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ハイブリッドの勝ち?/Will hybrid drive system win?

ハイブリッドの勝ち?_600
Mwa ha ha ha……You are a stupid fellow, aren’t you?

欧州車はクリーンディゼル、日本車はハイブリッド……なんか、そんなイメージがありましたが……まあ、日本車といっても主体はトヨタなんですけど、フォルクスワーゲンが勇み足で自滅したので、これからの流れはハイブリッドに……そんな理解でいいのでしょうか……そう思って、ちょっと調べてみると、うーん……コトはそうカンタンでもないみたいです。

要するに、これからのクルマ、未来を征するエンジンはなにか? ということですが……まあ、電気自動車や燃料電池車なんかはエンジンじゃなくてモーターだから、これからのクルマの駆動機関はなにか? といった方がいいのかもしれませんが、候補はだいたい、次のようになっているのかな?

★ガソリンエンジン(レシプロかロータリーか)
★ディーゼルエンジン(クリーンディーゼル)
★ハイブリッド(ガソリンエンジンとバッテリーとモーター)
★電気自動車(バッテリーとモーター)
★燃料電池車(燃料電池とモーター)

ガソリンエンジンは、ロータリーがマツダの限定車種だけなので、ほぼレシプロ一色といってもいいのでしょう。今はこれが、やはりいちばん多いけれど、ディーゼル(クリーンディーゼル)とハイブリッドが徐々にそのシェアを侵しつつある……というところでしょうか。電気自動車はバッテリーの問題があるし、燃料電池車はインフラ整備が追いつかないのでまだまだですね。

未来になにが「勝つ」か……これは、技術の問題だけでは片がつかないのがやっかいなところ。各国の規制や消費者の好みや資源や地球環境の問題や……政治がらみ、経済がらみでこんぐらかった糸が縦横無尽に……まあ、車輪を回転させるという点からすると、モーターで駆動する電気自動車と燃料電池車が、クルマとしてはもっとも「正直」な構造なんでしょうが……

ガソリンエンジンやディーゼルなど、内燃機関は、車輪の回転数の制御を直接エンジン出力で行わずに変速ギアをかませるので、構造も複雑になるし、エネルギーロスもある。この点からするとモーターと車輪を直結できる電気自動車と燃料電池車は有利。ただ、高速域での加速にかなりのエネルギーを必要とするそうですから、やっぱり変速機は必要という意見もあるようですが。

それと、電気自動車の最大の困難がバッテリーの問題。これは、航続距離に直結する。つまり、航続距離を長くしたければ、でかいバッテリーを積まなきゃならない。燃料電池車では、これが水素ボンベになるわけですが……この問題は、まだ根本的に解決されていないみたいですね。それと、電気自動車は感電、燃料電池車は水素ボンベの爆発の危険はないのかな?

電気自動車の高圧バッテリーは、通常の状態では何重にもガードされているから感電の危険はないようですが、問題は衝突したとき。今は、まだ台数が少ないから現実化はしていないようですが、レスキューでは耐電服(7000Vに耐えられる)や耐電仕様のグローブ、長靴を用意しており、訓練でも漏電チェックなどで、ガソリン車やディーゼル車に比べると時間がかなりかかるということです。

燃料電池車の水素ボンベの爆発の危険もやっぱりあるみたいですね。なにしろ、水素を350気圧(場合によっては700気圧)という高圧で封入しているので、事故が起こったら大爆発という危険性も……これはもう、ガソリン車の炎上の危険性なんかとは比べものにならないでしょう。それと、燃料電池車は、排気管から出るのは水だけという「究極のエコカー」がウリなんですが……

実は、燃やすための水素をなにからつくるかといえば、現在は石油や天然ガス、石炭という化石燃料を改質してつくるのが主流だそうで、その過程でやっぱりCO2も排出される。つまり「見せかけエコ」ということで、まあ、一種のサギに近い。かといって、水を電気分解してつくる方法では、じゃあその「電気」はどっから得るんですか?ということで、結局石油や原子力……

トヨタは「水素社会」といって、いかにも燃料電池車が「エコ」みたいな言い方をしてるけど、実質は化石燃料や原子力頼み……「どこがエコなの?」といいたくなります。ということで、電気自動車も燃料電池車も、フレコミほど「未来を開く」力は持ってない。ということになりますと、やっぱりガソリンエンジンと電気のハイブリッドか、あるいはクリーンディーゼル……

ハイブリッドの方は、ガソリン車と電気自動車のいいとこどりで、現在のところけっこう伸びてますね。一口にハイブリッドといっても、ガソリン車の減速時のエネルギーで発電機を回す12V、今主流の100V、そして両者の中間の48Vと、いろんなタイプがあるみたいですが、12Vだと電装品への電力供給くらいにしか使えないので、ホントの意味のハイブリッドは48Vか100Vなんでしょう。

でも、やっぱり怖いのは感電ですね。ハイブリッド車の事故に対しては、レスキューは感電防止手袋をつけるようです。それと、どうしても電池のサイズは問題で、結局今のハイブリッドは、主体はやっぱりガソリンエンジンなんでしょうね。コンセントで充電できるプラグインハイブリッドもできてきてますが、これは電池サイズが大きくなるので、うまく普及するのだろうか??

ディーゼルエンジンの排気部分に触媒フィルターを使ってNOXなどを除去するクリーンディーゼルは、触媒に貴金属を使うことから、できるだけフィルターの寿命を伸ばしたいということで、NOXの規制の厳しいアメリカで、フォルクスワーゲンがあのような事態に……これはもう、一種の確信犯というべきか……要するに「あんたとこの規制基準、厳しすぎるぜ」といってる。

でも、おおっぴらに言えないので、ソフトであんな工作を……例えは悪いけれど、日本では今、20才にならないと酒もタバコもダメで、「コンパで酒も飲めんじゃん!」というのと同じ感じというと怒られるかもしれませんが……フィルターでNOXを取る方式よりも、エンジン自体をNOXの排出が少ない構造にするマツダみたいなやり方が、結局はいいのかもしれませんが……

ただ、私が思うには、ガソリンエンジン、それもレシプロエンジンは、そんなに急になくなることはないんじゃないかと……いろんな点から考えて、よくできた駆動装置だと思います。磨きがかかってるというのか……モノそのものは19世紀ベースですが、人類の19世紀のいろんな課題がまだまったく片づいていないのと同様、レシプロガソリンエンジンもなかなか次にその王座を譲らない。

電気自動車のように感電の危険のあるでかいバッテリーも必要ないし、燃料電池車のように爆発の可能性のある水素ボンベも要らない。点火プラグで点火するので、ディーゼルのように高圧縮も必要ない。考えてみれば、いろんな駆動方式の中で、いちばん「おだやかな」仕組みではないだろうか……システム全体に、あんまりムリを強いていないというか、ソフトでフレキシブルにつくってある。

ということで、「未来のクルマ」はやっぱりガソリン車?ということに?? じゃあ、もうちょっと堀り下げて、もっと根本的なところから問題を考えてみたらどうだろう……要するに、「なぜ、クルマが必要か」ということなんですが、これは結局、人間が、今のサイズの肉体を持っているから……そういうことになるのではないでしょうか。このサイズの肉体が移動する、そのために必要。

貨物にしてもそうです。このサイズの人間の肉体を維持するためのさまざまなもの、食料品、衣料品、そして家をつくるための建設資材……さらには、ガソリンや灯油などの燃料運搬、さまざまな機械類の運搬……ありとあらゆることにクルマは使われますが、そのすべてが、今のサイズの「人間の肉体」を維持することに奉仕しているといってもいい。精神的な快楽も、「人の脳」あってこそ。

クルマを公理のように前提にする社会は、ここが基準になってる。トヨタの「水素社会」は、要するに「水」のかたちで「無尽蔵」にある水素を、なにかうまい方法で取り出せば「化石燃料問題」は解決じゃないの?と言ってるような気もするけど、それって、「放射性廃棄物の処理は、未来の科学が解決する」といってここまで走ってきたコケた原発問題と、どっか良く似ているような……

原子力も、1960年当時はすごかったですよね。これこそが「未来のエネルギーだ」とかいって……原水爆はみんな反対していたけれど、原発は「原子力の平和利用だ」といって、反対する人はダレもいませんでした。「放射性廃棄物?ンなもん、未来の科学者がなんとかしてくれるさ」ということで、原子力平和利用に反対するものは、それこそヒコクミン扱い。資源の乏しい日本で、ナニをいうか!と。

ということで、「絶対白」だった原子力も、セラフィールド(英)、スリーマイル(米)、チェルノブイリ(露)、福島(日)と、重大事故がくりかえされるたびに黒ずんできて、今ではもう真っ黒。しかも、後にいくほど事故の規模がデカくなってるところがコワい。次の重大事故がどこで起こるのかはわかりませんが、スケールアップの法則?からすると、想像を絶するものになるのかも……

科学技術の発展って、結局この道だと思います。最初は真っ白で、輝くばかりの「未来」を指し示していても、スケールが大きくなるにしたがって黒くなる。つまり、それだけ人間の生活全般に浸透して、「それなしではいられない」状況になってしまったときに、ようやくその「本質」が明らかになる。そして、そうなったときにはもう時すでに遅し……ソレに頼りきった人類は、もう引き返せない。

クルマの問題も、結局「人間の肉体の問題」が解決されない限り、どこまで行っても解決に至らず、その都度、安価に安定供給されるエネルギー源をむさぼり尽くして次はなにか……と虎視眈々と狙う「欲の目」に左右されて、むなしく資源を食い尽くし環境を汚染することになる……重厚長大な「人間の肉体の問題」。これこそが、本当に「解決されなければならない問題」ではないだろうか……

イスラム国の意味は?/Can IS have any meaning?

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「イスラム国のやっていることは、むろん非人道的で残虐で、許せないものであるということは当然あたりまえのことですが……」TVなんかで、知識人の方々がイスラム国にかんして発言するときに、こういった言葉の前置きをするのが目立つように思います。つまり、まず否定であり、それを前提にして話をする。政府の対応やABくんのカイロ演説を批判したりするときに、直接入らずにこの言葉を置く。これによって、「私は、常識ある健全な立ち位置でものを言ってます」ということを、まずつまびらかにしておく。そうしないと、「え?あんたイスラム国に味方するの?」と思われても困る……と。つまり、イスラム国は絶対悪であって、それはもう「みんなの常識」なんだと。

しかし……本当にそうなのでしょうか?……なんていうと「え?あんたイスラム国に味方するの?」という言葉がとんできそうですが……でも、ものごとを「客観的に」見るばあい、片方を「絶対悪」として話をはじめるということは避けなきゃならんのでは……と、私なんか、思ってしまいます。まあ、イスラム国の側からみれば、日本もそこに入っている「有志連合」の国々こそが「絶対悪」なんでしょうし、客観的にみれば「ケンカ両成敗」で、どっちもどっちということにならないでしょうか……ここで、私は、今読んでいるヘーゲルの『精神現象学』のことを思い出すのですが……この本は、まだ読んでいる途中なので、あんまりなにも言えないんですが、でも、言いたい。

ヘーゲルというと「弁証法」で、弁証法というと「正ー反ー合」、つまり、テーゼとアンチテーゼが止揚されてジンテーゼになって……という、学校で習った「図式」が思い浮かぶわけですが……実際に元の本を読んでみると、ずいぶん印象がちがいます。ヘーゲル弁証法の図式的理解では、テーゼとアンチテーゼは、ジンテーゼを産むための材料?みたいな感覚で、その結果として生まれるジンテーゼがだいじで、まるで桃から産まれた桃太郎みたいにメデタシメデタシ……となるんですが、実際のヘーゲルは、もう「血みどろの闘争」で、対立する両者は絶対に引かず、お互いがお互いを「悪」として、相手を完全に崩壊消滅させる、ただそのことのみに全力を注ぐ……

なので、その戦いはもう悲惨そのもので、まったく妥協点がない。そんな、ジンテーゼみたいなものを産みだしてやろうなんて互いに毛ほども考えておらず、ただ、相手を滅ぼし、この世界から抹消することしか考えない……これはまさに、今のイスラム国と「有志連合」の状態そのものだ……もう、リクツもなにもなく、相手は「絶対悪」であって、この地球上から相手を消し去ってしまいたいという……ただ、そのことのみで悲惨きわまるぶつかりあいを続けています。これって、ホント、どう考えたらいいんでしょう……と悩むわけですが、ただ「イスラム国が<悪い>のは当然の前提なんですが、その上で……」という話のしかただけはしてはいけないと思う。

イスラム国とか、あるいはボコハラムとか、その他イスラム過激派の言ってることって、ずいぶんショッキングだと思います。奴隷制の復活とか、女性には教育を受けさせないとか……人類が、何千年もかけてようやく到達した「今の状態」を、ちゃぶ台返しみたいに根底からひっくり返して時計の針を巻き戻そうとしているかのような……それで、今の「文明世界」はゲゲッと驚いて、「それはまず、ありえんでしょう」ということになるわけですが……でも、今の、この先進国中心のものの考え方が「人類スタンダード」になってしまっている状況を、思いっきりひっくり返すというか、問い直す、これはもっとも鮮烈な考え方であると見ることはできないのかな?

なんていうと、「お前はイスラム国の味方か!奴隷制を肯定するのか? 女性には教育はいらんというのか!」ということになるので困るのですが……でも、そういった「健全な考え」を無条件に前提とした今のこの「文明社会」において、人々がなにも考えずに目先の幸福の追求や、自分と家族の幸せだけを考えて日々を送っている……その、見えない地脈のかなたにおいて、なにやらぶきみで複雑な動きが起こり、それが知らぬ間に成長して、ある日、「文明社会」のただなかに噴き出す……人は、それを「テロ」だというかもしれませんが、その「根」を産んでしまったのが、自分たちの「なにも考えない幸せなくらしの追求」であったことにはけっして気がつかない。

いや、気がついているのかもしれませんが、それは、実感としては感じていない。だから、テロの犠牲者に対して、「罪のない人々が殺された」という。で、テロをやった側を「極悪非道で凶暴で残忍な卑劣漢」みたいな……しかし、自分たちの「文明社会」を形成してきた根本的な考え方自体が、今、問われているのだ……というところにまでは結局、至りません。自由や平等、民主主義や、科学技術の与える快適な暮らし……今の「文明社会」が、もう無条件に「善し」としているものの「根底」を疑うべきだ……もしかしたら、イスラム国のつきつけている「本当の意味」というものは、そこにあるのではないだろうか……そういう可能性は、ホントにゼロなんでしょうか?

ものごとは、結局、すべてが相対的で、絶対悪、絶対善というものはない。そういうことなのかもしれませんが……私は、もし本当に「絶対悪」というものがあるとすれば、それは「原子力」で、これだけはもう、なんの弁明の余地もない「悪」だと思いますけれど(これについては、別のところで書いてますが)、それ以外のものごとはみな相対的で、「おまえは悪だ!」と決めつける、そういう考えの方にモンダイがあるんじゃなかろうか……やっぱり、そう思ってしまいます。ものごとを、片面から見ないこと。あっちの側に立ってみたらどう見えるんだろう……常にそういう視点を失わない……これって、なかなか難しいことだと思いますが……

イヤなものをいくら拒否しようと、それが「存在する」のは「事実」なのだから、「悪だ」という言葉だけで否定しても、なにも解決しない。イスラム国の問題は、「文明社会」の人たちが考えているみたいに、少なくとも「ボクメツ」するだけではすまないし、そういうことも、結局できないでしょう。「イスラム国」という存在ではなく、「イスラム国現象」として考えてみた場合、モンダイの意外な広がりと根深さに気がつく。人類社会は、数千年をかけて、どういうところに到達したのか……最近、TVで、スティーヴン・ピンカーさんという方の、「実は、暴力は減っている」というスピーチを見ました。以下のサイトで、その概要を知ることができますが……

1月7日放送 | これまでの放送 | スーパープレゼンテーション|Eテレ NHKオンライン
スティーブン・ピンカー: 暴力にまつわる社会的通念 | Talk Subtitles and Transcript | TED.com

この方は、ハーバート大学の心理学の先生で、いろんなデータを駆使して、「暴力は確実に減っている」ことを論証……なかなか説得力があるお話で、感心して聞いていたんですが……要するに、みんな無意識に、現代に至るほど人類社会は残酷で暴力的になりつつあると思っているけれど、実は逆なんだと。報道の発達でそういうシーンを目にする機会が多くなっただけで、ホントは昔の方がはるかに暴力的だったんだ……と。このお話からすると、イスラム国なんか、せっかく築いてきた平和な人類社会を全否定して、昔の「暴力の時代」の復活を企む、まさに悪魔のごとき……となるんですが……ちょっと待てよ……と。たしかに、人々の意識から、暴力的で残虐なものは、追い出されつつある……

それは確かだと思うのですが、でも、追い出された暴力的なもの、残虐なもの……そういったものを好む人の思いの「根っこ」は、はたしてどこへ行くのだろうか……さらにいうなら、人は、人に対しては暴力を控えるようになったのだとしても、では、人以外の存在に対してはどうなのか……クジラやイルカなんかは必死で守る人もいるけれど、現代文明というものは、昔に比べて、はるかに「自然」に、大きな負荷をかけているんではないだろうか……そこんところは、西洋的な考え方ではオッケーになるんでしょうか……いやいや、環境問題への取組みは、西洋文明の諸国こそが先進的なんだと……そういうことかもしれませんが、でも、ちょっと待てよ……と。

環境問題に熱心になるのも、最終目標が、「人間が住めなくなると困る」という、人間の利己的動機だったとすれば、それは結局「人にはやさしく、そのために、自然にもやさしく」ということで、それはおんなじこと。あくまで自然は、人間が利用するためにあるのだ……西洋スタンダードの発想は、結局、どうしても、こういう人間中心の考えを抜け出ることはできないのか……最近公開された映画の『地球が静止する日』じゃないですが、「地球と自然を守るために人類を滅ぼす」……イスラム国と有志連合の、互いに互いをサタンとののしっている掛け合いを見ていると、実は、根底で、このプロセスが、静かに進行しているんじゃなかろうか……とも思えてきます。

浜の真砂は尽きるとも、イスラム国の種はつきまじ……ものごとは、その見えてる現象の奥に、ずーっと、暗い、深い世界にまで達する「根」があって、表層の「悪」を刈りこむだけではなんにも解決しない。じゃあ、その根をなんとかしたい……と思って掘り下げていくうちに、実は、自分たち自身がその「根」にしっかりつながっているのを知って愕然とする……人類社会は、「良くなった」んじゃなくて、実は、「良くなったように見えている」だけなのか……ヘーゲルさんの『精神現象学』に、上昇する「アウフヘーベン」よりも、下降する「ウンターゲーエン」の必要性を読んでしまうのは、これは正しい読み方じゃないかもしれませんが……どうなんでしょうかね……

写真は、うちの近くの田んぼの畦みち……冬の朝日の光を受けて、なにか祈っているように見えた……中央に見える、四角い屋根のある小さな構造物は、イノシシから田んぼを守るための電気柵のコントロール装置です。ここらあたりでは、数年前からイノシシの数がやたらに増えて、田畑を荒らし、土手を壊し……もうタイヘン。こうやって、スタンガンなみの電気ショックで「防衛」したり……昨年は、小川に逃げこんだうりんこ(イノシシのこども)を村のオジサンたち数人が追いまわし、撲殺している光景をまのあたりにしてしまった……棒で、うりんこを何度もなんども殴る。息絶えるまで……なぜ、イノシシがこんなに増えたのか……そこは不問。ただ、殺す。

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短々話:ゆるキャラチューリン/Yuru-Chara Turing

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ショートショートを書いてみました……

……………………

私の職業はチューリングテスター。チューリングテストって、知ってるかな? アラン・チューリングって科学者が開発した、人工知能の性能を判別する試験なんだけど、てっとりばやくいえば、ブラックボックスの中にコンピュータを入れといて、いろんな質問をして、中に入ってるのが人間かコンピュータかを当てるっていうテストのことだ。

ここは、イベント会場。舞台の上にはいろんなゆるキャラがずらっと並んでる。一体ずつ呼び出されて、人間と並んで同じ質問を受ける。その答え方によって、ゆるキャラの中に入ってるのが、人間かコンピュータかを判定するのが私の仕事だ。ん?なんでそんなことをやるかって? まあ、昔は、ゆるキャラの中に入ってるのはみんな人間だったけど……

近頃は、人工知能の進歩で、そんなヤツが中に入ってるゆるキャラもいる(らしい)。で、私のような職業が成立するわけさ。そんなことしてどうするのって? まあ、それは、イベント。客寄せのイベントだね。みんな、あのゆるキャラは人間なのかコンピュータなのかって気にしてる。だから、その判別テストをやる。これがけっこう人気でね。

いろんな質問をしてみる。たとえばこんなふう。「このしんしはしんしのこ。ハイ、これは回文でしょうか?」人間だと、やっぱ、ちょっと考えるよね。コンピュータなら一瞬で判断できる。でも、即答するとバレちゃうから、いかにも人間が考えて答えるような間をおいて答えてくる。「えーっと……回文になってると思いますね」まあ、こんなふう。

ところが、私の方も、そこはプロだからね。ビッグデータから、コンピュータと人間との回答パターンのわずかな差を解析して質問別に備えてあって、それと参照して見抜くんだ。人間の回答と、それをまねたコンピュータの回答には、細かなパターンの差があって、何度も質問を重ねるうちに、おおよその見当がついてくる。

もちろんコンピュータ側もビッグデータを参照して、見抜かれないように人間そっくりの回答パターンで答えてくるんだが……そこはそれ、プロにしかわからないようなほんのわずかのちがいを見抜く技術ってもんがある。ん? それはどうやるんだって? いやあ、ダメダメ。それこそ企業ヒミツってもんだよ。ぜったいに公開できないね。

まあ、そんなこんなで、いろんな質問で会場を盛りあげるんだけど、とどめを刺すのは御法度。決めつけたりせずに、たとえばこんなかたちでしめくくる。「フナモンさん、あなたは96%コンピュータだという判定になりますね」これに対して、反論するヤツもいればとぼけるヤツもいる。その反応に、またいちいち会場が盛りあがるって寸法で……

といってるうちに、舞台上のゆるキャラ全員のテストが終了。すると、司会の女性が、おもむろに私の方をふりかえって言う。「それではみなさん、お待たせしました。最後に、このチューリンがチューリングテストを受けますよ。さあ、結果はどうなるでしょうか?」すると、会場全体から拍手。私は、おもむろに被験者席に移動する。

そう。なにをかくそう……実は、私自身も、チューリンというゆるキャラなんだ。チューリングテストを専門にやるゆるキャラとして、私の名も、もう全国に知られている。ゆるキャラチューリングテストの最後に、私自身のテストがあって、わっと盛りあがっておひらき……まあ、だいたい、そういうパターンなのさ。

「じゃあ、いいですか、チューリンさん。第一問、いきますよ。」最後は、人間の試験官が私に質問してくる。もう慣れっこになってるので、できるだけ人間らしく答えてやる。まあ、これは、私の方が、人間の試験官がホントに人間なのか、それを判定するチューリングテストみたいなものかもしれないね……

さて、みなさん、この私、ゆるキャラチューリンは、はたして人間なのか、それともコンピュータなんでしょうか……実は、私自身にも、そろそろわからなくなってきたんだけど……(おしまい)

……………………

この間、野外活動研究会の人たちと、ゆるキャラの話題で盛りあがりました。で、おもしろかったのが、「ゆるキャラの中にコンピュータが入ってるヤツっているんだろうか……」というギモン。なるほど……みんな、無条件に人間が入ってるって信じているけど、もしかしたら中にコンピュータが入っていたということも……

それで考えたのが、このショートショートです。まあ、コンピュータと人間の判別テストというとまっさきに浮かぶのが、このチューリングテスト。これは、実際には、人工知能の性能を判定するテストらしいんですが、そこはまあ、強引に、コンピュータか人間かを判別するテスト……というふうにしちゃいました。

現在のゆるキャラは、なぜかふなっしーを除いてはみんな喋りませんが、チューリングテストは、喋らなくてもいいみたいです。キーボードを打つとか字を書くとか、どんな通信手段でもOK。要は、「考える能力」を見るということなんですが……ただ、「考える能力」というのであれば、単純計算なんかだと当然コンピュータが勝つ……

なので、これは、「人間が考える」というその特殊性に着目したテスト方法らしい。そのあたりが、実は、精神と物質の二元論みたいな哲学的モンダイにも関連しているらしいのですが……もし、「物質から造られた」人工知能が、このテストで完全に人間であると判定されてしまったら、それは逆に、人間の「精神」自体も物質的なものだと……

判定されてしまうということになる……チューリングさんの基本的な考えは、もしかしたらそんなところにあったんじゃないかなと思います。ということは、人工知能の研究は、実は人間精神の研究にもなっているということで……これは、観点としては実におもしろい。マルクスの唯物論とはまたちがったかたちの唯物論の提唱になっている。

人間は、人間の精神を真似られるくらいの高度な人工知能を開発しようとするけれど、それは同時に、人間の精神が、完全に物質の中に取りこまれていくということを意味する。人間は、自分の精神は「安全地帯」に置いといて、あくまで主体として、客体としての「人工知能」を開発しているつもりになっているんだけれど……

それが、実は、その研究の一歩一歩が、人間の精神を物質の側に引きずり出している行為となっているのにそれを知らない……チューリングという人は、こういう意味において、かなりやっかいな哲学的な難問を提出した人という評価もできるのではないでしょうか……今日のコンピュータの基礎理論は、多くを彼に負っているといいますが……

これはまた、新しい時代の哲学といいますか、ものの考え方にも非常に大きな影響を与えているといえるかもしれません。これからの数十年間は、人工知能のモンダイが、社会的に相当大きなインパクトを与える……つまり、今の原子力みたいに、いったん造りだしてしまったらもうコントロールが効かないような状態になるとも……

いわれていますが、それはそうかもしれない。原子力のモンダイは、いかにも19世紀的なパワーとダメージの鉄槌みたいに人類を襲いますが、人工知能のモンダイは、生命科学のモンダイと合わせて、人間の哲学観や倫理観に強烈な打撃を与える「20世紀的毒」として、もしかしたら致命的な影響力をもってくるかもしれません。

ゆるキャラ……このぶきみな方々が世の中を席巻しはじめたのは20世紀の終わり頃だと思いますが……中に入っているのが人間であると信じて疑わない……信じることができ、疑がえない時代は、もしかしたらもうすぐ終わるんではないでしょうか。で、その先は……というと、もう、人間と人工知能が、「原理的に」判別不能の時代に突入する……

それは、人工知能が人間的になっていくという方向性と同時並行的に、人間が人工知能的になっていくという方向性を含んでいる。おめでたい人間の方は、前者の方向性しか認識していませんが……つまり、自分が主体で不変であるという根拠のないふしぎな立ち位置を信じて疑いませんが、その間にも、人間の人工知能化が着々と進んでいるとしたら……

この間、TVで、人工知能とプロ棋士の対戦というのをやってましたが……勝ち負けよりも気になったのは、人間の棋士が、人工知能の「さし手」を研究して、人間同士の対戦でも、その「人工知能の一手」を積極的に使おうという傾向が出てきているという報道でした。ときどき、人工知能は、人間には考えつかない手を使うことがあるそうで……

それに感心した?プロ棋士が、それを真似てみたらけっこううまくいくじゃないかと……これって、使ってる本人は、あくまで自分は人間であって、その人間が、人工知能の考えたさし手を応用してるにすぎないと思っているかもしれないけれど……実は、その人は、その分だけ人工知能になっちゃってるんじゃないか……そうは考えられないかな?

まあ、そこは考え方しだい……と言ってるうちはいいのですが、そのやり方がはやると、それぞれプロ棋士は、「おかかえ人工知能」みたいなものを持つようになって、その連中が「考えた」手に頼るようになるかも……もう、そうなると、すでに半分以上人工知能にのっとられているともいえるわけで……

まあ、それが嵩じてきますと、人間特有のものだと漠然と思っている情緒や感情の分野、さらには芸術みたいなものに至るまで、人間が人工知能化して、新しい人工知能的感情や情緒、芸術が生まれて、それがまた影響を与えて……そういうふうにして、人間自身も大きく変化していきます。

SFで、人間と機械の対決というのは一つのパターンになってる感じですが、これの場合は、あくまで人間は人間、機械は機械という一種の「二元論」がベースにある。しかし、実際に現在進行しているパターンは、人間が人工知能を進化させると同じ度合いで、人工知能が人間自身に変化を加えている……ということなのではないでしょうか。

アラン・チューリングの覚めた熱い心は、もしかしたらそんな世界をすでに見透していたのではないか……そんなふうにも思います。人間の精神は、それだけで囲われた絶対不変のものではない。むしろそれは、環境に従い、自分の造りだしたものによってどんどん自分自身が変化させられていく……そういう、アマルガムなものかもしれない……

そういうことになりますと、あらためて、「人間の心って、なんだろう?」というクエスチョンが生じてきます。それは、もしかしたら、人間自身が思っているほど特別なものではないのかもしれない……この21世紀という新しい時代は、それを人間が認識して、それでも「人間の役割って、なに?」と問い続ける世紀になるのかもしれません。

チューリング
最後に、ちょっとチューリングさんのことを……彼は、イギリス生まれの早熟の天才で、現在のコンピュータ理論の基礎をつくった人といわれています。ハードウェアが追いついてないうちにソフトウェアの基礎理論をつくってしまったみたいな感じらしくて、現在のコンピュータはみな、彼の設計した理論の上で動いている……まあ、サイバー釈迦みたいな……

その掌から出られないということで、今、いくらスゴイコンピュータをつくっても、ぜんぶ彼の設計した理論マシン(チューリングマシン)の上で動く……そういう人だったらしいのですが、人間的にはかなり欠陥が多かったみたいで(いわゆる変人)、さらに同性愛が発覚して、社会的名誉を剥奪されてついには自殺(といわれている)……。

当時(20世紀なかば)のイギリスでは、同性愛は御法度だったみたいで、彼の名誉が公式に回復されたのは、なんとつい最近、2009年のことだったそうです(英首相が公式に謝罪)。もっとも、数学やコンピュータテクノロジーの分野では早くから評価が高まり、コンピュータ関連のノーベル賞といわれる「チューリング賞」が創設されたのは1966年……

彼の死については、ナゾが多く……ウィキによりますと、青酸中毒で、ベッドの脇にはかじりかけのリンゴが……このリンゴに青酸が塗ってあったかどうかはわからないらしいのですが、まるで白雪姫のようだ……で、チューリングは永遠の眠りについたけれど、彼のマシンはその後、粘菌のように繁殖して今のコンピュータ社会をつくった……

そういうことのようです。いずれにしても、彼は、ある意味、哲学者でもあると思います。まあ、実際に、ヴィトゲンシュタインの講義なんかも聴いていたらしいですが……私は、ニコラ・テスラ、テルミン、バックミンスター・フラーの三人はまちがいなく宇宙人だと思ってましたが、一人増えました。アラン・チューリング。彼も……

宇宙人? いや、もしかしたら人工知能だったかもしれません。96%?の確率で……

三位一体とグノーシス/Trinity and Gnosticism

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三位一体とその展開について、もう少し書いてみます。

三位一体というのは、私たち日本人の眼からするととてもふしぎな考え方に映るのですが……唯一神を奉じる人たちからすれば、これは、なんというか、アタリマエといいますか、それ以外のあり方がないみたいなことなんではなかろうか……と思えてきました。

たとえば、プラトンの『ティマイオス』に出てくる「デミウルゴス Dehmiourgos」という神様がいます。この神様は、造物主なんですが、実はニセモノであって……だから、こういうヘンな?神様に造られたこの世界は、正義が通らず、悪がのさばる悲惨な世界になってしまうのだと……

じゃあ、ホンモノの神様がどっかにいるの?……というと、いるんですが、人間にはなかなかよくわからない……人間は、肉体(サルクス)と心(プシュケー)と霊(プネウマ)から成っているが、肉体と心はニセモノの神、デミウルゴス(ヤルダバオト Jaldabaoth)の支配下にあるから……

なので、人間において、唯一ホンモノの神を反映している部分が霊、すなわちプネウマで、これは、本当の神の「断片」なんですと……そしてまた、驚くべきことに、キリスト教では創造主で唯一神であるヤハウェ(エホバ)は、実はデミウルゴス、ニセの神なんだと……

じゃあキリストは?……ということになるんですが、イエス・キリストは、ヘレニズムのグノーシスでは、なんと、ホンモノの神様から遣わされた存在である……ということです。だから、イエスがしょっちゅう唱えていた「父なる神」は、これはホントの神様なんだと……

こういうことになってきますと、これはまさに『旧約聖書』の否定です。「正統派」のキリスト教は、「旧約の神」とイエスが唱えた「父なる神」はむろん同一としますから、グノーシスの連中の言ってることはトンデモナイ異端、異教のバチあたりだと……

キリスト教の基盤が固まっていく1世紀~4世紀あたりにかけては、こういう「バチあたり」(キリスト教からみて)な考え方との大論争があって、もうそれこそ生きるか死ぬか……イエス・キリストをグノーシスの連中に持ってかれるか、奪い返すか……そういう瀬戸際……

そんな状態が続いた。推測ですが……「三位一体」というのは、「正統派」の教会の連中がくりだした捨て身の荒技だった可能性もでてきますね。まあ、要するに、旧約の神ヤハウェとイエスが「本質において同じ」(ホモウーシス)とすれば、イエスを自分たちの方に「奪還」できる……

ここで、もしグノーシスの連中が勝っていたら、どんな世界になっていたか……あまりにも知識が少ないので想像することさえできませんが、世界は、今みたいにまとまらずに(今でもけっこう分裂してるけど)、もっといろんな考え方が乱立する世の中になっていたかも……

今でも、キリスト教とイスラムは、なぜか不倶戴天のカタキみたいな存在になっちゃってますが、しかし元々はけっこう同根といいますか……すくなくとも、どちらも『旧約』と『新約』はちゃんと認めている。しかしグノーシス主義だと、『旧約』は否定することになる。

キリスト教では、この世界は「神が造った世界」ですが、グノーシス主義だと、この世界は「ニセモノの神」、つまり「悪魔が造った世界」になってしまいます。もし、このグノーシス主義が勝ちをおさめていたら、今、世界はどんなふうになっているのでしょうか……

まあ、一口にグノーシス主義といっても、東方で発達したグノーシスもあれば、西方で展開されたものもあって、それぞれに少しずつ考え方がちがっていて、やたら複雑な様相みたいです。もう、そのあたりになると、専門の研究者でも意見がくい違ってきたり……

ということなので、私のようなシロウトにはとてもとてもうかがい知れない世界なんですが……しかし、今のこの世界のあり方、西洋文明が席巻するこの世界のあり方が、もしかしたら根本からちがっていたかもしれない……とすると、これはちょっと興味深いものはありますね。

ただ……デカルトなんかに典型的に見られる物質と精神(思惟と延長)の二元論は、実はかなりグノーシス的ではないか……そんな考え方もできると思います。まあ、要するに、西洋においては、表面的には三位一体を主軸とするキリスト教の「正統派」が勝ちを治めたように見えても……

内面的にはグノーシス的な考え方がずっと尾を曳いていて、それが、ときとして表にあらわれたりまた沈みこんだり……私は、若い頃、ドストエフスキーの小説が大好きで一時期、読みふけりましたが、彼の考えの底を流れていたのも、もしかしたらこのグノーシス的な考え方ではなかったか……

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この世になぜ、悪があるのか……そして、なぜ、善は悪に勝てず、この世は悪のはびこる世界になってしまうのか……人間は、なぜ、かくもカンタンに「肉の欲求」に屈するのであるか……本当の「救い」とはなにか……本当の「神」とはいかなる存在なのであろうか……

キリスト教の歴史においても、さまざまな考え方が現われ、そのうちのいくつかは「正統派」からみればけっこうグノーシス的なものもあったように思います。アッシジのフランチェスコなんかは、カトリックによって「聖人」とされていますが、彼なんか、どうだったのか……

キリスト教でいう「聖霊」とは、まさにグノーシスでいえば「霊」すなわち「プネウマ」に当たる。これも、グノーシスに取られてはタイヘンだとばかりに、旧約の神ヤハウェと「本質において同じ」であるとする。しかし……やはり「本当の霊」を希求する心は、「この悪の世界」に対する強烈な懐疑によって養われる。

フランチェスコは、青年の頃に兵役で、戦争の悲惨さをまのあたりにして、まあ、今でいう戦闘後遺症みたいな状態になって自分の村に戻り、この世界はなんでこんなに悲惨なのか……これが、ホントに神のつくった世界なのか……と深刻に悩み……そして、真の神の声を聴いた……

もう、こうなると、これはほとんどグノーシス体験だ……『カラマゾフの兄弟』でも、三男のアリョーシャは、やはり「本当の神」を求めて深刻に悩み……彼は、敬愛していた修道僧のゾシマ長老が亡くなって、その遺体が腐敗しはじめたとき、これまでの信仰がガラガラと崩れさる精神的危機にみまわれる……

肉は、腐る。それは、どんなに高い境地に達した聖人においても……『カラマゾフの兄弟』は、まずそこから始まる。肉と精神の分離……それは、いかに考えても、いかに祈っても、どんな原理を考えようと克服できない……人は、チリから生まれたのだから、チリに還る……

おそらくグノーシスは、こういう単純な、しかしオソロシイ驚愕に端を発し……その驚きと恐怖をなんとか克服したいという人間の意識の底にある衝動みたいなものから湧きあがってきたのではないか……そんなふうにも思います。そのようにみたとき、この考え方は、人の意識の構造に、まことに正直に沿っている……

ただ、やはりここに見られるのは、あくまでも「人の意識」であり、「人の霊」のモンダイであって、これがもし、動物の世界とか植物の世界だったらどうなんだろう……そんなことも考えてしまいます。動物や植物は、たとえば「悪」のモンダイとか、「救済」とか、考えるんだろうか……

ここで、私は、ちょっと前に見た『おおかみこどもの雨と雪』という映画のことを思い出しました。この作品は、『サマーウォーズ』や『時をかける少女』をつくった細田守監督のアニメなんですが……私は、この作品が、いちばん考えさせられた……これは、かなりスゴイ作品だと思います。

このアニメでは、「オオカミ男」と結婚した女性、花と、そのこどもの雨(女の子)と雪(男の子)が主人公で、物語は長女の雪の一人称で語られます。花は、大学で寡黙な男性と知り合い、恋に落ちて結婚しますが、その男性は、実はもう絶滅したはずの日本狼の血をひく「おおかみおとこ」だった……

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彼は、ふだんは人間の姿で、トラックの運転手なんかをやって稼いで(ちゃんと免許も持ってる)花と二人の子(幼児)を養います。しかし、ときどき野生に戻り、狼の姿になって夜の街をさまよい、鳥なんかを狩る……ところがある夜、悲劇が……彼は、狩りに失敗して川に転落し、溺死してしまう。

人間の姿で?……じゃなくて、狼の姿のままで死んでしまいます。明け方、ゴミ収集車が通りかかり、川端で彼を見つけ、大型犬の死体と思って「業務的に」収集する……ちょうどそこに、彼をさがし歩いていた花が遭遇する……私が驚いたのは、ここからのこのアニメのツクリでした。

花は、一目で彼がもう助からない(死んでいる)ことを認識する。そして、今まさに収集されんとしている現場で、作業員の手を止めようとするのですが……しかし、彼女は、そこで泣き叫ぶわけでもなく、とりすがりもせず……結局は無力に、作業員のなすがままにまかせ……

おおかみおとこの彼は、「死体となった大型犬」としてきわめて業務的に「回収」され、収集車の後部扉は無慈悲に閉じられ、ルーチンワークで、次の収集地に向かって発車……花は、その後を追うでもなく、ただその場に崩れてしまう……まさにORZのかっこう……

私は、この場面を見たとき、「おみごと!」と思いました……いや、その瞬間は、なにか奇妙な「違和感」を覚えたといった方が正直でしょう……なんで、取りすがって収集を妨げないのか……「この人は、ホントは人間なのよ!」と叫んでむしゃぶりついて、狂気のように後を追って……

もし、ここで、細田監督がそんな演出をしていたら、この作品は、なんの値打ちもない二流アニメに堕していた。しかし……彼が優れているのは、ここでは一切、花にそんな「人間的な」行動はとらせず、ただ、大きな運命のなすがままに、そのすべてを受け入れさせる……それを貫いた。

この作品は、一見すると、おおかみおとこと結婚した女性がすぐに未亡人となり、おおかみの血を引く二人のこどもを田舎で育てる……そんな、ファンタジックな物語にも見えますし、あるいはまた、ものごとを一面的にしか見ない目からは、単なる自然賛歌、エコ礼賛みたいに受けとられかねないかもしれません。

しかし、監督の目は、実はそんなところにはなくて、それは、もっともっと深刻……今の、われわれ人類の世界にとって深刻という意味ですが、かなり深いところから、遠いところまでを一気にえぐりとる「人類文明批判」的な観点が浸透しているように思えます。それは、全篇にわたってそう……

あまりネタバレは書きたくないので、あらすじとかは控えますが……おおかみおとこの臨終場面も、偶然にあのようにつくられたのではなく、まさに、全篇を貫く「今のわれわれの文明ってどうなのよ?」という深刻な?懐疑から必然的にあのような演出になったのではないかと……

昔読んだライアル・ワトソンという人の本に、アフリカの海岸で、古代の人骨を発掘する話が載ってました。それによると……その古代の人々は、なんら「文明の痕跡」を残しておらず、学会では、彼らは、人類ではないのかもしれない……という説さえあったというのですが……

ワトソンさんが発掘した「遺体」の胸に組んだ手には「花」が握らせてあった……その花は、空気に触れた瞬間にドラキュラのように「雲散霧消」したそうですが……しかし、ワトソンさんの目には、その光景がしっかりと焼き付いた。これはまさに「葬送」の、もっとも初期の形態か……

死んだ人のことを思い、その思い出のために、そして死出の旅路の安かれと祈って沿えられた一輪の花……たとえ、文明の痕跡がなくても、いかに原人ぽく見えようとも、その「死者に寄せる想い」は、われわれとまったく異なるところはないのでは……ワトソンさんは、そこに、「人の想い」を見た……

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たしかに、動物は、仲間が死んでも「葬送」ぽいことはやらないのでしょう……いや、そもそも、彼らにとっては、「死」という概念自体がわれわれのものとはまったく異なるのかもしれない……こどもや親、親しいものが死んでしまったとき……たしかに「喪失感」はあるかもしれないが……

しかし、人間のように死者を偲び、そこに思いを寄せて弔う……そこまではやらないと思います。それを考えると、やっぱり人間の意識って、スゴイものだなあ……と思う反面……やっぱり、その「陰画」も、それゆえにけっこう強烈になるんだなあ……と、そこにも思いは至ります。

親しいもの、家族や友人に寄せる思慕の情……その思いはとても美しいものかもしれませんが、しかしその反動といいますか、そこに思いが強烈に引き寄せられるあまり、家族や友人を守るためならなんでもするぞ……と。そこからさらに、家族や友人に危害を加えようとするヤツラは許さんぞ……と。

結局、人が戦争に出かける理由って……まあ、いろいろあるんでしょうが、物語や映画なんかでは、「祖国を守りたい」から、さらに「家族や友人を守るんだ」というところまで……こういう動機は、なぜか「戦争参加」でも、まあ、それはやむをえんだろう……という正当性を与えられる。

それどころか、賞賛される。戦争って、出ていけば殺し、殺される。殺すって、フツーは「絶対悪」なんだけど、祖国を守るとか、家族や友人を守るためなら許される……どころか、賞賛される場合も……で、それをだれも、あんまり疑問に思わない……そういうふうに、映画や物語はつくられる。

ワトソンさんが感動した「葬送の心」はたしかに美しいと思います……しかし……それは、やっぱり、「家族や友人を守る」ために「敵を殺す」という、実はオソロシイ心に、ぴゅっと直結してしまうんではなかろうか……野生動物も殺し合うが、その「殺し」にリクツをつけたりはしない……

生と死……もしかしたら、人間の意識は、そこに、なぜか奇妙にぴったりと貼り付いてしまって、もうどうしても引きはがすことができない……死を悼み、生を尊び……そういう感情はステキだと思いますが、やっぱりあっというまに過剰になって、まわりを、世界を、塗りかえていこうとする……

『おおかみおとこの雨と雪』というアニメでは、こういった人間の「粘着する感情」に対して、野生動物の持っているさらっとした生き方……こういうものを見せるのに成功していたように思います。悪も、善も、そして夢も希望も絶望も……すべては、人の「執着する心」から生まれるのではないだろうか……

その心は、ワトソン博士の見た遺体の花のように人の心をゆさぶり、感動させもするけれど……他面、生に執着し、死を怖れ……自分や家族、友人を囲いこんで特別な価値をそれに与え……これに危害を加えようとするものに対しては、それこそ徹底的に殲滅しようとする……

やっぱり、人間って……人間の意識って、異常だと思います。それが、「美しい」方向に発揮されようと、「オソロシイ」方面に展開しようと……根っこは同じで、それは、「なぜ、こんなふうなんだろう……」と問うところからはじまると思う。人は、なぜ生きて、なぜ死ぬんだろう……

グノーシスの萌芽も、やはりそんなところにあったのではないでしょうか……フランチェスコが味わった人の世の矛盾と苦悩……それは、きわめて人間らしいものと言えば言えますが、やはりまた、そこから、いろんな美といろんな悪といろんな感動といろんな苦悩がいっぱい湧きだしてくる……

この世の中、『おおかみこども』の花みたいに、あっさりといく方法もあると思う……いや、花は人間なので、やっぱりいろんなことに苦悩し、執着も持ち……しかし、彼女は「おおかみおとこ」との結婚生活の中で、「野生の方法」も学んだんだと思います。

わずかの間ではあったけれど、生活を共にし、喜びや悲しみも分けあっただいじなパートナーが、オオカミの姿とはいえ、死体となってゴミ収集車に回収されていく……そのとき、彼女は、わずかな抵抗はみせたものの、ほとんどなすすべなく立ち尽くし……事態の推移に、ただ身をまかせた……

そのとき、彼女の心には、やはり「野生の感覚」みたいなものがあったんだと思います。人類が、数百万年をかけて……ライアル・ワトソンの原人の時代から培ってきた「送る心」……しかし、それがまた人類の悲惨と「悪」も産んでしまう「生と死にししがみつく心」……

ここで、細田監督は、そういう「人の心」、「人の意識」に、根源的なクエスチョンを投じたように思うのですが……人の悪、どうしようもないこの世界を造ってしまわざるをえないデミウルゴスに支配されたこの世界の不気味でオソロシイ部分は、とりあえず「三位一体」で回収に成功したかにみえても……

それは、結局は、西洋の自然科学の方法を支配する精神と物質の二元論にかたちをかえてこの世界を支配し……それは、どこまでもその枝を伸ばし、発展展開させ……ついには原子力みたいなオソロシイもの、「いのち」の根元に真逆に牙をむく「完全否定力」まで産んでしまうに至る……

デミウルゴスの力とグノーシス……そういうことを考えざるをえない人の心……そして、そういうものを「三位一体」で回収しつつもその底流でやはり善と悪のせめぎあいに苦しみ、その苦しみを物質化してこの生命の星の運命まで握ってしまおうとする人の心……いろんなことを考えさせられました。

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今日の写真は、知立団地63号棟の壁面に現れたプラトンの『ティマイオス』の一部です。『ティマイオス』は、プラトンの対話篇の中でも一風変わった構成で、アトランティス伝説やデミウルゴスによる物質世界の創成などが語られます。dehmiourgos は、workman、handicraftsman という意味で……

working for the people、つまり、人のために働く人……そんな意味もある言葉のようですが、この言葉の前半分の dehmi は dehmos つまり国、地方、公共、公民……みたいな意味でしょうか。後半は ergon つまり work ということでしょうか……フォーク・エチモロジーになるかもしれませんが。

『ティマイオス』の一部が現れた知立団地は、愛知県の真ん中くらいにある古い団地で、11月に野外活動研究会の方々と歩きました。できたのが昭和41年(1966)といいますから、東京オリンピックの2年後……当時は最新の郊外生活を満喫できる文化的な住宅団地であったと思われます。

現在は、ブラジル人の方が多く住んでいて、お店の看板や公園の標識など、すべて日本語とポルトガル語の併記になっています。つい最近、警官が銃を奪われて右腕を撃たれるという事件があったそうですが、私たちが行ったときには、とてもそんな事件が起こったとは思われないようなのどかないい雰囲気でした。

団地としては比較的小規模で、数十棟の中層建築に囲まれて、中心に、広場を囲むかわいい商店街がありました。ブラジルの食品をいっぱい売ってる小さなスーパーや、いつまでもいたくなるようないい感じの喫茶店など……ここに住んでる人たちのゆったりとした楽しい暮らしぶりが伝わってくるよう……

今日の essay:19世紀という病・2

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19世紀のことをいろいろ考えるようになったのは、やっぱりトーマス・マンの影響だったと思います。最初に着目したのは、1911年という「特異点」で、マンがヴェニスに滞在していたのがこの年。マルセル・デュシャンの『階段を降りるヌード』がはじめて制作された年でもある。翌年の1912年から、彼は、『大ガラス』に着手する。

自動車の歴史を見ると、T型フォードが発売されたのが1908年。ヨーロッパで自動車の普及がはじまったのが1910年ころ。このあたりが、馬と自動車の交代時期か……デュシャンの『大ガラス』では、「花嫁」が「内燃機関」によって駆動される。レシプロエンジンの特有の動きが反映されているとしたら、けっこう露骨な作品だ。

コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズは、1887年~1927年にかけて。一方、モーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン」は1905年~1939年。両者は、15年くらいのひらきで平行する。ホームズでは馬車が活躍するが、ルパンでは自動車。なにか、ここで、大きく変わったような気がします……

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「原子力」だと、キュリー夫人の「ラジウムの発見」が1898年。ぎりぎり19世紀だ。ラザフォードがウランからα線とβ線が放出されているのを発見したのもこの年。後に、彼は、「ラザフォードの原子模型」を発表するが、これが1911年。さらに、1919年に、α線を窒素原子に衝突させて、人工的な「原子転換」を行う。

1938年、オットー・ハーンとリーゼ・マイトナーによるウランの核分裂の発見。1942年、アメリカに亡命したエンリコ・フェルミが、シカゴ大学で世界初の「原子炉」を作り、臨界に成功。原爆とゲンパツの歴史がここからスタート。原爆は「マンハッタン計画」ですぐに実用化され、1945年に広島と長崎に投下された。

キュリー夫人の研究室には、今も彼女の指紋が残されており、そこからはまだ放射線が出ているという。苦学の人であった彼女が扉を開いた「放射能」の世界。ルブランの『ルパン』シリーズでは、ノルマンディの孤島にあるラジウムのまわりに、大輪の花が咲き乱れ、巨大な果実が実るという楽園を思わせる描写があったのをおぼえている。

当時、明らかに「放射能」はプラス概念で考えられていた。コワいけど、制御すれば有用……原爆はダメだけど、ゲンパツはOK。これは、つい最近まで、たくさんの人のアタマに無意識的に植え付けられていた観念。「原子力」で空を飛ぶアトムのイメージも大きかったかもしれない……人間の観念、妄想というものは、ときとしてオソロシイ結果を生む。

「19世紀」という物語……音楽室の壁に掲げられた音楽家たちの肖像は、何を語る……彼らを音楽室の壁に掲げるのは、日本という国だけに見られる特有の風習であるのか……それとも、世界中に普遍的に見られる光景なんだろうか……私は、なんとなく前者のような気がする。クラシック崇拝。異国の19世紀を神のようにありがたがる……

音楽家の肖像を並べるのは日本だけであるにしても、お隣の韓国とか北朝鮮でも、やっぱりヨーロッパのクラシック音楽を無条件にありがたがる傾向はあるのではなかろうか……なぜ、彼らが「普遍」になるんだろうか……平均率の「発見」なのか……それも大きかったかもしれないが、問題の根は、もっと深いような気がします。

今日の essay:19世紀という病・1

19世紀という病が、広くこの星をおおっている。

燃えあがる巨大なビル……壮麗で、しかも機能的で、人が暮らし、日々を楽しむためのさまざまな設備がはりめぐらされた膨大な建築……それは、日々、増築を重ね、世界をのみこむ……しかし、新しく建てられた部分にもすぐに火の手がのび、炎に包まれて無惨に焼尽される……この、建設と火災の連鎖が、やむことなく世界をおおっていく……。

この病がはじまったのは、やはりヨーロッパ……大バッハの死の年、1750年が一つのピリオドとなるのではないか……私たちがこどものころ、中学校の音楽教室には、作曲家の肖像がずらりと掲げてあった。音楽の父、大バッハと音楽の母、ヘンデルからはじまり、モーツァルト、ベートーヴェンを経てワグナー、ブラームス、そしてストラヴィンスキーあたりまで……

そう、これが、もろに「19世紀」なのだ。拡大版19世紀。それは、1750年からはじまって、20世紀の半ばあたりまで続いた。いや、それは、地域を変えて伝染し、今なお終息の気配もみえない。ヨーロッパは昔日の力を失ったが、アメリカで拡大され、アジアに移る。今ちょうど、朝鮮半島から中国大陸が、19世紀という病に呑みこまれかけている……

19世紀•

19世紀の特徴。それは、人間中心主義ということかもしれない。人が紡ぎだすさまざまな物語。それは、常に拡大する。楽器。かつては人の手の中にあった楽器が、音量の拡大を求め、それは巨大なホールを生んだ。数千人収容のホールの隅々まで届く音量。ヴァイオリンの弦はガットから金属になり、木製のフレームが棄てられて鋼鉄製のフレームが登場……

ピアノフォルテ。それは、20トンもの張力に耐えうる鋼鉄製のフレームを必要とする。その鋼鉄技術は戦艦を生み、戦車を生み、世界を破壊し、生命を根絶やしにする。そして原子力。19世紀の末に誕生した原子の内部に踏みこむ人の力は、とてつもない怪物を生む。原子爆弾とゲンパツ。この二つは、19世紀が生んだ悪魔の双生児。人類に引導を渡すもの……

ピッチインフレ。415ヘルツが440ヘルツになる。人は、緊張の成長を強いられ、人の文明がすべてを呑みこんでゆく。19世紀……それは、まだ終わっていない。人は、19世紀の意味を知るまでは、新しい時代を拓くことができない。民主主義……しかし、それは、人間のことしか考えていない。19世紀は、人にのみ価値を置く時代。すべては人のためにある……

金の輪が支配する世紀。人は、自然から当然のように収奪を続ける。経済の成長の最後のポンプは、自然の中にさしこまれ、間断なく吸いあげ続ける。そして、要らなくなったものを吐き出し続ける。すべては人の、くだらない欲望のために……人の目は宇宙に向けられ、そこも、新たな「資源」の場として……鷹の目の人の奢り……どこまで続くか……

人類は、やはり19世紀を卒業すべきだと思う。そのためにはどうしたらいいのか……右肩上がりの神話をやめてみるのか……金の輪の意味を考えてみるのか……中学校の音楽室に掲げられていた作曲家たちの肖像が、なぜあのメンバーなのか……それを考えてみるのか……そして、ゲンパツと宇宙開発の意味、それを問い直してみるべきなのだろうか……

すべての答は、結局、自然が出してくれるのかもしれない。人が、人自身の文明に対する答を出しきれない以上、自然が出してくれるのを待つしかないのか……ナサケナイ。もろに19世紀の遺物である「オリンピック」をぶらさげられて理性も飛び、「フロイデ……」と歌って、なにか理想を達成したような気分になる……どういうことだろう……

まあ、やっぱり、自然が究極の答を出してくれるのでしょう。ホント、ナサケナイ話ですけど……。

今日の essay:原子力について・その3

人間の科学技術は、結局、最終的には「自然への収奪」に行き着くのだと思います。昔、学校で習ったマルクス主義の考え方(マルクスの考えかどうかはわからない)では、人は、人から労働力を収奪するのですが、その最終的に行き着く先は習わなかった。それは結局「自然」であって、「収奪の連鎖」はそこで止まる。自然は自然から収奪するということはないから。

これは、なぜそうなんだろう……とふしぎだったし、今でもふしぎです。動物が他の動物を食べるというのは「収奪」ではないのだろうか……と考えると、これはどうも「収奪」とは言えない気がする。それはあくまで「自然」であって、「収奪」というえげつない言葉はそぐわないのだ……なぜ、人間の場合だけ「収奪」といえるのかというと、それは、やはり人間の「自己意識」のなせるワザかも。

自己意識

自己意識、ゼルプスト_ベヴスト_ザインというものは、まことにやっかいですね……自分自身を_知る_存在……自分と、自分のやっていることを反省的意識をもって見られる……ということは、結局「普遍」を知り、そこへ向かおうということにほかならない。昔見た『ベオウルフ』という映画では、デーン人の王がキリスト教に改宗した動機を、ベオウルフに語る。

「われわれの神は、酒と肴しか与えてくれなかった……」まあ、要するに日々の糧というか、毎日をきちんと生きて、そして子孫につなぐ……これを守ってくれる神……しかし、日々を生きて子孫を残すということは、これは動物でもやってることなので、それでは不満というか、そういう神さんではやっていけなくなった事情というものが発生してきたということでしょう。

では、キリスト教の神はなにを与えてくれるのか……といえば、それは、結局「普遍」、アルゲマイネということだと思います。ジェネラルスタンダードというのか……部族が小さいうちは部族の神でやっていけるんだけれど、生産力が向上して大勢の人をやしなっていける段階になると、そういう神では不足だと。まあ、生産力が向上するというのは、それだけたくさん自然から「収奪」できるようになった……

江戸っ子みたいに「宵越しの銭は持たねえ」という生き方ならいいんですが、「宵越しの銭」を蓄積して、未来の生活まで考えるということになると、一日単位でしか守ってくれない神では困る……ということなんでしょうね。また、自分とか家族とかじゃなくて社会的なつながりが広がってくると、いろんな人に共通の利益を調整する必要も出てくるのでしょうし……こりゃ、困ったもんだ……

ということで、砂漠の一神教と、古代ギリシアの、普遍を射程に入れられる哲学が融合してラテン語にのっかったキリスト教の神というのが、やっぱりいちばん使い勝手がいいんじゃなかろうかと……まあ、これは私の想像なんですが、そんな感じで、少なくともデーン人の王は受け入れたんじゃないかな……ということで、人間の自己意識が拡大するにつれて、「自然からの収奪」を意識化する神が導入された??

では、その「普遍化」はどこまでいくのかというと、それは「普遍」なので、むろん制限はない。人が考えられるすべて。宇宙のはてまでいってしまう……そして、この件にかんする「反省的意識」は、結局カントの『純粋理性批判』まで人は得ることができなかったのかもしれませんが……私は(すみません。突然私見です)、やっぱり「普遍化」の限界は「地球」だと思います。

人の思考は、ホントは「地球」で止まる。これは「普遍」の限界であって、人はそれを超えられない。なぜなら、人は、「地球のもの」でできているから……おととい、『ゼロ・グラヴィティ』という映画を見にいったんですが、それなんか、ホントにそんな感じでした。宇宙は黒くて寒い。地球は……宇宙から見る地球は、圧倒的な印象であると……人は、いくら意識が伸びても、やはり地球の一部だ……

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拡大方向の限界は「地球」だと思うんですが、では、これがミクロ方向に行くと……その限界はやっぱり「原子」なんではないか……人は、原子で止まらなければならない。キリスト教の神は人に「智恵の樹の実」を食べることを禁じたけれど、それは、もしかしたら「地球」と「原子」という限界を超えるな!ということだったのかもしれない……私には、この二つの限界が、なぜか「同じもの」のように思えます。

人は……人の文化は、もしかしたら「幻影」の中にあるのかもしれません。人が、実質的に処理できる範囲は、やっぱりデーン人の王が言ってた「酒と肴を与えてくれる神」が統べる領域なのではないか……そして、そこを超えることを求める「普遍指向」は、結局、「地球」という限界、そしてもうひとつは「原子」という限界、これを超えることを人にうながし、誘い、実行させてしまう力……

私がこんなふうに思うのは、やっぱりこどもの頃の自分の経験もあります。こどもの頃、「原子力」と「宇宙旅行」にあこがれた。実際に、こどものための図鑑シリーズに『原子力・宇宙旅行』というのがあって、それはホントに象徴的なタイトルだったと今でも思うのですが……自分の範囲が無限に拡大していくような……それは「言葉の力」なんですが、なにものかを呼び覚ます「サイン」となって……

私は、やっぱりここがキモだと思います。人が、なぜあれほどの悲惨な事故を体験しても「原子力」を止めようとしないのか……「宇宙旅行」の方は、「原子力」にくらべるとまだロマンが残っている感じですが、でも、もう2001年もとっくにすぎているのにまだ月面基地もできていないし、木星探査のディスカヴァリー号に至っては、計画さえない?? やっぱり人には「宇宙」はムリなんじゃ……??

「技術」がきちんと「技術」として成立する範囲って、あると思うんですよね。そこを超えてしまうと、急に莫大な費用がかかるようになって、いくら費用をつぎこんでも思うような結果に至らない……人間の技術範囲を区画してしまうような山脈の壁……それは、あるところから勾配が急に立ち上がって、人の超えようとする試みをすべて挫折に導く……それが、「原子」と「宇宙」として、今、見えている。

やっぱ、これはムリなんじゃないかと思います。これまでの「技術思想」では。いままでうまくいってたから、そのまま延長していけば行けるんじゃないか……甘い。まあ、要するに、つぎ込む資金と労力が加速度的に増加して、どんだけがんばっても一ミリも進めない……どころか、後退を余儀なくされる場面というものがある。そして、それは「難所」じゃなくて、もう原理的に超えられない……

ということがわかってきたら、では、それはなぜ、そうなっているのか……ということを考えるべきだと思います。「普遍」の追求は、あくまで実体と分離してしまわないことを原則としてやらないと、いくら「普遍を得た」と思っても、それは内実のない空虚な、言葉と数式のカタマリにすぎなくなってしまう……人の文明は、もう、これまでのすべてを省みて、あらたな「方法」をさがすべき時期にきている。

私は、「原子力」の問題の核心は、やっぱりここだと思います。放射能とか汚染水とか言ってるけれど、根幹は、人間の技術思想の設定の仕方そのものにある。「原子」と「宇宙」は、どうやっても超えられないほど高い山脈となってそびえているけれど、じゃあその他の技術は……というと、やっぱり「超えた」と思っていても、必ず同様の欠陥がある。それは、人間の技術思想そのものの欠陥だから。

どこまで戻ればいいのでしょうか……「適正技術」ということがよく言われるけれど、それは、根本的な解決にはならないと私は思います。やっぱり徹底して戻るとするなら、人間の「自己意識」の問題にこそ戻るべき。そここそが、「普遍」が立ち現われる場所でもある……もうこれは、技術の問題というよりは完全に哲学の問題なんですが……そこからはじめないとダメだと思います。

今日の essay:原子力について・その2

原子力って、やっぱりヤだなあ……と思います。最近、私の住んでいる地方では、中電さんの異常に長いCM?が流されることがあって、そこでは、ほんとにひっそりと、それとなく、「原子力」を「ベース電源」と位置づけている。ああ……いよいよはじまったなあ……と思う。この国の崩壊……なぜ、人は、教訓を学ぼうとしないのか……

私は、原子力って、ぶきみで気持ち悪くてヤだなあ……と思うんですが、それを言っても、それは単なる「感じ」だとか「イメージ」にすぎないと言われる。まあ、要するに「現代科学の世界」に通用するリクツじゃないってことですね。「未開人」がダダをこねてるにすぎない……これまで、だいたい、反原発っていうと、そんな感じで見られてきた。

それで、反原発の方々もいろいろ勉強して、放射能のコワさだとか活断層とかいろいろ言うわけですが……それは相手も専門家なので、倍以上のリクツで返してくる。やたら数式を並べ立てて……そうなると、こっちは素人なのでやられてしまう。素人の感じるぶきみさとかコワさは数式にすることはできないので、やっぱり単なる感じでしょ? ということに。

でもね、自然は正直だなあと思います。専門家がどれだけ数式を並べようが、きっちり「事実」で返してくる。私たちが感じる「イメージ」にぴったり合った返答……新しい年になって、再稼働 → 推進と、流れは加速されていくのでしょうが、最後は自然が「答」を出してくれる。そして、その「答」は、われわれ全員が受けなければならない……

私は、ここに、人間の科学技術というものにかんする根本的な欠陥を見る気がします。まあ、科学技術というより、人間の考えること全般……なのかな。だいぶ昔のことですが、飛行機の設計をやってるという方のお話をきく機会がありました。その方は、そのころ、30代の半ばくらいで、ばりばりの現場技術者。私たちは素人で、その素人を前に自信たっぷり……

飛行機製作のもろもろを話される。で、話が終わって質疑応答の時間になったので、私はきいた。「飛行機の飛ぶ原理って、100%わかってるんですか?」すると、その方は、やっぱり自信たっぷりに「100%わかってます。」と答えられた。私は、「じゃあ、なぜ落ちるんですか?」ときこうかと思ったけれど、それはやめといたのですが……

飛行機の飛ぶ原理

結局、要はここだと思うんですね。100%! なぜ、そんなふうに思えるんだろう……その後、私は、いろんな技術者の方のお話をきく機会があったのですが、技術者の方ってみんなそんな感じでした。自分の分野については「絶対の自信」がある。迷ったり、自分を疑ったりしてる人はまず皆無。私なんかは迷いっぱなしなので、ホントにスゴイと思った。

それで、私は、感じたのですが……モノを作る人って、作るときに、その背景を疑ってはダメ。具体的な課題をかかげて、それをどういうふうに解決するか……それが解決されたら、こんどは次の課題に挑んでそれを解決する……これのくりかえしで進んでいく。課題は、極度に技術的な問題に絞られていて、その背景を考えることはしない。これが鉄則。

おそらく、原子力も、こんな風にして開発されてきたんでしょう。具体的な技術的課題を掲げてそれを解決する。放射能がイカンのであれば、それを封じる。ホントはなくせばいいのかもしれないけれど、それは現時点では「具体的な技術的課題」に分解することができないので、とりあえず実現可能な「いかにして封じこめるか」という課題を掲げてそれを解決する……

私は、ここで、原子力技術者と、原子核物理や素粒子論の方々との根本的な違いを見る気がします。原子核や素粒子の「理論」を研究している人たちは、やっぱり、古来から連綿として受け継がれてきた「物質の根本はなにか?」とか「この世界はどういうふうにできているのか?」という大きな課題に、なんとかアプローチしたいという意識が強い。これに対してゲンパツ技術者は……

やっぱり、いかにしたら原子から、効率的に、安全に、しかも経済的にエネルギーを得ることができるか……ということしか考えないわけです。この差は大きい……というか、なんか、これって、おんなじ人間の考えることなの???という気さえしますが……種として、はたして同一物なのか……地球の外から見たら、おんなじ知的生命体なんだけど、彼らは別種ではなかろうか……

私は、やっぱり、原子力は、もしやりたいなら、素粒子論の人たちが追求している課題が「100%」解決されてからにするべきだと思います。要するに、「物質の根元」や「世界の成り立ち」が、これ以上微塵も疑問の出ない「完全にわかった」地点までいって、はじめて「それを使う」ことができるのではないか……それまでは、どこまでいっても「魔法」と変わらない。

テクノロジーは進化すれば魔法とみわけがつかなくなる……と言ったのは、SF作家のA・C・クラークさんですが、それより以前に、テクノロジーは、結局「魔法」と同一の場所にいたということですね。ただ、「魔法」の場合にはなんらかのかたちで「世界観」というものがあるけれど、テクノロジーはそれを切り離した。あやふやなモンとは縁を切る!ってことで。

クラーク

だから、テクノロジーは、ある面では、魔法の「退化形態」であるともいえる。常に足を引っ張ってきた「世界観の問題」は別の人に考えてもらうということにして、自分たちは、「課題の発見」から「課題の解決」までをきめ細かく分解して、一個一個を単純な技術的課題に還元して、それを積み重ねて一つの技術手段を実現することに専念すると……

まあ、明治から昭和のはじめころまでは、技術系の人でもカントとかデカルトとか読んでないと恥ずかしい……みたいな雰囲気もあったと思うんですが、今はそれも皆無。世界観との分離独立を完璧に果たしたテクノロジーの世界は、重しがとれてどこまでも宙に舞いあがることができる……ただし、彼らが切り離してしまったのは、大地、この世界の声でもある……

自然がきっちり答を出す、というのは、そういうことであると思います。そして、もうすでにバックするのには遅すぎる。分岐点を知らない間に過ぎてしまったテクノロジーの世界は、架空の世界観に酔ってどこまでも虚無の空へと上昇する……そこに、すべての人々の運命を道づれにして。これって、悲劇なんだけど、どこか喜劇的でもある。オソロシイ喜劇……

今日の essay:原子力について・その1

昔は、原子力、大好きでした……こどもの頃に、親が『ガモフ全集』という本を買ってくれた。小学生だったので半分くらいしかわからなかったけれど、ものすごく面白くて、毎日読んだ。相対性理論や量子力学も、この本で知った。すごい世界があるんだなあ……と夢が広がりました。

ガモフ

原子力も……原子の構造、原子核の構造、そして核分裂や核融合……ちょうどその頃、日本でも「原子の灯」がともった。東海村の実験炉。核爆弾はダメだけれど、平和利用はいい……そんな雰囲気が時代に満ちてました。鉄腕アトムが原子力で空を飛んでたのもこの時代……

ということで、原子力はぜんぜんプラスのイメージだったのです。プルトニウムを燃やすと、燃やした以上の燃料ができる……これはもう、夢のような話……もう、人類の未来って、めっちゃ明るいじゃない。日本って、資源ないから絶対原子力だね。ゲンパツいっぱいつくれば日本の未来も安泰だ……

これが、ぐらっとひっくり返ったのは、いつごろだったんでしょうか……調べれば、事故の歴史とか出てくるけど、やっぱりチェルノブイリは大きかった。ゲンパツって爆発するんだ……うわーこわいこわい!オソロシイ……しかも死の灰でみんな死んでしまう……オソロシイ……

まあ、そのころ、電力会社の札束で顔をはって住民にゴリ押しするヤクザみたいなやり方とか、事故やいろんな問題を隠したり、権力とつながってやりたい放題……なんかこれはヘンだぞ……とみな思いはじめた。もしかして、ものすごいオソロシイことが、静かに進行してるんじゃ……

これは結局、19世紀のツケの一つだったんだなあ……と今になって思います。原子力の基本的な考え方は、その原理も、技術的な考え方も、実際に社会に浸透させ、実現していくやり方も、モロ19世紀ではないか……19世紀は「理念の世紀」だったと私は思う。そしてそれは、まだ克服されてない……

理念と、それに伴う物語の世紀ですね。ABくんなんか今だにそんな感じですけど、いろんな物語があって、人は物語に酔い、そこにこそ真実があると思う。いろんな人の努力のベクトルを同一方向に揃える「物語」……そういう力のある物語が語られると、人は、なぜか無反省につきしたがう……

すべてを滅ぼす戦争をやってしまうのも、原子力みたいなオソロシイちからを開放してしまうのも、すべては物語の魔力……こわいなあと思います。原子力についても……そういう「原子力物語」が、身のまわりに満ちていた。ガモフさんのお話も、鉄腕アトムも……だれも疑わなかった。

アトム

湯川さんがノーベル賞をもらったのも大きかったですね。で、続いて朝永さん。原子核物理って、日本、すごいんだ……とみんなが思った。なんか、原子核の中には無限のお宝が眠ってるって感じでした。そこへ切りこむ最先端の物理学。その先頭集団の中に、日本の科学者がいるじゃないか……スゴイ……

でもその輝ける「物語」もやがて崩壊……一時期、才能のある人たちが原子核物理の方に行かなくなったのは、世界的にみても事実じゃないかな。能力のある人たちが向かったのは生命科学の方向だったと思う……しばらくそれが続いたんですが、最近また、原子核物理の方に人気が出てきたみたい……

セルンの実験で、ナントカ粒子が確認されたのは大きかったかも。今は、スパコンと巨大装置の助けを借りて、また新しい物語が作られようとしているみたいですね……今度の物語は、19世紀を抜けているんだろうか……私はきわめて懐疑的ですが、まあ、理系の詳しいことはわからないので、わからんとしかいいようがない。

最近見たアニメで、セルン陰謀説みたいなものを取り上げているのがあって面白かった。『Steins;Gate』というタイトルで、セルンがタイムマシンの実験で、世界をどーのこーのという……電話レンジ(仮)というニコラ・テスラ的な装置も出てきて、うーん、やっぱりあのあたりはつながってるんだ……という印象。

まきせくりす

19世紀って、おもしろいですね。人間の科学ががんばって、ものすごい「物語」をつむぐ……でも、それは結局人間の「物語」だから自然には通用せんわけです。いや、人間の社会にさえ通用しなかったことはコミュニズムの「挫折」で明らかになってしまった……もはや「物語」は無用なのだ……

オバマさんなんか、けっこうそんな感じなのだ……彼は、核廃絶というけれど、あの人は「物語」というものを基本的に信用してないから、それがベースにあってああいう言動が出てくる。だから、彼は、ABくんみたいに「物語」にどっぷり浸かっている政治家は大嫌いなんだろーなー……わかる気がする。

原子力物語……何回事故があっても、悲惨な姿になっても……この物語が生きているかぎり、人類は核からエネルギーを得ることをあきらめない。まあ、一種の信仰ですなあ……人類が、これまでのヘンな「物語」群をきれいさっぱり捨て去るには、まだだいぶかかるでしょう……いつまで19世紀をやってんのか……

今日の jin_ja:気比神宮/kehi_jinguu

気比大神00

今からもう10年ちょっと前……たしか、2003年の秋でしたか……私たち夫婦は、名古屋から三河の山里に越した。いなかぐらしと広いアトリエを求めて……で、住みはじめたのは良かったんですが、免許がない。おくさんのきんちゃんはもってるけれど、ずっと街ぐらしだった私は無縁……で、急遽、合宿免許で取ることに。

どこがいいかなーと思って探し当てたのが、越前の国、大野の自動車学校。大野といってもご存知ない方も多いかもしれぬが、あの道元さんの永平寺の近く……といえばわかりやすい。名古屋からだと、北陸線で福井駅下車。あとは、自動車学校のお迎えの車で山道を数十分……山間の盆地の、すがすがしい町でした。

位置関係図

合宿免許も、日曜はお休み。で、せっかく北陸に来たんだから、神社めぐりが趣味の私としては、北陸随一の大社である気比神宮は外せませんなあ……と、朝からお出かけ。まず、朝倉氏の都のあった一乗谷をみて……ここもなかなかのみどころだったんですが、その話はまた別の機会ということで、北陸線で敦賀の街へ。で、一路、気比神宮へ。

ところが……参道を歩いていると、どうも雰囲気がヘン。見た感じは、ごくフツーの大きなお宮さんということなんですが、なぜか、異様に重苦しい、押さえつけられるような重圧感が迫る。うーん……なんだろーと思っているうちに、大鳥居に。重圧感がますます強くなり、気比の大神が、巨大な岩に押しつぶされて苦しんでおられるお姿が……

気比の大神、古事記ではイザサワケノミコトとして登場される方ですが、この方は、北陸道随一の実力者で、タイヘンな力を持った地の神……平家物語では、平清盛が高野山に参詣した折にふしぎな僧が現われて、「越前の気比神宮は栄えておるのに安芸の厳島はさびれておるのでなんとかしてほしい」という。

どうも、平安末期の密教の世界では、越前の気比神宮が金剛界、安芸の厳島が胎蔵界の両曼荼羅になぞらえられていたようで……高僧(実は弘法大師の霊)が、清盛に、厳島改修の示唆を与えたこのクダリでもわかるように、日本の歴史において、敦賀の気比神宮は、日本海側の重要なカナメの地でもあったのでありました。

敦賀と厳島

そのカナメを抑える気比の大神の、あの苦しみよう……これはいったいどうしたことじゃろう……とふしぎに思ったが、理由はわからないままに本殿へ……気比の大神の苦しみの波動はますます強くなり、こらアカン、お祈りどころじゃないわい……と思ったけれど、ともかくナントカお祈りをすませて社殿をあとにしました。

街を歩いている間も、あの気比の大神の苦しみは、いったいなんだったんだろー……とすごく気になる。街は……まあ、どこもかしこも、いわゆるシャッター街。中心地でしょうとおぼしき通りもさびれて、なんかゴーストタウン?みたいなイメージ。日曜の昼下がりに、繁華街がこんなんでいいのかしらん?……と歩いていたら……

ひときわ立派な輝くビルが現われた。表向きは科学館なんですが、パトロンが電力会社……あっ、そうだったのか……鈍い私も、よーやく気がついた。そーか、原発……ゲンパツだったんだ……なるほど、それで全部のナゾが解けた。あの、気比の大神を押しつぶしていた、何百万トンもありそうな巨大な岩……あれが、いったいなにを意味するものか……

敦賀は、原発銀座といわれるほどに原発が集中している。敦賀湾は、原発群で封鎖されているといってもいい。いや、別に、航行は自由なんですが、実際には完全封鎖だ。あの重圧感……気比の大神は、昔から御食神(みけつかみ)、すなわち食糧を司る神様ですが、私のイメージでは、北陸の「いのち」全般の元締めみたいな神様……

その神の、あのお苦しみ……私は、ここで、ゲンパツというものの本性を知った。「ゲンパツはいのちを殺す」……これだと思います。「いのち」と正反対のもの、「いのち」を容赦なく押しつぶし、殺し、闇に返すもの……それが原子力。原子、特に原子核の内部に働く力は、外に働くフツーの力とはまったく違う。それを、なにも知らずにもてあそぶ……

それが、どんなにオソロシイ結果を招くか……私は、気比の大神のあの苦しみあえいでおられる姿の中に、如実にそのことを知ることになったのです。ゲンパツ、原子力の真のオソロシサ……放射能はコワいけれど、それは、「ある重大な惨劇」が原子の外に出た結果にすぎない。本当にオソロシイことが、実は、原子の中で……

しかし、それは、だれも知らない。私たちの知ることのできない領域で、実は、ものすごくオソロシイ滅びのプロセスが着実に進行しているんですね……原子(核)の内部というものは、実はある「ゲート」になっていて、そこを通じて、私たちの知らない世界、人間の能力ではうかがいしることのできないいろいろな世界につながっている……

原子の破壊は、そういう重要なゲートを破壊し……あるいは、知らぬまにいろんな世界を勝手にむすび……また壊し……実際に、どんなことをしているか……それを知ったら、原子をもてあそんでいる方々は、己の罪の深さに……いや、まあ、世の常識とあんまりかけ離れたことを言っても仕方ないですが、原子力が「いのち」を徹底して潰すものであることはたしかです。

人間の科学技術って、ホントに空恐ろしいモンですね。あの、本来いのちの輝きに満ちた神であるはずの気比の大神をあそこまで苦しめるとは……ゲンパツやだなーと昔から思ってましたが、あれほどまでに悲惨かつ壮絶なもんであるということは、私は、この体験ではじめて知りました。これは、ホント、タイヘンなことになるぞ……オソロシイ……