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愛知トリエンナーレふたたび/Aichi Triennale 2016

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10月23日、愛知トリエンナーレ2016の最終日。ずっと気になっていたんですが、いろいろあって行けず……あっというまに終わり……ということで、名古屋エリアだけでも見ておこうと、あわてて栄へ。朝から回れば、愛知県美術館、栄地区、名古屋市美術館、長者街地区の4会場は見られるだろうと。

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結果として、名古屋エリアの展示の8〜9割くらいは見られました。つかれた……こんなにがんばってアートめぐりをしたのはひさしぶりだ……

で、どうだったか、ということですが……実は、かなり期待していたんです。前回のトリエンナーレが、予想に反してすばらしかったので。まあ、「予想に反して」なんていうと怒られますが、前回は、実はそんなには期待していなかった。でも、いい展示が多かった。

どこに感激したのか……というと、やっぱり作家さんたちの姿勢かな。前回は、あのオソロシイ大震災と原発事故から間もなくだったので、会場全体が緊迫感に満ちていました。やっぱり、あれだけのできごとがあると、作家さんたちも、自分が作品をつくる意味を、かなり真剣にかんがえなくちゃならない。あのできごとを直接反映した作品でなくても、やっぱりそういう、自分をつきつめるという環境はあったんだと思います。

それは、見る方にも直接響いてきました。自分たちは、なにをやってるんだろう……自分たちのやってることの意味って、なんだろう……そういう、みずからへの問いかけみたいなものが会場全体から感じられて、けっこう緊迫感があった。

しかるに今回……三年しかたっていないのに、世の中、大きく変わりました。もう震災も津波も、原発事故さえ過去の話になっちゃって、オリンピックだのなんだのと……社会の格差はますます開き、世界中で戦争や難民が絶えないのに、日本人はもう、あのオソロシイできごとさえ忘れちゃったのでしょうか……沖縄と福島をカッコに入れて、われわれはどこに行こうというのか……

今回のトリエンナーレにも、その「忘却の女神」の力を強く感じました。「虹のキャラバンサライ」……うーん、あたりさわりのない、ふわふわとした夢のようなタイトルだなあ……人間って、すぐに忘れるんですね。で、目は空中に漂って、足はいつのまにか地を離れる……

そもそも、アートって、いったなんだろう……それを、アートをやる人は、片時も忘れてはいけないと思います。とくに、今のように、いろんなものがでてきて、アートといろんなものの境界があいまいになっちゃった時代には、もうアートなんてなくたっていいんじゃない? という疑問が当然のように出てきます。

業界に守られたり、いわんや商業ベースにのっかっちゃったりして、かろうじて存在を保てるようなものは、やっぱり不要なんでしょう。前回のトリエンナーレでは、地震に津波、そしてゲンパツという圧倒的な破壊力が、アートをやる人に、おまえがアートをやってる意味って、なんなの?と強く迫った。アーティストは、ややともすれば眠りにつく心をはねのけて、そのシビアな問いかけに答えなければならなかった。みんな、真剣に答えようとしていたと思います。そのすがすがしさは、たしかに胸に強く迫りました。

じゃあ、今回は……ということなんですが、今回の展示のなかで、いちばん私の心に残ったもの……それは、名古屋市美術館の地下常設展示室にあった、河口龍夫さんの「DARK BOX」でした。これはもう、ずいぶん昔の作品で(たしか、70年代からつくりつづけておられる。いろんな年代のDARK BOXがある)、常設展示だから、一応トリエンナーレとは無関係……なんでしょうが、この作品、ごろんと転がってるだけで、今回私が見たトリエンナーレの全作品に勝ってる……

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昔のアーティストって、こうだったんですね。見るからにウソくさい重金属のカタマリなんですが、なぜか、ゴン!と存在感がある。見る人の想像力にあまり頼らない。今の作品は、見る人に訴えかける秋波が強すぎるんじゃないか……共感を呼びたいのはわかりますが、アートなら、そこはぐっとガマンするところだろう……「見て、見て、スゴイでしょ!」というのはなんか夜の歓楽街みたいな……作品をつくる上でいちばんだいじなのは、「矜持」なのかもしれません。

そもそも、アートをつくる意味って、なんでしょう。崩壊しつつあるこの世界。地震にゲンパツ、イスラム国にトランプ……オソロシイものがゾロゾロでてくる今という時代にあって、アーティストはなんでアートをつくるのか……もう、そのギリギリのところまで戻って考えないと先はないなあ……そんな感じでした。

参院選に思う。/About the Upper House election

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今回の参院選で、現職閣僚のお2人が落選……福島の法相と沖縄の担当大臣。改憲勢力3分の2越えの中で、あんまり大きくはとりあげられませんでしたが、ちょっと気になります。

福島と沖縄は、今の「泰平日本」から外れはじめているところ。もっというなら、泰平日本のシワヨセを押し付けられまくって、「もう私ら日本じゃないかも」という意識がたぶんすごく強くなってるところではないだろうか。

ゲンパツと基地……ここで、「No!」という票が出たのは大きいと思います。この二つは、当事者にならないとその苦しみがわからない。災害を蒙った地はたくさんあるけれど、この二つは、「日本の政治」が生んだ災害。

なので、明確に「政治が生んだエアロック」になってる。内と外をつなぐ空間……内でもなく、外でもないんだけれど、あとわずかで「外」になりかかっている……つなぎとめるために「金を」というんだけど、人はパンのみにて生きるにあらず、ですよ、ABくん。

なんというのか……日本人が、「第一国民」と「第二国民」に割れはじめているということを言ってた方がおられましたが、私の実感としては、もうその亀裂は修復不可能になったと思います。もう戻れない。

あらためて考えさせられます。今までの日本って、いったいなんだったんだろう……と。

未来の人たちの会話。

未来人A:昔、日本という国があって、戦争しないという憲法を持ってたそうな。
未来人B:そりゃすごいね。われわれが、何世紀にもわたって血を流して獲得した原理を、すでに採用していたのか……
未来人A:実際は大変だったらしい。数年で軍隊ができたけど、軍隊じゃないとごまかして70年くらい持たせたらしい。
未来人B:信じられないね。よくそんなゴマカシが70年も……
未来人A:でも結局その憲法は棄てて、軍隊持って戦争やって滅んだそうだ。
未来人B:まあ、半世紀以上も存続したのは驚異だね……

9条ポイで戦争やろうというABくんに日本人の3分の2以上がのっかるというのも驚異ですが……たしかに、未来人の言ってるように、9条が70年以上もゴマカシながらも保持されたというのも驚異だ……考えてみれば、この70年間の日本人って、すごかったんですね……ナムアミダブツ……

透明になる力/The power as transparent

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力は、それを持っているものにとっては、往々にして透明になる。

人は、自分のよって立つ場が、「力」に守られていることを、意識しなくなる。
しかし……その「力」によって踏みつけられ、抑圧されている人にとっては、それはものすごい壁であり、大岩のようにのしかかってくる。

こういう構図が、今、世界のどこでも顕著になってきているように思います。

日本では、沖縄と原発の問題が、いちばんこれを現わしているように思う。

米軍基地のほとんどを沖縄に押し付けて、楽しい生活を送っている「本土」の人々……
原発事故のしわ寄せを、福島の人だけに押し付けて、そしらぬ顔で日常を送る我々……

沖縄や福島の人たちにとっては、自分たちに苦しみを押しつけてくる「力」は、眼前にある現実のものだ。
しかし、それを押し付けている側の我々にとっては、その「力」は透明になってしまう。
われわれ自身が、その「力」に押しつぶされる側になるまでは。

なぜ、こういうことになるのかといえば、私たちの感性が、「他者の苦しみ」に対しては、きわめて鈍感にできているからにほかならない。
パリの街に日常を取り戻し、再び「楽しい暮らし」をはじめようとする人々……
恥ずかしいと思わないのだろうか……

自分だけ良ければ、いいのでしょうか?
狂ってる……

そんなに、なんでもトリコロールで塗りつぶしたければ、自分がトリコロールのめがねをかければいいでしょう。
そこで……そういう自分の行為が、「透明になる力」に支えられていることを知る……

これからの世界、「恥ずかしい人々」と「恥ずかしくない人々」に分かれる。

「恥ずかしい人々」は、自分のよって立つ場が、「透明な力」に支えられていることをまったく意識せずに、「テロとのたたかい」とかほざく人々……
「恥ずかしくない人々」とは、どんな人たちをいうことになるのでしょうか……

この問題は、「存在の根」にまで降りていったとき、にわかに、すべての人々にとって、ぬきさしならぬ重大な問題となる……
そう、思います。

The power becomes sometimes transparent for people having it.

We have the tendency that become not aware of “the power” which protects us.
However that power is really huge wall for the people who are suppressed by that, and that power presses them, like gigantic rock.

I think such a situation becomes remarkable in the world now.

And in Japan, I think that Okinawa and a problem of the nuclear power generation show these situation most typically.

People of “the mainland” lives a good life, but their pleasant life is established by pushing most of the US bases to Okinawa.

We send everyday life as if nothing happened, but on the other hand, we force the influence of the nuclear plant accident on only people of Fukushima.

For people of Okinawa and Fukushima, “the power” is a real which forces pains everyday.
However, for us who are protected by that, the power becomes transparent……until we ourselves become the side crushed by the “power.”

Why these situation become?
The reason is the lack of the sensitivity of our mind.
People who enjoy their daily life, become not sensitive for others who send daily life with pains.

The people who regain daily life in the town of Paris, and are going to begin “a pleasant living” again……
You are ashamed ?

Only yourself are good, is it real good ?
In that, is there the truth ?

If you want to see everything as tricolor, you should hang the glasses of tricolor, shouldn’t you.
And you will know that your pleasant daily life are protected by the transparent power which presses other people who have not that power.

I think this world shall become divided two, one will be know shame, and the other will not.

People who don’t know shame, will shout “a fight against terrorism”, but they don’t know that their pleasant daily life is suspended by the transparent power.
So, the word “who know shame”, will mean what type of people?

I think this problem shall be most serious for all people in the world if they descend to the root of “Being”.

1700万円のアイスクリーム(続き)/This ice cream costs 170 thousand dollars.(continuation)

イスラムコロール
この間の夢(リンク)がずっと尾を引いています。パリの大評判のお店で注文したアイスクリームが1700万円。そんなアホな……ということで、夢だから……と片づけられればいいんですが、ホントは、実は、それくらいのお値段ではないか……

いや、もしかしたらそれ以上かもしれません。ものの値段の付け方って、きわめていいかげんだと思います。今の値段の付け方は、市場価値というか、求める人がどれだけいて、いくらなら出してもいいと思っているか……そこで決まってくるような。

だから、いくらパリでも、アイスクリーム一皿が1700万円ということはありえない。もしそんな値段を付けたらだれも買わない。宝石や芸術作品なんかは、カンタンにその値段を越えるものもありますが、それは、それくらい高価でも買う人がいるから。

しかし、「市場で決まってくる値段」というのには、実は、その「市場自体が成立するための価格」というのは含まれていないわけです。その市場が成立して、それを前提にして、そこで、需要と供給が決まってくる。そういうことだと思います。

では、いったいなにが、その「市場」を維持するのだろうか……といえば、それは、端的に「力」なんでしょう。たとえば、パリの街で、アイスクリーム一皿が日本円に換算して、300円くらいで食べられたとします。

しかし、その「アイスクリーム一皿300円@パリ」を成立させているのは、フランス軍がシリアに向けて繰り出した、あの「シャルル・ドゴール」というごたいそうな名前を持つ空母なんかに象徴される「力」、もっといえば「暴力」にほかならない。

これは、日本でも一緒で、日本は「軍隊を持たない」とか言ってるけれど、「自衛隊」という立派な軍隊があるし、沖縄をいぢめぬいて米軍という世界最強の「暴力」も駐留させている。その「力」の背景で「市場」が成り立ち……

日本でも、アイスクリームが一皿300円で食べられる……しかし、では、その「しわ寄せ」はどこへ向かうのかというと、世界の多くの「力を持たない人たち」、もっと言えば「力によって支えられている市場を持たない人たち」なのでしょう。

ここを考えてみた場合、パリや日本でアイスクリームが300円といっても、それを成立させている「市場」を支える「力」を加味した場合、この「お値段」は劇的に変化すると思うのです。まあ、陳腐な言葉を使えば「搾取」ということになりますが……

わかりやすく言えば、世界中の人たちに、パリの人がもらっているのと同じ「賃金」を払った場合、どうなるか……「文明国」の市場を支えるためのコストは、一気に膨大なものにふくれあがるでしょう。まあ、「搾取分」を全部払うということです。

「文明国」の、今の市場を支えるために、世界中でどれほど多くの人々が抑圧され、犠牲となっているのだろうか……そこを考えてみた場合、フランス人がテロを行う人たちを「無知」とはけっしていえない。「無知」は自分たちじゃないの? ちょっと考えればわかるのに……

あるいは、米国の同時多発テロで殺された人たちのことを「罪のない人々」ともけっして言えないことはすぐわかる。「力」は、それを持っている側の人たちにとっては「透明」になる傾向があるから、そのことはケロッと忘れてしまうのですが……

実は、「罪のない人々」がモノを売り買いしている「市場」が、「暴力という力」によって支えられている。この力に抑圧されている側の人たちには、これはもう「生存の危機」だからきわめてよく見える……というか、日々壁のような実体として迫ってきます。

これは、ダレが考えても不公平きわまる世界なんですが……さらにもっというなら、「人間の市場」を成立させるために「人間以外の存在」が常にこうむっている強烈な圧迫があるはずです。みずからは力を持たないと思っている人も、人であることによって、この「力」を行使する。

ここのところを考えてみると、「モノの値段」というのはさらに、驚くべき天文学的数字に達するはずです。私は、ここのところを明確にするために、「モノの値段」の一つの根源的算出方法を提案してみたいと思うのですが……

たとえば、パリの街で、アイスクリーム一皿を日本円換算で300円で売ってたとします。じゃあ、この一皿のアイスクリームを客の前に出せる形にするために、どれだけの「存在」が改変をこうむってしまっているか……

それを考えるには、その「一皿のアイスクリーム」が存在しなかった状態にまで「全自然」を戻すために、いったい「いくらかかるか?」それを考えてみればいいと思うのです。その全行程をお金に換算して、それを積算した額が……

実は、この「一皿のアイスクリーム」の本当のお値段である……そう考えてみればいいのではないでしょうか……たとえば、原材料の牛乳をつくるために牛を飼うとしたら、そのスペースがいる。牛舍という形に改変された「自然」を元に戻すためには、いったいいくらかかるか……

あるいは、アイスクリームを冷やす行程でかかっている電気。その電気を供給する発電所を解体して、敷地全体を「元どおりの自然」に戻すためには、いったいいくらかかるのか……もし、発電所が原発だったら、これはタイヘンなことです。

その原子炉の中に溜まった放射性物質を、全部元の状態に戻さなければならない……これは、今、そういう技術はないので、その技術の開発からはじめねばなりません。いったいいくらかかることやら……これはもう「無量大数」というしかない。

牛乳やアイスクリームを輸送するためにトラックを使ったとしたら、燃料の石油を、元あった地面の中に正確に埋め戻すまでやらねばなりません。また、トラックの通った道も、すべて「元の自然」に戻さなければならない……いくらかかるか……

こういうふうに考えていくと、「全存在の負担」をすべて取り除いて、人間の手が入る前の状態にまで戻すには……もうこれは、天文学的という言葉もちっちゃくなるくらい膨大な「お金」がかかる。そういうことを、人は、自然に対してやっている。

「一皿のアイスクリーム」の値段を、「全自然」を背景にして算出しようとすると、そういうことになる。もうこれは、とうてい1700万円とかの「ハシタ金」ですむ話ではないのです。オソロシイ……そこまでして、「パリのアイスクリーム」を食べたいのかなあ……

コロールイスラムのコピー
<補足>
この話で、もしかしたら、「動物だって、昆虫だって、自分のためにまわりを改変するじゃないの?なんで人間だけ、改変したらあかんの?」という疑問をお持ちの方もおられるかもしれません。しかし……動物も昆虫も、「市場」はつくりません。

「市場」というヘンなものをつくって、「お金」でモノを売り買いするのは人間だけ。「人間」の定義には、「言葉を持つ動物」とか、「社会的動物」とか、いろんなものがあるようですが、私はここに、「市場をつくる動物」というのを加えたらどうかと思います。

「市場」というのは、考えてみたらふしぎなものですね。「お金」は人類の「共通言語」で、「為替」の働きによって、世界中をくまなく「一つの価値感」で結びつける。しかし「市場」は、あるグループを形成して、閉鎖する働きをする。

「お金」という、どこまでも開放し連鎖させていく機能と、「市場」という閉鎖し、囲いこんでいく機能が両輪となって、この「人間の世界」は形成されている。むろん、人間の世界にも、この両者にカンケイしない部分はあるが……

いわゆる「カネで買えないモノ」というヤツでしょうが、これについては、実は、人間は、他の動物や存在となんら変わらないんだと思います。いくら高尚ぶっても、それは、人間という種の一つの特性であって、花が咲き、実がなることと本質的に変わらない。

結局、人間が、他の生物とまったく違うのは、この「市場をつくる」という働きではないだろうか……これは「限られた普遍」というまことにやっかいなモノを生み出します。「普遍」であればすなわち「無限定」になるはずなのに……

この「市場」は、「普遍」の顔を装いながら、見事に限定的で排他的である……これは、人間という種のつくりだした、もっとも欺瞞的な「発明」ではないか……そう思います。すると、残る問題は、この「市場」は、人間において本質的なものなのか……

それとも、人間という種は、なにか他のシステムを選ぶ可能性も残っているんでしょうか。TPPの問題なんかも、実はここのところが本質にあるような気がします。もし、別のシステムを選べる能力があるのなら……それは、どんなものになるのでしょうか?

日本難民/Japanese refugee

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今、シリアの内戦で、シリア難民の人々が大挙してヨーロッパに押し寄せているというニュースを連日やっています。私は、正直、難民ということについては、漠然とした概念しかなかったんですが、連日の報道をきいているうちに、やっぱりこれは、タイヘンなことだなあ……と思うようになりました。

難民というとどうしてもアフリカとか東南アジアのイメージが強かったんですが、ウィキで調べてみますと、アジアが第1位で562万人、アフリカが2位で230万人、ヨーロッパが3位で163万人、そして以下、北米45万人、南米37万人、オセアニア3万5千人と続きます。1位はアジアだったんですね。

これは、2009年の統計ということで、今は少し違っているのかもしれませんが、とにかく、住む場所を追われてさまよわなければならない人がこれだけいる。シリア難民に対してドイツ政府は大英断で大量の受け入れを発表しましたが、日本は?……というと、難民認定を申請した人5000人のうち、認定が11人……

これは、2014年の数字だそうですが、あまりにも少ないんじゃないか……ということで、いろいろ批判が出ている。たしかに、もっと受け入れてもよさそうなもんだが……とか思っているうちに、ン? まてよ? なんだかヘンだぞ……と。「受け入れ」を前提にしゃべってますが、「難民になる」ということはないの?

つまり、日本人が難民になって、世界に散らばる……外国に「受け入れて」もらわねばならないハメになる……そういう可能性は、ゼロなんでしょうか……あまりにも突飛で、現実離れした空想のように思われるかもしれませんが、でも、先の原発事故のことなんか考えてみると、やっぱり全くの空想ともいえない?

2011年3.11の福島原発の事故は、とりあえずあのかたちで済んでいる……というか、まだぜんぜん済んでないワケですが、場合によっては、東京都民の避難が必要になるというところまでいく可能性もあったとききます。もしそれがホントだとしたら、これはタイヘンなことだ……関東圏に避難対象が及ぶと……

東京都の人口1300万人だけじゃなく、いわゆる広域関東圏(茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、神奈川、長野、新潟、山梨、静岡)の人口5000万人が避難するという事態になったとすると、これはタイヘン。5000万人といえば、日本の全人口1億3000万人の約40%にあたる。アジア難民の562万の十倍近い。

これに、東北の各県(福島、宮城、岩手、青森、秋田、山形)の総人口約900万を加えると、全人口の45%、つまり、日本の約半分の人が住む家を失う……この想定、「ありえねー」と一笑に付す方もおられるかもしれませんが、でも、福島の事故がもうちょっと拡大してたら、現実にそうなったのでは。

というか、あのゲンパツ事故のときは、アメリカなんかは在留米人に、80kmを避難区域としたとききます。日本は20kmだったけど。実際のところはどうだったのでしょうか。政府は、大混乱になるのを怖れて、ホントのところ(汚染状況)を発表しなかったのでは……そういう疑いも払拭できない。

まあ、それくらい、日本政府のいうことは信用できないわけですが……もし、ダレの目から見ても汚染がさらに顕著になってたとしたら、やっぱり「人口の半分避難」が現実的になってたと思います。そうすると、もう日本は崩壊ですから、大量の「難民」が発生したでしょう。そうならなかったのは、単に偶然??

ABくんは、このごにおよんでまだ再稼働・推進!なんて言ってるから、このリスクは、これからも高まりこそすれ、低くはなりません。これに加えて、新安保で日本が武力攻撃やテロの対象になる危険もぐんと高まるし……さらに、政府の「2極化方針」で、経済的に破綻する人がこれから続々出てくる。こっちも大問題。

日本の人口の半分が住む地域が「汚染」されてしまったら、もう物理的にかなりの人が国外に出ざるをえなくなるのでしょうが、「住めなくなる」地域がもっと小さかったとしても、この「2極化」によって、やはり国外に追い出される人がどんどん増えてくるのでは……ということは、日本が内戦状態になる??

こんなことをいうと、また「ありえねー」という声が聞えてきそうですが、これって、そんなに「想定外」ですませていていいのでしょうか……これからは、経済的な格差がどんどん拡大して、「持たざる若者」はものすごく苦しい立場に追いやられていきます。みな、そうならないように必死にがんばってるけど……

ABくんの政策自体が、「格差、広げたるでー」というものだから、もうどうしようもないでしょう。彼が否定している「徴兵制」も、経済徴兵というのでしょうか、「持たざる若者」は否応なくそういう「苦役」に追いこまれる。むろんこれは、男女関係なく……まあ、こんなところで「女性の活躍」というのかなあ……

ということで、2極化するということは、価値観が分裂するということだから、まあ、お定まりの「圧政と弾圧」ということで、ヒサンなことに……その先は考えたくありませんが、国内の価値観が大きく乖離してくると、これは、外からのいろんな力の介入する余地を大きく広げるので、乖離はますますひどくなる。

たとえ原発事故で、国土の半分が住めなくなっても、国内の価値観がある程度統一されていれば、なんとか残った国土に受け入れることができるかもしれません。この場合は「国内難民」で、今、福島の方々はこういう状態になってるわけですが、大部分の人が、見知らぬ外国に出ていかなくてもすむ。

しかし、2極化のはてに国内の価値観に大きな乖離が生まれてしまえば、おそらく多くの人々が国外に脱出せざるをえなくなるでしょう。「ありえねー」と、今は笑いとばせますが、でも、ABくんたちは、着々とその準備を進めている。「原発再稼働」と「2極化推進」。これをふたつとも、ガンガン進めてます。

ということで、私は、近い将来、「日本難民」が大量に発生する可能性が、従来に比べてはるかに高まってきていると思います。原発事故の連鎖(これは十分ありえる)で、沖縄を除く国土全体を放棄しなければならない可能性だってゼロじゃない。その場合、沖縄だけで本土人口全員を受け入れるのはムリだし……

そもそも、沖縄の方々に拒否されるでしょう。今まで米軍基地をいっぱい押しつけておいて、いざとなったら助けて~はあまりにムシがよすぎる。そうすると、日本国民のほとんどが難民となって海外に流出せざるをえない……「日本難民」……じつは、これをシュミレーションした小説が、かつてありました。

小松左京さんの『日本沈没』。半世紀前に書かれた第一部は、日本列島が沈没して、日本人全員が海外に避難せざるをえなくなったところで終わっていましたが、十年くらい前に書かれた第二部(谷甲州氏との共著)では、海外の各地に散った「日本難民」のその後が、かなり詳細に描かれています。

共著者の谷甲州さんは、東南アジアでの生活がけっこう長かったみたいで、そのあたりはかなりリアルです。なるほど、こうなるのか……実際は、なってみないとわからないのでしょうが、「難民ルート」というのは、やっぱりあるんですね。今回の、シリア難民の方々がドイツをめざしたといのもそうなんですが……

シリアとドイツ? 遠い国に住むわれわれには、「なんでドイツなの?」という疑問が湧くわけですが……もちろん、今、ドイツが経済的に繁栄しているというのはいちばん大きいでしょう。でも、歴史的にみると、このルートは、中世末期に、まさにオスマントルコがヨーロッパに迫ったときのルートそのままだ……

中世ヨーロッパでは、その東の入口がオーストリアのウィーンでした。ウィーンは、オスマントルコの皇帝たちから、「黄金のリンゴ」と呼ばれていて、なんとかして手に入れたい「羨望の地」だった。トルコの軍勢は、バルカン半島からセルビア、ハンガリーを手に入れ、ついにウィーンに迫ります。

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ウィーン包囲は、1529年と1683年の2回あったみたいですが、このうち1683年9月12日のウィーン攻防戦は映画化もされてます。このときは、皇帝レオポルト1世のウィーン脱出というところまでいったらしい。当時、ドイツは、神聖ローマ帝国という名ばかりの「帝国」のもとに、実際は封建領主や教会の群雄割拠の四分五烈状態……

ウィーンハプスブルグ家の皇帝レオポルト1世も、「皇帝」という名にふさわしい権力は持ってなかったみたいで、ポーランド王ヤン3世の援助まで頼んで、なんとかこの危機をきりぬけた……今の状況を見てみると、なんか、当時の状況が彷彿とされます。といっても、むろん今のシリア難民の方々は、「攻略」じゃなくて……

母国の危機的な政治状況で国外に「逃げざるをえない」わけですが(実はシリア国内の難民の方がはるかに多いけれど)……ただ、この背景には、アラブ諸国の政治的不安定(これまでの独裁政権のツケ)と、それに乗じたイスラム国やアルカイダの膨張がある。ヨーロッパは、これに対し、かつての神聖ローマ帝国の亡霊?のEUで…

となると、これはあまりに図式的というおしかりを受けるかもしれませんが、どうなんでしょうか。考えてみると、ヨーロッパという地域は、常に「アラブの圧力」で自分たちを形成していったみたいな……そんな歴史の大枠があるんじゃないかと思います。なので、また、その周期がめぐってきたのか……それはわかりませんが。

じゃあ、日本はどうなんだろう……日本を含む東アジアに、そういう「民族圧力往来」みたいなことはあったのか……直近では、やっぱり先の大戦のときの、日本自身の「膨張政策」がアタマに浮かびますが、江戸期300年の鎖国のあいだを除いて、やっぱり日本は、大陸や南方への「膨張」を、たぶんくりかえしていた……

それは、いろんなかたちで、そうだったと思います。神功皇后や秀吉みたいな「わかりやすい軍事作戦」ばっかりじゃなくても。そして、現在も、経済政策というかたちになって、アジア各地域への「膨張」は続く……もし、日本の全人口の半数が難民化した場合には、やっぱりこの「膨張」ルートがベースになるんでしょうか。

もしその場合、アジアの各国は、「日本難民」をちゃんと受け入れてくれるんだろうか……日本国と日本人の、アジアの各国における「受けとられかた」はどうなんでしょうね。少なくとも、中国や朝鮮半島においては、「過去の侵略」があるから、場合によっては大いに反発をくらう可能性も……

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ヨーロッパにおいては、「イスラムの侵攻」は、今も悪夢のように人々の心に残っているから、シリア難民の方々も、けっして諸手を上げて受け入れ……というわけではないのでしょう。しかしちゃんと……受け入れられているように、現段階ではみえます。大人だなあ(むろん、反発する人も多いけれど)……

これは、やっぱり、西欧世界の理性を最高基準とする「思想」の成果なんでしょうか……その点は、率直にスゴイなあと思います。中国なんかも、今は、日本人の目には「メチャクチャの国」に映るけど、もしかしたら、日本よりずっと「大人の国」なのかもしれない……これは、今の日本人の心情と真逆だけれど……

それは、日本から大量の「難民」が発生したときに明らかになるのでしょう。そして、もしかしたらそういう時期も意外に近いのかもしれません(AB政権はまだまだ続きそうだし)。さて、そのとき、日本人は、どういうふうに「評価」され、受け入れられるんだろうか……あるいは、受け入れられないんでしょうか……

なんせ、狭い国土ですから、ちょっとゲンパツがポン!といっただけで、大量の「難民発生」は火を見るより明らか。あの事故のときに反省して「全原発即時廃炉」にふみきってれば、ちょっとはリスクは下がったのでしょうが……もう遅いですね。ナンマンダブ……

御茶目新聞_17:自衛隊、米軍に編入へ。/The Japanese Self-Defense Forces are incorporated into the U. S. forces.

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御茶目新聞_17 
2015年(平成27年)4月1日(水曜日) 
新御茶目新聞社 名古屋市中区本丸1の1 The Ochame Times
2015.April.1(WEDNESDAY)
今日のモットー ★その手があったか!
 
自衛隊、米軍に編入へ。
自衛隊基地を米軍基地化。隊員は全員米国籍取得。
日本から「軍隊」消滅 九条問題も解決へ

AB内閣は、日本の自衛隊を米軍に編入すると発表した。すでに米軍、米政府とも合意ができており、年内に編入作業は完了するみこみ。自衛隊員は全員日本国籍を離れ、米国籍を取得する。また、国内の自衛隊基地はすべて米軍基地となる。なお、隊員の給料や装備品など、関連予算はすべて日本側の「思いやり予算」でまかなわれる。
自衛隊が米軍に編入されることにより、日本国は「軍隊」を持たない状態となる。したがって、ここに、日本国憲法九条の条文との間に完全な整合性が実現されることとなった。また、議論の多かった集団的自衛権の問題も、問題自体が消失することとなった。
さらに、国内の自衛隊基地がすべて米軍基地となるため、これまで沖縄にかたよっていた「米軍基地比率」が日本全体に分散され、「本土の沖縄化」が実現されることとなった。米軍編入後も隊員・基地・装備はすべて日本に残るため、安全保障面には全く問題は生じない。
また、靖国神社は米国のアーリントン墓地所属の慰霊施設となるため、「靖国問題」も根本的に解決された。
予算面からしても、これまで米国から買いつけていた高額装備品がすべて「国内調達」となるため、かなりの金額が浮くのではといわれている。
またさらに、日本は軍備を全く持たない国となるため、近隣諸国、とくに韓国と中国にも、この決定は好感をもって迎えられるものと期待され、「近隣外交」にも大きく資することとなる。

ABソーリの談話
ボクって、アタマいーよねー!なんでみんな、この手を思いつかなかったんだろー?
石原元都知事の談話
ナサケナイ!

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最近のニュースを聞いていると、「自衛隊米軍編入」の一歩手前まで行ってるような気がします。まあ、身分的には「日本軍」なんでしょうが、実質は「米軍の一部」になろうとしている……そういうことなら、名目上も「米軍」になった方がスッキリするんじゃありません?ということです。いちばんいいのは、憲法九条との整合性が完全に取れるということ。これは最大のメリットではないでしょうか。日本は、この理想的な憲法を失うことがないし、かつ「安全保障」は今までどおり、いや、今まで以上に強固になる……なんせ、「米軍」がいっぱい日本にいることになるんだから、どこの国もうかつに手を出せない……と思っていると、かえって攻撃目標になったりするから、実際はやっかいかもしれませんが……中曽根さんが言ってた「不沈空母」そのもの……とすると、どっかの国なんか、すぐにミサイル打ってきそうな気もしますし……

それと、「集団的自衛権」の問題が雲散霧消するのも大きいかなと。もう、「米軍」になっちゃってるんだから、「集団的」というのはありえないわけで……「沖縄問題」も、本土と沖縄が、より平等な状態に近づきます。ただしこれは、「本土の沖縄化」という「最悪の」方向への平等なんですが……「靖国問題」は、アーリントン墓地付属の慰霊施設とすれば根本解決でしょう。今まで祀られていた「英霊」にもすべて米国籍を与えれば、全員「米軍英霊」に昇格?できます。難しいのは、太平洋戦争で米軍と戦って戦死した方々の「英霊」ですが、これは、太平洋戦争を米国内の「内戦」と考えればいいのかなと。「内戦」が終わればすべて「自国の兵士」ということで……ただ、「A級戦犯」は難しいかもしれませんね。なんせ「内戦の指導者たち」ということになるから……「A級戦犯」は祀らないということにすれば、さらにさらに問題は解決へ……

これから、いろんな国と戦争をやるようになると、「戦死者」をどこに祀るか……それは大きな問題になると思います。今の自衛隊では、「戦争しません」がタテマエなので、たとえ戦闘行為に巻きこまれて亡くなっても「戦死」にはならず「事故死」なんですと……「実質戦死」の「事故死」であっても、靖国に祀られることはなく、それぞれの家のお墓に入る。市ヶ谷駐屯地の慰霊碑で慰霊されることはあるらしいですが……1968年に事故死した自衛官の方が、遺族の反対にもかかわらず山口県の護国神社に祀られてしまったという例があって、裁判沙汰になりましたが……護国神社は靖国神社の地方組織みたいなもんですから、そこまでは行っても、なかなか「靖国へ……」というところまではいかないようです。しかし、自衛隊が米軍の一部になり、靖国神社がアーリントン墓地の付属になってしまえば、これはもう自動的に「靖国へ……」ということに……

「戦争」は、一歩一歩、確実に近づいていますね。「世界秩序の組み替え」なのか……日本は「もう二度と戦争はしない!」という決意で戦後を踏みだしたんですが、それは、実は、「もう二度と<アメリカとは>戦争はしない!」ということだったのでした……ふつう、「軍隊」を持ってるということは、「自分以外」のどことでも戦争をやりまっせ!ということを即意味すると思うのですが、その中に一国だけ、「絶対にココとは戦いません」という国がある……というのはオカシナことで、もし、そんなことが実際にあるんだったら、その国は、タテマエ上は独立国でも、実質は「ココだけは……」というその国の「属国」であるということになります。ABくんは、「日本の自衛隊がアメリカに助けてもらうなら、米軍を自衛隊が助けてこそ平等」みたいなことを言ってますが、軍隊同士であれば、「いつでも敵になりまっせ」ということがあってこそ「平等」じゃないですか。

一方が他方に向かって「アンタとは絶対に戦争しません」という。しかも、「武力」には圧倒的に差がある……これで「平等」なワケないじゃないですか……ということで、「米軍とは絶対に戦いません」というのが「自衛隊」なら、それは実質「米軍そのもの」であるということになります。だったらとっとと「米軍」になっちゃったらいいのでは……ナサケナイ話ですね。「維新の志士」たちが聞いたらどー思うでしょーか……自分たちは、こんなナサケナイ国をつくるために命をすててしまったのか……残念、悔しい……今の自衛隊の中にもそう思ってる人は多いのでは。アメリカとだけ、なにがあっても戦争できないなんて……それで独立国の「軍隊」といえるんだろうか……「北」は平気でアメリカを敵に回すと宣言してますが、「軍隊の姿勢」としては、あっちの方が絶対に正解だと思う。やっぱり、「軍隊」は、持ってしまったら最後ですね……

倫理の射程/Range of the ethic

孔子さまv_600
「普天間の危険性を除去する」……AB政権の、この言葉をきくたびに、「倫理の射程」ということを考えます。

辺野古移設反対……というと、ABくんは、「世界一危険な普天間をそのままにしておいていいのか?」とくる。これ、射程距離のいちばん短い短絡的な倫理で、それを前面に押し出して迫る。

しかし……その奥に、「普天間の人が辺野古に基地を押し付ける構図は、日本が沖縄に基地を押し付ける構図と同じでないの?」という、もっと射程距離の長い倫理があります。これは、「普天間をそのままにしておいていいの?」という倫理と比べると、もっともっと、はるかに根源的なものであるような気がする。

おそらくそれは、「倫理の射程距離」という量的な差ではなく、もっと質的な差なのだと思います。

「普天間を辺野古に移設」というけれど、実際には、まず辺野古に基地ができる。それは、事実としてそうなる。しかし、普天間がなくなるかどうかは未知数。つまり、そっちはまだ事実ではない。両者は、本質的には無関係で、これが関係するかどうかは、米軍と日本国の胸先三寸で決まること。つまりこれは、「事実に依存する倫理」ということになる。

これに対し、「普天間の人が辺野古に基地を押し付ける構図は、日本が沖縄に基地を押し付ける構図と同じ」という方は、いかなる事実にかかわらず成立する論理であって、これは「論理に依存する倫理」ということ。普天間がなくなろうと続こうと、この論理は変わらない。「事実に依存する倫理」は「事実」によってころころ変わるが、「論理に依存する倫理」は「事実」には依存しない。

私たちは、目先の、いかにも倫理っぽくみえる言説に惑わされることなく、「論理的な倫理」に立たなければダメだと思う。「事実的な倫理」は、地域や場所、時代、ダレが権力を持っているかによってころころ変わる。しかし「論理的な倫理」はそういうものに一切影響されることなくつねに人の心に輝く。

その構造からして、行政側は「論理的な倫理」を語ることができません。行政の語る倫理は、つねに「事実的な倫理」になる。それは、すべての人において「一般意志」が成立するのが不可能である以上、政治は「奪った利益の配分の方法」につねに堕するからであって、「論理的な倫理」が本当に成立するのは、「一般意志」においてのみだから。

ということは、どうやっても不可能と思われていた「一般意志」が成立する可能性がある……ということ。「なにが論理的な倫理なのか」ということは、つねにわかるものだと思う。欲得を外せば。(しかし、実は、これがいちばん難しい)

権力を持った側は、「事実の倫理」に酔いやすいという特色がある。人は、自分が、「力のある側」にいることを意識しないとき、最もそのワナに陥りやすい。「世界一危険な普天間の危険性の除去」と言われて、「それはそうだなあ」と思う人は、自分が「どの位置に立っているのか」ということを、いちどとことん考えてみるべきだと思う。

写真は、この間、野外活動研究会の方々と名古屋駅付近を歩いたとき、名古屋駅の少し北の方で見かけた孔子様の像です。五頭身です。スゴイ……

知事v.s.AB/Prefectural governor v.s. AB

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ひどいなあ……沖縄県知事の翁長さんとAB政権の攻防を見ていると、つくづくそう思います。

「普天間の危険性除去のために……」ABくんはすぐにそう言いますが、沖縄の人の心を少しでも考えてみたらどーだろー……普天間の基地を辺野古に持っていくということは、それは、「自分たちの楽のために危険を他人に押し付ける」という構図で、これは、日本が米軍基地を沖縄に「押し付けてる」構図とまったく変わらない。普天間の人が、ホントにそんなことを望んでると思いますか??

自分のこととしてちょっと考えたらすぐにわかることじゃないの? 私は、しゃあしゃあと「普天間の危険性除去のために……」という言葉を使うのが許せん。言葉をこういうふうに使うのがABくんの特徴ですけど、サタンです。明白に……オソロシイ。「日本全体のために、犠牲になってくれんかのう……」というならまだしも正直だけど、それが、「普天間の危険性除去のために……」ですか……地獄に堕ちて口に溶けた鉄を流しこまれまっせ。ええかげんにしなはれや……

辺野古移転で普天間基地が返還されると思いきや、どうのこうので雲散霧消……で、結果としては、危険な基地が二つに増えた……悪い人たちのやることって、いつもこうなる。もう二度とだまされんぞ……沖縄の人たちは、やっぱりそう思っていると思います。で、これが、沖縄の人たちだけではないのですね。日本全国、こういう状態にある。ABくんのような人たちが、「地元の人たち」を巧みな言葉とゲンナマであやつって……私の住んでる地域でも、これはあります。

私の住んでいるのは愛知県の山里ですが、山一つはさんだおとなりに、高濃度放射性廃棄物を埋める縦穴が掘られています。「実験施設を造るだけで、実際に処分場になることはありませんから」という言葉(とゲンナマ)に踊らされて手を挙げてしまったみたいですが、さて、どーなることでしょーか……で、これが、そのまちだけではすまない。となりの、うちの村にも、なんとなんと、ゲンナマが降臨してしまってるという話をきいてビックリ……そんなの、きかされてない……

私のまわりの人は、ダレも知りません。私も、地域委員(昔の村議会議員に相当?)の方に聞いてはじめて知ったのですが……まあ、メイワク料というのでしょうか、一千万からのおカネを、もうもらってしまっているんだと……その方は、視察ということで、実験用に掘った縦穴に潜ったそうですが、「ありゃ、処分場になるね」といってました。ゲンナマもらっちゃったら、もう覆すのは格段に難しくなる。毒ですね。毒……沖縄の人々も、この「毒」を長年注ぎこまれ……

それでも、今、立った。えらいなあと思います。このあたりの人々は、毒を注ぎこまれている事実すら知らない……いや、知ってる人もいるんだと思いますが、しらんぷり……で、将来、なんかあったときにはじめて「毒の手」のオソロシサを知る……人間の生活って、ホント、どうしようもないなあと思います。21世紀になってもこんなコトをやってるんじゃあ、イスラム国のことをとやかくいえる立場じゃないですね。コレ、いったいどうしたらいいんでしょうか……

最後に。沖縄がんばれ。日本なんかに負けるな……

はとやまくん_300

沖縄の心(知事と国の攻防を見て)/Mind of Okinawa

沖縄には、なんども行った。遊びに行ったことは一度もないけれど……いろんなところを見せてもらいました。

沖縄の海は青い。しかし、それは、悲しみの青だ。

自分たちが生まれて育った場所が、自分たちのものではない……しかし、実は、日本全土がそう。

戦争に負けるというのは、こういうことなのか……70年が過ぎても、アメリカにはさからえない。

政府は、自国民を向いていない。向いているのは、戦いに勝ったアメリカ。

沖縄で起きたことは、日本国内のどこでも起きる。

自分たちのところでそれが起きたとき……福島のように、はじめてそれがわかる。

日本は、自由な国なのか……これからそれが、だれの身にも起こるだろう。

日本はばらばらになり、漂流をはじめている。しかし、切実に感じている人はまだ少ない。

もうじき花見。人は、束の間の開放感を味わえる場所をさがすのだろうか……

黒い水が、あふれようとしている……

大名古屋ビルヂング_600
*写真は、この間、野外活動研究会の人たちと歩いた名古屋駅前。大名古屋ビルヂングの建替え工事。リニアねらいで、名古屋駅周辺の東京化が加速されています。人は、別の街に暮らし、別の人になる。そんなに金が欲しいのだろうか……人は、なんのために生きるのだろうか。「文明のおろかさ」というのはカンタンだけれど、それではなにも解決しない気がする。自由でありたいという錯覚。「幻想」は堅固なかたちをまとって、人の上を覆う。「死」しか、それから逃れるすべのないところへ自分自身を追いこむ。まことにばかげていると思うけれど……

ABくんの一日・人道支援?の巻/A day of Mr.AB_Humanitarian aid?

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こーはならなかったですね……人道支援。こーいえば、なんでも通ると思ってんだろうか。黒男が、最初のメッセージで、「AB、おまえは、われわれの女と子供を殺した。」という意味のことを言っていた。これは空爆のことをいっている。そういう空爆をする「有志連合」に、日本は参加した。ABくんは日本国民とイコールですから、日本人全員が、彼らの「女と子供」を殺戮したということで、その「残虐性」に対しては、「残虐性」をもって報復する。これは、とりあえず、きわめて「まともな」感覚だと思います。

真理は、曲げられる。真理を曲げるのは、安全圏にいて、日々の生活を、自分と家族の幸せしか考えずに「のほほん」とおくっている……その感覚の鈍磨なのかもしれません。自分や家族の幸せが、いったいなんによって成り立っているのか……後藤さんの取材は、その根拠を教えてくれるものでしたが、われわれはそれを、本や講演や映像などで、「安全圏」で受け取る。しかし、黒男のメッセージは、そういう「安全圏で受け取ること」自体に根底的な疑問符をつきつける。これもまた「まこと」ではないだろうか……

湯川さんが、「民間軍事会社」というヘンなものをつくってまで、「かの地」に行こうとした感覚……それは、けっきょく、この「まこと」を、自身の身で確かめたかったのではないだろうか……後藤さんの取材もまた、この「まこと」を伝えるものだったけれど、それは光の側。これに対して、湯川さんの心は闇の側にあるようにみえても、結局両者は、ふたつながらこの「まこと」をみずから知りたいという心情では共通していたのではないだろうか……そう考えるとき、はじめて、後藤さんが湯川さんを追っていった心が理解できる。

人道支援(人道援助)……金さえ出せばいいというのだろうか。ABくんの心は、最初のカイロ演説でもうみえみえ。ものごとを、その深みまでちゃんと考えられない単純な人物……その、稚気に満ちた言動が、日本人全体を表わすものとなった。日本中に原発を設置して、国民全員を人質にしている今のABくんの姿こそ、もっともおそろしいテロリストではないだろうか……黒男のナイフは、二人を殺すだけだけれど、原発は日本人全員を殺す。それだけではなく、世界中に放射能をふりまいて、地球そのものを生命の住めない星にできる。

沖縄にだけ、原発がない……沖縄には米軍基地があるからだろうか……そういうクダラナイ推測はしたくないのですが……アメリカは、世界中に「高度な人類のくらし」をバラまくけれど、それはまた闇をも育てる……闇……といっていいのだろうか。それを「闇」とみてしまうわれわれの心こそがモンダイなのかもしれない。人類が「地球の意志」であるとするならば、今、世界中に起こっていることは、全体でバランスがとれて、全体で「まこと」となるはず。それを考えなければ……そう、思います。

地球は、なにを考え、どこへ向かっていこうとしているのか……19世紀に確立された「スタンダード」を、今、大きな力がゆさぶっている。正しいのはおまえらだけじゃないぞー、そこから降りて、われわれと一緒に歩めー……黒男はイギリス人だといいます。彼は、なにをどう考えて、ああなったんだろうか……彼は、彼の中では「正義」を行っているという感覚があるのでしょう。ABくんはどうなんだろうか? 彼は、彼の中で「正義」を行っているという感覚があるんだろうか……どっちもどっちで、限られた個体の中ではわからない。

おそらく、これからのことは、常に「トータル」で見ていかないと、「本当のこと」はわからないのだと思います。今、この地球に生きるわたしたち……日々の生活が、それが、なんによって支えられているのか……思想は、生活によって支えられる。生活を忘れて「思想」だけが浮きあがったとき、それはたちまち内容のない空疎なニセモノになってしまいます。生活の基部にいたるまでずーっと根がつながった「思想」って……地球という生命体は、人類に、そういうものを求めているのでしょうか……いろいろ考えさせられました。