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今日のessay :普遍を求めて・その3/About Universality – 03

Quidditas_Haecceitas_600

八木雄二さんの『中世哲学への招待』(平凡社新書)。これは、小さい本ですが、まことにおもしろかった。これまでいろいろ疑問に思っていたことの答がきわめて簡潔に、適確に書かれていて……200ページちょっとですが、なんか、けっこうぶ厚い本を一冊読んだ感じ……こんな感覚を味わったのは、ほんと、久しぶりだなあ……この本は、ヨーロッパ中世の哲学者(神学者というべき?)ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスについて書かれた本なんですが、ヨーロッパ中世哲学の概観にもなり、さらに、なぜ、日本人である著者が、中世スコラ哲学という、一見かなりかけ離れた分野の探求に至ったかという必然性も書かれていて、これ、現代日本のいろんな問題にも直結する、けっこう「今の日本と日本人」にもだいじな本かな……と感じました。

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス……この名前、ヨーロッパの哲学者の中でもかなりマイナーな……でも、実は、けっこう重要な位置にいた人みたいです。私は、以前から、クィディタス(Quidditas:通性原理)とハエッケイタス(Haecceitas:個性原理)というものに興味を持っていて、個展のタイトルとしても使わせてもらったりしたんですが……この、なにやら舌を噛みそうな言葉、いや、概念について、画期的な考え方をもたらしたのが、このヨハネスさん……うーん、なるほど……これは、もう、今はやりの?「精神世界」にも通じる……というと、「じゃあ、うさんくさいんのでは?」と思われる方もみえるかもしれませんが、ふんわりやわらかムードの「考えることより感じることが大切」じゃなくて、もうガチガチのハードな論理展開……なんだけれど、柔軟性と新鮮さをいつも失わない。スゴイ人が、700年も前にいたのだ……

「普遍」は「個」を規定する……これがフツーの考え方だと思うのですが、それでは、この世界はできない。「個性原理」すなわち、「個」を「個」たらしめることは、通常の「普遍」−「個」の対応関係の中からはけっして出てこないのではないか……私は、そんなふうに受けとりました。「個」は「個」であるからこそ、「個」たりえるんだと。これは、もしかしたらかなり斬新な考え方なのかもしれません。「自由意志」の問題とも深い関係がある……八木先生の本からちょっと引用させてもらいますと……『ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスは、個別化の原理を、質料ではなく、形相の側にあると考えられた実在性(「形相性」folmalitasという)に求めた。言い方を替えれば、現実態の側に置いた。つまり、受容的可能性の側でなく、「これ」として事物を積極的に規定する構成要素を、個別化の原理として主張したのである。』

だいじなところなので、もう少し引用を続けます。『しいていえば、ヨハネスは個物の個別性にきわめて強い意義をもたらした、ということが言える。個別性の起源をトマスのように質料に置いて考えると、個物が「一つ一つのかたちで在る」ことには大した意義はないと考えられた。すなわち、ものがる時間ある場所にどれだけあるかが当時はまったく偶然的であると見られたように、どのなかの一個の事物も、偶然的な一個でしかなく、重要なのはそれがいったい「何であるか」、すなわちどのような種に属する個体かだ、と考えられた。』『これに対して個別性の起源を形相(現実態)の側に置くと、それが「何であるか」ということも重要であるが、さらにそれよりも、「一つ一つのかたちで在る」ことが、いっそう意義があると見なされることになる。どういう意義かと言えば、一個一個が神の創造の対象となる、あるいは、神の愛の対象となる、という意義である。』

これは、もしかしたら、今でも「革命的」なものの見方かもしれない……私がうまく理解できているかはわからないのですが……たとえば、先に書いてきた音律の問題なんかにこれを当てはめると……今、目の前にある楽器、ピアノでもギターでもいいんですが、それをポローンと鳴らした場合、そこに出現するのは「個」としての音です。で、この「個音」が、たとえば平均律であるとか純正律であるとか……なんらかの一連の音程の中のある音がたまたま鳴らされたと考えるのか……それとも、今、ここに、この「音」が鳴った……そこに、音律とか関係なく一つの「意味」を認めるのか……そういう違いになると思う。言葉で書くと、なんだかわかりにくいんですが(どっちでもいいようにも思えますが)、これ、音楽を演奏する人にとっては、けっこう重大な問題だと思う。というのは、音楽をやる場合、人は、「音律の中のある音を奏でる」というふうには、ふつう考えないと思うから。今、ここに鳴った音は、やっぱりそれだけで、だいじな「意味」を持っている……

ここらへん、「普遍」と「個」において、人が陥りがちなある「考えのワナ」をみごとに指摘してると思うんですよね。音楽を奏でたり聴いたりするとき、人は、フツーは音律のことなど考えず、そこに奏でられる「音楽」に意味を見いだす。ところが、「普遍」と絡めて考えはじめると、そこには「音律」や「和声」の問題が出てきて、現実に鳴ってる音楽が、あたかも、そういう「普遍的な」ものから出てくるように錯覚する。だけど、実際には、そこにある「音楽」がすべて……というか、そこにあるもの以上の「意味」を考えはじめると、人は、かえって、そこにそのままあるものの「存在」を見失ってしまう……これは、絵の方でも同じで、人は、構図や配色や遠近法によって絵を描くのではなく、そこに、そのように存在するように描いていくわけで……これは、人間のアタマの中に生まれてしまう錯覚を鋭く突いた明察……この論が行われていたのが、なんと13世紀……中世って、暗黒でもなんでもなかったんですね。いまでもみずみずしい……

インターネットで音律のことをいろいろ検索してみると、もう山のようにいろんな情報が出てくるのですが……音律と、実際に奏でられる音楽の関係をきちんと押えたものは意外に少ない。すなわち「個」としての音楽の出現の方を重視したものが少なく、多くの論が、音律の複雑な分析に足を取られている……そういう風に感じます。その中で、じゃあ、実際に、オーケストラやバンドで演奏される曲が、なぜ違和感なく響くのか……ということを論じていたサイトがありました。要するに、音楽は、音律で鳴ってるのではなくて、実際には、コレコレという人が、歌ったり、なんか特定の楽器を吹いたり弾いたりして、その「音楽」が鳴る……人の歌声も楽器の音も、単純なサインカーブでできてるんではなく、複雑な倍音を含んでいるし、声も楽器も、演奏の仕方によっては、音程の上げ下げとか微妙にできる。それができないピアノみたいな楽器でも、音量やタッチや声部の入りをちょっとずらすとか……要するに、実際の演奏は実際の演奏なんだと。

つまり……理論的には、平均律だとどの和音も狂ってるとか純正調だと音程がバラバラとか……そういう「欠陥」を、機械がやればそのまま演奏するのかもしれないけれど(しかも、それでも「現実に出現した音」ではあるが)、人が演奏するのは「その曲」なので、パフォーマンスでいろんな欠陥を吸収しつつ、ちゃんとその「曲」を演奏するのだと……そして、もしかしたら、このことは、ヨハネスさんに言わせると、人の「意志」にかかわってるのかもしれないです。自由意志……それは、「自由」であるがゆえに「自由意志」なんだと。これは、今では当たり前みたいに思われることかもしれませんが、時代は13世紀……よくこんな、斬新な考え方ができたもんだなあ……でも、音楽でいっても、12世紀ころから、「ソレ以外に歌い方がなかった」教会音楽を、ポリフォニーにしてさまざまに展開するワザがはじまってますし……「12世紀ルネサンス」といいますが、この時代、なかなか、いろいろ新しいことが生まれてきてたんですね……

「ボクは、絶対音感があるから、耳が聴こえなくても作曲できる。」シツコクこの言葉に戻りますと……この言葉は、まさに「絶対音感」という「平均律に裏打ちされた普遍」をタテにして、その「下」に「個としての音楽」をぶら下げて「どーだ!スゲエだろう」という欺瞞……で、現代の日本の人々は、これにコロコロッとごまかされて「スゲエ!」……ヨハネスさんが、もう700年も前に打ち砕いた「錯覚」でだます方もだます方だが、だまされる方も……やっぱり、ことに音楽の世界では、「絶対音感」なるオーラは、まさに「絶対」。このオーラがかぶってれば、いかなる曲も超名曲に……ということは、聴く方は、「曲」を聴いてなくて、アタマの中のオーラ、つまり「普遍」を聴いてる……まあ、日本における「クラシック」の受容なんて、そんなもんかもしれません。やっぱり「19世紀ヨーロッパオーラ」ってすごいなあ……ホントに作曲した方にすれば、一種の「アソビ」というか「息抜き」だったかもしれませんが、それが「芸術」に……

この事件は、日本において、いかに「日本耳」が淘汰されつくし、絶滅の一歩手前にあるか……そのことを、よく示していると思います。で、この「絶滅」が、音楽の価値そのものによってなされた(つつある)んじゃなくて、そのまわりのさまざまなニセオーラ……まあ、19世紀ヨーロッパに対する根拠のない?あこがれやなんやかや……から醸成されてきたものであるのもまことにナサケナイんですが、人間の文化なんて、いつでもそんなモンかもしれません。ヨハネスさんの頃も今も、そういった事情はあんまり変わりないのでは……だから、ヨハネスさんの言葉が新鮮に響く……八木先生によりますと、ヨハネスさんの故郷のヨーロッパでも事情はよく似ているみたいで、ヨハネスさんの本格的な研究もようやく始まったばかりだそうです。まあ、「中世」に「暗黒」のレッテルをはって処理しちゃったのが、実は、今になって、現代のわれわれの直面しているさまざまな問題の根っこがそこにあったんではないかと……「中世=暗黒」を直輸入しちゃった日本はもっとヒサン……

ということで、「普遍」をめぐるお話もとりあえずひとくぎりなんですが……最後に、フランク・ハーバートの大河SF『デューン』のことを……この作品、読まれた方も多いと思うのですが、最初の方で主人公になってるポウル・アトレイデ・ムアッディブ……彼は、「クイサッツ・ハデラッハ」という特別の存在でした。……いや、最初からそうじゃなくて、物語の中でそういうタイヘンな方になるんですが……これがなんと、「個でありながら普遍である」というモノスゴイ存在……うーん、どうしても、ヨハネスさんの「クィディタス・ハエッケイタス」を思い出してしまいます。「クイサッツ・ハデラッハ」は、原語では Kwisatz Haderach と書くようです。Quidditas Haecceitas と関連があるのかどうか……それはわかりませんが、『デューン』は、全体として、ヨーロッパ中世とアラビアが出会ったみたいなイメージがあって、それが、ヨハネスさんが活躍していたころの中世ヨーロッパのふんいき……アラビア経由でギリシア哲学がもちこまれたときの状況にそっくり……

といっても、私は、中世ヨーロッパには行ったことがないし、まして『デューン』の惑星アラキスにも……ということで、まったくの妄想にすぎないのですが、世の中、ふしぎなことがいっぱいあります……つづきはまた改めて。

今日のessay :普遍を求めて・その2/About Universality – 02

ゴシック期の音楽900C

「3度の卓越」ということでもう一つ連想するのは、ミーントーン(中全音律)という調律法のことです。これは、ルネサンス時代から登場する調律法だそうで、長3度を純正にするという点に特徴があるそうな。以前、小林道夫さんがバッハの『パルティータ』の全曲演奏をされるというので聴きにいったんですが、演奏後、質疑応答の時間が設けられたので、今日の調律法は?ときいてみました。するとお答は「ミーントーンです。」ミーントーンは、♯3個、あるいは♭2個の調までしか使えないとされている調律法なんですが……

バッハの『パルティータ』を構成する6曲の調をそれぞれ調べてみますと……第1番/変ロ長調(♭2個)、第2番/ハ短調(♭3個)、第3番/イ短調(♯♭なし)、第4番/二長調(♯2個)、第5番/ト長調(♯1個)、第6番/ホ短調(♯1個)となっていて、第2番以外はこの基準に当てはまります……ということは、ここからいうと、バッハは、このミーントーンを念頭にこの組曲を書いたんでしょうか……それはわかりませんが、バッハの時代にも、この調律法が広く用いられていたことは想像できます。純正長3度へのこだわり……

そのかわり、このミーントーンでは、5度が純正にならないそうです。本来、かなり重要なはずの5度の響きを犠牲にしても長3度を純正に響かせたい……そこには、一体どういうモチベーションがあったのだろうか……ピアノ調律師の岡本芳雄さんという方のサイトを見ると、次のような興味深いことが書いてありました。ちょっと引用させていただきますと……『ピタゴラス音律で生じる「唸りの多い長三度」の和音は、当時の人々には「不協和音と感じられたであろう」と言われています。一方、自然倍音に由来する純正長三度の和音は厳格などっしりした響きで、祈りを象徴する和音とも考えられます。』
http://pianotuning.jp/?page_id=691

なるほど……唸りのない長3度は「祈り」だったのか……ところが、いろいろ調べてみますと、純正長3度の和音は、イギリスから来たみたいなことが書いてあるサイトも多い。中世の教会音楽、まあグレゴリオ聖歌ですが、あれはやっぱりピタゴラス音律で、5度は純正になるけれど、3度は不協和音。これは、岡本さんの書いておられるとおり。ところが、ルネサンス時代に、イギリス発で、3度と6度を「協和音」とする考え方が大陸にも流れこみ、イタリア中心で大流行したといいます。先に、3度の重視は12世紀ノートルダム楽派から?と書きましたが、大陸にかんするかぎり、もう2世紀くらい遅かったようで。

それにしても、今回いろいろ調べて、私自身の耳が、もうすでに完全に学校の西洋音楽教育に侵されてしまっているのにあらためて驚いた。3度と6度が不協和音! これ、絶対に、今の人の耳じゃない……ドとミ、ドとラですが……ちゃんと、ここちよく響きます。でも、ヨーロッパの中世の人の耳には、これが不協和音で、悪魔の響きみたいにきこえたんですね。想像できないけど……まあ、その時代の音楽が、3度と6度が不快なうなりを生じるピタゴラス音律でできていたということもあるとは思うのですが……で、イギリス渡来のミーントーンで、とくに3度が純正に協和するようになって、新しい世界が開けた……

現代のわれわれからすると、中世の平行5度のオルガヌムなんかは、ちょっと不気味というといいすぎですが、「なにがあったんですか?」といいたくなるような壮絶気味の響きに聴こえるんですが……ピタゴラス音階の純正5度の和音は、ハ長調でいうとドの鍵盤とソの鍵盤を一緒に押したときに出る音なので、これだけではハ長調なのかハ短調なのかがわからない。つまり、長調なのか短調なのか、耳も脳も聞き分けることができないところから、得体の知れない不安感が漂う……ベートヴェンの第9交響曲の冒頭が、この「空虚5度」を使ってるので有名みたいですが、たしかに暗闇をさまよってるみたいな不安感があります。

空虚5度

しかし……これが、実は、ルネサンス以来の3度を卓越させた「ヨーロッパの音階」に馴れた耳のせいであるとは……「ヨーロッパ音楽教育」を受けていない人の耳には、われわれとは全然違うように聴こえるはず……むろん、ヨーロッパ中世の人も含めてですが、そもそも「長調」とか「短調」とか知らなければ、そのどっちでもない和音が「いったいどっちなんだろう……」という不安を与えることは考えにくい。ので、これはおそらく、心地よい響き……というか、なんか、神を想像させるような響きとして聴こえたんでしょうか……私のイメージでは、ゴシック彫刻なんかの、あの、ちょっと非人間的な感じとよく似ているような……

そうしてみると、3度を卓越させて「長調」(喜び)と「短調」(哀しみ)を形成していくヨーロッパの音律の進化過程は、なんか「人間的なものを求めて」という感じも受けます……で、ここで思い出すのが、わが国における能と狂言の展開なんですが……14世紀室町時代に成立した能と狂言は、まさにヨーロッパで3度が重視されて長調と短調が形成されてきた過程とパラレルに感じます。というと、かなりヒヤクしてるなあ……と思われる方も多いと思いますが……実は私も、書いててヒヤクだなあ……と思うんですが、でも、世界を、2つの範疇で理解していくという試みとしては、やっぱりすごく共通点を感じます。なにか、ここで、洋の東西共通して、「世界を人の側に取っていく」……みたいな動きが出てきたような……

それはともかく、現代のわれわれの耳が、ルネサンス期のヨーロッパで形成されてきた「長調」、「短調」の範疇からなお形成されているというのも、やっぱり驚きですね。ロックみたいな「新しい」音楽でも、「パワーコード」といって、空虚5度を効果的に使う方法があるらしい……今はもう、世界中にラジオやテレビやインターネットがあふれて、「ヨーロッパ基準の音楽」が世界標準になりつつあるので、世界中の人々の耳が「ヨーロッパ耳」になりつつあるんでしょう。おそらく、「ヨーロッパ耳」に関係ない耳の持ち主をさがすことは困難……で、この困難は、年々増大しつつある……昔の日本人の耳って、どんなだったんか……まだ、今ならそういう人もおられるのかもしれませんが、あと少しで絶滅……

耳の絶滅は、あんまり表立って現われないので、すごくわかりにくくて、知らない間に、世界の各地で「オリジナル耳」が消えてなくなっていく……これは、考えようによっては爆弾とかよりコワい話なのかもしれません。なんせ、無くなっていくということさえよくわからないうちに消えていってしまうのだから……「普遍」というものは、「例外」がなくなったときに完成するものなのかもしれませんが……すると、音律というか「オリジナル耳」にかんする限りは、「普遍」は一歩一歩、実現しつつあるのかもしれません。で、それが完成したときには、もはや完成したことさえわからない。なぜなら、「対立物」が完全消滅しているから……オソロシイ……

しかし……「普遍」の完全な完成をはばむもの……それもまた、世界と人のかかわりの中にある……オクターブの中に5度を取り、それを12回くりかえすと、元のオクターブをわずかにズレてしまう……ピタゴラス・コンマ。約4分の1音のズレは、耳で聴いてもはっきりわかるくらいです。このズレが、「完全な調律」つまり「普遍」をはばむ。これは、なぜ一年がきっちり360日になってないのか……これと似た問題だというとあきれられるかもしれませんが……一年が360日であれば、地球は太陽のまわりを一日できっちり1度動きます。1月はきっちり30日になり、1日は完全に24時間になる。これが、神の造られた「完全な姿」か……ここに、「普遍」は、それ以外にない完全さで実現される。

要するに、「普遍」というものは、やっぱりイデアの世界なのかもしれません。イデアの世界では、オクターブの中に12回くりかえして5度を取れば、それはきちんと元の音に戻るのでしょう。世界の響きのすべては簡潔な倍音で構成され、濁りや雑味、唸りのような「不快な存在」は現われなくなる。これが、ヨーロッパの求めた「究極の普遍の姿」なのか……しかし、それはまた、「完全な死」でもある。なぜなら、もうそこには「規格外」のものはなにも発生しないから。確率論が成立しなくなり、物体の位置と速度は両方とも完全に決定される。過去も未来も完全に連鎖して、ものごとはシュミレーションと完全に一致して発生する。そこには、ホントの意味での「進歩」というものがもはや存在しない「死の天国」……

パースの語る、世界の最終の姿なのかもしれません。今の世界は、雑味と不確定だらけで、人々は不安にさいなまれて生き、そして死んでいかなければならない。病気も苦労もなく、ただ幸いのみがある世界……「普遍」の彼方にはそういうものがあるのかもしれませんが、それは、もしかしたら今の不安だらけの世界とは段違いにオソロシイ世界かもしれない……しかし、人の「普遍」を希求する心がなくなることはないでしょう。たしかに「普遍」は、目先の生活を多少は良くしてくれるものかもしれない。しかし、それは、この世界にある「普遍」である以上、みせかけであって、どこかでその「代償」が払われている。それは……あのオソロシイ「核の事故」になって……いや、さらにさらにオソロシイ姿となって……

これはもう、一種の「感覚」の問題だと思う。「ボクは絶対音感があるから耳が聴こえなくても作曲できる」と言った方がおられましたが、こういう「神話」にコロリと騙されて「すごいなあ……」と思ってしまう……その心の中には、やはり「普遍」にはイチコロで参ってしまう、なんというか素朴すぎる心情があるんだと思います。絶対音感持ちは、なんか「普遍」の体現者、つまり「神」のように見えてしまうかもしれないけれど、そこには、必ずなにか、どっかの部分で大きく失われてしまっているものがあるはずです。ということは、つまりは、一種の「バランス感覚」なんだろうか……この世界において、「普遍」に見えるものが実は内包している、裏腹のうさんくささ……そこに、われわれは気がつかず……

結局、人の歴史って、こういうことの繰り返しなのかもしれません。より大なる「普遍」は、より大なる「代償」を伴う。一見「進歩」に見えても、裏側で大きく崩れているところがあって、結局はプラマイゼロ。うーん……そうすると、つまり、「進歩」はないってことなのかな。進歩幻想。これは、ホントにそうなのかもしれません。あるいは、ホントの進歩は、この目に見えてる世界じゃなくて、なんか、この世界にピッタリ貼り付いている「もう一つの場所」で行われているのかも……私は、どっちかというとそんな感覚を持ってるんですが……「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。」これはイエスの言葉ですが、もしかしたらこのことを言ってたのかもしれません。

人類の「普遍」を求める旅……それは、いつまで、どこまで続くのだろう……もう、21世紀も4分の1を過ぎてしまいましたが……

今日のessay:真のメダル

ソチ五輪にはまったく興味がなかったのだけれど、始まってみると毎日の報道でいろいろわかってきて、やっぱりおもしろいなあ……と。スポーツで選手が純粋にがんばっても、ABくんがすぐ「政治利用」するので、そのあたりもヤだなあ……と思う原因になってたんですが、今回、浅田真央さんの「ノーメダル」で、いろいろ考えさせられた。

ショート16位! この結果に驚かんかった人はいないと思う。スゴイ成績です。ある意味……本人は「身体が動かなかった」とおっしゃってたが、あくる日のフリーではいきなり自己ベストで10人抜きの6位。こんなスケート選手、いなかったんじゃないかなあ……びっくりしましたが、よくよく考えてみると……

人間の身体って、正直だなあと思います。「金」の重圧。もし、ショートで「メダル圏内」に入ってしまってたら、フリーでもそれは続いた……どころか、さらにさらに強力なものになったに違いない。「自分の滑りがしたい」というのが彼女の本当の気持ちだったとしたら、やっぱりそれは、大きな阻害要因になってかぶさってきたに違いない。

しかし、ショート16位。これはもう、どうがんばっても「金」どころか「銅」も無理。ここで、「開放」が行われました……彼女の意識はどうだったかは知りませんが……自分にとっておそらくラストの五輪で、納得のいく演技をしたい。そのためには、身体を「自由に」する必要がある……「身体の反乱」。納得のいく滑りを実現するための、最後の手段……

おそらく意識の方も、やっぱり身体に正直になる方を選んだんだと思います。それで、あの結果が出た……ホントにスゴイと思います。「自分の納得のいく滑り」のために「メダル」は犠牲にする。「メダルは持って帰れないが、恩返しはできたと思う」。彼女ははっきり言いました。みごと! メダルよりもだいじなもの。それは、自分にとってだけではなく、たくさんの人にとってもそうに違いないという確信……

日本中が感動したのは、やっぱりそこだったと思います。私のようなヘソ180°が曲がってる人間でも充分……どころか、ちょっとない感動でした。そうか……これからの日本の歩む道って、もしかしたらここにしかないのかも……そこまで思いました。彼女は、「ゆとり教育世代」だと思いますが、いろいろ言われる「ゆとり教育」で、こういう人が育つんであれば、「ゆとり教育」、悪くなかったかも……

今、教育、大幅見直しですね。ABくんのめざす?「強勢日本」……その実は不気味な「虚勢日本」を造ろうとして。そういう「キッチュ・ジャパン」にとっては、彼女の「金」はものすごく欲しかった獲物でしょう。でも、彼女は、それに、結局全身全霊で抵抗したんだと思います。意識としてはどうあれ、結果からみるとそうなってる……

もし、「メダリスト凱旋パレード」が行われても、彼女は乗らない。しかし、みなは、「金」よりはるかに価値がある彼女のフリー演技をちゃんと知ってる。彼女は、自分の本当に大事なものを、全力でABくんの魔の手から守った……とも言えます。メダルもなにもない以上、ABくんも手の出しようがない(でも、出してくるかも)。

そして、それが、他の多くの人にとっても「メダルより価値がある」ことを、彼女はきちんと知ってました。別に、そのことを声高に主張する……というんじゃなくて、演技で見せた。そして、そのあとで、言葉できちんと語った。控えめな語り口でしたが、そこには、自分のなしたことの本質をちゃんと確信している人だけの自信があふれていた。むなしい、上滑りの言葉が横行する中で、しっかり大地に根を張った真の言葉……

私は、ここに、これからの「日本の道」を見たような気がします。派手に、結果だけを求めて、ひとときの空しい幸福に酔う……そうではなく……別に、メダルなんかなくても、本当の場所に、摩滅も消耗もしない「価値」を地道に積み上げていけばいいじゃん。浅田真央さんの4年間の地道な努力は、だれの目にもはっきり見えるあの演技として実を結んだ……

これからの日本。やっぱり、ちゃんと考える必要があるなあ……笛と太鼓でバカさわぎしてみんなで崖っぷちに行進するんじゃなくて、あおられてすぐ過激に反応して偉ぶったり虚勢をはるんじゃなくて……世界の中で、どういうふうにあるべきなんだろう……と。「本当の自信」なんでしょうか……彼女は、きちんとそれを持っていた。あの場で滑っていただれよりも、おそらくそれはぬきんでていた。

すごいなあと思います……おそらく今は、人類史全体の大きな価値観の転換のとき。もうこのままで、世界人類何十億がちゃんとやっていけるワケはない……それは、だれが考えてもあきらか。そういう時代に、日本、そして、日本人……この地に生まれたわれわれが、どういうふうにしていったらいいんだろう……いろいろ、考えさせられました。ありがとう。

今日のessay :普遍を求めて・その1/About Universality – 01

「普遍」って、なんだろう……英語ではユニヴァサリティ、ドイツ語だとアルゲマイネ……かな。要するに、なんにでも通用すること。万能。以前、物理学の要諦で、それ以前の法則を特殊解として含むさらに普遍性のある法則を求めるんだ……という話を聴きました。ニュートン力学は、相対性理論の特殊解である……みたいな。そーやって、次々と「より普遍性のある法則」を求めていくと、宇宙は、ついに1個の数式で書き表わせるようになる……いわゆる「神の数式」ってヤツですが……物理学者は、みなこれを求める……

ところが、絵描きはたぶんそんなものは求めません。「この一枚の絵が、宇宙のすべてを表わす」……そんなことはありえない。じゃあ、音楽家はどうか。「この一曲が、宇宙のすべてを表わす」……同様に、これもありえません。ただ、音楽は、曲ではなく調律法で普遍を求めて「平均律」に達した。音楽は数学と仲がいいので、美術よりは普遍を求める気持ちが強いのでしょう……美術でも、セザンヌからピカソに至る近代洋画の流れの中には、やっぱり数学や物理学と仲良くして「普遍」を求める気持ちがあったと思う……。

きり_900

以前、自動車の構造を勉強したとき、ユニヴァーサル・ジョイントとディファレンシャル・ギアの働きに、驚きました。あったまいい……だれが考えたんでしょ、こんなこと……ユニヴァーサル・ジョイントはもろに普遍結合ですが、いうだけのことはあってたしかに普遍だ……ディファレンシャル・ギアの方はもちっと特殊なのかもしれないけれど、働きはみごとに普遍です。これがあるからカーブがスムーズに曲がれる……西洋人って、こんなこと考えるからたしかにすごい……西洋と普遍は渾然として表裏一体ですが、さすがに「言葉は神」というだけのことはあります。外在していた旧約の神を、処女力を使って世界の内に捕えてしまう……

例の、「ユニコーンと処女」の物語ですが……この観点から見ると、普遍を求める心は、すなわち「世界に内在するロゴス」を紐解くということになって、これはやっぱり一神教の世界観濃厚ですね。まあ、当然といえば当然のことなんだけど……そうすると、同じ一神教のイスラムが、「普遍」レースで乗り遅れたように見えるのはなぜなんだろう……ヨーロッパとイスラム。どこがどう違ったのか……ここで思いだすのは、ヨーロッパの音楽を特徴付ける「3度の卓越」です。オクターブと5度は、たしかに音階として自然に出てきそうですが、3度になると、これを他の音程より卓越させるには、なんか、それなりの理由が要りそうな……

まあ、理由はともかく、3度が伸びてきますと、それは5度といっしょになって最初の「和音」をつくります。3度には、長3度と短3度があって、長3度が長調音階をつくり、短3度が短調音階をつくる……われわれの脳は、日本人でもすでに学校西洋音楽教育の成果で、この長調音階と短調音階に馴れてしまってますが……ヨーロッパの音楽でも、少し遡ると、長調音階、短調音階というモノはありませんでした。グレゴリオ聖歌の時代ですが……それが、少しずつ3度が優越してきて、長調音階、短調音階が形成されてきます。たぶんそれは、12世紀くらいからなのかな? レオナンペロタンのノートルダム楽派の時代でしょうか……

3度

それで、ここから先は推測ですが、「3度の優越」はおそらく「ポリフォニーの形成」と関連があって、これがまた、「平均律」への長い歩みのはじまりとなったのでは……そしてこれは、たぶんゴシック建築の形成とも関連しているんじゃないかと思います。……もうこうなると「推測の山」なんですが……ゴシック建築の、あの空間の響きがポリフォニーと「3度の優越」を誘いだしたのか……空間の高さを求めていくと、そこに音が積み重なって自然にポリフォニックな響きが誘発されてくるのでしょうか……わかりませんが、もしそうだとするならば、やっぱり、その大元は、ヨーロッパの「深い、暗い森」にあったのかもしれません。

日本の森林みたいな照葉樹林帯や落葉広葉樹林帯では、温度と湿度の関連から下草が伸び放題になるので、針葉樹林帯みたいなカテドラル的雰囲気にはなりにくいのかな……とも思います。大きな空間を造っていく森と、小さな細分化された空間を無限に生みだす森……森の違いが「普遍」を生んだのかな……まことに乱暴な議論で申し訳ないんですが、そういう要素もあるんじゃないかと……たぶん「砂漠の一神教」だけでは、あそこまで「普遍」に執着する心は生まれないのでは……といって、日本の森みたいにどこにでも生命が満ちあふれていると、やっぱり「一本化」に執念を燃やす「普遍」には至りにくい。そんな感じなんでしょうか……

今日のessay:あいまいでとりとめのない話・その3/Vague and Chaotic Story – 03

ターミネータ_900_C

「透明人間の食べたものって、どこから透明になるんでしょう?」こういう質問をすると、みなさん「?」という顔をされます。「透明人間の出すものはどこから不透明になるのか?」という質問も同じことなんですが……私は、昔から、これがふしぎでしょうがなかった。たとえば、透明人間がパンを食べるとしますと、口の中に入ったトタンにパンは透明になるのか? ふつうの人だったら口を閉じれば当然パンは見えなくなりますが、これは、顔の皮膚が不透明だから。透明人間の場合には、顔の皮膚も透明ですから、当然パンは見えてしまうはず……

もし、透明人間がパンを口に入れたトタンにパンが見えなくなるんだとしたら、透明人間をつくってる「透明要素」が瞬時にパンにも回ってしまうと考えざるをえない。でも、これはちょっと不自然かなという気がします。まあ、「透明要素」がいったいなんであるかということにもよるのですが……ふつうの人間だったら、咀嚼され唾液と混じる過程で、徐々に「その人」がパンの中に浸透していく感じだから、透明人間にこれを当てはめると、パンは、口の中では見えていて、呑みこまれて食道を通るくらいで少しずつ透明になっていく……ということかな?

「パンの変容」を、たとえば胃の中で胃酸で溶かされて完全にパンのかたちがなくなる……くらいまで、パンはパンでありつづけるとしたら、透明人間においても、胃の中で溶けるまでは透明にならないと考えた方が自然ですね。そうすると、透明人間は、服を着ていないかぎり、胃の中の「もやもや」が透けて見えることになって、これはかなり気持ち悪い……で、さらに問題なのは、出すときです。透明人間の排泄物って、どこから不透明になるんだろう……身体から出た瞬間……というのは、食べるときと同じでちょっと不自然すぎる。とすると、出てしばらくたつうちに、徐々に不透明になってくるんでしょうか……なんかこれ、ちょっと恥ずかしいような……

排泄物ばかりじゃなくて、汗なんかでも同じです。透明人間が汗をかいた場合、その汗は透明なのか不透明なのか……もし不透明だとしたら、全身に汗をかいた場合、汗のかたちでだいたいの輪郭がわかってしまう……うーん、これも気持ちわるいかも。唾液とか鼻水とか(ヘンな話に展開してすみません)……髪の毛を切ったらどうでしょう。切った当座は透明でも、はらりと床に落ちる途中で不透明になるのかな? 爪を切ったら……ヒゲをそったら……と、疑問はつきないのですが……このあたりのことを考えていくうちに、これは、結局「自分の範囲はどこまでなのか?」という問題になることに気がつきました。いったい、自分って、どこまでが自分なんだろう??

切られたり突かれたりして痛い範囲が自分……でも、爪や髪の毛は、切られても痛くないけれど、だからといって身体に付いているうちはそれが自分じゃないと言われると、それは違うなあと思います。では、身体に取りこんだ食物は? これが、さっきの「透明人間の食べたもの」の問題になるわけですが、胃や腸の中にあるものは、なんだか完全には自分のものじゃないような気がします。腸の壁から吸収された時点で、はじめて「自分」の一部になる……人間は、トポロジーからいうとドーナツと同じなんだそうですが、そう考えると、胃や腸の内部は「ドーナツの孔」だから、そこにあるものはドーナツ自体ではない。すなわち、胃や腸の内容物は、まだ「自分」ではない……

どーなってんの

マクロバイオティックの創始者の桜沢如一さんの本を読むと、人間の胃や腸の内容物は、植物における「畑の土」と同じなんだということが書いてある……これを読んだとき、ハッと目を開かれたような気がした……そうか、人間は、畑の土を身体の中に抱えているんだ……免疫機構的にも、動物の免疫機構って、皮膚の表面と、胃や腸の表面に集まってるそうです。ということは、やっぱりこのライン、すなわち「ドーナツの表面」が、「自分」と「他者」を区分する重要な領域になっているということが、一応言えそうです。私は、だれか有名な人の講演会を聴きにいくたびに、その人の「皮膚」を見てやろうと思うのですが……人の視線は、皮膚で止まる。そこから先は本人にもわからない未知の世界。本当に自分が自分であるはずの皮膚の内側が、自分にもわからないとは……

人間は、皮膚一枚で宇宙と隔てられている……わけですが、でも、その皮膚の内側も、自分ではまったくわからない宇宙になってる……ということは、その「皮膚一枚」だけが「自分」なんだろーか?? これもなんか、ヘンだなと思います。私がここで思い出すのは、アメリカの有名なコンタクトマンのジョージ・アダムスキさん。彼は、ちょっと宗教的というか、なんか偏ってる感じがするので私はあんまり好きじゃないんですが、でも、一言、すばらしい発言がある。「テレパシーとは、接触感覚なんです。」……うーん……これを読んだとき、さすがにすごいなと思いました。さわってくる感覚……テレパシーって、離れたところから言葉を介さずに意志を伝える……ということから、なんか電波みたいなイメージがあったんですが……

それが、「接触感覚」。そっとタッチしてくるような感覚なんだと。これはやっぱり、自分で実際にテレパシーを受けた人の言葉だなあ……と、妙に感心してしまった。「さわってくる」ということになると、やっぱり「皮膚」ですね。皮膚に触れてくる感覚……これはもう、ものすごく親密です。だから、一旦使い方をまちがえるととんでもないことになる。テレパシーが、「支配」にならない要件というのは、やっぱり「他者」のことを考える。自分が送るテレパシーを受ける人のことを、どこまでホンキで考えることができるか……これが、テレパシーが暴力的な「支配」にならないための絶対条件……ということで、ここでまた、今読んでる『パースの宇宙論』を思い出してしまったんですが……以下、ちょっと引用で……

『物の現われ(appearance)は意識においてのみ存在する。それゆえ、何かを創造すること、つまりそれが現われるようにすることとは、意識を覚醒させ、賦活することである。存在を与えることは、生を与えることであり、あるいは存在とは生なのである。したがって、神の存在とは創造であり、他の事物を賦活し、そのもののうちで生きることである。しかし、他のものにおいて自己の生を生きることは愛することである。したがって、神の本質は愛である。』……なるほど……パースは、アガペ(神の愛)ということを、こんなふうに理解していたのか……「他者のうちで生きる」ことが神の本質であるからこそ、神は、世界を創造した……こんなふうに考えると、なんかすべてがうまくはまっていくような気がします。そうだったんだ……と。

そこで、翻って自分のことを考えてみると、なんか、ほとんどの時間、自分のことしか考えてないなあ……と思います。うーん、これでは、テレパシーは使えないワケだ。こんな状態の人がテレパシー能力を持ってしまったら、それは、「他者への愛」ではなく、まちがいなく「他者への支配」になる。テレパシーは皮膚に効くので(接触感覚だから)それは、ダイレクトに「自分の壁」を壊してくる。考えようによってはオソロシイもの……ということで、ここで思い出すのは、やっぱりインターネットのこと。これ、実は、疑似テレパシーです。ネットのやりとりは、なんか「自分の壁」を浸透して、直接自分の中に染みこんでくるような感覚を私は持つのですが……ようするに、目の前にあるのが「自分のパソコン」(あるいはスマホ)だからかな?

私の解釈では、ネットは「テレパシー網」なんですね。これがもう、世界中に張りめぐらされて、人は新しい思考形態に入ってるんじゃないか……しかし、「他者のうちに生きる」ということは、まだ全然できてないので(できてる人もいるかもしれませんが)、そこに現われるのは「自我の拡張」になってしまいます……物理的なガードが薄い分、いろいろ影響は直接的で、しかも心に深く浸透していく……「ノリ メ タンゲレ」とキリストは言った。墓から甦ったイエスに、マグダラのマリアが触れようとした瞬間に、彼の口から出た言葉。「我に触れるな」と訳されますが、この「タンゲレ」というラテン語は、「さわる」という意味で、今も英語で tangible さわれる、みたいな言葉になって残っている。

イエスは、地上の肉を失ったとたんに「触れることができない存在」になった……ということは、逆にいえば、それまでは「触れることのできる存在」として地上にあった……つまり、この世界のものは、すべてが同じく「触れることができる」存在なんだけれど、それは、この世界のものがすべて「地球という材料からできている」ということなんだと思います。要するに、いろいろと個別に分かれているように見えるんだけれども、実は、そう思ってしまうのはわれわれの「脳」(の一部)なのではないか……犬や猫が、「自分」とか「他者」をどのように感じているのか……わかりませんが、おそらく人間が思っているほどには自他の区別はないのではなかろうか……ということは、彼らの皮膚感覚、つまりテレパシーの感覚は、さほど「脳」にジャマされていない……

ということで、「透明人間」の話に戻るのですが……皮膚感覚が自他の境界になるのではなく、逆に自他の交流点というか交感点になっているのだとしたら、もしかしたら他の生き物は、人間より「透明感覚」が強いのではないか……そんなふうにも思います。犬や猫の感覚になれないのでよくわかりませんが……「不透明」という感覚自体が、もしかしたら人間に特有の感覚なのかもしれません。うーん、この世界は、彼らにはいったいどんなふうに見えているんだろう……自分が、皮膚を超えて広がったり、他者が皮膚を超えて入ってきたり……透明、不透明の感覚があいまいになって、ちょっと夢の中のような気分なのかもしれません。そして、そこで、どんなことが行われるんだろう……まあ、人間以外のものに生まれかわればわかるのかもしれませんが……

いずれにせよ、この星のものは、結局、一体として、物質やエネルギーや情報を交換しあって生きている……この星の上には、これまでこの星でいのちをつないできたすべてのものの歴史が積み重なっているわけです。とすると、いったいなにが「進化」して、なにが「星を出る」のでしょうか……あるいは、どこからか、違うところからの影響……ゲートを超えて到達するような「なにか」があるのでしょうか……晴れた日に、太陽が沈んで星が輝きはじめると、やっぱり「宇宙の響き」がきこえてくるような気がします。雪の日の朝に向こうの山から昇ってくる太陽……流れる雲。自然の息吹の中に、なぜか遠い星の声をきいてしまう……それは、もしかしたら、私たちを造っている原子のゲートを超えて、伝わってくるものかもしれません……宇宙の層、それは、まことに深い……

今日のessay:あいまいでとりとめのない話・その2/Vague and Chaotic Story – 02

ファルコンギターc_900

佐治晴夫さんという方がおられて、この方は、グレン・グールドのバッハ演奏をボイジャーのゴールデンレコード(異星人へのメッセージ)に載せることを提案された物理学者なんですが、『からだは星からできている』という本に、おもしろいことを書いておられます。「宇宙背景放射」についてのお話なんですが……まあ、要するに、レーダでとらえられる「宇宙の雑音」ということなんですが、これがじつは「ビッグ・バン」のときの名残りの雑音なんですと……

で、全天からくるこの電波を調べてみると、そこにわずかの「ゆらぎ」があって、その変化が、現在の宇宙の大規模な構造を形成しているもとになってる……観測されたゆらぎのパターンをもとにコンピュータでシュミレーションしてみたら、現在の銀河の構造とぴったり一致したとか。それで、このわずかな「ゆらぎ」が生じる前は、宇宙はまったく均一で、それは結局「なにもない」と等しいと……うーん、このあたり、パースの宇宙論とそっくり一緒だ。彼は、百年も前にビッグ・バン理論を……でも、佐治先生によると、古代『リグ・ヴェーダ』にも似た表現はあるそうで……

「ゆらぎ」というとホントの偶然。それで「均衡」が破れて宇宙がはじまる……で、その痕跡が今もなお、宇宙全体に響いている……ボイジャーのゴールド・ディスクは宇宙人の手でグールドのバッハを宇宙に響かせるのかもしれませんが、その音も、もとはといえば、「はじまりのわずかなゆらぎ」から発している……「宇宙の終わり」は、おそらく現代物理学では、光瀬さんの考えみたいな「熱的死」になるのかもしれないけれど、パースが考えるみたいに「完全な秩序の実現」という様相もおもしろいと思います。これ、物理学で表現するとどうなるのかな?

たぶん、「量子論の不成立」みたいなことになる?? 物体の位置も速度も完璧に決まってしまって、あいまいなところは微塵もない。みな、ガラスに貼り付いたみたいに永遠に固定されてしまって……まあ、要するに「自由」が一切ない世界。これ、困りますね……私のような、束縛されることを嫌う人間は、もう居る場所がない。まあ、世の中、束縛されるのが好きという方は珍しいでしょうから、大多数の人にとっては地獄……なんだけれど、もう、そう考えることさえできない。究極のロボトミーの世界……おそろしい……

私は、こどもの頃から「ゼノンのパラドックス」に興味を持っていました。「飛んでいる矢は飛ばない」とか「アキレスは亀に絶対に追いつけない」というアレです。で、卒論のタイトルも『無限と連続』。カントールとかデデキントとかいろいろ読んで、わけのわからない文章をでっちあげた記憶がありますが……そこで、やっぱりふしぎだったのは、実数の連続が「線」になるってこと。要するに、「点」の連続(集合)が「線」という、まったく次元のちがうものに「変身」してしまうということで、これはふしぎだった……

基本的に、今でもふしぎ……と思う気持ちにかわりはないのですが……でも、いろいろわかってきました。この問題、実は、微積分の成立根拠にも深い関連があって、高校生のときに、微積分が出てきて、その証明を「ε-δ法」でやってる。コレ、理解できませんでした。「微小」を無限に微小にしていくと……ということがわからなかった。「点」ではないものは、いくら小さくしていっても、どうやっても「点」にはならないのではないか……理系の方にたずねると、紙に数式を書いて「証明おわり」となるんですが、こっちはナニが証明されたんだか……

それで、1977年、神戸の映画館で、『スター・ウォーズ』の第一作(エピソード4)を見ました。で、びっくりしたのが、宇宙船のなめらかな動き……模型を撮影してるんでしょうが、それまでの特撮技術とは明らかに一線を画している……『2001年宇宙の旅』の宇宙船もなめらかでしたが、この『スター・ウォーズ』では、宇宙空間を高速で飛び回る……ダイクストラフレックス Dykstraflex とかいうそうですが、模型の動きとカメラの動きをコンピュータで連動させて撮影する……フィルムの一コマを見ると、宇宙船がブレて映ってる……

おお、これはまさに「量子論」そのものではないか……要するに、物体の「位置」と「速度」を二つながら確定することはできないというアレですが……といっても、この場合には、映画のフィルムが1秒24コマという限定から、1コマがこういう映像になってるワケですが……でも、私にはとっては、「無限と連続」を絵で見せられたみたいな感激?でした。つまり、「ブレ」の問題で、フィルムの1コマを「点」とするなら、「点」は実は「点」ではなくて「ブレ」をもった幅、つまり、小さな「線」みたいなものなんだと……

ここで連想されるのがライプニッツ。ニュートンと微積分の「著作権」?を争ったお方でもありますが……彼の「モナド」もやっぱりこんなかんじでした。「モナド」は、どうしても「点」を連想させる。「点」だったら、大きさがないから、中にはなにも入らないはず。ところが、モナドの内部には「襞」があるという……これ、ふしぎです。大きさのないものの内部になぜ「襞」ができるんでしょう……たとえば、y=x2(二乗)という方程式を考えてみます。グラフは放物線になるわけですが、線であるかぎり、「点」の集合として形成されている……

Web

「点」であるかぎりにおいては、どの点もみな「同じ」のはず……ところが、このグラフ上の点は、みな違う。そこにできる接線の傾きとか、X軸Y軸上の位置とか……接線の傾きが一次微分で速度になって、そこにおける加速度が二次微分でしたっけ……違ってるかもしれませんが、要するに、「点」はいろんな異なる性質をもっていて、この性質が、結局モナドの「襞」ということになるんじゃなかろうか……そうすると、ダイクストラフレックスの一画面(点)においてブレて映ってる宇宙船が、つまりはモナドの「襞」という姿になるんじゃなかろうか……

特撮を手がける人のだれもが影響を受けたレイ・ハリーハウゼンという方がおられますが、この方の得意技は「ストップ・モーション」で、要するに人形のコマ取り撮影。これですと、フィルムの一コマ一コマが正確に止まってる。「位置」が完全に確定されている……そのかわり、映像でみるとカクカクとした動きで不自然。日本のアニメみたいにカクカク動く。とくに「速度」が上がるとその不自然さが目立ちます。しかし、一コマでみると映像が流れているダイクストラフレックスの場合、映写で見るとものすごく自然に動く……

これ、要するに、一コマに入るべき情報、つまり「モナドの襞」をコンピュターで正確に制御して、それを連続させているから自然に見えるんではないか……そう思いました。で、パースの『宇宙論』に戻るんですが……彼の場合にも、やはり「点」の集合が「線」になるとは考えていない。なんといったらいいのか……それぞれが内容を持つ「部分」の集合が「線」になるというんですかね……ダイクストラフレックスの一コマみたいに、完全に確定されていない幅をもってブレているぼやっとしたものの集合体が「線」を形成していく……

なるほど……これならよくわかります。そういう「部分」は、いくら小さくしていってもやっぱり「幅」を持っているので、数学的にいう完全な「点」にはならないわけです。で、これを「無限に小さくしていく」ということは、やはり人間の脳内のスペキュレーションだけで可能なこと。これをやると、たしかに「点」にできるのかもしれないけれど、そこには大きな「飛躍」が生じる。ここで「モナドの詐術」みたいなものが働くと思うんですが……ライプニッツのモナドは、これは完全にスピリチュアルな存在なので、本来、物質の世界には関連をもたない……

ところが、微積分においては、このスピリチュアルなモナド(点)と、実体的な世界(物理的世界といってもいい)が「ε-δ法」でムリヤリ?関連づけられます。私は、どうしてもここに「詐術」を感じるのですが……そういえば、ライプニッツにおいては、「死」は「縮退」(コントラクション)なんだそうで、今まで物理的世界に関連してみずからを表出していたモナドが、その表出を無限小にしてモナドの姿へと縮退する……うーん、まさにこれは、人は死して霊魂になるというオーソドックスな考えと一緒ではないだろうか……でも、物理的世界にさまざまな痕跡は、やはり残してしまう……

ボイジャーにその演奏が乗って宇宙に運ばれてるグールドさんは、50才という「若さ」でお亡くなりになりました。その身体は分解されて残ってないわけですが、その演奏は世界中に残っている。いや、彼の身体の一部は、物理的にもさまざまなものに姿を変えて残っているといえる。まあ、これは誰しも同じで、人間でなくてもどんな生物でも……生物でなくてもそうなんですが、痕跡というものが完全消滅することはない……これ、「モナドへの縮退」ということにかんして、いろいろなことを考えさせられてしまいます。

「ヒーラ細胞」というのがあって……ヒーラというのは、かつて生きていたアメリカ人女性の名前らしいんですが、彼女の身体から採取したガン細胞が培養されて世界中の研究所に配られ、本人はとっくに死んでいるのに、その身体から分けられたガン細胞は、世界中で今も生きてる……これ、本人はモナドへと縮退したいのかもしれませんが、それが許されない、ある意味ヒサンな状況……車で道を走っていると、轢かれた動物の死骸をよくみかけますが、彼らの身体は、いろんな車の車輪に一部がくっついて、世界中?に運ばれてしまう……オソロシイ……

人間というモナドは、「文化財」をつくるので、グールドさんの演奏みたいにそれが世界中に拡散して、もうもとのモナドには収集しきれない……それは、原理的にはこういうインターネットの書きこみも同じなんですが、一旦拡散してしまえば「点」には戻りようがありません。これはまた、「個」というものの範囲をどう考えるかということとつながってくるのですが……昔、「透明人間」はどこまでが「透明」なんだろうと考えたことがありました。透明人間がモノを食べたら、どこの時点から透明になるんだろうか……はたまた、透明人間が出したものは??

ということで、ますますとりとめがなくわけがわからなくなりましたので、このへんで。つづきはまた。

今日のessay:あいまいでとりとめのない話・その1/Vague and Chaotic Story – 01

プラグマティスト三人衆_900

今、伊藤邦武さんという方の『パースの宇宙論』という本(岩波書店刊)を読んでいます。パースは、ジェームズやデューイとともに、アメリカのプラグマティズムの哲学者として知られている人ですが……プラグマティズムは、日本では「実用主義」と訳されて、いかにもアメリカ人らしい、実用的なもの、「キャッシュ・バリュー」を強調する哲学ととらえられがちなんですが……まあ、ようするに、実際の役に立つものが価値あるものなんだと。ドライで、拝金主義的なイメージさえあるわけですが……ところが、本当は、意外にもスピリチュアルな面が強くて、むしろそちらの方がプラグマティズムの本質だったんかいな……と思わせられるくらいです。

このことは、今までの私の認識が足りんかっただけのことで、研究者にはもう周知のことだったようですが(思いおこせば、学生時代に、先生が、「プラグマティズムというとみんな、あっ、実用主義ね……というけど、それだけじゃないね。ぜんぜん違う面があるのよ」とおっしゃってた)、おどろくべきことに、スウェーデンボルグの思想に大きな影響を受けているんだとか。さらには、エマーソンやホイットマンみたいな神秘主義的な詩人にも直接的に影響を受け、鈴木大拙や西田幾多郎の禅とか哲学に影響を与えている……とくに、鈴木大拙は渡米中にこの思想と深いつながりがあったということです。そしてまた一方、現代の素粒子物理学とも……

今、素粒子物理学はすごいことになっていて、超ひも理論ですか、物質の究極が、「振動する弦」だというあの理論ですが(といって、文系の私にはサッパリわからんのですが)、この超ひも理論(超弦理論)では、なんと空間の次元が10次元(時間も入れて)であるということが導かれるらしいのですが……パースやジェイムズは、今からもう百年以上も前に、そういうことを言ってる。多次元宇宙論みたいなことらしいのですが……それで、彼らの哲学は、今、最新の素粒子物理学の分野とのつながりが着目されているらしい……ということで、興味つきないことがいろいろ書いてあるのですが、その中で……

パースの考えでは、この宇宙のはじまりは偶然性が100%で必然性がゼロ、すなわち完全な混沌だったそうで、宇宙の終わりは逆に完全な秩序、すなわち、必然性が100%で偶然性がゼロなんだと……テイヤール・ド・シャルダンの「オメガ点」と似ていますが、オメガ点の方は、すなわち「神」で、けっこうプラス概念ぽいのですが、パースの「必然性100%宇宙」はすなわち「完全なる死」なんですと……もう、そこからはなにも起きない。すべてが必然の流れにそって運ばれて、意外なことは絶対生じない……となると、これはスピノザの決定論みたいなことになるわけで……まあ、テイヤールさんのオメガ点も、実は似たようなものかもしれない。

ここで思い出すのは、光瀬龍氏の壮大なSF『百億の昼と千億の夜』なんですが、あの中では、骨格になるテーマとして、「エントロピー増大則」があった。すなわち、この世界は、100%の混沌に向かう……秩序が徐々に失われていって混沌が増大し、最後にはすべての秩序がなくなって、宇宙は混沌の海へと崩壊していくんだと……光瀬さんは、生物学にも造詣が深かったから、生物の死滅がすなわち秩序から混沌への流れと映ったのは想像に難くないんですが……この考え方は、おもしろいことに、みかけはパースの「完全混沌から完全秩序へ」というのと正反対……なんだけれど、なんか、根底にある「嘆きの相」みたいなものが共通している気もします。

パースの思想の根底に「嘆きの相」があるのかどうかはわかりませんが、なんとなくそんな感じ……昔、情報理論の講義を聴いたときに、情報の相対性というのか、情報というのは必ず相手がいないと成りたたない……みたいなことを先生がおっしゃったのが印象に残っています。つまり、情報というのは単独に存在するのではなくて、必ず発信者と受信者がいる。で、その間に交わされる信号……これがまたエントロピーに関連するみたいなんですが、ここで出てくるエントロピーは、熱力学のエントロピーと似ているけれどひと味違う……なんか、対数で定義されるものだったような……話は、ますます混沌としてあいまいになってきました。

まあ、もともとが「あいまいでとりとめのない話」なのでお許しねがうとして……パースの宇宙論に戻りますと、秩序というものを否定的にとらえる考え方には新鮮さをおぼえました。それと、宇宙のはじまりを、なにか「偶然性の爆発」みたいに感じている考え方……これは、のちのいろんな宇宙論、ガモフのビッグ・バンみたいなものに通じるところもあっておもしろい。と同時に、偶然性に「多次元宇宙」の発生の根拠を見ているような考え方にも興味を惹かれます。プラグマティスムは「純粋経験」を重視して、それがまた西田哲学の「純粋経験」にもつながっていくんだけれども、そこで「多次元宇宙」が出てくる……

私は、多次元宇宙というのはSFの中だけにしかなくて、つまり多次元宇宙はスペキュレーションの産物であって、本当にあるのは「いま。ここ。」だけ、つまりそれが「純粋経験」ということなんだろーと思っていたのですが、もしかしたら、それはちょっと違うのかな??と。いや、基本的にはそのとおりなんですが……「純粋経験」ということにはもっと「含み」があって……それがもし、「経験の原子」みたいなものだとしたら、やはりその中核は「ゲート」になってるのかもしれないなという気がしてきました。物理的存在である原子。その原子核がゲートになってさまざまな世界につながってるように、「経験の原子」も……

もはやすでになにを言ってるのかわからなくなってきましたので、このへんで一応やめにします。

今日の essay:19世紀という病・3

平均律曲集900

平均律のお話です。平均律も、やっぱり19世紀という病の典型的な一例なのかな……と。世にいう絶対音感。あれって、天才的な属性として一種の憧れになってますよね。「あの人は、絶対音感があるんだよ」なんてささやかれますと、さながら、彼(彼女)のまわりには、もう「天使のオーラ」がたちこめて、なにか人類を超えた特別な存在のようにみえてくる……でも、絶対音感って、ナニ?

絶対音感のない私にとっては、さながら神鬼に等しいオソロシイ存在なのですが……たとえば、ピアノでポローンと鳴らして「エーフラット」とかピタリと当てるということらしい。救急車の音が、正確に音名で聞こえてきたりとか……要するに、世の中のありとあらゆる音が、五線符のオタマジャクシに自動的に変換されてしまう、一種の病気ではないだらうか……というのが、私のスネた解釈なんですが。

この病気の最も重かった人が、たぶん例のモーツァルトさんで、彼は、アレグリのミゼレレでしたか、4声と5声の2重合唱の複雑極まる大曲を、教会でいっぺん聴いただけで、帰ってからスラスラ五線符に書き取って、たった四カ所しかまちがってなかった……おそらく現代でも、この病に罹ってこういう曲芸のできる人がいるんでしょうが、中には、訓練してみずから罹患しようとする人もいるようです。

しかし、ちょっとふしぎなのは、ピッチの問題。現代では、オーケストラのピッチは、A音を440ヘルツにすると一応決まってるようですが、バロック時代はもっと低かった。半音低い415ヘルツくらいであったという説もあり、この「415」を楽団名にしてしまったグループもあるくらい。それが、バロックから古典派、現代に至るにしたがい、ピッチインフレでどんどん高くなっていった……

440というのも、実は少し前の基準ピッチで、今はさらに高く、442とか443とかになってるみたいです……また逆に、バロック時代でも448というとんでもない高いピッチでやってた地域もあったという話があり、真相はわからないのですが……でも、おおまかな話としては、やっぱり時代が現代に近づくにしたがい、ピッチはどんどん上がる傾向にあるというのがたしかなところのようです。

こういうふうに、時代や地域によって、おんなじヨーロッパの音楽でも基準ピッチがかなり変化している……ということは、絶対音感を持ってる人は、実は、音名をピタリと当てるんではなくて、ヘルツを当てているということになる。音名も相対的なものだから、絶対的な物理量としてのヘルツ(サイクル)を正確に言い当てた場合、はじめて「絶対音感を持ってる」といえるのではないだらうか……

ということは、たとえば、A音を440ヘルツとして絶対音感を養ってきた人が、バロックピッチ(たとえば415)で今日はやってみようということになったら、なんか、とんでもなく気持ち悪い思いを味わうのではなかろうか……自分がやるときだけじゃなくて、415の楽団の演奏を聴いたら「なんで半音下げてんの?」と、芸術鑑賞どころではない不快感にさいなまれるのでは……

私の場合は、幸い?絶対音感がないので、440でも415でも気持ちよく聴くことができます。そのあたりを考えると、やっぱり絶対音感は病気かな……と思うんですが……もう一つ、絶対音感をお持ちの方には、やっぱり耐えがたい苦痛になるであろう「和声」の問題があります。これも、おそらく19世紀を通過することによって、耐えがたい人工的なものとなったはず……

モノコード……弦を一本張っただけの単純な琴を鳴らすとポーンと音が出る。で、その弦のちょうど中間を抑えて鳴らすとピーンと高い音になる。これで、元の音より1オクターヴ上がって、弦の振動数もちょうど2倍。これは、話はわかりやすい。で、今度は3分の2のところを抑えてはじくとどんな音?……周波数は66.666……%アップで、これが「5度上の音」つまり、「属音」とされる。

でも、実際には、正確に「5度上」にはならない。これを「シントニック・コンマ」といって、平均律で「5度上」になるところをはじくと、今度は周波数が正確に3分の2にはならない。微妙にズレてしまいます(81/80のズレ)。1と3分の2の場合、3:2の整数比になるので、二つの音が一緒に鳴ると、きれいに調和します。楽器を、こういう比率で調律するのを「純正調」というそうです。

「純正調」の5度、つまり、弦でいうと3分の2の音程は、平均律の5度とはわずかにずれる(シントニック・コンマ)。このズレは、私のようなフツーの耳の人にはわからないくらいなのですが、耳のいい人にはわかる。絶対音感を持ってる人なんかだと、完全に聴きわけてしまう。なので、今でも、合唱などハーモニーを大切にする演奏は、平均律ではなく純正調でやることもあるらしい……

ところが、この場合、ピアノなんかでの伴奏ができない。現代のピアノは、ほとんど平均律で調律してあるので、合唱とピアノの音程が狂ってしまう。ピアノと合わせたければ、合唱を、和声を犠牲にして平均律でやるか、あるいは、ピアノの方を純正調に合うように調律しなおすしかない。……以前、実際に、純正調でやった合唱を聴きましたが、ハーモニーが全然違う。これは、素人でもわかりました。

じゃあ、ピアノに限らず、世の中の楽器を全部純正調で調律したらいいじゃないか……なにも、和声が濁ってしまう平均律なんか使わなくたって……ということになるんですが、そこに大きな問題が……つまり、純正調に調律してしまうと、それ以外の調への転調ができなくなるんだそうです。そうなると、自由に転調しまくっている現代の作曲法にとっては大きなカセになる……

実は、平均律への歩みは、この「自由な転調」ということが強力なモチベーションになってたみたいなんですね。ヨーロッパの音楽では、1オクターブを12に分けるので、論理的には12の音階ができるけれど、それぞれに長調と短調ができるので、全部で24の音階ができる。ところが、各調で、音程の間がバラバラだと、調から調へ飛び移る「転調」ができなくなる……

ドレミファソラシドを純正調で並べた場合、転調できるのはその調のメジャーとマイナーの間だけ。他の調に転調すると、音と音の間が一定ではないので、かなり狂って聞こえる……ということのようです。それで、和声の響きが多少犠牲になっても、できるだけたくさんの調でだいたい同じ間隔で聞こえるような調律の仕方はないだろうか……ということで、たくさんの音楽家が苦労を重ねた。

バロック時代によく使われていたのは「ミーントーン」(中全音律)という調律法で、この方法だと、24はとてもムリにしても近隣関係にあるいくつかの調に転調してもさほど不自然には聴こえない……ということで、今でもバロック時代の音楽を演奏する際には、かなり多く使われている調律法であると思います。でも、バッハ(大バッハ)さんは、それでは不満だったみたいで……

彼の音楽を聴くとよくわかりますが、かなりいろんな調に飛びたいという欲求が渦巻いている。これはおそらくバッハさんだけじゃなくて、当時の音楽家の自然な要求だったようですが……それで、自分でさまざまな調律法を開発した。バッハの調律法は残ってないみたいですが、同時代のヴェルマイスターやバッハの弟子のキルンベルガーの調律法は、かなり詳しく残ってるようです。

大バッハに、『平均律クラフィア曲集』という有名な作品がありますが、あの「平均律」というのは、実は現代の、オクターブを正確に12等分した「平均律」ではなかったらしい。現に、原語では、「ダス ヴォールテンペリールテ クラフィア」、つまり「うまく調律された鍵盤楽器」ということだそうで、「平均律」とはどこにも書いてない。英語でも「ザ ウェルテンパード クラヴィーア」。

つまり、「平均律」は、日本語にだけある誤訳で、実際も、バッハの調律法は、少なくとも現代の平均律ではなかったそうな。では、どんな調律法だったかというと、それはわからない。ただ、24の調すべてを書いているので、平均律にかなり近いものだったであろうことはいえるみたいです。そうでないと、すべての調で鑑賞に耐えうる響きをつくりだすのは不可能……

これは、実はバッハにはじまったことではなくて、彼以前にもいろいろな作曲家が試みたんだそうで……大バッハとほぼ同時代のヨハン・カスパル・フィッシャーという作曲家は、20の調までつくってる(アリアドネ・ムジカ)。しかし、完全に24を作ってしまったのは、たぶんバッハさんが最初だったんでしょう……しかも、彼は、生涯、2回つくってるので、全部で48曲……スゴイ……

そういう意味でも、大バッハは、やっぱり19世紀という門が開く、その直前にいた人……というより、彼の死によって19世紀という、ある意味チョウツガイになる時代が開始された……そこまでいうと正気を欠いていると思われるかもしれませんが、私は、これは案外正解ではないかという気がするのです……「平均律」の一歩手前で筆を置いたバッハ……彼は、なぜ、そこでやめたのか……

オクターブを正確に12等分する平均律という調律法が、それまで人類に知られていなかったということはなさそうです。当然、バッハも知っていたはず……なのに、なぜ、彼は、この平均律を、おそらくは使わなかったのか……24の調を等しく演奏するというなら、オクターブを均等に12に分ける平均律がいちばん最適のはずなのに……これは、やっぱり疑問として残ります。

それで、やっぱり聴いてみますと……たとえば、第1巻の13番のプレリュードとフーガなんですが、これは、♯が6個もついた嬰へ長調というややこしい調になってる。 Fis-Durというヤツですが……実際に、ピアノで押さえてみますと、使うのはほぼ黒鍵ばかり。でも、メロディは比較的単純だ……知らずに聴くと、とってもカワイイ曲で、とても♯が6つついてるように見えない(というか聴こえない)。

うーん……この曲(プレリュードの方)、平均律で調律された現代のピアノで聴くと、ホントにカワイイ練習曲みたいなんですね……優雅なバロック風の室内なんかが浮かんでくる……だけど、平均律でない調律で聴くとどーなんだろー……「調性感」ということがいわれますが、この調は、ハ長調からはもっとも遠い。五度圏図でいうと、完全に180度の地点に位置します。

この曲で思い出すのは、MJQのピアニスト、ジョン・ルイスが、この曲のインプロヴィゼーションで見せた驚くべき地底の旅……彼のピアノは、最初はバッハの譜面どおりに始まるのですが、左手の下降音程をとらえて、ふと、地下への扉を開く……そこは、複雑にして膨大な洞窟になっており、地下の川が流れ、どこからかふしぎな光がさし、延々と、連綿としてつづいていく……

旅路には無数の部屋があり、その部屋の一つ一つにいろいろな存在が住んでいる。旅人は、一つ一つ丁寧にドアをあけ、中の住人と長い対話を交わし……それはもう、本当に、気が遠くなるくらいの数世紀の旅を重ね、しかもいらだつこともなく、ほんとうにていねいに一つ一つの了解と納得を重ねて進んでいく……と、そのうちに、道は登りとなり、どこからか、風が吹いてくる……

と、ほどなく……地上への扉がひらき、旅は終わる……なんと、そこは、元のバロック風のみやびなサロン……何世紀もの旅……と思えたのは、ほんの二三分のこと……私たちは、再び、元の世界にいて、なにごともなかったかのように……ほんとに、すべては夢であったかのように、曲が、終わる……私は、このルイスのインプロヴィゼーションを聴いたとき、まことにふしぎな気持ちになった……

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この世界……国と国が、人と人がいがみあい、争いの絶えないこの世界……しかし、ルイスのバッハは、「そうではない方法」を語る……あの、地下の巨大な洞窟の一つ一つの部屋に眠っていたもの……それは、いったん方法をまちがえば、悲惨な戦争となりテロとなり、究極は、すべてのいのちを根絶やしにするまで破壊と殺戮をやめない……そのような、オソロシイちからさえ引き出すもの……

しかし、ルイスのバッハは、そういう存在の一つ一つと根気よく対話を続ける。そう、その、心の対話は、何万年かかってもいいのだ……とことん、お互いに、完全に納得のいくまで話合いを続ける……その忍耐と遠くまで見通すちから……そういう、信じられないような抱擁するエネルギーを、この小さなかわいらしい曲が持っていたんだ……それを引き出すルイスも、つくったバッハも、スゴイなあ……

なぜ、この小さな曲に、それだけの力があるのか……わかりませんが、もしこの曲がハ長調で書かれていたら、これだけのちからは持ちえなかったんではないかと思います。♯を6つも背負って、ほぼ黒鍵だけで弾かれるこの曲……これを、平均律の発想に直してしまえば、たちまちすべてのちからは失せてしまう……ルイスのピアノの調律はわかりませんが、平均律だったとしても、彼は、平均律で弾いてない。

ここらへん、ふしぎです……合理性から考えれば、平均律以上の便利な道具はない。しかし、完全に平均律化してしまうと、雑味というのでしょうか、それぞれの調性の持っている固有のふしぎな力がふっと、消失してしまう……なんにも、実はない、無の空間……そこには、意味も、生も、死もない。ただ、12等分された空間に、無限に漂う、清潔で完璧な音楽……

私は、なぜか、バッハの感覚というものが、その狭間にあったような気がするのです。彼は、一方では、合理性をどこまでも追求して、24の調のすべてをきちんと響かせる方法を考えた……けれど、崖から一歩を踏み出して、「無の中空」にダイブすることはやらなかった……そんな風に、私には思えます。合理性の追求の過程で切り捨てられたもの……それを、死の間際にすべて取りもどす……

人の思想というものは、絶対に「完全」になってはいけない。彼は、心のどこかでそのことを知って……みずから、「完全」を目ざす道中にあって、しかも、すべてのものを捨てなかった。完全とか合理性とかにはジャマになるはずの雑々たるもの……不細工で、不合理で、それゆえに足手まといになってしまうもの……しかし、彼は、それを捨てず、かえってその意味を考えようとした……

こういう2面性が、一人の人格の中で、みごとに並び立っている……これは、一つの奇跡だと思いますが、それはまた、彼の立っていた位置とも無関係ではない……というか、彼自身が、彼の立ち位置を人類史の中につくってしまった……ともいえるのではないでしょうか……1750年、大バッハの死……それとともに、人類は、「19世紀」という扉を開いてしまった……そしていまだに……

この世紀、21世紀になっても、いまだに、19世紀というちょうつがいの時代を渡りきることのできない人類……バッハがていねいに開いていった地下世界は、今、無造作で無慈悲な取り扱いを受けてショートし、その結果が悲惨な殺戮やテロとして世界中に噴出している。そして、悪魔の双生児……おそろしいゲートまで開いてしまった人類……もう、還る場所は、どこにもないんでしょう……

今日の essay:19世紀という病・2

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19世紀のことをいろいろ考えるようになったのは、やっぱりトーマス・マンの影響だったと思います。最初に着目したのは、1911年という「特異点」で、マンがヴェニスに滞在していたのがこの年。マルセル・デュシャンの『階段を降りるヌード』がはじめて制作された年でもある。翌年の1912年から、彼は、『大ガラス』に着手する。

自動車の歴史を見ると、T型フォードが発売されたのが1908年。ヨーロッパで自動車の普及がはじまったのが1910年ころ。このあたりが、馬と自動車の交代時期か……デュシャンの『大ガラス』では、「花嫁」が「内燃機関」によって駆動される。レシプロエンジンの特有の動きが反映されているとしたら、けっこう露骨な作品だ。

コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズは、1887年~1927年にかけて。一方、モーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン」は1905年~1939年。両者は、15年くらいのひらきで平行する。ホームズでは馬車が活躍するが、ルパンでは自動車。なにか、ここで、大きく変わったような気がします……

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「原子力」だと、キュリー夫人の「ラジウムの発見」が1898年。ぎりぎり19世紀だ。ラザフォードがウランからα線とβ線が放出されているのを発見したのもこの年。後に、彼は、「ラザフォードの原子模型」を発表するが、これが1911年。さらに、1919年に、α線を窒素原子に衝突させて、人工的な「原子転換」を行う。

1938年、オットー・ハーンとリーゼ・マイトナーによるウランの核分裂の発見。1942年、アメリカに亡命したエンリコ・フェルミが、シカゴ大学で世界初の「原子炉」を作り、臨界に成功。原爆とゲンパツの歴史がここからスタート。原爆は「マンハッタン計画」ですぐに実用化され、1945年に広島と長崎に投下された。

キュリー夫人の研究室には、今も彼女の指紋が残されており、そこからはまだ放射線が出ているという。苦学の人であった彼女が扉を開いた「放射能」の世界。ルブランの『ルパン』シリーズでは、ノルマンディの孤島にあるラジウムのまわりに、大輪の花が咲き乱れ、巨大な果実が実るという楽園を思わせる描写があったのをおぼえている。

当時、明らかに「放射能」はプラス概念で考えられていた。コワいけど、制御すれば有用……原爆はダメだけど、ゲンパツはOK。これは、つい最近まで、たくさんの人のアタマに無意識的に植え付けられていた観念。「原子力」で空を飛ぶアトムのイメージも大きかったかもしれない……人間の観念、妄想というものは、ときとしてオソロシイ結果を生む。

「19世紀」という物語……音楽室の壁に掲げられた音楽家たちの肖像は、何を語る……彼らを音楽室の壁に掲げるのは、日本という国だけに見られる特有の風習であるのか……それとも、世界中に普遍的に見られる光景なんだろうか……私は、なんとなく前者のような気がする。クラシック崇拝。異国の19世紀を神のようにありがたがる……

音楽家の肖像を並べるのは日本だけであるにしても、お隣の韓国とか北朝鮮でも、やっぱりヨーロッパのクラシック音楽を無条件にありがたがる傾向はあるのではなかろうか……なぜ、彼らが「普遍」になるんだろうか……平均率の「発見」なのか……それも大きかったかもしれないが、問題の根は、もっと深いような気がします。

今日の essay:19世紀という病・1

19世紀という病が、広くこの星をおおっている。

燃えあがる巨大なビル……壮麗で、しかも機能的で、人が暮らし、日々を楽しむためのさまざまな設備がはりめぐらされた膨大な建築……それは、日々、増築を重ね、世界をのみこむ……しかし、新しく建てられた部分にもすぐに火の手がのび、炎に包まれて無惨に焼尽される……この、建設と火災の連鎖が、やむことなく世界をおおっていく……。

この病がはじまったのは、やはりヨーロッパ……大バッハの死の年、1750年が一つのピリオドとなるのではないか……私たちがこどものころ、中学校の音楽教室には、作曲家の肖像がずらりと掲げてあった。音楽の父、大バッハと音楽の母、ヘンデルからはじまり、モーツァルト、ベートーヴェンを経てワグナー、ブラームス、そしてストラヴィンスキーあたりまで……

そう、これが、もろに「19世紀」なのだ。拡大版19世紀。それは、1750年からはじまって、20世紀の半ばあたりまで続いた。いや、それは、地域を変えて伝染し、今なお終息の気配もみえない。ヨーロッパは昔日の力を失ったが、アメリカで拡大され、アジアに移る。今ちょうど、朝鮮半島から中国大陸が、19世紀という病に呑みこまれかけている……

19世紀•

19世紀の特徴。それは、人間中心主義ということかもしれない。人が紡ぎだすさまざまな物語。それは、常に拡大する。楽器。かつては人の手の中にあった楽器が、音量の拡大を求め、それは巨大なホールを生んだ。数千人収容のホールの隅々まで届く音量。ヴァイオリンの弦はガットから金属になり、木製のフレームが棄てられて鋼鉄製のフレームが登場……

ピアノフォルテ。それは、20トンもの張力に耐えうる鋼鉄製のフレームを必要とする。その鋼鉄技術は戦艦を生み、戦車を生み、世界を破壊し、生命を根絶やしにする。そして原子力。19世紀の末に誕生した原子の内部に踏みこむ人の力は、とてつもない怪物を生む。原子爆弾とゲンパツ。この二つは、19世紀が生んだ悪魔の双生児。人類に引導を渡すもの……

ピッチインフレ。415ヘルツが440ヘルツになる。人は、緊張の成長を強いられ、人の文明がすべてを呑みこんでゆく。19世紀……それは、まだ終わっていない。人は、19世紀の意味を知るまでは、新しい時代を拓くことができない。民主主義……しかし、それは、人間のことしか考えていない。19世紀は、人にのみ価値を置く時代。すべては人のためにある……

金の輪が支配する世紀。人は、自然から当然のように収奪を続ける。経済の成長の最後のポンプは、自然の中にさしこまれ、間断なく吸いあげ続ける。そして、要らなくなったものを吐き出し続ける。すべては人の、くだらない欲望のために……人の目は宇宙に向けられ、そこも、新たな「資源」の場として……鷹の目の人の奢り……どこまで続くか……

人類は、やはり19世紀を卒業すべきだと思う。そのためにはどうしたらいいのか……右肩上がりの神話をやめてみるのか……金の輪の意味を考えてみるのか……中学校の音楽室に掲げられていた作曲家たちの肖像が、なぜあのメンバーなのか……それを考えてみるのか……そして、ゲンパツと宇宙開発の意味、それを問い直してみるべきなのだろうか……

すべての答は、結局、自然が出してくれるのかもしれない。人が、人自身の文明に対する答を出しきれない以上、自然が出してくれるのを待つしかないのか……ナサケナイ。もろに19世紀の遺物である「オリンピック」をぶらさげられて理性も飛び、「フロイデ……」と歌って、なにか理想を達成したような気分になる……どういうことだろう……

まあ、やっぱり、自然が究極の答を出してくれるのでしょう。ホント、ナサケナイ話ですけど……。