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個展がはじまりました/My private exhibition began.

カノン個展_05_900
愛知県碧南市のカフェ・カノンにて。四月いっぱいやってますので、お近くに来られたら、立ち寄ってください(月曜定休)。マスターのおいしいコーヒーを飲みながら、作品を楽しんでいただければ……

カノン個展_01_900
今回は、前回(2015)の東京のトキ・アートスペースでの個展と同様、ドローイングの作品を並べています。東京で展示したのとかぶる作品も多いですが、新作も10点くらい描いてます。また、立体作品や透明作品も置いてます。上の写真(↑)は、5点の大きな作品(60cm角)が並んだ壁面で、作品はすべて「アラクネンシス」というシリーズ(リンク)の一筆描きです。

カノン個展_02_900
こちらの壁面(↑)には、30cm角の作品を13点、並べました。手前の3点がアラクネンシス・シリーズで、奥の10点は絵を紋様化するemonシリーズです(リンク)。また、下の台にはA4、B5、B6、そしてハガキサイズの作品(ファイル入り)を100点以上展示しています。さらに、このブログでときどき紹介した、本を立体化するQ-book作品(リンク)も。手前に見えるのは、やはりこのブログで紹介した御茶目新聞で、手に取って閲覧できるようにしてあります。

カノン個展_03_900
窓際には、INVISIシリーズ(リンク)の透明作品を並べました(↑)。このシリーズは、塩化ビニールに画像を転写して(サーモプリント)、木枠に張ったもので、人体や古代文字など、さまざまな画像が見えます。中央右よりの鳥の作品は、元々あったもので私の作品ではありませんが……出窓の向こうに、碧南の昔の街並が……

カノン個展_04_500
これは、入口のショウ・ウィンドウに飾った、DMに使用した作品。ポストカードサイズの一筆描きで、アラクネンシス・シリーズの『凪』というタイトルです。

個展やります/Personal exhibition at Hekinan city.

愛知県の碧南という街の、カフェ・カノンという画廊喫茶で個展をやることになりました。期間は四月いっぱいです。

個展カノンDM_900
カフェ・カノンは、友人がやってる喫茶店で、壁面が画廊式にしてあって、おいしいコーヒー(サイフォンで入れる絶品!)を飲みながらゆっくり作品を楽しめます。

今回は、昨年四月に東京のトキ・アートスペースで展示した作品がメインになりますが、新作も何点かつくりました。一筆描きドローイングのアラクネンシス・シリーズを中心に、字を紋様化した jimon シリーズ、絵を紋様化したemon シリーズを展示。数は少ないけれど立体作品(本を立体化した Q-bookシリーズなど)もあります。

場所は、名古屋駅から名鉄三河線に乗って終点の碧南で下車、徒歩10分です。碧南市の古い街並の中にあって、近くには、藤井達吉現代美術館もあります。散策するのにもなかなかいいところです。車の方は、画廊前のPが空いていたらそこへ、一杯ならすぐ近くの臨海公園の駐車場(無料)に停めてください。

オープン時間は、午前8時から午後6時、定休日は毎週月曜と第一火曜(4/5)です。4月3日の日曜日は、朝の9時から午後3時頃まで作者がおります。

ということで、お知らせまで。お近くの方は、ぜひご覧になってください……。

*DMに使用した作品は、新作で、アラクネンシスシリーズの『凪』という作品の中の一枚。今回のためにつくった新作で、一筆描きです。ちょっと拡大してみると、こんな感じです。

凪_715
地図が小さくてわかりにくいので、拡大します。

カノン地図_732

今日のemon:第一ゲーテアヌム/First Goetheanum

第1ゲーテアヌム_900
ルドルフ・シュタイナーの第一ゲーテアヌムです。スイスのドルナッハにありました。ドルナッハは、バーゼルにすぐ近い小さな町ですが、このシュタイナーのゲーテアヌムがあることで知られている……というといいすぎでしょうか。シュタイナーは、自分たちの劇場を建てようとしてドイツ国内で土地をさがしたけれどみつからず、結局国境に近いスイスの町、ドルナッハに広大な敷地を求めて、このゲーテアヌムを建てたようです。しかし、完成して間もなくなにものかによって放火され、焼失……もったいない話です。
第一ゲーテアヌム_900
1922年の大晦日だったらしいですが、年越しで燃えつづけ、なくなってしまいました。放火犯はいまだにわかっていないみたいですが、ナチスだという説もあるようです。ただ、ナチスが盛んになるのはもう少しあとのことなので、どうなんだろうか……と思って調べてみましたら、けっこう詳しく書いているサイトがありました。リンク
これによると、もしかしたら放火犯ではないか……とされる人物がいるらしいんですが、その人物がナチとかかわりがあったかどうかはわかっていない……ということは、つまりわからんということらしい。

第一ゲーテアヌムは、結局今では写真しか残ってないんですが、その写真を見ると、こんなふしぎな建物があったのか……と思います。なんか、イメージとしては、第二次大戦のときのドイツ兵のヘルメットを思わせるような……木造のドームを二つつらねたような構造だったみたいですが、内部はステンドグラスと彫刻と天井画に飾られた美しいものであったらしい……もったいないことです。しかし、シュタイナーはめげずにすぐに再建にとりかかり、彼の死後、第二ゲーテアヌムが完成……
第2ゲーテアヌム_900
この建物は、第一ゲーテアヌムとはまった異なった外見で、素材も鉄筋コンクリートですが、内部装飾はできるだけ忠実に第一ゲーテアヌムを再現してあるんだとか……上にあげたサイトによりますと、第一ゲーテアヌムには多額の保険金(今の日本円にして数億円)が掛けられていて、それで、第二ゲーテアヌムの建設もできたんだそうですが……それにしても、政治的な力関係が文化財を破壊するというのは、今のイスラム国やタリバンにはじまったことじゃないんですね……もったいない……
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今日のemon:花嫁と独身者/The Bride and Bachelors

個展(リンク)展示作品紹介の第6弾は、現代美術の世界では知らない人はいない、マルセル・デュシャンの『大ガラス』から、その主要部分である「花嫁」と「独身者」をとりあげて emon 化してみました。まずは、「花嫁」ですが、こんな感じになりました。
花嫁_900
そして、「独身者」は、こんな感じ。
独身者_900
デュシャンは、20世紀前半を代表する現代美術家で、フランス生まれですが、アメリカに渡り、ニューヨーク・ダダの中心人物となり、その影響は戦後も続き、その作品の解釈をめぐって、いまなお多くの研究が行われていますが、完全に解明されているとはいえない……もう、その存在自体が一個の神秘現象となってしまっている、「神話の人」……「神話の……」という肩書きはけっこうよくききますが、この人ほどそれにふさわしい人はいないんじゃないかと……

で、彼の代表作とされているのが、通称「大ガラス」(The Large Glass)、正式名称が、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even)という長〜いタイトルのガラス作品。高さが3m近くあるでっかいものですが、上下に完全に2分されていて、上が「花嫁のパート」、下が「独身者のパート」となっています。この作品、実は未完で、完成をみないままに作者がお亡くなりに……

作品の全体像は、いろんなサイトで見ることができますが、ウィキの写真がきれいなのでリンクをのせておきます。日本語版は残念ながら内容が削除されてしまっているので、英語版になりますが……
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Bride_Stripped_Bare_by_Her_Bachelors,_Even
この写真で、「花嫁のパート」の左側にある図像が「花嫁」(The Bride)、「独身者のパート」の左側にある群像が「独身者たち」(Bachelors)です。花嫁は一人ですが、独身者は複数形で、数えてみると9人います。デュシャンによると、みなさん「制服」を着用されておられるようで……こんな感じです。
独身者_部分
さらによく見ると、9人の独身者たちのそれぞれの頭の部分から細い線が伸びています。この線は、デュシャンが独自に開発した「停止原器」というモノサシの3D投影になっているのですが、その線が右の方で一カ所に集まり、そこには漏斗状の円錐があります(ここから先は、上の絵には出てきません)。この円錐は、弧を描いて7個つらなり、右へ伸びています。右にいくにしたがって色が濃くなっているのがわかりますが、これは、「停止原器」によって集められた「独身者たちのガス」が濃縮されているんだとか……

そうなのです!独身者たちは、頭からガスを漏らす……これって、なんか悲壮というか悲哀というか、独身男性の生理を、その精神的な妄想の部分までそっくりとらえて流しこんでいるような……まあ、アイロニーといえばそうなんですが、それにしても切実な……この「濃縮過程」を稼働させるエネルギーは、独身者たちの右下にある水車によって与えられます(水車は「落ちる水」によって回る)。水車の回転は、ソリのような装置を通じて七つの漏斗の上にあるクロスした2本のバーを開閉させ、その力が、下方にあるチョコレートグラインダー(3つの筒のある装置)を回転させる……

こうして濃縮された「独身者のガス」は液体状となって七つ目の漏斗の先端から発射され、画面右下の部分に落ちて再び上昇し、「眼科医の検診」と呼ばれるリング状の部分を通って、画面を二分するバーを越え、ついに「花嫁のパート」に到達し、銃弾となって打ちこまれます。「花嫁のパート」の右には、よく見ると銃弾が打ちこまれたあとの穴があいてます。一方「花嫁」は、独身者たちの働きかけを受けて、「内燃機関」によって稼働をはじめる……このあたりは、20世紀初頭に登場して、あっというまに世界中を席巻した自動車のイメージがあるのでしょうか……「花嫁」の図像はこんな感じです。
花嫁_部分
このように、この大ガラス作品は、直接的には男性と女性の性的交渉を描いたものであることはまちがいないんですが……実は、それだけにとどまらず「奥の意味」がいろいろあって、一時は「錬金術的解釈」が話題になりました。まあ、ユングみたいな感じになるんですが……もう、いろんな人が、いろんなことを言ってるうちに、この作品は、どんどん神秘のベールに包まれて……当のデュシャンは、そんな様子を笑ってみているのかもしれませんが、かしましいことです。実物大のレプリカも3体つくられて、その一つは日本の東京大学にあるそうですが……

私は、この作品の実物は見ていないんですが(実物はフィラデルフィアにある)、こどもの頃、美術全集で写真を見て、「なんてヘンな作品だろう……」と思ったことを覚えています。その作品は、美術館にある状態を撮ったもので、背後に窓があって外の風景が見えていた。最初は洗濯物を干した風景の写真?と思って、かなり長い間そのイメージが定着していました。大人になって、現代美術に興味を持ってからいろいろ調べてみたんですが……なんか知れば知るほど、これは無限に奥が深い作品かもしれない……と思うようになって、完全にデュシャンの術中にはまった人の一人に……

私は、やっぱりこの作品は、人間の持っている「芸術衝動」の根元みたいなところにあるものかなあと思います。それはおそらく、身も蓋もない言い方をすれば、常に「性的衝動」とリンクしているんですが……人間の文化って、実はかなりの部分がそこに根ざすのかもしれない……というと、フロイトみたいになるんですが、フロイトのように文章で言われると「ン?それはちょっと……」となっても、この大ガラスみたいな感じで提示されると、「うーん、それはそうかも……」となるからふしぎです。

この作品については、考えたり思ったりすることはそれこそ無限にありそうですが、そのあたりはまた別の機会に……最後に、emon 化してみて思ったのは、やっぱり図像としての構成が、ものすごく考え抜かれているなあ……と。いろんな図像を emon 化してみましたが、図像としての構成は、ゆるいものもあれば緊密なものもある。emon は、基本的に同じ図像をくりかえし描くので疲れますが、図像の構成によって、その疲れ方がだいぶちがいます。総じて、構成のゆるいものほど疲れが大きい……描いていて、だんだんいやになる速度が早いです。

ところが、このデュシャンの花嫁と独身者は、どちらもなかなかイヤにならない。描いていると、なるほど……という発見がけっこうあります。つまり、そこまで形が絞られ、研ぎすまされて提示されている。やってみて、「かたち」というのは、人間の精神にとってはけっして平等ではないなあ……ということを思いました。カメラの目なんかは、それこそどんな形も平等に扱うのでしょうが、人間の目は、そのまま精神につながっているからそうはいかない。われわれがふだん、いろんなものを見ているときも、見るという「積極的行為」において、すでに選択や思考をしてしまっている……

現象学なんかでは、「現象学的還元」(エポケー)ということをいいますが、あらゆるものを、いっさいの価値観抜きに見るということは、これは実は、ほんとうに難しいことだと思います。見たものをなんどもなんどもくりかえし描いてみる……つまりemon 化をやってみると、そのことが実感されてきます。精神によって鍛えられていないかたちはゆるく、すぐに崩れていきますが、このデュシャンのかたちのように、もうこれしかないというところまで突き詰められたかたちは丈夫だ……なんど描いてもびくともしない……スゴイ……と思ってる私は、またデュシャンに笑われているかもしれません。「ン? キミの思いこみなんじゃないの?」とか……

今日のemon:オフィチウム/Officium

オフィチウム_900
個展(リンク)展示作の第5弾はCDです。私がこれを見つけたのは、名古屋の地下街の中古CDを置いているお店で、まず表紙にひかれました。「オフィチウム?なんじゃろ……?」表紙にはラテン語で「Officium」と書いてあるだけなんですが、まともに(というか、日本の学校で習う読みで)読めば「オフィキウム」かな?「オフィチウム」というのはイタリア語に引かれた読みだと思いますが、日本語訳はこれで通っているみたいですね。

発見したのはもう15年くらい前でしょうか……発売は1994年とのことですが……半信半疑で買って、帰ってかけてみると……なんとなんと、これは、もしかしたら今までにまったく聞いたことのない音楽ではないか……ああ、心がもっていかれる……ということで、このCD、なんと150万枚も売れたそうです。ここを見てる人の中にも、「あ、持ってる」という方もけっこうおられるのでは……

このCD、ECMニューシリーズというレーベルの一つなんですが、このレーベルは、クラシックと他のジャンルの境界をまさぐっていて、けっこうユニークな名盤をたくさん生んでいます。ただ、欠点は「高い」ということなんですが、中古屋さんで丹念にさがすとけっこう出てきます。まあ、それだけ売れているということかな……中でもこの「オフィチウム」は売上げダントツ……

演奏は、ノルウェーのジャズ・サックス奏者のヤン・ガルバレクと古楽合唱分野で今やオーソリティになってしまったヒリヤード・アンサンブルのコラボ。合唱は、グレゴリオ聖歌や16世紀スペインの作曲家、クリストヴァル・モラーレスの曲を忠実に歌いますが、そこにガルバレクが即興でサックスをのせていく……このカラミが、もう、実に、そういう曲があるかのごとく自然で、響くんですね……

響く……そう、サックスの音が無限空間にワーンと広がる中に合唱の聖なる純粋な響きが、どこまでも透っていきます……それはもう、宇宙空間のような、はたまた素粒子の世界のような……時のかなたから人の心の深みをすぎて、無色透明のはずなのにいろいろな色が淡く輝くような気がする……なにかこう、太陽系を旅だって無限の銀河のさらに向こうを旅するような……

あるいはまた、牢獄。それも、牢獄アーティストのモンス・デジデリオが描くような、ヨーロッパ中世の無限に上に伸びる石の地下牢……そういうところに、私は閉じこめられているのだけれど、なぜか天上から光がさしてきて、冷たい石の床にまで「救いの模様」を描いていく……ああ、神は、こんなところに人知れず生きる私のことも、けっしてお忘れではなかったのだ……と。

けっこう書きすぎかもしれませんが、はじめて聞いたときは、まさにそんな感じを受けました。おお、これは、もはや究極の音楽かもしれぬ……この感じは、やっぱり今でも聞くたびに漂います。柳の下にどぜうがなんとやらで「ムネモシュネー」という続編も出ましたが、やっぱりこの「オフィチウム」の衝撃に比べるとはるかに及ばない……最近(2010)、「オフィチウム・ノヴム」といのも出たそうですが……

これはまだ聞いてませんが、やっぱりこの「初発の衝撃」にはかなわないでしょう……ということで、このCDを emon 化してみることにしました。表紙の銅像の少年?の顔が、もうなんともいえずそこはかとないんですが、その雰囲気をうまく出すのは難しい……25枚分描きましたが、結局うまくいったのはたった一つだけ……これも、100%のできではないですが、まあ、なんとか……
オフィチウム_部分
あとは、どっかこっかオカシイなあ……もっと大きな紙にもっとたくさんやればいいのかもしれませんが、まあこのあたりが限界です。ところで、この「オフィチウム」というラテン語は、「聖務日課」と訳すそうですが、カトリックでこういうのがあるそうですね。毎日毎日やる……一日何回もやる……ナニをやるかはナゾですが、とにかくナニカを、毎日毎日欠かさずやる……

ところで、私の手元には、もう一つ別の「Officium」というCDがあって、こちらは3枚組です。先の「Officium」に曲が収録されているモラーレスより少しあとのスペインの作曲家で、トマス・ルイス・ヴィクトリアという人の「Officium Hebdomadae Sanctae」(聖週間聖務曲集)という曲を3枚のCDに収めたもの。こちらは、サックスは入らない、由緒正しい?合唱のみの響きですが、これがまたすばらしい……

ということで、だんだんわかってきたのは、これはたぶん、グレゴリオ聖歌から16世紀くらいまでの曲そのものがすばらしいんだな……と。まあ、昔でも、合唱に合わせて金管を演奏する風習もあったそうですので、ガルバレクとのコラボもまんざら「とってつけた」ものでもないらしいんですが、やっぱり結局、「元の曲」そのものが宇宙的というか、無限の時空をどこまでも漂うようにできている……

後期バロック、とくにバッハの曲なんか、もう「比類なきすばらしさ」といってもいいんですが……でも、「純粋性」という点からすれば、もしかしたらこの16世紀のモラーレスやヴィクトリアには負けているかもしれません。こういう曲をきくと、やっぱり人間「心を磨く」ことって必要だなあ……と、いささか謙虚になりますね。天正少年使節団がローマに派遣されたのが1582年なので……

彼らは、もしかしてこういう曲をきいていたのかもしれない……ローマへの道のりで、スペイン、ポルトガルを通ってますし……それに、ヴィクトリアの「Officium Hebdomadae Sanctae」は1585年にローマで出版されていますが、ちょうどこの年に少年使節団はローマに到着して教皇グレゴリオ13世に会ってます。その謁見のときに、この Officium が響いていたとしたら……

彼らは、当時最新の「現代音楽」をきいたのだ……と、妄想は留まるところを知らず……それが、時を超えて500年後、日本のある地方都市の中古CD店で私に発見され、ついにこういう emon になってしまいました……人間の歴史って、ふしぎですね。

今日のemon:橋川文三著作集9/Bunzo Hashikawa collected writings Vol. 9

B5_橋川文三著作集9_01_900
個展(リンク)出品作の紹介の第5弾は、橋川文三著作集(筑摩書房刊)の第9巻を emon 化した作品。emonというのは、以前から書いてますように、「絵」を並列させて模様化したものです。本の emon 化の場合は、ふつう表紙を上にして、背表紙も見えるような角度から描くんですが(リンク)、この本の場合は表紙に出版社のマークの空押しがあるだけ……なので、いつもの角度ではなんの本かよくわからないことになります。そこで、背表紙が上になるように立てて emon 化してみました。

やる前は、これでもあんまりおもしろいものにはならないかな……と思っていたんですが、やってみてビックリ。けっこうおもしろいじゃん!と思うのは、作者の私だけなんだろうか……本みたいに形が90°の角度からできてるものを emon 化すると、なぜか必ずパースがかかるのですが(私の場合)、できるだけ詰めて emon 化するというタテマエ上、下段の本は、上段の本の間に挟みこまれるように描かれることになります。これが、思いがけない整列感をうみだして、なんか兵隊さんが「前へ~ならえっ!」とやってるみたいになりました。

B5の紙にやってるのですが、紙がこの2倍あれば、パースの角度が中央で入れ替わって、左半分が裏表紙、右半分が表紙が見えるようになったかな……と。これは、いつかやってみたいと思います。ところで、この橋川文三さんの著作集ですが、なぜこれをやったかというと、この第9巻の中に「ナショナリズムーその神話と理論」という論文が収められていて、これがとてもおもしろかったので……私は知らなかったんですが、この論文は、この分野(日本のナショナリズム研究の分野)では、一応基礎的文献になってるみたいですね。

今、NHKの大河ドラマで、吉田松陰と周辺の人々のことをやってますが……なぜか、今、若い人たちの間に、日本のナショナリズムのことを知りたいという気運が盛りあがりつつあるようです。だけど危険……この分野は、不用意に入りこむと頭がかーっと熱くなって冷静な判断力も吹っ飛び、それこそサッカーなんかでナントカジャパンと連呼する(野球でしたっけ?)……そのあたりと変わらないことになりかねない……むろん野球やサッカーで熱くなるのはけっこうなことなんですが(たぶん)……

しかし、学問ともなれば話は別で、そこはやっぱりスポーツのノリではまずかろう……と。そこで、いちどきちんと「日本のナショナリズム」について調べたいなあ……と思ったときに参考になるのがこの橋川さんの論文……ということで読んでみたんですが、さすがにヤカマシクいわれるだけあって「研究者の目」を失っていないなあと思いました。常に全体を見ながら、できるだけ公平に、客観的な視野からの論述が心がけられている……しかも「熱い心」は失わず……ああ、これは、きちんとした研究書だなあと思いました。

私は、この分野についてはほとんど知らなかったんですが、橋川さんのこの本は、ずいぶん勉強になりました。まあ、ご本人が、各項目についてはあんまり掘り下げられなかったと書いておられるように、専門の方にとっては物足りない内容かもしれませんが(元の本は新書ですし)、初学者ならこれで充分……まずは、日本のナショナリズムにおけるいろんな問題点が、各時代ごとに(幕末からはじまります)丁寧にとりあげられていて、とっかかりとしては充分すぎるのではないかと……短い論文ですが、内容は濃いです。

橋川さんはもう亡くなられているそうですが、今のこの風潮をご覧になっていたら、どう思われるでしょうか……日本って、いったいなんだろう……おりしも、政府と沖縄県の対立はもうにっちもさっちもいかないところにさしかかりつつあるような気がします。橋川さんがこの本で整理提唱した問題意識は、今なお……というか、今だからこそ、世の中に、静かに訴えかけるものがあるような気がする……みんな、自分が日本だ(日本人だ)と思っているけれど、じゃあその「日本」ってなに?……うーん、なんだろう……
B5_橋川文三著作集9_01_部分
*橋川文三さんについて:1922(大正11)〜1983(昭和58年)。長崎県上県郡峰村(現対馬市)生まれ。東京帝国大学法学部卒。日本の政治思想史の研究者で、明治大学政治経済学部の教授だった。三島由紀夫との論争でも知られる。日本浪蔓主義や超国家主義の研究で、独自の視点をひらく。この分野で後世に与えた影響は大きい。東京都知事であった猪瀬直樹氏の先生でもあった。著作は『日本浪蔓派批判序説』や『ナショナリズムーその神話と理論』など。筑摩書房から全10巻の著作集が刊行(2001)されている。

今日のemon:民のいない神/Gods Without Men

民のいない神_900
個展(リンク)出品作の紹介第四弾は、emon シリーズから、ハリ・クンズル作『民のいない神』(木原善彦訳、白水社、2015)。最新刊のこの小説を emon 化してみました。ちなみに、emon というのは私の造語で、「絵紋」つまり、「絵」を並列して模様化したシリーズにつけてるシリーズタイトルです。文字を模様化した作品を jimon シリーズとしてつくっていますが、これにならったもので、「絵」は実物でもなにかの図案でもなんでもいい……まあ、文字以外の図像はすべて「絵」と解釈してやってます。この作品の場合は、図書館で借りてきた本をオブジェとしてやってみました。
民のいない神_part
この本の作者のハリ・クンズル(Hari Mohan Nath Kunzru)さんは、1960年生まれのインド系イギリス人作家だそうで、今はニューヨークにお住まいだとか。この小説は、カリフォルニアのモハーベ砂漠(Mojave Desert)に立つとされる3本の奇岩(ピナクル・ロック)をめぐる物語で、いろんな時代のいろんな人たちが登場するんですが、ストーリーの骨格は、アメリカに移住したインド人の2世?のジャズ(ヘンな名前ですが)が奥さん(白人女性)と子供づれでここを訪れ、息子のラージくん(これも変わった名)が「神隠し」にあうという……そんな感じです。

で、この「神隠し」が、もしかしたら「宇宙人による誘拐」ではないかという雰囲気が漂う……この3本の奇岩の場所には、大航海時代にここに来たスペイン人神父が「天空からの人々」にあったという話からはじまって、1950年代にはあるUFOコンタクティを「教祖」とするUFOオカルト教団みたいなのが繁殖したりとか、いろんなお話が錯綜しながら紹介されます。ラージが「神隠し」にあうのは2008年で、基本はほぼ現代のお話なんですが、主人公格のジャズは、物理学者で、金融業界で確率論を応用した投資ソフトの開発にたずさわって高給をもらっている。アメリカの金融業界では、こういう人(研究者くずれのIT技術者)が多いようで……

リーマン・ブラザーズの倒産による金融危機とか、それが実は彼が開発の一端を担っていた投資ソフトによるものだったのかもしれない……とか、サブストーリーにもことかかず、全体はまことに映画的……『クラウドアトラス』という映画がありましたが、雰囲気はそんな感じです。この小説は、やがて映画化されるかもしれません……まあ、それはともかく、読んでいて感じたのは、「寸止め」が効いてるなあ……と。「宇宙人」の雰囲気は濃厚なれど、『未知との遭遇』みたいなふうには絶対ならない。金融ソフトの問題も、「かもしれない」以上には行かない……

要するに、「ご本尊」は絶対にわからない、見せない……ということなんですね。現代の考え方としては……「そういうもの」を信じる人はいてもいい。だけど「そういうもの」が実在するのかどうかはわからない……それは、結局永久にわからないのであって、われわれは、そういう時代のものとして、ここに立つしかないのだ……と。これ、やっぱり今の時代の気分だと思います。信じたい人は信じてもいい。だけど、それが「本質」というところまでは絶対に届かない……まあ、数学でいう「漸近線」みたいなもので、無限に近寄れるけれど、ドンピシャにはならない……衝突回避というのか……

考えてみると、「絶対に信じる」というところを起点にして、いろんな争いが起こっているように見える。まあ、イスラム国なんか典型ですが、思想の核、自分自身の核……そういった「のっぴきならない場所」はつねにソフトフォーカスでぼやかす……「他者」が入れる余地を残しておく……これが、単なる「処世の智恵」を超えて、すでに「思想自体」になりかかっている……そんな印象を受けました。ポストポストポストの時代というか……もう、いろんな争いに嫌気がさした世代……そういう世代が大人になって、ちょっと今の文明はどうにかならんもんでしょうか……という、そういう控えめな気持ちの吐露みたいな感じもします。

ところで、訳者の木原さんの解説によると、3本岩の下にコミュニティをつくったUFOカルトにはモデルがあるそうで、1950年代のアメリカのコンタクティ、ジョージ・ヴァン・タッセル(George Van Tassel)氏のカルトなんだとか……小説に出てくる3本岩はフィクションですが、ヴァン・タッセルさんは、モハーベ砂漠に実在する「ジャイアント・ロック」という奇岩のそばに拠点をもうけて、たくさんの人を集めて「UFOコミュニティ」みたいなのつくってたらしい……世界中から「信者」が集まって、一時はタイヘンなものだったらしいですが、小説の中には、それを彷彿とさせるシーンがなんども出てきます。

ヴァン・タッセルさんがコンタクトしていた宇宙人の集団は、「アシュター・コマンド」(Ashtar Command)と呼ばれる方々ですが、この名称は、小説の中でもちゃんと出てきます。日本語訳では「アシュター銀河司令部」となっていましたが……小説では、むろん、宇宙人本人?が出てくるわけではなく、ヴァン・タッセルさんがモデルとなっているとおぼしき「教祖」さんがメッセージを受ける先が、この「アシュター銀河司令部」……ちなみに、この「アシュター・コマンド」の通信は、現実世界では今も継続しているようで、ネットで読めます(しかも日本語訳で)。
http://nmcaa-kunimaru.jp/message.from.ashtar.html

アシュターさんの肖像を載せているサイトもありました。金髪碧顔のもろコーカソイド(アシュターさんは、この人種に縁が深い)で、「司令部」というだけあって軍服を着ている……もう、ここまでくるとどっかのアニメの世界だ……
http://ameblo.jp/kenji9244/entry-12011111812.html
クンズルさんのこの小説は、さすがに寸止めが効いていて、こういうところには絶対に立入りません。ここへ立入ると、寿命が短いというか、その先がないというか……これはまた、「創作のヒミツ」でもあって、ある高度を保持しないと、創作自体が瓦解崩壊する……

ということで、この小説は、悪く言えば隔靴掻痒、永遠の宙ぶらりん。良くいうなら自己抑制が美しい……そんな感じでした。それと最後に、私とこの小説の出会い……ある日、いつも行く街の図書館で、ふと新刊コーナーを見たら、新刊が1冊だけ……で、それがこの本だった。「民のいない神」?なんじゃろ……タイトルにひかれ、岩の横に停まる昔のアメ車の表紙にひかれてつい手に取る……訳者の木原さんの解説をちょっと読んで、ん?ヴァン・タッセル?……よし、これ借りよう……ということで、考えてみればふしぎな出会い……新刊の棚に1冊だけ、なんかいぶし銀の光を放ってそこにありました。まるで私を待つかのように……

個展やります/I’ll hold a personal exhibition in Tokyo.

凪_900
個展をやることになりました。場所は、トキ・アートスペースという名前の現代美術のギャラリーで、場所は渋谷の神宮前。ワタリウム美術館の近くです。最寄り駅は銀座線の外苑前で、3番出口を出て外苑西通りを北へ、歩いて10分たらずのところです(Tel : 03-3479-0332)。

トキマップ期間は、4月の20日(月)~26日(日)で、会期中は無休です。時間は、午前11時半から午後7時までですが、最終日は5時までです。私は、会期中ほぼ画廊にいる予定ですので、みなさん気軽に遊びに来てください。展示する作品は、このブログでもたびたび掲載しているドローイング系です。

今回は、3つのシリーズを出品予定。まず、ひとふでがきのアラクネンシス・シリーズ。つぎに jimon シリーズ。そして emon シリーズです。部分的にはブログに掲載していますが、掲載していないものが大半です。初日までまだ2週間ありますので、少しづつ載せていこうかなと思っています。

冒頭に掲載したのは、アラクネンシスシリーズの「凪」という作品で、全体は60cm角の大きさですが、全体を出すとモニター画面のモアレ現象でなにがなんだかわからなくなるので、部分を切り取っています。全体はひとふでがきで、一本の線でできています。パネルに張った紙にインクで描いてます。

出品作にかんする説明は、画廊のHPで……
http://homepage2.nifty.com/tokiart/2015/150420.html

今日のemon:三筒紙筒あるいは口鉛芝231/Three paper pipes or Mouth lead turf 231

三筒紙筒あるいは口鉛芝231_900
これは、死刑囚に最後に小市民的世界を覗かせてやる三筒紙筒で、口鉛芝231ともいいます。しかし、これで死刑囚が覗くのか、死刑囚を覗くのかはきわめて疑問……小市民、プチブルという言葉は、以前はけっこう卑称として使われることが多かったが、最近はどうなのでしょうか……プチブルは、小ブルジョワジーということですが、ではブルジョワジーとは……というと、これは「中産階級」ということで、語源は、ウィキによりますと「城壁の中の住民」ということだそうな。Bourgeoisie の中の「bour」はたしかに「城壁に囲まれた都市」という意味だ。なるほど、そこからきているのか……

城壁があった頃のヨーロッパでは、城壁の中に暮らす人たちと城壁の外で暮らす人たちは、仕事から生活スタイルから、まったく違っていたようです。といっても、城壁の中で暮らす人たちがそんなに裕福な人たちばかりではなかったと思いますが……ただ、産業革命以降、中産階級の台頭によって、この言葉は階級的な意味を持つようになり、とくにマルクス主義の用語となって定着します。私の学生時代は、「おまえのその考え、プチブルやなあ」という感じでよく使われていました。あの頃は、とにかく、マルクス主義者にあらずんば人にあらずという風潮で(とくに学内では)……

ちょっとでも「マルクス道」にはずれた?ことを言おうものならすぐに「プチブル!」とか「日和見主義者!」という言葉がとんできて、タイヘンでした。いちど、クラス集会で「学生の本文は勉学では?」と言ったら、たちまちみんなに取り囲まれて吊るしあげに……幸い、過激な人がいなかったので激論だけですみましたが、元気過剰の人が何人か混じっていたら、袋だたきにあって、悪くするとご臨終のはめに……なんか、そんな時代でした。ほどなく学校の建物がすべて封鎖になり、それからは半年以上の長〜い休み状態に……これからの日本、もう一度あんなことが起こるのかなあ……

この「プチブル」という言葉、本来なら「小中産階級」という訳が正確だと思うのですが、なぜか「小市民」と訳される。「市民」は「シトワイヤン」とか「シチズン」の訳語だからヘンだなあ……と思いますが、これで定着してしまっています。しかし、厳密にいうと、ブルジョワジーとか中産階級という言葉は階級概念をそのうちに含んでいるけれど、市民という言葉には階級概念は含まれていない。このへんの「誤訳」は、日本語だけにあるものなのか、それともけっこういろんな国でそういうことがあるのでしょうか?……それはともかく、「市民」という言葉の意味が、日本では、あまり正確に理解されていないのではないかと思います。まあ、私も含めて、あんまりみんなよくわかっていないのでは……??

「市民」は、国民(ネーション)とも違うし、臣民(サブジェクト)とも違う。たぶん、「主権者」意識がかなり濃く結びついた言葉であると思われます。ルソーの『社会契約論』では、国家の構成員を、主権者としての立場からいう場合には「市民」という言葉を用い、行政の対象者としての立場からいう場合には「臣民」という言葉を用いていた。「臣民」というと、なにか、王や皇帝に支配される人々みたいな感じですが、これもやっぱり日本語訳が悪くって、「サブジェクト」という場合には、たとえば政府が共和制でも違和感なく使うことが可能です。単に「対象者」ということなので。

ということで、今の日本のような政治体制(立憲君主制)においても、われわれ国民の一人一人が、「主権者」という立場からみれば「市民」となり、行政の対象者という立場からみれば「臣民」となります。そこで、上の三筒紙筒が関係する「死刑」という制度を考えてみますと、主権者たる「市民」は、みずからの持っている主権を公使して「死刑」を可能とする法律をつくり、この法律によって「臣民」たる国民の一人が死刑になる……そういうことなのでしょうか。死刑が執行されました、というニュースを聴くと、自分も「殺したうちの一人なのかな?」という気になるのですが……

ただ、主権者である市民の一人としての自分がかかわれるのは「立法」までで、しかもここも、「代議制」というゴマカシによって断ち切られています。しかし、もっと根源的な「切断」は「立法」と「行政」の間にあって……たしかに政府は、立法府である国会の決めた法律にしたがって行政を行うわけですが、ここには本質的に架橋不可能な深淵がある……そんなふうに感じます。そして、これは、デカルトのいう「思惟」と「延長」、もしくは「精神」と「身体」の間に架橋が可能なのか……そういう、哲学上の大問題とも深く関連してくるように思われます。

手を動かしたいと思うこと(思惟・精神)と手を動かすこと(延長・身体)とは、いったいどういうふうに結びついているのだろうか……デカルトはここに「松実腺」という肉体的な器官を介在させたが、ライプニッツは、基本的に両者は「まったく関係がない」と考えた。前にも書きましたが、私はこのライプニッツの考えに賛成です。延長的な要素をまったく持たない思惟が、延長(物理的世界)に関係を持てるはずがない……これを、国家の仕組みにあてはめれば、延長的な要素をまったく持たない「立法」が、延長的な要素のみで構成されている「行政」とどうして関係できるのか……

したがって、「行政府は、立法府の制定した法律に則って行政を行う」というのは、「私は、右手を動かしたいという私の思惟に則って右手を動かす」ということとまったく同じ構造の「根源的切断」を含んでいる、いわばマカフカシギな神秘なのであります……行政は、執行前に、死刑囚に三筒紙筒をもって小市民的世界を覗かせてやりますが、その世界の小市民たちは、三筒紙筒の逆側から死刑囚を覗く……この構造には、精神と身体の切断に苦しむモナドの謎が現われる。窓を持たないモナドが、いったいどうやって「小市民的世界」を覗くのか……三筒紙筒って、いったいなんだろう……

今日のemon:銭十字/Jenny’s Cross

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銭形平次がキリスト教に改心したとせよ。すると、墓にたてられる十字架は、このやうな形になるであらう……このやうなコンセプトに基づいて形成された十字であります。この形、ケルト十字に似ておるといふ声もあるやうですが、ケルト十字の場合、中心部分がクロス状の実部であり、それに対してこの銭十字は中心部分が方形の空虚部になっております。すなはち、ケルト十字と銭十字は、位相幾何学的にまったく別物といへるものであります。

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しからば、カンタベリ十字はいかに? 此十字は中心部分が方形にあらずや?……といふところですが、カンタベリ十字におきましては、確かに中心部分は方形なれど、この方形は実部でありまして、さらに銭十字において方形を取り巻く円形実部を有しておりません。すなはち、この点において、やはりカンタベリ十字と銭十字は別物であります。さらにいふならば、十字の本体部分の形状が、カンタベリ十字は扇形であり、ここでも相違します。

カンタベリ十字_500
ゼニガタといへば、現今では手首足首の異常に細い殿方連が活躍するアニメにおいて常に『るぱんるぱん』と連呼してやまぬ登場人物をいふわけでありますが、実は、此人物の祖先にあたる寛永期から文化文政期に至る約200年間に亘って生存していたとおぼしき江戸神田在住の警察機構協力者が元祖であると目されており、此人物は、あらふことか、犯罪者に貴重な貨幣を投擲するといふ奇矯な行動によりてその名が定着したといふ次第であります。

銭形平次氏が投擲に使用した貨幣は真鍮製の寛永通宝四文銭といふのが定説になっておるやうですが、これは、現行通貨価値に換算すると25円から100円といふことです。つまり、彼は、今でいふと50円玉とか100円玉を投げておったわけで……10枚投げると数百円の損失といふことになれば、これは馬鹿になりませぬ。記録作者の野村胡堂氏によれば、彼は、投げた銭は後ほど子分に回収させておったさうで、「投げ銭を拾った娘」といふ話もあるとか。

時代劇のヒット要因としては、権威ベタベタでなく、微妙に権威にさからふ庶民的契機が重要で、将軍が浪人になったり(暴れん坊将軍)、水戸老公が庶民に混じって旅したり(水戸黄門)、火付盗賊改方の長官が若い頃にワルだったり(鬼平犯科帳)……この銭形平次も、あらふことかお上の「銭」を惜しげもなく投擲する……しかれど、投げたままでは完全反権力になる?ので回収するも、それは手下にやらす……この微妙さがいかにも、です……

さらに、銭形平次がキリスト教に改宗する可能性については、平次が活躍を始める寛永年間(1624〜1645)の初期に於ては、キリシタンに対する弾圧が次第に厳しくなるもまだ信仰者はおったやうでありまして、島原の乱(1637~1638)を過ぎて鎖国が完成すると、キリシタンもほぼ根絶やし状態となる……この推移を考察するに、平次がキリスト教徒であった可能性もゼロとは言い難いものの、彼が警察機構協力者であったといふ点からすれば……

万一彼がキリシタンであったとしても、その素性は絶対に表に出せぬ秘中の秘であったと推察されます。なお、記録作者の野村胡堂氏にインスピレーションを与えた大阪本社のゼネコン銭高組の社章は丸の中に方形が描かれた、まさに寛永通宝を思わせる意匠なれど、此社章の天地左右に腕を伸ばせば、銭十字にかなり近い姿ができあがる……銭高組は、創業宝永2年(1705)で、平次活躍の初期(寛永期)と後期(文化文政期)の谷間にあたります。

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銭高組は2014年3月期売上高1,173億円の中堅ゼネコンでありますが、その社名は創業者銭高林右衛門の姓に由来し、創業地は泉州尾崎村(現大阪府阪南市尾崎町)で、銭高組といふ社名になったのは明治20年(1887)。以来銭高家が経営を続け、現社長は銭高一善氏。hpに記載の「銭形平次誕生秘話」には、平次がキリシタン云々の記載はないものの……フジテレビ放映の第713話「大江戸大地震」にては、隠れキリシタンをかくまふ光妙寺なる寺が……

『銭形平次捕物控』は長谷川一夫主演で18本の映画がつくられ、テレビシリーズも、若山富三郎、安井昌二(『銭形平次捕物控』)、大川橋蔵、風間杜夫、北大路欣也、村上弘明(『銭形平次』)と主役を替えつつ1958年から2005年まで約半世紀の長きにわたり継続……子孫がアニメに登場したりパチンコ機に搭載されたり……と、不動の人気?を誇っております。平次も草葉の陰にておおいに喜んでおることでせふ。南無阿弥陀仏、もとい、アーメン。