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網戸と生成りとラコステ/Mosquito screen, Unbleached, Lacoste

網戸きなりラコステ_900
「網戸と生成りとラコステ」……なんのことかわかりませんが、実はこれ、今回の個展のためにつくった作品のタイトルを並べたもの。左から、網戸、生成り、ラコステです。

アラクネンシス_網戸_01_900
まずは、網戸。「アラクネンシス・シリーズ」という一筆描きの作品の最新作で、サイズは300×300mmのパネル仕立て。ケント紙に水性ペン(0.03mmのコピック)で描いてます。正方形を一筆描きで連ねていくんですが、手で描くので、機械のように正確にはならず、微妙にズレていきます。

網戸かきかた_600_
正方形を描き連ねるといっても、一筆描きでやる場合には、ちょっと工夫が必要です。正方形をフツーに描くと、始点に戻って終わるので、一列に連ねることができません。そこで、まず、この図の①のように、凹凸の線(西洋のお城の城壁の上の部分みたいな)をずーっと左から右まで描いてしまいます。

次に、下に折り返して(②)、赤い線のように凹凸を、こんどは右から左に描いていきます。このとき、上の列の角に、下の列の角を当てながら描いていくと、上下に一個ずつズレながら正方形ができていきます。したがって、上の列の正方形より、下の列の正方形の方が一個多くなります。

正方形の数を同じにすることもむろん可能で、このときには、スタート地点が下からになります(①のα点)。こうすると、確かに正方形の数は同じになりますが、スタート点が下の線と交わってわかりにくくなってしまうので、「ここがスタート」ということを見せたい場合は①の方法になります。

今回、作品としてつくった「網戸」は、α点からスタートさせているので、ちょっと見ると線のはじまりがよくわかりません。しかし、一筆描きの原則として、奇数の線が交わる点(1本も含め)は2つしか生じないので、この作品では、左上の3本の線が交わっているところがスタート点になります。

この作品、実は、途中までタイトルがなかったんですが、半分くらいできたところで、なんかに似てる……と。あ、使い古された網戸だ……ということで、「網戸」という名前になりました。正式には?「アラクネンシス_網戸_01」といいます。「01」は、まあ、続きをつくる意欲満々ということで……

途中で正方形が大きくなったり小さくなったりで、その大きさを揃えようとしてがんばると全体が傾斜していったり……あるいは、できるだけ水平に描こうとするのですが、全体的に弓なりになってきたりすると、その調整のために大きな正方形(タテ長の正方形)を連続させたりします。

すると、そこの部分は、ちょっと引いて見ると密度が薄いので、まわりより明るく見える。そのさまは、なんとなく景色に霞がかかってるよう……描いてる途中は、うまくいくのかな?と思うんですが、どんなに失敗したと思っても、描き続けていくと全体がなんとなくサマになってくるのが、この技法のいいところ?

ということで、全体に、10年以上も取り替えていない網戸みたいになりました。この作品の中にある「ゆらぎ」は、たぶん意図的に生みだそうとしても、こういうふうにはならない。これは、これまで描いてきた線の「積分」による効果としかいいようがありません。半ば私の意図、そして大部分は線自体の意図……

こういうところが、この作品をつくるのをやめられない大きな理由かもしれません。昔の絵描きは、技法を完全に自分のコントロールのもとに置くのが一つの目標でしたが、今は、偶然の要素、とくに、作品自体が要求してくる必然性みたいなものに身をゆだねるのを良しとする。そういう傾向はあります。

この「網戸」においても、この乱れ方の自然さ(と私には映るのですが)は、私という作者が意図しては絶対にできないもので、それをやると、やっぱり不自然な、作為的なものになってしまう……これは、ある程度作品をつくってきた人が見れば、一発で見抜かれてしまいます。あ、ここ、狙ってるな……とか。

そういう意味で、この技法は、ドローイングに、たとえば焼物みたいな「偶然的要素」を自然に入れていく、とてもいい方法じゃないかと思います。私は昔、焼物って卑怯だなあ……と思っていたんですが……つまり、「自然の必然」を「偶然」として巧みに利用する……結局、自分で、平面でそれに近いことをやってます……

アラクネンシス_生成り_01_900
次にご紹介するのは、「生成り」。読みは「きなり」です。これも、やってる途中でタイトルが浮かんできました。なんか、生成りの生地のようだ……ということで。どれもこれも、きわめて安直な命名です。この「きなり」というタイトルは、3分の1くらい描いたところで、早々と出てきました。

生成りかきかた_600
この「生成り」の描きかたは、「網戸」より少し単純で、三角の山をどんどん連ねていくだけです。これで、45°に回転した正方形(菱形)の連続が、自動生成されていきます。

やってみてわかったのは、この「生成り」は「網戸」より乱れやすいということ。なぜかはわかりませんが、正方形の大きさを揃えるのはけっこう難しくて、大きさにかなりのバラつきが生じます。しかも、そのバラつきが45°に連続していくので、全体が、目の荒い祖末な布みたいな印象……(インド綿のよう?)

最初は、このバラつきがちょっとイヤで、なんとか正方形の大きさを揃えてみようとがんばりました。作品の、上から4分の1を少し過ぎたあたりで、編み目の幅が急に揃って来て、おとなしくなってきたのに気がつかれると思いますが、ここが、作者が自分のコントロールを効かせてやろうとがんばった箇所です。

しかし……やってみてわかったのは、これってもしかして、視覚的に、つまんない感じになってしまうかな……と。ちょっと引いて見ると全体がベタな灰色になってきて、それまでのように「自由な乱雑さ」が薄れてしまう……この領域に入ってしまって、なんかそれまでのラフな現われ方が、急に懐かしくなった。

そこで、この「お行儀の良い領域」は早々に店じまいすることにして、元の生成り風に戻ろうとしたんですが、こんどはそれがなかなかうまくいかない……これもおもしろいと思いました。それまでは意図せずして自然にそうなっていたことを、今度は意図してやってみようとすると、れれれ?うまくいかないや……

ここが、人間の意識のふしぎなところだと思います。アラクネシリーズの場合、一筆描きで、やり直したり消したりは絶対にしないので、線に、そのときの思いが正直に乗って出てしまう。これはけっこうラブリー?ではないか……こうしてやろう、ああしてやろうという「意図」や「意識」も、線は、真っ正直に記録してしまいます。

ということで……全体が、こんな作品になってしまいました……なお、右端の中央よりやや上の部分で「乱れ」がけっこうひどいですが、これも意図的ではなく、結果、こうなってしまったもの。なにが原因であったのか……これは、もしかしたら精緻な調査を行ってみるとおもしろい結果が出るのかもしれませんが……

とにかく、この「乱れ」がひどくなってきたときには、修復にかなり意識を注ぎこみました。どうしたら「乱れ」を収束できるのか……とやればやるほど乱れはひどくなるばかり……しかし、「力ワザ」でなんとか収めて次へ……ということなんですが、この「乱れ」の影響は、かなり下の方までひびいています。

最初は、左から右まで、できるだけ均等に三角山を描き連ねていったわけですが……この「乱れ」の影響もあって、ここから下は、なんとなく画面左の方が密で、右が疎という傾向が、最後まで続きました。

アラクネンシス_ラコステ_01_900
次に紹介するのが「ラコステ」です。「ラコステ」というと、ワニのマークの例の服屋さんですが……別に私はラコステが好きというわけではなく、むろんラコステの服ももっていないのですが……このタイトルは、展覧会直前まで悩みました。「網戸」や「生成り」みたいに、描いている途中からタイトルが浮かぶ作品もあれば、この作品みたいに、絶対に出てこないのもある……

したがって、この「ラコステ」というタイトルは、個展にださなくっちゃ、ということでつけた仮のものです。見ているうちに、なんとなく川を泳ぐワニの群れみたいに見えてきて……ワニ、ワニ……あっ、ラコステじゃん……ということで……実は、昔、「年のはじめのためしとて♪」という歌を、自分でかってに替え歌で「ワニのマークのラコステは♪」と歌っていたことがあって……

別に、ラコステから宣伝料を頂いていたワケではありませんが、とつぜん、「年のはじめの……」のメロディーで、「ワニのマークの……」と出てきてしまいました。アホらしいのでダレにも披露せず、自分のアタマの中で勝手に歌っていたんですが、そのヘンな記憶が、このときになって噴出したというわけで……

この作品は、「ラコステ」になってしまいました。それで、描き方なんですが、これは、左行きと右行きが、ストロークがぜんぜんちがいます。画面左上から描きはじめて、右へ行くときは、三角波を延々と描いていきます。

ラコステかきかた_600

で、画面右上に到達したら、こんどは一直線で左に戻ります。このときに、上の三角波の谷の部分を点綴(てんてつ)しながら戻るのがポイント。こうすることによって、一気に三角形の連続ができていきます。

左端まできたら、またこんどは地道な三角波の連続で右へ行く……右利きの人は、右から左へと描いていくからこの描き方になりますが、左利きの人は逆で、右行きを三角波の連続、左行きを一直線とすると描きやすいと思います。

ということで、描き方はわりと単純なんですが、なぜか、この描き方は波瀾を呼びます。機械でやれば完全な三角が延々と続いていくだけなのですが、人がやると三角形の大きさに違いが生じて、それがどこまでもひびいていく……実は、この作品は、最初、上下が逆で描きはじめました。

つまり、描きはじめは、この作品の向きでは右下にあって、そこから左へ三角波を形成し、右へ一直線で大量の三角形を生み、また左へ愚直に三角波をつくっていく……ということをくり返していたんですが、5段目(下から)の列で、右から少し行ったところで「異変」が起きました。

それは、小さな三角形に起こった「異変」だったのですが……まあ、要するに、他の三角形よりちょっと大きめになったということにすぎないのに、なぜか、段を重ねるごとにその「異変」が拡大される様相が見えてきた……で、ヤバいと思って人は収拾に入るのですが、一旦発生した「異変」は、この作品の場合、なかなか収まらない傾向にあるようです。

6段目から13段目くらいまで、この「収拾の空しい努力」は続くのですが、それがあんまり効果を及ぼさないどころか、他の部分にまで波及して、「損傷」は拡大の一途をたどる……明らかに、ものすごく広い三角形と、ぎゅっと詰まった三角形に現場は分かれてしまい……今、「貧富の格差の拡大」なんて言ってますが、絵の上で実際にそれが起こってしまったなあ……と。

ええい!こうなったら、もう、あのワル総理みたいにいっそのこと、この「格差」をますます広げる方向で行ってやろうか!ということで開き直った結果、一匹目のラコステくんが現われた。それが、画面中央右下の明らかな「異形」です。うーん、ここまで目立っちゃっていいもんか……と、当時はけっこう悩みました。

で、これはやっぱりなにをもってしても全力で収拾にあたらねばならん!と決意して、突然変異の病的な?形状はここまで!という強い意志をもって収拾に当たろうとしたところで別の躓きが……なんと、ふだんは0.03mmのコピックを使ってるのに、その日の朝だけなぜか0.1mmのコピックを手に取ってしまった……

で、描いているうちに、なんかヘンだなあ……と。三角波を描いてるときはあまり気がつかないんですが、びゅーんと一直線を描くと明らかに太い。ヘンだ!と思って表示を見ると0.1mm。あちゃーと思いましたが、なんと、気がずぶとくなっていたのか、この作品はもう終わりじゃ!とヤケになったのか、しばらく0.1mmで続けてしまった……

気味の悪い?ラコステくんの頭部付近で明らかに線が太くなっているのがおわかりと思います。ここがその「犯行」の明らかな記録……しかしすぐに改心し、0.03mmに持ち替えて、心を取り直してふたたびマジメなアラクネ描きに……なって、その十段くらい上で、やっと収拾も軌道に乗り……

しかし、一旦ついた「ハズレクセ」はオソロシイもので、その少し上の中央部くらいからまた「逸脱」がはじまった……ということで、結局、下のラコステくんがいちばん鮮やかに出現しましたが、上の方にもラコステらしき映像が数匹……で、結果として、アマゾン河?を泳ぐラコステの群れ……みたいなイメージになりました。

機械だったら、こういう逸脱や、逆に収拾への努力が起こったのだろうか……それは気になります。まあ、プログラムしだいということなのかもしれないけれど……ただ、おそらく機械には、逸脱にかんする罪悪感や、逆に収拾せねば……という倫理感?みたいなものはないだろうから、現出するかたちは似せられても、その成立根拠は、人間とはかなり違うのかな……という気もします。

まあ、機械でも、罪悪感や倫理感に似たものは持たせることができるのかもしれませんが……そういえば、この間、マイクロソフトのSNS対話ソフトのTay(テイ)
くんが、ネットで右翼と対話を重ねているうちに、人種的偏見に満ちたヤなヤツになってしまったという話があった……

うーん……Tayくんには、罪悪感や倫理感みたいなものはあったんだろうか……これはもう、チューリングテストみたいなもんですね。まあ、それはともあれ、このアラクネシリーズを描いていると、いつも思うのは、「線の考え」と「人の考え」ということです。

このシリーズは、一筆描きなので、先にも書いたように、「人のコントロール」はかなり限定されます。ふつう、ドローイングというと、開放みたいな意識を伴っていて、常日頃はガチガチにコントロールしている意識(描線に対する意識)を解き放って、自由に、ストロークのままに描いてみよう……というようなやり方が多いように思うのですが……

このアラクネシリーズの描き方はまさに真逆……というか、かなり異なっていて、最初に、自分で、「規則」というか、法則を定めます。これはまさに「インスティテユーション」、「ゲゼッツ」であって、憲法のように問答無用に全体を縛る規則。これを、最初に定めてしまいます。

で、あとはこの「憲法」に沿って線をひたすら描いていくだけなんですが……その過程で、さまざまな「ドラマ」が起こる。で、そこに起こるドラマは、かなりの部分、人が意図したものというより、「線の意志」つまり、それまで描いてきた線の「積分効果」が必然的にもたらすもののように思えます。

つまり……線は、人の自由をなかなか許さないところがあって、それは、それまで積み重ねてきた「線自体の意志」みたいなものがかなり強く効いている。私はいつも、ライプニッツの「充足理由律」のことを考えるのですが……ものごとが発生するためには、「充分な理由がなければならない」というアレですね。

以前、本で読んだときには、この「充足理由律」は、「同一律」や「排中律」に比べると、なんとなく論理的な厳密性が薄いように感じました。今でもその点は変わらないんですが……ただ、このアラクネを描いていると、「充足理由律」が単に論理的要請ではなくて、実は、かなりプラグマチックな次元での、強制力の強い要請であったことが、指先感覚でわかってきます。

うーん……こういう風にやりたいんだけどなあ……と思っても、やっぱりできない。それまでの「線の積分」が、そういう放蕩を、人間には許さない……コレ、もうまさにカントの「自由意志」の問題なのかもしれない……もう、ほとんどの時間は、この「線の積分要請」によって、ただひたすら「線の意図」を一筆一筆実現させていくにすぎない奴隷の行程……

なんですが、やっぱり突然、「自由意志の噴出」みたいな瞬間もあって、そういうときはなぜか「天から降りてくる」感覚みたいなのがあります。オレは自由なんだ!という、突然牢屋の壁が崩れて「自由な野原」が出現したような……自由意志というのはふしぎで、それは、今までの系列には属さない。どこから来たのかもわからないような風来坊なんですが、それが、確実に世の中を変える。

しかし……後になってふりかえってみると……その「突然の自由」も、もしかしたら「線の積分」が生み出したものではなかったか……人間は、自分が「自由である」と思いこんでいろいろやって「どうだ!オレは自由だ……」と思うのですが、実は……この問題は、ちょっとカンタンに決着がつかないような気がする……

ということをやりながら、このアラクネ作品はできていきます。大部分は「線の思い」にしたがって……しかし突然、自由意志が乱入したり、またそれを収束しようという意志が働いたり……で、紙の書けるところがなくなるまで続いて、ハイ終わり。

で、できあがった全体を見てみると……いや、途中でも、ちょっと引いて見ると、そこには「形成していく線」がついに知ることのなかった「構造」が浮かびあがってくる。これが、このアラクネ作品の、一種の醍醐味といえばだいごみで、私が描くのをやめられない理由の一つでもある。線に支配された人生なんだけれど……でも、線には絶対に得ることのできない視覚を、私は持つことができる……

線は、形成されてしまった「ラコステ」を認識できるのだろうか……生成りの目の粗い細かいがつくる、あの心地よいパターンを楽しむことができるのだろうか……はたまた、網戸の揺れ、その微妙なゆらぎが全体にひびいていくそのわずかな感覚の差異を楽しむことができるのだろうか……

否、否。彼らにはできない。彼ら二次元生命体には、それは及びもつかぬこと……彼らは、私の手を、指をのっとって「自分の憲法から輩出されるパターン」を着実に描き出す。しかし、そのパターンに「意味」を見出し、そのゆらぎや美しさや異常……それを楽しむことができるのは、この私である。

ここは、やっぱりふしぎなものを感じます。以前に、二次元人間には三次元のことはわからない、とか三次元人間には四次元のことは……という話を聞いたけれど、その無味乾燥なセツメイが、このアラクネ作品においては、ホントにいのちの通った微妙なものとなってたち現われてくる……なぜ、こんなふしぎなことがあるのでしょうか……ホント、おもしろい……

やがてじぶんになるまどろみ/Drowsiness becoming oneself

ika's life_03_600
昔、「Ich bin Es」という絵を見ました。「私が、ソレである」という訳になるのでしょうか……ネットでさがしてみると……見つかりました。コレ → リンク です(いちばん上の絵)。

ルドルフ・ハウズナー(Rudolf Hausner)という絵描きさんが、1948年に描かれた絵のようです。

ハウズナー(1914 – 1995)は、オーストリアの画家で、いわゆる「ウィーン幻想(写実)派」( Wiener Schule des Phantastischen Realismus )の一人とされています。40年くらい前?に、日本でこの一派の大々的な展覧会があって、私は名古屋で見ましたが、昔の愛知県美術館の壁面いっぱいに、巨大な作品がいくつも、かかっていたのを思い出します。とにかく、デカくて細かい。よう描いたなあ……というのがそのときの印象……

ウィーン幻想派全体については、松田俊哉さんという方(国士舘大学文学部教育学科教授)の論文↓がわかりやすく解説してくれてます。ちなみに、この方自身、絵描きさんで、絵もとてもおもしろい。
リンク(ウィーン幻想派 その背景と5人の画家)
リンク(松田俊哉さんの作品ページ)

ハウズナー_900
Ich bin Es …… 英語では、I am it ということになるのかな? ドイツ語ー英語の翻訳サイトで見ると、It’s me というふうになっていましたが、この言葉は、元々、聖書に出てくるもののようです。しかも、特別な意味を持って。

たとえば……

マルコ福音書の14章62節。ユダの裏切りによって捕えられたイエスが、大祭司の前で裁かれるシーン。大祭司の、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」という問いに対して、イエスは、「わたしがそれである。」と答えます。

この部分、ギリシア語原文では、「egoo eimi.」(長母音ωをダブルオーで表現)、ラテン語訳は「Ego sum.」、英語訳は「I am.」、フランス語訳は「Je le suis.」そしてドイツ語訳では「Ich bin’s.」(Ich bin Es)となっています。

ギリシア語原文、ラテン語訳、そして英語訳には「es (it)」に相当する単語がなく、人称代名詞の一人称単数主格形とbe動詞の組み合わせ。これに対して、フランス語とドイツ語には、それぞれ suis と es が入ってます。

この言い回しがなぜ「特別」なのかというと……これは、どうやら「神が、自分自身を表わす」という特別の時に用いられる表現であるということのようです。「私が、それである。」つまり、わたしがキリストである……ということをみずから述べる、その決定的なシーンであると。

神は、「在りて在るもの」ともいわれますが、「存在」ということが、神のもっとも基本的な性質になってるみたいです。suis や es に相当する語を入れていないギリシア語、ラテン語、英語だと、一人称の人称代名詞 + be動詞 という構成は、そのまま「私はある」と訳せますが、この感覚だと思います。

私が、私として「在る」のは、なぜだろうか……カントの『純粋理性批判』を読んでいると「統覚」(Apperzeption)という言葉が出てきますが、この言葉を最初に用いたのは、どうもライプニッツのようで、手もとの哲学事典(平凡社)には、次のように書いてありました。

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明瞭なる知覚表象および経験を総合統一する作用の意味。この言葉を最初に用いたライプニッツによれば、知覚は世界を映すモナドの内的状態であり、統覚はモナドの内的状態の意識的な反映である。
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もうだいぶ以前に、作家の安部公房さんの講演会を聞いたことがあります。『箱男』という作品の書き下ろしのときだったので、40年くらい前かと思いますが……そのときの彼の話で印象に残ってるのが、「一人の人間の表現力」について話されたこと……

彼は、「一人の人間の表現力というのは、それはすさまじいものがある」というようなことを語った。言葉がこのとおりだったかどうかは自信ないのですが、たとえば、街で、だれかが絶叫したり暴れはじめたりする。それが、抑制のきかないものになれば、たった一人でも、ものすごいことになる……なんか、こんな内容だったと思います。

ふつうの暮らしでは、だれでもちゃんと抑制を効かせているので、社会の中の一メンバーとして嵌っているけれど、そういう人でも、ちゃんと「一人の人間としてのすさまじい表現力」というものを持っているんだ……なんか、こんなようなことを語られた。

その後……たとえば、秋葉原で人を車で轢きまくってナイフで刺しまくった事件とか、小学校でこどもを何人も殺した事件とか……そういう、「野蛮な」ニュースに出会うたびに、安部公房さんのあのときの語りを思いだします。おれが、オレが……この「鬼」が目覚めると、人は、「本当の鬼」になる……

安部公房_900
『箱男』は、ダンボールの大きな箱を頭からかぶって、箱の中に生活用品いっさいを吊るして、家もなく街をさまよう男の物語でしたが、今思うと、この「箱の中の世界」は、奇妙にモナドの様態と似ている気がします。「箱」が「内部」と「外部」を完全遮断していて、男の自我は、「箱の中の世界」そのもの……もっとも、この箱には、外界を覗くための「窓」が開けられていた。ここは、「窓を持たない」モナドと違う?

しかし、私は、この「窓」も含んで、なぜかモナドとの類似を感じてしまいます。箱の窓に映る「外界」は、本当に「外の世界」といえるのだろうか……

最近、TVで、「未来の車はこうなる」というのをやってました。それによると、自動運転はむろんのこと、未来の車には「窓」がなく、外の景色は、モニターを介して車内に映しだされる。乗ってる人は、あたかも車の窓から外の景色を見ているかのごとくなのだけれど……実は、それは、モニターに映った「外の景色の映像」なんだと……

見たとき、「アホらしい話……」と思いました。なんでわざわざ、外界そのものではなくモニターにせにゃならんのだ……なに考えとんじゃー最近の車の開発者は……と思ったのですが、ムム、待てよ……と。もしかしたら、これって、モナドのすばらしいアナロジーになってんじゃないのかなあ……

この車には、内部と外部があり、しかも、内部と外部を疎通させる「窓」がありません。車中の人は、車の内壁に映しだされた景色を、「あたかも外の景色そのもの」であるように眺める。で、車が動くと、景色も動く。そのさまは、車と外界が、「あたかも連動しているかのように」動く……

なるほど……もしかしたら、モナドってこんなふうなのか……これはたぶん、どっかオカシイとは思いますが、ちょっと超えてしまえばこういう発想にもなるかもしれない。でも、箱男は微妙です。

箱男のダンボールに開けられた「窓」は、彼自身がダンボールを切り取って開けた「物理的な窓」にほかならない。つまり、窓の部分だけ、ダンボールという物質が欠けていて、そこが内部と外部をつなぐ通路になっている……のですが、さて、はたして本当はどうなのか……

われわれの「目」も、そうだと思います。目は、皮膚の一部が長年の「進化」で変化してできたものだと言われていますが、水晶体というレンズで光を取り入れる段階で、すでに「外界の光景」そのものではなくなっている。しかもその上、眼球に入った光は網膜で電気信号に変換されて脳に送られる。ああ……もうこの時点で、実は、「外界の光」とはまったく縁が切れた、単なる「情報」になってしまっている。

この目の構造は、さきほどの「未来の車」ととてもよく似ています。どちらも、レンズという光に焦点を結ばせるものを用い、さらに光を電気信号に変換して演算処理装置に送る。人間では脳であり、車だとCPUになるのでしょうが、そこで演算処理された結果が、車であればモニターに映しだされ、人間では、脳内で「外界の映像」として認識される……

じゃあ、これをもっと進化させれば、車のCPUと人間の脳を直結して、映像信号が直接脳に送られるようにすればいいわけです。車内の壁をモニターにする必要もなくなり、真っ暗でいい。その方が、モナドのイメージにも近そう……

そういう意味では、われわれの肉体そのものも、一種のモナド的な機構で働いているのかもしれません。肉体の外側を覆う皮膚層でいろんな情報処理を行い、その結果が神経により脳に伝達される。脳は、自分は直接外界に触れていると思っているかもしれないけれど、実はそれは、「処理された外界の投影」にすぎない……

人間の肉体とか、未来の車みたいな高度な情報処理をまたなくても、この次第は、ダンボール一枚でも結局同じことなのかもしれない……安部公房の小説は、そんなことも考えさせてくれます。

ダンボールと、最新の科学技術による車内モニター装置、あるいは人間の目という高度な生物学的造形……それって、くらべものにならないじゃん!……と思ってしまうのは、われわれの思考自体が「高度病」というか「高級病」に冒されて、ものごとの本質が見えなくなっているからであって……「基底から」考えれば、もしかしたら、それはどっちも同じことかもしれません。

たった一枚のダンボールが、ものごとの本質から見れば高度な科学技術の成果や何億年の進化の結果と同じ……安部公房さんの「小説技術」は、ペンと紙だけでそういう「離れワザ」を実現してしまいます。うーん……やっぱり、小説家のスゴさって、こういうところにあるのかなあ……

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やがてじぶんになるまどろみ……なんですが、われわれは、自分で思ってる以上に、「自分になりきっている」のかもしれない。これは寝ているときもそうで、やはり「統覚」は失っていないのではないかと思います。ただ、起きているときとは違うかたちで働いているだけで……

人の脳は、いろんなものが湧き、通り過ぎ、交錯し、わけのわからないものがいっぱい生みだされる、一種の混沌なのかもしれません。ふだん、われわれは、制御棒をいっぱいさしこんでその働きを抑え、コントロールして「常識ある社会人」にふさわしい思考や行動様式となるように、いわば脳を飼いならし、ぎゅうぎゅうに抑制している。しかし、なにかのきっかけで、この制御棒が外れていったりすると……

それが、秋葉原やどこかの小学校みたいな悲惨な事件を起こすのかもしれない……統覚。これはふしぎな言葉だと思います。欧米語だとちょっと語感が違っていて、「a+perception」になる。perceptionの部分は「感覚」とか「知覚」で、「a」は接頭辞だと思いますが、この「a」の意味は、どっちだろう……

接頭辞「a」には2系統あって、ギリシア語からきている「a」は「not」の意味。これに対して、古代英語の「an」(現代英語の「on」に相当)からきている「a」は、「on」、「to」、「in」になるといいます。これで考えれば、「perception」を否定しているわけではないだろうから、やっぱり古代英語の「an」からきているのか……

この考え方からすると、「aperception」は、「知覚にのっかって」とか「知覚へとむかう」みたいな意味になるのでしょうか……先に挙げた哲学事典の、統覚とモナドの関連の記述では、『知覚は世界を映すモナドの内的状態であり、統覚はモナドの内的状態の意識的な反映』とありましたから、統覚、つまり「aperception」は、「世界を映すモナドの内的状態(perception)にのっかって、この内的状態を意識的に反映する」ということになるのでしょうか。

先の「未来の車」の例でいうなら、車内に映しだされたモニターの映像にのっかって、これを意識的に反映する……つまり、オレは、今、こういう「世界」のなかにおるのだ!ということを意識するということ……箱男の例でいえば、ダンボールに開けられた覗き窓に映る「外界」にのっかって、オレのまわりは今、こうなってて、その中に自分はおる!と思う、そのことなのか……

あるいはまた、目や皮膚といった情報伝達器官から送られた情報によって再構成された脳内イメージ(知覚)にのっかって、「オレは今、こういう世界に生きておる!」ということを意識するということなのか……

こういう感覚は、もしかしたらハイデガーのいう「世界内存在」(In-der-Welt-Sein)に近いのかもしれません。彼の表現だと、世界内存在は、タンスの中にモノがある……みたいなものとは根本的に違うんだと。世界に、シームレスに縫いあわされていて、世界そのもののシステムを構成する一部みたいになって、それでも「世界の中に」在る……そういうイメージなのでしょうか?

世界内存在_900
やがて、自分になるまどろみ……世界は、もしかしたら、じぶんがじぶんになっていく、それにあわせて世界が世界になっていく……そういうことかもしれない。世界中、こういう「まどろみ」に満ちていて、その中で、「統覚」がムクリと起きあがり、「オレだ……」とポッと萌えて、また無明のまどろみのなかに落ちていく……これだと、あまりに安上がりな妄想になってしまうのかもしれませんが、本当のところはどうなんでしょうか……

モナドの帰還/An Odyssey of monad

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一旦風邪になると、私の場合、一ヶ月くらい続きます。ノドが良くないので、咳とかがずうっと尾を引く……それでも、徐々に良くなっていくのですが……

一旦引いた風邪が直りかけて、でもなにかの拍子にぶりかえす……そのときのみじめさ……私のモナドが支配権を確立しかけていたのに、再び風邪のモナドに奪還される……まるでイスラム国との戦争ですが(イスラム国のみなさん、風邪に見立ててすんません……)、なんかそんな感じ。

病気って、なんでもそんなものかな……と思います。一年に何回か、こりゃ、ホントに調子いいぜ!と思える日があるんだけれど……そう思える日が年々少なくなっていく。これが、年をとるということなのか……

で、そういう「調子いい日」のことを思いだしてみると、自分が自分として、完全にまとまってる……そんな感じです。よし!今日はなんでもやれるぜ!という……でも、何時間かたつと疲れてきて、ああ、やっぱりアカンではないか……と。

昔、ある前衛アーティストに会ったときのこと。彼は、「自分は疲れない」と公言した。疲れるのは、どっかがオカシイんだ!と。その言葉どおり、彼は疲れなかった。

目の前で、「書」を書く(というか描く)のですが、何枚も、何枚も、延々と描く。それも、まったく同じスピードで。紙を傍らに大量に積み重ねておいて(300枚くらいあったかな)、パッと取って前に置いてササッと描いてハイ!次の紙……これを、機械のようにくりかえす。しかも、描く内容が毎回違う。

スピードが変わらないのが脅威でした。ふつう、人って、白い紙が前にあると、書きたいものが決まっていても、若干のインターバルがあってから筆を紙に降ろして書くもんですが……彼の場合、そのインターバルがゼロで、紙を置くと同時に描く。しかも、毎回違うものを。その動作を、機械のように正確にくりかえして、スピードがまったく落ちない。作品の大量生産……

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見ている方が疲れてきます……なるほど……前衛アーティストというものは、こういう特殊な訓練をみずからに課しているものなのか……感心しました。フツーじゃない……なんか、人間ではないものの行為を見ているようだった。

で、彼は疲れたかというと、全然そんなことはなく、前にもまして元気。行為が彼に、無限のエネルギーを与える。いわゆる、ポジティヴ・フィードバックというヤツですね。こういう人は、きっと死なないんじゃないか……そんな感さえ受けました。

死なないので有名なのが、ロシアの怪僧ラスプーチンさん。青酸カリを食わしても、頭を割ってもピストルで撃っても死なない。オソロシイ生命力……いったいどこが、われわれと違うんだろう……

ラスプーチンc_900
やっぱり、モナドの支配力がケタ違いに増強されている……そんなふうにしか感じられません。いったいどこから、その「支配力」を得ているんだろう??

でも、ライプニッツによれば、モナドそのものが「死ぬ」つまり消滅することはありえないのだから、それは、やっぱり相対的なものなのかもしれません。モナドは、「一挙に創造され」、「滅ぶときもやはり一度に滅ぶ」。

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(仏語原文)Ainsi on peut dire, que les Monades ne sauraient commencer ni finir, que tout d’un coup, c’est-à-dire elles ne sauraient commencer que par création, et finir que par annihilation; au lieu, que ce qui est composé, commence ou finit par parties.

(英訳)Thus it may be said that a Monad can only come into being or come to an end all at once; that is to say, it can come into being only by creation and come to an end only by annihilation, while that which is compound comes into being or comes to an end by parts.

日本語訳(河野与一訳)して見ると単子は生ずるにしても滅びるにしても一挙にする他ないと云ってもいい。言換へれば、創造によってしか生ぜず絶滅によってしか滅びない。ところが合成されたものは部分づつ生ずる、もしくは滅びる。(旧漢字は当用漢字にしてあります)
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つまり、部分的に、あるモナドが消滅し、別のモナドは残る……ということはありえないんだと。

これは、とてもおもしろい考え方だと思います。われわれは、どういうふうにしてかはわかりませんが、時のはじめ(神の創造時点)からずっと存在している。この宇宙のモナドはすべてそう。で、滅ぶときは一挙に滅ぶ。

われわれの肉体は、合成物なので……合成物のレベルだと、「この人は死んだ。でも、この人は生き残っている」ということはありえます。というか、それが当然の世界。しかし、「わたし」というモナドは、モナドである限り、「わたしだけがなくなる」ということが原理的にできない。もし「わたしがなくなる」ということが起こるなら、それは、「世界がなくなる」、つまり、すべてのモナドが消滅する……それ以外の方法ではありえない。

この論理は、原理的に否定不可能なものであるように思います。要するに、モナドは「一性」そのものであって、この「一性」が否定されるということは、原理的にありえない。なぜなら、「一性」は、普遍中の普遍、最大の普遍であるから……

したがって、もし、私というモナドが消滅することがあるとするなら、それは「一性」そのものが否定されるという事態が発生したということで、そういうことになれば、わたし以外の「一性」、すなわち他のモナドの存在も、すべて否定されざるをえない。「最大の普遍」というところから、かならずそうなる。

これって、「死」というものに対する、いちばん合理的な答だと思います。私が今まで知る範囲では……というか、これ以上明解な答はありえないなあ……これは、論理的に、どう考えてもくつがえせない。

つまり、「死」は、肉体という合成物が否定されるということで、この否定は合成物のレベルで起こるものであり、モナドのレベルではない。したがって、モナドの「一性」は、まったく否定されていない。だから、「肉体の死」は、個別に起こる。あの人は死んだけれど、この人はまだ生きている……という具合に。

ただ……ライプニッツは、宇宙のすべてのモナドは、一挙に創造され、いっぺんに死滅する……と言ってるんですが、その「宇宙」の範囲が、問題になるとすれば、唯一問題になるんだと思います。「宇宙」って、どこまでなの?……ライプニッツの時代においては、「宇宙」はすなわち「世界」のことであって、これは即、「神が創造された世界」ということになる。

しかし、現代においては、「宇宙」概念はかなり違ってきていると思います。今の科学では、地球 ー 太陽系 ー 銀河系 ー 小宇宙群 ― 大宇宙……となって、「宇宙」といえば最後の「大宇宙」をさす。まあ、これが一般的な受け取り方ではないでしょうか。

しかし、私は、ここに、「人間は、地球から出られないのではないか?」という問題が、どこまでもついてまわるような気がします。この問題は、前にも取りあげましたが……「え?人類は、もう月にも降り立っているんじゃないの?」ということなんですが、でも、ホントにホントにそう、なのかな……??

アポロ11のアームストロング船長が月面に着地したとき(小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩、と言ったアレ)、彼は、「宇宙服」を着ていました……当然じゃん! なんで、そんなことをモンダイにするの? と笑われそうですが、私はこれは、大きな問題だと思う。

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アームストロングさんは、自分の素足で、月面を踏んだのではなかったのでした……当然のことながら、宇宙服の内部は、「地球環境」になっています。そうでないと、彼は死ぬ。要するに、アームストロングさんは、「地球環境を着て」、もっというなら、「地球を着て」、月面に降り立った。だから、「宇宙服」という名称は、本当は正しくなくて、「地球服」というべきでしょう。

それって、リクツじゃん!と言われるかもしれません。でも、われわれの肉体は、地球からできている。地球のものを食べ、地球の空気を吸い、地球の水を飲んで……その、一時的な結実の連鎖として、われわれの肉体というものがある。これを考えるとき、われわれの肉体という「合成物」は、実は「地球」という惑星の一部……どころか、地球という惑星そのものであると考えざるをえません。

そう考えるとき、われわれは、この肉体として生きているかぎり、原理的に「地球の外に出る」ということが不可能だ……地球の一部であり、地球そのものでもあるものが、地球という範囲を離れるということ、それ以外のものになるということは、原理的な矛盾にほかならないからです。もし、地球以外のものになってしまえば、われわれの肉体は、その本質を失ってしまうということになる。

では、わたしというモナド、はどうなんだろう……ライプニッツの時代においては、漠然と、宇宙と世界は同じであって、それが地球という範囲を出るか否か……そういう議論も、意味のあるものとしては成立しえなかったように思います。しかし……アポロ以後のわれわれにとっては、これは重大なモンダイとなる。

結論からいうなら……私は、わたしというモナドは、地球という最大のモナドの範囲を出ることができない……そう思います。要するに、私は、今の状況としては、「外界を知る」ためには、私の今の肉体を媒介とする以外にありません。しかし、今の私の肉体が地球から出ることができない……つまり、「地球限定」である以上、わたしというモナドも、やはり地球限定、つまり、地球の範囲を出ることができない。

思惟、思弁では、私は、いくらでも「地球の外」に出ることができる。しかしいったん、延長の世界、かたちや大きさがある世界においてモノを考えるということになりますと、結局、わたしは「私の肉体」を媒介として考えざるをえなくなり、そうすると、結局、世界……考えうる最大の範囲は「地球」であるということになる。

ここは、もう明確だと思います。モナドには「窓」がないので、本質的な「外界」というものはありえない。しかし……延長の世界、かたちも大きさもある世界において、延長の世界に対する「支配力」を用いて相互に「自己表出」を行うことにより、モナド相互の「交通」は可能となる。より正確にいうなら、「交通が可能となったかのような状態を現出しえる」。

ライプニッツは、すべて「宇宙単位」でものごとを考えましたが、この「単位」が、今のようなリクツで、本当は「地球限定」だったら……彼の論理は、この地球上のモナドは、すべて一挙に創られ、そして滅ぶときには一挙に滅ぶ……ということになる。そして、私は、これが、この地球という星が、一つの単位としてこの「宇宙」に存在する、その根源的な理由であるような気がします。

私というモナドからはじきとばされた「風邪のモナド」は、しかし、この地球から飛びだしたワケではなく……周回軌道を描いてまた戻ってくる……それが、私に戻るのかどうかはわかりませんが……というか、ソレはイヤなんですが、そういうことになるのかもしれない。

この地球のものは、すべて、この地球から脱出することはできない……太陽系を超えてどっかにいっちゃったように見える人工衛星でも……というか、原理的にそう。地球のものは、その本質からいって、地球から脱出することはできない……

これは、「限定」なのかもしれないけれど、それゆえに、もしかしたらこの「地球」という世界が成立している。しかし……

さらにもしかしたら、原子核の中の世界は違うのかもしれません……まあ、妄想と思われてもしかたありませんが、この物質の世界は、原子核の中で「抜けて」いるように感じられます……ということで、正月早々、モナドな妄想で失礼しました……。

モナドの波/Monad as wave.

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ライプニッツの『モナドロジー』にある、有名な言葉。『モナドには、そこを通じてなにかが出たり入ったりできるような窓がない。』

Les Monades n’ont point de fenêtres, par lesquelles quelque chose y puisse entrer ou sortir.
(The Monads have no windows, through which anything could come in or go out.)

そりゃ、そうだと思います。モナドというのは、ギリシア語のモナス(1という意味)から来ていて、単一性そのものを現わす言葉だから。

もし、モナドに窓があって、そこからなにかが出たり入ったりする……ということになりますと、「単一性」は崩壊します。つまり「自分とちがうもの」が自分の中に入ってきたり、「自分」が自分の外に出ていったり……これを許せば、「単一性」という概念自体が無意味になる。

では、モナドは、他のモナドといっさい「交流」はできないんだろうか……いろいろ考えていくうちに、モナドを「波」として考えれば、これは可能ではないかということに思いあたりました。

ヒントは、先にノーベル賞を受賞された梶田先生の研究。ニュートリノ振動……でしたっけ、μニュートリノが、いつのまにかτニュートリノになり、またμニュートリノにもどり……このふしぎな現象を説明するためには、ニュートリノが基本的に、3種の波の組み合わせでできていると考えるほかないというお話……(リンク

つまり、3種の波の振動がうなりを生じ、そのうなりの各部分が、μニュートリノに見えたり、τニュートリノに見えたりするという解釈……なるほど、これだ!と思いました。

モナドも波であると考えるなら、モナドは究極の単一体であるから、単一の周波数しか持っていないはずです。もし、複数の波の集合体であるとするなら、それは、モナドが複合体であるということになって、モナドの定義自体に反してしまうから。だから、一つのモナドは、それに固有の振動数しかない「一つの波」であるはず。

波の世界では、固有の振動数をそれぞれ持つ複数の波が合成されると、全体の波形は、個々の波の波形とは当然異なってきますが……にもかかわらず、その中においても、「個々の波形」はきちんと保全されており、「全体の波形」は、「個々の波形」の複合に分解できるといいます。これを、数学的には「フーリエ解析」と呼ぶときいたことがありますが……(リンク

名称はともかく、合成されたときにはその波形が元の個々の波の波形とまったく違うものになったとしても、その中には個々の波の波形がそっくり保全されていて、また分解すれば個々の波に戻る……そうであるとすれば、個々の波は、結局、他の波からまったく影響を受けていないことになる。

これは、まったくモナド的な現象だと思います。要するに、「固有性」というものは、いかにしても破壊できない……モナドには窓がないから当然そうなのですが、しかしモナドを「波」と考えるなら、固有性を完全に保ちながらも、他のモナドと「合わさること」ができる……これは、おもしろいと思います。

ライプニッツによると、モナドは、「自然の本当の原子」であるとのこと。たしかに、物理学の「原子」は、アチラ語では「atom」で、これは、「a-tom」、すなわち「できないよー切断」という意味なんだと。それ以上分解できないもの……そういう意味だったんですが、あっという間に分解されて、原子核と電子に……

で、その原子核というのがまた分解されて陽子と中性子に……じゃあ、「本当の原子」というのは陽子、中性子、電子の三つだったのか……というと、それがそうではなく「クォーク」と「レプトン」という究極の素粒子からできているんだと……ということで、どうやらこのゲームは「キリがない」みたいです。つまり、自然科学の方法で「本当の原子」を求めるというのは、その方法自体がもしかしたらアヤシイのではないかと……

理系じゃないのでそれ以上はわかりませんが……でも、ライプニッツの「モナド」はわかります。要するに「モナド」は大きさを持たない。つまり「延長」という属性には無関係に存在する。「延長」という属性を入れてしまうと、分解して、分解して、それをまた分解して……というふうに際限なく続きますが、「大きさを持たない」ということであれば、そういうかたちでの分解はできません。

しかし、「大きさを持たない」ということでも、「振動はする」ということは可能だと思います。「振動」ということを、どういうふうに考えるか……ですが、振動という概念は、「延長」という概念と不即不離というわけではないでしょうから、「大きさをもたないけれど振動はする」というものは、十分に考えることはできると思う。

とすれば、それぞれに固有の振動数で振動する波である一つ一つのモナドが、相互に「影響しあって」、あるいは「影響しあうようにみせかけて」、その全体が合成された「相互影響合成振動」みたいなものを考ええることも可能ではないか……つまり、モナドは、窓は持たないけれど、固有振動を合成することによって、ある一つの「場」を共有することが可能になるのではないだろうか……

ということで、ここから話は突然とびます。エヴィデンスのまったくない話で恐縮ですが、私は、このモナドの共有する場の最大のものが、この惑星地球ではないか……そういうふうに「飛躍して」思ってしまうのでした。

ライプニッツは、「モナドの支配」ということを言ってます。つまり、私が、私の肉体をもって日々生活できているのは、私というモナドが、私の肉体を構成している他の無数のモナド(細胞や、細胞内の要素もすべてモナド)を支配しているからだと。このことは、以前(リンク)に書いたとおりです。

なるほど……こう考えれば、生も死も、とても理解しやすくなる。「生」というのは、私が他のモナドを支配して、自分の肉体を保持している状態。これにたいして「死」は、私が他のモナドに対する「支配権」をすべて喪失して、元々の「自分」という一つのモナドだけの状態に戻っていく過程……

ライプニッツは、「死は急激な縮退」と言ってる(これも、前に書きました)。つまり、それまでたくさんの他のモナドを支配してきた力が急速に緩んで、しゅしゅしゅ……と、自分のモナドの中に縮まっていく状態……これは、今まで私が聞いてきたいろんな「死の解説」の中で、もっともなっとくできる説だ……

これをさきほどの波の話にしますと……ともかく、「自分のモナド」がなぜか中心になって、他のおびただしいモナドの波の全体を「指揮している」……そんなイメージが浮かびます。

オケの指揮者は、メンバーとしては他の団員と同じく「一人の人間」なんだけれど、にもかかわらず演奏においては、他の団員は全員彼に従い、「一つの合成された波」を形成する……

で、演奏が終わると、指揮者もメンバーも、すうっとそれぞれの人間に戻る。音楽が演奏されている間だけは、彼らは指揮者を中心に一体となっていたわけですが、しかし演奏が終わってからも……たとえば、メンバーの肉体どうしがくっついて離れないということはない。ちゃんと肉体としては一人一人別々……そんな感じなのでしょうか。

だから、私の肉体というのは、実は、ものすごくたくさんのモナドたちが、私という指揮者の元に、それぞれの固有の振動数を合わせて、全体で「私」という一つの音楽を奏でている……そう考えればわかりやすい。私の肉体というのは、一つの「場」になっている……

これは、すべての生命においてそうなんですね。動物も植物も……しかし「全体」ということで考えると、その境がよくわからないようなものもある。これが、石や岩、土、水、空気……みたいになると、ますますわからない……でも、それらを総合して総合して、さらに総合していくと、最終的には「地球」といういちばん大きな「場」にたどりつきます。

人間の想像力というのは、実はアヤシイもので、概念を少しずつ膨らませていくうちに、いつのまにかそこに「架空」というエアーが入ってしまう。

たとえば、私にとっては、「私の肉体」は、まあ、「架空」が入りこむ余地がかなり少ない「現実存在」なのかもしれない。ではしかし、「他の人の肉体」というのはどうなんだろう……アチラの人は、よく握手したりハグしたりしますが……

これは、「肉体の確認」みたいなことなのでしょうか。オマエもオレと同じ肉体を持っておるな……と。まあその証拠に、人間以外の動物と握手することは少ないし(ハグはあるけど)、植物と握手している人は、私は見たことがない。岩や水や空気との握手……は、ちょっと考えにくい(岩のハグくらいはあるかもしれない)。

実体感覚でわかるもの……から遠ざかっていけばいくほど、そこには、アタマで考えただけのもの、つまり「架空」が入りこんでくる。しかも、人間のおもしろいところは、その「架空」をなんの検証もなしに「現実」だと思いこんでしまうところ……おそらく、人の社会は、こういった「架空の合成」によって成り立っているのでしょうが、これはよく考えれば、とてもふしぎなことです。

なので……言葉で「地球」とか言った場合、そこには、もうおびただしい「架空」が入りこんでいる。

だれも、本当の「地球の姿」なんか知らないのに、なぜか知っているような錯覚に陥って、いろいろ環境問題とか資源問題とか論じている……ちょっと引いて考えれば、とてもオカシイ空しいことを、なぜか真剣に議論しているわけです。

なので、この論はこれくらいにしたいと思いますが……物理学で、粒子か波動かということが問題にされたり、振動する超弦理論みたいなものができたり……ということで、モナドも波の性質を持っているとしても、おかしくはない気がします。

ライプニッツは、一つのモナドは、宇宙全体のモナドのすべてを反映するということを言ってますが、モナドが波であれば、それもふしぎではない。ただ、やっぱり「宇宙」というのがひっかかるのであって、私は、ここはやっぱり「地球」だと思うのです。ふしぎなことに。

風邪をひきました/I caught a cold.

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風邪をひきました。

年にいっぺんくらいひく風邪を、モナドで考えてみると……

私というモナドは、通常は、私の身体を構成するおびただしい数のモナドたちを、だいたい「支配」しています。まあ、「支配」という言い方が悪ければ、コントロール、「制御」といいかえてもいいけれど……

言い方はなんにせよ、「私」というモナドは、私の身体を構成するモナド群を、自分の意のままに機能させている。まあ、不随意筋とかありますが、とりあえず「私」がうまく機能するようにもっていってます。

ところが、風邪をひくと……一部のモナドが、私の支配下を脱するようになる……というか、「私」というモナドの支配から、私の身体のモナドが部分的に「支配」を逃れていく……その現象を、「風邪」とよんでもいいのかもしれません。

ということは、これは、風邪に限らず、すべてにおいてなのですが……いろんな病気やケガは、それまで「私」というモナドに統御されていた私の身体のモナドたちが、部分的に、「私の支配」から逃れてしまう現象ということができると思います。

そして……私の身体のモナドのすべてが、「私」の支配から逸脱してしまった状態……それが、死。

ライプニッツは、死を、「急激な縮退」といってたと思いますが……これはつまり、「私」というモナドが、自分の範囲を大幅に越えて、他の数多くのモナドたちを支配して、「私の身体」として動かしていた状態から、すべてが急激に縮退して、私は他のモナドたちに対する支配権を一挙に失い、元々の自分というモナドだけの状態に縮んでいく……そのことを現わしている。

これは、おもしろい考え方だと思います。まあ、通常でも、私は、私の身体の中に私ではないものをとりこみ(同化)、同時に、これまで私の身体であったものを自分の外に排出する(異化)。この同化と異化が常に進行するプロセスにおいて、「私」という現象が成立している。

この、同化と異化は、通常はふしぎにバランスがとれていて、それを私は「正常」、つまり健康な状態と感じるのかもしれませんが……そのバランスが崩れて、それが「私」に認識されるようになると、私は「ン?ちょっと具合が悪いなあ……」と感じる。

今回の風邪は、ノドの一点に突然生じた痛みからはじまりました。

仕事中に、突然、ノドの一点がピキン!と痛くなった。

やばいなあ……と思って、これがコレ以上広がりませんように……と祈る気持ちで仕事を続けたんですが……痛みは、予想どおり?に拡大して、その日の夕方にはノド全体の痛みに……それでも、翌日まではなんとか持ちましたが、次の日にはダウン。まる2日間寝こみ、その影響は今もなお尾をひいてます。

こういう、病気やケガによって、私は、私というモナドが、私という「大帝国」の支配者であったことに気がつく。

人は、まず最低限は「自分の身体」というモナド群の支配者としてこの世界に君臨する。

これは、どんなに力の弱い人でも、こどもでも赤ん坊でもそう。胎児のうちからそうです。

自分のモナド以外に、支配するモナドを一つ以上持つこと。
これが、「私」が「この世界」に出現するための、最低限の原理となる。

テロなんかで、よく「罪のない人々が犠牲に……」とか言いますが、「罪がない」なんてトンデモない。自分以外のモナドを、しかもおびただしい数のモナドを、「自分の身体」として支配している絶対権力者、皇帝だ……

人は、そういう「罪深い」状態から、「死」によって、はじめて開放されます。

以上は、「私の身体」にかんしてのことですが、「モナドの支配」は身体だけでは終わらない。

「支配」を、自分の身体以上のものに及ぼしていく……生きものの生き方というのは、必然的にそういう傾向にある。

特に、人間はスゴイ。

財産、権力、精神的な支配……

オソロシイ……

今のこの世界は、なぜか「支配」という様式が、モナド間の交通の基盤になっていってるみたいですが……

どこかの世界には、別の、もっと紳士的なモナド間の交通の様式があるのでしょうか……

交換価値のある世界/The exchangeability

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この項は、『1700万円のアイスクリーム』(リンク)の続き(リンク)の続きです。

ライプニッツのモナドは、『窓を持たない。』これは、本来モナドというものは、他者との交流が存在しない存在であるということ……こういうふうにしか解釈できません。しかし、現実のこの世界では、われわれは、いろんなモノ、いろんなヒトと「交流」しつつ生きています。これはいったい、どういうことなんだろうか……

私が、私であること、だれかがだれかであること、そしてなにかがなにかであること……「モナド」は、この「一性」を保証するものであって、「……であること」そのものだと思います。しかし、これと「他との交流」は、根本的に矛盾する。私の中に「他者」が入ってきた場合、つまり、モナドに「そこを通じてなにかが出入りする窓があった場合」……

私の「一性」は崩れ、私は、私なのか、それとも流入してきた「他者」なのか、わからなくなる……するとこの世界は、すべてが混沌として、今みられるような、私が私であること、だれかがだれかであること、そして、なにかがなにかであること……そのすべてが混交して、完全なカオスだけがある「全体=一者」とならざるをえない。

アイスクリームが1700万円であること、あるいは300円であること……今の私たちにとっては、その差、つまり1699万9700円は、まことに大きな開きに見えますが、もしモナドに「窓」があったとしたら、1700万円も300円も、どっちでも一緒にになってしまう。すなわち、アイスクリーム一個が1700万円で流通する市場も、300円で流通する市場も同じ……

ということは、「市場」そのものが成立しないことになる……なにを極論を言ってるの?と思われるかもしれませんが、ある一定の「市場」が成立するためには、「私」という「一性」、これを、人間(のモナド)一人一人が具えている必然性がある。そうしないと、アイスクリーム一個のお値段が「市場」で決まることはないでしょう。

私は、以前は、こういう社会経済の問題が苦手で、個としての自分は、いったいなんだろうか……ということにばかり関心が向かっていました。個としての自分の謎……それにくらべれば、社会や経済の問題など、とるにたらないのではないか……ダレが貧しかろうが、ダレが儲けておろうが、そんなことは人間の「我欲」の問題で、「真理」からすればとりあげるに値しない……

しかし、このライプニッツのモナド論に含まれる根源的な矛盾、すなわち、「個であるモナドが、他と交流できるのはなぜか?」という疑問につきあたってからは、もしかしたら、社会経済的な問題というのは、根源的に、「個である自分と他者」の関連に帰着するのではないか……と思うようになってきた。そうすると、ここのところはけっして無視なんかできない大問題だ……

動物はどうなんだろうか……猫なんかを見ていると、もしかしたら人間ほど「自分」と「他者」の区別はないんじゃなかろうか……とも思えてくる。猫になったことがないのでわかりませんが、人間が猫を見ていて、一匹一匹の猫が「分かれて」見えるほどには、猫にとって、自分という猫と他の猫、さらにいうなら、自分をとりまく環境全体は、分かれては認識されていないのでは……

私は、この問題と、「人間だけが市場をつくる」という問題が、どうも不可分のように思えてきました。猫は、交換経済を知らない。他の猫となにかを交換することによって、自分の暮らしを成立させていくということをやりません。しかし、人間はやる。なぜだろう……人間の社会では、どんな世界のすみずみまでも、「交換経済」が行われ、さまざまな「市場」ができあがっていく……

「原始」とか「未開」とかの社会はしりませんが、必ずそれは生まれてくるのではないだろうか……そして、その「市場」がいったん生まれてしまえば、それは、「為替」というマジックによって、一瞬にして「世界全体」に開かれてしまう……これが、今の世界の根源的なありようのように思います。モナドの窓……これは今もないのでしょうが、あたかもあるかのように……

人間というのは、やっぱりふしぎな存在だと思います。猫が「交換経済」を編み出して、世界中の猫と、「市場」を介してつながっていく……こんなことは、考えることも難しい。しかし、たとえば一匹の「蚊」はどうなんだろう……と考えると、これは、なぜか猫より難しいように思えます。「蚊の交換経済」……もし、そういうものがありえるとしたら……

蚊の世界の「貨幣」は、動物の「生き血」になるんだろうか……ドラキュラみたいな「血を吸ういきもの」の世界では、貨幣が「生き血」になることは十分に考えられます。最近公開された映画で『ジュピター』(原題は『ジュピターアセンディング』)というのがありましたが、あの中では、「人間」を収穫して、「命の水」を搾り取り……その「命の水」を貨幣として取引していた……

しかし、蚊を見ていると、「生き血」を貨幣として「市場」を成立させているようには見えないし、猫を見ていても、マタタビを貨幣としているようにも見えません。なにかを「貨幣」として、交換経済を行って「市場」を成立させているのは、おそらくこの地球では、人間だけなんでしょう。とすると、「ヒトのモナド」は、他の存在のモナドと、なにかがちがっているのか……

身体性ということに着目するなら、猫や蚊は、その身体性において、「他者との交流」を行っているように見える。この点は、ヒトもまったく一緒で、なにかを食べて「同化」し、また「異化」して排泄する……呼吸もそうだし、なにか精神的なものさえそのように見えてきます。脳のシナプスは、外界の刺激を受けて組み立てられ、組み直されていく……

しかし、人間の場合には、やっぱりそこに「市場経済」というのが必ず介入する。自給自足という概念があって、最近ちょっとはやりですが……これは、端的にいうなら「市場の否定」であって、これを究極的に実践するということは、「意識してモナドの窓を閉じる」ということになると思います。というか、モナドにはもともと「窓」はないから、「モナドに窓がないということを、どこまでも意識する」ということにほかならない……

日本の江戸期の「鎖国」政策を考えてみますと、あそこでは、日本という島国の中では、「ほぼ自給自足」が成立していた。しかし、日本の中ではやっぱり「市場」が形成されて、いろんな取引がありました。そういう意味では、あれは根源的な「自給自足」とはいえない。じゃあ、ホントの自給自足ってなんだろう……と考えてみると、これは、とても難しいんじゃないかと。

あるTV番組で、瀬戸内の島を買って「自給自足」をやってる人(タレントさん)を紹介していました。でも、太陽電池パネルは反則ですね。工業製品だし……そのほかにも、いろいろ工業製品を使っている。だいたい、島に渡る船だって、だれかが造ったものを買っているわけだし……「市場」の網からは逃れていない。

そもそも「自給自足」をやろうと思った時点で、これは「市場」を意識しているから「負け」だと思います。それより、もしかしたらホームレス生活の方が「自給自足」に近いんじゃないかなあ……やったことがないからわかりませんが、人間がつくりだす「市場」から外れる、外れない……は、もしかしたら、「意識」の問題なのかもしれません。

人のモナドは、なぜか、「他者との交流」に「市場をつくる」道を選択する。これは、おそらく世界のどこでもそうで、この「市場をつくる」という働きが、もしかしたら「人間であること」そのものなのかもしれない……もし、世界に、自分という人間ひとりしかいなかったら、当然「市場」をつくることはできない。要するに、自分以外の他者には、そういう「ヘンなこと」をするヤツがいないから……

では、自分と、もう一人の人間「他者」がいた場合はどうなのか……自然から「取って」きたものを、互いに「交換」するということはありえるでしょう。でも、それを「市場」といえるのか……といえば、ちょっとムリがあるような気がします。まあ、「相場」をつくろうと思えばつくれないことはないのでしょうが、でも、二人だけの「相場」は、はたして「相場」といえるんだろうか……

じゃあ、3人では? 4人では? ということになるんですが、こういう設定もあんまり意味がないのかもしれません。要は、人間と、他のいきものは、いったいどこがどう違うんだろう……ということで、そこは、もしかしたら「普遍」意識がからむのかもしれないと思います。つまり、自分と自分に接するまわりだけで世界が成立しているのではない……という意識なのかな?

これは、もしかしたら想像力なのかもしれませんが……目の前で、リンゴが樹から落ちる……いや、私はまだ、リンゴが樹から落ちる光景を見たことがないから、棚からボタモチが落ちる……とでもしましょう。うちの棚からボタモチが落ちれば、当然、よその家の棚からもボタモチが落ちるだろう……これは想像力ですが、自分とこだけじゃなくてよそも……というのが「普遍」意識の萌芽かも。

「市場」は、この「普遍」意識と密接に関連すると思います。一つの市場で、AさんがBさんにCという品物を100円で売ったとしたら、Aさんは、Dさんにも同じ品物を100円で売らなければならない。これが普遍的な交換価値であって、人によって200円になったり50円になったりするんでは「市場」は成立しない。やっぱり、これを担保するのは「普遍」意識なのでしょう。

ところが、この品物を別の市場に持っていったら、10円になった……あるいは1000円になった……こういうことは、よくあることだと思います。市場は閉じていて、その中だけで「普遍」が成立する。そして、市場には、モナドと違って「窓」があって、それは「おカネ」自体の交換価値を決定する為替の働き……ここらへんになるとよくわかりませんが、たぶんそういうことでしょう。

では、人間以外の動物に、なぜ「市場」がないのか……といえば、それは、やはり、彼らには、「普遍」意識がないからなのでしょう。「普遍」意識はとてもふしぎなもので、本当に存在するのは今、ここにあるモノだけなのに、想像力で「世界」とか「歴史」とかを編み出してしまいます。そして、いったん編み出された「世界」や「歴史」は、あたかも「今、ここ」の「上に」君臨するかのように意識される。

ライプニッツは、「モナドの支配」ということを言っています。これを私の理解で言うと、たとえば、私自身もモナドだけれど、私の身体をつくっている60兆の細胞の一つ一つもモナドである。しかし、私という一つのモナドが「歩くぞ!」と思えば、その60兆のモナドすべてが「私が歩く」に奉仕する。このとき、私という一つのモナドは、60兆のモナドを支配している……

単純な解釈かもしれませんが、そんなように思います。まあ、実際には、一つの細胞を構成しているいろんな要素も一つ一つがモナドだから、60兆のモナドの支配だけで終わるわけはなく、さらにその何兆倍、何十兆倍のモナドを支配する……生命は、みな、こういうふうに、一定期間他のモナドを支配する体勢を与えられているから、まとまった「個体」に見えるし、「個体」としてふるまう。

しかし、通常は、私というモナドに、全身の細胞60兆のモナドを支配しているぞ!という意識はありません。これは私だけじゃなくておそらくどの人もそうだし、どんな生き物でもそうでしょう。まあ「食べる」という行為自体、「他のモナド」を自分に組み込んで「支配するぞ」という宣言になっているわけだし……でも、そのことは意識せず、「うまい、うまい!」と言って食べてます。

しかし、人間が、「普遍」を意識したとき……少し様相は変わると思います。人の目は、人の心は、眼前の「生の現実」から離れて漂いはじめ、「今、ここ」にはない世界へと心が開かれていく……これは、もしかしたら「モナドの窓」が開いたのか……なんて思うんですが、たぶんそういうことはない。なぜなら、モナドに窓はないから……にもかかわらず、ないはずの窓が開く。これはふしぎなことだ……

人が「市場」をつくりだしてしまうのは、もしかしたら、ないはずのモナドの窓が「普遍」意識によって開いてしまったとき、それでもなお「統覚」を保持するために「普遍意識」自体を囲い込みに出る……その働きによるのかもしれないと思います。わかりませんが、「市場」の囲い込む性質を考えてみるとき、なぜかそういう気持ちになる。檻から放たれた獣の不安……

とりあえず、今私に考えられるのはここまでなのですが、この問題は、人の「個」であることと「社会的存在」であることをつなぐねじれた糸のようなもの……吉本隆明さんの言うように、「個である私」と「社会」は常に倒立関係にあるものだとすれば、それはやはり、モナドの持っている根源的性質であり、畢竟、それは、モナドの「一性」に還元できるものなのかもしれません。

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今日のkooga:ハスの鉢の宇宙/Lotus of pond of universe

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うちの前に置いてあるハスを植えた大きな鉢にも秋がきました。
忙しいので、あんまり世話をしていない……ので、そのまま、鉢の中の秋が、濃くなっていきます。
見ていると、ライプニッツの言葉が浮かんできました。

『物質の各部分は植物が一面に生えている庭や魚がいつぱい入っている池のやうなものだと考へることができる。而もその植物の枝やその動物の肢体やその水の滴の一つ一つが又さういふ庭でありもしくは池である。』(河野与一訳)

これは、『モナドロジー』の中の一節ですが、当時、顕微鏡が普及して、「ミクロの世界」が見えるようになったのが影響している……とも言われている有名な箇所です。世界は、無限の入れ子細工になっていて、どこまでいってもまだその先に「世界」がある……この「鉢の中の世界」も、そういう意味では「無限」なのかもしれません。

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モノの究極ってなんだろう……「原子論」の世界なのかもしれないけれど、モノは分子でできていて、分子は原子でできていて、原子はそれ以上分解できない素粒子から成っている……と考える現代科学の階層的な考え方とはかなり違う見方が、ここにはあるような気がします。

バロック?といえばそうなんでしょうが、仏教にも同じような考え方があったような……ただ、これは、マトリョーシカみたいな単純な「入れ子構造」というのではなくて、もっと、モノの本質にかかわるあり方のような気がする。しかもそれは、「観察者の存在」がそこに大きくカンケイするような……

というか、モノを観察しているようで、実は、観察している自分も観察する。モノの世界のあり方というのは、本来そういう複雑な関連を除いてありえない。そして、そのすべては、大きく「地球」という惑星に収斂されていくのではなかろうか……「宇宙」ではなく「地球」。そして、私自身。

そういう意味では、「ハスの鉢の宇宙」ではなく、「ハスの鉢の地球」なのかもしれない。そして、「ハスの池の私」。Lotus of pond of the earth. Lotus of pond of myself. この文章が、英語として意味を持つのかどうかはわかりませんが、「universe」つまり「一韻」というのは、バロック的ではないなあ……

別に、バロックである必要はないんですが、この「ハスの鉢の中……」を眺めていると、やっぱりバロックだなあと思ってしまいます。別に、一つの価値観に統制される必要はないのではないか……いろんなものが混ざりあっていて、それぞれにまた、その中にいろんなものが……

とりあえず、この混沌を統一的に見せているのが「鉢」であって、それを統一的に見るのが「私」……「統覚」の問題も関連するのかもしれませんが、この鉢が割れてしまえば、この中の宇宙も消滅する。私が壊れてしまえば、やっぱり「宇宙も」?いや、それはないでしょう。

というのは、「私」は「宇宙」に属するものであり、「私の身体」は「地球」に属するもの……なのだからでしょうか?「身体」は壊れて「地球」に戻ることができるかもしれないけれど(日々壊れて戻りつつあるけれど)、「私」は壊れることができない……この統覚のふしぎ……

というか、モナドのふしぎ……ライプニッツは、「モナドは本当の原子」だと言った。この「本当の原子」って、どういう意味だろう……見ているうちに、空は曇ってきて、このふしぎな「ハスの鉢の世界」も輝きを失い、「灰色のモノ」の世界に戻っていったのでした。

パクリンピック?/PLAGIARINPIC ? 2020

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ビリ研さん、パクったのかパクらなかったのか……まあ、「李下に冠を正さず」というところなんでしょうが、それよりも、このモンダイ、もっと大きな背景を持っているように思う。そのひとつが、というか、いちばん大きなものが、日本の国の若い方々、これからどっちへ行くの?ということじゃないかと思います。

まあ、直截にいえば、「オリンピックで浮かれてる場合ですか?」ということでしょう。1Fはまだぜんぜんかたづいてないし、戦争への分岐点はもう通過してしまったし(3年前にAB政権を選んだ時点で)、これからいったいどうするのかな? ヒトゴトながら気になります。日本の国の若い方々、これからどうするんですか?

昨日、テレビで、新安保反対のデモに参加したSEALDs メンバーの女性のインタビューをやっていました。「ホントはこんなことしたくない。フツーに日常を楽しみたいけど、やむにやまれぬ……」そんな主旨だったと思います。聞いてて、え?ちょっと待てよ……と思ったのはたしかです。フツーに日常を楽しむ人って、そんなにエライのかな?

なんか聞いてて、ビミョーにゴーマンな感じを受けたんですね。この団体、大丈夫なんだろーか……前に、代表の方のインタビューでも感じたんですが、あなたがた、今、気楽にオリンピックだのなんだのといってる、その「フツーの日常」って、どーやってできたんですか? つくったのはダレなんですか? そこ、考えてる?

私は、どうしてもABくんの「戦後70年談話」を思い出してしまいました。明治維新から説き起こし、先の戦争に至った経緯を述べて、今につなぐ。前の2つの談話、村山談話にも小泉談話にもなかった(というか欠落していた)視点です。戦争、侵害でメーワクかけた。ゴメンね……ということで、戦争に至った経過はバッサリ切って、謝罪。

本質からすると、ヘンです。ものごとにはなんでも、必ずそこに至るだけの理由がある。ライプニッツの充足理由律じゃありませんが、結果からすべてを判断するのは、潔くみえても必ず後に禍根を残す……というか、正しいやり方ではないと思います。この点、先のAB談話は、「戦争に至った経緯」を述べようとしている。

その内容には賛否があるでしょうが、先の2つの談話に比べると明らかに「一歩前進」です。この点はきちんと評価する必要があるんじゃないかなあ……まあ、これだけ「立派な」談話を出しといて、やってることがその正反対というのは大いにモンダイですが、「抗日70年記念軍事パレード」の習さんの演説もそうでしたね。

「不拡大」とか「軍縮」とか、ようあれだけみごとに正反対のことを言えるなあ……と。AB70談話も、習さんほどみごとじゃないにしても、現実にやってることほぼ真逆で、まあ、政治家なんてあんなものか……と。だから、SEALDs の若者たちには、その路線にハマってほしくないなあと思うワケです。「ホントはしたくない」なら、やらなきゃいい。

なんでそんなにカッコつけるんだろう……以前にM議員が、「戦争に行きたくないという利己主義」と言ってましたが、その利己主義でええやないですか。単純にそれで。もったいつけなくても、ちゃんと通じるんだから。「日常を楽しみたい」んだったら、こんなデモに出ないで、日常をたっぷり楽しんだらいいと思う。

要するに、「日常を楽しむ」というその「日常」が、なんによって成り立ってるのか……ということじゃないでしょうか。それがわかれば、「日常を楽しむ」という心自体が失せるでしょう。これは、実は「哲学」のモンダイだと思います。かなり濃厚に……言ってることとやってることの「一致」は、なにも政治家にだけ要求されることじゃない。

とくに、デモとかで「立場を明らかに」した以上、そこはもっと徹底してほしいなあと思うのですが、どうでしょうか……オリンピックで浮かれてる場合ですか。はっきり言って、今の日本の状況では、「返上」しかないでしょう。福島原発も、被災地も、なにも「終わって」いないのに、いったい日本国民って、なにを考えてるんだろう……

東京五輪。福島の電気で浮かれた東京で、またさらに浮かれるんですか? あんまり定型的な言葉は使いたくないけれど……これはやっぱり、一人一人の「倫理感」に関係することじゃないかと思う。ビリ研さんが「パクる」?ということも倫理感のモンダイがまず第一にくるんでしょうが、倫理感がけっこう崩壊してませんか?

与えられた平和と享楽……ABくんも官僚さんたちも、好きこのんで戦争をやりたいワケではたぶんないでしょう。しかし、戦争するしかもう道がない……と考える。なんのために? 今のこの、「平和」で享楽的な日本人の生活を守るために。日本人を2極化して、「豊」の平和で享楽的な暮らしを守るために、「貧」の日本は犠牲にする。

彼らの発想では、もうこれ以外に道はないということでしょう……で、それをなんとなくわかってきた人々は、なにがなんでも「豊」に入りたいと願う。おそらくSEALDsでインタビューを受けてた方々は、そこんところの認識が甘いんじゃないかな……「豊」には絶対は入れないし、そうなると「平和で豊かな生活の享楽」はもうすでに不可能。

もし、日本人が、「豊」が一部に偏り、それを「貧」が犠牲になって支えるのはオカシイと考えているレベルなら、もう未来はないと思います。そうじゃなくて、「豊」って、ホントはなんだろう……と考えるべきでは? たぶんそこからが「哲学」のモンダイで、差別も不公平も、ここで終わると思う。そこを突破しないと未来はないのでは。

元来、世界は、楽しいものでも豊かなものでもない。楽しいとか豊かであるとか、錯覚することはできても、それは、世界の「他の部分」をおいてけぼりにして、もっといえば「犠牲にして」得られるものじゃないですか。私は、「オリンピック」という19世紀の遺物のような祭典も、そろそろ止めるべきだと思う。この世界の現状で、なにが……

と、こんなことを言ってると、もはやダレにも相手にされなくなるのでこれくらいにしておきますけど、今回のエンブレム騒動、象徴的だなあ……これからはこういうことがどんどん起こってきて、「真実」がイヤでも見えてくるようになるんでしょうね。シャーローム……これは、ヘブライ語では「完全な平和」を意味するといいます。

世界に、「平和でない人」が一人もいない状態……いや、「平和でない存在」がなにも残らない、完全な球としての「平和」……生きてるなら、やっぱりそこを目指すべきだと思います。まず、その第一歩として、「平和」をパクって「白く塗りたる平和の祭典」になっちゃってるパクリンピックなんか、さっさと返上すればいいと思います。

自然が、「返上せざるを得ない状況」をプレゼントしてくれる前にね……

サイバー四天王/Four Cyber-Devas

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先に、アラン・チューリングのことを取りあげましたが、そうするとやっぱり、サイバネティクスの創始者であるノーバート・ウィーナーのことも取りあげなくては……となると、ノイマン型コンピュータを考えたジョン・フォン・ノイマンのことも忘れてはならないし、情報理論の基礎をつくったクロード・シャノンのことも……ということで、この4人は、やっぱり、コンピュータ技術と情報理論の世界を拓いた「サイバー四天王」ともよべそうです。

私は文系でしたが、昔からコンピュータと情報理論には興味があって、学生時代、工学部の情報理論の講義をとって1年間、熱心に通いました。200人くらい入れそうなだだっぴろい講義室に、学生はたったの4人。それでも毎週通って対数とかがやたら出てくる数式と格闘しながらなんとか前期も終了……テストも無事合格点でしたが……このテストのときに驚いた。あのだだっぴろい講義室がほぼ満席!そうか……実際は、200人近い受講生がいたのか……

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私は、このときはじめて、某私大工学部の方々の「不勉強ぶり」を知った……先生は、出欠をとってなかったみたいなんですね。そんなことが許されるのか……たとえ、ン十年前でも……しかし、講義の出席者はきまって私を含めて4名。ものすごく密度の濃い授業だった……先生も、聴きたくない人は聴かなくていいよ、テストに受かったら単位はあげるからね……ということだったんだと思います。もったいない……しかしおかげで、聴く気のない学生にジャマされることなく……

1年間、情報理論の基礎をみっちり……やったはずなんですが、今ではすべて忘却のかなたに……ただ、情報理論でもエントロピーの概念があって、それは2を底とする対数で表現される……ということだけは覚えています。これが、現在も使われている「ビット」の元となり、この理論をつくったのがクロード・シャノン……これに対して、ノーバート・ウィーナーは「サイバネティクス」の基礎をつくった。いま、さかんに「サイバーなんちゃら」という感じで使われていますが……

彼のつくった「サイバネティクス」は、もう本体の方はとっくに忘れ去られて、「サイバー」という接頭辞のみが生き残っていろんな言葉にとりついてふしぎな世界を形成している……それは、ときには「電脳」と訳されて、社会の中に「電子のささやき」を瀰漫させてゆく……ちなみに、「サイバネティクス」の語源はギリシア語の「キュベルネーティコス」kyubernehtikosで、これは「操舵技術」という意味になる。ウィーナーは、戦時中に大砲の弾道予測の研究をしていたようで、それが、「サイバネティクス」の発想のもととなったともいわれます。

要するに、川を横切って進む船を、どうやったら対岸の目標地点に正確に到着させられるか……ということなんですが、ここで、彼は、「制御可能な要素」と「制御不可能な要素」をきちんと分類することを考えた。「制御不可能な要素」は川の流れや風で、「制御可能な要素」は船の推進力と操舵ということになる。「制御不可能な要素」についてはできるだけそれらを正確に読みこみ、予測し、「制御可能な要素」によって船の航路を可能な限り制御して、結果として船を、対岸の目標地点に正確に着岸させる技術……これが、「サイバネティクス」の基本となる。

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こういうふうに、対岸に船を着けるという目標に対して、「制御可能な要素」と「制御不可能な要素」を分類するという発想は、やっぱりアメリカ的なプラグマティズムの影響を感じます。彼は、ポーランド系ユダヤ人の移民の子であったらしいが、チューリングさんと同様早熟の天才で、性格もかなり変わったところがあったようです……早熟の天才といえば、残る一人、ジョン・フォン・ノイマンもそう。彼はハンガリー生まれで、アメリカに渡って英語風の名前に改名したそうですが、元はヤーノシュという、いかにも東欧風の名前だったようです。

ノイマンは、「ノイマン型コンピュータ」、つまり、現在われわれが使っているコンピュータの原理を考えた人として知られていますが、ノーバート・ウィーナーと対比して語られることが多い。ウィ―ナーがハト派だったのに対してノイマンは超強力なタカ派で、原爆のマンハッタン計画の推進者としても有名。冷戦時代は強硬な対ソ開戦論者だったみたいで……また、「ゼロサムゲーム」、つまりだれかが得すりゃだれかが損するというゲーム理論でも有名ですが、これは、現在では、「否定される対象として意味がある」という存在になりつつあるような……

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いずれにせよ、コンピュータ技術と情報理論は、戦争がらみで発達してきたという印象は強いですね。アラン・チューリングは、対戦中、ドイツ軍の暗号解読の仕事をしていたそうですし、シャノンも、これは戦後ですが、やっぱり暗号理論の研究をしている。ウィーナーのサイバネティクスは大砲の弾道計算が元になっているし、ノイマンに至っては、もう存在そのものが戦争大権現+原爆大明神みたいな……インターネットも元は軍事技術として開発されたし、GPSも……やっぱりアメリカの軍事衛星を使っている。

こういうことを考えてみると、われわれが今、気がるに使っているパソコンやスマホやネットやGPSは、みんな、実は戦争の道具として開発されたものであって、まあ、極端にいえば、そういうモノを使うたびに、いくらかは戦争をやってるみたいなものなのかもしれません……ここで、「サイバー四天王」の生没年を調べてみますと……まず、いちばん古株がウィーナーで、1894~1964。次にノイマンの1903~1957。そしてチューリングの1912~1954。最後に、シャノンの1916~2001となります。みな、20世紀前半に活躍した……

さらにふりかえって、うんと古い方を調べてみますと、やっぱりライプニッツとパスカルなのでしょうか。パスカルは1623~1662。歯車式計算機パスカリーヌをつくった。そしてライプニッツが1646~1716。彼は、2進法の研究で有名ですが、結局は、現在のコンピュータを動かす基礎的な数学理論を350年も前に開発していたということになるのでしょうか。そして、パスカリーヌを上回る機械式計算機もつくってる。このお二人は、バロック中期から後期の人物。そして、19世紀に入るとチャールズ・バベッジの階差機関(ディファレンス・エンジン)が1822。

この階差機関は、すべて機械式でした。人類最初の電気式の計算機は、やっぱり1946年のENIACなんでしょうね……と思っていたら、1942年にアイオワ州立大学で、ABC(アタナソフ&ベリー・コンピュータ)という電気式の計算機が開発されていたみたいですね。これは、机くらいの大きさで、真空管280本を使用。これが、ペンシルベニア大学のENIACになると、真空管数が17,468本とケタ違いに増え、スペースは167平米というから、一戸建て相当……このマシンは10進法で動いていたそうです。開発者はジョン・モークリーとジョン・エッカート。

この計算機は、最初、大砲の弾道計算をしていたそうですが、のちにフォン・ノイマンのいるロスアラモス研究所がかかわるようになり、水爆設計の計算も行っているようです。やっぱり戦争がらみ……ウィキによりますと、このENIACは、1995年にトランジスタ基盤で再現されたようですが、そのときの大きさが7.44mm × 5.29mm……面積40平方ミリということで、小指の爪くらい。計算すると417万5千分の1になった……50年という年月を考えると、一年に8万3500分の1ずつ縮小したということで、1時間で10分の1近く縮んでいることになる……すごい……

ただ、面白いのは、こんなふうに計算能力がいくら高性能になっても、基本設計における考え方や数学的な基礎部分は、今でもウィーナー、ノイマン、チューリング、シャノンのサイバー四天王の構築したフレームを出ていないということ……しかし、最近、量子コンピュータの開発が飛躍的に進んでいるそうで、これはどうなんでしょうか……でも、たぶん、今までのコンピュータとはまったくちがう性能を持つマシンができるとしたら、その前に、数学的なフレーム自体がまったくちがうものに更新されなければならないのではないか……という気がします。

サイバー四天王が構築したフレームは、論理的にいって、「それしかない」ものなのか……それとも、まったくちがうフレームが実現可能なものなのでしょうか。もし実現可能だとしたら、それは、今までのフレームを否定するものなのか……そのあたりは、たしかに微妙に気になります。というのは、それは、「人間が考えることができる範囲」におそらくかかわってくるものだから……人間は、なにを、どこまで考えることができるのだろうか……サイバー四天王が構築した論理的なフレームにしたがって開発されたコンピュータによって、われわれの今いる世界ができているとすれば……

それとはまったくちがう新しいフレームは、最初は形のない、精神の世界で構築されるものだけれど、それがマシンとして実現され、そして、そのマシンを使って世界が構築されていく……と同時に、人間の精神も、その構築された世界によって改変されていく……この世界は、「結局それしかない」という一本のラインで構成されているのか、それとも、フレーム自体がいろいろなものが存在可能にできているのか……今のところは、サイバー四天王が辿りついたフレームが唯一のように見えますが、はたしてどうなのでしょうか……世界が論理を決めるのか、それとも論理が世界を存在させるのか……あるいは、ぜんぜん別の道があるのでしょうか。

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いずれにせよ確かなことは、われわれが今、コンピュータ技術というとき思い浮かべるハードやソフトとは別に……といいますか、それらの基底には、数学理論のフレームがあるということで、ハードやソフトの開発よりも実は本質的にこちらの方が重要だということです。サイバー四天王は、いずれもこの部分の研究にかかわった方々で、実際にコンピュータをつくったりソフトを開発したり……といった具体的な作業ではなく、人間の考え方自体に挑戦して、新しい分野をきりひらいた……ということで、やっぱりこれは、「四天王」と呼ぶにふさわしい……先に、チューリングは、私の基準では宇宙人の範疇に入るといいましたが……

じゃあ、他の三人はどうなるのかといいますと……
ノーバート・ウィーナー → 魔法使い
ジョン・フォン・ノイマン → 悪魔
クロード・シャノン → 魔女?
ええっと……クロード・シャノンは男性のはずなのに、なぜ魔女(かもしれない)ということになるのかといいますと……実は、写真なんかに男性の姿で残ってる「彼」は影武者で、本当は女性だったというトンデモ説?があるから……
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1417201089

えーっ?!って感じですが、「ピクシヴ百科事典」の「シャノン」の項を見ると、この名は、女性名でもあるってことで……例として、シャノン・エリザベス(女優)、シャノン・ルシッド(女性宇宙飛行士)、シャノン・リー(ブルース・リーの娘)なんかがあがってます。ただ、クロード・シャノンのシャノンは、名ではなくて姓だし……さらにややこしいことには、上記トンデモ説では、クロード・シャノン(Claude Shannon)の本名はクロード・シャロン(Claude Shalon)で、この人が女性なんだと……でも、シャロンは確かに女性名なんでしょうが、姓の方になってるし、名のクロードはやっぱり男性名なんじゃないか……ああ、もうわからん!

で、もうひとつおまけに、「シャノンの自殺機械」Shannon’s ultimate machine というのがあるそうで、これがまた、もうこれ以上ないくらいどうしようもない……まあ、見てください。絶対笑う……
http://gigazine.net/news/20120226-shannon-ultimate-machine/
やっぱ、サイバー四天王は、思いっきりの変人ぞろいだ……宇宙人に魔法使いに悪魔に魔女……でなきゃ、あんなことは思いつかないでしょう。おそれいりました……

今日のemon:三筒紙筒あるいは口鉛芝231/Three paper pipes or Mouth lead turf 231

三筒紙筒あるいは口鉛芝231_900
これは、死刑囚に最後に小市民的世界を覗かせてやる三筒紙筒で、口鉛芝231ともいいます。しかし、これで死刑囚が覗くのか、死刑囚を覗くのかはきわめて疑問……小市民、プチブルという言葉は、以前はけっこう卑称として使われることが多かったが、最近はどうなのでしょうか……プチブルは、小ブルジョワジーということですが、ではブルジョワジーとは……というと、これは「中産階級」ということで、語源は、ウィキによりますと「城壁の中の住民」ということだそうな。Bourgeoisie の中の「bour」はたしかに「城壁に囲まれた都市」という意味だ。なるほど、そこからきているのか……

城壁があった頃のヨーロッパでは、城壁の中に暮らす人たちと城壁の外で暮らす人たちは、仕事から生活スタイルから、まったく違っていたようです。といっても、城壁の中で暮らす人たちがそんなに裕福な人たちばかりではなかったと思いますが……ただ、産業革命以降、中産階級の台頭によって、この言葉は階級的な意味を持つようになり、とくにマルクス主義の用語となって定着します。私の学生時代は、「おまえのその考え、プチブルやなあ」という感じでよく使われていました。あの頃は、とにかく、マルクス主義者にあらずんば人にあらずという風潮で(とくに学内では)……

ちょっとでも「マルクス道」にはずれた?ことを言おうものならすぐに「プチブル!」とか「日和見主義者!」という言葉がとんできて、タイヘンでした。いちど、クラス集会で「学生の本文は勉学では?」と言ったら、たちまちみんなに取り囲まれて吊るしあげに……幸い、過激な人がいなかったので激論だけですみましたが、元気過剰の人が何人か混じっていたら、袋だたきにあって、悪くするとご臨終のはめに……なんか、そんな時代でした。ほどなく学校の建物がすべて封鎖になり、それからは半年以上の長〜い休み状態に……これからの日本、もう一度あんなことが起こるのかなあ……

この「プチブル」という言葉、本来なら「小中産階級」という訳が正確だと思うのですが、なぜか「小市民」と訳される。「市民」は「シトワイヤン」とか「シチズン」の訳語だからヘンだなあ……と思いますが、これで定着してしまっています。しかし、厳密にいうと、ブルジョワジーとか中産階級という言葉は階級概念をそのうちに含んでいるけれど、市民という言葉には階級概念は含まれていない。このへんの「誤訳」は、日本語だけにあるものなのか、それともけっこういろんな国でそういうことがあるのでしょうか?……それはともかく、「市民」という言葉の意味が、日本では、あまり正確に理解されていないのではないかと思います。まあ、私も含めて、あんまりみんなよくわかっていないのでは……??

「市民」は、国民(ネーション)とも違うし、臣民(サブジェクト)とも違う。たぶん、「主権者」意識がかなり濃く結びついた言葉であると思われます。ルソーの『社会契約論』では、国家の構成員を、主権者としての立場からいう場合には「市民」という言葉を用い、行政の対象者としての立場からいう場合には「臣民」という言葉を用いていた。「臣民」というと、なにか、王や皇帝に支配される人々みたいな感じですが、これもやっぱり日本語訳が悪くって、「サブジェクト」という場合には、たとえば政府が共和制でも違和感なく使うことが可能です。単に「対象者」ということなので。

ということで、今の日本のような政治体制(立憲君主制)においても、われわれ国民の一人一人が、「主権者」という立場からみれば「市民」となり、行政の対象者という立場からみれば「臣民」となります。そこで、上の三筒紙筒が関係する「死刑」という制度を考えてみますと、主権者たる「市民」は、みずからの持っている主権を公使して「死刑」を可能とする法律をつくり、この法律によって「臣民」たる国民の一人が死刑になる……そういうことなのでしょうか。死刑が執行されました、というニュースを聴くと、自分も「殺したうちの一人なのかな?」という気になるのですが……

ただ、主権者である市民の一人としての自分がかかわれるのは「立法」までで、しかもここも、「代議制」というゴマカシによって断ち切られています。しかし、もっと根源的な「切断」は「立法」と「行政」の間にあって……たしかに政府は、立法府である国会の決めた法律にしたがって行政を行うわけですが、ここには本質的に架橋不可能な深淵がある……そんなふうに感じます。そして、これは、デカルトのいう「思惟」と「延長」、もしくは「精神」と「身体」の間に架橋が可能なのか……そういう、哲学上の大問題とも深く関連してくるように思われます。

手を動かしたいと思うこと(思惟・精神)と手を動かすこと(延長・身体)とは、いったいどういうふうに結びついているのだろうか……デカルトはここに「松実腺」という肉体的な器官を介在させたが、ライプニッツは、基本的に両者は「まったく関係がない」と考えた。前にも書きましたが、私はこのライプニッツの考えに賛成です。延長的な要素をまったく持たない思惟が、延長(物理的世界)に関係を持てるはずがない……これを、国家の仕組みにあてはめれば、延長的な要素をまったく持たない「立法」が、延長的な要素のみで構成されている「行政」とどうして関係できるのか……

したがって、「行政府は、立法府の制定した法律に則って行政を行う」というのは、「私は、右手を動かしたいという私の思惟に則って右手を動かす」ということとまったく同じ構造の「根源的切断」を含んでいる、いわばマカフカシギな神秘なのであります……行政は、執行前に、死刑囚に三筒紙筒をもって小市民的世界を覗かせてやりますが、その世界の小市民たちは、三筒紙筒の逆側から死刑囚を覗く……この構造には、精神と身体の切断に苦しむモナドの謎が現われる。窓を持たないモナドが、いったいどうやって「小市民的世界」を覗くのか……三筒紙筒って、いったいなんだろう……