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3度の勝利?~ベートーヴェン第九のヒミツ/The triumph of 3rd, or……

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名古屋の中古CD店でみつけたアーノンクールのベートーヴェン第九。なんと投売りの324円(税込)で、こういうのを掘出しモンというんでしょうか……

で、さっそく聴いてみました。アーノンクールさんは、ついこの間(2016年3月5日)お亡くなりになったばっかりで、ホントなら、CD売場に特設コーナーができてもいい感じなんですが、ここでは300円投売り……カワイソウ……というか、得したなあというか。

harnoncourt_900
アーノンクールというと、古楽ファンにはよく知られた名前……というか大御所なんですが、最近ではベルリンフィルとかウィーンフィルとか、いわゆるモダンオーケストラも指揮して、モーツァルトからベートーヴェン、さらにはロマン派まで……ついに「巨匠」と呼ばれる方々の仲間入り……

しかし、経歴を見ると、この方、1952年から1969年までウィーン交響楽団(ウィーンフィルではない)のチェロ奏者だったということで、一旦古楽に入ってぐるっと大回りの道をたどって、だんだん現代に近づいていって、ついに「巨匠」として復帰……そんな見方もできるのかな?

ということで、聴いてみました。なるほど……えらくスッキリした演奏で、かつての第九の、重戦車隊が地を轟かせて迫ってくるイメージとはかなり違う。まあ、演奏がヨーロッパ室内管弦楽団ということで、オーケストラメンバーの数からして違うから……ということもあるのでしょうが、タメがなく、コダワリがなく……しかし、決めるところはガツンと決めてる印象。

合唱も、現代音楽を得意とするアーノルト・シェーンベルク合唱団ということで、スッキリしてます。第九の第四楽章で、ソプラノのおどろおどろしいビブラートでげんなりした経験のある私でも、この合唱団なら許せる……許せるって、大きく出たもんですが、あの過剰テルミンみたいなビブラートは、クラシックに免疫のない人が聴いたらだれでも気持ち悪くなるんじゃなかろうか……

まあ、そういう過剰ビブラートもなくて、歌の面でもスッキリ……して、いい演奏……のはずなんですが、なぜかあんまり感動しなかった。なんでだろう……まあ、ベートヴェンの第九、ほんのわずかしか聴いてないから比較もできないんですが……でも、今まで聴いた中では、やっぱりフルトヴェングラーの1951年バイロイト録音と、1989年バーンスタインのベルリンの壁崩壊コンサートのCDがダントツにすごかった……

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そういう「巨峰的録音」にくらべると、このアーノンクール盤、なんか魅力が乏しい……まあ、これは、私の耳がクラシックの世界に慣れてないというか、圧倒的に聴いてる数が足りないからかもしれませんが……でも、自分で感じたところは偽れません。やっぱりフルトヴェングラー盤の岩山大崩壊のあのド迫力や、バーンスタイン盤の、奏者全員がなんかに取り憑かれたかのような超常現象的録音とくらべると……

で、思ったんですが……このベートヴェンの第九って、演奏の善し悪しとかの音楽的範疇をやっぱり少し超え出たところで、その魅力が決まるんじゃないかな……と。フルトヴェングラー盤は世界中を巻きこんだ第二次大戦がようやく終結して数年、ナチに協力したという嫌疑をかけられてたフルトヴェングラーが、いろんな複雑な思いを一杯に呑み込んで、音楽でドカーンと噴火させた解答……そしてバーンスタイン盤はヨーロッパ諸国とアメリカ、つまり西洋世界の戦後が終わってベルリンの壁崩壊とともに輝く未来が……

今となってみれば、そういう「未来」は訪れなかったことはほぼ決定的ですが、あの当時は、西洋世界の人じゃなくても、たとえば日本人なんかでも、なんか雪どけというか、ああ、ようやく桎梏に満ちた世界が終わって、新しいすばらしい世界が開けてくるんじゃないか……そんな、今から見れば根拠のない期待感というか展望といいますか……

それが証拠に、バーンスタイン盤では、元の歌詞の「 Freude」(フロイデ・喜び)の部分を「Freiheit」(フライハイト・自由)に変えて歌っています。クラシックの世界では、オリジナルテキストは絶対だから、これはよくよくよほどのこと……つまりそれだけ、「あの瞬間」は特別だったんですね。バーンスタイン自身が、ライナーノーツでそんなことを書いてるし。

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ということでこの第九、やっぱり音楽以外の要素と申しますか、なにか大きな流れに関係してある存在みたいな……そこまでいうと大げさかもしれませんが、「じゃあ次の演奏会は第九やってみようか」という感じでは決められないような……ただ、なぜそうなるのかということを、第九の音楽的な構造からさぐっていければ……

音楽的構造による解析!……むろん、こういうことは、私みたいなシロウトじゃなくて、音楽をやってる人とか、音楽を研究している人がやるべきだし、もうすでにかなり解明されているのかもしれません。私が知らないだけで……ただ、私もシロウトながら、あっ、こういうことかもしれない……と気づいたこともあるので、今回はそれを書いてみようかな……と。

そういうことで、まず第一楽章の冒頭から。ここに鳴る弦の5度下降。この曲を最初に聴いたとき、なんてとりとめもなくはじまるんだろう……と思ったことを覚えてます。なんか、まともな曲のはじまりじゃなくて、オーケストラがまちがえたみたいな、あるいは音合わせをやり続けてるような……しかも、その感じがなんとなく不安で、頼りなげで、なんかカゲロウが死んでふわっと落ちてくるみたな……あとで知ったんですが、これがあの有名な「空虚5度」のオープニングでした。

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空虚5度……これについては、前に書いたことがあります。リンク 現代人の耳には、5度の和音が虚ろな響きに聴こえる(ロックでいう、パワーコード)……この第九交響曲は、調性がニ短調(D minor)ということで、ニ短調だと主音がDで5度(属音)は A になる。なので、主音から属音への下降形は D↓A になるはずなんですが、実際に鳴る音は E↓Aです。これはふしぎだ。なんでこんなことをしたんだろう……E↓A だと、3度に C をとればイ短調(A minor)あるいは C# をとるならイ長調(A major)、このどっちかになるはず……

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主音の D から5度上がると A だけど、D から下の A への下降は 4度になる。空虚5度を鳴らすためには、Dから A に降りるのではダメで、一つ上の E から A に降りないといけない……そういうことで、E↓A と鳴らしているのだろうか……ところが、このカゲロウのような不安定な音型の後にフォルテで出てくる第一主題は主調のニ短調の D↓A の下降型になってます。

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このあたりの問題は、正直よくわかりませんが、最初の下降音型で5度を表現したかったのではないか……これは、実は第四楽章に深く関連していて、第四楽章のあの有名な「歓喜の歌」の途中で、まさにこの5度の下降音型 E↓A が出てくるんですが、私が読んだり調べたりした範囲では、このことに触れたものは見当たりませんでした。もしかしたら新発見?

いや、まさか……これだけ細部まで研究され尽くしているベートーヴェンの第九に、もういまさら新発見はないだろうから、絶対にだれかがどっかで書いてるはずなんですが(つまり、私の調べ不足)、この第一楽章冒頭の5度の下降音型と第四楽章の歓喜の歌の途中で出てくる同じ5度の下降音型は、絶対に関連しているとしか思えません。というのは、歌詞までがそこを表現するようにつくってあるから……

第四楽章の「歓喜の歌」は良く知られたメロディーですが、その中に、一回だけ、この E↓A 下降音型が出てくる場所があります。そして、そこに対応する歌詞は……というと、「streng geteilt」。シュトレンゲタイルト、強く分けられた、という意味のところです。ここに対する音型は、streng(D)↑ ge(E)↓ teilt(A)となっており、主音 D から E に上がり(2nd)、E から A に 5度(5th)の下降を見せます。

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geteilt(ゲタイルト)は、動詞 teilen(タイレン・分ける)の過去分詞で、「分けられた」という意味。この箇所の全体は「Was die Mode streng geteilt」で、Mode(今の風潮・規範。つまり石頭の考え)によって強く分かたれたもの、あるいは、Mode が強く分けへだてたもの、という意味になると思いますが、これが、天国(エリジウム)の乙女の魔法によって再び結ばれる(binden wieder)ということです。全体を書くと、次のようになります。

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これは、良く知られているように、ベートーヴェンがシラーの詩を(一部改変しつつ)テキストとして使っているわけですが、この「歓喜の歌」は主音 D の3度上の F# から始まり、F#↑G↑A(Freude, Schöner)__A↓G↓F#↓E(Gotterfunken)__D↑E↑F#(Tochter aus)__F#↓E(Elysium)__F#↑G↑A(Wir betreten)__A↓G↓F#↓E(Feuertrunken)__D↑E↑F#(Himmlische dein)__E↓D(Heilligtum)というふうに、主音 D と属音 A の間を行ったりきたりで、この5度圏内からは出ません。

そして、この5度圏内で、常に中心にあるのが3度の F#音。ニ長調(D major)なので、主音はむろん D なんだけれど、このメロディーにおいては、ニュートラルの位置にあるのが実は3度の F# 音で、この F# 音は、剣豪が常にニュートラルの位置から刃をくりだすように、あるいはロボットアームがどんな動作をする場合にも常に一旦ニュートラルの位置に帰ってから次の動作をするように、全体の動作を常時コントロールするベースとなっている……そんな感じを受けます。

これは、実際にこのメロディーをピアノの鍵盤で鳴らしてみると、なるほど……と体感できます(中指を F# に置くと、右手の五本指で簡単に弾ける。中指が全体の支点になり、右の薬指と小指、左の人差指と親指が、天秤のようにきれいにバランスをとる)。これは、メロディーのはじまりのFreude、そしてなかほどのElysium、Wir、(Himmli)sche dein と、強拍になる部分に常に3度のF#音がきているから、ベートーヴェンがかなり意識して使っていると私は思うのですが、いかがでしょうか。

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エリジウムの乙女の魔法が、Mode が強く分けへだててしまったものを、再び結びつける……こういう意味で、全体としては肯定的なんですが、「強く分けへだてた」という否定の部分で E↓A の5度下降音型を、ここぞ!とばかりに使っています。そして、この歓喜の歌では、ここだけが「D – A」の5度圏域を飛び抜けて下の A に落ちる。この箇所がなければ全体が「D – A」の5度圏域に納まったものが、ここがあるために全体がオクターブ8度圏域になってしまいます。

そしてまさに、この E↓A の下降音型は、この第九の冒頭の第一楽章で出てきた、あの空虚5度の E↓A にほかならない……こうして考えてみると、ベートーヴェンは、この第九交響曲を、空虚5度の E↓A で開始し、第一楽章、第二楽章、第三楽章……ときて、ついに第四楽章の歓喜の歌で F#(3度)の全面肯定に至った……この歓喜の歌の中で、唯一否定的な歌詞である「強く分かたれた」streng geteilt の部分には E↓A の下降音型をわざわざ用いて最初の空虚5度を思い起こさせるものの……

それもすぐに鳴る F#(3度)で再び全面肯定されます。F#↑G↑A(Alle Menschen)__A↓G↓F#↓E(werden Brüder)__D↑E↑F#(Wo dein sanfter)__E↓D(Flügel weilt)すべての人は兄弟となる。汝(エリジウムの乙女)のやわらかな翼の憩うところ(エリジウム)で。

このように考えてみると、この交響曲はまさに5度と3度の主導権争いであって、5度は第一楽章と第二楽章をずっと支配し続ける。これに対して第三楽章は、調性B♭になるものの3度(長3度)の無意識的な肯定(そうです!第三楽章は、ベタな3度の肯定になってる……)、そして第四楽章において、最終的に5度と3度をさらに高い位置から比較した結果としての、知性による3度の意識的な肯定……そんな図式になっているのかな……と、まずは思うのですが(後になるとちょっと考えが変わる)。

そして、ここでやっぱり思い出すのが、音律と和声の話。ヨーロッパ音楽の音律は、中世においてはピタゴラス音律に基づく教会旋法であって、単旋律聖歌が延々と歌いつがれてきたわけですが、12世紀において対位法ができてくるとともに、5度が意識されるようになった。ピタゴラス音律においては、うなり(ビート)なしにきれいに響くのは8度(オクターブ)と5度だけで、これだけが「和声」として認められていたということだった。(あと、補足的に4度も)

しかし、14、15世紀(いわゆるルネサンス)に入ると、これまでは不協和音と考えられてきた3度や6度が和音の仲間入りをしてきます。そして、3度や6度がきれいに響かないこれまでのピタゴラス音律に変わって、純正調や、3度や6度、とくに3度の響きが美しいミーントーン(中全音律)が支配的になってきます。

なぜ、こういう現象が起こってきたのか……そこのところをわかりやすく解説してくれている本がありました。作曲家の藤枝守さんの『響きの考古学』(平凡社ライブラリー)。以下、少し引用してみます(pp..85-86)。

(引用はじめ)………………………………

ピタゴラス音律が支配していた中世において、8度と5度、4度の3つだけが協和音程とみなされ、ほかの音程は経過的に使用されるだけであった。特に、ピタゴラス音律の3度は、81/64という高次の比率となり、不協和音程として扱われていた。このようにピタゴラス音律においては、音程に関してかなりの制約があったといえよう。数比的な秩序が、響きに対する感覚の自由さを妨げていたとも考えられる。ところが、ピタゴラス音律が支配的であったこの時代でも、この音律の制約を受けず、より感覚的な音程を保持していた地域があった。

イギリス・アイルランド地方では、フランスやドイツなどの大陸とは異なった傾向の音楽が展開していた。その大きな違いを生みだしたのが、3度(あるいはその転回音程の6度)に対するイギリス・アイルランド地方の人たちの好みなのである。彼らの好んだ3度は、ピタゴラス音律による不協和なものではなく、純正に協和する状態(すなわち5/4の比率)のものであったという。なぜ、このような純正3度に対する感覚をイギリス・アイルランド地方の人たちがもっていたかについては定かではないが、おそらく、この地方に移り住んだといわれるケルト人と関係があるように思われる。

………………………………(引用おわり)

ケルト人、カエサルの『ガリア戦記』に登場するガリア人(厳密にはケルト人とイコールでないといわれますが)は、はじめはヨーロッパのほぼ全域に分布していたけれど、ローマ帝国によって追いやられ、イギリスのアイルランドなどに極限されたとするのがこれまでの定説だったようですが、最近では、イギリスのケルト文明と大陸のケルト文明の相関に疑問が呈されることにもなっている……その点はちょっと気になりますが、この藤枝さんの本では、「3度の担い手」として、「ケルト」があったんじゃないかという仮説に立っています。もう少し引用を続けてみましょう(pp..86-87)。

(引用はじめ)………………………………

イギリス・アイルランド地方の民衆のなかで培われた純正3度は、「イギリス風ディスカント」という独特の歌唱法を生みだした。この歌唱法では、もとの旋律に対して、あらたな旋律が3度や6度の平行音程によってなぞるのである。すると、ピタゴラス音律では得られない豊かで甘美な響きが生み出される。(中略)14世紀から15世紀にかけて、この3度によるイギリス独自のスタイルは、イギリスを代表する作曲家のジョン・ダンスタブルによって、大陸へ伝えられたといわれている。そして、フランスにおいて「フォーブルドン」という技法を生み、純正3度の響きが大陸の音楽のなかにしだいに浸透していった。それにともなって、ピタゴラス音律によるそれまでのポリフォニーの響きが一変させられたのである。

純正3度の登場。それは、純正5度に基づくピタゴラス音律の支配を終わらせ、純正調の新しい時代の到来を告げるものであった。このような音律の変化は、また、中世からルネッサンスへの大きな時代の移行も意味していた。

では、なぜ、純正3度が大陸でこのように広まったのだろうか。それは多くの人々が、純正3度が生みだす甘美でとろけるような響きに魅了されたからである。ピタゴラス音律の厳粛で禁欲的な響きは、たしかに神の存在を暗示しながら、宗教的な活力を与えていた。しかしながら、響きに快楽性を求めた耳の欲求が、純正3度の音律を受け入れていったようにみえる。

15世紀になり、ポリフォニーのスタイルはさらに複雑になっていくが、それとともに、純正3度の響きは、そのポリフォニーに協和する縦の関係を生みだしたといえる。つまり、ピタゴラス音律のポリフォニーでは、絡み合った声部が分離して聴こえるが、純正3度が入り込んでくると、それぞれの声部が音響的に溶け合ってくる。その結果、ポリフォニーのスタイルが和音の響きとして、つまり、同時に響き合うホモフォニー的な傾向となっていった。イギリス・アイルランド地方からやってきた純正3度は、このように大陸の人々の耳に豊かで甘美な響きを与えながら、音楽スタイルの変化を引き起こすひとつの要因となった。

………………………………(引用おわり)

藤枝さんの本のこの部分をずっと読んでいると、まさにベートヴェンの第九の解説じゃないか……これは……という錯覚に囚われてしまいます。まあ、逆にいえば、このベートヴェンの第九交響曲というのは、作曲時点は19世紀初頭だけれど、実は、はるか古代から中世にわたる教会でのピタゴラス音律による単旋律聖歌、それが12世紀に入って5度のポリフォニーを生み、さらにルネサンスを迎えて3度音程による現代につながる西洋音楽の誕生(長3度の長調と、短3度の短調)……そのすべてを、70分前後の4つの楽章の中にとじこめた、いわば西洋音楽の古代から現代に至るタイムライン、時間圧縮タイムカプセルみたいな音楽だった……そんなふうにもいえるのではないか……

したがって、ここで考えなくてはならないのは、5度に象徴される「しばる力」(交感神経的)と3度に象徴される「ゆるめる力」(副交感神経的)の関係じゃないかな……と思います。この第九は、さらっとみると「3度の勝利」で、空虚5度にはじまる不安感、どうしようもなく頼りなく、けれどぎりぎりと縛られていくような不快感……そんなものが、最終的には「ヒューマニズム3度」で解決されて、人類はみな兄弟になる……戦争も仲たがいも争いも支配も服従もない、自由で幸福なエリジウムに入る……そんなふうにも読めるのだけれど、本当にそうなんだろうか……

ベルリンの壁崩壊直後のバーンスタインの演奏……そこにはたしかに、「自由に対する希求」が強く現われている。しかし、第二次大戦の終了まもないフルトヴェングラー盤は、聴いていてなぜか不安になる。バーンスタイン盤は、もうこれ以上ないくらいの肯定的感情が溢れかえっているものの、では、その後の世界の経過はどうだったか……そういうことを考えると、この曲の持っている性格は、もしかしたら意外に複雑なものなのかもしれない……そんな思いもしてきます。

たとえば、この曲では、第一楽章と第二楽章は、空虚5度が支配するメロディーの断片が飛び交う、まさに戦場のような雰囲気ですが、第三楽章に入ると突然、すべてが一変して、3度が支配する甘美なメロディーの洪水にみまわれます。なるほど、これがエリジウムの世界……私は、以前に見たイギリスの画家、ジョン・マーチンの天上世界の絵をどうしても思い浮かべてしまうのですが……しかし、作者のベートーヴェン自身は、この「3度の洪水」を無条件には肯定していない。

藤枝さんの本では「純正3度が生みだす甘美でとろけるような響き」とありますが、まさにこの第三楽章がそのもの(調律は純正調ではないけれど)……しかし、この響きは、第四楽章の冒頭で否定されます。第一楽章、第二楽章のメロディー断片を「これではない」、「これも違う」と否定したあと、流れてくる第三楽章の断片に対して「うーむ……いいんだけど、どっか違う。もっといいのはないんかい?」とくる。要するに、ベートーヴェンとしては、空虚5度が支配する厳格でオソロシイ世界はむろん否定するんだけれど、その対立項として現われる3度の甘美な世界も、そのままでは肯定する気になれんなあ……とそんな感じです。

私は、ここに、ベートーヴェン自身の人類の歴史(というかヨーロッパ文明の歴史)に対する一つの見方をみるような気がする。ベートーヴェンも、詩を書いたシラーも実はフリーメーソンだったとかいう話もありますが、そういうややこしいことを考えなくても……まあ、考えてもいいんですが、やっぱりもっと大きく、この時代に現われてきた、一種の自己批判的精神(文明の自己批判)ではなかったか……これは……19世紀という時代が、うちにそういうものを孕んでいて、それはいまだに解決されていない……そんなふうにも思います。

その一つの引っかかりとして、第四楽章に登場する「Cherub」(ケルブ、ドイツ語読みではケルプ)というヘンな?存在のことを考えてみたいと思います。これはむろん、シラーの原詩にも出てくるようですが、かなり位の高い(第2位)の天使だそうで、その天使が、神の前に立つ!(und der Cherub steht vor Gott.)ここです。この箇所は、合唱のなかでたしか3回くりかえされて、そのたびに感情が高まっていきます。

で、この歌詞の前にあるのが、Wollust ward dem Wurm gegeben. 快楽は虫ケラに与えられん、という一句。やや、これはなんだ……ということですが……私はここで、どうしてもあの第三楽章の「3度の甘美の洪水」を思い出してしまう。Cherub(天使ケルビム)と Wurm(虫)は対になってるように思えます。天使ケルビム(ケルビムは複数形で、単数はケルブ)は、「智天使」ともいわれ、「智」をつかさどる。その天使が神の前に立ちふさがって神を守る。虫けらども、ここはお前たちのくるところではない!と……

なるほど、感情の喜びに流されて知性も理性も失ったものは、本当の神の前にブロックされるということなんだろうか……そういえば、ここで思い出すのは、第四楽章の開始を告げる、あの「恐怖のファンファーレ」。第三楽章の甘美に酔いしれていた聴衆は、ここでドカーン!とその存在自体を葬りさられる……そんなふうに感じるほどアレは強烈で、私のようなバッハ以前の古楽が好きなものは、「あ、やっぱりベートーヴェン、ダメ」と、ここでスイッチを切りたくなる、そういう過激な……

譜面をみると、あの不協和音の構造がわかってきます。なんと、Dマイナー(D+F+A)とB♭メジャー(B♭+D+F)を同時に鳴らしている。鳴る音は、D、F、A、B♭の四つなんですが、AとB♭が半音でケンカしてあの不協和。しかも大音量で。Dマイナーは第一楽章、第二楽章の主調だからわかるにしても、B♭メジャーは? ということで譜面を見ると、これはなんと、第三楽章の調だった。つまり、この第四楽章の冒頭では、第一楽章、第二楽章、第三楽章の主和音を同時に鳴らすことによって、これまでの全部の音楽の総決算だぜ!ということを聴くものに告げ知らせる……

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と同時に、これは、甘美きわまる第三楽章、B♭メジャーの徹底的な否定にもなっている。DマイナーをB♭メジャーに思いっきりかぶせることによって甘美な第三楽章全体を惨殺する……そんなイメージです。で、これが、第四楽章の後の方で、智天使ケルビムと虫けらの対比になって出てくる。ということはつまり、ケルビムは、もしかしたら Dマイナー、あるいは空虚5度そのものなのかもしれない。

ケルビムって、現代のふにゃふにゃアートではぽっちゃりしたかわいい天使の姿に描かれることも多いそうですが、旧約聖書に出てくるその姿は、まさに怪物そのもの。この天使は、創世記とエゼキエル書に出てきますが、エゼキエル書における詳細な描写は次のとおりです(以下引用。10章9-14節)

『わたしが見ていると、見よ、ケルビムのかたわらに四つの輪があり、一つの輪はひとりのケルブのかたわらに、他の輪は他のケルブのかたわらにあった。輪のさまは、光る貴かんらん石のようであった。そのさまは四つとも同じ形で、あたかも輪の中に輪があるようであった。その行く時は四方のどこへでも行く。その行く時は回らない。ただ先頭の輪の向くところに従い、その行く時は回ることをしない。その輪縁、その輻(や)、および輪には、まわりに目が満ちていた。-その輪は四つともこれを持っていた。その輪はわたしの聞いている所で、「回る輪」と呼ばれた。そのおのおのには四つの顔があった。第一の顔はケルブの顔、第二の顔は人の顔、第三はししの顔、第四はわしの顔であった。』(引用おわり)

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これはまるで怪物……具体的な姿をイメージとして思い浮かべることは困難ですが、絵画作品として描かれたその姿は、たとえば上の絵に出てくるみたいな異様なもので、えっ、これが天使なの?という言葉が思わずでてきそうな……同じような「怪物」の出現は、エゼキエル書の冒頭(第一章)にもあり、そこでは、この「生き物」は「人の顔、ししの顔、わしの顔、牛の顔」を持つとされています。

しかし……この箇所をまともに読んでみると、もうこれはとても「天使」(現代の)のイメージではないし、「生き物」というにもほど遠い。なんか、機械装置、あるいは車か飛行機みたいな……ジョージ・ハント・ウィリアムソンみたいに、これこそ円盤、宇宙船にちがいないという人もいるんですが……

正直、どうなんでしょうか。ただ、この存在が徹底して「4」に関係することだけはたしかなようです。それと、「人の顔、獅子の顔、牛の顔、ワシの顔」がおそらくは、「水瓶座、獅子座、牡牛座、サソリ座」に関連することも。なぜなら、サソリ座は、古くは鷲座とされることもあったらしいので……

まあ、このあたりは、もしかしたら本質から遠い?のかもしれませんが、おそらくケルビムという存在は、神の前に立ち塞がり、神へのアプローチを妨害する門番みたいな役割であったことはまちがいないと思います。そして、それで思い出すのがやっぱりデミウルゴスとグノーシス……これについては前に書きました。リンク

そして、もう一つ気に留めなければならないことが……それは、智天使ケルビムが登場する前の、この箇所(かなりの超意訳をつけます)。
Wem der große Wurf gelungen,(大きな幸いを得た者よ)
Eines Freundes Freund zu sein,(真の友を得た者よ)
Wer ein holdes Weib errungen,(やさしき伴侶を得た者よ)
Mische seinen Jubel ein!(いざ、この喜びを共にせん)
Ja, wer auch nur eine Seele(そうだ、ただ一つの魂でも)
Sein nennt auf dem Erdenrund!(この地に、共にある!といえる者があるならば……)
Und wer’s nie gekonnt, der stehle(そしてもし、そういう魂を得られなかった者は)
Weinend sich aus diesem Bund!(忍び泣き、この輪から去るがよい)

これはけっこう厳しい……つまり、心が空虚5度に満たされて、この世界に満ちるこわばった掟(Mode)をふりかざし、真実の心の友も得られず、パートナーからも嫌われて、真の世界で孤立した者は、立ち去れ!……この地上に、お前のようなやつのおる場所はないのだ!と。しかも、「stehle」(英語のsteal)なので、大騒ぎせずにそっと消えてしまえ! ということで、空虚5度の心の持ち主に対しては容赦ない。

そして……3度の甘美に酔いしれる「虫けら」のようなヤツも、当然この輪には入れない……ということで、ここではじめて、この「第九」の大きな枠構造が浮かびあがってくるような気がします。つまりこの1時間超の大作は、全体として、空虚5度のガチガチの分断する心も、3度の甘美に酔いしれてふにゃふにゃになった心も、両方ともアカンと言っている。

さて……われわれ人類は、これからどこへ行くのだろうか……ベートーヴェンの時代には、すでにストレートな?神への信仰は失われはじめていたのでしょう。この第九では、vor Gott、神の前に、という言葉が何回も出てくるけれど、その場所に立っているのはあのおそろしいケルビム……すべての人が兄弟となる……しかし、それはなんによって?

ベルリンの壁が崩壊したときには、おそらく多くの人がそういう思い(万人皆兄弟)に満たされたのではないでしょうか。しかし……「すべての人が兄弟となる」世界は訪れなかった。いや、今の状況は、もしかしたらさらに深刻なのかもしれません。世界中で多発するテロや戦争……あいかわらずCO2を垂れ流し、資源を食いつくす人類……そして、あの身の毛もよだつゲンパツの大増殖……まるで、あの「恐怖のファンファーレ」そのもののような……

ベートーヴェンって、ホントに一筋縄ではいかないやっちゃなあ……そう、思います。第九の中にあるさまざまな「仕掛け」は、もしかしたらまだあんまり読み解かれていないのかもしれません。

たとえば……演奏者の間で、常に問題になる第四楽章の「vor Gott」がくりかえされる部分(上に述べた部分)。この箇所は、オーケストラも合唱もff(フォルティシモ)指定で目一杯、大音響でがなりたてる(失礼)のに、ティンパニだけはその部分にff > p つまり、フォルティッシモからピアノにディミュヌエンドしないさいという指示があって、これがために、みんなが大音響で「vor Gott!」と連呼しているなか、ひとりティンパニだけは少しずつ音を弱めながらさびしく消えていかねばならない……

実は、この指示は、かなり最近まで定番楽譜として用いられてきたブライトコップフ版にあったそうですが、最近出されたベーレンライーター版では、ティンパニも一緒にffしましょうという指示になってる。で、これで喜んだのがティンパニ奏者の方々で、なんでオレだけ……という鬱屈した思いを吹き飛ばすようにティンパニの強打……指揮者の中にも、なんでティンパニを p にせにゃならんの?という理由がわからなくて、ブライトコップフ版の指示を無視してティンパニも ff でやってこられた方も多かったとか。

しかし、この部分の前の歌詞の意味を考えてみると、上のように、神の前に立つケルビムに拒まれて立ち去らねばならないものがいるわけです。これは、私の解釈では、Mode(世の掟)にガチガチになった空虚5度の石頭連と、逆に3度の甘美に酔いしれてふにゃふにゃになった虫けらども……となるわけですが、もしかしたらティンパニに与えられた ff > p の指示は、こういう連中がさびしく去っていく姿を、音楽表現の上でやらせている……そういう解釈も成り立つのでは?

この箇所は、昔から演奏者の間では大問題だったらしくて、音量バランス上の問題とかいろいろ言われてますが、歌詞の内容に関連した表現ではないかという解釈は、私はみたことがない。でも、フツーに単純に考えれば、そうなるんではないだろうか……そもそも、ベートーヴェンの楽譜の校訂作業というのは困難を極めているそうで(自筆譜や献呈譜やいろんな出版譜があるので)、文献上からこうだ!という決定はできないそうなんですが……しかし、もしこの箇所で、ベートーヴェンがなにも考えてなかったら、当然ティンパニの ff > p という不自然な指示が生まれるはずはない……ということは、この ff > p にはやっぱりなにかの表現意図がある……そう考えるのが自然ではないかと思うのですが。

まあ、音楽の専門でない私の思いつきなので、なんともいえないのですが……音楽は、聴けば直接になにかが伝わってくる。それはたしかです。しかし……演奏する人も、聴く人も、もしかしたらそこに鳴っているその音楽の中に、なにかかなりのものを聴き逃しているのかもしれない。聴く方はともかく、そういう、よくわからない状態で演奏ってできるの?ということなんですが……でも、今も、たくさんの指揮者、演奏家、声楽家が、世界中で「第九」をやってます。で、さらにさらに多くの人が聴いている……

演奏技法の問題だけではなく、この曲には、とくに第四楽章のケルビムが出てくるところで、私には、先に書いたように、デミウルゴス、グノーシスの問題がかなり本質的にからんでいるように思えてなりません。これは、西洋世界にとっては、やっぱり古代から今に続いて、まったく解決されていない大きな問題のように思いますが……すくなくとも、この「第九」は、従来言われている「人類愛」とか「ヒューマニズムの勝利」みたいな歯の浮くようなウソくさい言葉では歯が立たない、ややこしい巨大な問題を抱えこんでいるように思えます。

この第九の「ナゾ」、いったい解明される日がくるんだろうか……またいつの日か、続きを書ければ……

Die Welt ist tief ?/世界は深い……の?

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Die Welt ist tief. 世界は深い……ニーチェという哲学者は、なぜか陳腐に見える言葉を使う……昔からそう思ってましたが、この言葉もそう。「世界は深い」……

たしかに、この言葉だけをとりあげると、詩人をめざしている学生なんかが使いそうな安易な言葉に見えるのですが、その後に、und tiefer als der Tag gedacht. 昼が考えたよりなお深い……この言葉が続くと、ちょっと様相が変わってきます。

昼……とは、なんだろう。昼の思考……それは、解説書なんかでは、いわゆるアポロン的世界というふうにとらえられている。そこで、ニーチェのディオニュソス的世界が対比される。いちおう、そうなってると思います。しかし、この言葉は、そういう範疇をこえて、なお現代の世界にまで響いてくるものがある。

1700万円のアイスクリーム(リンク)が食べられるパリの街を、いちおう「明るい昼の世界」としましょう。そうすると、そこに響いた銃声は、それは暗く深い夜の底からもたらされたものだったのか……

それはそうなのかもしれません。ニーチェの言葉は、相互に関連することによってゴムのように伸び縮みをくりかえして、いつのまにかいろんなものにからんでくる。

一つ一つの言葉は大向こう受けのする実は陳腐なものなのかもしれないけれど、それらが立体的にからみあって響きを交換しはじめると、そこにはだれもがちょっと切実に感じてしまうような「事情」が浮かびあがってくる……そういう構図になっているのかもしれない……このあたりは、ルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』によく描かれていました。

この映画は、あるサウンドトラックを境にして、明確に昼の世界が夜の世界に、アポロンの顔がたちまちディオニソスのそれに変貌します。

感覚的には、フィルムのちょうどまんなかくらいかな? 主人公のアッシェンバッハ氏(マンの原作では小説家・映画では作曲家)が、ヴェニスのリドのホテルの砂浜で、ビーチチェアに身を沈めつつ、楽しそうに遊ぶポーランドの貴族の一家を眺めている……いや、眺める対象はただ一人。ギリシア彫刻のような美しさを生身に持つフラジャイルぽい少年、タジオ……ただ、ひたすら見ている。

そこに……ひそかに、低音弦の響きがしのびこんできます。

これは、たぶん1回や2回くらい見ただけでは気がつかない。私も最初はわかりませんでした……これが、マーラーの第3交響曲第4楽章の、アルトの歌唱の前奏……やがて場面は変わり、暁の闇に沈むホテルの窓。開かれると、そこにアッシェンバッハの姿。

パジャマのままの寝起き状態で、明けゆく空を眺めている……ゆったりと響くアルト。ニーチェの『世界は、深い、昼が考えたよりなお深い……』を歌う……ここを蝶番としてこの映画は暗転し、そこから先はアッシェンバッハの最後まで止まらない。

ヴィスコンティ監督が、ここにマーラーのこの曲を嵌めたのは、もう実に神ワザに近い嗅覚……

映画でのアッシェンバッハの風貌は、マーラーではなくまさにニーチェ。この映画の評で、ときおり作曲家アッシェンバッハのモデルはマーラー……と書いてあるものがありますが、マーラーとは似ても似つかない。これはまさにニーチェそのものでしょう。

マンの原作では、小説家アッシェンバッハはヒゲがない。マーラーにもありません。しかし映画の作曲家アッシェンバッハは、まさにニーチェのような口ヒゲを持って登場する……アッシェンバッハ=ニーチェを、かなり意識的にやっている。

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この映画は何度も見ましたが、最初は、やはり歌唱の内容(歌詞)に気をひかれた。ツァラトゥストラの一節を、そのまま歌う。おお人よ、注意せよ、世界は深い、世界は、昼が考えるよりなお深い……私は、眠っていた……深い夢から、今覚めた……「超訳」になってすみませんが、そんな感じ。

しかし、何度も見るうちに、この曲が、実は明るい昼の世界に照らされた海岸のシーンからはじまっていることに気がついた。昼の世界に、そうっとしのびよる夜の手……それが、コントラバスの静かな、目立たない優しい前奏として、いつのまにかそこにある……もう、そうなったときには手遅れ。昼は、深い夜の世界に囚われた……

このことに気がついたのは、なんかで読んだ文章。西欧世界では、「深い」という言葉と「低い」という言葉に関連がある……と書いてあった。そうか!なるほど……マーラーは、思いつきで「世界は深い」の歌の前奏を、低音のコントラバスではじめたのではなかったのか……ドイツ語の辞書をひいてみると、「tief」(英語のdeepに相当)の項に、「深い」とともに、たしかに「低い」という訳がのってます。

そういえば、ツァラトゥストラは、その物語の最初で、それまで暮らしていた「山」から「降りた」untergehen のでした。この言葉を「没落」と訳していた人もいたみたいですが、たしかに、高いところから低いところへ、高みから深みへと「降りていく」……これが、この物語の主題の一つになってます。

アポロのオリュンポスの高みから、ディオニソスの地上へ……すべてが明快で、理性が支配する天上の世界と、すべてが混沌とした闇に支配される地上の世界の対比……

しかし、本当にそうなのだろうか……

私は、以前、出雲大社にお参りして、びっくりした経験があります。このことは前にも書いたように思いますが……高天原の天上に対して、地上の世界を象徴するかのような出雲。

出雲は「地の神々」の集まる地……そんなイメージのあった私は、出雲大社にお参りすれば、きっと、さまざまな地の神々が発する旺盛な「気」の力が混ざり合い、渦巻くものすごい混沌、そして深い闇の力みたいなものを感じるのではないか……そんな先入観がありました。ちょうど、アマテラスの岩戸隠れの際に、天の安河原でアメノウズメに触発された八百万の神々の「バカ騒ぎ」みたいな……

ところが、ところが……出雲大社の社頭に立ってお祈りを捧げていますと、私の心の目には、まったく意外な光景が……

それは、前後左右上下に空間を埋め尽くすおびただしい数の歯車……大きいのから小さいのまで、無数の歯車……しかもすべての歯車がきちんと噛み合って、静かに回転している……その光景は、正確無比で、混沌の入り込む余地などまったくない……

そうか!これが出雲の本質なのか……私は、ものすごく強い印象を受けました。なるほど……物質の世界って、こういうもんなんだ……すべては「法則」によって、一つの例外を生むこともなく、整然と、流れるように運ばれていく……

おそらく、「深み」を「混沌」と見てしまうのは、われわれの誤った先入観なのでしょう。あるいは、「混沌」は、実はわれわれ「見る側」にあるといってもいいのかもしれない。

それほどに、「理性」から遠い世界の方が、むしろ秩序整然と運ばれていて、「理性」を標榜する世界の方が実は混乱と混沌に満ちている。

フランスは「理性の国」ですが、そこで起こった悲惨なできごとは、理性からはるかにかけはなれた現象のように見えます。そして、それを「テロ」と呼んで、混乱と混沌をすべて「起こした側」になすりつけようとする狂気のような傾向性……

「キミたちは、ワタシから、憎しみを得ることはできません。」(妻を殺された男性の言葉)……なんという言いよう。屈折しまくってる……これを「理性」と見るのでしょうか……

なんでもぜんぶトリコロールにしてしまうのが「理性」なのか……そう考えてみると、人間の世界は、やっぱりどこも、あんまり変わりはないような気もしてきます。

一部に平穏で豊かな暮らしがあったとしても、では、それがなにによって支えられているのか……

みせかけの平和と豊かさを「理性」といい、それを破壊しようとする側を「テロ」と呼んで、混沌と混乱をすべて片方になすりつけようとする……実は、そういう思考こそが、まさに混沌と混乱ではないのか……

わたしには、どっちもどっちに見えます。無責任で恥知らずの「豊かな生活」と、それをぶち壊し、引きずり降ろそうとする、ある意味「スナオな」反応……

「豊かな生活」の側に「理性」があるとするなら、「テロ」の側にもまったく同じだけの「理性」がある。

「テロ」を「混沌」と決めつけるとき、自分たちも同じだけの「混沌」に陥っているのを自覚すべきでは。

「理性」と「暴力」を、きっちりイコールで結ぶ視点。

「見せかけの民主主義」や「偽りの理性」がその正体を晒し、消えていかねばならない地点。

パリのアイスクリームが、実は1700万円だったことが、正しく認識される場所。

今のわれわれには到達するのが困難かもしれないけれど、それが、やっと「本当の出発点」になる。

世界の「昼」と「夜」…… Ist die Welt tief ?

えいこく屋のこと/Eikokuya at Kakuouzan, Nagoya

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名古屋の覚王山に、「えいこく屋」というカレーと紅茶の店があって、よく行きます。昔は、すぐ近くに住んでいたので、毎週のように行ってたことも……ここのカレーは、スタッフがインドの方で、今ではそういうお店は珍しくないですが、40年くらい前?からそうなので、当時はけっこう貴重な本格インド料理の店だったと思います。

年配のご夫妻がオーナーでやっておられますが、スタッフは若い人が多く、ここで修行して、自分のお店を持った方も。ここは、よくはやっていて、店内は狭いのですが、いつもいっぱいです。とくにランチタイムは行列になることも。といっても、そんなに長い行列でもなく、お店の前に数人たむろする程度なのですが。

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ここがはやるのは、カレーの味がいいのと、もう一つは雰囲気だと思います。手づくり感というのでしょうか……昔から、けっこういいかげんな内装(失礼)ですが、それがまたカレーという食べ物にはよく合う。カレーって、ピカピカのお店で食べるものではないですね。インドに行ったことはないですが、インド風……

といっても、ガネーシャ像とか置いてある程度で、過剰にインドではなく、インド音楽もかかってません。そう!思いだしましたが、ここの大きな特徴は、BGMがない!ということで、これは昔からガンコにそう。なんの音楽も流してません。早い時間で人がいないと、店内はホントに静かです。話をするのもはばかられるほどに。

今のレストランとか喫茶店って、かならずなにか、BGMが流れてますね。でも、ここはなんの音もない。だから、隣の席の話も丸きこえ。こういう感覚って、ちょっと珍しいというか、あんまりない気がします。「素」といったらいいのか、そんな感覚です。騒音レベルをBGMであらかじめ上げておくということをやらない。

そういう雰囲気が好きで、よく通ったのかもしれません。なんか、心の底から落ち着くというのか……仕事が忙しかった頃は、ホントにここにくるとホッとしました。全身から緊張がひゅーと抜けていくというのか……オアシスという言い方がありますが、まさにそんな感じでカレーを食べ、ナンをかじり、チャイを飲んだ……

雰囲気のもう一つの要素として、街並があげられるかもしれません。ここは、覚王山日泰寺という大きなお寺の門前町というか参道で、昔は、えいこく屋さん以外は普通の家が多かったのですが、今は若者向けのいろんなお店が並んでいます。家賃が安い貸家もたくさんあるようで、そういうところを利用して、若者が店を開く。

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ということで、あっというまに人気の街並になってしまいました。といっても、ふだんは静かなんですが、お祭りのときなどはものすごい人出……それと、日泰寺の「弘法さん」が毎月一回あるんですが、このときはお年寄り、とくにおばあさんが一杯……で、「おばあさんの原宿」とか呼ばれているそうな。

そういうときは、このえいこく屋さんもおおにぎわい……でも、ふしぎなことに、長い行列ができるわけではありません。せいぜい、お店の中に数人。ときによったら外にも数人……そういえば、名古屋では、東京のような「長蛇の列」ができてる光景をあんまり見ません。名古屋の人は、行列がきらいなのかな?

店内が満員になっても、行列をしてまでは……ということで、みなあきらめて他の店へ。名古屋の人は熱くないというか、あきらめがいいというか、合理的というか……街並もそう。京都とか高山だと、街並も徹底的に昔風に整備して、映画のセットみたいにしてしまうけれど、ここはその点でもあいまいで、いいかげん……

えいこく屋さんみたいなお店があるかと思うと、隣が風呂桶屋さんだったりコロッケの店だったり……少しいくと旅館があったり、フツーの家だったりお屋敷だったりして、そのあいまいさがまたなんともいい感じ。電信柱もまだしっかり建っていて、「街並つくりすぎ」の緊張感も全然ありませんし。

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こんなオシャレなお店↓も、それとなくあったりします。ここは、岐阜の陶磁器メーカーのアンテナショップみたいなところで、白と黒の無地のスタイリッシュな食器類を販売しているんですが、「高級!」って感じでもなくて、お値段は意外にリーズナブル。このあたり(尾張から美濃)は、陶磁器が地場産業なんですね。

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かと思えば、もろにインド風のこんなお店↓も。ここは、「ビーナトレーディング」という名前で、1階がアジアンテイストの雑貨を中心に、服なんかも売ってます。2階に上がると、インドから中近東にかけての楽器がずらり。ご主人も、かなりソレっぽい?方です。たぶん、元はフラワーチルドレン世代か……

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お店の名前になってる「veena」とはなんぞや? ということですが、これは、インドの楽器の名前で、ちょっとシタールに似ています。この二つは親戚みたいですが、よくわかりません。リュートやギターとも関連があるみたいなのですが……ツィターにも関連しているみたいで、もしかしたらピアノにもつながるのかな?

このお店もそうなんですが、みんな、フツーの民家をちょっと改装しただけでやってます。家賃が安くないと、こういうお店はやっていけないので……名古屋には、ほかに、大須とか円頓寺(えんどうじ)とか、こんな感じの街並がちょくちょくあって、最近、けっこう人が集まるようになってきています。

私は、やっぱり「街の酵母」というものを感じるんですが(この件については、前にも描きました。リンク)……街並に、なんらかの種類の「酵母」が醸成されていくと、だんだん全体の性格が立ち現われてきて、そこが好きな人たちが集まるようになる……人工なんだけど、あるていど自然。この感じがいい。

そこで、ヘンに意識が高まってしまうと、高山や倉敷みたいな、映画のセットのような街並になってしまうんだけど、そこまでいくとかえって緊張感が出てきて、リラックスできない。観光客とかの対象になってなくて、地元や近隣の人が楽しく、ゆっくりと醸成させていく、こういう街並が、結局いちばんいいのかもしれません……

戦争に行きたくないって、利己主義なの?/Is the thought not to want to go for war egoistic?

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利己主義ではないと思います。私だって行きたくない。だれでも行きたくない。戦争に行けば、殺される。殺されなければ、殺す。どっちかになる。どっちもイヤ。これって、「利己主義」なんでしょうか……

仕事でつらいことがあると、自分はそれをやらずに、なるだけ同僚にやらそうとする。これはまちがいなく「利己主義」だ。じゃあ、戦争は「仕事」なのか……職業軍人にとっては「仕事」なのかもしれませんが……

日本には、憲法9条があって、軍隊はなく、軍人もいないので、「戦争という仕事」はない!ということになります。というか、「戦争を仕事とする」ということをやめましたということを言ってるということになります。

これは、もしかしたら、人類史上、画期的なことではないか……人類の歴史の上で、「戦争は<仕事>ではない!」とここまではっきり言い切った国はなかったのではないか……これはスゴイことだと思う。

日本以外のどこの国でも、「戦争という仕事」は「ある」ということになります。軍隊があり、職業軍人がいる。その人たちは、「戦争」を「仕事」としている。そういう人が「戦争に行きたくない」と言ったら……

それは、「職業倫理」からいえば、自分の職業を否定していることになるのでオカシイ。「戦争に行きたくない」なら、職業軍人という「仕事」をやめるべきだ。しかし、日本の自衛隊は「軍隊ではない」から……

自衛隊員の人は、堂々と「戦争に行きたくない」と言えるし、それはもちろん「利己主義」ではない。自衛隊員にしてそうだから、もちろん、自衛隊員以外の日本の国民が「戦争に行きた行くない」といっても……

それを「利己主義だ」と言って誹謗するのはオカシイ……そういうことになります。つくづく日本はいい国だなあと思います。世界で唯一、「戦争に行きたくない」という自然な思いが憲法上も「利己主義」にならない国……

ふりかえってみれば、過去の日本には、明確に「職業軍人」の身分がありました。武士……戦いを職業とする人たち。彼らは、もう、生まれたときから「職業軍人」で、一生それは変わらなかった。

今の日本人の倫理観や道徳意識は、主として、この職業軍人クラス、つまり、武士階級にならってできてきたような感があります。むろん、以前は、農民には農民の、町人には町人の倫理、道徳があったのでしょうが……

幕末から明治維新にかけて、武士階級が崩壊するとともに、なぜか、武士階級のものだった倫理観、道徳観が、農民や町人のクラスにまで波及したような気がします。床の間、端午の節句、エトセトラ……

「草莽(そうもう)の志」……今、大河ドラマでやってる吉田松陰の言葉だったと思いますが、橋川文三さんの本(リンク)を読んでみると、幕末には、日本全国にこれが自然に湧いて出てきたらしい。

外圧。攻め来る米欧に対して、権威ばかりの武士階級にまかせとっては、もはや日本という国は守れん!ということで、農民も町人も、自主的に軍隊組織のようなものをつくって、「国を守れ!」と立ち上がったとか。

橋川文三さんは、日本の各地に残る、こうした運動の檄文や上申書の類を具体的に紹介しながら、「国の守り」が武士階級の手から、「国民一人一人」に移っていった様子を描写する。そして、これが、奇妙なことに……

明治期の天皇主権、国家神道みたいなものから、反権力の民権運動にまでつながりを持ったことを示唆する。今ではまるで反対に見えるものが、実は根っこでつながっていたのかもしれない……これは、実にオモシロイ。

今からン十年前、夏のさかりのある日、K先生のご自宅で、三十名くらいの人たちと、吉田松陰の「留魂録」の講義を受けた。先生は、みずから松陰そのものと化し、その場は、百年の時を遡って、松下村塾そのものとなった。

みな……熱い志に満たされて、静かに夏の夕暮れが……今でもよく覚えています。幕末の志士の「志」というのは、こういうものであったのか……しかし、今、私は、M議員の「利己主義じゃん」という上から目線の言葉よりも……

「利己主義」と誹謗された学生さんたちの行動の方に、この「熱い志」を感じる。どちらが松陰の「やむにやまれぬ魂の動き」を受け継ぐものなのか……私は、学生さんたちの姿の方に、圧倒的にそれを感じます。

「戦争に行きたくない」。それは、今に生きる人の、まことに正直な気持ちだと思う。それはもう、「日本」とかの小さな区分を越えて、人類全体の価値観につながる「思い」だから。もうすでに「ベース」が変わっている。

職業軍人のいない世界。日本は、世界で唯一、それを実現した国であり、「戦争に行きたくない」という思いが、全世界で唯一、「利己主義」にならない国だ。「人類みな兄弟」と言葉ではいうが……

職業軍人という「仕事」が憲法上成立している国においては、その言葉は逆に成立していない。自分の国を守るために、相手の国の人を殺すことを職業としている人たちがいるから……

「人類みな兄弟」が憲法上、きちんと成立している国は、現在のところ、地球上で、日本だけということになる。そして、日本は、先の大戦で、大きな犠牲を払って、この価値観を手にしたのだと考えたい。

「戦争に行きたくない」は、殺したり、殺されたりしたくない、という、まことに当然で自然な思いであり、日本は、世界で唯一、それが憲法上、正当であると認められる国だと思います。それを「利己主義」というのは……

歴史を百年戻って、松陰の時代に生きることになる。それでいいのだろうか……Alle Menschen werden Brüder! 「すべての人が兄弟となる」松陰の時代に遡ること30年前に、ベートヴェンが第9交響曲でこう歌った、その言葉……

それが、今、少しずつではあれ、実現されつつあるのを感じます。世界中で。スバラシイ……ということで、「次の課題」は、「すべての<存在>が兄弟となる」でしょう。21世紀は、ここに向けて開かれるのか……

今日の写真も、一つ前の記事と同じく、2013年の愛知トリエンナーレのオノ・ヨーコさんの作品の一部です。「休みを欲す」……これはもう、利己主義じゃないね。切実だ……この人、はたして休めたのだろうか……

今日のemon:オフィチウム/Officium

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個展(リンク)展示作の第5弾はCDです。私がこれを見つけたのは、名古屋の地下街の中古CDを置いているお店で、まず表紙にひかれました。「オフィチウム?なんじゃろ……?」表紙にはラテン語で「Officium」と書いてあるだけなんですが、まともに(というか、日本の学校で習う読みで)読めば「オフィキウム」かな?「オフィチウム」というのはイタリア語に引かれた読みだと思いますが、日本語訳はこれで通っているみたいですね。

発見したのはもう15年くらい前でしょうか……発売は1994年とのことですが……半信半疑で買って、帰ってかけてみると……なんとなんと、これは、もしかしたら今までにまったく聞いたことのない音楽ではないか……ああ、心がもっていかれる……ということで、このCD、なんと150万枚も売れたそうです。ここを見てる人の中にも、「あ、持ってる」という方もけっこうおられるのでは……

このCD、ECMニューシリーズというレーベルの一つなんですが、このレーベルは、クラシックと他のジャンルの境界をまさぐっていて、けっこうユニークな名盤をたくさん生んでいます。ただ、欠点は「高い」ということなんですが、中古屋さんで丹念にさがすとけっこう出てきます。まあ、それだけ売れているということかな……中でもこの「オフィチウム」は売上げダントツ……

演奏は、ノルウェーのジャズ・サックス奏者のヤン・ガルバレクと古楽合唱分野で今やオーソリティになってしまったヒリヤード・アンサンブルのコラボ。合唱は、グレゴリオ聖歌や16世紀スペインの作曲家、クリストヴァル・モラーレスの曲を忠実に歌いますが、そこにガルバレクが即興でサックスをのせていく……このカラミが、もう、実に、そういう曲があるかのごとく自然で、響くんですね……

響く……そう、サックスの音が無限空間にワーンと広がる中に合唱の聖なる純粋な響きが、どこまでも透っていきます……それはもう、宇宙空間のような、はたまた素粒子の世界のような……時のかなたから人の心の深みをすぎて、無色透明のはずなのにいろいろな色が淡く輝くような気がする……なにかこう、太陽系を旅だって無限の銀河のさらに向こうを旅するような……

あるいはまた、牢獄。それも、牢獄アーティストのモンス・デジデリオが描くような、ヨーロッパ中世の無限に上に伸びる石の地下牢……そういうところに、私は閉じこめられているのだけれど、なぜか天上から光がさしてきて、冷たい石の床にまで「救いの模様」を描いていく……ああ、神は、こんなところに人知れず生きる私のことも、けっしてお忘れではなかったのだ……と。

けっこう書きすぎかもしれませんが、はじめて聞いたときは、まさにそんな感じを受けました。おお、これは、もはや究極の音楽かもしれぬ……この感じは、やっぱり今でも聞くたびに漂います。柳の下にどぜうがなんとやらで「ムネモシュネー」という続編も出ましたが、やっぱりこの「オフィチウム」の衝撃に比べるとはるかに及ばない……最近(2010)、「オフィチウム・ノヴム」といのも出たそうですが……

これはまだ聞いてませんが、やっぱりこの「初発の衝撃」にはかなわないでしょう……ということで、このCDを emon 化してみることにしました。表紙の銅像の少年?の顔が、もうなんともいえずそこはかとないんですが、その雰囲気をうまく出すのは難しい……25枚分描きましたが、結局うまくいったのはたった一つだけ……これも、100%のできではないですが、まあ、なんとか……
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あとは、どっかこっかオカシイなあ……もっと大きな紙にもっとたくさんやればいいのかもしれませんが、まあこのあたりが限界です。ところで、この「オフィチウム」というラテン語は、「聖務日課」と訳すそうですが、カトリックでこういうのがあるそうですね。毎日毎日やる……一日何回もやる……ナニをやるかはナゾですが、とにかくナニカを、毎日毎日欠かさずやる……

ところで、私の手元には、もう一つ別の「Officium」というCDがあって、こちらは3枚組です。先の「Officium」に曲が収録されているモラーレスより少しあとのスペインの作曲家で、トマス・ルイス・ヴィクトリアという人の「Officium Hebdomadae Sanctae」(聖週間聖務曲集)という曲を3枚のCDに収めたもの。こちらは、サックスは入らない、由緒正しい?合唱のみの響きですが、これがまたすばらしい……

ということで、だんだんわかってきたのは、これはたぶん、グレゴリオ聖歌から16世紀くらいまでの曲そのものがすばらしいんだな……と。まあ、昔でも、合唱に合わせて金管を演奏する風習もあったそうですので、ガルバレクとのコラボもまんざら「とってつけた」ものでもないらしいんですが、やっぱり結局、「元の曲」そのものが宇宙的というか、無限の時空をどこまでも漂うようにできている……

後期バロック、とくにバッハの曲なんか、もう「比類なきすばらしさ」といってもいいんですが……でも、「純粋性」という点からすれば、もしかしたらこの16世紀のモラーレスやヴィクトリアには負けているかもしれません。こういう曲をきくと、やっぱり人間「心を磨く」ことって必要だなあ……と、いささか謙虚になりますね。天正少年使節団がローマに派遣されたのが1582年なので……

彼らは、もしかしてこういう曲をきいていたのかもしれない……ローマへの道のりで、スペイン、ポルトガルを通ってますし……それに、ヴィクトリアの「Officium Hebdomadae Sanctae」は1585年にローマで出版されていますが、ちょうどこの年に少年使節団はローマに到着して教皇グレゴリオ13世に会ってます。その謁見のときに、この Officium が響いていたとしたら……

彼らは、当時最新の「現代音楽」をきいたのだ……と、妄想は留まるところを知らず……それが、時を超えて500年後、日本のある地方都市の中古CD店で私に発見され、ついにこういう emon になってしまいました……人間の歴史って、ふしぎですね。

無限水紋/Infinite water ring

以前に、名古屋市能楽堂の屋根から中庭の池に落ちる水滴の写真を載せましたが、そのときに、スマホで動画もとっていました。それを、youtubeにアップしてみました。3分くらいの長さです。

音楽は、youtubeの中のtesttubeに、著作権フリーのものがいろいろあるので、その中から、時間が合って雰囲気も合うものを選んで付けてみました。ホントは、バッハのBWV639なんかがいいかなと思うのですが、見つけられなかったので……映像と音楽は、「付きすぎ」になってますが、まあ、よりふさわしい音楽がみつかれば変更するということで、とりあえず……なお、映像は、スマホのズームで撮影しているので、解像度はあまりよくありませんが、よろしければごらんください。

聖アンを弾く人を見た/I watched the person who played St. Anne

この間の日曜日、豊田市のコンサートホールで、鈴木雅明さんのチェンバロとオルガンのリサイタル(オールバッハプログラム)があり、聴きにいきました。鈴木雅明さんは、バッハ・コレギウム・ジャパンを率いて、スウェーデンのレーベルのBISでバッハのカンタータの全曲録音を達成された、現今わが国のバッハ演奏の第一人者といえる方で、チェンバロ・オルガンの奏者としても知られています。

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プログラムは、前半がチェンバロ、後半がオルガンと合唱(といってもソプラノ、アルト、テナー、バスのソリスト4人)で、前半は、平均律第一巻のハ長調プレリュードではじまり、半音階的幻想曲とフーガで閉じるという構成。そして、後半、オルガンの部は、バッハのクラフィーア練習曲集第三巻の抜粋……なんですが、これが、やっぱり圧倒的に良かった……

クラフィーア練習曲集第三巻は、BWV552のプレリュードで開始され、間にコラール・プレリュードなどを25曲はさんで最後にBWV552のフーガで閉じるという構成ですが……むろん、全曲は時間がかかるので、コラール・プレリュードは数曲のみ。しかし、BWV552のプレリュードとフーガはしっかり全曲演奏……で、この曲を実際に弾く人を、私ははじめて見たわけですが……

もう、やはりスゴイとしかいいようのない圧巻……ですね。鈴木雅明さんの演奏は、けっこう現代的というか、あんまりカッチリやらずに、自由に流す……みたいな雰囲気ですが、そのスタイルが、またこの曲と良く合ってるように思います。「聖アン」……この曲のフーガ部分につけられたニックネームですが……聖母マリアの母親の名前を冠していても、この曲は、男性的というか……いや、そういう人間的なものすら越えて、はるかにはるかに宇宙的……

とにかく、ものすごいスケール感……楽譜を見るかぎりでは、このスケール感がいったいどこからくるのかよくわからないのですが、実際に演奏されるとスゴイです。この曲は、なぜか、「奏者をノリノリにさせてしまう」みたいな作用があるみたいで、いろんな演奏を聴いても、たいがい奏者はノリノリの感じになる。聴いてる方は、ただただ、百億光年の宇宙にさまよってなすすべなくバッハのお釈迦さんのような巨大な掌から出られない……

この曲、なんというか、こういうもんがこの世界にあっていいのだろうか……と、ちょっと不安になるくらいの幅の広さというか、広大なランドスケープを一瞬にして跳梁していく巨大な神々のとよもす波動を感じるのですが……たとえば、ヘンデルの曲なんか、ものすごく雄大だけれど、それでもやっぱりそれは、地上的な雄大さ……なんですが、一旦バッハさんがホンキを出すと……これですよ。これ。もうだれも到達できません。この無限の世界……

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なんで、こんなものがあるのだろうか……私は、昔から、この曲のディスクを聴くたびに、これって、ホントに人が弾いているんだろうか……とずっと思ってきたわけですが、今回、鈴木雅明さんが、ホントに弾いてました。もうとにかく、それだけで、すごいなーと思ってしまった。うわ、ホントに弾いてる……やっぱり人が弾いてたんだ……この曲……まあ、おおげさかもしれませんが、なにかそういうところがある曲です。この曲は……

この曲のフーガの部分に「聖アン」という名前が付けられているわけは、フーガの第一主題の冒頭が、ウィリアム・クロフト(1678-1727)という名前のバッハと同時代のイギリスの作曲家の「O God, our help in ages past」という賛美歌(1708)の冒頭の音型とそっくりだから……じゃあ、クロフトさんのその賛美歌は、聖母マリアのお母さんのことを歌ってるの?といいますと、歌詞を読んでみると、どうも、そうとも思えない……

Web
ちょっと、歌詞をかかげてみましょう……

1. O God, our help in ages past,
our hope for years to come,
our shelter from the stormy blast,
and our eternal home.

2. Under the shadow of thy throne,
still may we dwell secure;
sufficient is thine arm alone,
and our defense is sure.

3. Before the hills in order stood,
or earth received her frame,
from everlasting, thou art God,
to endless years the same.

4. A thousand ages, in thy sight,
are like an evening gone;
short as the watch that ends the night,
before the rising sun.

5. Time, like an ever rolling stream,
bears all who breathe away;
they fly forgotten, as a dream
dies at the opening day.

6. O God, our help in ages past,
our hope for years to come;
be thou our guide while life shall last,
and our eternal home.

よくわからないところも多いのですが、聖アンのことを歌ってるとはちょっと思えないけれど……私の英語力がないからわからないだけでしょうか……と思ってウィキで見ると、作曲者のクロフトさんがオルガンを弾いてたのが、ロンドンの聖アン教会だったから……ということのようです。なお、「アン」の綴りは「Anne」で、「赤毛のアン」の「アン」と同じです。英語発音だと「アン」になりますが、聖書なんかには「アンナ」(Anna)と書いてあります。

で、バッハが、このクロフトさんの賛美歌の冒頭部分をフーガの第1主題としてとりいれたのか……といいますと、どうもそうでもなく、音型が同じになったのは偶然であろうという意見が主流のようです。ただ、イコノロジー的には、アンナは、幼子イエスを抱くマリアをさらに抱くように描かれることが多く、これは「三位一体」を表わしているとのことで、そうなるとこのBWV552のプレリュードとフーガもやっぱり「三位一体」を表わしているので……

この曲が、「聖アン」と名付けられるのも、多少本質的な理由があるのかな……という気もしますが、よくわかりません。ただ、クロフトの賛美歌の歌詞の感じからすると、やっぱり宇宙的で、無限の時間と空間を亘っていくようなイメージがあるので、この歌詞は、結局、バッハのあの壮大な三重フーガの開始にふさわしいもののように思えます……ということで、真相はわからないのですが、なにか、すべてはまっているような気もします。

この曲には、シェーンベルクによる弦楽合奏用の編曲があるのですが、これがまたスゴイ……ネットで、いろんなヴァージョンを聴くことができます。弦を省いて吹奏楽みたいにしてやってるのもありますが、いずれにせよ、オーケストラの音色の多彩さを得て、この曲はまたちがった相貌をみせる。金管の咆哮が、たそがれゆく空のかなたから響きわたって「古き世の終末」を告げしらせると、木管の静かなフーガが夜空の星のまたたきのごとく……

そして、キリストの主題が弦の重なりとなって流れてゆく……そのかなたに、管楽器による神の主題がそびえたち……やがて、すべてがゆっくりと崩壊していく地の底から、トロンボーンによる聖霊の主題が湧きあがる……この曲は、プレリュードもフーガも、徹底して「3」によって成り立っています。「三位一体」……この曲を聴いていると、それは単なる「神学的要請」ではなく、この世界を成立させるための必然であるかのように思えてくる……

フーガ部分は、父なる神を表わす第1主題が4/4拍子、子であるイエスを表わす第2主題が6/4拍子、そして聖霊を表わす第3主題が12/8と、リズムが変わっていますが、シェーンベルクによる編曲は、このリズムの変化点でリタルダンドをかけて「変化」をより鮮明に浮かびあがらせています。そして、おもしろいのは、3つの主題が音型的に相互連関を持ってるように聴こえること……これは、まさに「三位一体」の音楽的表現なのでしょう……

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ここで、シェーンベルクとバッハの関係について書いておきますと、シェーンベルクはバッハの音楽世界にかなり傾倒していたようで、バッハを「最初の12音技法の作曲家」とみなしていたフシもあるようです。私は、12音技法についてはよくわからないのですが、たしかに、バッハの『平均律クラフィーア曲集』なんか、構成自体が12音的だ……つまり、オクターブの12の音にそれぞれ長調と短調をあてがって24……

ということで、第1巻も第2巻もそれぞれ24曲のプレリュードとフーガからなっている。おまけに、第1巻の最後のフーガには、オクターブの12の音が全部使われている……こういうことになると、バッハはすでに、オクターブの12の音を均等に扱う世界に一歩、踏み出していたということなんでしょう。しかし歴史は、調性感たっぷりの古典派、ロマン派の時代を過ぎないと、バッハの最終到達地点にまで至らなかった……ということなんですが。

この問題は、今もなお解決されていないように思えます。シェーンベルクの12音技法の作品なんかを聴くと、やっぱりちょっと耐えがたい?ものがある……われわれの耳は「調性感」に馴らされているので、12音を平等に扱って調性感を完全に消滅させた曲は、ものすごく無機的で、「意味がない」ように響きます。この「意味がない」というところがかなり重要なんだと思うのですが……じゃあ、曲を聴いて感じる「意味」とはなにか……

それはおそらく、その時点でその人がまわりにつくっている世界全体なのかもしれません。空気や水のように「意味の世界」は、ことさら意味をもって感じられないがゆえに、その「意味」を破壊するような音楽には「意味がない」という反応になる……実は、それは「鏡」であって、人は、その鏡を見て、自分のまわりを取り巻いている世界の「意味」をようやく知ることになる……あるいは、また、別の世界があるのではなかろうか……

そんな思いにもなるのかもしれません。しかし、私自身は、たとえばシェーンベルクの12音技法の曲なんかにはかなり抵抗感があるけれど、バッハの曲にはものすごく惹かれます。これは一体どういうことか……この日、鈴木雅明さんがチェンバロの部の最後に演奏された『半音階的幻想曲とフーガ』も、「調性感」という点からするとけっこう逸脱しているにもかかわらず、聴いているとやっぱり「快感」……これはいったいどうしたことか……

BWV552にしても、何カ所か、かなり「調性感」を破壊しているように聴こえる箇所がありますが……そして、この日の鈴木雅明さんの演奏では、そこをけっこう強調していたようにも聴こえましたが……にもかかわらず、その「ぶっとんでいく感じ」というのがものすごく効果的で、一気に百億光年の宇宙的スケールを飛びこえてしまう……ということで、感じでいうと、バッハはまるで、シェーンベルクの「後の」作曲家みたいに聴こえる……

おそらく……調性感を完全に破壊した後の世界というのは静謐で、もうそれ以上変化のしようのない世界なのではないか……調性感と無調感のせめぎあいというか、戦いみたいなものの中に、なにか「拓いていく力」みたいなものがあるのではないか……そんな感じも受けましたが、そこはまだよくわからない……私たちを取り巻く世界自体が、私たちの側からみれば「意味」があっても、世界の方から見れば、はたして「意味」はあるのか……

たぶん「三位一体」というのは、そこに、どうしても必要になる考え方なのではないか……そんなふうにも思えます。このBWV552のプレリュードとフーガは「三位一体」にこだわりまくってるわけですが、この曲は、バッハのそういう「理念的要請」がみごとに「実際に聴ける響き」となって結晶した希有な現象……なので、やっぱり、目の前で、それを実際に演奏する人を見て、音を聴くと……すごいなあ……と思ってしまうのでした。

Q-book_03/14のカノン_01/Fourteen canons_01

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Q-bookシリーズも3つ目になりました。今回取りあげたのは、バッハ(ヨハン・ゼバスチァン)の『14のカノン』(BWV1087)。あんまり聞いたことがない曲名やなあ……と思われる方もおられるかもしれませんが、これは、1974年にストラスブールの図書館で自筆稿が発見されたという、いわば「ほやほや」の曲です。まあ、1974年といえば40年も前なので、「ほやほや」というよりは「さめかけ」くらいかもしれませんが……それだけに、録音も着実に増えてきまして、私も3種類くらい持ってるんですが……有名な『ゴルトベルク変奏曲』とカップリングされてるケースが多いようです。なぜかといえば……

バッハの自筆譜が書かれていたのが、なんと、バッハ自身が持っていたゴルトベルク変奏曲の楽譜の余白だった……しかも、「前のアリアの最初の8音の低音主題に基づく種々のカノン」というバッハ自身の書きこみとともに……なので、この『14のカノン』の旋律は、実は『ゴルトベルク変奏曲』の骨格を形成している8つの音を並べたものだったんですね。バッハは、この8つの音を主題にして14のカノンをつくり、それを、自分自身が所有していた『ゴルトベルク変奏曲』の余白に書き入れたということで……

この曲、聞いてみると、非常にふしぎな響きです。単純なんだけれど、無限の奥行きがある……オクターブ低いG音からはじまりますが、G-F♯-E-Dと下がってB-C-Dと上がって、さらにオクターブ低いG音に落ちる……バッハが低音部で用いる下降音階は、たとえば平均律クラヴィーア曲集の1巻の13番プレリュードなんかもそうですが、なにか、深い地下の世界に案内するような響きがある……いったんB-C-Dと上がる気配を見せながら、力尽きてさらに深いG音に沈みます。重力の支配……この作品に感じるのは、「あなたはチリからとられたのだからチリにかえる」というような言葉でしょうか。しかし、それが、イヤじゃない……

むしろ、心落ち着くと申しましょうか……『ゴルトベルク変奏曲』は、この低音部を持っているからこそ、上声と中声で、あれだけ華やかな……「めくるめく」といってもいいような変奏の世界をくりひろげることができるんだ……そんなことを感じさせます。以前に見た『ゼロ・グラヴィティ』という映画を思い出しますが……この映画の原題はゼロなしの『グラヴィティ』で、まさにそんな感じなのかな? チリからとられてチリに帰る……この八つの音による変奏曲は、ヘンデルとかパーセルも行っているそうですが……

私は、そっちは聞いたことがないんですが、どんなんかなーと興味はあります……ということで、今回は、この『14のカノン』をQ-book化してみました。『14のカノン』は当然五線符に書かれているので、各音符は、高い音ほど上、つまり平面のX-Y座標でYの値が大きい位置におかれることになりますが、Q-bookではこれを3Dにするので、「高い音ほど上」をX-Y-Z座標でZの値を大きく……ということはより高い位置に配するようにしてみました(音階でいうと、2度の差が1/4mmくらい)。まあ、ゆるやかな階段みたいになりましたが……

これでみると、この階段は、ゆっくりと、地下の世界へ……なだらかなカーブを描いて降りていってるのがわかります。ちなみに、各音符は、すべてバッハの自筆原稿(インターネットで公開されているバッハの手描き楽譜)から採ったもので、ベースに貼ってある文字もバッハのものです。左上には、よくわからない字(S1.?)の後に「Canon simplex」と書いてあり(要するに主題ということでしょう)、右下は、バッハの署名です。また、音符の直前のごちゃっとしたカタマリは、ヘ音記号と♯と4/4という拍子なのでしょう。

バッハのこの楽譜では、♯が2個つけられているようです。今の表記だと、下の方の♯は省略すると思うのですが……バッハの時代にはこうするのが慣例だったのか、それともバッハのこの楽譜だけの現象なのか……それはわかりません。なお、このヘ音記号と♯と4/4のカタマリの位置ですが、これは、ヘ音記号の意味するところから、へ音と同じ高さにおいてあります。この造作の中でいちばん高いのが、このカタマリの次にくるG音なので、これが蓋をジャマしないギリギリの位置にくるように全体を造りました。

今回用いた箱は、細長い文鎮が入っていたもので、蓋をするとこんな感じ……蓋には『銘石美術品 文鎮』と筆文字風の書体で印刷された紙が貼ってあります。箱の下にあるのは、もともと中に入っていた文鎮です。大理石みたいですが……同じもの(まったく同じ箱に入った大理石の文鎮)がネットショップで売られていて、千円とか二千円の値段が付いてました。メーカーとかは不明ですが……まあ、そんなに高尚な?ものではないみたいですね。

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今日のkooga:金の川、銀の水/Gold river, Silver water

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金と銀に見えるのは、川底に沈められたビニールの袋。厚い雲を通してそそぐ陽の光に輝く……これは、やはり弥富の川です。木々の影が川底を映し、沈められた袋が金と銀に……これは、やっぱりふしぎな光景。

タルコフスキーの映画の一シーンみたいだ……となると、やっぱりここに響く音楽は、バッハのコラール639か……無限に静かで、諦念そのもののような曲なのに、どこか、ほんの少し、心を騒がせる力を持っている……

いろんなものが沈んでるのに静かな川の流れ……バッハのこの曲は、人の、流れる意識そのものかもしれない……3声が、独立して動く……からみあうようでよそよそしく、助けあうようで離れていく声部たち……

世界というものは、やっぱり複雑なのかもしれません。もしかしたら、まったく関係ないのかもしれないし……なぜ、関係し、交わり、そこから新しいものを生むように見えるのだろう……魂の闇……

魂は、生まれてくるときに、宇宙と同じ大きさの闇を負い、その闇に包まれてこの世界に現われるのでしょう。黒い水が、光を受けて黄金に輝き……また、光を失って闇に沈む……生きていることの意味。

生が光で、死は闇なのか……それとも、生自体が、闇の中に輝く光なのか……私の中の闇は、とらえようもなく巨大で、光はすぐに届かなくなってしまう。黒いスポンジのように光を吸収する闇としての質……

しかし、まあ、時間はある。あせらず、ゆっくりと、少しづつときほぐしていけばいいではありませんか。死が、ひとつの区切りを超えるだけで、作業そのものは連綿と続くのだとすれば……時間というものは、闇がほぐされていく、そのものなのかもしれません。となると、やっぱりそれは無限だ……

魚の影が見えました。しかも、かなり大きい……30cmはあっただろうか……鯉ではないかという人がいる。鯉かもしれない。人が、そういう名前をつけたなら……しかし、それは、流れそのものがうねったようにも見えた。そこにはなにかの意志があるのかもしれないが、それはわからない……

わからないことばかりです。それが、闇の働き……歩けば、ここから遠ざかる。そしてまた、別のものが見えてくる。私は、この生のあいだはこの身体から出られない。しかし、私の身体は刻々と崩壊し、またつくられる。私の意識も、身体の破片に乗って、わずかだけれど放散されていきます……

人は、ナゾの闇とともに生き、そして闇を抱えたまま死ぬ。闇は終わらず、また生へと続く……静かに降る雨の中で、川は、ゆらゆらと、人に問いをなげかける。問いには答えもなく、問い自体もいつのまにかわからなくなっている。なんにもわからないアタマの中で、ただなにかの印象だけが、ずっと尾を曵いている……

お茶目新聞_05:佐村河内氏、芥川賞受賞

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御茶目新聞_05 
2014年(平成26年)4月29日(火曜日) 
日本御茶目新聞社 名古屋市中区本丸1の1 The Otyame Times
今日のモットー ★売上目標 1人1冊!
 
佐村河内氏、芥川賞受賞
  話題作『マモルとタカシ』で
   売れゆきに拍車 史上初一億部突破?へ

一時は「現代のベートーヴェン」ともてはやされ、クラシックのCDとしては驚異的な売上を記録した「作曲家」佐村河内守氏も、実は新垣隆氏というゴーストライターがいることが発覚、評価が急転して「サギ師」、「ペテン師」としてマスコミで袋叩きとなったが、その後、小説家に転身し、自身と新垣氏をモデルとした長編、『マモルとタカシ』を発表。これが再び世間の耳目を集めてベストセラーに。さらに、売上だけではなく、文学的内容も高く評価され、ついに芥川賞を受賞することとなった。これで、売上もさらに加速されることが予想され、版元によれば「史上初の一億部突破も夢ではない」とのこと。
ただし、今回もまた「ゴーストライターがいるのでは?」との憶測が発売当初からとびかっている。芥川賞受賞の事実からも明らかなように、構成、ストーリー、文体のいずれをとってもハイレベルで洗練され、しかも斬新。文芸評論家の間では、「これだけの文章を書けるのは○○氏、いや△△さん……」と、すでに数名の「ゴーストライター」の名があがっている。これに対し、当の佐村河内氏は、「いや、今回はホントにボクが書きました……というか、文章が天から降りてくる……私はそれを書き留めただけ……ウソいつわりはございません」と語っている。ゴーストライターさがしも含めて、これでまたマスコミも国民も、当分の間、彼にふりまわされることになりそうだ。

ABくんの談話(いいコンビなのかも……)
コレ、うまくいったらノーベル文学賞かもね。賞をとったら官邸に呼んでハグしたげるんだけど……

新垣隆氏の談話(おちついて音楽に専念させてほしい……)
今回は共犯じゃないョ。

写真キャプション

佐村河内氏の話題作
マモルとタカシ
御茶目出版社 刊
USO800円(税込)
(えっ! 横書き?!)

本のオビのコピー
★オビ・表のコピー
重層するウソの奥に輝く真! 御茶目出版社
★オビ・背のコピー
芥川賞!
★オビ・裏のコピー
一人は看板、一人は中身……このコンビで永久にうまくいくはずだったのに……弄び、弄ばれたのはだれか?日本のクラシック界の大激震を、今、キーマンが物語る。

…………………………………………

今までの御茶目新聞の記事の中では、いちばんありえるかな?という気がします。ゴーストライターさえうまく選べば実現できそう……でも、一億部はさすがにムリでしょう……それと、「話題性」だけでは売上は伸びても「芥川賞」はむずかしい。核心の部分に、やっぱり「真実」が光っていないと……今回の騒動を分析してみるといろいろなことがわかってきますが、そこは、うまく書けば、この国の「音楽」というものの受け取り方から、さらに「19世紀」の意味まで、深く考えさせられる作品になるかもしれません。

今回の事件で私がいちばん注目したのは、なぜ新垣さんが、佐村河内氏の指示どおりに18年間も「音楽」を書きつづけてきたのか……ということ。「お金のため」だけでは絶対に続きそうにないし……きけば、新垣さんは、日本の現代音楽の分野ではトップクラスに入る方だという……ははあ、息抜きだったのか……と思いましたが、最近の報道をいろいろ聞いていると、やっぱりそうだったみたいですね。これ、現代音楽というものの特質を如実に現わしてしまった事件ではなかろうか……そんなふうに思えてきます。

現代音楽家って、実は、スゴイらしいんですね。ウィキに、新垣さんの発言として、「あれくらいだったら現代音楽家はみな書ける」とありましたが、実際そうだと思います。私が以前にFMで聞いた話では、現代音楽家のだれそれさん(名前は忘却)は、ピアノの右手で10拍打つ間に左手で11拍打つような曲をつくって、しかも、現代のピアニストはそれを平気で弾いちゃうと……もう、過去の音楽家や演奏家をはるかに凌ぐ技量を、今の現代音楽家はみんな持ってる……

だから、バッハ風とかモーツァルト風とかベートーヴェン風とか注文をつけられてもなんなくこなしてしまう。しかも、それが楽しい……現代音楽家は、調性というものを失なって久しい現代音楽の世界で、日々、一歩でも前に進もうと努力しているから……調性のある音楽を書くということは、やっぱりホッとする喜び……武満さんも、バリバリの現代音楽に混じって調性のある豊かで美しい曲を残していますが……今の現代作曲家は、もうそういうこともやりにくい地点にいる……

要するに、調性感の豊かな作品で勝負するということは、もうかなりできにくい状況が生まれていて、そういう曲は書きたくても書けない……外側からの制限というよりは、むしろ自分の内部からの制限がキツいのでしょう……だから、名前を隠して調性感豊かな音楽をたっぷり書ける……この佐村河内さんの提案は、新垣さんにとっては、とても楽しい息抜きの機会だったことは想像にかたくない……ということで、この「まずい関係」がずるずると18年も続いてしまった……

新垣さんが、会見で、「ボクも共犯者」と語った部分が、私にはいちばん印象に残りました。もし、彼が、佐村河内氏のために書いた自分の作品を「勝負作」と捉えていたら、絶対にこんな発言は出てこなかったでしょう。というか、「著作権を主張する」ということになったかも。しかし、あの作品は、彼自身も、密かに「調性のある音楽」を楽しむ場だった……やっぱり、「音楽そのもの」に対してうしろめたい気持ちはずっと持っておられたのではないか……

「共犯者」という発言は、そういう事情を如実に語っているものではないかと思います。彼が佐村河内氏に書いて渡した作品は、彼にとっては息抜きの、いわば「勝負の間のおアソビ」みたいなイメージだったのに、そういう作品が世間で話題になり、どんどん広がっていく……最初の頃は、たしかに、「世間に受けいれられる喜び」は大きかったんでしょう。しかし、度を越したフィーバーみたいになっていくと、これはさすがにまずいのではないかと……

要するに、ポイントは、「もう終わってしまった曲」を世間に出して、それに世間の人が「名曲だ!」という評価を与えてしまったこと……ここが、彼としてはいちばん気になったし、「罪をおかしている」という気持ちにさせられたところではないかと思います。そして、その罪は、世の人に対して……というよりも、実は、音楽そのものに対する罪……もう終わってしまった音楽を、今発表して、それが世に受け入れられる……これは、「音楽」で世を欺くことにほかならない……

つまり、彼は、やっぱり、「根っからの現代音楽家」なんだと思います。現代音楽に課せられた課題を認識し、その課題を、志を同じくする人々となんとかして、少しずつ砕き、積み上げ、少しでも「音楽」の世界を先に進ませたい……それが、彼の中核の希望であって、私は、それはとても純粋なものだと思う。世間に受け入れられ、世の人を楽しませたり感動させたり……むろん、それも大切だけれど、それは、本当の「今の音楽」によってなされなければ意味がない……

もうとっくに終わってしまった「過去の音楽」の集積によってそれがなされたとしても、それは「音楽」に対する裏切り行為でしかない……はじめは、密かな自分の楽しみとして、ちょっと脱線してもまあ許されるだろう……と思ってはじめたことが、佐村河内氏というキャラクターによってどんどん拡大され、自分は、音楽で音楽を裏切る行為をやってしまって、それがますますひどくなる……これは、純粋な気持ちの現代音楽家には到底耐えられないことだ……

ことの次第は、ほぼこういうことだったのではないか……だから、彼が「共犯者」というとき、その「罪」は、自分がいちばん大事にしなければならない「音楽の道」を汚した罪……そこには、やっぱり「音楽」の持つ現代性といいますか、最先端を行く人の「音楽」と、今の一般の人の楽しむ「音楽」の大きな乖離が現われているように思われる。そして、それは、もう少し大きく……西洋の「19世紀」というものの持つ意味と、さらに「普遍」の問題が、やっぱり絡んでくるように思われます。

したがって、この騒動は、より広い観点から見た場合、単なる「偽作事件」ではすまない、大きな現代的問題を孕んでいると見た方がいいように思います。と同時に、「イメージと本質」というさらに普遍的な問題にもつながっていく。ヨーロッパ中世にさかんだった「普遍論争」のことも思いおこされます。「普遍」が佐村河内氏という一人の人物によって「個」として「存在」してしまった……イメージは実体なのか、無なのか……はたまた、実体の方が無なんだろうか……

今はまだ話題としてホットですが……しばらくすると、こういうようなもう少し大きな観点からこの事件を分析する人がきっと出てくると思います。どんな論が出てくるのか……ちょっと楽しみです。

*本のイラストで、左開きの表紙にしてしまった……「えっ! 横書き?!」というコピーをつけてごまかしましたが、これはまことに恥ずかしいマチガイでした……