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愛知トリエンナーレふたたび/Aichi Triennale 2016

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10月23日、愛知トリエンナーレ2016の最終日。ずっと気になっていたんですが、いろいろあって行けず……あっというまに終わり……ということで、名古屋エリアだけでも見ておこうと、あわてて栄へ。朝から回れば、愛知県美術館、栄地区、名古屋市美術館、長者街地区の4会場は見られるだろうと。

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結果として、名古屋エリアの展示の8〜9割くらいは見られました。つかれた……こんなにがんばってアートめぐりをしたのはひさしぶりだ……

で、どうだったか、ということですが……実は、かなり期待していたんです。前回のトリエンナーレが、予想に反してすばらしかったので。まあ、「予想に反して」なんていうと怒られますが、前回は、実はそんなには期待していなかった。でも、いい展示が多かった。

どこに感激したのか……というと、やっぱり作家さんたちの姿勢かな。前回は、あのオソロシイ大震災と原発事故から間もなくだったので、会場全体が緊迫感に満ちていました。やっぱり、あれだけのできごとがあると、作家さんたちも、自分が作品をつくる意味を、かなり真剣にかんがえなくちゃならない。あのできごとを直接反映した作品でなくても、やっぱりそういう、自分をつきつめるという環境はあったんだと思います。

それは、見る方にも直接響いてきました。自分たちは、なにをやってるんだろう……自分たちのやってることの意味って、なんだろう……そういう、みずからへの問いかけみたいなものが会場全体から感じられて、けっこう緊迫感があった。

しかるに今回……三年しかたっていないのに、世の中、大きく変わりました。もう震災も津波も、原発事故さえ過去の話になっちゃって、オリンピックだのなんだのと……社会の格差はますます開き、世界中で戦争や難民が絶えないのに、日本人はもう、あのオソロシイできごとさえ忘れちゃったのでしょうか……沖縄と福島をカッコに入れて、われわれはどこに行こうというのか……

今回のトリエンナーレにも、その「忘却の女神」の力を強く感じました。「虹のキャラバンサライ」……うーん、あたりさわりのない、ふわふわとした夢のようなタイトルだなあ……人間って、すぐに忘れるんですね。で、目は空中に漂って、足はいつのまにか地を離れる……

そもそも、アートって、いったなんだろう……それを、アートをやる人は、片時も忘れてはいけないと思います。とくに、今のように、いろんなものがでてきて、アートといろんなものの境界があいまいになっちゃった時代には、もうアートなんてなくたっていいんじゃない? という疑問が当然のように出てきます。

業界に守られたり、いわんや商業ベースにのっかっちゃったりして、かろうじて存在を保てるようなものは、やっぱり不要なんでしょう。前回のトリエンナーレでは、地震に津波、そしてゲンパツという圧倒的な破壊力が、アートをやる人に、おまえがアートをやってる意味って、なんなの?と強く迫った。アーティストは、ややともすれば眠りにつく心をはねのけて、そのシビアな問いかけに答えなければならなかった。みんな、真剣に答えようとしていたと思います。そのすがすがしさは、たしかに胸に強く迫りました。

じゃあ、今回は……ということなんですが、今回の展示のなかで、いちばん私の心に残ったもの……それは、名古屋市美術館の地下常設展示室にあった、河口龍夫さんの「DARK BOX」でした。これはもう、ずいぶん昔の作品で(たしか、70年代からつくりつづけておられる。いろんな年代のDARK BOXがある)、常設展示だから、一応トリエンナーレとは無関係……なんでしょうが、この作品、ごろんと転がってるだけで、今回私が見たトリエンナーレの全作品に勝ってる……

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昔のアーティストって、こうだったんですね。見るからにウソくさい重金属のカタマリなんですが、なぜか、ゴン!と存在感がある。見る人の想像力にあまり頼らない。今の作品は、見る人に訴えかける秋波が強すぎるんじゃないか……共感を呼びたいのはわかりますが、アートなら、そこはぐっとガマンするところだろう……「見て、見て、スゴイでしょ!」というのはなんか夜の歓楽街みたいな……作品をつくる上でいちばんだいじなのは、「矜持」なのかもしれません。

そもそも、アートをつくる意味って、なんでしょう。崩壊しつつあるこの世界。地震にゲンパツ、イスラム国にトランプ……オソロシイものがゾロゾロでてくる今という時代にあって、アーティストはなんでアートをつくるのか……もう、そのギリギリのところまで戻って考えないと先はないなあ……そんな感じでした。

戦争に行きたくないって、利己主義なの?/Is the thought not to want to go for war egoistic?

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利己主義ではないと思います。私だって行きたくない。だれでも行きたくない。戦争に行けば、殺される。殺されなければ、殺す。どっちかになる。どっちもイヤ。これって、「利己主義」なんでしょうか……

仕事でつらいことがあると、自分はそれをやらずに、なるだけ同僚にやらそうとする。これはまちがいなく「利己主義」だ。じゃあ、戦争は「仕事」なのか……職業軍人にとっては「仕事」なのかもしれませんが……

日本には、憲法9条があって、軍隊はなく、軍人もいないので、「戦争という仕事」はない!ということになります。というか、「戦争を仕事とする」ということをやめましたということを言ってるということになります。

これは、もしかしたら、人類史上、画期的なことではないか……人類の歴史の上で、「戦争は<仕事>ではない!」とここまではっきり言い切った国はなかったのではないか……これはスゴイことだと思う。

日本以外のどこの国でも、「戦争という仕事」は「ある」ということになります。軍隊があり、職業軍人がいる。その人たちは、「戦争」を「仕事」としている。そういう人が「戦争に行きたくない」と言ったら……

それは、「職業倫理」からいえば、自分の職業を否定していることになるのでオカシイ。「戦争に行きたくない」なら、職業軍人という「仕事」をやめるべきだ。しかし、日本の自衛隊は「軍隊ではない」から……

自衛隊員の人は、堂々と「戦争に行きたくない」と言えるし、それはもちろん「利己主義」ではない。自衛隊員にしてそうだから、もちろん、自衛隊員以外の日本の国民が「戦争に行きた行くない」といっても……

それを「利己主義だ」と言って誹謗するのはオカシイ……そういうことになります。つくづく日本はいい国だなあと思います。世界で唯一、「戦争に行きたくない」という自然な思いが憲法上も「利己主義」にならない国……

ふりかえってみれば、過去の日本には、明確に「職業軍人」の身分がありました。武士……戦いを職業とする人たち。彼らは、もう、生まれたときから「職業軍人」で、一生それは変わらなかった。

今の日本人の倫理観や道徳意識は、主として、この職業軍人クラス、つまり、武士階級にならってできてきたような感があります。むろん、以前は、農民には農民の、町人には町人の倫理、道徳があったのでしょうが……

幕末から明治維新にかけて、武士階級が崩壊するとともに、なぜか、武士階級のものだった倫理観、道徳観が、農民や町人のクラスにまで波及したような気がします。床の間、端午の節句、エトセトラ……

「草莽(そうもう)の志」……今、大河ドラマでやってる吉田松陰の言葉だったと思いますが、橋川文三さんの本(リンク)を読んでみると、幕末には、日本全国にこれが自然に湧いて出てきたらしい。

外圧。攻め来る米欧に対して、権威ばかりの武士階級にまかせとっては、もはや日本という国は守れん!ということで、農民も町人も、自主的に軍隊組織のようなものをつくって、「国を守れ!」と立ち上がったとか。

橋川文三さんは、日本の各地に残る、こうした運動の檄文や上申書の類を具体的に紹介しながら、「国の守り」が武士階級の手から、「国民一人一人」に移っていった様子を描写する。そして、これが、奇妙なことに……

明治期の天皇主権、国家神道みたいなものから、反権力の民権運動にまでつながりを持ったことを示唆する。今ではまるで反対に見えるものが、実は根っこでつながっていたのかもしれない……これは、実にオモシロイ。

今からン十年前、夏のさかりのある日、K先生のご自宅で、三十名くらいの人たちと、吉田松陰の「留魂録」の講義を受けた。先生は、みずから松陰そのものと化し、その場は、百年の時を遡って、松下村塾そのものとなった。

みな……熱い志に満たされて、静かに夏の夕暮れが……今でもよく覚えています。幕末の志士の「志」というのは、こういうものであったのか……しかし、今、私は、M議員の「利己主義じゃん」という上から目線の言葉よりも……

「利己主義」と誹謗された学生さんたちの行動の方に、この「熱い志」を感じる。どちらが松陰の「やむにやまれぬ魂の動き」を受け継ぐものなのか……私は、学生さんたちの姿の方に、圧倒的にそれを感じます。

「戦争に行きたくない」。それは、今に生きる人の、まことに正直な気持ちだと思う。それはもう、「日本」とかの小さな区分を越えて、人類全体の価値観につながる「思い」だから。もうすでに「ベース」が変わっている。

職業軍人のいない世界。日本は、世界で唯一、それを実現した国であり、「戦争に行きたくない」という思いが、全世界で唯一、「利己主義」にならない国だ。「人類みな兄弟」と言葉ではいうが……

職業軍人という「仕事」が憲法上成立している国においては、その言葉は逆に成立していない。自分の国を守るために、相手の国の人を殺すことを職業としている人たちがいるから……

「人類みな兄弟」が憲法上、きちんと成立している国は、現在のところ、地球上で、日本だけということになる。そして、日本は、先の大戦で、大きな犠牲を払って、この価値観を手にしたのだと考えたい。

「戦争に行きたくない」は、殺したり、殺されたりしたくない、という、まことに当然で自然な思いであり、日本は、世界で唯一、それが憲法上、正当であると認められる国だと思います。それを「利己主義」というのは……

歴史を百年戻って、松陰の時代に生きることになる。それでいいのだろうか……Alle Menschen werden Brüder! 「すべての人が兄弟となる」松陰の時代に遡ること30年前に、ベートヴェンが第9交響曲でこう歌った、その言葉……

それが、今、少しずつではあれ、実現されつつあるのを感じます。世界中で。スバラシイ……ということで、「次の課題」は、「すべての<存在>が兄弟となる」でしょう。21世紀は、ここに向けて開かれるのか……

今日の写真も、一つ前の記事と同じく、2013年の愛知トリエンナーレのオノ・ヨーコさんの作品の一部です。「休みを欲す」……これはもう、利己主義じゃないね。切実だ……この人、はたして休めたのだろうか……

オマエら非国民_あべのこどもたちのスナオさについて/You are unpatriotic, AB_child said.

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自民党議員のMさんが、ツイッターでバカなことを書いた……ということで、ちょっと話題になりました。国会前で、政府の新安保政策に抗議のデモをしている学生たちの団体を指して「戦争に行きたくないというだけの利己主義じゃん」と言ったとか言わないとか……いや、「言った」ワケですが、ニュースで聴いて「えっ?!」と思った。コレって、あと一歩で「非国民」……例の、オソロシイ言葉です。「お前ら、非国民だ~!」まあ、結局、そう言いたいんでしょう。

でも、このMさん、自分が戦争の現場に行く覚悟があって、そう言ってるんかな? 「じゃあお前が行け!」とダレでも言いたくなる。この発言、もし、最前線に送られた自衛隊員のものだったらまだわかります。しかし、自分はお山のてっぺんでアレコレ指揮するだけの議員さんの発言……卑怯なやっちゃなあ……そう思いました。自分が戦争に行くわけじゃなく、人を戦争に刈り出す立場の人間……ABくんもそうだけど、「自分が行けよ!」ということですね。結局は。

子どもの頃、ナポレオンの伝記を読みました。いちばん印象に残っているのは、彼がまだフランス軍の下士官だったころ、部隊を率いて最前線に立つわけですが、いつも最前列の真ん中の、いちばん弾が当たりやすいところにいて、「われに続けー」と言って真っ先にとびだして、敵軍につっこんでいった。まあ、子ども向けのものだから、おもしろおかしく……ということはあるんでしょうが、子どもの私は感激しました。なるほど、こういう指揮官なら兵もついていく……

しかるに、自分は安全地帯にいて、「お前ら戦争に行けー、拒否するヤツは非国民じゃ~」ですか。Mさんは京大大学院修了とか言っておられますが、京大も堕ちたものよ……まず幼稚。で、卑怯。彼が、いわゆる「ABチルドレン」なのかどうかは知りませんが、自民党、こんな議員さんが増えているんだろうか……そして、こういう感覚の若い人たちが増えているのか……で、この言葉を言われた当の学生の団体の代表さんの言葉。「ABくんは戦争やらんと言ってるが……

ABくんの手下が、ヤルということを白状してるじゃん」……正確ではありませんが、なんかこんな感じでした。うーん……なんも、ここまでレトリックで言わなくてもいいのになあとも思います。もっとダイレクトに反発すればいいのに……言論戦って、乗ったらマケなんじゃ……言葉は、「正直に使える限界」というものがあって、それを超えると、どっかにヘンな意図が入りこんでくる。私の場合、この代表さんの言葉には、もうすでに「政治的なニオイ」を感じて、ちょっとヤになった。

M議員の言葉と比べてみますと、オドロクべきことに、M議員の言葉の方が「正直」です。スナオに自分の愚かさ、幼稚さを晒している。そういう点ではとても正直な言葉の使い方だと思う。学生代表の方は、運動を通じて、やや「政治的」になってきているのかな?とも思います。まあ、あの発言だけではわからないのだけれど……おそらく、学生代表さんの方が、アタマは格段にいいのでしょう。でも、アタマのいい人は、それなりのワナに陥りやすい。

ここらへん、ビミョーな「ねじれ」を感じて、オモシロイなあ……と思います。M議員の発言の場合、反発する人は瞬間的に反発する。賛同する人も同じ。明暗くっきり分かれます。ところが、学生代表さんの発言は、さっと聴いているだけではわからない。言ったことをちょっと考えて、なるほどそういうレトリックだとわかるしくみ。「敵の発言の穴を突く」というのは、政治的には常套手段なのかもしれませんが、学生さんにソレをやってほしくないなあ……

あのデモは、学生さんたちの「やむにやまれぬ心」が、限界を突破して現われてしまったものだったのでしょう……しかるに、今は、M議員の発言の方に、「やむにやまれぬ」ものがあるような気さえする。「てめーら、非国民だ!」というのは、権力におもねって自分たちの安全を確保しようとする幼稚な人々の「やむにやまれぬ気持ち」であることは容易に理解できます。まあ、要するに、「権力の側に立つか、それに逆らうか」という単純な2択だと、私は思う。

いやいや、ものごとはそう単純にいくものではない……そうおっしゃる方もおられるかもしれませんが……しかし、現場では、結局ものごとは単純で、いつも「2択」になるんだと思います。M議員は「政治の現場」にいる。彼のように、その世界での経験が浅い人にとっては、ものごとはすべて「2択」にしか見えないんだろーな……しかるに、学生代表の方はどーなんだろー……デモの現場のシュプレヒコールは単純なのに、マイクを向けられた発言は、けっこう複雑だ。

どーなってるんだろー……と思います。これから、どーなるのでしょーか。私の心としては、学生さんたちの運動を応援したい。でも、発言の「スナオさ」からいうと、M議員の言ってる方がストレートだ。自分自身の幼稚さを、ここまで率直に表現した発言って……まあ、ネットではいろいとアリかもしれませんが、議員の立場では、あんまりなかったような気もします。それだけに、やっぱりなにかが変わりつつある……という、心底不気味なものも感じます。

2.26のときもそうだったけど、単純スナオな心は、「ある勢力」に狡猾に使われてしまう。M議員と2.26の「英霊」の心を比べるなど、とんでもない冒涜なのかもしれませんが(なんせ、英霊さんたちは身体を張ってやった)、こういう「幼稚なスナオさ」は、一種の「のろし」というか、「やがて来るべきもの」のオソロシイ意図を最初に体現したものである場合が多いのでは……あのときも、結局、国民全体が「非国民思想」に染まって、滝壺に堕ちるレミングの群れのごとく……

あのときは、まあ、私は生きてませんでしたから、いろいろ読んだりみたりしたものに基づいて思うのですが、「愚かな」レミングの群れを止める方の勢力は、たぶん複雑すぎたんだと思います。インテリ社会派、というのでしょうか。それは今も同じで、アタマで考えていろいろリクツをこねるので、国民の大多数の心に響かない。スナオさが足りんというのか……「鬼畜米英」というストレートなメッセージの方が、問題なくダイレクトに、大多数の国民の心に響いた。

今の学生さんたちの言動は、すばらしいし、勇気ある行動だと思います。それだけに、かつての「インテリ社会派」の陥ったワナにはまらないでほしい。吉本隆明さんは、かつて、自分が安保闘争に参加したことについて、「吉本ではなく一参加者」として参加したんだという立場にこだわったが、ここだと思います。彼は、「知識人のワナ」に対して極度に敏感なところがあって、そこが共感を呼び、また、「インテリ社会派」から嫌われたところでもあるのでは……

とにかく、ものごとはスナオがいちばん。私はそう思います。がんばれ、学生さんたち! ……いつも、ダレがきいてもすぐにわかる言葉でしゃべる。それが、ダイレクトに人の心に響く(反発であれ共感であれ)。この立ち位置だけは、M議員の発言に学んでほしいけど。

正確な情報として、M議員の言葉を掲げておきます。
(学生代表の言葉は、見つけられませんでした。上に書いたのは、テレビ放送で聴いた記憶です。)

★M議員のツイッター
SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。

写真は、2年前の愛知トリエンナーレで見た、オノ・ヨーコさんの作品の一部です。

愛知トリエンナーレを見る・その3

愛知トリエンナーレ。3回目。ホントは、この間の2回目で終わりだったんですが……最終日の日曜日、朝からいいお天気で、チケットもまだ残ってるし……ということで、急遽、見にいくことに。今日は、おくさんのきんちゃんはあいにくお仕事なので、妹のきーこちゃんに電話してみたら、行くとのこと。で、一路名古屋へ。

まあ、とりあえず腹ごしらえを……ということで、新栄のカフェ・ドゥフィでお昼。私はハンバーグランチで、きーこちゃんはムール貝のなんとやら……安くておいしい。お腹もいっぱいで眠くなるのだけれど、とにかくまた車にのって会場へ……

私は、名古屋市内でまだ見ていなかった長者町会場を見ることに。きーこちゃんははじめてなので、充実した展示が集中して見られる愛知県美術館の8階と10階へ……ちょっと風が強いけどいいお天気で、長者町会場のあたりは、トリエンナーレのガイドブックを持った方々がうろうろ。この辺は、休日は人も車もほとんど通らないので、けっこう目立ちます。

★長者町会場

「長者町会場」といっても、そういうでっかい会場がどーんとあるのではなく、数百メートル四方の街区の中に、いろんな建物を利用して(利用させてもらって)いろんな展示がバラけながらある……という状態。なので、例によって「思いこみ」で、あんまりたいしたモンはないだろー……と、最初は見る気はなかったんですが……まあ、見るということになったら全部見てやれ……ということで、順番に回ることに(これが良かったんですね)。

展示は、地下鉄の改札を出てすぐの地下街からもうはじまります。そこは前に見ているので、地上に上がって回りはじめる。さすがに「コマい」展示が多くて、中にはビルの壁面に絵が描いてあるだけのものも……でも、一つものがすまいと、ガイドブックと首っぴきでてくてく歩く(一部は行列で断念。休日で最終日だからなあ)……

中には、4階建てのビルの全フロアを使った展示もあるものの……やっぱり「コマい」。県美術館や納屋橋会場の、あの充実した展示に比べると、「時間対効果」は異常に低い……ので、昔の自分だったら「しまった!やっぱり家で寝てりゃーよかった……」と思ったかも……作家の「レベル」という言い方は良くないのですが、学生さんたちの展示もあったりして(まあ、はじめはそんな感想だった)……

Webでもね、回っているうちに、なんだか気分がよくなってきたんですね……そう、なんも、県美術館で広いスペースでばっちり展示している作家さんばかりが「役者」じゃねーんだーと。これもヘンな言い方ですが、現代美術って、スター作家がいるようで、実はいない。そこんところが、他の芸術ジャンルとはちょっと違うところ。ビッグネームになってる人も、学生さんも、みな同じ平面に立って、自分の作品を作ってる……

私なんかも、現代美術のギャラリーをお借りして個展とかやってるので、絵描きの分類としては一応、「現代美術作家」になるわけですが(ならん!という声も……)、まったく名はないので、作品をつくりはじめたばかりの学生さんたちと「レベル」としては全然同一。なので、今回、この長者町会場を見て回って、なんかかなりホッとした雰囲気を感じた……現代美術って、やっぱりいいなーと思いました。

うーん……なんというのでしょうか……新約聖書(マタイ5章)にある『貧しき者は幸いなり』という言葉が浮かんできます……今回のトリエンナーレのテーマは、「揺れる大地」ということなんですが……これは、やっぱり直接的には東北大震災と福島原発事故のことなんでしょうが、展示の全体を見ていると、やっぱり「貧しさ」とか「生きていく苦しさ、つらさ」みたいなものを感じるものが多かった。

これまでの展示で見た、たとえばクリスティナ・ノルマンさんの「黄金の兵士」(とにかく政治的なこの世界で、人は、どう生きていったらいいのか)とか、アンジェリカ・メシティさんの「4人の移民パフォーマーの映像」(強い文化の前にうちひしがれ、流れるけれどもルートにつながる糸)とか、アーノウト・ミックさんの「段ボールの塔」(大きなできごとに翻弄されてもホントはこうありたい)とか……

中国人作家のソン・ドンさんのばらばらにされた家具、日本の青野さんの軽トラと融合したタンス、宮本佳明さんの「福島第一さかえ原発」なんかもそうだし、あと、上海の作家さんの浮遊するビル群とか、イスラエルで境界をつくる映像とか、イギリスの元炭坑夫の映像とか、両足を切断した作家の片山真理さんの胸にぐさっと突き刺さる展示……こうやって見ると、やっぱり今現在の現代美術のいちばん大きなテーマは、「共感」なのかなあ……と思います。

★貧しきもの……

『貧しきものは幸いなり』……これから、日本の社会も、どんどんカクサが広がり、原発に戦争に……すべてが「将来ツケ回し」の世の中で、享楽を楽しめる人はいいけれど、「金(かね)の環」からどんどんこぼれ落ちて闇の中に消えていく人がますます増える……私なんかもすでにその一員ですが、さらにさらに生きにくく、苦しい思いをする人々ばかり……これはもう、政治とか、いわんや経済なんかでどうにかできるレベルの話ではないのでしょう。実は。

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イエスの語ったとされる、この『貧しき者は幸いなり』という言葉は、その解釈をめぐっていろんな見解があるとされていますが……まあ、正確には『心の貧しき者は幸いなり』で、この「心」という言葉は、原語(コイネーのギリシア語)では「プネウマ」。すなわち、「プネウマにおいて、乞う者は、祝福される」とでもなるのかな……

プネウマは、「霊」とか「精神」とか訳されるが、元々は「息」だったようで、つまり、吸ったりはいたりの「息」。この「息」にのって、「神の霊」が人の身体(肉体)に宿る……ということは、「神の霊」が入れるだけの「余地」をつねに身体にあけておかなければならないということ。そういう意味で、「プネウマにおいて乞う者」つまり、常に「神の霊」を息吹として身体に受けたいと思ってる者が「幸い」だと……そんな解釈になるのでしょうか。

そういう意味では、これは「豊かさって、なに?」という「問いかけ」でもあると思います。その人のプネウマが、「神の霊」ではなく「地上の豊かさ」に占領されてしまえば、祝福は受けられない……

今回の展示を見て……そして、最後に長者町会場の展示を見て、やっぱり「豊かさ」について考えさせられた。自分と……世界と……そのかかわりの中に、いろんな思いがあり、貧しさがあり、豊かさがある。豊かさも貧しさも、いつも「自分」を中心に考えているけれど、実は、ホントは、「関係性」の中にしかないのかもしれない……

★「豊か」だった長者町

この長者町かいわいは、戦後すぐは、とても賑わった「豊かな」街だったみたいです。愛知県の産業は、戦後すぐくらいは今とまったく構造が違っていて、愛知はとにかく繊維と焼物で栄えた。焼物は瀬戸ですが、繊維は岐阜から一宮、そしてこの長者町の繊維問屋街のあたりが中心で、ホントに「長者」もたくさん出たのでしょう……ところが……

一宮出身で舟木一夫さんという俳優がおられますが、彼の人気のかげりがちょうど愛知の繊維産業の衰えと同期していたようにも思います。その凋落は激しく、長者町一帯は、あれよあれよという間に昔の隆盛を失い、淋しい街となっていきます。産業構造はすでに大きく変化し、「愛知」はトヨタに代表されるくるま産業に塗りかえられて……

長者町一帯には、景気の良かった昭和30年代に建ったビルがそのまま残され、廃業する会社も多く空室だらけ……なので、今回のような現代美術の展覧会にはピッタリ!なのでしょう……だから、この「長者町会場」は、街全体のかもし出す雰囲気が、やっぱり現代美術としっくり来る。とくに今回のようなテーマとはもうピッタリ。ここは、「豊かさ」の遺跡なのだ……

置いていかれるもの……取り残されるもの……経済の発展や科学技術の進展はいいのですが、そこには必ず、切り捨てられ、見捨てられるものがある。そして、そういうものに注がれるまなざしは、ふつう「憐憫」とか「同情」……で、ちらっとそういうものを投げつけておいて、人は、やっぱり、どんどん、先へ、先へ……と進む。

★現代美術のこと

『貧しきものは幸いなり』キリストのこの言葉をどう理解したらいいのか……私は、今回のいろいろな展示を見て……そして最終日に、この長者町会場をぐるぐると回ってみて、いろいろ考えさせられました。それは、自分自身の境遇も含めて、ということですが……すべての存在が、基本的に「同じ場所にある」と考えるのが、現代アートなんだと思います。すべてが。

どこかを突出させると、それは「政治」になったり「経済」になったり「科学技術」になったり……アートの中でも、突出を平気で基本として、作家に明確な「序列」を与える分野もある。それは、やっぱり現代美術の中でもそうで、画廊の人たちの話を聞くと、ああ、この人は作家に明確に序列を付けてるなあ……と感じる人もいる……

しかし、今回の展示を見て、やっぱり感じたのは、作家たち自身はそんなことはまったく考えていないということです。作家は、やっぱり自分のつくるもの、自分の仕事に真剣に向き合って、自分と世界との関係……多くの人々、そしていろんな存在……そういうものの声をきちんと聞いて、じゃあ、それでは、自分は、世界に対してどういうふうにアプローチしていったらいいのか……と。

だから、現代美術はおもしろい。作品をつくりはじめたばかりの学生さんも、世界的に名が知られるようになった作家も、本質的にはすべて「同じ場所」で作品をつくる。真剣に。……そして、そこが、「新しいもの」が生まれる場……今回のトリエンナーレでは、最後に長者町会場を回って、そのことがすごくよくわかって、なんか安心するとともに、希望みたいなものも湧いてきました。

『風の谷のナウシカ』のラストシーンで、腐海の底に芽生える双葉……そんな感じですね。……やっぱり、今日、長者町会場をめぐってよかった……「気持ちに空きを持つ」ことかな。「poor in the spirit」これから、どんな世界になっても……

★追記

以前の記事(トリエンナーレ2)で、オノ・ヨーコさんの『光の家の部分』という作品に触れて、あんまり感心しない……と書きましたが、今回、栄のテレビ塔と県美の2Fの展示『ウィッシュ・ツリー』を見た。これは、超シンプルで良かったです。造花の植木の枝に願い事を書いて吊るす……まあ、神社の絵馬と同じですが、絵馬よりシンプルで無料というのがいい……

おもしろい?のがいくつかありましたので、ご紹介を。

★子供の宿題を、もっとやさしくキレずに見てあげられますように ダメ母

★休みを欲す たか

★お金がふえますように/私の好きな人が好きになりますように みゆき

★早く玉の輿に乗れますように! 白馬より外車に乗った王子さま RIKA

★悪人が消えますように

★ぼくのうちのそのとおりすぎたとなりになまずがいてください(3匹の魚の絵)

★年金を切り下げられたら困ります

★悪いヤツにテンバツを!! ブッダ

私も書きましたが、内容はヒミツ♥です。

愛知トリエンナーレを見る・その2

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★チケット忘れた!

愛知トリエンナーレは全体が膨大なので、とても一日では見られない。というか、前回は半日だったので、「今日は丸一日、めいっぱい見るぞー!」と夫婦ではりきってお出かけ……はよかったんですが、一時間以上かけて名古屋市に到着、駐車場も目の前、というときになって、私は土器っとした。「チケット、忘れた……」すると、おくさんのきんちゃんも石器化……のあと、一言。「私も」。

なにやっとんじゃー! 二人してー!! これ、年寄り?のペアの「典型的破滅的」一場面でした……うわー、往復3時間かけて取りに帰るかよー……家に着いたら、「もーやめとこ」となるに決まってるじゃん……ということで、結局、あらたに2枚、購入するはめに……マナカ(中部圏の磁気交通カード)があったのでちょっとは割引になるものの、ふたりで3000円以上のムダな出費だ……くくく……(受付の女性は終始にこにこ。うらめしやー)

★愛知県美術館10階

でも、これが、結果としては良かった。まあ、そのお話はあとでするとして、早速、この間見残した愛知県美術館の10階会場へ。中国人作家のソン・ドンさんの『貧者の智慧:借権園』(2012-2013)。<借景+借用権>だそうな。ガラスというか鏡が多くて痛そう……これ、タイヘンですよ……なにが大変かはわかりませんが、とにかくたいへんだ……で、次の部屋はコーネリア・パーカーさんの『Perpetual Canon』(2004)。なんか、ホッとしました。

perpetual を辞書で引くと、「腐朽の」とか「永遠の」とかの意味が書いてある。すぐに思い出すのは、大バッハの『音楽のささげもの』の中に出てくる「無限カノン」。曲の終わりがはじめに続いて、無限に上昇していくカノンですが、無限にやったCDは聞いたことがない(あたりまえじゃ!)。で、これをどういうふうにコーネリアさんが解決したのか……まあ、それはおいといて(無責任ですが)、ぐるっと回った中で気になったのが、オランダ人アーティストのアーノウト・ミックさんの『段ボールの壁』(2013)。

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部屋のまんなかに段ボールの壁の迷路ができていて、その上に中くらいのスクリーンが二枚。そこに映し出される映像は、段ボールの壁に仕切られた体育館みたいなところで生活する被災者たち……カメラが、その様子をゆっくりゆっくり舐めていく……ああ、東日本大震災の……しばらく見ていたが、あんまりゆっくりなので一旦他の部屋へ。で、ちょっとたって戻ってみると、今度は、東電幹部とおぼしき方々が被災者たちを前に、一列に並んでひたすらあやまっている光景。音はまったくなし。

へー、こんな光景、こんなきちんと撮っていたのか……とにかくひたすらあやまってる。揃いのうわっぱりを着たおじさま方……しばらくこれが続いて、また避難所の光景。段ボールで区切られた大きな一室に、さきほどの東電のおじさま方が、被災者と同じ毛布や布団で雑魚寝……うーん、そーだったのかー……そら、自分たちだけ高級ホテルに泊まるわけにもいかんもんなー……と妙に感心。しかし、これが後でとんでもないことに……

なんか、突然、みんなが段ボールの壁を崩しだしたんですよね。さすがに変だと思って解説を読んだら、この映像は、避難所そのもののものではなくて、「再構成」だと。つまり、「演技」でした。で、演じていたのは、俳優さんたちと実際に当時避難所に避難していた方々だそうです。……ということは、あの東電のおじさんたちと思ったのは、実は俳優だったのか……ということは、実際には、東電の方々は高級ホテルにご宿泊??……いや、ホントのホントはたぶん日帰りだったんでしょーがー……

考えてみると、あんなふうに、なめらかに映像が推移するはずがない。クレーンを使わないとあの映像は撮れないが、実際の「謝罪会見」なんかでクレーン撮影ができるはずもなく……いやあ、騙されましたね……このあと、なんかみんなで「塔をつくる」ということだったけど、そこまでは見ませんでした。

しかし、この映像で思ったのは……うーん、これは虚偽であるにしても、ホントは、なんかこうだったらいいなー……という気分がやっぱりした。人間というのは、立場や損得なんかで「ホントにいい」ようには動けないもんですが……それは、だれでもそうなんだけど、ホントはこういうふうに動きたいなあと。なんでソレができないのか……途中までですが、この映像は、そんなことを語っているように思えた。うーん……

10階であと印象に残ったのは、青野文昭さん。軽トラがいつのまにかタンスに……舟が机になったり、机が床の模様になったり……なにを言ってるのかワケがわからんと思いますが、実物を見れば一目瞭然。で、これが、漂着物が発端だったそうで……流れ着いたバラバラのかけらを組み合わせる。つなぎ目が一見わからんように(二見するとわかる)なめらかに……この作業は、作家ご自身も被害を受けたあの震災で、加速度的になったのか……

モノって、ふしぎですね。人間の意識と、モノは、結局この作品に見られるように「ないまぜ」になってるんじゃなかろうか……名古屋に、「すがきや」というラーメンチェーンがあるんですが、ここで、ちょっと前まで、スプーンとフォークがくっついたモノを出してた。まあ、スプーンの先がちいちゃなフォークになってるんですが、これ、ラーメン食べるのに便利でしょって……でも、私はそれで食べる気にはならなかった。必ずお箸で食べました。

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そういう考えの人が多かったと見えて、このヘンな器具は廃れたみたいですが……考えた人は、麺類を食べる「普遍的食器」として一般化するか……とか思ってたのかもしれないけれど、ダメでしたね。要するに「アート」だったわけで……青野さんの作品とこのスプーンフォークを一緒にするわけじゃないですが、青野さんの方は、スプーン:フォークよりもうちょっと距離感のあるモノどうしを組む。そこはもう、まるまるアートの世界。

そう。モノが、しゃべりはじめたみたいに見えるんですね。軽トラは軽トラの言葉を、タンスはタンスの言葉を……「オレは軽トラ」「私はタンス」……って、そういう「語り」は、モノがモノとして使われているときには、けっして聞こえてきません。まあ、要するに、人間の「使用意識」がそれを封じるから。でも、長い間使わないで土間にほっぽっといたモンなんかに、ちょっとそれが聞こえてくることがある……

『ゲゲゲの鬼太郎』なんかで、「つくもがみ」というんですか、モノが長い間たつと妖怪になる……というのがありましたが、青野さんの作品は、さしずめ「つくもがみ即席製造装置」みたいなモンかもしれません。……というところで10階は終わり。見たかった平田吾郎さんの作品の場所がわからなかったんですが、後で聞いたら、どっちみち予約制ということで、見られなかったようです。で、名古屋市美術館へ……

Web★名古屋市美術館

雨が降りだしました。今日は台風27号のアタリ日。けっこう距離がある。ようやく市美に着くと、おくさんのきんちゃんが一休みしたいというので、隣の科学館のレストランへ。私は「ブラックホールカレー」なるものを注文。きんちゃんは「ナントカチキンキーマカレー」。けっこうフツーのお値段でしたが、セルフで、しかもお皿もスプーンもプラスチック……そりゃないよなーという感じ。まあ、味はそんなには悪くはなかったけれど。「ブラックホールカレー」は、色がちょっと濃いめなだけ。

で、市美へ。なぜか、入口が正面じゃなくて裏手になってて、雨の中をぐるっと回る……イニシエーション……でややこしかったわりに、内部の展示は拍子抜けでガックリでした……杉戸さん、ダメじゃん! あんな作品では、負けてまっせ……一階全部を使ったチリのアルフレッド・ジャーの作品もいまいち……黒板に「生めん」と書いてある(ウソです。実は「生ましめんかな」という文字が、投影で断続的に現われる)だけ。

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黒板が何枚もあって、それぞれに書体が違う。石巻のこどもたちが書いたそうだけど……なんか、名古屋市美って建築が悪すぎで、その建築の邪念が展示作品にも乗りうつってしまうみたいですね。オソロシイことに……で、がっくり。地下から地上に至る和風庭園には青木野枝さんの作品が植わってるんですが、雨のせいで閉鎖。窓ごしに見るしかない……おくさんのきんちゃんは、係員さんに「なんとかならんのー」とネジこんでたけど、市美としては、雨でお客が滑ってケガしたら責任どーする……とか考えたんでしょうかね。いかにもお役所的に。

でも、窓からの眺めがなかなか面白かった。地下の巨大な窓から、地上にせりあがる和風庭園が見えて、その向こうにどーんと科学館の巨大なプラネタリウムの玉が……この場所は完全な平地なんですが(昔はアメリカ村)、この視覚のみ、なんか、山の中にいるような錯覚を覚えます。黒川紀章のこの建物は本人が遊んでて作品をミナゴロシにするんで良くないなーと思ってたんですが、この視覚だけはオモシロイ。科学館の巨大プラネタリウムが後でできたので救われたということか……

で、市美でがっくりして納屋橋会場へ……と、その前に、建築探偵の藤森照信さんの『空飛ぶ泥舟』という作品が庭にちょこんと吊ってありましたね。かわいい……でも、やっぱりいろんな圧倒的な作品群のカゲに隠れてしまう。こういう「オレの道をいく」という作品は、社会性の強い作品群に向かうと弱いですね……今回はとくに、震災とか原発に触発されようぜ!というのがこのトリエンナーレのテーマだからなおさら……

★納屋橋会場

ということで、納屋橋会場へ向かったんですが、交通機関が歩くしかなくて、雨もちょっと本降りなのでしかたなくタクシー……おおっ、今年はじめてのタクシーではないか……ゼイタク……(どこの世界の人ですか?アンタ)ということで、つぶれたボーリング場を使った納屋橋会場へ到着。で、ここで、冒頭の「チケット忘れた!」が効いてくるんですね。

今年の夏、うちのこどもが京都から里帰りしたときに、私と二人でこの納屋橋会場を見た(おくさんのきんちゃんはお仕事)。この愛知トリエンナーレは、メイン会場が複数なんですが、入場券は共通で一枚。で、それぞれの会場名のところにスタンプが押される。一旦スタンプをもらうと、その会場へは当日しか入れない。スタンプを押してない会場は会期中ならいつでもOK……そういう仕組みです。

なので、家に忘れてきたチケットには、納屋橋会場のところに2枚ともスタンプ済み。だから、そのチケットを持ってきてたら納屋橋会場へはもう入れなかったんですが……ドジで忘れたおかげで買い直したチケットには当然スタンプがない。で、入れた。うーん……この納屋橋会場、充実してました……私は2回目になるけど、前回見られなかったところまでゆっくり見ました。映像作品が多いので、前回途中までしか見なかったのも、今回はシッカリ……

おくさんのきんちゃんはむろんはじめてですが、「良かったー」と。あの市美の展示で終わりだったらけっこうガックリだったんだけれど、この納屋橋会場の充実でじゅうぶんおなかいっぱいに……ここでは、前回、なわこうへいさんの泡の作品にちょっとふれましたが……前回が8月でしたが、あれから二ヶ月。泡たちが「成長」してまして、ビックリ……前回はまだ人の背丈を越す……くらいで向こうも見通せたんですが、今回入ったら、もう泡が天井にまで達していて向こうも見えない……わー、片付けタイヘンだろーなーこれ……

クリスティナ・ノルマンさんの「金色の兵士」の作品もしっかり見た。おくさんのきんちゃんは、オーストリアのアンジェリカ・メシティさんの『シティズンズ・バンド』に感激。正方形の暗い部屋の4面に順次、音楽が映される。それぞれが「移民のパフォーマー」。インターネットの解説から引用しますと……

(以下引用)カメルーン出身のパーカッショニストは、パリの室内プールで水面を舞台に手で見事なドラミングをみせる。アルジェリアからパリに移民してきたストリート・シンガーは、メトロで壊れかけたカシオのキーボードを肩にのせ哀歌を歌う。モンゴルがルーツのホーメイ歌手はシドニーの街角で胡弓を奏でながら独特の声を響かせ、スーダン出身でブリスベンに暮らすタクシー運転手は、運転席で哀愁漂う口笛で曲を奏でる。(引用おわり)

で、最後にそれらが(あとは見てください)……なるほど……人と文明って、こういうもんだ……この作品は、震災や原発関連が多かった今回の展示の中では、一見そういうテーマに関係なさそうに見えるけれど、実はルートのところで深い関係があるんじゃないかと思わせられます。うーん……「文化の崩壊」は、なにも震災や原発事故がきっかけで起こってるんではないんですね。実は、深層で、根っこのところで目にみえない速度で、しかし着実に崩れている……大きなできごとがあると、それが一気にひのもとに晒される……

そういう意味では、この作品も、失われてしまったものに寄せる哀悼……追悼なのでした……今回の展示は、全体にわたって、やっぱりそういうものが多かったように思います。もはや、あらがうことができないと知れば、人は、静かに祈りを捧げるしかありません……なにか巨大な力……それは、震災とか原発事故とかに典型的に現われるのだけれど、実は、それと関係ないところに暮らしてると思ったわれわれの日々の奥深くにも静かに静かに進行している……

★IKA式総括

というところで、今回の「愛知トリエンナーレ2013」の空丸的総括。3.11の震災と原発事故は、同じように地域の人々に大被害をもたらしたけれど、その質は違う。でも同じ。いったい何を言ってるのか自分でもわからなくなりかけですが、要するに、「人が、住んで、暮らすゆえの」ということ。……地震も津波も、「その地」に人が住んでいなかったらなんの被害もない。人が住み、暮らすゆえに、それが破壊されて大きな被害となる。

でも、同じ観点で原発事故をいうことはできない。明らかに人災……なんだけれど、そこに入ってる「システム」は同じ。要するに、「文明のシステム」ということで、これは「法律上の責任」とはまた別に考えられるべきことです。むろん「倫理上の責任」とも異なってくる。要するに、「文明批判になってしまう」という点においては、震災も原発事故も、最終的には「同じ論理」に到達する。

人間の、今の文明は、以前に比べるとはるかに一体感が強くなっています。東京の人の使う電気をつくる原発で東北の人が被災した……絶対不公平だと思う。しかし、では、東北の人は、「東京の文明」を享受していないのか……これは、東京の人は絶対に口が裂けても言えないことなんですが……他の地方の人もやっぱり言ってはイケナイことですが、私はイカなので言います。「ぜんぶつながってる」んです……と。

今回のさまざまな展示を見て思ったのは、とにかくまずそこに辿りつこうじゃないか……と。責任問題、倫理上の問題……いろいろあるんです。で、非難の嵐も起こるでしょう。害をこうむった人が非難するのはわかるけど、「関係ない」モンまでが鬼の首を取ったみたいに非難……そんなことばっかりやってていいんですか……と。そうじゃないでしょう……いちばんモンダイになるのは、今の「人類文明」だ……そこを、根っこから考える方向に向かわんと……

そこへの「着地」はきわめて難しいですよね。ノルマンさんの「金色の兵士」が語っていたことはソレだったと思う。「いかなる勢力にも真実はない」。まず、ここを冷静にみないとなにもはじまらない。アーノウト・ミックさんの、東電幹部が被災者と同じ段ボールで寝ている映像にもそれを感じた。責めるものと責められるもの……そこに「固定」されていていいのか……モンダイの根は、もっと深いところにあるんじゃないのか……

こういうモンダイには当然「結論」は出ません。答えは、これからの時を生きる人々が、長い、ながーい時間をかけて少しずつさぐっていくものなんでしょう……レクイエムを越えて……というか、哀悼と追悼の向こうにしか、その道はないように思う。冷静に、冷静に……もう、そんなにあわてなくてもいい。これからも、加速度的にもっともっといろんなことが起こってくるかもしれないけれど、それは、結局われわれの今までの「文明の借金」が白日のもとに晒されていく姿……

おそらく、ここを越えることなくしては、本当の未来は現われてこないのでしょう。そのことを知る……そういう、静かな「智」が、今、世界中で芽吹きはじめた……そのことを強く感じて、ああ、これからの世界はだいじょうぶじゃないかな……と思いました。アートの力……もう、それは、アーティストの「個」の中には収まりきらない。やっぱり、最後は「普遍」を目指すんですね。人は、自分の時間を生きて、そして去るけれども、「そこを見る」まなざしは受け継がれていく……

なので、今回、そういうまなざしをあんまり感じさせない作品は、いくら力があってもガクンとくすんでみえました……これはしかたのない事実でしょうね……一つだけ例を挙げると、県美術館の8階で見たオノ・ヨーコの『光の家の部分』。たしかにきれいで、言いたいこともわかるけれど……答えも、自分で出してしまっている。で、そこで、作品全体は閉じられてしまう……これは、昔からこの人の傾向だと思うけれど、今回、他の作品群の中にあると、この傾向は目立ってしまう。

まあ、やっぱり「古いなあ」と。作品として立派であるかどうかと、その作品が「今」にどんな力を持つか……これは、とにかく別なんですね。むろん、作品としての完成度が低いとダメなんだけれど、やたら高すぎるというのか……作者が作品をコントロールしつくそうとすると、やっぱり根っこというか、よくわからない「今」につながるチャンネルを失ってしまう……実は、今回、いちばん大事にいろんな作家がしていたのは「そこ」ではないか……

県美10階のメイン作品みたいになっていたヤノベケンジさんも、そういう点では遅れがち……で、あんまり魅力がなかった。ダレよりも早く?原発問題を取り上げていたのに、追い越されちゃった印象。なにをやりたいのかがわからない……納屋橋会場のなわこうへいさんの「泡」も別の意味でそんな感じ。作品としてはがんばってて、美しいのですが、なんか遊離して、ちょっと違う方向に飛んでいっちゃってるような……個展とかで見ればまた全然違うんでしょうけどね。

老舗では青木野枝さんもそうで、作品自体がなんとなく淋しそうでした。いやー……現代美術はやっぱり「イキモノ」ですなー。3.11以降、とくに、なんかアーティストには、キビシイやいばが突きつけられてしまったのか……「我が道を行く」で自身の作品追求も絶対だいじだと思うんですが、でもそれが「根っこ」につながった感がないと孤立するなあ……

ということで、一日たっぷりとアートづけで、最後は新栄の「カフェ・ドゥフィ」でハンバーグ定食。これ、すごいんで、あんまり人には教えたくないんですが、味、量、そしてお値段……どれをとっても大満足。おまけに、これは別メニューになるけどエスプレッソが絶品!……これで、二人でなんと2300円というウソみたいなお値段……てづくり感あふれるお店の雰囲気もいいし……(ライブもときどきある)……ということで、この日は大満足で寝ました。

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