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金(かね)の環_01/Ring of Money, Ring of Gold_01

フランシスコ_900

「金(かね)の環」のことは、前にも少し書きました。真っ黒の宇宙空間に、金色のドーナツのようなリングがヒイィーンと回転している……近づいて見ると、そのリングの中には、いろいろな人、いろいろなものが……それらすべてが、巨大な渦になって、やむことのない回転を続けています……「金(かね)の環」……人の世を支配するお金の、これが、正体だったのか……

このカネの環の周囲はぼやけて、真っ黒の宇宙空間に溶けこんでいます。この周辺領域が、「自然からの収奪」がまさに行われている現場……ここにいる人たちは、あと一歩で「自然」に呑みこまれそうになりながらも、必死になって自らを黄金色に輝かせようとしてもがいている。「自然」から多くを収奪すればするほど、その黄金色は強くなり、彼は、カネの環の中心方向に移動できる……自然に呑みこまれて消えてしまう恐怖から、少なくとも少し遠ざかることができる……

こんなふうにして、人は、カネの環の中心方向へ移ろうとして、あせり、もがき苦しみ、そのためにすべてを犠牲にする……で、その中心への移行に成功した人の黄金色の輝きはどんどん強くなり、彼は、まわりから金色の光を奪い取り、ますます強く光り輝く……逆に、金色の光を取られた人はくすみ、カネの環の辺縁へと追いやられ……自然からの収奪の最前線で、あわや自然へと落ちそうになりながらも、なんとか再度、カネの環の中心に移ろうともがく……

失敗すれば死……死は、すなわち「自然への回帰」なので、彼の姿は急速に薄れ、暗黒の空間にすうっと呑みこまれてしまう……首尾よくカネの環の中心に移れた人も、やっぱりこの運命は免れません。いくらその光が強くなっても……あるとき、フッと、光が薄れ……そのまま、暗黒の宇宙空間に呑みこまれてしまう(肉体死)……カネの環。それは、人の存在証明なのか……人が、暗黒の宇宙空間、つまり「自然」からみずからを「際立たせる」そのためにまとう、金色の光……

なぜ、人の世にだけ、この金の環があるのだろう……これはふしぎです。おそらく、これは、人の意識と切り離せない関係にあると思う。人は、自分を、暗黒の宇宙の中に自分として意識するとき、必ずこの「金の環」に参入して、自分を金色の光に染めていくことが必要になってくるのではないか……人の意識は言葉によって成り立つから、人の言葉は、実はこの「金の環」と不可分なのかもしれない……それにしてもやっかいなものです。金の環は、人に、「もがくこと」を要求する。

それは、人が、なぜか、暗黒の無の空間にとらわれ、とけこむのを嫌がるからなのでしょう……それは、自然への回帰なのだけれど、人にはそれが「死」と映る。動物においての、あるいは植物とかの「死」は、この「金の環」が関係しないので、彼らには、「自然への回帰」とか「暗黒に呑みこまれる」という意識はもともとないのでしょう……私は、いつごろ、「お金」を意識するようになったのか……いつごろ、「金の環」の黄金の光を知ることになったのか……そして、それはおそらく、自分の人生における最初の「意識的な苦しみ」であったはず……

金の環との縁は、人間の場合、必ず死ぬまで続く。それは、人間が人間である証のようなもの……そして、それは、本来「苦」です。なぜなら、「金の環」に一旦入ってしまうと、人は、必ず「中心へ向かう」ことを強いられるから。「中心へ向かう」努力を放棄するということは、それは、「収奪の連鎖」の中で、たちまち辺縁に追いやられ、「金の環」が暗黒に溶けこむあたりで、「人の世」から放逐されることを意味する。そういう存在の仕方しか許さないのが「金の環」の本質……

考えてみればオソロシイ話ですが……人が人である限り、この「金の環」は、いつまでも、どこまでも存在し続けるのでしょう……意識の牢獄であり、まぼろしそのものなんだけれど、生きてる人間全員の意識が、この金の環の強固な存在理由となっている……すべてのものに値段がつき、値段のつかないものは棄てられて暗黒に還る……人が人である限り、この存在の仕方が変わることはない。これを変えようとする努力も、たちまち金の環の無限の力に呑みこまれて金色に輝きはじめる……

オソロシイ……

今日の essay:19世紀という病・1

19世紀という病が、広くこの星をおおっている。

燃えあがる巨大なビル……壮麗で、しかも機能的で、人が暮らし、日々を楽しむためのさまざまな設備がはりめぐらされた膨大な建築……それは、日々、増築を重ね、世界をのみこむ……しかし、新しく建てられた部分にもすぐに火の手がのび、炎に包まれて無惨に焼尽される……この、建設と火災の連鎖が、やむことなく世界をおおっていく……。

この病がはじまったのは、やはりヨーロッパ……大バッハの死の年、1750年が一つのピリオドとなるのではないか……私たちがこどものころ、中学校の音楽教室には、作曲家の肖像がずらりと掲げてあった。音楽の父、大バッハと音楽の母、ヘンデルからはじまり、モーツァルト、ベートーヴェンを経てワグナー、ブラームス、そしてストラヴィンスキーあたりまで……

そう、これが、もろに「19世紀」なのだ。拡大版19世紀。それは、1750年からはじまって、20世紀の半ばあたりまで続いた。いや、それは、地域を変えて伝染し、今なお終息の気配もみえない。ヨーロッパは昔日の力を失ったが、アメリカで拡大され、アジアに移る。今ちょうど、朝鮮半島から中国大陸が、19世紀という病に呑みこまれかけている……

19世紀•

19世紀の特徴。それは、人間中心主義ということかもしれない。人が紡ぎだすさまざまな物語。それは、常に拡大する。楽器。かつては人の手の中にあった楽器が、音量の拡大を求め、それは巨大なホールを生んだ。数千人収容のホールの隅々まで届く音量。ヴァイオリンの弦はガットから金属になり、木製のフレームが棄てられて鋼鉄製のフレームが登場……

ピアノフォルテ。それは、20トンもの張力に耐えうる鋼鉄製のフレームを必要とする。その鋼鉄技術は戦艦を生み、戦車を生み、世界を破壊し、生命を根絶やしにする。そして原子力。19世紀の末に誕生した原子の内部に踏みこむ人の力は、とてつもない怪物を生む。原子爆弾とゲンパツ。この二つは、19世紀が生んだ悪魔の双生児。人類に引導を渡すもの……

ピッチインフレ。415ヘルツが440ヘルツになる。人は、緊張の成長を強いられ、人の文明がすべてを呑みこんでゆく。19世紀……それは、まだ終わっていない。人は、19世紀の意味を知るまでは、新しい時代を拓くことができない。民主主義……しかし、それは、人間のことしか考えていない。19世紀は、人にのみ価値を置く時代。すべては人のためにある……

金の輪が支配する世紀。人は、自然から当然のように収奪を続ける。経済の成長の最後のポンプは、自然の中にさしこまれ、間断なく吸いあげ続ける。そして、要らなくなったものを吐き出し続ける。すべては人の、くだらない欲望のために……人の目は宇宙に向けられ、そこも、新たな「資源」の場として……鷹の目の人の奢り……どこまで続くか……

人類は、やはり19世紀を卒業すべきだと思う。そのためにはどうしたらいいのか……右肩上がりの神話をやめてみるのか……金の輪の意味を考えてみるのか……中学校の音楽室に掲げられていた作曲家たちの肖像が、なぜあのメンバーなのか……それを考えてみるのか……そして、ゲンパツと宇宙開発の意味、それを問い直してみるべきなのだろうか……

すべての答は、結局、自然が出してくれるのかもしれない。人が、人自身の文明に対する答を出しきれない以上、自然が出してくれるのを待つしかないのか……ナサケナイ。もろに19世紀の遺物である「オリンピック」をぶらさげられて理性も飛び、「フロイデ……」と歌って、なにか理想を達成したような気分になる……どういうことだろう……

まあ、やっぱり、自然が究極の答を出してくれるのでしょう。ホント、ナサケナイ話ですけど……。