「金(かね)の環」のことは、前にも少し書きました。真っ黒の宇宙空間に、金色のドーナツのようなリングがヒイィーンと回転している……近づいて見ると、そのリングの中には、いろいろな人、いろいろなものが……それらすべてが、巨大な渦になって、やむことのない回転を続けています……「金(かね)の環」……人の世を支配するお金の、これが、正体だったのか……
このカネの環の周囲はぼやけて、真っ黒の宇宙空間に溶けこんでいます。この周辺領域が、「自然からの収奪」がまさに行われている現場……ここにいる人たちは、あと一歩で「自然」に呑みこまれそうになりながらも、必死になって自らを黄金色に輝かせようとしてもがいている。「自然」から多くを収奪すればするほど、その黄金色は強くなり、彼は、カネの環の中心方向に移動できる……自然に呑みこまれて消えてしまう恐怖から、少なくとも少し遠ざかることができる……
こんなふうにして、人は、カネの環の中心方向へ移ろうとして、あせり、もがき苦しみ、そのためにすべてを犠牲にする……で、その中心への移行に成功した人の黄金色の輝きはどんどん強くなり、彼は、まわりから金色の光を奪い取り、ますます強く光り輝く……逆に、金色の光を取られた人はくすみ、カネの環の辺縁へと追いやられ……自然からの収奪の最前線で、あわや自然へと落ちそうになりながらも、なんとか再度、カネの環の中心に移ろうともがく……
失敗すれば死……死は、すなわち「自然への回帰」なので、彼の姿は急速に薄れ、暗黒の空間にすうっと呑みこまれてしまう……首尾よくカネの環の中心に移れた人も、やっぱりこの運命は免れません。いくらその光が強くなっても……あるとき、フッと、光が薄れ……そのまま、暗黒の宇宙空間に呑みこまれてしまう(肉体死)……カネの環。それは、人の存在証明なのか……人が、暗黒の宇宙空間、つまり「自然」からみずからを「際立たせる」そのためにまとう、金色の光……
なぜ、人の世にだけ、この金の環があるのだろう……これはふしぎです。おそらく、これは、人の意識と切り離せない関係にあると思う。人は、自分を、暗黒の宇宙の中に自分として意識するとき、必ずこの「金の環」に参入して、自分を金色の光に染めていくことが必要になってくるのではないか……人の意識は言葉によって成り立つから、人の言葉は、実はこの「金の環」と不可分なのかもしれない……それにしてもやっかいなものです。金の環は、人に、「もがくこと」を要求する。
それは、人が、なぜか、暗黒の無の空間にとらわれ、とけこむのを嫌がるからなのでしょう……それは、自然への回帰なのだけれど、人にはそれが「死」と映る。動物においての、あるいは植物とかの「死」は、この「金の環」が関係しないので、彼らには、「自然への回帰」とか「暗黒に呑みこまれる」という意識はもともとないのでしょう……私は、いつごろ、「お金」を意識するようになったのか……いつごろ、「金の環」の黄金の光を知ることになったのか……そして、それはおそらく、自分の人生における最初の「意識的な苦しみ」であったはず……
金の環との縁は、人間の場合、必ず死ぬまで続く。それは、人間が人間である証のようなもの……そして、それは、本来「苦」です。なぜなら、「金の環」に一旦入ってしまうと、人は、必ず「中心へ向かう」ことを強いられるから。「中心へ向かう」努力を放棄するということは、それは、「収奪の連鎖」の中で、たちまち辺縁に追いやられ、「金の環」が暗黒に溶けこむあたりで、「人の世」から放逐されることを意味する。そういう存在の仕方しか許さないのが「金の環」の本質……
考えてみればオソロシイ話ですが……人が人である限り、この「金の環」は、いつまでも、どこまでも存在し続けるのでしょう……意識の牢獄であり、まぼろしそのものなんだけれど、生きてる人間全員の意識が、この金の環の強固な存在理由となっている……すべてのものに値段がつき、値段のつかないものは棄てられて暗黒に還る……人が人である限り、この存在の仕方が変わることはない。これを変えようとする努力も、たちまち金の環の無限の力に呑みこまれて金色に輝きはじめる……
オソロシイ……