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モナドの帰還/An Odyssey of monad

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一旦風邪になると、私の場合、一ヶ月くらい続きます。ノドが良くないので、咳とかがずうっと尾を引く……それでも、徐々に良くなっていくのですが……

一旦引いた風邪が直りかけて、でもなにかの拍子にぶりかえす……そのときのみじめさ……私のモナドが支配権を確立しかけていたのに、再び風邪のモナドに奪還される……まるでイスラム国との戦争ですが(イスラム国のみなさん、風邪に見立ててすんません……)、なんかそんな感じ。

病気って、なんでもそんなものかな……と思います。一年に何回か、こりゃ、ホントに調子いいぜ!と思える日があるんだけれど……そう思える日が年々少なくなっていく。これが、年をとるということなのか……

で、そういう「調子いい日」のことを思いだしてみると、自分が自分として、完全にまとまってる……そんな感じです。よし!今日はなんでもやれるぜ!という……でも、何時間かたつと疲れてきて、ああ、やっぱりアカンではないか……と。

昔、ある前衛アーティストに会ったときのこと。彼は、「自分は疲れない」と公言した。疲れるのは、どっかがオカシイんだ!と。その言葉どおり、彼は疲れなかった。

目の前で、「書」を書く(というか描く)のですが、何枚も、何枚も、延々と描く。それも、まったく同じスピードで。紙を傍らに大量に積み重ねておいて(300枚くらいあったかな)、パッと取って前に置いてササッと描いてハイ!次の紙……これを、機械のようにくりかえす。しかも、描く内容が毎回違う。

スピードが変わらないのが脅威でした。ふつう、人って、白い紙が前にあると、書きたいものが決まっていても、若干のインターバルがあってから筆を紙に降ろして書くもんですが……彼の場合、そのインターバルがゼロで、紙を置くと同時に描く。しかも、毎回違うものを。その動作を、機械のように正確にくりかえして、スピードがまったく落ちない。作品の大量生産……

前衛アーティストHさんC_900
見ている方が疲れてきます……なるほど……前衛アーティストというものは、こういう特殊な訓練をみずからに課しているものなのか……感心しました。フツーじゃない……なんか、人間ではないものの行為を見ているようだった。

で、彼は疲れたかというと、全然そんなことはなく、前にもまして元気。行為が彼に、無限のエネルギーを与える。いわゆる、ポジティヴ・フィードバックというヤツですね。こういう人は、きっと死なないんじゃないか……そんな感さえ受けました。

死なないので有名なのが、ロシアの怪僧ラスプーチンさん。青酸カリを食わしても、頭を割ってもピストルで撃っても死なない。オソロシイ生命力……いったいどこが、われわれと違うんだろう……

ラスプーチンc_900
やっぱり、モナドの支配力がケタ違いに増強されている……そんなふうにしか感じられません。いったいどこから、その「支配力」を得ているんだろう??

でも、ライプニッツによれば、モナドそのものが「死ぬ」つまり消滅することはありえないのだから、それは、やっぱり相対的なものなのかもしれません。モナドは、「一挙に創造され」、「滅ぶときもやはり一度に滅ぶ」。

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(仏語原文)Ainsi on peut dire, que les Monades ne sauraient commencer ni finir, que tout d’un coup, c’est-à-dire elles ne sauraient commencer que par création, et finir que par annihilation; au lieu, que ce qui est composé, commence ou finit par parties.

(英訳)Thus it may be said that a Monad can only come into being or come to an end all at once; that is to say, it can come into being only by creation and come to an end only by annihilation, while that which is compound comes into being or comes to an end by parts.

日本語訳(河野与一訳)して見ると単子は生ずるにしても滅びるにしても一挙にする他ないと云ってもいい。言換へれば、創造によってしか生ぜず絶滅によってしか滅びない。ところが合成されたものは部分づつ生ずる、もしくは滅びる。(旧漢字は当用漢字にしてあります)
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つまり、部分的に、あるモナドが消滅し、別のモナドは残る……ということはありえないんだと。

これは、とてもおもしろい考え方だと思います。われわれは、どういうふうにしてかはわかりませんが、時のはじめ(神の創造時点)からずっと存在している。この宇宙のモナドはすべてそう。で、滅ぶときは一挙に滅ぶ。

われわれの肉体は、合成物なので……合成物のレベルだと、「この人は死んだ。でも、この人は生き残っている」ということはありえます。というか、それが当然の世界。しかし、「わたし」というモナドは、モナドである限り、「わたしだけがなくなる」ということが原理的にできない。もし「わたしがなくなる」ということが起こるなら、それは、「世界がなくなる」、つまり、すべてのモナドが消滅する……それ以外の方法ではありえない。

この論理は、原理的に否定不可能なものであるように思います。要するに、モナドは「一性」そのものであって、この「一性」が否定されるということは、原理的にありえない。なぜなら、「一性」は、普遍中の普遍、最大の普遍であるから……

したがって、もし、私というモナドが消滅することがあるとするなら、それは「一性」そのものが否定されるという事態が発生したということで、そういうことになれば、わたし以外の「一性」、すなわち他のモナドの存在も、すべて否定されざるをえない。「最大の普遍」というところから、かならずそうなる。

これって、「死」というものに対する、いちばん合理的な答だと思います。私が今まで知る範囲では……というか、これ以上明解な答はありえないなあ……これは、論理的に、どう考えてもくつがえせない。

つまり、「死」は、肉体という合成物が否定されるということで、この否定は合成物のレベルで起こるものであり、モナドのレベルではない。したがって、モナドの「一性」は、まったく否定されていない。だから、「肉体の死」は、個別に起こる。あの人は死んだけれど、この人はまだ生きている……という具合に。

ただ……ライプニッツは、宇宙のすべてのモナドは、一挙に創造され、いっぺんに死滅する……と言ってるんですが、その「宇宙」の範囲が、問題になるとすれば、唯一問題になるんだと思います。「宇宙」って、どこまでなの?……ライプニッツの時代においては、「宇宙」はすなわち「世界」のことであって、これは即、「神が創造された世界」ということになる。

しかし、現代においては、「宇宙」概念はかなり違ってきていると思います。今の科学では、地球 ー 太陽系 ー 銀河系 ー 小宇宙群 ― 大宇宙……となって、「宇宙」といえば最後の「大宇宙」をさす。まあ、これが一般的な受け取り方ではないでしょうか。

しかし、私は、ここに、「人間は、地球から出られないのではないか?」という問題が、どこまでもついてまわるような気がします。この問題は、前にも取りあげましたが……「え?人類は、もう月にも降り立っているんじゃないの?」ということなんですが、でも、ホントにホントにそう、なのかな……??

アポロ11のアームストロング船長が月面に着地したとき(小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩、と言ったアレ)、彼は、「宇宙服」を着ていました……当然じゃん! なんで、そんなことをモンダイにするの? と笑われそうですが、私はこれは、大きな問題だと思う。

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アームストロングさんは、自分の素足で、月面を踏んだのではなかったのでした……当然のことながら、宇宙服の内部は、「地球環境」になっています。そうでないと、彼は死ぬ。要するに、アームストロングさんは、「地球環境を着て」、もっというなら、「地球を着て」、月面に降り立った。だから、「宇宙服」という名称は、本当は正しくなくて、「地球服」というべきでしょう。

それって、リクツじゃん!と言われるかもしれません。でも、われわれの肉体は、地球からできている。地球のものを食べ、地球の空気を吸い、地球の水を飲んで……その、一時的な結実の連鎖として、われわれの肉体というものがある。これを考えるとき、われわれの肉体という「合成物」は、実は「地球」という惑星の一部……どころか、地球という惑星そのものであると考えざるをえません。

そう考えるとき、われわれは、この肉体として生きているかぎり、原理的に「地球の外に出る」ということが不可能だ……地球の一部であり、地球そのものでもあるものが、地球という範囲を離れるということ、それ以外のものになるということは、原理的な矛盾にほかならないからです。もし、地球以外のものになってしまえば、われわれの肉体は、その本質を失ってしまうということになる。

では、わたしというモナド、はどうなんだろう……ライプニッツの時代においては、漠然と、宇宙と世界は同じであって、それが地球という範囲を出るか否か……そういう議論も、意味のあるものとしては成立しえなかったように思います。しかし……アポロ以後のわれわれにとっては、これは重大なモンダイとなる。

結論からいうなら……私は、わたしというモナドは、地球という最大のモナドの範囲を出ることができない……そう思います。要するに、私は、今の状況としては、「外界を知る」ためには、私の今の肉体を媒介とする以外にありません。しかし、今の私の肉体が地球から出ることができない……つまり、「地球限定」である以上、わたしというモナドも、やはり地球限定、つまり、地球の範囲を出ることができない。

思惟、思弁では、私は、いくらでも「地球の外」に出ることができる。しかしいったん、延長の世界、かたちや大きさがある世界においてモノを考えるということになりますと、結局、わたしは「私の肉体」を媒介として考えざるをえなくなり、そうすると、結局、世界……考えうる最大の範囲は「地球」であるということになる。

ここは、もう明確だと思います。モナドには「窓」がないので、本質的な「外界」というものはありえない。しかし……延長の世界、かたちも大きさもある世界において、延長の世界に対する「支配力」を用いて相互に「自己表出」を行うことにより、モナド相互の「交通」は可能となる。より正確にいうなら、「交通が可能となったかのような状態を現出しえる」。

ライプニッツは、すべて「宇宙単位」でものごとを考えましたが、この「単位」が、今のようなリクツで、本当は「地球限定」だったら……彼の論理は、この地球上のモナドは、すべて一挙に創られ、そして滅ぶときには一挙に滅ぶ……ということになる。そして、私は、これが、この地球という星が、一つの単位としてこの「宇宙」に存在する、その根源的な理由であるような気がします。

私というモナドからはじきとばされた「風邪のモナド」は、しかし、この地球から飛びだしたワケではなく……周回軌道を描いてまた戻ってくる……それが、私に戻るのかどうかはわかりませんが……というか、ソレはイヤなんですが、そういうことになるのかもしれない。

この地球のものは、すべて、この地球から脱出することはできない……太陽系を超えてどっかにいっちゃったように見える人工衛星でも……というか、原理的にそう。地球のものは、その本質からいって、地球から脱出することはできない……

これは、「限定」なのかもしれないけれど、それゆえに、もしかしたらこの「地球」という世界が成立している。しかし……

さらにもしかしたら、原子核の中の世界は違うのかもしれません……まあ、妄想と思われてもしかたありませんが、この物質の世界は、原子核の中で「抜けて」いるように感じられます……ということで、正月早々、モナドな妄想で失礼しました……。

STAP細胞?(つづき)

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なぜか気になるスタップ細胞……顛末のふかしぎさもさることながら、このモンダイ、さらに根本にあるギモンとして、「なんにでもなる」細胞つくりって、ホントはどういうことなのかな? ということも考えさせられます。山中さんのアイピーエス細胞もそうなんですが、結局なにがやりたいのか……それを一言でいうなら「不老不死」で、これは、人類が大昔から追い求めた夢なんだと……それが、最先端の生命科学で可能に……ということで、みんな、ここに夢とロマンをかけて……そんな感じで、人間って、不老不死の妙薬を求めて徐福をジパング?につかわした秦の始皇帝のころから変わってない。大昔は、一握りの権力者の夢だったものが、今では万人の夢に……

なので、これは、発想が根本からオカシイ? まあ、身体の一部を失ったり、機能が悪くなったりした人が、その部分の「再生」を切に願うのは当然だと思います。しかし、失ったら、やっぱり失っただけの意味はあるんだと思う。キビシイ見方ですが……そこを見ていかないと意味がないのでは……なくなったものは再生すればいいって……プラナリアじゃないので、やっぱりそこは考えるべきところだと思います。植物なんかだと、「再生」というのは当たり前のことで、別にふしぎでもなんでもない。植物のあり方自体が、もう「再生」というか、連綿と続いて広がっていくようないのちのあり方なので……これが、動物になるとかなり様子が変わる。単純な動物だと「再生」はありえても、複雑になればなるほど難しい……これはなにを意味するか……

これは、おそらく「個」というものが関係しているんだと思います。要するに、動物は、「個」を得た代償として「再生」を失った。「再生」は、どこか「全体」に通じる雰囲気がある。切り離された「個」に対して、のべーっとどこまでもつながっていくような、そんな気分があります。だから、動物でも、「個」があんまり際立たない、単純な構造のものは、植物みたいな「再生」の気分が漂う。しかるに、「個」が際立ってくればくるほど「再生」も難しくなる……「個」を区分するのは、遺伝子レベルから身体全体の免疫構成に至るまで、いろんなメカニズムが働くのでしょうが、それが「必要」というのは、どういうことなのだろうか……なぜ、生物界は、「個」が薄くて、どこまでも広がる「植物」だけではいけないのでしょうか……考えさせられます。

進化・発生の系統としては、植物が先で動物が後……ということはないのかもしれませんが、なんとなく、「全体」みたいなものが先にあって、後に「個」が出てきた……みたいな感じだと、気分的に納得できるような印象……まあ、おそらく単細胞生物が多細胞になるときに、「動物界」と「植物界」が際立ってきたのでしょうが、それにしてもふしぎだ……生命の二つのかたち……これは、やっぱり「相補的」なのかもしれない。植物の特徴としては、多細胞になればなるほど「土地」への密着性が強くて、大地や海底を覆って、地球表面を生命の絨毯で埋めていく……これに対して、動物の方は、多細胞になればなるほど「個」としての独立性が強くなり、自分の身体の中に「ミニ大地」を取りこんで、惑星の上に「個の競演」をくりひろげる……

動物の「個」は、極端に際立つとロケットをつくって大地を離れ、宇宙にまで行ってしまうわけですが……その「役割」というのは一体なんだろう……私の思考は、いつもここで止まってしまいます。タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』では、宇宙の彼方の惑星ソラリスをめぐるステーションで、主人公のクリスがお弁当箱みたいな金属の箱に植物を育てていた……彼の思考とともに、ステーションには昔の恋人が現われ、ソラリスの大地には彼の実家とまわりの環境が造られます……お弁当箱の植物も実家のシーンもレムの原作SF小説にはなく、タルコフスキーの解釈であろうと思われますが、地球という遊星をどれだけ離れても人は地球の子であり、地球をいつまでもその身体のうちに持って、その精神もやはり地球から離れられない……

植物はその象徴なのかもしれません。家のまわりの樹々……豊かに流れる水の中には緑の水草が、バッハのBWV639コラールにのってゆらめく……人は、どこまでもこういうものを内にもちながら、「個」として際立って、宇宙のはてまで行こうとする……今回のスタップ細胞事件は、こういう人間の矛盾した欲望を如実に現わしたものみたいに思えます。「個」を保ちつつ、「全体」も手にいれたい……もし、アイピーエスやスタップで「不老不死」が実現したとすると、人は、自分というものを次々に「再生」させてどこまでも「個」を保つ。しかし、そうやって保たれる「個」の意味は、どこにあるんだろう……「死の恐怖」……そんな言葉が浮かんできます。ただ、「死」から逃れるためだけにそんなことをするんだったら無意味だ……

「個」を手に入れる代償として手放した「再生」を再び手に入れて、動物でも植物でもないものになろうとするのか……それは、なぜ、生命界が「動物」と「植物」に分かれているのか……そこをきちんと理解した上でないとやっちゃいけないことのような気がする……「原子核」の中に踏みこんだのと同じ誤りを、ここでもまた冒そうとしているような気がします……哲学の必要性……科学は、哲学から分かれ、哲学を切り捨てた時点で「無限進化の可能性」を獲得したように見えますが、捨てられたはずの哲学の残滓は、今も「生命倫理」というかたちで細々と生きている。でも、人間の複製とか「個」にもろにかかわってくる時点までは、それは「考えなくていい」領域として圏外に追いやられているようにみえる。はたしてそれでいいのだろうか……

哲学と科学技術の発展の不均衡は、それ自体ですでに「問題」であると思います。科学者は、自分のやっていることの「意味」を、「個」と「世界」の関係においてきちんと理解した上で、はじめて「研究」を進めることができる……やっぱりそういうところまで戻る必要があるのではないか……動物が不死性を獲得する……その唯一の形態が「がん細胞」であると言われますが、「がん細胞」は「なんにでもなる万能細胞」の対極にある「なんにもならない無能細胞」なんだろうか……これは、結局、細胞自身が「個」を主張しだした究極のかたちなんでしょう。人は「がん」を怖れるが、それは、自分という「個」の一部が反乱を起こして「自分」になるのを拒否する状況なんだけれど、がん細胞にとっては、それこそが「自分」という「個」の独立宣言だ……

人の意識は、やっぱりふしぎです。「個」であることは、どうしてもそれだけの「重み」を背負う。それは、人の意識にかかる「負荷」として、「個」と「世界」、「個」と「全体」の問題を考えさせる。私が私であることの意味……それは、いったいなんなのか……人が、「死の恐怖」からやみくもに「再生」を願う……それは、目覚めたばかりの「個」に特有の素朴な反応なのかもしれません。そして、そういう方向を盲目的な「善」とするところに、今回のスタップ細胞さわぎの根本的な原因があるのではないだろうか……「未熟な研究者」という言葉が何回も出てきましたが、そういう意味では、人類自体が未熟だ……まだ、ようやく「個」としての意識のはじまりに立っているということは、やっぱりあるんだと思います。

今日の essay:原子力について・その1

昔は、原子力、大好きでした……こどもの頃に、親が『ガモフ全集』という本を買ってくれた。小学生だったので半分くらいしかわからなかったけれど、ものすごく面白くて、毎日読んだ。相対性理論や量子力学も、この本で知った。すごい世界があるんだなあ……と夢が広がりました。

ガモフ

原子力も……原子の構造、原子核の構造、そして核分裂や核融合……ちょうどその頃、日本でも「原子の灯」がともった。東海村の実験炉。核爆弾はダメだけれど、平和利用はいい……そんな雰囲気が時代に満ちてました。鉄腕アトムが原子力で空を飛んでたのもこの時代……

ということで、原子力はぜんぜんプラスのイメージだったのです。プルトニウムを燃やすと、燃やした以上の燃料ができる……これはもう、夢のような話……もう、人類の未来って、めっちゃ明るいじゃない。日本って、資源ないから絶対原子力だね。ゲンパツいっぱいつくれば日本の未来も安泰だ……

これが、ぐらっとひっくり返ったのは、いつごろだったんでしょうか……調べれば、事故の歴史とか出てくるけど、やっぱりチェルノブイリは大きかった。ゲンパツって爆発するんだ……うわーこわいこわい!オソロシイ……しかも死の灰でみんな死んでしまう……オソロシイ……

まあ、そのころ、電力会社の札束で顔をはって住民にゴリ押しするヤクザみたいなやり方とか、事故やいろんな問題を隠したり、権力とつながってやりたい放題……なんかこれはヘンだぞ……とみな思いはじめた。もしかして、ものすごいオソロシイことが、静かに進行してるんじゃ……

これは結局、19世紀のツケの一つだったんだなあ……と今になって思います。原子力の基本的な考え方は、その原理も、技術的な考え方も、実際に社会に浸透させ、実現していくやり方も、モロ19世紀ではないか……19世紀は「理念の世紀」だったと私は思う。そしてそれは、まだ克服されてない……

理念と、それに伴う物語の世紀ですね。ABくんなんか今だにそんな感じですけど、いろんな物語があって、人は物語に酔い、そこにこそ真実があると思う。いろんな人の努力のベクトルを同一方向に揃える「物語」……そういう力のある物語が語られると、人は、なぜか無反省につきしたがう……

すべてを滅ぼす戦争をやってしまうのも、原子力みたいなオソロシイちからを開放してしまうのも、すべては物語の魔力……こわいなあと思います。原子力についても……そういう「原子力物語」が、身のまわりに満ちていた。ガモフさんのお話も、鉄腕アトムも……だれも疑わなかった。

アトム

湯川さんがノーベル賞をもらったのも大きかったですね。で、続いて朝永さん。原子核物理って、日本、すごいんだ……とみんなが思った。なんか、原子核の中には無限のお宝が眠ってるって感じでした。そこへ切りこむ最先端の物理学。その先頭集団の中に、日本の科学者がいるじゃないか……スゴイ……

でもその輝ける「物語」もやがて崩壊……一時期、才能のある人たちが原子核物理の方に行かなくなったのは、世界的にみても事実じゃないかな。能力のある人たちが向かったのは生命科学の方向だったと思う……しばらくそれが続いたんですが、最近また、原子核物理の方に人気が出てきたみたい……

セルンの実験で、ナントカ粒子が確認されたのは大きかったかも。今は、スパコンと巨大装置の助けを借りて、また新しい物語が作られようとしているみたいですね……今度の物語は、19世紀を抜けているんだろうか……私はきわめて懐疑的ですが、まあ、理系の詳しいことはわからないので、わからんとしかいいようがない。

最近見たアニメで、セルン陰謀説みたいなものを取り上げているのがあって面白かった。『Steins;Gate』というタイトルで、セルンがタイムマシンの実験で、世界をどーのこーのという……電話レンジ(仮)というニコラ・テスラ的な装置も出てきて、うーん、やっぱりあのあたりはつながってるんだ……という印象。

まきせくりす

19世紀って、おもしろいですね。人間の科学ががんばって、ものすごい「物語」をつむぐ……でも、それは結局人間の「物語」だから自然には通用せんわけです。いや、人間の社会にさえ通用しなかったことはコミュニズムの「挫折」で明らかになってしまった……もはや「物語」は無用なのだ……

オバマさんなんか、けっこうそんな感じなのだ……彼は、核廃絶というけれど、あの人は「物語」というものを基本的に信用してないから、それがベースにあってああいう言動が出てくる。だから、彼は、ABくんみたいに「物語」にどっぷり浸かっている政治家は大嫌いなんだろーなー……わかる気がする。

原子力物語……何回事故があっても、悲惨な姿になっても……この物語が生きているかぎり、人類は核からエネルギーを得ることをあきらめない。まあ、一種の信仰ですなあ……人類が、これまでのヘンな「物語」群をきれいさっぱり捨て去るには、まだだいぶかかるでしょう……いつまで19世紀をやってんのか……

今日の jin_ja:気比神宮/kehi_jinguu

気比大神00

今からもう10年ちょっと前……たしか、2003年の秋でしたか……私たち夫婦は、名古屋から三河の山里に越した。いなかぐらしと広いアトリエを求めて……で、住みはじめたのは良かったんですが、免許がない。おくさんのきんちゃんはもってるけれど、ずっと街ぐらしだった私は無縁……で、急遽、合宿免許で取ることに。

どこがいいかなーと思って探し当てたのが、越前の国、大野の自動車学校。大野といってもご存知ない方も多いかもしれぬが、あの道元さんの永平寺の近く……といえばわかりやすい。名古屋からだと、北陸線で福井駅下車。あとは、自動車学校のお迎えの車で山道を数十分……山間の盆地の、すがすがしい町でした。

位置関係図

合宿免許も、日曜はお休み。で、せっかく北陸に来たんだから、神社めぐりが趣味の私としては、北陸随一の大社である気比神宮は外せませんなあ……と、朝からお出かけ。まず、朝倉氏の都のあった一乗谷をみて……ここもなかなかのみどころだったんですが、その話はまた別の機会ということで、北陸線で敦賀の街へ。で、一路、気比神宮へ。

ところが……参道を歩いていると、どうも雰囲気がヘン。見た感じは、ごくフツーの大きなお宮さんということなんですが、なぜか、異様に重苦しい、押さえつけられるような重圧感が迫る。うーん……なんだろーと思っているうちに、大鳥居に。重圧感がますます強くなり、気比の大神が、巨大な岩に押しつぶされて苦しんでおられるお姿が……

気比の大神、古事記ではイザサワケノミコトとして登場される方ですが、この方は、北陸道随一の実力者で、タイヘンな力を持った地の神……平家物語では、平清盛が高野山に参詣した折にふしぎな僧が現われて、「越前の気比神宮は栄えておるのに安芸の厳島はさびれておるのでなんとかしてほしい」という。

どうも、平安末期の密教の世界では、越前の気比神宮が金剛界、安芸の厳島が胎蔵界の両曼荼羅になぞらえられていたようで……高僧(実は弘法大師の霊)が、清盛に、厳島改修の示唆を与えたこのクダリでもわかるように、日本の歴史において、敦賀の気比神宮は、日本海側の重要なカナメの地でもあったのでありました。

敦賀と厳島

そのカナメを抑える気比の大神の、あの苦しみよう……これはいったいどうしたことじゃろう……とふしぎに思ったが、理由はわからないままに本殿へ……気比の大神の苦しみの波動はますます強くなり、こらアカン、お祈りどころじゃないわい……と思ったけれど、ともかくナントカお祈りをすませて社殿をあとにしました。

街を歩いている間も、あの気比の大神の苦しみは、いったいなんだったんだろー……とすごく気になる。街は……まあ、どこもかしこも、いわゆるシャッター街。中心地でしょうとおぼしき通りもさびれて、なんかゴーストタウン?みたいなイメージ。日曜の昼下がりに、繁華街がこんなんでいいのかしらん?……と歩いていたら……

ひときわ立派な輝くビルが現われた。表向きは科学館なんですが、パトロンが電力会社……あっ、そうだったのか……鈍い私も、よーやく気がついた。そーか、原発……ゲンパツだったんだ……なるほど、それで全部のナゾが解けた。あの、気比の大神を押しつぶしていた、何百万トンもありそうな巨大な岩……あれが、いったいなにを意味するものか……

敦賀は、原発銀座といわれるほどに原発が集中している。敦賀湾は、原発群で封鎖されているといってもいい。いや、別に、航行は自由なんですが、実際には完全封鎖だ。あの重圧感……気比の大神は、昔から御食神(みけつかみ)、すなわち食糧を司る神様ですが、私のイメージでは、北陸の「いのち」全般の元締めみたいな神様……

その神の、あのお苦しみ……私は、ここで、ゲンパツというものの本性を知った。「ゲンパツはいのちを殺す」……これだと思います。「いのち」と正反対のもの、「いのち」を容赦なく押しつぶし、殺し、闇に返すもの……それが原子力。原子、特に原子核の内部に働く力は、外に働くフツーの力とはまったく違う。それを、なにも知らずにもてあそぶ……

それが、どんなにオソロシイ結果を招くか……私は、気比の大神のあの苦しみあえいでおられる姿の中に、如実にそのことを知ることになったのです。ゲンパツ、原子力の真のオソロシサ……放射能はコワいけれど、それは、「ある重大な惨劇」が原子の外に出た結果にすぎない。本当にオソロシイことが、実は、原子の中で……

しかし、それは、だれも知らない。私たちの知ることのできない領域で、実は、ものすごくオソロシイ滅びのプロセスが着実に進行しているんですね……原子(核)の内部というものは、実はある「ゲート」になっていて、そこを通じて、私たちの知らない世界、人間の能力ではうかがいしることのできないいろいろな世界につながっている……

原子の破壊は、そういう重要なゲートを破壊し……あるいは、知らぬまにいろんな世界を勝手にむすび……また壊し……実際に、どんなことをしているか……それを知ったら、原子をもてあそんでいる方々は、己の罪の深さに……いや、まあ、世の常識とあんまりかけ離れたことを言っても仕方ないですが、原子力が「いのち」を徹底して潰すものであることはたしかです。

人間の科学技術って、ホントに空恐ろしいモンですね。あの、本来いのちの輝きに満ちた神であるはずの気比の大神をあそこまで苦しめるとは……ゲンパツやだなーと昔から思ってましたが、あれほどまでに悲惨かつ壮絶なもんであるということは、私は、この体験ではじめて知りました。これは、ホント、タイヘンなことになるぞ……オソロシイ……