということ。尾張と三河って、今は同じ愛知県で、その境に大山脈とか大河があるわけでもありません。

境川という小さな川(二級河川)があるんですが、上流はもうほとんど認識できないくらいの小川になっていて、車なんかだと、まったく気がつかないうちに尾張から三河に入ってしまいます。でも、やっぱり尾張と三河は、画然と違う……言葉も、尾張の言葉はすぐ北の美濃(岐阜県)の言葉とよく似ているけれど、三河の言葉は、その東の遠州(静岡県)の言葉とほぼ同じ。

愛知県_600
こういうことは、いろんな土地にあって、その感覚は、そこで生まれ育った人しか、実は正確にはわからないものなのかもしれません。なにが、それを決めるのだろうか……

今は、その土地のものだけじゃなくて、スーパーに行けば「世界の食材」がカンタンに手に入ります。「土地の食べ物」が<その感覚>を養うんだとすれば、今の人は、もうすでに昔の人が持っていた「そういう感覚」をかなり失っているのかもしれない……あるいは、目に見えない「土地の気」のようなものなのでしょうか。

たとえば火山の噴火とかの大災害で、住民全員がその島を離れなければならない……三宅島とかそうでしたが、避難先で暮らしている人のインタビューで、少しでも早く島に戻りたいという人がけっこう多い。一旦おさまっても、いつまた噴火するかわからないのに、なんでそこまで……と思いますが、やっぱりそれは、その土地に生まれ育った人にしかわからない。

だから、難民の方々って、たいへんだなあ……と思います。自分の生まれて、育った土地から、自分の意志じゃなくて強制的に排除され、見知らぬ地域をさまようハメになる……これが「自分の意志」だったら、まだある程度は納得できるかもしれません。いや、人によっては、見知らぬ土地で暮らすことに憧れを抱くということもあるでしょう。

しかし、自分は、この生まれて育った土地で一生を終えたいと思っているにもかかわらず、外側からの圧力で追いだされてしまう……これはもう、そのものが根源的な悲劇だと思います。あるいは、自分が生まれて育った土地に、外国の軍隊がやってきて基地をつくってしまう……これも悲劇だ。

そしてラスボスのゲンパツ……金のために故郷を売る。これほど悔しく、悲しいことはない。おまえらの住んでるところは、街から遠いから、放射能まみれになってもいいんじゃない? その分、金と仕事をやるからさ……これって、ものすごい侮辱だと思う。しかし、いくら悔しくても、生きていくために受け入れてしまった……

世の中、こういう悲劇に満ちています。昔、岐阜県の徳山村というところを、野外活動研究会のみんなと訪れました。岐阜県といっても、もう山一つ越えれば福井県……というところだったんですが、もう今は、この村はありません。

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徳山ダム……これですね。このスゴイダム(ロックフィルという構造では日本一の規模)を造るために、この村の人が住んでいる集落はみな、水の底に……1970年代終わり頃に行ったときはまだ、村は生きてましたが、もうお年寄りばっかりで、みんな静かに「村の死」を待っている状態だった。

いろんな人に話を聞きました。みんな、この村がいいという。それはまあ、何十年も暮らしてきたお年寄りばっかりなので、当然そうなんですが、若い人は、やっぱりほとんどいなかった。もうとっくに保証金をもらって、村の外で「次の暮らし」をはじめていた。

反対運動はなかったんですか?と聞いたんですが、あんまり明確な回答が得られない。もうみんな、「水没」が前提で、今さら……という感じ。のちに、偶然ですが、徳山村出身の青年に名古屋で会いました。反対運動について聞くと、彼自身がその運動に加わっていたそうです。でも、潰してくる側との圧倒的な力の差があって、みんな結局あきらめ、彼自身もインドに行く道を選んだ……

ああ、やっぱり反対運動はあったんだ……そう、思いました。村の中では、ハッキリ聞くことはできませんでしたが……しかし、ダム、こさえたるでー!という勢力にくらべてあまりに微弱……昔から住み暮らしてきた「先祖の地」を追われるんだから、もっと抵抗してもいいのでは……というのはよそ者の考えで、実際の「現場に働く力関係」は、これはもう、なんともならない圧倒的なものだったらしいです。

徳山村は、どこからアプローチするにしても、険しい峠を越えなきゃならない。この峠が、冬は雪で通行止めになる。人の往来も、物流も滞る中での、雪に埋もれた数ヶ月……若い人には絶対にガマンできないから、みんな、ダムの話の前に街へ街へと……仕事、家族、学校のことを考えれば、当然そうなるのでしょう。ということで、「現代文明」を前にして、村の実質はかなり死に近づいていた……ということもいえるわけです。

今、私が住み暮らしているところも、愛知県の「奥三河」と呼ばれる山間地域の入口で、人口がゆるやかに減少しつつある、いわゆる「限界集落」です。 といっても、まだ名古屋とか豊田に近いので(一応豊田市域)ほとんどの人は勤めを村の外に持ち、毎日通ってる。でも、まだまだ、自分の生まれたこの土地に愛着を持ってる人は多い。しかし、こどもたち世代はどうなのかな……

要するに、自分の根っこをどこに感じるか……ということなのかもしれません。私みたいに、こどもの頃に生まれ育った土地を離れてしまったものは、根っこがない。この状態がいいのかわるいのかときかれれば、やっぱりよくないと思います。価値観が、なんというか否定的になる。どっちみち……ということで、神君家康公みたいに「人の一生は……」ということにはなりません。まあ、ぜんぶがそのせいじゃないにしても。

家康の鎖国政策は、いろいろ言われますが、結局はこの問題だったような気がします。つまり、人と土地の結びつきを重視した。そこがちゃんとなってないと、人はホントの力を出せない。この「ホントの力」というのは微妙な考え方で、たとえば海外遊飛(ナント古い言葉)で世界中駆け回って大活躍している人でも、それが「ホントの力」なのかというと、これは考えどころかな……と思います。

今の世界、経済優先で、企業はできるだけ安い人材を求めて世界中に工場をつくる。家康公の考え方からすれば、これはもうムチャクチャです。どれだけ発展しているようにみえても、それは見せかけにすぎず、実は、本質的なところは「破壊」だ。世界一の企業が、今、私の暮らしている街にありますが、この企業のやり方を見ていると、家康公の考えをかなり厳格に守っているところと、まったく反対の考えの二つを持ってるような気がします。

それが、一つの会社としてまとまってるんだからふしぎだなあ……と思うのですが、案外、「生産」にかかわる仕事って、そうなのかもしれません。とすると、ホントに危ないのはいわゆる「虚業」なんでしょうか……歴史には詳しくないですが、家康公は実業タイプ、信長さんと秀吉さんはどっちかというと虚業タイプだったみたいな気がします。海外遊飛に夢を馳せた信長と、朝鮮半島を手がかりに大陸をのっとろうとした秀吉……

これに対して、家康は、「アホなこと言っとらんで、国内をちゃんと固めようよ」という考えだったみたいに見える。幕末から明治期にかけて、アジア諸国が次々と欧米の植民地にされていく中で、日本という島国がナントカ独立を保てたのも、元はといえば家康さんが、「土地に結びつく」政策の基礎を地道に、しかしラジカルにつくったから……これを元にして、日本はちゃんと自前の「19世紀」をやって、「近代」に歩調を合わせていくことができた……

歴史の専門の方からみると、こういう見方はきわめて大雑把で、まちがいだらけなのかもしれませんが……なんか、そう思ってしまいます。人と土地……これは、最大限に広げていくと、この地球という「場所」と、そこに住み暮らすわれわれ人類の「限界」という考え方になる。人類は、地球から出られない。これが、私が最終的に到達した思いなのですが、いかがでしょうか?

今日のkooga:なんだろう……/what’s this?

守山区瀬戸街道_900

これは、名古屋市守山区を走ってたときに、クルマから撮った写真です。信号待ちのわずかな間に……非常にわかりにくい写真ですが、潰れたお店のテントとファサードの一部が見えてます。以下、なんだろう……というような写真を集めてみました。

豊田の壁_600

なんかの遺跡のようにもみえますが、これは、豊田市のあるビルの壁です。日の光がきわめて浅い角度から当たっているので、塗られた外壁材の一粒一粒がくっきり際だって、ちょっとした峡谷のおもむきもある?……まあ、それだけのもんですが。

クレータ?_300

これは、月面の変わったかたちのクレーターのようにも見えますが、愛知県東海市の路上に置いてあった石です。まあ、光線の当たり具合によって凹凸が反転して……という例のヤツですね。よくある平凡な現象なんですが、なんとなく私は好きです。

路上のペンキ_600

で、これは、やっぱり東海市でみかけた路上に落ちた?と思われる白いペンキの経年変化した状態。皮膜が感想するときに収縮して、複雑な模様を描いています。私は、なぜかこういうのに惹かれて……画像加工ソフトで輪郭をとったりしています。

路上のペンキ輪郭_600

次は、東海市でみたルーバー。駐車場の目隠しなんかで設置されていたものなんですが、パイプ状の角材を並列して造られている、その角材の一本を長手方向に矢視してみました。総延長10mくらいを透視して、はるか奥に他端の開放口が見えてます。

ルーバー_450

最後に……これは、豊田市の国道419を走っていたときに(むろん肉体ではなくクルマで)、前に来たダンプの背面の一部。前にダンプ系の車両がくると、その汚れ具合というか、崩壊の程度に思わず見入ってしまいます。これ、なかなかいいカンジ。

ダンプ後部2_600

こういうものは、きわめて個人的な興味でやるのですが、なぜか、そこに「世界」が開けてくるような感覚があって、好きです。「なにこれ?」というのは某テレビ番組で使われてるフレーズですが……私は、「なにこれ?」も好きですが、「なんだろう?」という、ちょっとしみじみとしたそこはかない疑問形の方が、深刻に?好きかな。

幸せな街・住みやすい村_02/Happy town, livable village_02

イズニックタイル_900

名鉄の太田川駅を降りると、駅舎の一階のガランとした広場の一画に、巨大なクスノキのタイル絵があります。日本の陶板とはちょっとちがった趣だなあ……と思って眺めていたら、横に解説がありました。ちょっと転写してみましょう……
『壁画「くすのき」は、トルコのイズニック財団によって1枚1枚手づくりで制作されました。東海市の木は「くすのき」であり、大宮神社(大田町上浜田)に育つ樹齢1000年と言われる市指定の天然記念物「大田の大樟(おおくす)」をイズニックのデザインで表現しています。(後略)』

じゃあ、イズニックってなあに?ということなんですが、ちゃんと説明も……
『イズニック・タイル 東海市は、トルコ共和国ブルサ市ニルフェル区と姉妹提携をしており、イズニックはニルフェル区と同じブルサ県に属する都市です。イズニック・タイルの生産地として16世紀に最盛期を迎えました。イズニック・タイルは粘土に石英を含み硬質で耐久性があり、鮮やかな発色による美しい文様が特徴です。オスマントルコ時代に建造されたイスタンブールのブルー・モスクやトプカピ宮殿などの建造物にはこのイズニック・タイルが用いられています。近年までその技術は失われていましたが、1993年に設立されたトルコのイズニック財団がこれを研究・再現し今にいたっています。』

なるほど……そういう経緯があったんですか……と感心。これ、太田川の街に降り立って最初に目についた「対象」だったんですが、結局、その日に見たものの中ではいちばんイイ感じで私の中に残りました。日本の小さな街の名もない(失礼、名はある)お宮さんの神木を、トルコの小さな街(人口2万弱)の職人さんたちがせっせとタイル画にしてくださっている……その光景が、なんとなく浮かんでくる……と思ってちょっと調べてみますと、この、イズニックという街の前身は、なんと、あのニカイア(ニケア)でした……古代ギリシア語で勝利の女神を意味するニケーの名を取って造られた紀元前に遡る歴史を有する街……そして、なによりも、あの、キリスト教の歴史を大きく決定づけた「ニカイア公会議」が開催された街……

日本の小さな街の駅で、数千キロも離れた場所にある、1700年近く前にキリスト教の歴史をつくった街の面影に出会う……これもまた、なにかの縁……といいますか、ふしぎなこともあるものだなあと。紀元325年にこの街、ニカイアで開かれた公会議で、古代に勢力を誇っていた初期キリスト教の二大派閥、アリウス派とアタナシウス派は激突します。アリウス派は、父(神)と子(キリスト)はそれぞれ別個の存在であると主張し、これに対し、アタナシウス派は、父と子は本質的に同じ(ホモウーシス)であると主張……で、結果はアタナシウス派が勝利し、ここに有名な「ニカイア信条」(クレド)が採択され、「三位一体論」(トリニティ)の基礎が確立した……これは、キリスト教の歴史上、イエスの死後最大ともいえるエポック……

しかし、このニカイアの街も、その後、トルコに占領されてイスラム化し、いつの頃からか、トルコ人たちに「イズニク」と呼ばれるようになる……イズニック陶器が生まれたのは、オスマン帝国時代(14世紀頃)といわれているようですが、最盛期の16世紀には、コバルトブルーをはじめとするいろんな色が使われるようになって、上の説明にもあるトプカピ(トプカプ)宮殿の壁なんかも飾ったようです。17世紀に入るとこの地の陶器制作技術も衰えはじめて、歴史の彼方に埋もれていったのですが、20世紀の後半に、復興運動が起きて現在に至る……と。イズニック財団のhpがありましたが、トルコ語?でようわからんですが(英語のボタンがあるものの、押しても機能しない)、写真だけみていても美しい……
http://www.iznik.com/
名鉄太田川駅のタイル画の写真もちゃんと出てきます。
http://www.iznik.com/tokai-city-metrosu-tokai-city-japonya

幸せな街・住みやすい村……いろいろ考えてしまいます。太田川の街の名鉄の駅は、改装されてとても立派になっています。このイズニックのタイル画も、やっぱりそれに合わせて造られたものなんでしょう。(イズニック財団のhpの記念写真を見ると、そう思えます)こういうふうに、駅を、そして道を造りかえ、さまざまな公共施設(いわゆるハコモノ)をどんどん造っていく……そのお金はどっから……といえば、それは「海岸線を工場に売って」得たもの……それが、街にとって、はたして幸せな途であったのか……街を歩いていると、やっぱり疑問に思います。イズニックの街は、今はタイル産業と観光で成り立っているみたいですが、住んでいる人たちは幸せなんだろうか……行ったことがないのでわかりませんが、いろいろ考えてしまいます。太田川の人たちは、今はもう名古屋の通勤圏なので、みなさん名古屋におつとめなのかな……?

私の今住んでいる三河の山里も、名古屋市と豊田市の通勤圏なので、ほとんどの人がどっちかの都市におつとめ……一昨日は村の祭りで、いろんな人と話をしましたが、40代の3児のパパは銀行員で、名古屋の御器所というところまで、毎日往復100km近くをクルマで……祖先からの土地を守り、子供を育て、村の行事に参加し、そして子孫に土地を受け渡していく……そういう生活を、これからも、ここの人たちは続けていく(いきたい)のでしょう。人の幸せってなんなんだろう……引き続き、ルソーの『社会契約論』を読んでいますが、とっても興味深い箇所に出くわしました。第三編の第一章、「政府一般について」というところなんですが、このように書いてあります(以下、桑原武夫チームの翻訳による岩波文庫版より転載)。

『どんな自由な行為にも、それを生みだすために協力する二つの原因がある。一つは精神的原因、すなわち、行為をしようと決める意志であり、他は物理的原因、すなわち、この行為を実行する力である。わたしが、ある目的物にむかって歩くときには、第一に、わたしが、そこへ行こうと欲すること、第二に、わたしの足が、わたしをそこへ運ぶこと、が必要である。(中略)政治体にもこれと同じ原動力がある。そこにも同じく力と意志とが区別される。後者は「立法権」とよばれ、前者は「執行権」とよばれる。この二つの協力なしには、何もできないし、何もしてはならない。』

なるほど……ここは明快です。デカルトは、「思惟」の世界と「延長」の世界を考えたけれど、まさにそれを「政治体」に応用するとこうなるわけだ……ということは、「立法権」はデカルトのいう「思惟の世界」のものであって、実際の大きさとかかたちとかをもたない、物質には関係のない精神的な世界のものなのか……これに対して、「執行権」つまり「行政権」は、「延長の世界」のもので、これは実際の物理的世界に「効く」ように働く……「思惟の世界」でつくられた「法律」にしたがって、行政体は物理的なパワーをもって「執行する」というわけですね。「立法」と「行政」をこういうふうに考えたことがなかったので、ここはおおいに参考になりました……と同時に、やっぱり根源的な疑問が……

デカルトは、およそ関係のなさそうな「思惟」の世界と「延長」の世界を結びつけるのにとっても苦労して、結局「松実線」(松実体)という肉体の器官を持ってきたわけですが……ライプニッツになると、さすがにもう少し理詰めで、彼は、この「原理的に無関係な」二つの世界を結合するために、なぜか、二つの世界が「密接に連関して動くかのように」この世界は予定調和によって予め構成されているんだと……つまり、そこには「神の力」が働いてそうなっているんだと……そういうふうに考えたと思います。じゃあ、ルソーはどうなんだろう……彼の理論では、「思惟の世界」にある「立法権」と、「延長の世界」にある「行政権」を「あたかも関連あるかのように」連結するものは、いったいなんだろう……

ここが、ふしぎなところですが……さらに読んでいけばわかるのかもしれませんが……現実にそこがどうなってるのかと考えてみると、これは、やっぱり「法律」ということなんでしょう。すなわち、「立法権」がつくるもの、そして、「行政権」がそれによって物理的なパワーを発揮するもの……それは、やっぱり「法律」……うーん、今まで、「法律」というものを、こういう観点で見たことはなかったなあ……やっぱりヨーロッパですね。徹底的に、「思惟」と「延長」の二大原理から考える。だから、この場合、「法律」というものは、「思惟」の要素と「延長」の要素を二つながら備えているというふしぎなものになる……ということは、「思惟」の要素からするならこれは、「理想」とか「理念」とかいろいろすばらしいものを含められるけれど、「延長」から見るなら実に生臭くキナ臭い……

私は昔から、法律とか政治とか社会とか経済とかが大キライで、だから絵描きになったようなもんなんですが……いや、絵描きがみんなこういうもんがキライとはいいませんが、身の回りをみてみると、キライな人が多いのはたしかです。なんか胡散臭いというか気持ち悪いというか、すっきりせんところの多いもんだなあ……と。まあ、私自身、特許の仕事なんかもちょっとやったので、実際はそういうもんに全くたずさわってこなかったとはいえないんですが……その経験からすると、みんな「法律をうまく使って」儲けたろう、というか、法律って、自分が得をする為にあるもんだと……そう思ってる人のいかに多いことか……でも、虚心坦懐に条文(私の場合は工業所有権法)を読んでみると、これはもう、かなり細心の注意を払って「公平に」なるようになんとか努力してる……

というか、そもそも、物理的な世界で、いろんな立場の人の損得を勘案する前に、まず、精神的な世界で「公正な条文はいかにあるべきか」ということに常に留意しているような印象を受けました。むろん、「立法権」の側にも物理的な圧力がかかって、その結果、本来は物理的世界とは無関係に立てられるべきものである「法律」が歪んでしまうということは、現実にはしょっちゅうあるのでしょうが……でも、昔、私が勝手に思い描いていたみたいに、「法律は為政者の都合のいいようにつくられる」というばかりではないような気が、やはりした。やっぱり……「思惟の世界」のものであるからには、「論理」を無視するわけにはいかないので、そこは、けっこう論理的なものを重視してつくられているなあ……と思いました。世間では「但し……」とかではじまる付則みたいなもので骨抜きに……

とかいわれていますが……まさに、そういう分野もあるのかもしれないけれど、工業所有権法なんかだと、ある程度、というかかなりの程度、論理を重視してつくられている……特許なんかだと、出願して権利を得られれば、それは「儲け」に直結する反面、同業者には確実な「不利益」をもたらす……つまり、「国家の保護」による「独占」が可能になるので、利益をこうむる側と不利益にさらされる側の闘争はシビアなもんです。そういうシビアなところで、法律をつくる側と、それを執行する側はいかにしたらいいのか……私が垣間みることができたのは、工業所有権法における「立法」と「行政」、それに「司法」だけなんですが、おそらくは、法律の全般に亘ってこういうことがあるのでしょう。そして、それによって人の実際の生活が変化を受け、その人たちが住む街や村の姿も変わっていく……

ルソーの『社会契約論』は、岩波文庫の翻訳で200ページ足らずの薄い本ですが、根源的に難解で何回読んでもわからない……だけど、これがフランス革命の理念になり、さらには民主主義の根幹になって現在まで続いている……奴隷制を復活してネット公開処刑もやってしまう「イスラム国」は、このルソーの『社会契約論』に、実力で根源的な叛旗を翻しているように感じます。まあ、論理では、『社会契約論』は論破不可能でしょう。なぜなら……基本のところで、どういうふうに論理が通っているのか、何度読んでもよくわからないところがあるから……しかし、多くの人が、これを「論理的に正しい」と思ってここから「民主主義」を展開させてきた……そして、それに、イスラム国はラジカルな「NO」をつきつける……イスラム国を「狂ってる」というのはカンタンなんでしょうが、じゃあ、ルソーの『社会契約論』をきちんと論理で読み解くことができるんだろうか……ふしぎな世界だ……

結局、ルソーの考え方の根幹には、西洋の思想に共通の「この世界は、一つの論理によって整合されるはずである」という基本思想があるように思います。アタナシウス派とアリウス派の論点の根元的な部分がまさにそこだった……「世界の外なる原理」である「父なる神」と、「世界の内なる原理」である「子なるキリスト」は「同質」(ホモウーシア)であるか、いなか……もし、これが「同質ではない」ということになると、世界の外なる原理と世界の内なる原理が異なることになり、これは大問題です。人は、処女を森に送ってユニコーン(旧約の荒ぶる神)をなだめ、とらえた。その処女(マリア)によって「世界のうち」へと送られたキリストが、外なる神であるユニコーンと「異なる質」のものであるならば、結局、処女によるユニコーンの懐柔と、それによる「根本原理を人間の手に引き入れる」試みは失敗したことになります……

「それは困る」ということで、ニカイアの公会議では、父と子を同質であるとするアタナシウス派が勝利を収めたのでしょう……以後、地中海世界、そしてヨーロッパ世界は、この原理、すなわち、神の原理をキリスト(ロゴス)を介して人間の手中に収める……というやり方で、つぎつぎと「人の世界」を拡大していく……私がこのあいだ、さまよい歩いた太田川の街も、この「ホモウーシスの原理」によって昔ながらの生活があった海岸線を失い、かわりに埋立地と工場と、そこから得られるお金を手にした……立派な駅舎の一階に静かに佇むイズニックの……かつてニカイアの街であった場所で生産されたタイル画……それは、太田川のお宮さんのクスを描いたものなんですが、ふしぎにさわやかで愛らしいそのタイル画の写真を見ながら、やっぱりいろいろ考えてしまいました。幸せな街、住みやすい村……それは、いったいどこにあるのでしょうか……

滑稽疑似堂@前田公園/Funny Diet building@Maeda Park

滑稽疑似堂_900

この建物?なんかに似てると思いませんか?……そう、千代田区の永田町にある、アレ……だれが、いつ、なんのために建てたんだろう……そもそも、これは、もしかしたらアートなのか?! 見た瞬間、なにか理由のわからない奇妙な思いにとらわれるものって、そんなにしょっちゅう出会いませんが……コレはまさにソレ。スケール感のショボさが、滑稽とマジメの間を行き交って、思いも気持ちも定まらない……ヘンだ……とにかくヘン。なんだろう、いったい、コレは……

愛知県の豊田市には、前田公園というふしぎな場所があって、こういう、なんと形容していいかよくわからないものがたくさんあるのです。けっこう広い山なんですが……わけのわからない建物みたいなもの、記念碑のようなもの、塔のように見えるもの……そして、数知れない奇妙な仏たち……ここは、珍奇な物品が好きな人にとってはまさに宝庫……ということで、めぐっていると、なにか、全体を統御するような意志を感じます。あきらかにプロデューサがいる……

そのプロデューサの名は、前田さん。だから、前田公園といいます。昔の財閥だったそうですが、私財を投じてこのふしぎなテーマパークを造った。いずれの造作も、どこか少し狂っていて、まともやない……なんとふしぎな人だったんだろう……ここは、昔はかなり荒れていましたが、今はきれいに整備されて、かつてのおどろおどろとした感じがかなり消えてしまっている。あっけらかんとした緑の中に見えてくるふしぎな造形……とても楽しい場所です。

おいおい、少しずつ紹介していくこととしまして……今回は、この「滑稽疑似堂」をいろんな方向から撮った写真をのっけておきます。横から見るとこんな感じ。なんか薄っぺらでキッチュだ……本人はまじめにつくってるんでしょうけど。

疑似堂側面_600

ちょっと裏手に回ってみましょう。うーん、どことなく、古い公衆トイレのようにも……

疑似堂裏手_600

今日の kooga:前田公園のミツバツツジ/Rhododendron reticulatum@Maeda Park

ミツバツツジ_900

豊田市の平戸橋というところにある前田公園のミツバツツジです。この地方で、ミヤマツツジと呼ばれる、コバノミツバツツジという品種だと思いますが、詳しいことはわかりません……落葉樹林の中に生えていて、サクラが終わりがけの頃から咲きはじめます。深い森の中にあざやかなマゼンダ色の花が、まるで色そのものが空中に浮かんでいるような神秘的な風情で、私は大好きなのですが……この写真は、緑の芝生(というか苔かな?)を背景に、またちがった趣があります。

このツツジのある前田公園というところは、たいへん面白い場所なんですが……その話はまだいずれ。