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STAP細胞?(つづき)

ソラリス_900

なぜか気になるスタップ細胞……顛末のふかしぎさもさることながら、このモンダイ、さらに根本にあるギモンとして、「なんにでもなる」細胞つくりって、ホントはどういうことなのかな? ということも考えさせられます。山中さんのアイピーエス細胞もそうなんですが、結局なにがやりたいのか……それを一言でいうなら「不老不死」で、これは、人類が大昔から追い求めた夢なんだと……それが、最先端の生命科学で可能に……ということで、みんな、ここに夢とロマンをかけて……そんな感じで、人間って、不老不死の妙薬を求めて徐福をジパング?につかわした秦の始皇帝のころから変わってない。大昔は、一握りの権力者の夢だったものが、今では万人の夢に……

なので、これは、発想が根本からオカシイ? まあ、身体の一部を失ったり、機能が悪くなったりした人が、その部分の「再生」を切に願うのは当然だと思います。しかし、失ったら、やっぱり失っただけの意味はあるんだと思う。キビシイ見方ですが……そこを見ていかないと意味がないのでは……なくなったものは再生すればいいって……プラナリアじゃないので、やっぱりそこは考えるべきところだと思います。植物なんかだと、「再生」というのは当たり前のことで、別にふしぎでもなんでもない。植物のあり方自体が、もう「再生」というか、連綿と続いて広がっていくようないのちのあり方なので……これが、動物になるとかなり様子が変わる。単純な動物だと「再生」はありえても、複雑になればなるほど難しい……これはなにを意味するか……

これは、おそらく「個」というものが関係しているんだと思います。要するに、動物は、「個」を得た代償として「再生」を失った。「再生」は、どこか「全体」に通じる雰囲気がある。切り離された「個」に対して、のべーっとどこまでもつながっていくような、そんな気分があります。だから、動物でも、「個」があんまり際立たない、単純な構造のものは、植物みたいな「再生」の気分が漂う。しかるに、「個」が際立ってくればくるほど「再生」も難しくなる……「個」を区分するのは、遺伝子レベルから身体全体の免疫構成に至るまで、いろんなメカニズムが働くのでしょうが、それが「必要」というのは、どういうことなのだろうか……なぜ、生物界は、「個」が薄くて、どこまでも広がる「植物」だけではいけないのでしょうか……考えさせられます。

進化・発生の系統としては、植物が先で動物が後……ということはないのかもしれませんが、なんとなく、「全体」みたいなものが先にあって、後に「個」が出てきた……みたいな感じだと、気分的に納得できるような印象……まあ、おそらく単細胞生物が多細胞になるときに、「動物界」と「植物界」が際立ってきたのでしょうが、それにしてもふしぎだ……生命の二つのかたち……これは、やっぱり「相補的」なのかもしれない。植物の特徴としては、多細胞になればなるほど「土地」への密着性が強くて、大地や海底を覆って、地球表面を生命の絨毯で埋めていく……これに対して、動物の方は、多細胞になればなるほど「個」としての独立性が強くなり、自分の身体の中に「ミニ大地」を取りこんで、惑星の上に「個の競演」をくりひろげる……

動物の「個」は、極端に際立つとロケットをつくって大地を離れ、宇宙にまで行ってしまうわけですが……その「役割」というのは一体なんだろう……私の思考は、いつもここで止まってしまいます。タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』では、宇宙の彼方の惑星ソラリスをめぐるステーションで、主人公のクリスがお弁当箱みたいな金属の箱に植物を育てていた……彼の思考とともに、ステーションには昔の恋人が現われ、ソラリスの大地には彼の実家とまわりの環境が造られます……お弁当箱の植物も実家のシーンもレムの原作SF小説にはなく、タルコフスキーの解釈であろうと思われますが、地球という遊星をどれだけ離れても人は地球の子であり、地球をいつまでもその身体のうちに持って、その精神もやはり地球から離れられない……

植物はその象徴なのかもしれません。家のまわりの樹々……豊かに流れる水の中には緑の水草が、バッハのBWV639コラールにのってゆらめく……人は、どこまでもこういうものを内にもちながら、「個」として際立って、宇宙のはてまで行こうとする……今回のスタップ細胞事件は、こういう人間の矛盾した欲望を如実に現わしたものみたいに思えます。「個」を保ちつつ、「全体」も手にいれたい……もし、アイピーエスやスタップで「不老不死」が実現したとすると、人は、自分というものを次々に「再生」させてどこまでも「個」を保つ。しかし、そうやって保たれる「個」の意味は、どこにあるんだろう……「死の恐怖」……そんな言葉が浮かんできます。ただ、「死」から逃れるためだけにそんなことをするんだったら無意味だ……

「個」を手に入れる代償として手放した「再生」を再び手に入れて、動物でも植物でもないものになろうとするのか……それは、なぜ、生命界が「動物」と「植物」に分かれているのか……そこをきちんと理解した上でないとやっちゃいけないことのような気がする……「原子核」の中に踏みこんだのと同じ誤りを、ここでもまた冒そうとしているような気がします……哲学の必要性……科学は、哲学から分かれ、哲学を切り捨てた時点で「無限進化の可能性」を獲得したように見えますが、捨てられたはずの哲学の残滓は、今も「生命倫理」というかたちで細々と生きている。でも、人間の複製とか「個」にもろにかかわってくる時点までは、それは「考えなくていい」領域として圏外に追いやられているようにみえる。はたしてそれでいいのだろうか……

哲学と科学技術の発展の不均衡は、それ自体ですでに「問題」であると思います。科学者は、自分のやっていることの「意味」を、「個」と「世界」の関係においてきちんと理解した上で、はじめて「研究」を進めることができる……やっぱりそういうところまで戻る必要があるのではないか……動物が不死性を獲得する……その唯一の形態が「がん細胞」であると言われますが、「がん細胞」は「なんにでもなる万能細胞」の対極にある「なんにもならない無能細胞」なんだろうか……これは、結局、細胞自身が「個」を主張しだした究極のかたちなんでしょう。人は「がん」を怖れるが、それは、自分という「個」の一部が反乱を起こして「自分」になるのを拒否する状況なんだけれど、がん細胞にとっては、それこそが「自分」という「個」の独立宣言だ……

人の意識は、やっぱりふしぎです。「個」であることは、どうしてもそれだけの「重み」を背負う。それは、人の意識にかかる「負荷」として、「個」と「世界」、「個」と「全体」の問題を考えさせる。私が私であることの意味……それは、いったいなんなのか……人が、「死の恐怖」からやみくもに「再生」を願う……それは、目覚めたばかりの「個」に特有の素朴な反応なのかもしれません。そして、そういう方向を盲目的な「善」とするところに、今回のスタップ細胞さわぎの根本的な原因があるのではないだろうか……「未熟な研究者」という言葉が何回も出てきましたが、そういう意味では、人類自体が未熟だ……まだ、ようやく「個」としての意識のはじまりに立っているということは、やっぱりあるんだと思います。

グールドというピアニスト

地獄のゴールドベルク_900

グレン・グールドというピアニストについては、もういろんな人が書いているので、今さら私が書いてもはじまらないかもしれませんが……でも、やっぱり書きたい。ホントに「天才」というのは、たぶんこんな人のことを言うんでしょう……暗算少年とかパフォーマンス的にスゴイ人はいっぱいいるけど、人類の文化に、なんらかの「意味」のある足跡を残せないと、それは単なる「見せ物」になって、ホントの意味で「天才」というには値しないと思います。で、人類の文化に足跡を残す……って、なんだろうということなんですが、とりあえず、その人がおるとおらんでは、「人類の意味」自体が変わっちゃうんじゃないだろうか……と思えるくらいのスゴイ人……

このレベルのスゴさって、たとえば思想でいうならヘーゲルとかマルクスとかプラトンとか……ソレ級。絵描きで思い浮かぶのは、やっぱりピカソとかマルセル・デュシャンとか。音楽だとバッハ、ベートーヴェンはまずまちがいなくそう。で、グールドさんも、やっぱりソレクラスじゃないかと……演奏家であって、作曲家じゃないんですが(曲もつくっておられたみたいだけど)、とにかく、「対位法音楽」というものの真の姿を見せてくれた……でもそれだけじゃまだ「天才」とはいえないかも……ですが、もうちょっと構造的?な業績としては、やっぱり、「媒体を通して現象する音楽」というものに逆転的な価値を与えた人として、思想の分野で持つ影響も少なくないのでは……

彼以前は、レコードって、やっぱり補完的な位置付けだったと思うんですよね。実演がホンモノで、レコードは代用品。ホンモノを聴かないと音楽を聞いたことにならないんだけれど、そういう機会もなかなかないので、レコードを聞いてホンモノの演奏に心を馳せる……そういう感じだった。ところが、グールドさんの演奏には、「生演奏」というホンモノが、もともとない。スタジオレコーディングは聴衆を当然入れず、スタッフだけで行われるから、これは「演奏会での演奏」という意味でのホンモノではない。単に、レコードを作るための録音作業にすぎない?わけで……「ホントの演奏」は、レコードを買った人が、自宅のプレーヤーに針を落とす……そこではじまる?

コレ、それまでだれもが夢想だにしなかった革命的なできごとといっていい。要するに金科玉条のごときご本尊である「実演」がない。というか、レコードを買った一人一人が、いろんな装置で、いろんな部屋で、いろんなことをしながら聴く……その一回一回が「実演」なのだ……なんでこの人、ここまで割り切れたというか、進化できたんだろーと驚異的に思いますが、その演奏を聴いていると、なんとなく感じるところがある。それを書いてみますと……まるで、打ちこみみたいだ……これが、私の率直な感想です。とにかく「音」に対する正確さが比類ない。ここまで「音」をコントロールしきれた演奏家は、それまでだれもいなかった……

はっきり言って、グールドさんは、他のピアニストに比べて、テクニック的にはるかに擢んでている。これはもう、だれもが認める事実であろうと思うのですが……その「差」がフツーじゃなくて、何十倍、何百倍もあるような気がする。基本的に、彼くらいのテクニックに達しなければ「ピアニストでござい」と言って名乗るのは恥ずかしいんじゃないか(いいすぎですが)……まあ、現代のピアニストであれば、彼と同程度のテクニックを持つ人もおられると思いますが、彼の時代では、彼は、テクニック的に飛び抜けてました。まるで、3階建ての建物の横に500階の超高層ビルがそびえているように……その「音」に対するコントロールの正確さは、まるで「打ちこみ」のごとく……

試みに、今ネットで聴けるいろいろなピアノ音の打ちこみを聴いていると、ホント、グールドさんそっくりです。いろんなピアニストのいろんな演奏があって、それぞれ、高い評価を受けている人もいるけれど、テクニック的にはグールドさんにははるかに及ばない。「音楽性」という言葉もあるわけですが……私の聴いた範囲では、ホントに「音楽性」でまた別な高みに達した人って、リヒテルとケンプくらいではなかろうか……まあ、あんまり広範囲には聴いてませんので、こんなこというとお叱りを受けるかもしれませんが……最近の方でいえば、ピエール=ロラン・エマールさんくらいか……いや、読んで不愉快に思われる方がおられるといけないので、「比較」はこれくらいでやめておきます。

要するに、私がいいたいのは、グールドさんは、もともと、他のピアニストとは求めるところが全く違っていて、そこのところが充分に「思想的」といいますか、音楽というものに対して、マーケティングまで含んで、発生(個の著作)から受容(個が聴く)に至る全体のプロセスに反省的意識が充分に働いていて、それが、単に音楽のジャンルにとどまらず、人類の文化全体にかんしていろいろ考えさせられるなあと思うわけです。要するに、やっぱり「個」と「普遍」の問題で……たとえば、「生演奏」を聴きにホールに集う聴衆は、一人一人は「個」なんだけれど……そして、演奏する音楽家もやっぱり「個」なんだけれど、その間には、ふしぎな「普遍」が介在していて、よく見えなくなってます。

私が理想とする演奏形態は、たとえば友人にピアニストがいて、彼の家に夕食に招かれて、食後に、彼が、集った数人の人のために客間にあるピアノで数曲奏でてくれる……そんな感じが、ホントの「生演奏」ということではないか……介在するものがなにもなくて、演奏する個としての彼と、聴く個としての私が直接に演奏によって結ばれる……これに比べると、ホールでの演奏は、演奏する個と聴く個の間に、絶対に「欺瞞」が入ると思います。要するに……音楽には直接関係のないなんやかや……お金やネームバリューや、演奏をきちんと味わえるかしらん?という気持ちとか……演奏する側においてもやっぱりそうで、余分なもろもろ……そういうものがジャマして不透明になってる。

しかし、グールドさんの場合には、これは、グールドさんという「個」が、私という「個」のために直接演奏してくれてる……みたいな感じがあるわけで、このあたりも「打ちこみ」と似てます。まあ、CDもタダじゃないんだけれど、演奏会に比べればはるかに安いし、何度でも繰り返し聴くことができる。場所も、家でもクルマでも、歩きながらでも……私は、以前、阪神淡路大震災のとき、神戸に住む友人宅をたずねて、神戸の町を歩いたことがあるんですが、そのときに、グールドさんの『パルティータ』(むろんバッハの)をウォークマン(もどき)でずっと聴いていた。震災で悲惨な状態になった街の光景とあの演奏が、もう完全にくっついて忘れられない……

でも、でもですよ……他のどんな演奏家でも、CDで、いつでもどこでも聴けるじゃありませんか……というのだけれど、なんか、どっかが違う。やっぱり、グールドさん以外の演奏家は、演奏会が「ホント」でディスクは「代用」。そんなイメージが強い……私がここで思い出すのは、カール・リヒターの「地獄のゴールドベルク」。このタイトルは、私が勝手に付けてるだけなんですが、このディスク、まれにみる「ぶっこわれた」演奏……聴いてると、もう、どうしようか?と思っちゃうんですが……1979年にリヒターさんが来日して、東京の石橋メモリアルホールというところでゴルトベルクを弾いた、その録音なんですが……もう最初から、なんか危機感をはらんではじまって……

とにかくミスタッチの山……うわー、これがあの、厳格きわまるリヒターさんの演奏なの??とぎょぎょっとしながら聴いてると、そのうちに「楽譜にない」道をたどりはじめ……と思うと前に戻ってやりなおし……悪戦苦闘しているうちに、もう演奏自体が「玉砕」してすべては地獄の釜の中に投げ入れられて一巻の終わり……あとに残るは無惨な廃墟のみ、という、もう信じられない破滅的なリサイタルになったんですが……よくこの録音、ディスクとして出したなあ……しかし、なんか、いままでの端正の極地のリヒターさんのイメージががらがら崩れて、そこに現われ出たのは原始の森をさまようゲルマン人……うーん、ホントは、彼は、こんな人だったのか……

この演奏会は、聴きものだったでしょう。現実にあの場にいた人は、みんな肝をつぶして、どーなることかとハラハラしながらいつのまにかリヒターさんの鬼のような迫力に引き込まれていったに違いない……そうか……演奏会の真の姿って、これだったのか……で、ここに比べると、メディアの海にダイヴしたグールドさんの演奏は、やっぱり打ちこみだ……でも、なぜか、このリヒターさんの「地獄のゴールドベルク」と共通の「熱い魂」を感じます。あの、震災の街……それまでの人々の生活が根こそぎ破壊されたあの街をさまよう私に、それでもまだ、人の思いはちゃんと残っていて、また新しく、人の生きる場所をつくっていける……と静かに語りかけてくれたグールドさんの音……

いろいろ、考えさせられます。個と普遍の問題は、そんなにカンタンに割り切れるものではなくて、これは、そこに立ち会う人によって、その人にとって、その場、そこにしかないなにか大事なものをもたらしてくれる。グールドさんは、たくさんの「個」、そのときの個だけではなく、これから未来に現われる数えられないくらいの範囲の個に対して、きちんと自分の「個」としての音楽を届けたいと思った。そこに現われるのは、やっぱり「他の中に生きる」という基本姿勢だったのかもしれない……演奏会が「地獄のゴールドベルク」となって崩壊したリヒターさんの思いも、やっぱりそれは同じだったんでしょう……そうならざるをえない「介在物」の巨大さを、改めておもいしらされます……

*リヒターさんのディスクを改めて聴いてみましたが、最初のアリアから、ミスタッチではないもののヘンな音程の音が混ざってきます。これ、調律にモンダイがあったんではないだろうか……調律の狂ったチェンバロを弾くうちに、なんかやぶれかぶれの自暴自棄に……でも、調律なんか、事前になんども確認するはずだし、ヘンだなあ……と思って聴いているうちに、なぜかひきこまれてしまう……ものすごく興味深い演奏です。これ、やっぱりスゴイディスクだ……

素子さんのダイヴ@Ghost in The Shell 1995

グールドのゴルトベルク_900

自分は、自分の中のどこにいるのか……草薙素子さんは、脳だけ生身で、身体は国家のもの。要するに国立?のサイボーグなんですが、それでもまだ、自分は人間だと思ってる。シェルに囲われてゴーストがあるから……ゴーストは、ガイスト、要するに「精神」ということで、もっと言えば「魂」ということかもしれません。となると、身体が有機体でサイボーグではないわれわれも、ゴースト・イン・ザ・シェルという点ではかわりないわけで……自分は、自分の中の、どこにいるんだろう……??

やっぱり「脳」なのでしょうか……臓器移植なんかでも、「脳移植」というのはちょっと考えにくいような気がします。脳が悪くなったので、取り替えようと、他人の脳を移植したら、もうその人は、その人じゃなくて、移植された脳の人のものになってしまう……それほど、「脳」は、自我にとって、決定的な要素であるようにみえる。これは、どうしてなんだろうか……記憶なのか、判断力なのか……意志? 意志は、脳にあるのでしょうか。前頭葉? ロボトミー手術のことなんかが思い浮かびますが……

東大の博物館でしたか、夏目漱石の脳が保存されているという話をきいたことがあります。うーん……漱石も、死んでから、自分の脳が博物館に保存されるとは、夢にも思わんかったでしょうねー……脳さえ保存しておけば、文豪の「創作の秘密」がやがて解明されるとでも考えたのかしらん? なんか、保存しようと提案した人の「知性の欠如」といいますか、知的なものに対する素朴な憧れみたいなモンが感じられて、やるせなくなってしまう話ではあるのですが……

これに対して、草薙素子さんは、最後に、「脳」も棄ててネットの海にダイヴする。「普遍存在」になってしまうわけですが、それでも「個」が完全になくなることはない。続きのお話では、いろんなかたちで昔の仲間の前に現われて助ける。これはもう、クイッディタス・ハエッケイタス、すなわち、普遍でありながら個、個でありながら普遍……という、究極の存在の形にほかならない?? こんなケースを考えてみると、もしかしたら、「個」というものは、それほど「個」ではないのかもしれない……

グレン・グールドというピアニストがいました。彼は、若手ピアニストとして人気上昇の、まさにそのときに、突如「コンサートドロップアウト」を宣言して演奏会から身を引いてしまった……といっても、演奏の発表自体を止めたのではなく、その後は、レコード、CD、放送……という媒体を通じて積極的に活動を続けていく……要するに、ホールの中の「個」という存在形態を棄てて、聴衆の一人一人の再生装置という一種の「普遍」の中に存在する道を選んだ……そして、それゆえに、なお強烈な「個の輝き」を獲得した……これ、素子さんの「ネットへのダイヴ」と、なんとなく似てるような……

『2001年宇宙の旅』という、もう今から40年以上も前に公開された映画では、木星探査船ディスカヴァリ号に、HALという第五世代コンピュータが搭載されていました。「自分で考える」能力を持った、いわゆる「人工知能」なんですが……この映画が発表された当時(1968年)には、33年後にはもうこんなスゴイ?コンピュータができてると予想した。ところが、第五世代コンピュータの開発はスムーズにいきませんでした……21世紀ももう10年以上すぎた今でも、ぜんぜんできていない……でも、かわりに、当時は予想もされていなかった「ネットの海」ができてしまった……

これは、ある意味、HALというスゴイ「個」のかわりに、ネットの海という「普遍」が実現してしまったともいえる……太平洋戦争のとき、日本は「戦艦大和」というものすごい「個」を造って太平洋を制覇したと思ったけれど、結局「無数の飛行機」という「普遍」にやられてしまった……このたとえは少しヘンかもしれませんが……でも、戦後、「大和」を造った技術力は、「クルマ」という「超普遍」?に活かされて、日本はクルマの輸出で大もうけ……こうやって見てくると、「普遍」って、要するに「数が多い」ということなのかな?巨大な「個」より無数の「普遍」?? なんかヘンですが……

昔、「本」は、一冊だけでした。だから貴重……同じ本を読もうとすれば、「写本」という手段に頼るしかなかった……一冊一冊、手で書き写す……これはタイヘンだということで、「印刷」が発明された。グーテンベルクの宇宙……ですが……今は、ネットの海に情報が拡散されて、もう物理的な「印刷」という手段さえ不要になってしまった……ここでおもしろいのは、「個」の位置が、発信者から受信者に移ったように見えること……すなわち、「印刷」においては、最終的に「ブツ」としての本を造るので、制御権は造る側にある。つまり、本を造る側が、本の「個」としての体裁を決定する権利を持ってる。

ところが、ネットにおいては、見え方のかなりの部分を、見る方が担います。むろん、情報発信者の側で、ある程度の体裁は造るわけですが……しかし、その「見え方」は、受ける側の機器の仕様やブラウザの種類によってかなり異なってくる。本の場合には、フォントが、読む人によって変わってしまうということはありえませんが、ネットでは、見る側の持ってるフォントに依存せざるをえない。色の見え方も、画面によってかなり違うし、レイアウトなんかもブラウザによってまちまちになってしまう……要するに、「個」が成立するのは造る側ではなく、見る側の画面の上になってしまう……

こうなってきますと、「個」って、いったいなんだろう……ということですね。私は、私の、どこにいるのだろう……ネットの海に拡散してしまった素子さんのような方にとっては、端末に現われるそれぞれ違った「個」が、それがやっぱりその存在の「個」なのでしょう……要するに、「個」と「一」が一致しない。「個」と「一」の一致は、やはりきわめて「古典的」な考え方であって、グールドさんが、その束縛に耐えられなくなって「メディアの海」にダイヴする道を選んだ……その感覚は、わかる気がします。「そのように見えているのが私なのだ」……それが、本質。

ハエッケイタス、個性原理というものの働き方は、これから先、実に興味深いものになってくるような気がします……それは、もしかしたら、やっぱり「ダイヴ感覚」なのかもしれない……「個」を棄てて「全体」の海にダイヴする……それは、一見、「個の死」に見えるかもしれませんが、そのやり方が、「ハエッケイタス道」の行き着く先なのか……「他者のうちに生きる」というパースの言葉が思い起こされますが……たくさんの人のブラウザの中で、それぞれの姿で、それぞれの時に生きる……私が、今書いている文章も、やっぱりそうなる。私ももう、ダイヴしちゃってるのだ……

今日のessay :普遍を求めて・その3/About Universality – 03

Quidditas_Haecceitas_600

八木雄二さんの『中世哲学への招待』(平凡社新書)。これは、小さい本ですが、まことにおもしろかった。これまでいろいろ疑問に思っていたことの答がきわめて簡潔に、適確に書かれていて……200ページちょっとですが、なんか、けっこうぶ厚い本を一冊読んだ感じ……こんな感覚を味わったのは、ほんと、久しぶりだなあ……この本は、ヨーロッパ中世の哲学者(神学者というべき?)ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスについて書かれた本なんですが、ヨーロッパ中世哲学の概観にもなり、さらに、なぜ、日本人である著者が、中世スコラ哲学という、一見かなりかけ離れた分野の探求に至ったかという必然性も書かれていて、これ、現代日本のいろんな問題にも直結する、けっこう「今の日本と日本人」にもだいじな本かな……と感じました。

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス……この名前、ヨーロッパの哲学者の中でもかなりマイナーな……でも、実は、けっこう重要な位置にいた人みたいです。私は、以前から、クィディタス(Quidditas:通性原理)とハエッケイタス(Haecceitas:個性原理)というものに興味を持っていて、個展のタイトルとしても使わせてもらったりしたんですが……この、なにやら舌を噛みそうな言葉、いや、概念について、画期的な考え方をもたらしたのが、このヨハネスさん……うーん、なるほど……これは、もう、今はやりの?「精神世界」にも通じる……というと、「じゃあ、うさんくさいんのでは?」と思われる方もみえるかもしれませんが、ふんわりやわらかムードの「考えることより感じることが大切」じゃなくて、もうガチガチのハードな論理展開……なんだけれど、柔軟性と新鮮さをいつも失わない。スゴイ人が、700年も前にいたのだ……

「普遍」は「個」を規定する……これがフツーの考え方だと思うのですが、それでは、この世界はできない。「個性原理」すなわち、「個」を「個」たらしめることは、通常の「普遍」−「個」の対応関係の中からはけっして出てこないのではないか……私は、そんなふうに受けとりました。「個」は「個」であるからこそ、「個」たりえるんだと。これは、もしかしたらかなり斬新な考え方なのかもしれません。「自由意志」の問題とも深い関係がある……八木先生の本からちょっと引用させてもらいますと……『ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスは、個別化の原理を、質料ではなく、形相の側にあると考えられた実在性(「形相性」folmalitasという)に求めた。言い方を替えれば、現実態の側に置いた。つまり、受容的可能性の側でなく、「これ」として事物を積極的に規定する構成要素を、個別化の原理として主張したのである。』

だいじなところなので、もう少し引用を続けます。『しいていえば、ヨハネスは個物の個別性にきわめて強い意義をもたらした、ということが言える。個別性の起源をトマスのように質料に置いて考えると、個物が「一つ一つのかたちで在る」ことには大した意義はないと考えられた。すなわち、ものがる時間ある場所にどれだけあるかが当時はまったく偶然的であると見られたように、どのなかの一個の事物も、偶然的な一個でしかなく、重要なのはそれがいったい「何であるか」、すなわちどのような種に属する個体かだ、と考えられた。』『これに対して個別性の起源を形相(現実態)の側に置くと、それが「何であるか」ということも重要であるが、さらにそれよりも、「一つ一つのかたちで在る」ことが、いっそう意義があると見なされることになる。どういう意義かと言えば、一個一個が神の創造の対象となる、あるいは、神の愛の対象となる、という意義である。』

これは、もしかしたら、今でも「革命的」なものの見方かもしれない……私がうまく理解できているかはわからないのですが……たとえば、先に書いてきた音律の問題なんかにこれを当てはめると……今、目の前にある楽器、ピアノでもギターでもいいんですが、それをポローンと鳴らした場合、そこに出現するのは「個」としての音です。で、この「個音」が、たとえば平均律であるとか純正律であるとか……なんらかの一連の音程の中のある音がたまたま鳴らされたと考えるのか……それとも、今、ここに、この「音」が鳴った……そこに、音律とか関係なく一つの「意味」を認めるのか……そういう違いになると思う。言葉で書くと、なんだかわかりにくいんですが(どっちでもいいようにも思えますが)、これ、音楽を演奏する人にとっては、けっこう重大な問題だと思う。というのは、音楽をやる場合、人は、「音律の中のある音を奏でる」というふうには、ふつう考えないと思うから。今、ここに鳴った音は、やっぱりそれだけで、だいじな「意味」を持っている……

ここらへん、「普遍」と「個」において、人が陥りがちなある「考えのワナ」をみごとに指摘してると思うんですよね。音楽を奏でたり聴いたりするとき、人は、フツーは音律のことなど考えず、そこに奏でられる「音楽」に意味を見いだす。ところが、「普遍」と絡めて考えはじめると、そこには「音律」や「和声」の問題が出てきて、現実に鳴ってる音楽が、あたかも、そういう「普遍的な」ものから出てくるように錯覚する。だけど、実際には、そこにある「音楽」がすべて……というか、そこにあるもの以上の「意味」を考えはじめると、人は、かえって、そこにそのままあるものの「存在」を見失ってしまう……これは、絵の方でも同じで、人は、構図や配色や遠近法によって絵を描くのではなく、そこに、そのように存在するように描いていくわけで……これは、人間のアタマの中に生まれてしまう錯覚を鋭く突いた明察……この論が行われていたのが、なんと13世紀……中世って、暗黒でもなんでもなかったんですね。いまでもみずみずしい……

インターネットで音律のことをいろいろ検索してみると、もう山のようにいろんな情報が出てくるのですが……音律と、実際に奏でられる音楽の関係をきちんと押えたものは意外に少ない。すなわち「個」としての音楽の出現の方を重視したものが少なく、多くの論が、音律の複雑な分析に足を取られている……そういう風に感じます。その中で、じゃあ、実際に、オーケストラやバンドで演奏される曲が、なぜ違和感なく響くのか……ということを論じていたサイトがありました。要するに、音楽は、音律で鳴ってるのではなくて、実際には、コレコレという人が、歌ったり、なんか特定の楽器を吹いたり弾いたりして、その「音楽」が鳴る……人の歌声も楽器の音も、単純なサインカーブでできてるんではなく、複雑な倍音を含んでいるし、声も楽器も、演奏の仕方によっては、音程の上げ下げとか微妙にできる。それができないピアノみたいな楽器でも、音量やタッチや声部の入りをちょっとずらすとか……要するに、実際の演奏は実際の演奏なんだと。

つまり……理論的には、平均律だとどの和音も狂ってるとか純正調だと音程がバラバラとか……そういう「欠陥」を、機械がやればそのまま演奏するのかもしれないけれど(しかも、それでも「現実に出現した音」ではあるが)、人が演奏するのは「その曲」なので、パフォーマンスでいろんな欠陥を吸収しつつ、ちゃんとその「曲」を演奏するのだと……そして、もしかしたら、このことは、ヨハネスさんに言わせると、人の「意志」にかかわってるのかもしれないです。自由意志……それは、「自由」であるがゆえに「自由意志」なんだと。これは、今では当たり前みたいに思われることかもしれませんが、時代は13世紀……よくこんな、斬新な考え方ができたもんだなあ……でも、音楽でいっても、12世紀ころから、「ソレ以外に歌い方がなかった」教会音楽を、ポリフォニーにしてさまざまに展開するワザがはじまってますし……「12世紀ルネサンス」といいますが、この時代、なかなか、いろいろ新しいことが生まれてきてたんですね……

「ボクは、絶対音感があるから、耳が聴こえなくても作曲できる。」シツコクこの言葉に戻りますと……この言葉は、まさに「絶対音感」という「平均律に裏打ちされた普遍」をタテにして、その「下」に「個としての音楽」をぶら下げて「どーだ!スゲエだろう」という欺瞞……で、現代の日本の人々は、これにコロコロッとごまかされて「スゲエ!」……ヨハネスさんが、もう700年も前に打ち砕いた「錯覚」でだます方もだます方だが、だまされる方も……やっぱり、ことに音楽の世界では、「絶対音感」なるオーラは、まさに「絶対」。このオーラがかぶってれば、いかなる曲も超名曲に……ということは、聴く方は、「曲」を聴いてなくて、アタマの中のオーラ、つまり「普遍」を聴いてる……まあ、日本における「クラシック」の受容なんて、そんなもんかもしれません。やっぱり「19世紀ヨーロッパオーラ」ってすごいなあ……ホントに作曲した方にすれば、一種の「アソビ」というか「息抜き」だったかもしれませんが、それが「芸術」に……

この事件は、日本において、いかに「日本耳」が淘汰されつくし、絶滅の一歩手前にあるか……そのことを、よく示していると思います。で、この「絶滅」が、音楽の価値そのものによってなされた(つつある)んじゃなくて、そのまわりのさまざまなニセオーラ……まあ、19世紀ヨーロッパに対する根拠のない?あこがれやなんやかや……から醸成されてきたものであるのもまことにナサケナイんですが、人間の文化なんて、いつでもそんなモンかもしれません。ヨハネスさんの頃も今も、そういった事情はあんまり変わりないのでは……だから、ヨハネスさんの言葉が新鮮に響く……八木先生によりますと、ヨハネスさんの故郷のヨーロッパでも事情はよく似ているみたいで、ヨハネスさんの本格的な研究もようやく始まったばかりだそうです。まあ、「中世」に「暗黒」のレッテルをはって処理しちゃったのが、実は、今になって、現代のわれわれの直面しているさまざまな問題の根っこがそこにあったんではないかと……「中世=暗黒」を直輸入しちゃった日本はもっとヒサン……

ということで、「普遍」をめぐるお話もとりあえずひとくぎりなんですが……最後に、フランク・ハーバートの大河SF『デューン』のことを……この作品、読まれた方も多いと思うのですが、最初の方で主人公になってるポウル・アトレイデ・ムアッディブ……彼は、「クイサッツ・ハデラッハ」という特別の存在でした。……いや、最初からそうじゃなくて、物語の中でそういうタイヘンな方になるんですが……これがなんと、「個でありながら普遍である」というモノスゴイ存在……うーん、どうしても、ヨハネスさんの「クィディタス・ハエッケイタス」を思い出してしまいます。「クイサッツ・ハデラッハ」は、原語では Kwisatz Haderach と書くようです。Quidditas Haecceitas と関連があるのかどうか……それはわかりませんが、『デューン』は、全体として、ヨーロッパ中世とアラビアが出会ったみたいなイメージがあって、それが、ヨハネスさんが活躍していたころの中世ヨーロッパのふんいき……アラビア経由でギリシア哲学がもちこまれたときの状況にそっくり……

といっても、私は、中世ヨーロッパには行ったことがないし、まして『デューン』の惑星アラキスにも……ということで、まったくの妄想にすぎないのですが、世の中、ふしぎなことがいっぱいあります……つづきはまた改めて。