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今日のkooga:デンドロイド_01/Dendoroid_01

デンドロイド_01_900

デンドロイド/Dendoroid は、私の造語で、デンドロン(dendron:ギリシア語で「樹」の意味)とアンドロイド(人造人間ということですが、元はギリシア語のアンドロス、男、人の意から)をくっつけました。要するに、人間の造ったものが、朽ちて植物に呑みこまれて一体となった状態……これ、なぜか惹かれます。

英国のSF作家、ジョン・ウィンダムに『トリフィドの日』という作品があります。ずいぶん昔に読んだので詳細は忘れましたが、なんか、街が植物に呑みこまれていく……みたいな話で、映画にもなりました。街や村で見るデンドロイドたちはずっと規模が小さいですが、まあ、主旨としてはよく似たもんです……

もしかしたら、人間には、植物に対するかすかな「罪の意識」みたいなものがあるのかもしれません。吐き出す二酸化炭素を処理して酸素をつくってもらってるだけでも大恩があるのに、米や麦や野菜や果物……肉食の人も、牛や豚の飼料は植物だし……で、みどりを窓辺において心のやすらぎを得る……

つまり、人間は、植物からいろいろもらうだけで、なんにも返してないなあ……と。森をつくったり田畑をつくったりするけれど、それも全部人間のため。植物が喜んでるかどうかはきわめてギモンだなあ……と思ってると、うちの奥さんが面白いことを。「いつも通る道に、花の咲かない山桜があったんだけど……」

「この桜、もう咲かないのかなあ……と思ってたけど、通るたびにあいさつしていたら、二三年前から花が咲くようになった……」「空家の樹が咲かなくなっても、人が住めばまた咲くようになることもあるのよ」……うーん……なるほど……植物は、こっちが思ってる以上に人のことを知ってるのか……

でも、いなかに住んでると、やっぱり日々、植物との戦いです。特に春から秋にかけては……夏なんか、二三日ほっとくともう家のまわりは草ぼうぼう……で、草が生えると虫がきて、薮になると小動物がきて、さらに大きな動物も……要するに、植物は自然のフロントで、常に人間の領域を浸食しようとする……

というわけで、いなかぐらしは自然と共に……なんてノンキじゃなくて、自然との戦いです。いかに植物をなだめて人間の領域を守っていくか……里山というものは、そうやって形成されてきたんだけど、最近は過疎化で人間の分が悪い。限界集落なんかでは、もうホントにトリフィドの日々が続く……

で、人間は、太古に滅びた植物の身体から採った油を機械に入れて、ブィーンと回してバリバリ刈ってしまうわけですが……私もやりますが、実に暴力的です。オソロシイ……実際、草刈機(正式名称は刈払機)は事故も多くて、うちの集落でも太ももをバッサリやって出血ショックで死んだ人も……

まあ、そんなこんなで、日本の面積の大部分を占める森林地帯と人間の領域のはざまでは、人間と植物の熾烈な?戦いが繰り広げられているわけですが、街の人たちはほとんどそんなことは知りません……ここにかかげた写真は街で撮ったものですが、街だと、デンドロイドもこんなかんじで美しい……

いなかはもう、ほとんどの場所がデンドロイドそのもので、無法デンドロゾーンとでもいいましょうか……街に住んでた頃は、いなかの人はいつもきれいに暮らしてるなあ……と思ってたんですが、現実には、あの状態を保たないとあっという間に植物に浸食されて人間の領域がなくなる……オソロシイもんです……

STAP細胞?(つづき)

ソラリス_900

なぜか気になるスタップ細胞……顛末のふかしぎさもさることながら、このモンダイ、さらに根本にあるギモンとして、「なんにでもなる」細胞つくりって、ホントはどういうことなのかな? ということも考えさせられます。山中さんのアイピーエス細胞もそうなんですが、結局なにがやりたいのか……それを一言でいうなら「不老不死」で、これは、人類が大昔から追い求めた夢なんだと……それが、最先端の生命科学で可能に……ということで、みんな、ここに夢とロマンをかけて……そんな感じで、人間って、不老不死の妙薬を求めて徐福をジパング?につかわした秦の始皇帝のころから変わってない。大昔は、一握りの権力者の夢だったものが、今では万人の夢に……

なので、これは、発想が根本からオカシイ? まあ、身体の一部を失ったり、機能が悪くなったりした人が、その部分の「再生」を切に願うのは当然だと思います。しかし、失ったら、やっぱり失っただけの意味はあるんだと思う。キビシイ見方ですが……そこを見ていかないと意味がないのでは……なくなったものは再生すればいいって……プラナリアじゃないので、やっぱりそこは考えるべきところだと思います。植物なんかだと、「再生」というのは当たり前のことで、別にふしぎでもなんでもない。植物のあり方自体が、もう「再生」というか、連綿と続いて広がっていくようないのちのあり方なので……これが、動物になるとかなり様子が変わる。単純な動物だと「再生」はありえても、複雑になればなるほど難しい……これはなにを意味するか……

これは、おそらく「個」というものが関係しているんだと思います。要するに、動物は、「個」を得た代償として「再生」を失った。「再生」は、どこか「全体」に通じる雰囲気がある。切り離された「個」に対して、のべーっとどこまでもつながっていくような、そんな気分があります。だから、動物でも、「個」があんまり際立たない、単純な構造のものは、植物みたいな「再生」の気分が漂う。しかるに、「個」が際立ってくればくるほど「再生」も難しくなる……「個」を区分するのは、遺伝子レベルから身体全体の免疫構成に至るまで、いろんなメカニズムが働くのでしょうが、それが「必要」というのは、どういうことなのだろうか……なぜ、生物界は、「個」が薄くて、どこまでも広がる「植物」だけではいけないのでしょうか……考えさせられます。

進化・発生の系統としては、植物が先で動物が後……ということはないのかもしれませんが、なんとなく、「全体」みたいなものが先にあって、後に「個」が出てきた……みたいな感じだと、気分的に納得できるような印象……まあ、おそらく単細胞生物が多細胞になるときに、「動物界」と「植物界」が際立ってきたのでしょうが、それにしてもふしぎだ……生命の二つのかたち……これは、やっぱり「相補的」なのかもしれない。植物の特徴としては、多細胞になればなるほど「土地」への密着性が強くて、大地や海底を覆って、地球表面を生命の絨毯で埋めていく……これに対して、動物の方は、多細胞になればなるほど「個」としての独立性が強くなり、自分の身体の中に「ミニ大地」を取りこんで、惑星の上に「個の競演」をくりひろげる……

動物の「個」は、極端に際立つとロケットをつくって大地を離れ、宇宙にまで行ってしまうわけですが……その「役割」というのは一体なんだろう……私の思考は、いつもここで止まってしまいます。タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』では、宇宙の彼方の惑星ソラリスをめぐるステーションで、主人公のクリスがお弁当箱みたいな金属の箱に植物を育てていた……彼の思考とともに、ステーションには昔の恋人が現われ、ソラリスの大地には彼の実家とまわりの環境が造られます……お弁当箱の植物も実家のシーンもレムの原作SF小説にはなく、タルコフスキーの解釈であろうと思われますが、地球という遊星をどれだけ離れても人は地球の子であり、地球をいつまでもその身体のうちに持って、その精神もやはり地球から離れられない……

植物はその象徴なのかもしれません。家のまわりの樹々……豊かに流れる水の中には緑の水草が、バッハのBWV639コラールにのってゆらめく……人は、どこまでもこういうものを内にもちながら、「個」として際立って、宇宙のはてまで行こうとする……今回のスタップ細胞事件は、こういう人間の矛盾した欲望を如実に現わしたものみたいに思えます。「個」を保ちつつ、「全体」も手にいれたい……もし、アイピーエスやスタップで「不老不死」が実現したとすると、人は、自分というものを次々に「再生」させてどこまでも「個」を保つ。しかし、そうやって保たれる「個」の意味は、どこにあるんだろう……「死の恐怖」……そんな言葉が浮かんできます。ただ、「死」から逃れるためだけにそんなことをするんだったら無意味だ……

「個」を手に入れる代償として手放した「再生」を再び手に入れて、動物でも植物でもないものになろうとするのか……それは、なぜ、生命界が「動物」と「植物」に分かれているのか……そこをきちんと理解した上でないとやっちゃいけないことのような気がする……「原子核」の中に踏みこんだのと同じ誤りを、ここでもまた冒そうとしているような気がします……哲学の必要性……科学は、哲学から分かれ、哲学を切り捨てた時点で「無限進化の可能性」を獲得したように見えますが、捨てられたはずの哲学の残滓は、今も「生命倫理」というかたちで細々と生きている。でも、人間の複製とか「個」にもろにかかわってくる時点までは、それは「考えなくていい」領域として圏外に追いやられているようにみえる。はたしてそれでいいのだろうか……

哲学と科学技術の発展の不均衡は、それ自体ですでに「問題」であると思います。科学者は、自分のやっていることの「意味」を、「個」と「世界」の関係においてきちんと理解した上で、はじめて「研究」を進めることができる……やっぱりそういうところまで戻る必要があるのではないか……動物が不死性を獲得する……その唯一の形態が「がん細胞」であると言われますが、「がん細胞」は「なんにでもなる万能細胞」の対極にある「なんにもならない無能細胞」なんだろうか……これは、結局、細胞自身が「個」を主張しだした究極のかたちなんでしょう。人は「がん」を怖れるが、それは、自分という「個」の一部が反乱を起こして「自分」になるのを拒否する状況なんだけれど、がん細胞にとっては、それこそが「自分」という「個」の独立宣言だ……

人の意識は、やっぱりふしぎです。「個」であることは、どうしてもそれだけの「重み」を背負う。それは、人の意識にかかる「負荷」として、「個」と「世界」、「個」と「全体」の問題を考えさせる。私が私であることの意味……それは、いったいなんなのか……人が、「死の恐怖」からやみくもに「再生」を願う……それは、目覚めたばかりの「個」に特有の素朴な反応なのかもしれません。そして、そういう方向を盲目的な「善」とするところに、今回のスタップ細胞さわぎの根本的な原因があるのではないだろうか……「未熟な研究者」という言葉が何回も出てきましたが、そういう意味では、人類自体が未熟だ……まだ、ようやく「個」としての意識のはじまりに立っているということは、やっぱりあるんだと思います。

今日の i(k_k)u:大東京火災海上冬の月/Great-Tokyo fire and marine lunatic winter had come.

大東京火災

昔、街を歩いていると、濃緑色の地に真っ赤な文字で「大東京火災」と書いてある看板……見るたびにドキッとして、なんか胸騒ぎを覚えた……ふしぎな梵鐘のマークが、またいっそう不安感を増す……企業の看板って、ふしぎです。とくに大企業は、そこら中に看板があるので意識に与える影響力が強い。私にとって、この看板は、一種の「不安のネットワーク」だった……i(k_k)u

この看板、いつのまにか見なくなったなあ……と思ってしらべてみたら、2001年に千代田火災と合併してあいおい損保になっていたのでした……あのロゴとマークは、企業の看板としては突出してよくできていたと思うのでまことに残念……あれに匹敵するのは、佐藤商事のマークくらいかな……佐藤商事は、大東京火災海上よりは企業規模が小さかったので、なかなか見かけないのですが……(この会社は今もある)

私は、ずっと以前に、ある小さな句会に参加していて、「図案」という号でいろいろヘンな俳句をねじって?おりました。この句は、冬の句会のときにつくったものですが、自分でもけっこう気にいってます。内容は、取り方によってはちとオソロシイのですが、まあ、例の釣鐘の看板の上に寒そーな冬の月がこーこーとかかっている情景でも想像してもらえれば……(私自身は、いつも違う想像が浮かんでくる)

濃緑色と真っ赤の組み合わせは、けっこう強烈ですね。これ、自分では「軍隊色」と思ってます。ヘモグロビン(動物)とクロロフィル(植物)の組み合わせでもある。生命の色は、この2色なんでしょう……これが「軍隊色」になってしまうのが、やっぱりオソロシイと思います。バングラデシュの国旗はまさにこの2色ですが、これに黄色と黒が加わるとラスタになる。さらに青が入るとオリンピックだ……

今日のkooga:なんかの芽/Bud of Someone

なんかの芽

なんかの芽です。スーパーで買ってきて、ばっさり切って使ったのにそのまま水をやっていたら再生してきました。これ、うちの奥さんにいわせると「とうみょう」というそうで、スーパーでさがしたら、おんなじのが、「豆苗/えんどうの芽」として売られてました。そうか、えんどうだったのか……

よく見ると、切ったところはそのままなんですが、新たに別のところが伸びて、その先端は細いツル状になっています。そうか……これが「成長点」というヤツなのか……調べてみると、植物の成長は、この成長点によって長さ方向に伸びて行くのと、木の幹が太くなるみたいに、全体が大きくなる形成層による成長があるそうです。

では、動物は??と考えると、動物の成長って、植物とは全然ちがうみたいに感じます。身体が大きくなっていくのは、植物の形成層による成長と似ているようにも見えるけど、成長点による成長って、動物はやらないみたいですね……たとえば、われわれの指の先が成長点になってたら、指はどんどん長くなってくりんくりんに……

でも、爪なんかはそうかもしれないですね。あと、髪の毛なんかも……でも、植物では、身体全体が成長点に引っぱられて伸びていく。動物の場合は、身体全体の設計図みたいなものがあらかじめ決まっていて、成長によってその設計図どおりの身体を完成していく感じです。むろん、食い意地がはって、予想外に横に成長したりはありますが……

その差はどこから??……というと、これは、植物の細胞は、動物の細胞にはない、細胞壁、つまり、細胞全体を包む強固な膜を持っているというところにあるらしい。いったんこの細胞壁が完成されてしまうと、その細胞はそれ以上大きくならない。つまり、そこまで成長してきた細胞は、細胞壁に囲まれて、一種、不動産のような資産になる。

これに対して、動物の場合は、株式投資みたいなもんでしょうか……細胞壁がないので流動的……うーん、そうしてみると、かつてのバブル経済期に、不動産を株式みたいな投資の対象としてでっかくさせようと思ったのは根本的にムリがあったのか……まあ、それはともかく、なぜ、生命が動物と植物に大きく分かれるのか……これはふしぎです。

豆の芽が、いったん切られても別のところからどんどん成長していくふしぎ……水をやって、光にあてているだけなんですが、それで、けっこう買ってきたときくらいの大きさになってしまいました。それをバッサリやってまた育てていますが、こんどはどうなのかなあ……ちょっと、『ソラリス』や『オブリビオン』の小さな植物を思いだしました。