「網戸と生成りとラコステ」……なんのことかわかりませんが、実はこれ、今回の個展のためにつくった作品のタイトルを並べたもの。左から、網戸、生成り、ラコステです。
まずは、網戸。「アラクネンシス・シリーズ」という一筆描きの作品の最新作で、サイズは300×300mmのパネル仕立て。ケント紙に水性ペン(0.03mmのコピック)で描いてます。正方形を一筆描きで連ねていくんですが、手で描くので、機械のように正確にはならず、微妙にズレていきます。
正方形を描き連ねるといっても、一筆描きでやる場合には、ちょっと工夫が必要です。正方形をフツーに描くと、始点に戻って終わるので、一列に連ねることができません。そこで、まず、この図の①のように、凹凸の線(西洋のお城の城壁の上の部分みたいな)をずーっと左から右まで描いてしまいます。
次に、下に折り返して(②)、赤い線のように凹凸を、こんどは右から左に描いていきます。このとき、上の列の角に、下の列の角を当てながら描いていくと、上下に一個ずつズレながら正方形ができていきます。したがって、上の列の正方形より、下の列の正方形の方が一個多くなります。
正方形の数を同じにすることもむろん可能で、このときには、スタート地点が下からになります(①のα点)。こうすると、確かに正方形の数は同じになりますが、スタート点が下の線と交わってわかりにくくなってしまうので、「ここがスタート」ということを見せたい場合は①の方法になります。
今回、作品としてつくった「網戸」は、α点からスタートさせているので、ちょっと見ると線のはじまりがよくわかりません。しかし、一筆描きの原則として、奇数の線が交わる点(1本も含め)は2つしか生じないので、この作品では、左上の3本の線が交わっているところがスタート点になります。
この作品、実は、途中までタイトルがなかったんですが、半分くらいできたところで、なんかに似てる……と。あ、使い古された網戸だ……ということで、「網戸」という名前になりました。正式には?「アラクネンシス_網戸_01」といいます。「01」は、まあ、続きをつくる意欲満々ということで……
途中で正方形が大きくなったり小さくなったりで、その大きさを揃えようとしてがんばると全体が傾斜していったり……あるいは、できるだけ水平に描こうとするのですが、全体的に弓なりになってきたりすると、その調整のために大きな正方形(タテ長の正方形)を連続させたりします。
すると、そこの部分は、ちょっと引いて見ると密度が薄いので、まわりより明るく見える。そのさまは、なんとなく景色に霞がかかってるよう……描いてる途中は、うまくいくのかな?と思うんですが、どんなに失敗したと思っても、描き続けていくと全体がなんとなくサマになってくるのが、この技法のいいところ?
ということで、全体に、10年以上も取り替えていない網戸みたいになりました。この作品の中にある「ゆらぎ」は、たぶん意図的に生みだそうとしても、こういうふうにはならない。これは、これまで描いてきた線の「積分」による効果としかいいようがありません。半ば私の意図、そして大部分は線自体の意図……
こういうところが、この作品をつくるのをやめられない大きな理由かもしれません。昔の絵描きは、技法を完全に自分のコントロールのもとに置くのが一つの目標でしたが、今は、偶然の要素、とくに、作品自体が要求してくる必然性みたいなものに身をゆだねるのを良しとする。そういう傾向はあります。
この「網戸」においても、この乱れ方の自然さ(と私には映るのですが)は、私という作者が意図しては絶対にできないもので、それをやると、やっぱり不自然な、作為的なものになってしまう……これは、ある程度作品をつくってきた人が見れば、一発で見抜かれてしまいます。あ、ここ、狙ってるな……とか。
そういう意味で、この技法は、ドローイングに、たとえば焼物みたいな「偶然的要素」を自然に入れていく、とてもいい方法じゃないかと思います。私は昔、焼物って卑怯だなあ……と思っていたんですが……つまり、「自然の必然」を「偶然」として巧みに利用する……結局、自分で、平面でそれに近いことをやってます……
次にご紹介するのは、「生成り」。読みは「きなり」です。これも、やってる途中でタイトルが浮かんできました。なんか、生成りの生地のようだ……ということで。どれもこれも、きわめて安直な命名です。この「きなり」というタイトルは、3分の1くらい描いたところで、早々と出てきました。
この「生成り」の描きかたは、「網戸」より少し単純で、三角の山をどんどん連ねていくだけです。これで、45°に回転した正方形(菱形)の連続が、自動生成されていきます。
やってみてわかったのは、この「生成り」は「網戸」より乱れやすいということ。なぜかはわかりませんが、正方形の大きさを揃えるのはけっこう難しくて、大きさにかなりのバラつきが生じます。しかも、そのバラつきが45°に連続していくので、全体が、目の荒い祖末な布みたいな印象……(インド綿のよう?)
最初は、このバラつきがちょっとイヤで、なんとか正方形の大きさを揃えてみようとがんばりました。作品の、上から4分の1を少し過ぎたあたりで、編み目の幅が急に揃って来て、おとなしくなってきたのに気がつかれると思いますが、ここが、作者が自分のコントロールを効かせてやろうとがんばった箇所です。
しかし……やってみてわかったのは、これってもしかして、視覚的に、つまんない感じになってしまうかな……と。ちょっと引いて見ると全体がベタな灰色になってきて、それまでのように「自由な乱雑さ」が薄れてしまう……この領域に入ってしまって、なんかそれまでのラフな現われ方が、急に懐かしくなった。
そこで、この「お行儀の良い領域」は早々に店じまいすることにして、元の生成り風に戻ろうとしたんですが、こんどはそれがなかなかうまくいかない……これもおもしろいと思いました。それまでは意図せずして自然にそうなっていたことを、今度は意図してやってみようとすると、れれれ?うまくいかないや……
ここが、人間の意識のふしぎなところだと思います。アラクネシリーズの場合、一筆描きで、やり直したり消したりは絶対にしないので、線に、そのときの思いが正直に乗って出てしまう。これはけっこうラブリー?ではないか……こうしてやろう、ああしてやろうという「意図」や「意識」も、線は、真っ正直に記録してしまいます。
ということで……全体が、こんな作品になってしまいました……なお、右端の中央よりやや上の部分で「乱れ」がけっこうひどいですが、これも意図的ではなく、結果、こうなってしまったもの。なにが原因であったのか……これは、もしかしたら精緻な調査を行ってみるとおもしろい結果が出るのかもしれませんが……
とにかく、この「乱れ」がひどくなってきたときには、修復にかなり意識を注ぎこみました。どうしたら「乱れ」を収束できるのか……とやればやるほど乱れはひどくなるばかり……しかし、「力ワザ」でなんとか収めて次へ……ということなんですが、この「乱れ」の影響は、かなり下の方までひびいています。
最初は、左から右まで、できるだけ均等に三角山を描き連ねていったわけですが……この「乱れ」の影響もあって、ここから下は、なんとなく画面左の方が密で、右が疎という傾向が、最後まで続きました。
次に紹介するのが「ラコステ」です。「ラコステ」というと、ワニのマークの例の服屋さんですが……別に私はラコステが好きというわけではなく、むろんラコステの服ももっていないのですが……このタイトルは、展覧会直前まで悩みました。「網戸」や「生成り」みたいに、描いている途中からタイトルが浮かぶ作品もあれば、この作品みたいに、絶対に出てこないのもある……
したがって、この「ラコステ」というタイトルは、個展にださなくっちゃ、ということでつけた仮のものです。見ているうちに、なんとなく川を泳ぐワニの群れみたいに見えてきて……ワニ、ワニ……あっ、ラコステじゃん……ということで……実は、昔、「年のはじめのためしとて♪」という歌を、自分でかってに替え歌で「ワニのマークのラコステは♪」と歌っていたことがあって……
別に、ラコステから宣伝料を頂いていたワケではありませんが、とつぜん、「年のはじめの……」のメロディーで、「ワニのマークの……」と出てきてしまいました。アホらしいのでダレにも披露せず、自分のアタマの中で勝手に歌っていたんですが、そのヘンな記憶が、このときになって噴出したというわけで……
この作品は、「ラコステ」になってしまいました。それで、描き方なんですが、これは、左行きと右行きが、ストロークがぜんぜんちがいます。画面左上から描きはじめて、右へ行くときは、三角波を延々と描いていきます。
で、画面右上に到達したら、こんどは一直線で左に戻ります。このときに、上の三角波の谷の部分を点綴(てんてつ)しながら戻るのがポイント。こうすることによって、一気に三角形の連続ができていきます。
左端まできたら、またこんどは地道な三角波の連続で右へ行く……右利きの人は、右から左へと描いていくからこの描き方になりますが、左利きの人は逆で、右行きを三角波の連続、左行きを一直線とすると描きやすいと思います。
ということで、描き方はわりと単純なんですが、なぜか、この描き方は波瀾を呼びます。機械でやれば完全な三角が延々と続いていくだけなのですが、人がやると三角形の大きさに違いが生じて、それがどこまでもひびいていく……実は、この作品は、最初、上下が逆で描きはじめました。
つまり、描きはじめは、この作品の向きでは右下にあって、そこから左へ三角波を形成し、右へ一直線で大量の三角形を生み、また左へ愚直に三角波をつくっていく……ということをくり返していたんですが、5段目(下から)の列で、右から少し行ったところで「異変」が起きました。
それは、小さな三角形に起こった「異変」だったのですが……まあ、要するに、他の三角形よりちょっと大きめになったということにすぎないのに、なぜか、段を重ねるごとにその「異変」が拡大される様相が見えてきた……で、ヤバいと思って人は収拾に入るのですが、一旦発生した「異変」は、この作品の場合、なかなか収まらない傾向にあるようです。
6段目から13段目くらいまで、この「収拾の空しい努力」は続くのですが、それがあんまり効果を及ぼさないどころか、他の部分にまで波及して、「損傷」は拡大の一途をたどる……明らかに、ものすごく広い三角形と、ぎゅっと詰まった三角形に現場は分かれてしまい……今、「貧富の格差の拡大」なんて言ってますが、絵の上で実際にそれが起こってしまったなあ……と。
ええい!こうなったら、もう、あのワル総理みたいにいっそのこと、この「格差」をますます広げる方向で行ってやろうか!ということで開き直った結果、一匹目のラコステくんが現われた。それが、画面中央右下の明らかな「異形」です。うーん、ここまで目立っちゃっていいもんか……と、当時はけっこう悩みました。
で、これはやっぱりなにをもってしても全力で収拾にあたらねばならん!と決意して、突然変異の病的な?形状はここまで!という強い意志をもって収拾に当たろうとしたところで別の躓きが……なんと、ふだんは0.03mmのコピックを使ってるのに、その日の朝だけなぜか0.1mmのコピックを手に取ってしまった……
で、描いているうちに、なんかヘンだなあ……と。三角波を描いてるときはあまり気がつかないんですが、びゅーんと一直線を描くと明らかに太い。ヘンだ!と思って表示を見ると0.1mm。あちゃーと思いましたが、なんと、気がずぶとくなっていたのか、この作品はもう終わりじゃ!とヤケになったのか、しばらく0.1mmで続けてしまった……
気味の悪い?ラコステくんの頭部付近で明らかに線が太くなっているのがおわかりと思います。ここがその「犯行」の明らかな記録……しかしすぐに改心し、0.03mmに持ち替えて、心を取り直してふたたびマジメなアラクネ描きに……なって、その十段くらい上で、やっと収拾も軌道に乗り……
しかし、一旦ついた「ハズレクセ」はオソロシイもので、その少し上の中央部くらいからまた「逸脱」がはじまった……ということで、結局、下のラコステくんがいちばん鮮やかに出現しましたが、上の方にもラコステらしき映像が数匹……で、結果として、アマゾン河?を泳ぐラコステの群れ……みたいなイメージになりました。
機械だったら、こういう逸脱や、逆に収拾への努力が起こったのだろうか……それは気になります。まあ、プログラムしだいということなのかもしれないけれど……ただ、おそらく機械には、逸脱にかんする罪悪感や、逆に収拾せねば……という倫理感?みたいなものはないだろうから、現出するかたちは似せられても、その成立根拠は、人間とはかなり違うのかな……という気もします。
まあ、機械でも、罪悪感や倫理感に似たものは持たせることができるのかもしれませんが……そういえば、この間、マイクロソフトのSNS対話ソフトのTay(テイ)
くんが、ネットで右翼と対話を重ねているうちに、人種的偏見に満ちたヤなヤツになってしまったという話があった……
うーん……Tayくんには、罪悪感や倫理感みたいなものはあったんだろうか……これはもう、チューリングテストみたいなもんですね。まあ、それはともあれ、このアラクネシリーズを描いていると、いつも思うのは、「線の考え」と「人の考え」ということです。
このシリーズは、一筆描きなので、先にも書いたように、「人のコントロール」はかなり限定されます。ふつう、ドローイングというと、開放みたいな意識を伴っていて、常日頃はガチガチにコントロールしている意識(描線に対する意識)を解き放って、自由に、ストロークのままに描いてみよう……というようなやり方が多いように思うのですが……
このアラクネシリーズの描き方はまさに真逆……というか、かなり異なっていて、最初に、自分で、「規則」というか、法則を定めます。これはまさに「インスティテユーション」、「ゲゼッツ」であって、憲法のように問答無用に全体を縛る規則。これを、最初に定めてしまいます。
で、あとはこの「憲法」に沿って線をひたすら描いていくだけなんですが……その過程で、さまざまな「ドラマ」が起こる。で、そこに起こるドラマは、かなりの部分、人が意図したものというより、「線の意志」つまり、それまで描いてきた線の「積分効果」が必然的にもたらすもののように思えます。
つまり……線は、人の自由をなかなか許さないところがあって、それは、それまで積み重ねてきた「線自体の意志」みたいなものがかなり強く効いている。私はいつも、ライプニッツの「充足理由律」のことを考えるのですが……ものごとが発生するためには、「充分な理由がなければならない」というアレですね。
以前、本で読んだときには、この「充足理由律」は、「同一律」や「排中律」に比べると、なんとなく論理的な厳密性が薄いように感じました。今でもその点は変わらないんですが……ただ、このアラクネを描いていると、「充足理由律」が単に論理的要請ではなくて、実は、かなりプラグマチックな次元での、強制力の強い要請であったことが、指先感覚でわかってきます。
うーん……こういう風にやりたいんだけどなあ……と思っても、やっぱりできない。それまでの「線の積分」が、そういう放蕩を、人間には許さない……コレ、もうまさにカントの「自由意志」の問題なのかもしれない……もう、ほとんどの時間は、この「線の積分要請」によって、ただひたすら「線の意図」を一筆一筆実現させていくにすぎない奴隷の行程……
なんですが、やっぱり突然、「自由意志の噴出」みたいな瞬間もあって、そういうときはなぜか「天から降りてくる」感覚みたいなのがあります。オレは自由なんだ!という、突然牢屋の壁が崩れて「自由な野原」が出現したような……自由意志というのはふしぎで、それは、今までの系列には属さない。どこから来たのかもわからないような風来坊なんですが、それが、確実に世の中を変える。
しかし……後になってふりかえってみると……その「突然の自由」も、もしかしたら「線の積分」が生み出したものではなかったか……人間は、自分が「自由である」と思いこんでいろいろやって「どうだ!オレは自由だ……」と思うのですが、実は……この問題は、ちょっとカンタンに決着がつかないような気がする……
ということをやりながら、このアラクネ作品はできていきます。大部分は「線の思い」にしたがって……しかし突然、自由意志が乱入したり、またそれを収束しようという意志が働いたり……で、紙の書けるところがなくなるまで続いて、ハイ終わり。
で、できあがった全体を見てみると……いや、途中でも、ちょっと引いて見ると、そこには「形成していく線」がついに知ることのなかった「構造」が浮かびあがってくる。これが、このアラクネ作品の、一種の醍醐味といえばだいごみで、私が描くのをやめられない理由の一つでもある。線に支配された人生なんだけれど……でも、線には絶対に得ることのできない視覚を、私は持つことができる……
線は、形成されてしまった「ラコステ」を認識できるのだろうか……生成りの目の粗い細かいがつくる、あの心地よいパターンを楽しむことができるのだろうか……はたまた、網戸の揺れ、その微妙なゆらぎが全体にひびいていくそのわずかな感覚の差異を楽しむことができるのだろうか……
否、否。彼らにはできない。彼ら二次元生命体には、それは及びもつかぬこと……彼らは、私の手を、指をのっとって「自分の憲法から輩出されるパターン」を着実に描き出す。しかし、そのパターンに「意味」を見出し、そのゆらぎや美しさや異常……それを楽しむことができるのは、この私である。
ここは、やっぱりふしぎなものを感じます。以前に、二次元人間には三次元のことはわからない、とか三次元人間には四次元のことは……という話を聞いたけれど、その無味乾燥なセツメイが、このアラクネ作品においては、ホントにいのちの通った微妙なものとなってたち現われてくる……なぜ、こんなふしぎなことがあるのでしょうか……ホント、おもしろい……