なぜか気になるスタップ細胞……顛末のふかしぎさもさることながら、このモンダイ、さらに根本にあるギモンとして、「なんにでもなる」細胞つくりって、ホントはどういうことなのかな? ということも考えさせられます。山中さんのアイピーエス細胞もそうなんですが、結局なにがやりたいのか……それを一言でいうなら「不老不死」で、これは、人類が大昔から追い求めた夢なんだと……それが、最先端の生命科学で可能に……ということで、みんな、ここに夢とロマンをかけて……そんな感じで、人間って、不老不死の妙薬を求めて徐福をジパング?につかわした秦の始皇帝のころから変わってない。大昔は、一握りの権力者の夢だったものが、今では万人の夢に……
なので、これは、発想が根本からオカシイ? まあ、身体の一部を失ったり、機能が悪くなったりした人が、その部分の「再生」を切に願うのは当然だと思います。しかし、失ったら、やっぱり失っただけの意味はあるんだと思う。キビシイ見方ですが……そこを見ていかないと意味がないのでは……なくなったものは再生すればいいって……プラナリアじゃないので、やっぱりそこは考えるべきところだと思います。植物なんかだと、「再生」というのは当たり前のことで、別にふしぎでもなんでもない。植物のあり方自体が、もう「再生」というか、連綿と続いて広がっていくようないのちのあり方なので……これが、動物になるとかなり様子が変わる。単純な動物だと「再生」はありえても、複雑になればなるほど難しい……これはなにを意味するか……
これは、おそらく「個」というものが関係しているんだと思います。要するに、動物は、「個」を得た代償として「再生」を失った。「再生」は、どこか「全体」に通じる雰囲気がある。切り離された「個」に対して、のべーっとどこまでもつながっていくような、そんな気分があります。だから、動物でも、「個」があんまり際立たない、単純な構造のものは、植物みたいな「再生」の気分が漂う。しかるに、「個」が際立ってくればくるほど「再生」も難しくなる……「個」を区分するのは、遺伝子レベルから身体全体の免疫構成に至るまで、いろんなメカニズムが働くのでしょうが、それが「必要」というのは、どういうことなのだろうか……なぜ、生物界は、「個」が薄くて、どこまでも広がる「植物」だけではいけないのでしょうか……考えさせられます。
進化・発生の系統としては、植物が先で動物が後……ということはないのかもしれませんが、なんとなく、「全体」みたいなものが先にあって、後に「個」が出てきた……みたいな感じだと、気分的に納得できるような印象……まあ、おそらく単細胞生物が多細胞になるときに、「動物界」と「植物界」が際立ってきたのでしょうが、それにしてもふしぎだ……生命の二つのかたち……これは、やっぱり「相補的」なのかもしれない。植物の特徴としては、多細胞になればなるほど「土地」への密着性が強くて、大地や海底を覆って、地球表面を生命の絨毯で埋めていく……これに対して、動物の方は、多細胞になればなるほど「個」としての独立性が強くなり、自分の身体の中に「ミニ大地」を取りこんで、惑星の上に「個の競演」をくりひろげる……
動物の「個」は、極端に際立つとロケットをつくって大地を離れ、宇宙にまで行ってしまうわけですが……その「役割」というのは一体なんだろう……私の思考は、いつもここで止まってしまいます。タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』では、宇宙の彼方の惑星ソラリスをめぐるステーションで、主人公のクリスがお弁当箱みたいな金属の箱に植物を育てていた……彼の思考とともに、ステーションには昔の恋人が現われ、ソラリスの大地には彼の実家とまわりの環境が造られます……お弁当箱の植物も実家のシーンもレムの原作SF小説にはなく、タルコフスキーの解釈であろうと思われますが、地球という遊星をどれだけ離れても人は地球の子であり、地球をいつまでもその身体のうちに持って、その精神もやはり地球から離れられない……
植物はその象徴なのかもしれません。家のまわりの樹々……豊かに流れる水の中には緑の水草が、バッハのBWV639コラールにのってゆらめく……人は、どこまでもこういうものを内にもちながら、「個」として際立って、宇宙のはてまで行こうとする……今回のスタップ細胞事件は、こういう人間の矛盾した欲望を如実に現わしたものみたいに思えます。「個」を保ちつつ、「全体」も手にいれたい……もし、アイピーエスやスタップで「不老不死」が実現したとすると、人は、自分というものを次々に「再生」させてどこまでも「個」を保つ。しかし、そうやって保たれる「個」の意味は、どこにあるんだろう……「死の恐怖」……そんな言葉が浮かんできます。ただ、「死」から逃れるためだけにそんなことをするんだったら無意味だ……
「個」を手に入れる代償として手放した「再生」を再び手に入れて、動物でも植物でもないものになろうとするのか……それは、なぜ、生命界が「動物」と「植物」に分かれているのか……そこをきちんと理解した上でないとやっちゃいけないことのような気がする……「原子核」の中に踏みこんだのと同じ誤りを、ここでもまた冒そうとしているような気がします……哲学の必要性……科学は、哲学から分かれ、哲学を切り捨てた時点で「無限進化の可能性」を獲得したように見えますが、捨てられたはずの哲学の残滓は、今も「生命倫理」というかたちで細々と生きている。でも、人間の複製とか「個」にもろにかかわってくる時点までは、それは「考えなくていい」領域として圏外に追いやられているようにみえる。はたしてそれでいいのだろうか……
哲学と科学技術の発展の不均衡は、それ自体ですでに「問題」であると思います。科学者は、自分のやっていることの「意味」を、「個」と「世界」の関係においてきちんと理解した上で、はじめて「研究」を進めることができる……やっぱりそういうところまで戻る必要があるのではないか……動物が不死性を獲得する……その唯一の形態が「がん細胞」であると言われますが、「がん細胞」は「なんにでもなる万能細胞」の対極にある「なんにもならない無能細胞」なんだろうか……これは、結局、細胞自身が「個」を主張しだした究極のかたちなんでしょう。人は「がん」を怖れるが、それは、自分という「個」の一部が反乱を起こして「自分」になるのを拒否する状況なんだけれど、がん細胞にとっては、それこそが「自分」という「個」の独立宣言だ……
人の意識は、やっぱりふしぎです。「個」であることは、どうしてもそれだけの「重み」を背負う。それは、人の意識にかかる「負荷」として、「個」と「世界」、「個」と「全体」の問題を考えさせる。私が私であることの意味……それは、いったいなんなのか……人が、「死の恐怖」からやみくもに「再生」を願う……それは、目覚めたばかりの「個」に特有の素朴な反応なのかもしれません。そして、そういう方向を盲目的な「善」とするところに、今回のスタップ細胞さわぎの根本的な原因があるのではないだろうか……「未熟な研究者」という言葉が何回も出てきましたが、そういう意味では、人類自体が未熟だ……まだ、ようやく「個」としての意識のはじまりに立っているということは、やっぱりあるんだと思います。