![御茶目新聞_10_929](https://soraebito.wordpress.com/wp-content/uploads/2014/06/e5bea1e88cb6e79baee696b0e8819e_10_929.jpg?w=960&h=669)
御茶目新聞_10
2014年(平成26年)6月3日(火曜日)
尾州御茶目新聞社 名古屋市中区本丸1の1 The Ochame Times
2014.JUNE.3(TUESDAY)
今日のモットー ★まともがいちばん!
大飯判決文にノーベル文学/平和賞
史上初W受賞
大飯原発運転差止請求に対する福井地裁の判決文は、そのストレートな表現がまずネット上で話題となり、各国語に約され、その格調の高さと論理の正確さ、そして理念の高潔さから、判決文としては異例の世界的な反響をよび、今回のノーベル文学賞、平和賞のダブル受賞につながった。
ノーベル文学賞は、これまで、作家個人の文学的業績に対して贈られてきたものであるが、過去には、バートランド・ラッセル、アンリ・ベルクソンなど、思想家の受賞もあった。しかし、判決文の受賞ははじめてで、「文学」の持つ意味と拡がりを改めて考えさせられる出来事といえよう。
また、平和賞は、周知のとおり「平和」に貢献した人物や団体に贈られるが、やはり裁判の判決文が受賞したのははじめて。しかし過去には、法律関係で、万国国際法学会が受賞(1904)した例もある。今回の福井地裁の判決文では、人格権の絶対優先が明記されており、平和賞の理念にある「人権擁護」そのものであると評価されたと考えられる。
政府は、判決文が地裁のものである点から、今回の受賞を無視し、原発推進の方針になんら変わりはないとしているが、今後、国際的に見て、原発の推進政策に大きな影響が出るのは避けられないと考えられる。
ABソーリの談話
ま、高裁も最高裁もあるしね……ムフフ。それと、ボクが「積極平和賞」もらってるの忘れてない? 積極、ポジティヴなんだよネ……ということで、今後とも、原発積極推進、積極販売、経済優先と生命軽視でガンバルぞー!
大飯発電所3号機及び4号機の原子炉を運転してはならない。福井地方裁判所
Embargo to operate nuclear reactors @ Ooi.
…………………………………………
大飯原発運転差止請求の判決文、全文読みました!……なんというか……まともだ!……こういうブログなんかで「まともな」ことを書くのはカンタンですが(責任がない……わけじゃないが、比較的軽いから)、国を動かすいろんな機関の人が、「まとまな」ことを書くのはさぞタイヘンだろーなーと思います。しかし、この判決文は思い切り「まとも」です。
これ、こどもが読んでもわかる論理だ……淡々と、しかし正確に、まともなことをまともに語ってます。だからすごい。「感動した!」という人が多いですが、私も感動しました。ようやく、まともな見解に当たった……狂人ばかりの輪の中に、正気できちんと立ってる人を見つけた気分……
まず、「平和賞」の方は、その理念からして、ピッタリ当てはまると思います。ウィキによれば、平和賞の受賞対象者は、「国際平和、軍備縮減、平和交渉だけでなく、人権擁護、非暴力的手法による民主化や民族独立運動、保健衛生、慈善事業、環境保全などの分野にも及んでいる」と書かれていますが、「人権擁護」はそのまま当てはまるし、「環境保全」も当然該当する(なぜなら、ダントツの環境汚染は放射能だから……この点は、判決文にも触れられています)。さらに、原発から出るプルトニウムが核兵器とダイレクトにリンクしていることから、「国際平和と軍縮」にもやっぱり当てはまる……
先頃、座間市の主婦の発案で、「憲法九条にノーベル平和賞を」という呼びかけが、ノーベル委員会に受け入れられた(推薦受理)ということで話題になりましたが、そのときの「受賞対象者」は、日本国民全員だったそうです。この大飯判決文は、狭義の対象者は福井地方裁判所になるのでしょうが、さらに広く、日本国内、いや海外でも、「原発ダメ」と思ってる人全員が対象者になるのでは(さらに、死の灰のツケを回されるこれからの、未来のこどもたちも)……
ゲンパツは、ゲンバクと並んで、いや、それ以上に「平和」に対立し、破壊するもの……それは、単に「人類」とか「地球」とかのレベルにとどまらず、さらに宇宙の根源的な……と、私は思ってるんですが、そこまでいうと「なんかのカルト?」とか思われて、たぶんまともに受け取られません。しかし、今回の大飯判決文は、マトモもまともで、ほんとにこれ以上マトモな文章はないくらいマトモです。直球ストレートでだれの心の論理にもストンと落ちる。どう考えても、これを反駁しようとする論理はすべて「詭弁」にならざるをえない……
以前から、「原発ダメ」は、みんな、きわめてマトモな論理だと思っている……これはたしかだと思いますが、これをきちんとまともに、正面から説いた意見は、やはり少なかったのかなあと思います。私のように「原子は宇宙のゲートになっている」というのは、今の常識からすれば論外扱いかと思いますが(しかし私は確信してますが)、そうでなくても、やっぱりちょっと中心を外れた論理も多かった。それは、どうしても「攻撃的」になるからだと思いますが……巨悪、政府と財界と学会の闇、原子力村、巨大産業と電力業界……etcの「真っ黒なヤツラ」への自然な反発からそうなるんでしょうが……しかし、今回の判決文には、余分な「攻撃性」は微塵もなく、ただ淡々と「まともな」論理を展開している……これ、判決文という性格上、当然といえば当然ですが、やっぱりみごとです。きちんと真ん中に立てば、そこではじめて正確に見えてくる……ただ、それを、論理的に一つ一つ記述していった……そんな印象です。
私が、「文学賞」にふさわしいと思うのは、やっぱりその点でしょうか……「文学」というと、やっぱりパッション、情の世界が深くからむ……そういう意識が主体になるのかもしれませんが、それでも言葉に対する「正確さ」は失ってはいけない。二流……というか、くだらない?ブンガクと、ほんとの「文学」(ヘンな言い方ですが)の差は、やっぱりそこではないかと思います。今回の大飯判決文は、もちろん「情」の世界とは一切関係ありませんが、「正確さ」においては、一流の「文学」になんらひけをとらない……すくなくとも、読んだ際の「言葉と文章に対してきわめて正確で誠実である」という印象は、まったく同一のものです。
たとえば……引き合いに出して申し訳ないのですが、就任以来の安倍首相の言葉を聞いていると、まさに「正反対」の印象です。言葉と文章を常に裏切り、しかも、それをかなり意識してやっている……ここまで「言葉」というものを汚し、辱めた総理は、おそらくかつていなかったでしょう……「文学的」に見れば「死」に値する大罪ですが、そこを突く意見が少ないのは……やっぱり社会全体が、「言葉と文章への誠実さ」を大きく失っている証左ではないかと思います。
こういうブログとかでは、いくらでも「正直、正確」ができるけれど、一旦、その文章や言葉が社会性を持ちはじめると、いろんな「しがらみ」に気をつかって「正直、正確」から離れていく……それが「大人の対応」とかいう考えもあるのかもしれないけれど……今回の「大飯判決文」においては、そういう「社会内存在」であっても、きちんと、どこまでも、言葉に対する「正直、正確」を貫き通すことができる……それを示したということで、まさに画期的なできごとだったのではないかと思います。いろんな文学者が、求め求めて、それでも一生かかっても得られるかどうかわからない、言葉に対する「正直、正確」……それを、「ゲンパツ問題」という極めて重大な社会的ジャムの中で、きちんと貫いてスックと立てた……これは、ある意味、文学者が究極に目指す地点なのではないか……そんな思いもあって、私は「文学賞」にもふさわしいと思いました。
大飯判決文、ノーベル賞になってもならなくても、「人類の宝」だ。生きているうちにこの文章が読めて、ホントによかった……つくづくそう思います。
http://www.news-pj.net/diary/1001
*私が読んだのは、↑このサイトです。謄本のPDFもあるようですが↓、なぜか途中までしか載ってません……
http://www.cnic.jp/wp/wp-content/uploads/2014/05/e3ebefe20517ee37fc0628ed32be1df5.pdf#search=’大飯+判決文’