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オバマスピーチ@広島に思うこと_01/President Obama’s speech in Hiroshima_01

オバマさん_900
オバマさんのスピーチ、良かったですね。

まあ、立場により、いろんな感想があると思いますが、私はとても感激しました。
きいているうちに、映画『2001年宇宙の旅』のシーンが浮かんできた。
ご覧になった方しかわからない話ですが……猿人の投げた骨が、一瞬にして、宇宙空間に浮かぶ宇宙船になる、あのシーン……映画は魔法ですが、あれだけ映画の魔法性をみせつけるシーンは、これまでなかったし、これからもないのでは……

月みる人_900
オバマさんの演説の、最初の方の箇所。
『広島を際立たせているのは、戦争という事実ではない。過去の遺物は、暴力による争いが最初の人類とともに出現していたことをわれわれに教えてくれる。初期の人類は、火打ち石から刃物を作り、木からやりを作る方法を学び、これらの道具を、狩りだけでなく同じ人類に対しても使った。』

まさにこれ(最初の武器の獲得)が、『2001年宇宙の旅』のはじめの方に出てくる、あのシーン。月と太陽と地球が重なる壮大なオープニングのあと、なんか荒野みたいな情景になる。おそらくは人類誕生の地であるとされるアフリカの大地の光景……で、そこに、誕生まもない人類、猿人が登場する。

彼らはまだ火を知らない。身体を寄せ合って夜の寒さに耐える。
獲物を狩って食べる。しかし、すでにいろんな部族がいて、わずかな水飲み場をめぐる争いとなる。
当然、身体が大きく、力の強い部族が勝つ。小さく弱い部族は、水飲み場から追い立てられる。

この、弱小部族の中に、このシーンの主人公、ムーンウォッチャー(月見るもの)がいた。まあ、これは、映画ではわからないのですが、アーサー・クラークの小説の方では、こういう名前で出てきます。

彼は、部族のなかでは変わりもので、好奇心が強く、頭脳明晰。そしてある夜、彼らの前に、あの物体、モノリスが出現する。

はじめはおそるおそる遠巻きにしていた彼ら……しかし、少しずつ近づき、ついに、ムーンウォッチャーの指がモノリスに触れる!

でもまあ、なんにも起こりません。みかけ上は。ところが……ある日、ムーンウォッチャーは、行き倒れて死んだ大型の動物の骨を前にして、なんか首をかしげて、考えているようなポーズ……そして、おもむろに骨(大腿骨のよう)を手にとり、それで遊びはじめる。骨の端を手にもって、ふにゃふにゃ動かすと、偶然、他端が別の骨に当たり、砕く。

ここから、彼の快進撃がはじまります。つまり……骨を道具として、「撃つ道具」として使うことを覚えた。彼の身体は小さくても、デカイ骨を持つことにより、手のリーチは格段に伸び、しかもテコの原理で先端の破壊力は増す。肉体の制限を超える力……それを、彼はまさに手にする。

そうなるともう、彼は王者です。水飲み場をめぐる争い……ふたたび、身体の大きな部族と対決になるが、彼は、手にした骨をふるって相手を一撃。撃たれた相手はバッタリ倒れて動かない。

威嚇するムーンウォッチャー。身体のでかい部族は、不利とみて、倒れた仲間を捨てて逃げ出す。ヒトはついに「武器」を手にいれた。

次のシーン。ムーンウォッチャーは、手にした骨でガンガン、地面に横たわる動物の白骨を叩きまくる。バラバラと砕ける骨のかけら……狂乱の様相を見せはじめるムーンウォッチャーの手から、骨が空に飛ぶ……くるくると回りながら上昇する骨のアップ。その上昇が上死点をむかえて下降に転ずる、その瞬間……

画面は突然星空となり、その中をゆく細長い宇宙船の姿……宇宙船は、星空に対して降下するような動きなんだけれど、その速度が、先の骨の降下速度にピッタリ合わせてあるので、見ている方は、まるで連続した「動き」を見せられているような印象……「動き」は連続するが、「動くもの」は骨から宇宙船に……

ここ、ホントにみごとです。猿人が武器を手にしてから数百万年。その「時」を一気にとびこして、人類の科学技術が宇宙航行を可能にした時代へ……「骨」が技術のはじまりとすれば、そこを一気に「最先端」へとつなげてしまう……

しかも、その説得力が、なんと「投げあげられた物体の動き」のなかにある。上昇する骨が、上死点に達した瞬間に、次の下降運動を宇宙船に受けわたす……これはもう、映像でしか表現できない世界……キューブリックさん、おみごと!

キューブリック_900
そして……画面ではわからないのですが、あの、骨のような細長い宇宙船のなかには、「核」が搭載されている……そういう設定だったそうです。
ここで、もういちど、オバマ演説のあの箇所を掲げてみましょう。

『広島を際立たせているのは、戦争という事実ではない。過去の遺物は、暴力による争いが最初の人類とともに出現していたことをわれわれに教えてくれる。初期の人類は、火打ち石から刃物を作り、木からやりを作る方法を学び、これらの道具を、狩りだけでなく同じ人類に対しても使った。』

このくだりを聞いたとき、私は、オバマさん、『2001年』のあのシーンを見たんだなあ……と勝手に思ってしまいました。モノリスが人類に与えたのは、「智恵」ということなんでしょうが……人類は、その智恵を、自分たちの生存を有利にするために用いはじめ、それは、結局、あの水飲み場の争奪戦に見られるように、同じ仲間である人類自身に向けられる……

オバマさんのこの演説をめぐっては、謝っとらんとか、具体性に欠けるとかいろいろ批判もあるみたいですが、私は、彼は、もっと高いところ、あるいは、彼の言い方を借りると、「もっと内なる心」を見ていたんだと思う。そういう意味で、彼のこの演説は、すぐには理解されることはないかもしれませんが、今後、年月がたつにつれ、その真価が認識されて、歴史的な名演説だった……と、必ずそうなると思います。びっくりしました……

彼は、政治家というよりは、むしろ思想家、未来を見すえた、これからの人類の導き手のような存在なのかもしれない……そう思いました。よく理解している……なんて、私が偉そうにいうのもヘンですが、人類と科学、技術の本質と、その来歴、そして、未来にそれがどのようになっていくのか……克服しなければならないものはなんなのか……それは明瞭に語っていたと思います。

『現代の戦争はこうした真実をわれわれに伝える。広島はこの真実を伝える。人間社会の発展なき技術の進展はわれわれを破滅させる。原子核の分裂につながった科学的な革命は、倫理上の革命も求められることにつながる。』

まさにここですね。『倫理上の革命』……さらりと書いていますが、ここはかなり重い箇所だと私は思います。『原子核の分裂につながった科学的な革命』……これは、骨をふりあげて相手を威嚇し、ふりおろして打ち砕くムーン・ウォッチャーの心の中にすでに起こった。モノリスは、なぜか、彼の心の中に、『科学上の革命』に至る種子を植え付けたけれど、『倫理上の革命』への道は示さなかった。それは、モノリス(を送った存在)の意図的な試みなのか、それとも……

もしかしたら、人類は、ある意味、試されているのかもしれないな……と思います。『科学上の革命』。それは、外から与えることができる。人類の脳という複雑な機関が、長い年月をかけて「進化」することによって与えられるという解釈もできます(モノリス的な解釈を拒むのであれば)。しかし……『倫理上の革命』。それは、人類が、みずからの自由意志によって選びとり、獲得していくしかないものなのかもしれない。

オバマさんは、さかんに「選択」と「変化」ということを言われますが、それはおそらく、このことを言ってるんではないか……『倫理上の革命』というものは、他から与えられるのではまったく価値のないものであり、「みずから選び、みずから変革していく」ことによってしか自分の身につかないもの……おそらく、基本的にそういう考えがあるのでしょう。

かつて、キリスト教の宣教師が、「未開の地」に出かけていって、その地の「土人」たちにキリスト教の高邁な「倫理観」を植えつけようとした。しかし……そんなものは、おまえらこれ、いいんだから、覚えろ!なんていうやり方では、絶対不可能……というか、そうやって、自分たちの「価値」そのものを押し付けるやり方自体がアカン。落第であって、自分たちが、いかにその「高邁な倫理観」を欠如した存在であるかを証明してしまってるようなもの……

さすがに、モノリスを送ったものたちは、そこはすごかったわけです。科学技術……自然を改変して、自分たちの都合の良い世界をつくりあげる能力をまず付与した。しかし……それをどういうふうに使うか……というか、その力の本質的な意味、その力というのがいったいなんであるか……そこは、その力を使っていろんな体験をするうちに自分自身で考えな……と。

オバマさんの演説は、人類に、そこを考えるのが最重要ではないか……と呼びかけているもののように思えます。そういう意味で、この演説は、小さな政治的駆け引きとか、いろんな感情、どうしようもない人間的な次元のものは少し越えて、もっと大きな視野でものごとを見ていかないと、人類はここで終わるよ……と、そんな切実なメッセージを送っているように私には思えました。

今回のことは、オバマさんの任期と、偶然のような伊勢志摩サミット、それに、関係するたくさんの人たちの努力が突然に相乗効果をひきだして、ほんとに奇跡のように舞い降りた……そんなイメージがあります。71年前に広島の空に舞い降りたのは「死」そのものだったけれど、今、語られたのは、人類が、自分自身のことをもっと深く考えてみよう、というメッセージ……そして、それは、あの日、空から降りてきたような「死」の本質的な克服につながっていくものなのかもしれません。

オバマさんは、大統領を8年やってみて、これはホントに難しい……と実感したのかもしれない。言葉の端々に、その重量感が漂ってる(いささかの疲労感も)。しかし、彼は、結局本質は昔とまったく変わらなかったんだなあ……と思いました。いやあ、立派な方ですね。おまけにカッコいいし……

プラハ演説でカッコよく登場して、ヒロシマ演説でカッコよく去る……で、そのあとに登場するのが、あのトランプくんなんだろうか……ぶるぶる。

トランプくん_900

テロに思う/Terrorism and Technology

車窓のトトロ_900
またテロが起きました。ベルギーのブリュッセルで。
というか……「ヨーロッパ」以外では、頻繁に起きてるということですが、こんなに大きなニュースにならない。ブリュッセルのテロの死者数30人というのは、中東で起きてるテロの死者数にしたら少ない方だと思いますが、「ヨーロッパで起こった」というだけでこんな大ニュースになる。ここがそもそもヘン。

今回のテロは、ベルギーで育ったベルギー国籍の移民の子供たちが、組織に命令されたわけでなく、自分たちで判断してやった……ということらしい。

「武器」の問題が、大きくクローズアップされると思います。

こういう「惨事」は、今のような武器、爆弾や銃や毒ガスなんかがない時代にやろうとすれば、やっぱり「国家」みたいな「組織の力」が必要だったんでしょう。

人類の歴史をみれば、悲惨な大量殺戮は、それこそ古代文明の時代からあるわけですが、そういうものはみな、強大な「権力」を背景にしないとできなかった。

しかし……現代では、それこそ数人のグループ、場合によっては個人でも、かなりの大量殺戮と破壊をもたらす「テロ」がやれてしまう……

これは「武器」の力……もっといえば、個人にさえ、昔の大帝国の持っていた「権力」に近いパワーを与えてしまう「科学技術」の力だと思います。

科学技術の黒い手……こういうと、科学技術自体は中立……というか無性格であって、それを使う人間が悪いヤツなら悪になり、良い人が使えば善になる……という使い古された「科学技術は諸刃の剣」みたいなテーゼが出てくるわけですが、はたして本当にそうなんだろうか……

つまり、科学技術それ自体はなんの色にも染まっていない、善からも悪からも中立なもの……という認識で、ホントにいいんだろうか……ということです。

さて。それはやっぱり「信仰」と同じなんではないでしょうか。

つまり、「科学技術は無色」というテーゼには、なんの論理的根拠もない。

どころか……科学技術は、明らかに、それ自身の「性格」すなわち「色」を持っている。
何色?……というと、それは「全体色」だと思います。

科学技術の普遍性……つまり、日本でやろうがアメリカでやろうがヨーロッパでやろうが、一つの結果になる。この客観性……
これが「無色」に見える大きな理由だと思いますが、これは同時に「普遍色」という色だと思えないだろうか……

科学技術は、「日常性」との間に介在する。

スイッチを入れるとパッと明かりがつく。洗濯をやってくれる。テレビで遠いところのできごとがわかる。
足で歩かなくても車が自動的に動いて運んでくれる。
蛇口をひねると水が出る。

われわれの「日常性」……これが、科学技術を介在させることによって、われわれからけっこう「遠い」ものになっている。
そして、われわれは、常日頃それにほとんど気づいていない。

これは……われわれが、介在している科学技術を、無意識的に、無色であり、客観性があって、普遍的なものとみなしているからではないか……

たとえば……私が、部屋の灯りのスイッチをパチン!と入れるたびに、どこかでだれかが死ぬ、あるいは木が一本切り倒される、または海に放射能がバケツ一杯撒かれる……そういうことが、私に自覚されていたとしましょう。
そうすると、私は、部屋の灯りのスイッチを入れるたびに、躊躇するようになる。

私が、パチンとスイッチを入れて、通電して、電灯が明るく輝く……この「行為」が、ホントはどんな意味を持っているのだろうか……

今回「テロリスト」と呼ばれた方々が、爆弾のスイッチをパチンと(かどうかはしらないけれど)入れる行為……それが結果として「なにを」もたらすのか……それは、彼らはよくわかっていたはず。まあ、自爆テロなので自分も死ぬし。

しかし……私は、自分の部屋の電灯のスイッチをパチンと入れる……その行為がなにをもたらすのか……それについてはよくわからない。
「科学技術」が、私の行為と「その結果」の間に、何重にも介在していて、私は自分の「行為」の結果を見通すことができません。
オソロシイことだと思う……

にもかかわらず、私は、なぜ、「科学技術」を中立であり、「普遍」であると思ってしまうのだろうか……

それは、おそらく、「自然法則は、普遍である」という考え方が、もう無意識に刷りこまれてしまっているからではないだろうか……

いや、まてよ……電灯のスイッチは、こどもでもパチンと入れる。
こどもに、「自然法則は、普遍である」みたいな思考があるのかな?

こうすれば、こうなる……実験のラットの餌付けのシーンが浮かびます。
まあ、自分で実験したわけじゃありませんが……ネズミでも、ここを押せばエサが出てくるということを「学習」できる。
で、ネズミは、その理由を考えない。ネズミじゃないのでわかりませんが、たぶん考えてない。

人間は、考えないことが多いけれど、考えることもある。
で、考えはじめると……結局その理由というのが、究極的に最後までたどれないことに気がつく。

このスイッチは、電線につながっていて、電線には電気が流れていて、その先が発電所につながっていて……そこには、ゲンパツの、あのオソロシイ「地獄の釜」があるのかもしれない……
そこまで考えると、身の毛がよだつ……わけですが……
その「仕組み」のすべてを、私自身がわかっているワケではない。

では、専門の方はどうなのか……というと、やっぱりすべてを究極に知ってる人はいないのでしょう。
電気の正体……これが、ホントに究極までわかれば……それはスゴイことだと思います。
それはおそらく「自然法則の普遍性」の理由の解明にまで至るのでしょう。

日常、われわれは、それを知らず……なんとなく、それはそうなんじゃないかと思って、いや、そこまでも思わずに、ごくフツーに使ってる。
まるで、実験のラットのように。

「テロリスト」と呼ばれた方々も、やっぱりそういう点では、「ごくフツーに」、パチンとスイッチを入れた。
で……その結果に、世界中がおおさわぎ。
これって……実験のラットが、エサの出るスイッチをパチンと押す行為と、どこがちがうのだろう?
私が、部屋の電灯のスイッチをパチンと入れる行為とも。

「結果の重大性」といいますが……じゃあなぜ、「ヨーロッパのテロ」は重大で、「中東のテロ」は重大ではないのか?
私が部屋のスイッチを入れることによって、原発の炉心で本当に起こっていること……その「重大性」を、私は知ることができません。

遊星の壊滅……太陽系の崩壊……時間と空間を超えて、もしかしたら、私がまったく知らない「宇宙」に、その結果は悲惨な運命をもたらしているかもしれない。

空想?夢想?……あるいはそうかもしれませんが、「科学技術」の本質がわからない以上、その可能性は排除できないと思います。

もしかしたら、ものすごい「テロ」をやってしまってるかもしれない……日常の感覚から遠い「科学技術」のスイッチをパチンと入れること……考えてみると、私たちの「日常」は、もうすでに、なにものかによって、はるか遠くにまで拉致されている。

どうやったらそれを取り戻せるのだろう???

*今回の写真は、この間名古屋市内を走ってるときに(車で)、交差点で停止して、隣を見たら、三角ウィンドにトトロの親子?が……ぬいぐるみを車に載せてる人ってよく見ますが、たいてい顔が車内の人に向くように載せてる。けれど、この車の場合は、トトロの顔が車外に向いてる……まるで、外の人に見せるように……これはもう、「展示」にほかならない。で、それを見た私の心境はけっこう複雑でした。あれ?トトロ?……と気持ちがニヤッとする反面、なぜ見せるんだろう??と思う心も。デモンストレーション? じゃあ、なんのため? 「トトロって、いいでしょ?」ということなのかな? ちょっと強制されている感じ……「イスラムって、絶対なんだぜ!」という気持ちがテロリストの方々にあったとしたら、それを何億倍にも薄めたものをちょっと嗅がされた気もします。まあ、私がヘソ曲がりなだけかもしれませんが。

アラクネンシス_Rocky_01/Arachnensis_Rocky_01

アラクネンシス_rocky_900
今つくっている作品です。ひとふでがきシリーズのアラクネンシスの一種で、銘を仮に「ロッキー」としました。「仮に」というのは、ここから描きつづけていくとどんどん変化していく可能性があるので……今のところ、砂漠に浮かぶ山脈のように見えるので「ロッキー」と浮かんだんですが、私は、ロッキー山脈には行ったことがありません。したがって、イメージのみのきわめていいかげんなネーミングということで……

ロッキー山脈のふもとにデンバーという街があるそうですが、かつてこの街に住んでおられたWさんという日本人の方にお目にかかったことがあります。ふしぎな方で、宇宙船に乗せられて宇宙人に会ったということで、いろんなお話をされておられました。おもしろかったのが「金星の教育」についてのお話で、金星では、100点(満点)を取らないと次に進めないんだとか。これには、私、いたく感心してしまいました。

地球の教育には「合格点」というのがあって、100点じゃなくてもこの合格点を取れば進級できます。合格点は科目によって違うわけですが、まあ最低で60点くらいなんでしょうか……こうしとかないと、だれも次に進めない。100点なんていったら、それこそほとんどの人が落ちてしまう。それでは社会が成り立たんではないか……と、こうやってできたのが、この地球の「60点社会」。まあ、私もその一員なんですが……

なので、この傾向はすべてに反映しています。たとえば、なにか新しい技術を開発したとする。まあ、いまはやりの「水素社会」みたいなものでもいいんですが、そういうものができると、それが人間の社会や自然環境に与える影響をあらかじめ考える。つまり「アセスメント」ということになるんでしょうが、これを徹底してやらない。ある範囲を区切ってやってみて、それでOKなら大丈夫なんじゃないかと……

実際問題として、徹底的にやるということは不可能に思えるわけです。環境に与える影響なら、どこまでも、環境の分子一つ、原子一つ、素粒子のそれぞれに至るまで、この技術でどんな影響を受けるのか……それはやりません。ざくっとおおざぱに区切って、ここまででこんな影響だからたぶん大丈夫でしょう……と。要するに60点なりなんなりの「合格点」を満たしていればそれでよしとして見切り発車をしてしまう。

すると当然、検証していない部分でなにが起こるかわからない。で、そこの部分で起こってくることはみな「想定外」となってしまいます。これって、ものすごくいいかげんだと思うんですが、「100点」のアセスメント、つまり限界を設けないで、どこまでもどこまでも徹底的にやる……ということが、この地球人のアタマでは、もうやる前から絶対的に不可能なことに思えるのでやらない。しかし金星人はそれをやる。

このあたりが、この地球の文化と金星の文化の根源的な違いのように思います。地球人からは絶対に不可能と思えることが、金星人には可能である……どころか、絶対にそれはやらなければ次に進んではいけない規律として立つ……ここは、やっぱり考えどころではないかと私には思えた。げんに金星人はそれをやってるんだから、それは「不可能」ではなく、なにかやる方法があるはず。はじめから諦めてませんか??

たとえば「農薬」みたいなもの。これって、「毒」なので、ダメに決まってます。でも、薄めればいいという考え方。じゃあ、どんだけ薄めればいいんだ?というと、それは「裁量」。つまり、「経済原理」とのかねあいで決まるという不純。要するに「合格点」を「毒性の検証」ではなくて、「経済」の側から決めてる。これはもう、最初から放棄してる……というか、なにか悪魔に魂を売ってるようにしか思えない。

要するに「毒」なんだから、それはダメでしょう……というのがマトモな考えだと思うのです。これはきわめて単純な考えで、だれにでもわかります。「金星の100点」は、なにも難しいもんじゃなくて、もしかしたらこういう、まことに単純なものの考え方かもしれません。御用学者のややこしい計算や武ばった数式……そういう「悪魔の誘い」に乗ってしまうのは、やっぱり心の中に「欲」があるからなんでしょう。

必要以上に儲けたい。将来が心配なので備蓄せねば……といって、それが「経済原則」になって横行する……そのはてが今の地球のこの世界……これに対して金星では、100点を取らねば次に進めませんから、そういう曲がったものの入りこむ余地がない。たしかに、こういう教育を受けていれば、そこには「マトモな人」が育つと思います。スバラシイ……じゃあ、それを、この地球で、どうやって実現したらいいのか……

私は、それは、もしかしたら不可能とはいえないんじゃないかと思います。日常の、ふつうの感覚……これではないでしょうか。農薬や遺伝子組み換え、ゲンパツ……こういうもんに感じる素朴な不気味さ、不信感……やっぱりここが基本になる。こういう「マガツゴト」を推進したい方々は、すぐに「それは感情論で非科学的」というけれど、その「科学」が「60点合格科学」であるかぎり、そんなにいばれますの?

それがたとえ「90点合格」であろうが「99点合格」であろうが同じで、金星のように「100点ではじめて合格」でないかぎり意味がない。しかし、科学の方向で「満点」を出そうとすると、最初に書いたみたいに分子一つ、原子一つ、素粒子の一個一個まで、しかも過去から無限の未来に至る全時間にわたって「OK」が出ないと先に進むことができない。したがって、「科学」の手段を取るかぎり、これは絶対不可能。

われわれの身体は、この地球という惑星につながり、一体となっているから、「身体の声」は正直です。まあしかし、その身体も、今は「60点科学」で形成された「人工環境」によって培養されているのでいろいろクエスチョンはつくわけですが、少なくとも、すぐに自分自身をだましてワケのわからないリクツを並べはじめる「心」よりは正直で信頼がおけると思います。「からだの声をききなさい」。

昔、よく言われました。なにがなんだかわからなくなったら「からだの声をきけ」。「からだ」は、本当に私自身がどうしたいと思っているのか、それを正直に語ってくれる。そしてそれは、まわりの環境に対して満点。なぜなら、私のからだは、まわりの環境と「同じもの」からできているから……要するに、日常のフツーの生活において、素朴にいろいろ見たり感じたりすること……それが、実は100点。

私は、昔から、「ムシロバタとネクタイ」ということを考えていました。ゲンパツ反対とかいろいろ言う勢力は「ムシロバタ」で、これに対してしかつめらしく「説明」をされる役人や御用学者はスーツにネクタイ。一体この差はなんだろう……いかにも説得力がないように思えます。ムシロバタの人々。「感情的な反発じゃなくて科学的な根拠に基づいた議論を」とおっしゃるネクタイの人々……いつもこの絵だ。

絵として見るかぎり、勝敗はあきらか……なんだけど、釈然としない思いがいつも残る。「圧倒する」ということなのかもしれませんが、広告代理店が仕組んだ会場と筋書きで、テレビドラマのように「粛々と」進行する説明会……人間の価値観って、今はまだ相当に未熟なんだと思います。見せかけの立派さ……それは、ネクタイに象徴される組織の力でもあり、また、「60点合格」の科学技術の権威……

「形の威厳」といいますが、やっぱりそれはそのものだ……この地球の、古い人類の考え方は、「形の威厳」に満ちています。それが「形の……」といわれるのは、やっぱりそこには「60点合格」の内実しかないからで、それを組織や服装、言葉や科学技術の「形の威厳」で圧倒する……そういうものに圧倒されてしまうくらいの「進歩」しかしていないんですね。今の人類の「心」というのは……

しかしもう、方向は見えているように思います。今、われわれが毎日を送っているこの日常生活……それはまた「からだの声」から成り立つ世界なんですが、ここに基づく以外に「100点合格」に至る道はないように思います。それまでにどれだけの道のりがあるのかはわかりませんが……デンバーのMさんは日本に移り住んで、お亡くなりになられたとききました。彼の魂は、今は金星に還っておられるのでしょうか……

イスラム国の意味は?/Can IS have any meaning?

冬の朝日_900
「イスラム国のやっていることは、むろん非人道的で残虐で、許せないものであるということは当然あたりまえのことですが……」TVなんかで、知識人の方々がイスラム国にかんして発言するときに、こういった言葉の前置きをするのが目立つように思います。つまり、まず否定であり、それを前提にして話をする。政府の対応やABくんのカイロ演説を批判したりするときに、直接入らずにこの言葉を置く。これによって、「私は、常識ある健全な立ち位置でものを言ってます」ということを、まずつまびらかにしておく。そうしないと、「え?あんたイスラム国に味方するの?」と思われても困る……と。つまり、イスラム国は絶対悪であって、それはもう「みんなの常識」なんだと。

しかし……本当にそうなのでしょうか?……なんていうと「え?あんたイスラム国に味方するの?」という言葉がとんできそうですが……でも、ものごとを「客観的に」見るばあい、片方を「絶対悪」として話をはじめるということは避けなきゃならんのでは……と、私なんか、思ってしまいます。まあ、イスラム国の側からみれば、日本もそこに入っている「有志連合」の国々こそが「絶対悪」なんでしょうし、客観的にみれば「ケンカ両成敗」で、どっちもどっちということにならないでしょうか……ここで、私は、今読んでいるヘーゲルの『精神現象学』のことを思い出すのですが……この本は、まだ読んでいる途中なので、あんまりなにも言えないんですが、でも、言いたい。

ヘーゲルというと「弁証法」で、弁証法というと「正ー反ー合」、つまり、テーゼとアンチテーゼが止揚されてジンテーゼになって……という、学校で習った「図式」が思い浮かぶわけですが……実際に元の本を読んでみると、ずいぶん印象がちがいます。ヘーゲル弁証法の図式的理解では、テーゼとアンチテーゼは、ジンテーゼを産むための材料?みたいな感覚で、その結果として生まれるジンテーゼがだいじで、まるで桃から産まれた桃太郎みたいにメデタシメデタシ……となるんですが、実際のヘーゲルは、もう「血みどろの闘争」で、対立する両者は絶対に引かず、お互いがお互いを「悪」として、相手を完全に崩壊消滅させる、ただそのことのみに全力を注ぐ……

なので、その戦いはもう悲惨そのもので、まったく妥協点がない。そんな、ジンテーゼみたいなものを産みだしてやろうなんて互いに毛ほども考えておらず、ただ、相手を滅ぼし、この世界から抹消することしか考えない……これはまさに、今のイスラム国と「有志連合」の状態そのものだ……もう、リクツもなにもなく、相手は「絶対悪」であって、この地球上から相手を消し去ってしまいたいという……ただ、そのことのみで悲惨きわまるぶつかりあいを続けています。これって、ホント、どう考えたらいいんでしょう……と悩むわけですが、ただ「イスラム国が<悪い>のは当然の前提なんですが、その上で……」という話のしかただけはしてはいけないと思う。

イスラム国とか、あるいはボコハラムとか、その他イスラム過激派の言ってることって、ずいぶんショッキングだと思います。奴隷制の復活とか、女性には教育を受けさせないとか……人類が、何千年もかけてようやく到達した「今の状態」を、ちゃぶ台返しみたいに根底からひっくり返して時計の針を巻き戻そうとしているかのような……それで、今の「文明世界」はゲゲッと驚いて、「それはまず、ありえんでしょう」ということになるわけですが……でも、今の、この先進国中心のものの考え方が「人類スタンダード」になってしまっている状況を、思いっきりひっくり返すというか、問い直す、これはもっとも鮮烈な考え方であると見ることはできないのかな?

なんていうと、「お前はイスラム国の味方か!奴隷制を肯定するのか? 女性には教育はいらんというのか!」ということになるので困るのですが……でも、そういった「健全な考え」を無条件に前提とした今のこの「文明社会」において、人々がなにも考えずに目先の幸福の追求や、自分と家族の幸せだけを考えて日々を送っている……その、見えない地脈のかなたにおいて、なにやらぶきみで複雑な動きが起こり、それが知らぬ間に成長して、ある日、「文明社会」のただなかに噴き出す……人は、それを「テロ」だというかもしれませんが、その「根」を産んでしまったのが、自分たちの「なにも考えない幸せなくらしの追求」であったことにはけっして気がつかない。

いや、気がついているのかもしれませんが、それは、実感としては感じていない。だから、テロの犠牲者に対して、「罪のない人々が殺された」という。で、テロをやった側を「極悪非道で凶暴で残忍な卑劣漢」みたいな……しかし、自分たちの「文明社会」を形成してきた根本的な考え方自体が、今、問われているのだ……というところにまでは結局、至りません。自由や平等、民主主義や、科学技術の与える快適な暮らし……今の「文明社会」が、もう無条件に「善し」としているものの「根底」を疑うべきだ……もしかしたら、イスラム国のつきつけている「本当の意味」というものは、そこにあるのではないだろうか……そういう可能性は、ホントにゼロなんでしょうか?

ものごとは、結局、すべてが相対的で、絶対悪、絶対善というものはない。そういうことなのかもしれませんが……私は、もし本当に「絶対悪」というものがあるとすれば、それは「原子力」で、これだけはもう、なんの弁明の余地もない「悪」だと思いますけれど(これについては、別のところで書いてますが)、それ以外のものごとはみな相対的で、「おまえは悪だ!」と決めつける、そういう考えの方にモンダイがあるんじゃなかろうか……やっぱり、そう思ってしまいます。ものごとを、片面から見ないこと。あっちの側に立ってみたらどう見えるんだろう……常にそういう視点を失わない……これって、なかなか難しいことだと思いますが……

イヤなものをいくら拒否しようと、それが「存在する」のは「事実」なのだから、「悪だ」という言葉だけで否定しても、なにも解決しない。イスラム国の問題は、「文明社会」の人たちが考えているみたいに、少なくとも「ボクメツ」するだけではすまないし、そういうことも、結局できないでしょう。「イスラム国」という存在ではなく、「イスラム国現象」として考えてみた場合、モンダイの意外な広がりと根深さに気がつく。人類社会は、数千年をかけて、どういうところに到達したのか……最近、TVで、スティーヴン・ピンカーさんという方の、「実は、暴力は減っている」というスピーチを見ました。以下のサイトで、その概要を知ることができますが……

1月7日放送 | これまでの放送 | スーパープレゼンテーション|Eテレ NHKオンライン
スティーブン・ピンカー: 暴力にまつわる社会的通念 | Talk Subtitles and Transcript | TED.com

この方は、ハーバート大学の心理学の先生で、いろんなデータを駆使して、「暴力は確実に減っている」ことを論証……なかなか説得力があるお話で、感心して聞いていたんですが……要するに、みんな無意識に、現代に至るほど人類社会は残酷で暴力的になりつつあると思っているけれど、実は逆なんだと。報道の発達でそういうシーンを目にする機会が多くなっただけで、ホントは昔の方がはるかに暴力的だったんだ……と。このお話からすると、イスラム国なんか、せっかく築いてきた平和な人類社会を全否定して、昔の「暴力の時代」の復活を企む、まさに悪魔のごとき……となるんですが……ちょっと待てよ……と。たしかに、人々の意識から、暴力的で残虐なものは、追い出されつつある……

それは確かだと思うのですが、でも、追い出された暴力的なもの、残虐なもの……そういったものを好む人の思いの「根っこ」は、はたしてどこへ行くのだろうか……さらにいうなら、人は、人に対しては暴力を控えるようになったのだとしても、では、人以外の存在に対してはどうなのか……クジラやイルカなんかは必死で守る人もいるけれど、現代文明というものは、昔に比べて、はるかに「自然」に、大きな負荷をかけているんではないだろうか……そこんところは、西洋的な考え方ではオッケーになるんでしょうか……いやいや、環境問題への取組みは、西洋文明の諸国こそが先進的なんだと……そういうことかもしれませんが、でも、ちょっと待てよ……と。

環境問題に熱心になるのも、最終目標が、「人間が住めなくなると困る」という、人間の利己的動機だったとすれば、それは結局「人にはやさしく、そのために、自然にもやさしく」ということで、それはおんなじこと。あくまで自然は、人間が利用するためにあるのだ……西洋スタンダードの発想は、結局、どうしても、こういう人間中心の考えを抜け出ることはできないのか……最近公開された映画の『地球が静止する日』じゃないですが、「地球と自然を守るために人類を滅ぼす」……イスラム国と有志連合の、互いに互いをサタンとののしっている掛け合いを見ていると、実は、根底で、このプロセスが、静かに進行しているんじゃなかろうか……とも思えてきます。

浜の真砂は尽きるとも、イスラム国の種はつきまじ……ものごとは、その見えてる現象の奥に、ずーっと、暗い、深い世界にまで達する「根」があって、表層の「悪」を刈りこむだけではなんにも解決しない。じゃあ、その根をなんとかしたい……と思って掘り下げていくうちに、実は、自分たち自身がその「根」にしっかりつながっているのを知って愕然とする……人類社会は、「良くなった」んじゃなくて、実は、「良くなったように見えている」だけなのか……ヘーゲルさんの『精神現象学』に、上昇する「アウフヘーベン」よりも、下降する「ウンターゲーエン」の必要性を読んでしまうのは、これは正しい読み方じゃないかもしれませんが……どうなんでしょうかね……

写真は、うちの近くの田んぼの畦みち……冬の朝日の光を受けて、なにか祈っているように見えた……中央に見える、四角い屋根のある小さな構造物は、イノシシから田んぼを守るための電気柵のコントロール装置です。ここらあたりでは、数年前からイノシシの数がやたらに増えて、田畑を荒らし、土手を壊し……もうタイヘン。こうやって、スタンガンなみの電気ショックで「防衛」したり……昨年は、小川に逃げこんだうりんこ(イノシシのこども)を村のオジサンたち数人が追いまわし、撲殺している光景をまのあたりにしてしまった……棒で、うりんこを何度もなんども殴る。息絶えるまで……なぜ、イノシシがこんなに増えたのか……そこは不問。ただ、殺す。

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バックで前進?……廃炉技術の教えるもの/Progress in back? Technology of decommissioning tell us what.

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NHK教育で、廃炉ロボットの番組を見ました(サイエンスゼロ)……なるほど……NHKは、会長、経営委員がAB色になったと聞いて、大丈夫かな?と思ってたんですが、この番組には教えられることが多かった。福島第一の廃炉作業を担当するロボットの開発物語みたいなものなんですが、最後の方で、廃炉作業というのは、後ろ向きじゃなくて、技術の進化という点から見ても、ここで学ぶべきことが山のようにある最先端の現場なのだと。なるほど……たしかにそうなのかもしれない。

私は、これからの人類の文明というものは、どうしても、今までやりたい放題やってきたことの「回収」に向かわざるをえないと思ってたんですが、それって、技術者の人にとっては、どうしてもマイナス方向の意識になるんだろーなー……だとしたら、いったい何人の人が、そんなマイナス方向の技術にかかわろうと思うのかなー……結局、みんな、今までの「進歩史観」で、拡大_増大の方向に向かって、人類の文明って、やっぱりとりかえしのつかないところまでいくのかなーと……

そんなふうに感じていたのですが、この番組を見て、ちょっと考えが変わりました。もう、いくら先へ進もうと思っても、自然や、いろんな事情がそれを許さないところまですでに来ていて、これからの科学技術は、今までのやりたい放題_増大_拡大_技術がまきちらした「災厄」をなんとか回収していく……そっちの方向に向かわざるをえないことを、すでにわかってる人はわかってるんだと……まあ、考えてみればそうですよね。福島第一は典型的ですが、ほかにもいろんな方向で、分野で、そのことが見えはじめている。科学技術の青天井みたいなノンキな考えを、もうだれも持てなくなっているんだ……

話題のSTAP細胞にしてもそうだと思います。再生医療……の先は不老長寿、そして人造人間と続くわけですが、STAP論文も博士論文もボロボロ。著作権法違反なんか、だれかが告発すれば、刑事罰になる。個人のキャラクターももちろんヒドいんですが、しかし、この問題には、もっと根源的なものがあると感じます。つまり、人間の今の科学の限界みたいなもの……それは、もっと深いところで、倫理観というか、哲学の問題にかかわってきます。要するに、生と死、生きる意味と死ぬ意味……みたいなもんでしょうか。そこんとこの探求をほっといて、ただ、生命が伸びれば善であり、科学技術はそっちの方に行くんだ……ということで、盲目的に突っ走ってきたツケみたいなもんを、これから払わされる……

魔女というか、錬金術師というか……生命が伸びる研究をやってて、そっちの成果を華々しく出せそうな人を嗅ぎつけたら、もう、捏造_改竄であろうが著作権法違反であろうが目をつむってお迎えして……そういうことをやるからあの結果になる。これは、「生命が伸びる研究は、無条件に善」としてきた単純素朴な「科学的考え方」がぶちあたった大きな壁と見るべきでしょう。生命の意味と意義、そして、生命はなぜ死ななければならないのか……こういう根本的なことを考えざるをえなくなると思います。そして、これもまた、科学技術の「回収指向」の一つの顕著な事例であるのでしょう。

生命の伸びる研究が、はたして無条件に善なのか……と問うことは、少なくとも「競争における遅れ」は確実に招く。しかし、必ず、人は、そっちの方向に向かざるをえなくなるでしょう……要するに、これからは、今までみたいに「進歩は無条件に善」ということでは、科学技術自体が成立しなくなる時代に入ったんだと。人類が、これまで「進歩は善」でやってきた科学の全分野を徹底的に見直して、ダメなものはダメ……といいますか、人類にとって、いや、この地球全体にとって、本当に「いい方向」というものはどういうものなのか……それを探っていく……いかざるをえなくなる……

そういう、きわめて大きな「方向転換」の時代に入ったなあと思います。番組では、廃炉技術というととかくマイナスのイメージなんだけれど、実は、そうではないんだということをアピールすることによって優秀な研究者がこの分野に参入することを期待する……みたいな〆め方をしていましたが、これって、ホント、廃炉技術ばかりではない。今、スマートなんたらで、エネルギー分野でもこれに近い発想がクローズアップされてきているし、資源の再生技術とか、二酸化炭素をできるだけ排出しない技術とか……考えてみれば、いろんな分野で、明確にハンドルは切られている。

私自身は、以前は、もう人間の科学技術ってどうしようもなくて、自分たちの科学技術で自分たちの墓穴を掘ってるのがわれわれかなあ……とも思っていたんですが、今の世の中をよく見てみると、そういうことにとっくに気がついて、なんとか「回収方向」に技術の舵を切ろうとしている人もたくさんおられるみたいです……なるほど……そんなに悲観すべきものでもなくて、やっぱりいつも「両方向」が混在しているんだと……ただ、「進歩史観」は、地球大になったところで必ず退歩を余儀なくされるから、これからは、やっぱり「回収史観」が中心にならざるをえないでしょう。

注意深く……世の中の動きを見るべきだなあと思いました。敵と味方、白と黒に分けてしまうのではなくて、いろんな人が、それぞれの個性をもっていろんなことをやろうとしている……それは、ちょっと離れてみると、まるで「役割分担」みたいにも見えてきます。相変わらず「進歩史観」の役割を担おうとする人もいれば、徹底して「回収史観」になる人もいる。それは、なぜそうなるのか……一方が天使で一方がサタンと見るのはカンタンだけれど、それではなにも進まない……なぜ、そう考えるのか……どうしてそうなってしまうのか……やっぱり「愛情」をもって見ることはだいじだなあと。

写真は、おとといの朝、うちの近くで撮った雲です。ふわりとやわらかそうで、なにかを語りかけてくるような……昔は雲の写真をよく撮ってたなあ……空の青さにひかれて、ひさしぶりに撮りました。まんなかに、なにかが立ちあがるような形象が現われています。その右には、さそうような波のような動きがある……流れる雲に、いろんな意味を見て楽しんでいたときもありました。この雲には、とくに意味は感じないけれど、なぜか、軟らかさが印象的でした。梅雨の晴れ間に……すぐにお天気は不安定になってきて、昨日は一日、雷が遠く近くで……梅雨の終わり……そして、光の夏がやってきます。

STAP細胞って、あるの?……アルケミストの夢/STAP cell……A Dream of Alchemist

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STAP細胞は、アルケミスト、錬金術師の夢……というとおこられるかもしれませんが、そんな気がしてきました。SF作家のアーサー・クラークさんの『テクノロジーが高度に発達すると魔法と見分けがつかなくなる』という一言は有名ですが、科学技術と魔法の間にあるもの……それが、錬金術、アルケミーではないか……バリバリの科学技術にもどこか魔法の面影は残ってますし、魔法も、やっぱりその中には科学の萌芽があるわけで……魔法から科学へのグラデーション全体が、アルケミー、錬金術なのではないか……

錬金術は、日本語訳のイメージから、「金を生む術」みたいな印象を持たれがちですが、本来は、「人工生命」を生み出す技術体系であったのではないかと思います。いわゆる、「ホムンクルス」ですが……ユングの分析なんかによって、その意味というのがしだいに明らかになってきているようですが、「人工生命」は、結局「世界の中にある人間」の意味の追求であり、そこを明らかにすることによって、人間は「神に勝つ!」……いや、みずからが神になることができる??……そういう見方も……

今回のSTAP細胞は、だからこそまさに「錬金術」……そういう意味ではiPS細胞も似たような雰囲気はありますが……iPS細胞は遺伝子レベルに手をつける分、ちょっと科学ぽいイメージがありますが、STAP細胞の方は弱酸に浸けるだけ……とかいうので、こちらははるかに錬金術的……科学に近いか錬金術ぽいか……その見極めの一つが、「他者による再現性」なんじゃないかと思います。iPS細胞は遺伝子レベルにまで分解しているので、他者による再現もできるのでしょう。しかしSTAP細胞の方は……

他者による再現が今のところできていないとか、詳細な実験ノートがないとか……なんだか、あのからし黄色のムーミン屋敷ラボが、中世の錬金術師の工房のように思えてきます。その中で、若く美しい魔女がなにやら……いや、失礼な話ですが、なんかそんなイメージ……そういえば、実験室でも割烹着の下は黒服でしたし……まあ、冗談はさておき、今回の件、カンタンには決着がつきそうにありませんね。理化学研究所の方は「科学的に」とっとと幕引きをしたいということなのかもしれませんが……

今回、やっぱりいちばん考えさせられたのは、「科学って、なんだろう……」ということでした。中世は、西洋では悪魔が信じられていたし、日本でも神々や仏の力が世の中をおおっていました。今、それにかわるものは「科学」で、「科学的に……」という言葉はコーモンさんのインローみたいな威力を持ってます。でも、じゃあ「科学」ってなに?ということになると、そこには明確な答は出ていないのではないか……これは、中世で「神ってなに?」と問うのと同じで、質問自体が意味がない……

ある世界において、「絶対」になるものに特有の傾向だと思います。その世界ではそれが「絶対」だから、それがなにか?という問いには意味がない。なぜなら、すべての価値観がそれによって決められるので、「それ」だけは、相対的な価値評価を抜け出しているから……そしてまた、「絶対者」は、その時点では、未来永劫にわたって「絶対」であると考えられる。これもまた「絶対者」の有する一つの特質……中世ヨーロッパの人々は、「神」が権威を失う時代がくるなんて予想もできなかった……

同じように、現代人のわれわれにとっては、「科学」がその「絶対的権威」を失うことになる時代が来るなんて、毛筋一本ほども予測もできない……思い描くことすら不可能……なので、やっぱりそれが「科学=絶対者」である今の状況をよく示しているんだと思うのですが……しかし、今回の「STAP細胞事件」なんかを考えてみると、そろそろその時代も、転換点に近づきつつあるのではないかなあ……という気もしてきます。まあ、科学即絶対者の時代は、もうしばらくは続くのだろうけれど……

では、この時代が終わると、次にはなにが来るのでしょうか……次に「絶対者」の位置を占めるのはなんになるんだろうか……わかりませんが、少なくとも、「科学」に対するとらえ方は少しづつ変わってきているように思う。今回の「STAP細胞事件」では、錬金術の方から「科学」に対する攻撃がなされたわけで……昔の「科学人」だったら、ガチガチに守りを固めて一切の攻撃を門前で反撃したんでしょうが、今回は、少なくとも外堀は越えられてしまった感じがあります。そこでの攻防戦……

「科学人」の中身も、ちょっとづつ変わってきているんだなあ……と、ふしぎな感慨を持ちました。まあ、頭が軟らかくなったというか……あそこまでアルケミストの人が、あそこまで「科学研究の殿堂」の中に食いこんで、ある程度の「成果」を出せるようになった……世の中の「大変動」の兆候を少しづつ感じられる……そういえば、中世の「神」の絶対性を「人のワザ」によって動かそうとしたのが錬金術……だとすれば、今回も、「科学」の絶対性を、錬金術師が……

小松左京『虚無回廊』を読む_03/Sakyo Komatsu ” The Imaginary Corridor “_03

ナジャの旅_300

この作品で、やっぱり考えさせられるのは、人が、どこまで考えられるのか……その限界……みたいなことでした。落語の「頭山」じゃないですが、シュールなことはいくらでも考えられるけれども、「実体」が伴わない……アンドレ・ブルトンの『ナジャ』をはじめて読んだとき、なんて奇妙なことを考えるんだろう……と驚きましたが、それが、なんか妙な実感をもって迫ってくるのは、やっぱりそこに、いくら奇妙でも「実体」を感じたからだろうと思います。ふしぎなんですが……スペキュレーションだけではなくて、裏打ちがあってモノを言ってる……そんな感じかな。

小松さんのこの作品の場合は、やっぱり実体感は希薄です。それはなぜかというと……スペキュレーションにサイエンスを介在させているからではないか……サイエンスを介在させる以上、そこで「実体感」が切れないために、小松さんご自身が猛勉強をして、科学上の「概念補強」をガッチリやってるんですが……にもかかわらず「実体感」が希薄なのは、サイエンス自身に「穴」がやたらに多いからだと思います。世の中は、まだまだサイエンス絶対というか、科学信仰というか……科学的に裏付けがとれればそれは絶対……みたいな見方が多いですが、その「科学的裏付け」というのが……

いかに困難を極めるものであるかは、先の「STAP細胞事件」で明らかになったみたいに、なかなか大変なものだと思います。それと、おそらく、やっぱり「第五世代」の困難さ……これは、直接「生命とはなにか」とか「知性とはなにか」にかかわってくる。この点も、今の科学の限界みたいなものを感じさせられる……この小説では、ハード的な、たとえば素子の問題とかにはそんなに詳しく触れておらず、ただ、人工知能は「育てないと」ヒューリスティックにならない、つまり「人間ぽい」知性にはならないんじゃないか……ということで、ソフト的な「育て方」の問題を大きく取りあげている……

ただ、ハード的な素子の問題で、それが、半導体技術を伸ばしていったものであるとするならば、「育てる」というところで、やっぱり大きな壁にぶつかるような気がします。つまり……これは、ヨゼフ・ボイスが『7000本の樫の木』で提示したテーマなんですが……花崗岩の柱の横に植えられた樫の木……樫は大きく育って大樹になるけれど、花崗岩の柱はそのまま……この、地球表面という環境で「育つ」のはやはり炭素型生命であると。鉱物型は、長い年月をかければ育つのかもしれませんが、フツーの感覚で「育つ」というにはムリがある……炭素型は、化学反応でシグナル伝達を行うので、反応速度は遅いけれど、環境内で「育つ」ことができる……

これに対して、鉱物型の生命は、コンピュータのように計算速度は異常に早いけれど、「育つ」のがむずかしい。ほっといたらコンピュータが育った……という話はきいたことがありません。むろん、鉱物型が育ちやすい環境を作ってやれば育つのかもしれませんが、この地球表面という環境にオープンにしていって「育つ」のは、やぱり炭素型生命なのでしょう。ここのあたりは見過ごされがちですが、実は、重要なところではないかと思います。ただ、炭素型には「反応速度が遅い」という以外にも大きな欠点があって、それは、地球表面という環境でないと、育たないのは無論のこと、生きてもいけないということ……

人が宇宙に出るときは、宇宙船や宇宙服というかたちで地球表面の環境を「持って」いく。これはまあ、当然のことととらえられているわけですが……コンピュータには、地球表面の環境というものは特に必要ではない。育たないかわりに、隔たりなく宇宙に出て行けるわけです。このあたりも考えさせられる……この小説の主人公である人工実存の「彼」にとっては、宇宙という環境も地球という環境もどちらも同じ……特に「地球表面」という環境が必要なわけではない。しかも「育つ」ことができる存在である……このあたりが、「実体感」が希薄になる、これまた一つの要素ではないかと思います。

地球の生命は、地球以外では「育つ」ことはもちろん「生きる」こともできない。これは厳然たる事実であって、だから、人の知も、行動範囲も、本当は「地球表面」に限られているのだと思います。人が「宇宙に出られる」と思うのは、それは一種の「錯覚」であって、人のスペキュレーションの見せる「夢」なのですが……人は、この地球表面と「同じもの」からできているがゆえに、この地上において「育つ」ことができる。そして、その育った結果として、宇宙を夢見ることもできるのですが……しかし、実際に宇宙に出ていくことはできない。人が生きることのできる場所は、この地球表面だけ……それが、厳然たる事実だと思います。

小松さんのこの小説も、だから、何光年も先の宇宙に出ていくのは、「人工実存」である「彼」になっている。小松さんは、人が考えることの「無限の広がり」に対して、人がその身体から限定を受ける「生命」がいかに限られ、わずかな範囲しか動けないか……それを、この小説でも他の小説でもくりかえし書いておられますが……そして、「サイエンス」という手段を介してその限定を超えようとされておられますが……結局は、その不可能性を論じてしまった……サイエンス方面の論理補強をやればやるほど、現実感は希薄になって、その不可能性が際立ってしまう……そんな、根本的な矛盾を感じたのは私だけだろうか……

ブルトンの『ナジャ』が、シュールであるにもかかわらず「現実感」を失わないのは、それが、当時ブルトン自身が体験した「気分」であり、そこから皮一枚も遊離していない……そこにおいて、読む人は、リアリティを感じるのではないか……これに比べると、サイエンスは、ちょっと進むとすぐに人の「実体感」を離れます。特に、現代物理学のように相対性理論とか量子力学になると……空間や時間が伸び縮みし、モノの位置や速度が不確定になって「確率の雲」の中に隠れてしまう世界……そういうものは、この、われわれが生活している地球表面の世界としては、実感としてまことにそぐわない……しかし、現代のSFは、そこに触れざるをえない。

小松さんのこの作品は、ある意味、その極限だと思う……この作品でずしっと重みがあるのは、人間の主人公の遠藤さんとその妻のアンジェラさんのかかわるくだり……そこは、やはり「実感」が色濃く迫ってくるのだけれど、アンジェラさんが死んで、人工実存のアンジェラ・Eになると、ちょっと夢の中の世界みたいなところに入っていきます。そして、主人公の遠藤さんも死んで、彼の人工実存の「彼」が主人公になるあたりで、ほぼ完全に「実体感」がなくなります……つくづく難しい。SFが、やっぱりいまだに「純文学」を超えられないのは、おそらくはサイエンス自体にリアリティがないから……で、この関係は、たぶんこれからも続く……

いや、リアリティをもってとらえられないサイエンスでつくった装置類が、今は、この人間の世界に深く浸食していますから……大事故なんかが起こると、それは、リアリティのない世界が突然、この現実の世界を浸食して崩壊させるというオソロシイ結果となる。よく言われることですが……もう、今の世界は、現実の方がSFよりSFぽい。人は、リアリティを欠いたままにさまざまな科学技術に手を出して、それで自分たちの世界を変貌させていく……いやはや、SFのつくりにくい世の中になったもの……小松さんのこの小説は、なんか、SFからの「最後の挑戦」みたいな感もあります。なるほど『虚無回廊』か……まことにうがったタイトルだなあ……

STAP細胞?(つづき)

ソラリス_900

なぜか気になるスタップ細胞……顛末のふかしぎさもさることながら、このモンダイ、さらに根本にあるギモンとして、「なんにでもなる」細胞つくりって、ホントはどういうことなのかな? ということも考えさせられます。山中さんのアイピーエス細胞もそうなんですが、結局なにがやりたいのか……それを一言でいうなら「不老不死」で、これは、人類が大昔から追い求めた夢なんだと……それが、最先端の生命科学で可能に……ということで、みんな、ここに夢とロマンをかけて……そんな感じで、人間って、不老不死の妙薬を求めて徐福をジパング?につかわした秦の始皇帝のころから変わってない。大昔は、一握りの権力者の夢だったものが、今では万人の夢に……

なので、これは、発想が根本からオカシイ? まあ、身体の一部を失ったり、機能が悪くなったりした人が、その部分の「再生」を切に願うのは当然だと思います。しかし、失ったら、やっぱり失っただけの意味はあるんだと思う。キビシイ見方ですが……そこを見ていかないと意味がないのでは……なくなったものは再生すればいいって……プラナリアじゃないので、やっぱりそこは考えるべきところだと思います。植物なんかだと、「再生」というのは当たり前のことで、別にふしぎでもなんでもない。植物のあり方自体が、もう「再生」というか、連綿と続いて広がっていくようないのちのあり方なので……これが、動物になるとかなり様子が変わる。単純な動物だと「再生」はありえても、複雑になればなるほど難しい……これはなにを意味するか……

これは、おそらく「個」というものが関係しているんだと思います。要するに、動物は、「個」を得た代償として「再生」を失った。「再生」は、どこか「全体」に通じる雰囲気がある。切り離された「個」に対して、のべーっとどこまでもつながっていくような、そんな気分があります。だから、動物でも、「個」があんまり際立たない、単純な構造のものは、植物みたいな「再生」の気分が漂う。しかるに、「個」が際立ってくればくるほど「再生」も難しくなる……「個」を区分するのは、遺伝子レベルから身体全体の免疫構成に至るまで、いろんなメカニズムが働くのでしょうが、それが「必要」というのは、どういうことなのだろうか……なぜ、生物界は、「個」が薄くて、どこまでも広がる「植物」だけではいけないのでしょうか……考えさせられます。

進化・発生の系統としては、植物が先で動物が後……ということはないのかもしれませんが、なんとなく、「全体」みたいなものが先にあって、後に「個」が出てきた……みたいな感じだと、気分的に納得できるような印象……まあ、おそらく単細胞生物が多細胞になるときに、「動物界」と「植物界」が際立ってきたのでしょうが、それにしてもふしぎだ……生命の二つのかたち……これは、やっぱり「相補的」なのかもしれない。植物の特徴としては、多細胞になればなるほど「土地」への密着性が強くて、大地や海底を覆って、地球表面を生命の絨毯で埋めていく……これに対して、動物の方は、多細胞になればなるほど「個」としての独立性が強くなり、自分の身体の中に「ミニ大地」を取りこんで、惑星の上に「個の競演」をくりひろげる……

動物の「個」は、極端に際立つとロケットをつくって大地を離れ、宇宙にまで行ってしまうわけですが……その「役割」というのは一体なんだろう……私の思考は、いつもここで止まってしまいます。タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』では、宇宙の彼方の惑星ソラリスをめぐるステーションで、主人公のクリスがお弁当箱みたいな金属の箱に植物を育てていた……彼の思考とともに、ステーションには昔の恋人が現われ、ソラリスの大地には彼の実家とまわりの環境が造られます……お弁当箱の植物も実家のシーンもレムの原作SF小説にはなく、タルコフスキーの解釈であろうと思われますが、地球という遊星をどれだけ離れても人は地球の子であり、地球をいつまでもその身体のうちに持って、その精神もやはり地球から離れられない……

植物はその象徴なのかもしれません。家のまわりの樹々……豊かに流れる水の中には緑の水草が、バッハのBWV639コラールにのってゆらめく……人は、どこまでもこういうものを内にもちながら、「個」として際立って、宇宙のはてまで行こうとする……今回のスタップ細胞事件は、こういう人間の矛盾した欲望を如実に現わしたものみたいに思えます。「個」を保ちつつ、「全体」も手にいれたい……もし、アイピーエスやスタップで「不老不死」が実現したとすると、人は、自分というものを次々に「再生」させてどこまでも「個」を保つ。しかし、そうやって保たれる「個」の意味は、どこにあるんだろう……「死の恐怖」……そんな言葉が浮かんできます。ただ、「死」から逃れるためだけにそんなことをするんだったら無意味だ……

「個」を手に入れる代償として手放した「再生」を再び手に入れて、動物でも植物でもないものになろうとするのか……それは、なぜ、生命界が「動物」と「植物」に分かれているのか……そこをきちんと理解した上でないとやっちゃいけないことのような気がする……「原子核」の中に踏みこんだのと同じ誤りを、ここでもまた冒そうとしているような気がします……哲学の必要性……科学は、哲学から分かれ、哲学を切り捨てた時点で「無限進化の可能性」を獲得したように見えますが、捨てられたはずの哲学の残滓は、今も「生命倫理」というかたちで細々と生きている。でも、人間の複製とか「個」にもろにかかわってくる時点までは、それは「考えなくていい」領域として圏外に追いやられているようにみえる。はたしてそれでいいのだろうか……

哲学と科学技術の発展の不均衡は、それ自体ですでに「問題」であると思います。科学者は、自分のやっていることの「意味」を、「個」と「世界」の関係においてきちんと理解した上で、はじめて「研究」を進めることができる……やっぱりそういうところまで戻る必要があるのではないか……動物が不死性を獲得する……その唯一の形態が「がん細胞」であると言われますが、「がん細胞」は「なんにでもなる万能細胞」の対極にある「なんにもならない無能細胞」なんだろうか……これは、結局、細胞自身が「個」を主張しだした究極のかたちなんでしょう。人は「がん」を怖れるが、それは、自分という「個」の一部が反乱を起こして「自分」になるのを拒否する状況なんだけれど、がん細胞にとっては、それこそが「自分」という「個」の独立宣言だ……

人の意識は、やっぱりふしぎです。「個」であることは、どうしてもそれだけの「重み」を背負う。それは、人の意識にかかる「負荷」として、「個」と「世界」、「個」と「全体」の問題を考えさせる。私が私であることの意味……それは、いったいなんなのか……人が、「死の恐怖」からやみくもに「再生」を願う……それは、目覚めたばかりの「個」に特有の素朴な反応なのかもしれません。そして、そういう方向を盲目的な「善」とするところに、今回のスタップ細胞さわぎの根本的な原因があるのではないだろうか……「未熟な研究者」という言葉が何回も出てきましたが、そういう意味では、人類自体が未熟だ……まだ、ようやく「個」としての意識のはじまりに立っているということは、やっぱりあるんだと思います。

今日の essay:原子力について・その3

人間の科学技術は、結局、最終的には「自然への収奪」に行き着くのだと思います。昔、学校で習ったマルクス主義の考え方(マルクスの考えかどうかはわからない)では、人は、人から労働力を収奪するのですが、その最終的に行き着く先は習わなかった。それは結局「自然」であって、「収奪の連鎖」はそこで止まる。自然は自然から収奪するということはないから。

これは、なぜそうなんだろう……とふしぎだったし、今でもふしぎです。動物が他の動物を食べるというのは「収奪」ではないのだろうか……と考えると、これはどうも「収奪」とは言えない気がする。それはあくまで「自然」であって、「収奪」というえげつない言葉はそぐわないのだ……なぜ、人間の場合だけ「収奪」といえるのかというと、それは、やはり人間の「自己意識」のなせるワザかも。

自己意識

自己意識、ゼルプスト_ベヴスト_ザインというものは、まことにやっかいですね……自分自身を_知る_存在……自分と、自分のやっていることを反省的意識をもって見られる……ということは、結局「普遍」を知り、そこへ向かおうということにほかならない。昔見た『ベオウルフ』という映画では、デーン人の王がキリスト教に改宗した動機を、ベオウルフに語る。

「われわれの神は、酒と肴しか与えてくれなかった……」まあ、要するに日々の糧というか、毎日をきちんと生きて、そして子孫につなぐ……これを守ってくれる神……しかし、日々を生きて子孫を残すということは、これは動物でもやってることなので、それでは不満というか、そういう神さんではやっていけなくなった事情というものが発生してきたということでしょう。

では、キリスト教の神はなにを与えてくれるのか……といえば、それは、結局「普遍」、アルゲマイネということだと思います。ジェネラルスタンダードというのか……部族が小さいうちは部族の神でやっていけるんだけれど、生産力が向上して大勢の人をやしなっていける段階になると、そういう神では不足だと。まあ、生産力が向上するというのは、それだけたくさん自然から「収奪」できるようになった……

江戸っ子みたいに「宵越しの銭は持たねえ」という生き方ならいいんですが、「宵越しの銭」を蓄積して、未来の生活まで考えるということになると、一日単位でしか守ってくれない神では困る……ということなんでしょうね。また、自分とか家族とかじゃなくて社会的なつながりが広がってくると、いろんな人に共通の利益を調整する必要も出てくるのでしょうし……こりゃ、困ったもんだ……

ということで、砂漠の一神教と、古代ギリシアの、普遍を射程に入れられる哲学が融合してラテン語にのっかったキリスト教の神というのが、やっぱりいちばん使い勝手がいいんじゃなかろうかと……まあ、これは私の想像なんですが、そんな感じで、少なくともデーン人の王は受け入れたんじゃないかな……ということで、人間の自己意識が拡大するにつれて、「自然からの収奪」を意識化する神が導入された??

では、その「普遍化」はどこまでいくのかというと、それは「普遍」なので、むろん制限はない。人が考えられるすべて。宇宙のはてまでいってしまう……そして、この件にかんする「反省的意識」は、結局カントの『純粋理性批判』まで人は得ることができなかったのかもしれませんが……私は(すみません。突然私見です)、やっぱり「普遍化」の限界は「地球」だと思います。

人の思考は、ホントは「地球」で止まる。これは「普遍」の限界であって、人はそれを超えられない。なぜなら、人は、「地球のもの」でできているから……おととい、『ゼロ・グラヴィティ』という映画を見にいったんですが、それなんか、ホントにそんな感じでした。宇宙は黒くて寒い。地球は……宇宙から見る地球は、圧倒的な印象であると……人は、いくら意識が伸びても、やはり地球の一部だ……

gravity

拡大方向の限界は「地球」だと思うんですが、では、これがミクロ方向に行くと……その限界はやっぱり「原子」なんではないか……人は、原子で止まらなければならない。キリスト教の神は人に「智恵の樹の実」を食べることを禁じたけれど、それは、もしかしたら「地球」と「原子」という限界を超えるな!ということだったのかもしれない……私には、この二つの限界が、なぜか「同じもの」のように思えます。

人は……人の文化は、もしかしたら「幻影」の中にあるのかもしれません。人が、実質的に処理できる範囲は、やっぱりデーン人の王が言ってた「酒と肴を与えてくれる神」が統べる領域なのではないか……そして、そこを超えることを求める「普遍指向」は、結局、「地球」という限界、そしてもうひとつは「原子」という限界、これを超えることを人にうながし、誘い、実行させてしまう力……

私がこんなふうに思うのは、やっぱりこどもの頃の自分の経験もあります。こどもの頃、「原子力」と「宇宙旅行」にあこがれた。実際に、こどものための図鑑シリーズに『原子力・宇宙旅行』というのがあって、それはホントに象徴的なタイトルだったと今でも思うのですが……自分の範囲が無限に拡大していくような……それは「言葉の力」なんですが、なにものかを呼び覚ます「サイン」となって……

私は、やっぱりここがキモだと思います。人が、なぜあれほどの悲惨な事故を体験しても「原子力」を止めようとしないのか……「宇宙旅行」の方は、「原子力」にくらべるとまだロマンが残っている感じですが、でも、もう2001年もとっくにすぎているのにまだ月面基地もできていないし、木星探査のディスカヴァリー号に至っては、計画さえない?? やっぱり人には「宇宙」はムリなんじゃ……??

「技術」がきちんと「技術」として成立する範囲って、あると思うんですよね。そこを超えてしまうと、急に莫大な費用がかかるようになって、いくら費用をつぎこんでも思うような結果に至らない……人間の技術範囲を区画してしまうような山脈の壁……それは、あるところから勾配が急に立ち上がって、人の超えようとする試みをすべて挫折に導く……それが、「原子」と「宇宙」として、今、見えている。

やっぱ、これはムリなんじゃないかと思います。これまでの「技術思想」では。いままでうまくいってたから、そのまま延長していけば行けるんじゃないか……甘い。まあ、要するに、つぎ込む資金と労力が加速度的に増加して、どんだけがんばっても一ミリも進めない……どころか、後退を余儀なくされる場面というものがある。そして、それは「難所」じゃなくて、もう原理的に超えられない……

ということがわかってきたら、では、それはなぜ、そうなっているのか……ということを考えるべきだと思います。「普遍」の追求は、あくまで実体と分離してしまわないことを原則としてやらないと、いくら「普遍を得た」と思っても、それは内実のない空虚な、言葉と数式のカタマリにすぎなくなってしまう……人の文明は、もう、これまでのすべてを省みて、あらたな「方法」をさがすべき時期にきている。

私は、「原子力」の問題の核心は、やっぱりここだと思います。放射能とか汚染水とか言ってるけれど、根幹は、人間の技術思想の設定の仕方そのものにある。「原子」と「宇宙」は、どうやっても超えられないほど高い山脈となってそびえているけれど、じゃあその他の技術は……というと、やっぱり「超えた」と思っていても、必ず同様の欠陥がある。それは、人間の技術思想そのものの欠陥だから。

どこまで戻ればいいのでしょうか……「適正技術」ということがよく言われるけれど、それは、根本的な解決にはならないと私は思います。やっぱり徹底して戻るとするなら、人間の「自己意識」の問題にこそ戻るべき。そここそが、「普遍」が立ち現われる場所でもある……もうこれは、技術の問題というよりは完全に哲学の問題なんですが……そこからはじめないとダメだと思います。

今日の essay:原子力について・その2

原子力って、やっぱりヤだなあ……と思います。最近、私の住んでいる地方では、中電さんの異常に長いCM?が流されることがあって、そこでは、ほんとにひっそりと、それとなく、「原子力」を「ベース電源」と位置づけている。ああ……いよいよはじまったなあ……と思う。この国の崩壊……なぜ、人は、教訓を学ぼうとしないのか……

私は、原子力って、ぶきみで気持ち悪くてヤだなあ……と思うんですが、それを言っても、それは単なる「感じ」だとか「イメージ」にすぎないと言われる。まあ、要するに「現代科学の世界」に通用するリクツじゃないってことですね。「未開人」がダダをこねてるにすぎない……これまで、だいたい、反原発っていうと、そんな感じで見られてきた。

それで、反原発の方々もいろいろ勉強して、放射能のコワさだとか活断層とかいろいろ言うわけですが……それは相手も専門家なので、倍以上のリクツで返してくる。やたら数式を並べ立てて……そうなると、こっちは素人なのでやられてしまう。素人の感じるぶきみさとかコワさは数式にすることはできないので、やっぱり単なる感じでしょ? ということに。

でもね、自然は正直だなあと思います。専門家がどれだけ数式を並べようが、きっちり「事実」で返してくる。私たちが感じる「イメージ」にぴったり合った返答……新しい年になって、再稼働 → 推進と、流れは加速されていくのでしょうが、最後は自然が「答」を出してくれる。そして、その「答」は、われわれ全員が受けなければならない……

私は、ここに、人間の科学技術というものにかんする根本的な欠陥を見る気がします。まあ、科学技術というより、人間の考えること全般……なのかな。だいぶ昔のことですが、飛行機の設計をやってるという方のお話をきく機会がありました。その方は、そのころ、30代の半ばくらいで、ばりばりの現場技術者。私たちは素人で、その素人を前に自信たっぷり……

飛行機製作のもろもろを話される。で、話が終わって質疑応答の時間になったので、私はきいた。「飛行機の飛ぶ原理って、100%わかってるんですか?」すると、その方は、やっぱり自信たっぷりに「100%わかってます。」と答えられた。私は、「じゃあ、なぜ落ちるんですか?」ときこうかと思ったけれど、それはやめといたのですが……

飛行機の飛ぶ原理

結局、要はここだと思うんですね。100%! なぜ、そんなふうに思えるんだろう……その後、私は、いろんな技術者の方のお話をきく機会があったのですが、技術者の方ってみんなそんな感じでした。自分の分野については「絶対の自信」がある。迷ったり、自分を疑ったりしてる人はまず皆無。私なんかは迷いっぱなしなので、ホントにスゴイと思った。

それで、私は、感じたのですが……モノを作る人って、作るときに、その背景を疑ってはダメ。具体的な課題をかかげて、それをどういうふうに解決するか……それが解決されたら、こんどは次の課題に挑んでそれを解決する……これのくりかえしで進んでいく。課題は、極度に技術的な問題に絞られていて、その背景を考えることはしない。これが鉄則。

おそらく、原子力も、こんな風にして開発されてきたんでしょう。具体的な技術的課題を掲げてそれを解決する。放射能がイカンのであれば、それを封じる。ホントはなくせばいいのかもしれないけれど、それは現時点では「具体的な技術的課題」に分解することができないので、とりあえず実現可能な「いかにして封じこめるか」という課題を掲げてそれを解決する……

私は、ここで、原子力技術者と、原子核物理や素粒子論の方々との根本的な違いを見る気がします。原子核や素粒子の「理論」を研究している人たちは、やっぱり、古来から連綿として受け継がれてきた「物質の根本はなにか?」とか「この世界はどういうふうにできているのか?」という大きな課題に、なんとかアプローチしたいという意識が強い。これに対してゲンパツ技術者は……

やっぱり、いかにしたら原子から、効率的に、安全に、しかも経済的にエネルギーを得ることができるか……ということしか考えないわけです。この差は大きい……というか、なんか、これって、おんなじ人間の考えることなの???という気さえしますが……種として、はたして同一物なのか……地球の外から見たら、おんなじ知的生命体なんだけど、彼らは別種ではなかろうか……

私は、やっぱり、原子力は、もしやりたいなら、素粒子論の人たちが追求している課題が「100%」解決されてからにするべきだと思います。要するに、「物質の根元」や「世界の成り立ち」が、これ以上微塵も疑問の出ない「完全にわかった」地点までいって、はじめて「それを使う」ことができるのではないか……それまでは、どこまでいっても「魔法」と変わらない。

テクノロジーは進化すれば魔法とみわけがつかなくなる……と言ったのは、SF作家のA・C・クラークさんですが、それより以前に、テクノロジーは、結局「魔法」と同一の場所にいたということですね。ただ、「魔法」の場合にはなんらかのかたちで「世界観」というものがあるけれど、テクノロジーはそれを切り離した。あやふやなモンとは縁を切る!ってことで。

クラーク

だから、テクノロジーは、ある面では、魔法の「退化形態」であるともいえる。常に足を引っ張ってきた「世界観の問題」は別の人に考えてもらうということにして、自分たちは、「課題の発見」から「課題の解決」までをきめ細かく分解して、一個一個を単純な技術的課題に還元して、それを積み重ねて一つの技術手段を実現することに専念すると……

まあ、明治から昭和のはじめころまでは、技術系の人でもカントとかデカルトとか読んでないと恥ずかしい……みたいな雰囲気もあったと思うんですが、今はそれも皆無。世界観との分離独立を完璧に果たしたテクノロジーの世界は、重しがとれてどこまでも宙に舞いあがることができる……ただし、彼らが切り離してしまったのは、大地、この世界の声でもある……

自然がきっちり答を出す、というのは、そういうことであると思います。そして、もうすでにバックするのには遅すぎる。分岐点を知らない間に過ぎてしまったテクノロジーの世界は、架空の世界観に酔ってどこまでも虚無の空へと上昇する……そこに、すべての人々の運命を道づれにして。これって、悲劇なんだけど、どこか喜劇的でもある。オソロシイ喜劇……