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聖アンを弾く人を見た/I watched the person who played St. Anne

この間の日曜日、豊田市のコンサートホールで、鈴木雅明さんのチェンバロとオルガンのリサイタル(オールバッハプログラム)があり、聴きにいきました。鈴木雅明さんは、バッハ・コレギウム・ジャパンを率いて、スウェーデンのレーベルのBISでバッハのカンタータの全曲録音を達成された、現今わが国のバッハ演奏の第一人者といえる方で、チェンバロ・オルガンの奏者としても知られています。

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プログラムは、前半がチェンバロ、後半がオルガンと合唱(といってもソプラノ、アルト、テナー、バスのソリスト4人)で、前半は、平均律第一巻のハ長調プレリュードではじまり、半音階的幻想曲とフーガで閉じるという構成。そして、後半、オルガンの部は、バッハのクラフィーア練習曲集第三巻の抜粋……なんですが、これが、やっぱり圧倒的に良かった……

クラフィーア練習曲集第三巻は、BWV552のプレリュードで開始され、間にコラール・プレリュードなどを25曲はさんで最後にBWV552のフーガで閉じるという構成ですが……むろん、全曲は時間がかかるので、コラール・プレリュードは数曲のみ。しかし、BWV552のプレリュードとフーガはしっかり全曲演奏……で、この曲を実際に弾く人を、私ははじめて見たわけですが……

もう、やはりスゴイとしかいいようのない圧巻……ですね。鈴木雅明さんの演奏は、けっこう現代的というか、あんまりカッチリやらずに、自由に流す……みたいな雰囲気ですが、そのスタイルが、またこの曲と良く合ってるように思います。「聖アン」……この曲のフーガ部分につけられたニックネームですが……聖母マリアの母親の名前を冠していても、この曲は、男性的というか……いや、そういう人間的なものすら越えて、はるかにはるかに宇宙的……

とにかく、ものすごいスケール感……楽譜を見るかぎりでは、このスケール感がいったいどこからくるのかよくわからないのですが、実際に演奏されるとスゴイです。この曲は、なぜか、「奏者をノリノリにさせてしまう」みたいな作用があるみたいで、いろんな演奏を聴いても、たいがい奏者はノリノリの感じになる。聴いてる方は、ただただ、百億光年の宇宙にさまよってなすすべなくバッハのお釈迦さんのような巨大な掌から出られない……

この曲、なんというか、こういうもんがこの世界にあっていいのだろうか……と、ちょっと不安になるくらいの幅の広さというか、広大なランドスケープを一瞬にして跳梁していく巨大な神々のとよもす波動を感じるのですが……たとえば、ヘンデルの曲なんか、ものすごく雄大だけれど、それでもやっぱりそれは、地上的な雄大さ……なんですが、一旦バッハさんがホンキを出すと……これですよ。これ。もうだれも到達できません。この無限の世界……

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なんで、こんなものがあるのだろうか……私は、昔から、この曲のディスクを聴くたびに、これって、ホントに人が弾いているんだろうか……とずっと思ってきたわけですが、今回、鈴木雅明さんが、ホントに弾いてました。もうとにかく、それだけで、すごいなーと思ってしまった。うわ、ホントに弾いてる……やっぱり人が弾いてたんだ……この曲……まあ、おおげさかもしれませんが、なにかそういうところがある曲です。この曲は……

この曲のフーガの部分に「聖アン」という名前が付けられているわけは、フーガの第一主題の冒頭が、ウィリアム・クロフト(1678-1727)という名前のバッハと同時代のイギリスの作曲家の「O God, our help in ages past」という賛美歌(1708)の冒頭の音型とそっくりだから……じゃあ、クロフトさんのその賛美歌は、聖母マリアのお母さんのことを歌ってるの?といいますと、歌詞を読んでみると、どうも、そうとも思えない……

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ちょっと、歌詞をかかげてみましょう……

1. O God, our help in ages past,
our hope for years to come,
our shelter from the stormy blast,
and our eternal home.

2. Under the shadow of thy throne,
still may we dwell secure;
sufficient is thine arm alone,
and our defense is sure.

3. Before the hills in order stood,
or earth received her frame,
from everlasting, thou art God,
to endless years the same.

4. A thousand ages, in thy sight,
are like an evening gone;
short as the watch that ends the night,
before the rising sun.

5. Time, like an ever rolling stream,
bears all who breathe away;
they fly forgotten, as a dream
dies at the opening day.

6. O God, our help in ages past,
our hope for years to come;
be thou our guide while life shall last,
and our eternal home.

よくわからないところも多いのですが、聖アンのことを歌ってるとはちょっと思えないけれど……私の英語力がないからわからないだけでしょうか……と思ってウィキで見ると、作曲者のクロフトさんがオルガンを弾いてたのが、ロンドンの聖アン教会だったから……ということのようです。なお、「アン」の綴りは「Anne」で、「赤毛のアン」の「アン」と同じです。英語発音だと「アン」になりますが、聖書なんかには「アンナ」(Anna)と書いてあります。

で、バッハが、このクロフトさんの賛美歌の冒頭部分をフーガの第1主題としてとりいれたのか……といいますと、どうもそうでもなく、音型が同じになったのは偶然であろうという意見が主流のようです。ただ、イコノロジー的には、アンナは、幼子イエスを抱くマリアをさらに抱くように描かれることが多く、これは「三位一体」を表わしているとのことで、そうなるとこのBWV552のプレリュードとフーガもやっぱり「三位一体」を表わしているので……

この曲が、「聖アン」と名付けられるのも、多少本質的な理由があるのかな……という気もしますが、よくわかりません。ただ、クロフトの賛美歌の歌詞の感じからすると、やっぱり宇宙的で、無限の時間と空間を亘っていくようなイメージがあるので、この歌詞は、結局、バッハのあの壮大な三重フーガの開始にふさわしいもののように思えます……ということで、真相はわからないのですが、なにか、すべてはまっているような気もします。

この曲には、シェーンベルクによる弦楽合奏用の編曲があるのですが、これがまたスゴイ……ネットで、いろんなヴァージョンを聴くことができます。弦を省いて吹奏楽みたいにしてやってるのもありますが、いずれにせよ、オーケストラの音色の多彩さを得て、この曲はまたちがった相貌をみせる。金管の咆哮が、たそがれゆく空のかなたから響きわたって「古き世の終末」を告げしらせると、木管の静かなフーガが夜空の星のまたたきのごとく……

そして、キリストの主題が弦の重なりとなって流れてゆく……そのかなたに、管楽器による神の主題がそびえたち……やがて、すべてがゆっくりと崩壊していく地の底から、トロンボーンによる聖霊の主題が湧きあがる……この曲は、プレリュードもフーガも、徹底して「3」によって成り立っています。「三位一体」……この曲を聴いていると、それは単なる「神学的要請」ではなく、この世界を成立させるための必然であるかのように思えてくる……

フーガ部分は、父なる神を表わす第1主題が4/4拍子、子であるイエスを表わす第2主題が6/4拍子、そして聖霊を表わす第3主題が12/8と、リズムが変わっていますが、シェーンベルクによる編曲は、このリズムの変化点でリタルダンドをかけて「変化」をより鮮明に浮かびあがらせています。そして、おもしろいのは、3つの主題が音型的に相互連関を持ってるように聴こえること……これは、まさに「三位一体」の音楽的表現なのでしょう……

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ここで、シェーンベルクとバッハの関係について書いておきますと、シェーンベルクはバッハの音楽世界にかなり傾倒していたようで、バッハを「最初の12音技法の作曲家」とみなしていたフシもあるようです。私は、12音技法についてはよくわからないのですが、たしかに、バッハの『平均律クラフィーア曲集』なんか、構成自体が12音的だ……つまり、オクターブの12の音にそれぞれ長調と短調をあてがって24……

ということで、第1巻も第2巻もそれぞれ24曲のプレリュードとフーガからなっている。おまけに、第1巻の最後のフーガには、オクターブの12の音が全部使われている……こういうことになると、バッハはすでに、オクターブの12の音を均等に扱う世界に一歩、踏み出していたということなんでしょう。しかし歴史は、調性感たっぷりの古典派、ロマン派の時代を過ぎないと、バッハの最終到達地点にまで至らなかった……ということなんですが。

この問題は、今もなお解決されていないように思えます。シェーンベルクの12音技法の作品なんかを聴くと、やっぱりちょっと耐えがたい?ものがある……われわれの耳は「調性感」に馴らされているので、12音を平等に扱って調性感を完全に消滅させた曲は、ものすごく無機的で、「意味がない」ように響きます。この「意味がない」というところがかなり重要なんだと思うのですが……じゃあ、曲を聴いて感じる「意味」とはなにか……

それはおそらく、その時点でその人がまわりにつくっている世界全体なのかもしれません。空気や水のように「意味の世界」は、ことさら意味をもって感じられないがゆえに、その「意味」を破壊するような音楽には「意味がない」という反応になる……実は、それは「鏡」であって、人は、その鏡を見て、自分のまわりを取り巻いている世界の「意味」をようやく知ることになる……あるいは、また、別の世界があるのではなかろうか……

そんな思いにもなるのかもしれません。しかし、私自身は、たとえばシェーンベルクの12音技法の曲なんかにはかなり抵抗感があるけれど、バッハの曲にはものすごく惹かれます。これは一体どういうことか……この日、鈴木雅明さんがチェンバロの部の最後に演奏された『半音階的幻想曲とフーガ』も、「調性感」という点からするとけっこう逸脱しているにもかかわらず、聴いているとやっぱり「快感」……これはいったいどうしたことか……

BWV552にしても、何カ所か、かなり「調性感」を破壊しているように聴こえる箇所がありますが……そして、この日の鈴木雅明さんの演奏では、そこをけっこう強調していたようにも聴こえましたが……にもかかわらず、その「ぶっとんでいく感じ」というのがものすごく効果的で、一気に百億光年の宇宙的スケールを飛びこえてしまう……ということで、感じでいうと、バッハはまるで、シェーンベルクの「後の」作曲家みたいに聴こえる……

おそらく……調性感を完全に破壊した後の世界というのは静謐で、もうそれ以上変化のしようのない世界なのではないか……調性感と無調感のせめぎあいというか、戦いみたいなものの中に、なにか「拓いていく力」みたいなものがあるのではないか……そんな感じも受けましたが、そこはまだよくわからない……私たちを取り巻く世界自体が、私たちの側からみれば「意味」があっても、世界の方から見れば、はたして「意味」はあるのか……

たぶん「三位一体」というのは、そこに、どうしても必要になる考え方なのではないか……そんなふうにも思えます。このBWV552のプレリュードとフーガは「三位一体」にこだわりまくってるわけですが、この曲は、バッハのそういう「理念的要請」がみごとに「実際に聴ける響き」となって結晶した希有な現象……なので、やっぱり、目の前で、それを実際に演奏する人を見て、音を聴くと……すごいなあ……と思ってしまうのでした。

Q-book_03/14のカノン_01/Fourteen canons_01

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Q-bookシリーズも3つ目になりました。今回取りあげたのは、バッハ(ヨハン・ゼバスチァン)の『14のカノン』(BWV1087)。あんまり聞いたことがない曲名やなあ……と思われる方もおられるかもしれませんが、これは、1974年にストラスブールの図書館で自筆稿が発見されたという、いわば「ほやほや」の曲です。まあ、1974年といえば40年も前なので、「ほやほや」というよりは「さめかけ」くらいかもしれませんが……それだけに、録音も着実に増えてきまして、私も3種類くらい持ってるんですが……有名な『ゴルトベルク変奏曲』とカップリングされてるケースが多いようです。なぜかといえば……

バッハの自筆譜が書かれていたのが、なんと、バッハ自身が持っていたゴルトベルク変奏曲の楽譜の余白だった……しかも、「前のアリアの最初の8音の低音主題に基づく種々のカノン」というバッハ自身の書きこみとともに……なので、この『14のカノン』の旋律は、実は『ゴルトベルク変奏曲』の骨格を形成している8つの音を並べたものだったんですね。バッハは、この8つの音を主題にして14のカノンをつくり、それを、自分自身が所有していた『ゴルトベルク変奏曲』の余白に書き入れたということで……

この曲、聞いてみると、非常にふしぎな響きです。単純なんだけれど、無限の奥行きがある……オクターブ低いG音からはじまりますが、G-F♯-E-Dと下がってB-C-Dと上がって、さらにオクターブ低いG音に落ちる……バッハが低音部で用いる下降音階は、たとえば平均律クラヴィーア曲集の1巻の13番プレリュードなんかもそうですが、なにか、深い地下の世界に案内するような響きがある……いったんB-C-Dと上がる気配を見せながら、力尽きてさらに深いG音に沈みます。重力の支配……この作品に感じるのは、「あなたはチリからとられたのだからチリにかえる」というような言葉でしょうか。しかし、それが、イヤじゃない……

むしろ、心落ち着くと申しましょうか……『ゴルトベルク変奏曲』は、この低音部を持っているからこそ、上声と中声で、あれだけ華やかな……「めくるめく」といってもいいような変奏の世界をくりひろげることができるんだ……そんなことを感じさせます。以前に見た『ゼロ・グラヴィティ』という映画を思い出しますが……この映画の原題はゼロなしの『グラヴィティ』で、まさにそんな感じなのかな? チリからとられてチリに帰る……この八つの音による変奏曲は、ヘンデルとかパーセルも行っているそうですが……

私は、そっちは聞いたことがないんですが、どんなんかなーと興味はあります……ということで、今回は、この『14のカノン』をQ-book化してみました。『14のカノン』は当然五線符に書かれているので、各音符は、高い音ほど上、つまり平面のX-Y座標でYの値が大きい位置におかれることになりますが、Q-bookではこれを3Dにするので、「高い音ほど上」をX-Y-Z座標でZの値を大きく……ということはより高い位置に配するようにしてみました(音階でいうと、2度の差が1/4mmくらい)。まあ、ゆるやかな階段みたいになりましたが……

これでみると、この階段は、ゆっくりと、地下の世界へ……なだらかなカーブを描いて降りていってるのがわかります。ちなみに、各音符は、すべてバッハの自筆原稿(インターネットで公開されているバッハの手描き楽譜)から採ったもので、ベースに貼ってある文字もバッハのものです。左上には、よくわからない字(S1.?)の後に「Canon simplex」と書いてあり(要するに主題ということでしょう)、右下は、バッハの署名です。また、音符の直前のごちゃっとしたカタマリは、ヘ音記号と♯と4/4という拍子なのでしょう。

バッハのこの楽譜では、♯が2個つけられているようです。今の表記だと、下の方の♯は省略すると思うのですが……バッハの時代にはこうするのが慣例だったのか、それともバッハのこの楽譜だけの現象なのか……それはわかりません。なお、このヘ音記号と♯と4/4のカタマリの位置ですが、これは、ヘ音記号の意味するところから、へ音と同じ高さにおいてあります。この造作の中でいちばん高いのが、このカタマリの次にくるG音なので、これが蓋をジャマしないギリギリの位置にくるように全体を造りました。

今回用いた箱は、細長い文鎮が入っていたもので、蓋をするとこんな感じ……蓋には『銘石美術品 文鎮』と筆文字風の書体で印刷された紙が貼ってあります。箱の下にあるのは、もともと中に入っていた文鎮です。大理石みたいですが……同じもの(まったく同じ箱に入った大理石の文鎮)がネットショップで売られていて、千円とか二千円の値段が付いてました。メーカーとかは不明ですが……まあ、そんなに高尚な?ものではないみたいですね。

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今日の essay:19世紀という病・1

19世紀という病が、広くこの星をおおっている。

燃えあがる巨大なビル……壮麗で、しかも機能的で、人が暮らし、日々を楽しむためのさまざまな設備がはりめぐらされた膨大な建築……それは、日々、増築を重ね、世界をのみこむ……しかし、新しく建てられた部分にもすぐに火の手がのび、炎に包まれて無惨に焼尽される……この、建設と火災の連鎖が、やむことなく世界をおおっていく……。

この病がはじまったのは、やはりヨーロッパ……大バッハの死の年、1750年が一つのピリオドとなるのではないか……私たちがこどものころ、中学校の音楽教室には、作曲家の肖像がずらりと掲げてあった。音楽の父、大バッハと音楽の母、ヘンデルからはじまり、モーツァルト、ベートーヴェンを経てワグナー、ブラームス、そしてストラヴィンスキーあたりまで……

そう、これが、もろに「19世紀」なのだ。拡大版19世紀。それは、1750年からはじまって、20世紀の半ばあたりまで続いた。いや、それは、地域を変えて伝染し、今なお終息の気配もみえない。ヨーロッパは昔日の力を失ったが、アメリカで拡大され、アジアに移る。今ちょうど、朝鮮半島から中国大陸が、19世紀という病に呑みこまれかけている……

19世紀•

19世紀の特徴。それは、人間中心主義ということかもしれない。人が紡ぎだすさまざまな物語。それは、常に拡大する。楽器。かつては人の手の中にあった楽器が、音量の拡大を求め、それは巨大なホールを生んだ。数千人収容のホールの隅々まで届く音量。ヴァイオリンの弦はガットから金属になり、木製のフレームが棄てられて鋼鉄製のフレームが登場……

ピアノフォルテ。それは、20トンもの張力に耐えうる鋼鉄製のフレームを必要とする。その鋼鉄技術は戦艦を生み、戦車を生み、世界を破壊し、生命を根絶やしにする。そして原子力。19世紀の末に誕生した原子の内部に踏みこむ人の力は、とてつもない怪物を生む。原子爆弾とゲンパツ。この二つは、19世紀が生んだ悪魔の双生児。人類に引導を渡すもの……

ピッチインフレ。415ヘルツが440ヘルツになる。人は、緊張の成長を強いられ、人の文明がすべてを呑みこんでゆく。19世紀……それは、まだ終わっていない。人は、19世紀の意味を知るまでは、新しい時代を拓くことができない。民主主義……しかし、それは、人間のことしか考えていない。19世紀は、人にのみ価値を置く時代。すべては人のためにある……

金の輪が支配する世紀。人は、自然から当然のように収奪を続ける。経済の成長の最後のポンプは、自然の中にさしこまれ、間断なく吸いあげ続ける。そして、要らなくなったものを吐き出し続ける。すべては人の、くだらない欲望のために……人の目は宇宙に向けられ、そこも、新たな「資源」の場として……鷹の目の人の奢り……どこまで続くか……

人類は、やはり19世紀を卒業すべきだと思う。そのためにはどうしたらいいのか……右肩上がりの神話をやめてみるのか……金の輪の意味を考えてみるのか……中学校の音楽室に掲げられていた作曲家たちの肖像が、なぜあのメンバーなのか……それを考えてみるのか……そして、ゲンパツと宇宙開発の意味、それを問い直してみるべきなのだろうか……

すべての答は、結局、自然が出してくれるのかもしれない。人が、人自身の文明に対する答を出しきれない以上、自然が出してくれるのを待つしかないのか……ナサケナイ。もろに19世紀の遺物である「オリンピック」をぶらさげられて理性も飛び、「フロイデ……」と歌って、なにか理想を達成したような気分になる……どういうことだろう……

まあ、やっぱり、自然が究極の答を出してくれるのでしょう。ホント、ナサケナイ話ですけど……。