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44

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トランプさん支持が44%……
えっ、44%もいるの?ってリカイが、日本では大勢みたいだけれど……
まあ、51%が不支持らしいですが。

信じられない……アメリカ国民、ナニやっとんじゃー……
そういう声もきこえてきます。
でも、なんとなく、ワカル気もする。
私はアメリカ国民でもないし、英語もわからんので、単に「そういう気がする」ってだけですが……

トランプさん、オバマケアをひっくり返すそうな。
ここで、日本人としての疑問。
トランプさんの支持層のプア・ホワイトの方々……
当然、プアだから、保険入れないという人も多い?
だとしたら、なんでオバマケアを潰そうとするトランプさんを支持するの?
これ、疑問でした。

でも……以前に読んだ本田哲郎さんというカトリックの方の『聖書を発見する』という本に書いてあったことを思い出して、なんとなく、その理由がわかったような気がします。

本田さんは、大阪の釜ヶ先に布教の拠点をもって、日雇い労働者たちと生活をともにしながら長年、イエスの教えを実践してきた。
そのなかで、キリスト教の信者たちが、日雇い労働者たちに「炊き出し」をする、その心理に疑問を持つようになったといいます。

炊き出しの列に並ぶ労働者たち……アルミのお玉が鍋の底をこする音がしてくると心配になる。自分の番まで、鍋の粥がもつんだろうか……
かつては、本田さん自身も炊き出しのとき、イエスの教えを「実践」しているような気になっていた。
しかし、それは大きな誤りである……これに気づいた。

たしかに、労働者たちにとっては、炊き出しはありがたいものだし、ときに生命にかかわることだってある。
しかしそれでも、この炊き出しは、労働者たちの「誇り」を傷つけてるんじゃないか……本田さんは、そう思うようになったそうです。

労働者も、そんな炊き出しに並ぶよりは、ちゃんと仕事をして、それで得た金で安食堂のノレンをくぐって、サバ焼き定食でもなんでも、自分の好きなものを注文して、食う。
そっちの方が、はるかにいい。
でも、仕事がないから並ぶ。
これは……実は、ありがたいんじゃなくて、屈辱なのかもしれない。

そうか……そりゃ、そうだよなー
そう、思いました。
もし自分がそういう境遇になったら、絶対そうだと思う。
そんな「施し」にすがって生命をつなぐよりは、自分の力で働いて得たお金で、自分の好きなものを注文して食う。
もう、それは、比べられないです。
でも、仕事がないから、しかたなく列に並ぶ。
それは、やっぱり「屈辱」だ……

トランプさんを支持した44%の心がわかったような気がした。
オバマケアで、貧しくても保険に入れる。
そりゃ、たしかにいいかもしれない。
だけど……
それって、もしかしたら「施し」とニアミスではないだろうか……

バカにしやがって!
と怒る人も、いないではないかもしれません。
オレだって、仕事さえあれば、ちゃんと稼いで、マトモに保険にも入る。
仕事がないから、それができないんじゃないか……
そういう「貧民」でも、保険に入れるようにしてあげましょう。って?
バカにするんじゃないよ!
そんなおジヒなんかいらねえ!
まともなシゴトをよこせよ!

44%は、きっとこう言いたいんじゃないかなあ……

トヨタがメキシコに工場つくって、関税ゼロで安いクルマがアメリカに入ってくる。
これ、もーどーにもガマンならねえ!
トヨタはどっちの味方や!
アメリカか、メキシコか!

そこへトランプさんの登場だ。
トヨタがメキシコで造ったクルマをアメリカへ入れるなら、高い関税かけるぜ!
よく言った、トランプ!
さすが、オレたちの大統領だ!
……
ということで、女性を蔑視しようが障害者をおちょくろうが、そんなのカンケイねえ!
オレたちは、なにがあろうがアンタを支持するぜ!

評論家やマスコミ、インテリ層が読み誤ったのは、まさにここではないでしょうか。
仕事……その意味……人としての誇り……
そういうものが、ぜんぜん見えてなかったのでは。
それって……炊き出しに並ぶ労働者たちは、きっと「ありがたい」と思ってるはず……
そう思いながら、粥をすくって労働者の差しだす椀に注いでいるキリスト教の方々の心と同じだ……
あなたは、意識してないでしょうが、彼らの「誇り」も「人としての意識」も粉々に踏み砕いてるんだ!
で、そのことを、「私ってなんてすばらしいキリスト者でしょう」と、まちがって思いこんでる。

本田さんの筆は、容赦ないです。
彼は、
「イエスはどっちの側にいる?」
と問います。
炊き出しをするキリスト者の方?
それとも、列に並ぶ労働者の方?
むろん……と彼は言い切る。
列にならんで、自分の番まで鍋がもつか……
そう思う労働者の列に、イエスは並んでおられる。

これ……もしかしたら、最終的な地点なのかもしれない。
ここを読み誤ると、ぜんぶがぐるんとひっくりかえる。
そういう地点に、今、私たちはいるんではなかろうか……

トランプさんに、「メキシコでクルマつくるなら、高い関税をかけるぜ!」
こう言われた豊田章男社長。
彼の発言で、「あっ」と思った箇所があった。

「私たちは、地域社会に責任があるから、メキシコの工場計画はやめない」
なるほど……と思いました。
トヨタの社長は、こういう考え方をするんだ……

私が今、くらしている地域は、豊田市です。
昔は小さな村でしたが、今は町村合併で豊田市に……
でも、村だった頃から、あんまりかわらない。
うちのまわりの人たちは、ほとんどがトヨタか、そのケイレツ企業で働く。
この地域は、トヨタなしにはもう成り立たないでしょう。

で、みんな、どんなふう?
というと、けっこう楽しくやってます。

まず、給金がいい。
下請けや部品メーカーまで、安定して生活できるだけの給料がもらえるんですね。
年金もしっかりしてるから、将来の生活の不安もない。
道路もきれいに整備され、大型ショッピング施設も多い。
生活に、なんの不安もありません。

福祉施設も充実してる。
お休みもちゃんと取れる。
いろんなところに旅行にも行ける。
孫ができても、小遣いくらいやれる。

うーん……これが、「大企業」の実力なんだ……
豊田社長は、その点に、誇りと責任感を持ってるように見えました。
単に、自分たちが儲けるだけじゃなくて……
オレたちは、「地域」そのものをつくってるんだ!と。

で、会社としては、できるだけ生産性を上げないと他社にやられるので、安い労働力を求めて……世界中、どこへでも行く。
行った先の地域全体の生活を向上させて、人々に安定した暮しを約束する。
どーだ、こんなこと、「国」とかにはできんだろー……
私の気のせいか、そんなふうに言ってるようにも見えた。

で、トランプさんですが、彼は、やっぱり44%を気にかけてるんだと思います。
評論家や学者や、インテリどもに見放された44%……
コイツらをなんとかしてやらなにゃー、男がすたるぜ!
そんなふうに思ってるんでしょうか……

44%の心の、奥の奥までグイグイくいこむ。
男トランプ、よっ、大統領!
ということで、ホントに大統領になっちまいました。

でも、私には、やっぱり気にかかることがあります。
経済オンチなんで、よくわからないのですが……
経済のシステムには、かならずどこかに「収奪の構造」ができるはず。

たとえば……18世紀後半~19世紀にかけて、イギリスの産業革命が成功し、イギリスは、オランダにとってかわって、世界の派遣国家となった。
その「成功」を支えたシステムの一つが、大西洋をはさんだ世界貿易システム。

この時代、アフリカでたくさんの人を奴隷にして、新大陸に送りこんだ。
その奴隷たちは、アメリカの南部でインド原産の綿花を栽培し、それによって生まれた大量の綿をイギリスが輸入して、工場で綿織物に加工し、ヨーロッパをはじめ世界中に輸出する。
この、世界貿易システムが、イギリスを世界の派遣国家に押し上げた大きな原動力の一つだったんだと……

そうすると、この貿易システムは、もちろん win-win ではなく、かなりいびつで狂ったものだ。
イギリスやアメリカの資本家にとっては win-win なんだけど……アフリカから刈られて、新大陸に送りこまれたおびただしいアフリカの人たち……
ここには、もう、だれがなんと言おうと、明白な「収奪システム」がある。

もちろん、現代の世界では、こんなロコツな収奪システムを機能させることはできません。
しかし……たとえば、さっきのトヨタのメキシコ工場のことを考えると……
やっぱり、そこには、明白な収奪システムが機能している。
この場合、「収奪される」のは、低賃金で働くメキシコの労働者です。
で、会社はもうかり、安いクルマを買えるアメリカの消費者も儲かる。
しかし……
ここで注意せねばならないのは、「仕事」を得たメキシコの労働者も、やっぱり「喜ぶ」ということです。
明白に、「収奪」されているにもかかわらず……
豊田社長の「オレたちは地域をつくる」という自負も、やっぱりこの「労働者たちが喜んでいる」という事実からくるのでしょう。
ホントの事実は、そこに「収奪」があるにもかかわらず。

もし、「収奪」がないとしたら……
トランプさんを支持した44%は生まれていない。
メキシコの労働者たちに、アメリカの労働者たちと同じ賃金を払う……
それでは、「会社として」は意味がない。

ということで、トランプさんは、きわめて難しいことをやろうとしているのがわかります。
メキシコに工場を造らせないということは、メキシコとか他の低賃金地帯を含む「貿易システム」を拒否することになる。
ということは……アメリカの国内だけで、ソレをつくらなくちゃならない。
じゃあ、どっから「収奪」するの?
会社のシステムとしては、それはほとんど不可能のように見えます。
どうするんだろう……

保護主義貿易は、裏をかえせば、「収奪システム」を世界に拡散させないという、実は、もしかしたら、倫理的には?きわめて立派なシステムなのかもしれません。

しかし……今まで鬼のように、悪魔のように、なりふりかまわず世界中をあさって、「より儲かるシステム」を構築してきた経済システム……
それを、根元から否定することにならないか……

豊田社長のように、収奪システムを、「オレたちは地域をつくる」と胸をはって言い換える人もいる。
実際……彼と、彼の祖先の「作品」であるこの「豊田地域」は、実に立派に仕上がってます。

去年、豊田市のお隣の知立(ちりゅう)の街を歩いたとき、「由布」でしたか……九州の地名を冠した飲み屋があった。
なんで「由布」なんだろう……
同行の人にきいてみると、かつて、集団就職で、この地域は、九州からくる人たちもけっこう多かったみたいです。
で、その人たちが、故郷を偲んで、故郷の名前の飲み屋をつくったりする……と、そこに、その地の人たちが集まる……
なるほど……この「豊田システム」は、こういう人たちによって支えられてきたんだ……
そう、思いました。

もう、この地域の人たちは、みんな豊かです。
かつて、集団就職でこの地にきて、何十年と勤めあげ、今は年金生活の人に話をきいた。
「今の自分があるのは、トヨタのおかげだ」
彼は、そう言いました。

そこに、なんらかの暗い色が混じっていたのか……
それはわかりませんが、少なくとも、感謝の気持ちは明白に示されていた。
「オレたちは地域を造る」
トヨタ社長の言葉が思い起こされました。

人生に失敗すると、家も故郷も失い、大都会を職を求めてさまようホームレスにならざるをえません。
そうか……自分は、そうならなかったし、定年退職後も一生が保証される。
たとえ自分の故郷ではなくても、トヨタのおかげで、自分は「人」になれた。
この地域の人々の、多くの思いかもしれません。

「収奪」は絶対あると思うんですね。今も。
でも……人は、トヨタに感謝する。

ふしぎだ……

44%は、まず救われないと思う。
彼らを含む「収奪システムの再構築」は、アメリカ国内限定では……それは、できっこないでしょう。

移民がどうのというけれど……
移民を受け入れる国は、単に「福祉」でやってるんじゃないでしょう。
「移民を含む収奪システム」を構築して、それで国をまわしてきた。

アメリカだって、さんざんそれをやってきた。
44%が錆ついちゃったからといって……
いまさら、国内だけで、「収奪システムの再構築」ができるんでしょうか……

ま、トランプさんは経済の専門家だから、私みたいな経済オンチにはとうてい理解も、誤解さえできないふしぎな経済システムを用意してるのかもしれませんが……

人間って、ふしぎな生き物ですね……

スタビライザーについて/About the Stabilizer

スタビライザー。英語では stabilizer ですが、なんだろう?……「安定器」と訳せばいいのかな?

人によって、想像するものが違うようです。クルマ好きな人は、独立懸架の左右のサスペンションを連結する部品を思い浮かべるでしょうし、船が好きな人は、船体から突き出したフィン・スタビライザーを、経済学が好きな人は、ビルト・イン・スタビライザーを連想する。

その、ビルト・イン・スタビライザーという言葉ですが、私は、長いことクルマのリアに付いているリア・ウィングのことだと思っていました。なぜそう思ったかはわかりませんが……でも、このリア・ウィングは、はたらきからすればまさにスタビライザーだと思います。

つまり、クルマの速度が早くなれば後方に渦が発生しやすくなるが、これを押える。そして、下に凸の翼断面形状がダウンフォースを生んでリア全体を押し下げ、結果として後輪が地面により強く押し付けられてグリップ力が増し、安定走行をもたらす。
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でも、クルマの部品でスタビライザーというと、やっぱり独立懸架の左右のサスペンションどうしをつなぐ棒状部品をさすみたいですね。英語では「アンチ・ロール・バー」というそうですが、高速走行時に急カーブを切ると、車体が大きく傾く、その傾きを押える効果があるということで、とくに走り屋さんに好まれるとか。

どういう部品かというと、鋼製の棒で左右のサスペンションを連結するという単純なもののようで、これが結果として左右のサスペンションの伸び縮みの差を減少させる役割をはたしているそうな。要するに、高速走行時の急カーブで、一方のサスが伸び、他方は縮むんだけれど、その差を減らして傾きを少なくする、そういう作用があるようです。
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クルマのローリングを押えて安定走行を可能にするということで、スタビライザー。船についているフィン・スタビラーザーも、機構はまったく違うけれど、ローリングを押える効果があるようです。しかも、船の速度が上がれば上がるほど、その効果は大きくなるのだとか。
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クルマ、船……ときて、じゃあ、飛行機にはスタビライザーはないの?ということですが、飛行機に不可欠のあの翼、実は、あれはスタビライザーそのものじゃないかな?と思うのですが……翼にはたらく揚力は、機体のスピードが遅いと小さいけれど、スピードが上がるにしたがって大きくなり、ついに機体全体を持ち上げる。一旦空中に浮かんだ機体は、地面との接触がないのでさらに高速になり、翼の揚力も増して機体を安定的に空中に浮揚させつづける。この作用は、まさにスタビライザーそのものだと思います。

そういえば、ロケットの後尾にも小さな翼がついていますが、あれも「安定翼」というそうです。矢についている矢羽根といっしょで、推進方向に向かって機体を安定させる作用からそういうのでしょうか……矢といえば、アーチェリーの弓にもスタビライザーという部品があるそうで、弓に垂直に取り付けられた棒状部材ですが、あれが一種のオモリとなって、矢を発射するときの弓の捻れなんかを吸収してくれるのだとか。なんか、邪魔な棒が突き出ているなあ……と思っていたんですが、けっこうだいじな部品だったんですね。
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では、ちょっと最初にもどって、経済学におけるビルト・イン・スタビライザーってなに?ということなんですが、オックスフォード経済学事典によると、「特別な決定をすることなく、日常の行動を通じて経済的変動を抑制する傾向のある経済の特徴」ということらしい。

累進課税と失業保険がその一例らしいのですが……たとえば、景気が悪くなると、人々の収入も減り、その結果として税金に取られる額も減る。ということは、使えるお金の急激な減少をふせぎ、お金を使いやすくする。一方で失業給付は大きくなり、社会が「悪くなっていく」速度を減少させ、社会を安定させる効果がある。

逆に、景気が過熱気味になったときには、人々の収入が増える結果、累進課税で税金をたっぷりとられるので、消費を冷却させる。また、失業給付も減るので、社会に回るお金がそれだけ減る。これは、結果として、経済が暴走するのを防ぐ。つまり、安定装置の役割を果たす。

と、こんなことらしいです(私の理解では)。なるほど……累進課税は、お金持ちに社会貢献していただきましょうという社会的公平感で人々の不満を解消するはたらきが大きいと思っていたんですが、実際に、経済の中に組みこまれたスタビライザーだったのか……まさに、経済は生き物だ。

今、AB政権が臨時給付金とかいって、野党が「バラ撒きだ!」と批判していますが、こういうその場しのぎのバラマキは、ビルト・イン・スタビラーザーにはならないそうです。つまり、上の定義における「特別な決定をすることなく」という部分が欠けているので、自動的に社会を安定させる役にはたたない。

ということは、いろんな政策は、単に「スタビライザー」であるだけではダメで、「ビルト・イン」である必要があるということですね。今、日本の社会でも、経済格差がどんどん広がって問題になっていますが、これは結果として社会の不安定化を招くのは明白です。

私の学生時代は、学生運動がいちばん盛んな時期で、東大入試中止になったりしましたが、あの学生運動は、結局社会全体を「変革」するには至らなかった……その理由としてはいろいろなことが考えられますが、燃え上がったのが学生たちだけで、一般社会人はもうすでに共感を覚えなかった……これが、「失敗」のいちばん大きな原因だったのではないか。

だとすると……なぜ、一般社会の人が共感を覚えなかったか……それは、もうすでに、あの時代の社会に、なぜが「ビルト・イン・スタビライザー」がうまく機能していた……そう考えることもできると思います。そして、もちろん、この場合の「ビルト・イン・スタビライザー」は、経済学に限らず、もっと大きな枠組みではたらくものだったのではないだろうか……そんなふうにも考えられる。

やっぱりいちばん大きいのは、60年代の高度経済成長だったのではないか……社会は、パイが大きくなっていくときにはみんなあんまり不満を感じない。一人一人の所得も確実に増えていくし、成長の波にのって「大成功」の希望も抱ける。そういう時代には、スタビライザー機能がはたらかなくても、社会は一見、安定した状態になるのでしょう。

しかし、70年代は、成長がストップした時代でした。学生運動は、この境目に起きたわけですが、高度経済成長にかげりが見えてきたにもかかわらず、人々は、学生の提起した「変革」には乗らなかった。これは、どうしてなのか……というと、やっぱり、60年代の経済成長のなかに……というか、経済成長をしつつ、その後の社会を安定させるスタビライザー機能が、同時並行的に組みこまれていったからではないか……

だから、経済成長率が目立って鈍化しはじめても、人々は、あわてずさわがず……騒いだのは一部の学生たちだけで、それが納まれば日本は安定成長社会に……結果として、その安定期が、2000年を迎えるまで長~くつづいたということかな?

この、日本の社会を数十年にわたって安定させてきた要因はなんだったのでしょうか……それは、たぶん、これから明確になってくると思います。日本の社会は、今、明らかに安定期を脱して不安定な状態に入りつつあります。拡大する一方の格差。所得が激減の結果、共働きでないと成り立たない家庭なのに保育所がない……みんな、「なんでオレだけがこんなヒドい目に……」と思いはじめている。加えて、近隣諸国(とくに中国と韓国)との摩擦感も日に日に大きくなり……

これは、状況の変化によって、今までのスタビライザーがその機能を失ったのか……今、日本の国を動かしている人々に、この状況を安定させるだけのスタビライザーをつくりだす能力があるとはとても思えない……とすると、この先はどうなるのでしょうか。大災害に原発事故……オリンピックみたいなお祭り騒ぎをもってきて、人々の心の表面だけをごまかそうとする政府……

今のABくんの政策を見ると、ガス抜きオリンピックに限らず、「似ると・イン・スタビライザー」つまり「うわべのゴマカシ」でなんとかみせかけの安定を……というようにしか見えません。

ABくんが、なぜ「似ると・イン・スタビライザー」ばかりやりたがるのか……それは、結局、ホントの「ビルト・イン・スタビライザー」は、人々の目から見えにくく、目立たない、つまり、「政権人気取り」の役にはあまりたたない、ということに尽きるのかも。

経済が悪くなってきたときに、「ビルト・イン・スタビライザー」機能に任せると、政府の税収は悪化する。すると赤字国債を大量に発行しなければならなくなるけれど、これは社会の大批判にさらされるので避けたい。となれば、大企業に優遇でもなんでもして、景気の悪化を表面上できるだけ鈍化させたい……しかし、この政策は、明らかに累進課税には反し、社会の「ビルト・イン・スタビライザー」機能を劣化させる。結果として、景気はますます悪化する……

「ビルト・イン・スタビライザー」機能では、景気が悪化したときには、失業給付で社会にお金を回すということになりますが、AB政権では大量の円を刷って、それをばらまく。臨時給付金のように、明らかに選挙対策として目立つようなことまでやる……失業給付の場合には、臨時給付金のように目立つ要素がない。

そもそも、ABくんの基本的な考え方である「シャンペンタワー」、あれは、「ビルト・イン・スタビライザー」機能とは真反対のものではないだろうか……「シャンペンタワー」は、「まず金持ちが潤えば、そのおこぼれが下流に流れて、貧民も潤う」と考えるのだと思います。で、それに則って、税制でもなんでも、金持ち優遇、大企業優遇に傾く。

これは、累進課税や失業保険に代表されるような「ビルト・イン・スタビライザー」機能とまさに正反対だ……「シャンペンタワー」でよく出てくるのは、同じ大きさのシャンペングラスがピラミッド状に積み上げられている図で、これだとたしかに、いちばん上のグラスからはすぐにシャンペンがあふれて、順次下のグラスが潤っていく……

しかし……現実には、そうはならないのでは? まず、グラスの大きさが、上と下では全然ちがう。上のグラスは怪物のように巨大で、下にいくほど小さくなり、最下層のグラスは顕微鏡でみないとわからないくらい……なので、シャンペンを注ぐ以前にもうつぶれて粉々……で、シャンペンを注いでいくと、その重量に耐えかねて、下から2段目も3段目も……順番に潰れていく。

しかも……上のグラスは、巨大なので、なかなか満杯にならない。つまり「おこぼれ」は、絶対に下には届かない仕組み……さらに、上の方のグラスは、シャンペンを注げば注ぐほど、その大きさがデカくなっていく……ので、「おこぼれ」は永久に下には届かず、下のグラスは、上のグラスの巨大化とそれに注がれるシャンペンの重量で次々と潰されていく……
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これが、現実の「シャンペンタワー」で、悲惨なもんです。そして、これは、確実に社会の「不安定化」を招く。すなわち、「シャンペンタワー」理論は社会のスタビライザーにならないどころか、逆に社会を崩壊させる要因でしかない……おそろしいことですが、今、たぶん多くの人が、「同じ大きさのシャンペングラス」の図にごまかされて、「自分もやがて潤う……」と思っている?(まさかそんなことはないと思うけれど)

ABくんは、1960年代の高度経済成長よ再び!ということで、「右肩上がりの成長・発展」にもう一度、見せかけのスタビライザー機能を果たさせようとしているわけですが、日本国民って、そんなのに簡単にごまかされるほど愚かなのかなあ……

こうして見てくると、「ビルト・イン・スタビライザー」機能をきちんと社会に組みこむのは、とてもだいじなことのような気がします。今、世界中で紛争、戦争が頻発して、世界は大変なことになりつつありますが……でも、今、地獄のようになっているアフガニスタンもシリアも、数十年前はかなり平和な国だったと記憶しています。じゃあ、いったなにが……というと、国外からの影響力も大きかったんだと思いますが、国内的にも、「ビルト・イン・スタビライザー」機能をうまく組みこめなかったのでは?という気もする。

イラクにしても……ブッシュ親子が「自由の敵だ!」と叫んで余計な介入をやる前は、フセインという独裁者が、なんとか「ビルト・イン・スタビライザー」機能をはたしていた……そういうふうに見ることもできます。むろん、独裁者が安定要因になるなんて、それはそれで一種の地獄だけれど、なんとか安定を保っていたことはまちがいない。その「ビルト・イン・スタビライザー」機能をアメリカが徹底的に破壊した結果、ISという「もっとおそろしい悪魔」が生まれた……

いろいろもめごとがあって、大丈夫かなあ……と思われる国が、なかなか大混乱に陥らない例も多い。中国も、かなり以前から大丈夫?と言われつづけながら、なんとか「発展」しているし、北朝鮮もそう。ヨーロッパでも、ギリシアやスペインやイタリアなど、経済破綻か?と言われつづけながらも、なんとかもってます。

こういう国々には、やっぱりどっかに「ビルト・イン・スタビライザー」が組みこまれているんでしょう。で、それは、外から見るとなかなかわからない。だから、ブッシュ親子のように「余計なおせっかい」でそれを根底から破壊してしまうようなことをやる。

さて、今の日本はどうなのか……まだ、なんとか社会は「安定」しているように見える。しかし、沖縄も福島も切り棄てて、オリンピックだのなんだのと……はたしてこれで大丈夫なんでしょうか? かつての日本人が巧妙に社会に組みこんでくれた「ビルト・イン・スタビライザー」を、今、われわれは、その価値を知らずに破壊しているんじゃないかなあ……

たぶん、その一つの例が、今、3分の2の人が賛成している「憲法改変」だと思います。特に9条。戦争しない、軍隊持たないというあの「平和憲法」が、これまで、いろんな場面において「ビルト・イン・スタビライザー」として、日本の社会の安定に大きな支えとなってくれていたことはまちがいないと思います。それをとっぱらって、日本を「戦争のできる国」にしようというABくんを、なんと3分の2の人が支持しているというこの現状……

逆に、アメリカなんか、今は、これまでの「戦争大国」という経験から、なんとかして、「戦争にかかわらない国」としてのスタビライザーをつくろうとやっきになっているように見える。評判の悪いトランプさんですが、彼は、アメリカの国民の間にある「なんで、人の国の戦争にまで出てかなならんのや!」という声をうまく吸いあげているように見えます。彼自身はけっこう好戦的だけれど、でも、彼が吸収している人々の声は、「もう人の国の戦争にはかかわりたくない」というものなのでしょう。

こんなふうに見てくると、「ビルト・イン・スタビライザー」というものが、人間の社会にとって、けっこうだいじな要素になってくるのかな……という気がしますね。昔は、「見えざる手」とか「神の見えざる手」とかいわれたこともあるようですが、この「見えない」という点がけっこうだいじであって、実は、これはオートメーションの基本原理にも通じます。

要するに、「いかに目立たないように自動調節装置を組みこむか」ということで、これは、機械にしろシステムにしろ社会にしろ、その「設計者」に要求されるだいじな能力であると思う。

たとえば、温度管理方法なんかで、ある機械の内部を一定の温度に保つ必要があるとすると、いちばん原始的な方法は、人間がいちいち温度を測って、温度が高すぎれば燃料を絞り、低すぎれば燃料を追加するなどして温度調節をする方法だけれど、これはオートメーションとはいえない。社会が相手だと、ABくんのバラマキ政策なんかはこの典型です。

それで、もう少し巧みになると、温度測定を機械にまかせて、センサーの温度が一定範囲を越えると自動的に燃料供給を絞り、一定範囲を下回れば自動的に燃料供給を増やすという仕組み。社会の例では、景気指標をあらかじめ決めておいて、それを下回ればバラマキを自動的にやる……ということかな。

しかし、もっと巧みな方法はあると思います。たとえば、機械室の底部から棒状部材を伸ばして、それを、燃焼室に燃料を供給するパイプの中にさしこみ、先端を、パイプの内径より少し小さい直径の球状にしておく。すると、機械室の温度が上がれば球が膨張して、燃料供給パイプをふさぎ、燃焼室に燃料が供給されなくなる。で、機械室の温度が低下すれば、球が収縮して、燃料供給パイプから再び燃料が供給され、燃焼が盛んになって機械室の温度が上昇する。
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このしくみであれば、センサーという余分な部品を使わないので、制御システムはより簡単になる。こちらの方がはるかに「見えざる手」に近い感じがします。経済学でいう「ビルト・イン・スタビライザー」の例として、累進課税と失業保険があげられていましたが、これらは、この「良くできたオートメーション」になってる気がします。定義における「特別な決定をすることなく」という部分ですね。

人間の社会の「設計者」は、はたしてだれなのか……映画『マトリックス』では、「アーキテクチャー」という存在が出てきましたが、彼の言葉によると、すべてを理想的に設計した場合、人間社会は破綻した……とのこと。ぜんぶを完璧に設計するより、どこかに矛盾を残しておいた方が、人間社会はうまく機能する……考えてみれば、日本の社会においては、9条と自衛隊の関係なんか、まさにそうだったのかもしれません。しかし今、自衛隊が軍隊であるという「事実」に合わせて憲法の方を変えようとしている……

ABくんの言ってることをきいていると、この間の国会での「現場賛美」のスタンディングオベーションでもそうでしたが、なんか、マンガ的に思えてならない……マンガで矛盾をあぶり出し、マンガで解決しようとする……そんなことをいうとマンガ家さんに失礼かもしれませんが、実際の社会に、実際にはたらく「見えざる手」……そのことを、もうちょっと考えた方がいいのかもしれません。われわれは。

人の一生というものは……/Human’s life

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今年のお正月は、京都ですごしました。何年ぶりかなあ……年末年始を京都で迎えるのは……泊まったのは、高野からちょっと北の方だったんですが、懐かしい……という気持ちが自然に湧いてきた。私は、京都生まれで、下鴨神社の近くの家でこども時代をすごした。

今回泊まった場所は、そこからは1km 弱離れているんですが、まあ下鴨神社の領域内といっていいでしょう。近くには、下鴨神社の摂社である「赤宮」という神社もありますし……なにより、仰ぎ見る比叡山のかたちが、こどもの頃に毎日みていたのといっしょ……

比叡山_900
こどもの頃、夕方になると母親が、すぐ近くを流れる鴨川に散歩に連れてってくれた。川向こうの林のかなたに陽が落ちて、あたりが金色に染まり、水面がきらきら輝いている……で、振り返ると、そこには夕暮れ色に染まった比叡の山が……こどもの頃、毎日見た景色というのは、やっぱり忘れないもんですね。

場所……というのはふしぎなもんです。今回泊まった家の前の道は、いわゆる観光地の京都じゃなくて、全国どこにでもあるごくフツーの街並……あんまり広くない道の両側に、お店があったり会社があったりマンションやアパートがあったり……ちょっと曲がるとコンビニが……

大原道_900
そういう、「フツーの路地」が、そのものさえ、なぜか懐かしい。これはふしぎでした。「場の力」というのでしょうか……あるいは、下鴨神社の神様の力が、やはりその土地を覆っているのだろうか……私は、こどもの頃に京都を離れて名古屋に移りました。そのあと、学生時代に、京都に一時下宿をしていたこともあるけれど……

もう何十年も、京都から離れて暮らしている。でも、京都を訪れて、こどもの頃に暮らしていた場所のそばにくると、やっぱり「自分の土地」はここだなあ……と思います。人の一生……東照大権現神君家康公のように重い荷を負って遠くまで歩む人もいれば、私のように軽い荷さえいやがって……

できるだけ近道したい……という一生を送った人もいる(まだ過去形じゃないけれど)。人の一生って、いったいなんでしょう。いったい何をやったら、「その人の一生を生きた」ということになるのか……これは、いまだにわかりません。人生あとわずかで? いや百まで生きるのかしらんけど、どっちにしても、それがわからなくいいの?ということなんですが……

たぶんほとんどの人がそうだと思う。ただいえることは、人と土地との結びつきって、意外に強かったなあ……ということです。若い頃は、なんでもできるしどこでも行けると思っていました。でも、もしかしたら、人は、自分でも知らないくらい「土地」に結ばれているんじゃなかろうか……

私がおもしろいなあと思うのは、三河の生まれの神君家康公は、生涯その目を東に向けていたのに対して、尾張生まれの信長公と秀吉さんは、一生西に向かう傾向性を持ち続けていたということ。尾張と三河って、今は同じ愛知県で、その境に大山脈とか大河があるわけでもありません。

境川という小さな川(二級河川)があるんですが、上流はもうほとんど認識できないくらいの小川になっていて、車なんかだと、まったく気がつかないうちに尾張から三河に入ってしまいます。でも、やっぱり尾張と三河は、画然と違う……言葉も、尾張の言葉はすぐ北の美濃(岐阜県)の言葉とよく似ているけれど、三河の言葉は、その東の遠州(静岡県)の言葉とほぼ同じ。

愛知県_600
こういうことは、いろんな土地にあって、その感覚は、そこで生まれ育った人しか、実は正確にはわからないものなのかもしれません。なにが、それを決めるのだろうか……

今は、その土地のものだけじゃなくて、スーパーに行けば「世界の食材」がカンタンに手に入ります。「土地の食べ物」が<その感覚>を養うんだとすれば、今の人は、もうすでに昔の人が持っていた「そういう感覚」をかなり失っているのかもしれない……あるいは、目に見えない「土地の気」のようなものなのでしょうか。

たとえば火山の噴火とかの大災害で、住民全員がその島を離れなければならない……三宅島とかそうでしたが、避難先で暮らしている人のインタビューで、少しでも早く島に戻りたいという人がけっこう多い。一旦おさまっても、いつまた噴火するかわからないのに、なんでそこまで……と思いますが、やっぱりそれは、その土地に生まれ育った人にしかわからない。

だから、難民の方々って、たいへんだなあ……と思います。自分の生まれて、育った土地から、自分の意志じゃなくて強制的に排除され、見知らぬ地域をさまようハメになる……これが「自分の意志」だったら、まだある程度は納得できるかもしれません。いや、人によっては、見知らぬ土地で暮らすことに憧れを抱くということもあるでしょう。

しかし、自分は、この生まれて育った土地で一生を終えたいと思っているにもかかわらず、外側からの圧力で追いだされてしまう……これはもう、そのものが根源的な悲劇だと思います。あるいは、自分が生まれて育った土地に、外国の軍隊がやってきて基地をつくってしまう……これも悲劇だ。

そしてラスボスのゲンパツ……金のために故郷を売る。これほど悔しく、悲しいことはない。おまえらの住んでるところは、街から遠いから、放射能まみれになってもいいんじゃない? その分、金と仕事をやるからさ……これって、ものすごい侮辱だと思う。しかし、いくら悔しくても、生きていくために受け入れてしまった……

世の中、こういう悲劇に満ちています。昔、岐阜県の徳山村というところを、野外活動研究会のみんなと訪れました。岐阜県といっても、もう山一つ越えれば福井県……というところだったんですが、もう今は、この村はありません。

徳山_900
徳山ダム……これですね。このスゴイダム(ロックフィルという構造では日本一の規模)を造るために、この村の人が住んでいる集落はみな、水の底に……1970年代終わり頃に行ったときはまだ、村は生きてましたが、もうお年寄りばっかりで、みんな静かに「村の死」を待っている状態だった。

いろんな人に話を聞きました。みんな、この村がいいという。それはまあ、何十年も暮らしてきたお年寄りばっかりなので、当然そうなんですが、若い人は、やっぱりほとんどいなかった。もうとっくに保証金をもらって、村の外で「次の暮らし」をはじめていた。

反対運動はなかったんですか?と聞いたんですが、あんまり明確な回答が得られない。もうみんな、「水没」が前提で、今さら……という感じ。のちに、偶然ですが、徳山村出身の青年に名古屋で会いました。反対運動について聞くと、彼自身がその運動に加わっていたそうです。でも、潰してくる側との圧倒的な力の差があって、みんな結局あきらめ、彼自身もインドに行く道を選んだ……

ああ、やっぱり反対運動はあったんだ……そう、思いました。村の中では、ハッキリ聞くことはできませんでしたが……しかし、ダム、こさえたるでー!という勢力にくらべてあまりに微弱……昔から住み暮らしてきた「先祖の地」を追われるんだから、もっと抵抗してもいいのでは……というのはよそ者の考えで、実際の「現場に働く力関係」は、これはもう、なんともならない圧倒的なものだったらしいです。

徳山村は、どこからアプローチするにしても、険しい峠を越えなきゃならない。この峠が、冬は雪で通行止めになる。人の往来も、物流も滞る中での、雪に埋もれた数ヶ月……若い人には絶対にガマンできないから、みんな、ダムの話の前に街へ街へと……仕事、家族、学校のことを考えれば、当然そうなるのでしょう。ということで、「現代文明」を前にして、村の実質はかなり死に近づいていた……ということもいえるわけです。

今、私が住み暮らしているところも、愛知県の「奥三河」と呼ばれる山間地域の入口で、人口がゆるやかに減少しつつある、いわゆる「限界集落」です。 といっても、まだ名古屋とか豊田に近いので(一応豊田市域)ほとんどの人は勤めを村の外に持ち、毎日通ってる。でも、まだまだ、自分の生まれたこの土地に愛着を持ってる人は多い。しかし、こどもたち世代はどうなのかな……

要するに、自分の根っこをどこに感じるか……ということなのかもしれません。私みたいに、こどもの頃に生まれ育った土地を離れてしまったものは、根っこがない。この状態がいいのかわるいのかときかれれば、やっぱりよくないと思います。価値観が、なんというか否定的になる。どっちみち……ということで、神君家康公みたいに「人の一生は……」ということにはなりません。まあ、ぜんぶがそのせいじゃないにしても。

家康の鎖国政策は、いろいろ言われますが、結局はこの問題だったような気がします。つまり、人と土地の結びつきを重視した。そこがちゃんとなってないと、人はホントの力を出せない。この「ホントの力」というのは微妙な考え方で、たとえば海外遊飛(ナント古い言葉)で世界中駆け回って大活躍している人でも、それが「ホントの力」なのかというと、これは考えどころかな……と思います。

今の世界、経済優先で、企業はできるだけ安い人材を求めて世界中に工場をつくる。家康公の考え方からすれば、これはもうムチャクチャです。どれだけ発展しているようにみえても、それは見せかけにすぎず、実は、本質的なところは「破壊」だ。世界一の企業が、今、私の暮らしている街にありますが、この企業のやり方を見ていると、家康公の考えをかなり厳格に守っているところと、まったく反対の考えの二つを持ってるような気がします。

それが、一つの会社としてまとまってるんだからふしぎだなあ……と思うのですが、案外、「生産」にかかわる仕事って、そうなのかもしれません。とすると、ホントに危ないのはいわゆる「虚業」なんでしょうか……歴史には詳しくないですが、家康公は実業タイプ、信長さんと秀吉さんはどっちかというと虚業タイプだったみたいな気がします。海外遊飛に夢を馳せた信長と、朝鮮半島を手がかりに大陸をのっとろうとした秀吉……

これに対して、家康は、「アホなこと言っとらんで、国内をちゃんと固めようよ」という考えだったみたいに見える。幕末から明治期にかけて、アジア諸国が次々と欧米の植民地にされていく中で、日本という島国がナントカ独立を保てたのも、元はといえば家康さんが、「土地に結びつく」政策の基礎を地道に、しかしラジカルにつくったから……これを元にして、日本はちゃんと自前の「19世紀」をやって、「近代」に歩調を合わせていくことができた……

歴史の専門の方からみると、こういう見方はきわめて大雑把で、まちがいだらけなのかもしれませんが……なんか、そう思ってしまいます。人と土地……これは、最大限に広げていくと、この地球という「場所」と、そこに住み暮らすわれわれ人類の「限界」という考え方になる。人類は、地球から出られない。これが、私が最終的に到達した思いなのですが、いかがでしょうか?

交換価値のある世界/The exchangeability

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この項は、『1700万円のアイスクリーム』(リンク)の続き(リンク)の続きです。

ライプニッツのモナドは、『窓を持たない。』これは、本来モナドというものは、他者との交流が存在しない存在であるということ……こういうふうにしか解釈できません。しかし、現実のこの世界では、われわれは、いろんなモノ、いろんなヒトと「交流」しつつ生きています。これはいったい、どういうことなんだろうか……

私が、私であること、だれかがだれかであること、そしてなにかがなにかであること……「モナド」は、この「一性」を保証するものであって、「……であること」そのものだと思います。しかし、これと「他との交流」は、根本的に矛盾する。私の中に「他者」が入ってきた場合、つまり、モナドに「そこを通じてなにかが出入りする窓があった場合」……

私の「一性」は崩れ、私は、私なのか、それとも流入してきた「他者」なのか、わからなくなる……するとこの世界は、すべてが混沌として、今みられるような、私が私であること、だれかがだれかであること、そして、なにかがなにかであること……そのすべてが混交して、完全なカオスだけがある「全体=一者」とならざるをえない。

アイスクリームが1700万円であること、あるいは300円であること……今の私たちにとっては、その差、つまり1699万9700円は、まことに大きな開きに見えますが、もしモナドに「窓」があったとしたら、1700万円も300円も、どっちでも一緒にになってしまう。すなわち、アイスクリーム一個が1700万円で流通する市場も、300円で流通する市場も同じ……

ということは、「市場」そのものが成立しないことになる……なにを極論を言ってるの?と思われるかもしれませんが、ある一定の「市場」が成立するためには、「私」という「一性」、これを、人間(のモナド)一人一人が具えている必然性がある。そうしないと、アイスクリーム一個のお値段が「市場」で決まることはないでしょう。

私は、以前は、こういう社会経済の問題が苦手で、個としての自分は、いったいなんだろうか……ということにばかり関心が向かっていました。個としての自分の謎……それにくらべれば、社会や経済の問題など、とるにたらないのではないか……ダレが貧しかろうが、ダレが儲けておろうが、そんなことは人間の「我欲」の問題で、「真理」からすればとりあげるに値しない……

しかし、このライプニッツのモナド論に含まれる根源的な矛盾、すなわち、「個であるモナドが、他と交流できるのはなぜか?」という疑問につきあたってからは、もしかしたら、社会経済的な問題というのは、根源的に、「個である自分と他者」の関連に帰着するのではないか……と思うようになってきた。そうすると、ここのところはけっして無視なんかできない大問題だ……

動物はどうなんだろうか……猫なんかを見ていると、もしかしたら人間ほど「自分」と「他者」の区別はないんじゃなかろうか……とも思えてくる。猫になったことがないのでわかりませんが、人間が猫を見ていて、一匹一匹の猫が「分かれて」見えるほどには、猫にとって、自分という猫と他の猫、さらにいうなら、自分をとりまく環境全体は、分かれては認識されていないのでは……

私は、この問題と、「人間だけが市場をつくる」という問題が、どうも不可分のように思えてきました。猫は、交換経済を知らない。他の猫となにかを交換することによって、自分の暮らしを成立させていくということをやりません。しかし、人間はやる。なぜだろう……人間の社会では、どんな世界のすみずみまでも、「交換経済」が行われ、さまざまな「市場」ができあがっていく……

「原始」とか「未開」とかの社会はしりませんが、必ずそれは生まれてくるのではないだろうか……そして、その「市場」がいったん生まれてしまえば、それは、「為替」というマジックによって、一瞬にして「世界全体」に開かれてしまう……これが、今の世界の根源的なありようのように思います。モナドの窓……これは今もないのでしょうが、あたかもあるかのように……

人間というのは、やっぱりふしぎな存在だと思います。猫が「交換経済」を編み出して、世界中の猫と、「市場」を介してつながっていく……こんなことは、考えることも難しい。しかし、たとえば一匹の「蚊」はどうなんだろう……と考えると、これは、なぜか猫より難しいように思えます。「蚊の交換経済」……もし、そういうものがありえるとしたら……

蚊の世界の「貨幣」は、動物の「生き血」になるんだろうか……ドラキュラみたいな「血を吸ういきもの」の世界では、貨幣が「生き血」になることは十分に考えられます。最近公開された映画で『ジュピター』(原題は『ジュピターアセンディング』)というのがありましたが、あの中では、「人間」を収穫して、「命の水」を搾り取り……その「命の水」を貨幣として取引していた……

しかし、蚊を見ていると、「生き血」を貨幣として「市場」を成立させているようには見えないし、猫を見ていても、マタタビを貨幣としているようにも見えません。なにかを「貨幣」として、交換経済を行って「市場」を成立させているのは、おそらくこの地球では、人間だけなんでしょう。とすると、「ヒトのモナド」は、他の存在のモナドと、なにかがちがっているのか……

身体性ということに着目するなら、猫や蚊は、その身体性において、「他者との交流」を行っているように見える。この点は、ヒトもまったく一緒で、なにかを食べて「同化」し、また「異化」して排泄する……呼吸もそうだし、なにか精神的なものさえそのように見えてきます。脳のシナプスは、外界の刺激を受けて組み立てられ、組み直されていく……

しかし、人間の場合には、やっぱりそこに「市場経済」というのが必ず介入する。自給自足という概念があって、最近ちょっとはやりですが……これは、端的にいうなら「市場の否定」であって、これを究極的に実践するということは、「意識してモナドの窓を閉じる」ということになると思います。というか、モナドにはもともと「窓」はないから、「モナドに窓がないということを、どこまでも意識する」ということにほかならない……

日本の江戸期の「鎖国」政策を考えてみますと、あそこでは、日本という島国の中では、「ほぼ自給自足」が成立していた。しかし、日本の中ではやっぱり「市場」が形成されて、いろんな取引がありました。そういう意味では、あれは根源的な「自給自足」とはいえない。じゃあ、ホントの自給自足ってなんだろう……と考えてみると、これは、とても難しいんじゃないかと。

あるTV番組で、瀬戸内の島を買って「自給自足」をやってる人(タレントさん)を紹介していました。でも、太陽電池パネルは反則ですね。工業製品だし……そのほかにも、いろいろ工業製品を使っている。だいたい、島に渡る船だって、だれかが造ったものを買っているわけだし……「市場」の網からは逃れていない。

そもそも「自給自足」をやろうと思った時点で、これは「市場」を意識しているから「負け」だと思います。それより、もしかしたらホームレス生活の方が「自給自足」に近いんじゃないかなあ……やったことがないからわかりませんが、人間がつくりだす「市場」から外れる、外れない……は、もしかしたら、「意識」の問題なのかもしれません。

人のモナドは、なぜか、「他者との交流」に「市場をつくる」道を選択する。これは、おそらく世界のどこでもそうで、この「市場をつくる」という働きが、もしかしたら「人間であること」そのものなのかもしれない……もし、世界に、自分という人間ひとりしかいなかったら、当然「市場」をつくることはできない。要するに、自分以外の他者には、そういう「ヘンなこと」をするヤツがいないから……

では、自分と、もう一人の人間「他者」がいた場合はどうなのか……自然から「取って」きたものを、互いに「交換」するということはありえるでしょう。でも、それを「市場」といえるのか……といえば、ちょっとムリがあるような気がします。まあ、「相場」をつくろうと思えばつくれないことはないのでしょうが、でも、二人だけの「相場」は、はたして「相場」といえるんだろうか……

じゃあ、3人では? 4人では? ということになるんですが、こういう設定もあんまり意味がないのかもしれません。要は、人間と、他のいきものは、いったいどこがどう違うんだろう……ということで、そこは、もしかしたら「普遍」意識がからむのかもしれないと思います。つまり、自分と自分に接するまわりだけで世界が成立しているのではない……という意識なのかな?

これは、もしかしたら想像力なのかもしれませんが……目の前で、リンゴが樹から落ちる……いや、私はまだ、リンゴが樹から落ちる光景を見たことがないから、棚からボタモチが落ちる……とでもしましょう。うちの棚からボタモチが落ちれば、当然、よその家の棚からもボタモチが落ちるだろう……これは想像力ですが、自分とこだけじゃなくてよそも……というのが「普遍」意識の萌芽かも。

「市場」は、この「普遍」意識と密接に関連すると思います。一つの市場で、AさんがBさんにCという品物を100円で売ったとしたら、Aさんは、Dさんにも同じ品物を100円で売らなければならない。これが普遍的な交換価値であって、人によって200円になったり50円になったりするんでは「市場」は成立しない。やっぱり、これを担保するのは「普遍」意識なのでしょう。

ところが、この品物を別の市場に持っていったら、10円になった……あるいは1000円になった……こういうことは、よくあることだと思います。市場は閉じていて、その中だけで「普遍」が成立する。そして、市場には、モナドと違って「窓」があって、それは「おカネ」自体の交換価値を決定する為替の働き……ここらへんになるとよくわかりませんが、たぶんそういうことでしょう。

では、人間以外の動物に、なぜ「市場」がないのか……といえば、それは、やはり、彼らには、「普遍」意識がないからなのでしょう。「普遍」意識はとてもふしぎなもので、本当に存在するのは今、ここにあるモノだけなのに、想像力で「世界」とか「歴史」とかを編み出してしまいます。そして、いったん編み出された「世界」や「歴史」は、あたかも「今、ここ」の「上に」君臨するかのように意識される。

ライプニッツは、「モナドの支配」ということを言っています。これを私の理解で言うと、たとえば、私自身もモナドだけれど、私の身体をつくっている60兆の細胞の一つ一つもモナドである。しかし、私という一つのモナドが「歩くぞ!」と思えば、その60兆のモナドすべてが「私が歩く」に奉仕する。このとき、私という一つのモナドは、60兆のモナドを支配している……

単純な解釈かもしれませんが、そんなように思います。まあ、実際には、一つの細胞を構成しているいろんな要素も一つ一つがモナドだから、60兆のモナドの支配だけで終わるわけはなく、さらにその何兆倍、何十兆倍のモナドを支配する……生命は、みな、こういうふうに、一定期間他のモナドを支配する体勢を与えられているから、まとまった「個体」に見えるし、「個体」としてふるまう。

しかし、通常は、私というモナドに、全身の細胞60兆のモナドを支配しているぞ!という意識はありません。これは私だけじゃなくておそらくどの人もそうだし、どんな生き物でもそうでしょう。まあ「食べる」という行為自体、「他のモナド」を自分に組み込んで「支配するぞ」という宣言になっているわけだし……でも、そのことは意識せず、「うまい、うまい!」と言って食べてます。

しかし、人間が、「普遍」を意識したとき……少し様相は変わると思います。人の目は、人の心は、眼前の「生の現実」から離れて漂いはじめ、「今、ここ」にはない世界へと心が開かれていく……これは、もしかしたら「モナドの窓」が開いたのか……なんて思うんですが、たぶんそういうことはない。なぜなら、モナドに窓はないから……にもかかわらず、ないはずの窓が開く。これはふしぎなことだ……

人が「市場」をつくりだしてしまうのは、もしかしたら、ないはずのモナドの窓が「普遍」意識によって開いてしまったとき、それでもなお「統覚」を保持するために「普遍意識」自体を囲い込みに出る……その働きによるのかもしれないと思います。わかりませんが、「市場」の囲い込む性質を考えてみるとき、なぜかそういう気持ちになる。檻から放たれた獣の不安……

とりあえず、今私に考えられるのはここまでなのですが、この問題は、人の「個」であることと「社会的存在」であることをつなぐねじれた糸のようなもの……吉本隆明さんの言うように、「個である私」と「社会」は常に倒立関係にあるものだとすれば、それはやはり、モナドの持っている根源的性質であり、畢竟、それは、モナドの「一性」に還元できるものなのかもしれません。

関連記事:<金の環>、<愛知トリエンナーレを見る・その3

1700万円のアイスクリーム(続き)/This ice cream costs 170 thousand dollars.(continuation)

イスラムコロール
この間の夢(リンク)がずっと尾を引いています。パリの大評判のお店で注文したアイスクリームが1700万円。そんなアホな……ということで、夢だから……と片づけられればいいんですが、ホントは、実は、それくらいのお値段ではないか……

いや、もしかしたらそれ以上かもしれません。ものの値段の付け方って、きわめていいかげんだと思います。今の値段の付け方は、市場価値というか、求める人がどれだけいて、いくらなら出してもいいと思っているか……そこで決まってくるような。

だから、いくらパリでも、アイスクリーム一皿が1700万円ということはありえない。もしそんな値段を付けたらだれも買わない。宝石や芸術作品なんかは、カンタンにその値段を越えるものもありますが、それは、それくらい高価でも買う人がいるから。

しかし、「市場で決まってくる値段」というのには、実は、その「市場自体が成立するための価格」というのは含まれていないわけです。その市場が成立して、それを前提にして、そこで、需要と供給が決まってくる。そういうことだと思います。

では、いったいなにが、その「市場」を維持するのだろうか……といえば、それは、端的に「力」なんでしょう。たとえば、パリの街で、アイスクリーム一皿が日本円に換算して、300円くらいで食べられたとします。

しかし、その「アイスクリーム一皿300円@パリ」を成立させているのは、フランス軍がシリアに向けて繰り出した、あの「シャルル・ドゴール」というごたいそうな名前を持つ空母なんかに象徴される「力」、もっといえば「暴力」にほかならない。

これは、日本でも一緒で、日本は「軍隊を持たない」とか言ってるけれど、「自衛隊」という立派な軍隊があるし、沖縄をいぢめぬいて米軍という世界最強の「暴力」も駐留させている。その「力」の背景で「市場」が成り立ち……

日本でも、アイスクリームが一皿300円で食べられる……しかし、では、その「しわ寄せ」はどこへ向かうのかというと、世界の多くの「力を持たない人たち」、もっと言えば「力によって支えられている市場を持たない人たち」なのでしょう。

ここを考えてみた場合、パリや日本でアイスクリームが300円といっても、それを成立させている「市場」を支える「力」を加味した場合、この「お値段」は劇的に変化すると思うのです。まあ、陳腐な言葉を使えば「搾取」ということになりますが……

わかりやすく言えば、世界中の人たちに、パリの人がもらっているのと同じ「賃金」を払った場合、どうなるか……「文明国」の市場を支えるためのコストは、一気に膨大なものにふくれあがるでしょう。まあ、「搾取分」を全部払うということです。

「文明国」の、今の市場を支えるために、世界中でどれほど多くの人々が抑圧され、犠牲となっているのだろうか……そこを考えてみた場合、フランス人がテロを行う人たちを「無知」とはけっしていえない。「無知」は自分たちじゃないの? ちょっと考えればわかるのに……

あるいは、米国の同時多発テロで殺された人たちのことを「罪のない人々」ともけっして言えないことはすぐわかる。「力」は、それを持っている側の人たちにとっては「透明」になる傾向があるから、そのことはケロッと忘れてしまうのですが……

実は、「罪のない人々」がモノを売り買いしている「市場」が、「暴力という力」によって支えられている。この力に抑圧されている側の人たちには、これはもう「生存の危機」だからきわめてよく見える……というか、日々壁のような実体として迫ってきます。

これは、ダレが考えても不公平きわまる世界なんですが……さらにもっというなら、「人間の市場」を成立させるために「人間以外の存在」が常にこうむっている強烈な圧迫があるはずです。みずからは力を持たないと思っている人も、人であることによって、この「力」を行使する。

ここのところを考えてみると、「モノの値段」というのはさらに、驚くべき天文学的数字に達するはずです。私は、ここのところを明確にするために、「モノの値段」の一つの根源的算出方法を提案してみたいと思うのですが……

たとえば、パリの街で、アイスクリーム一皿を日本円換算で300円で売ってたとします。じゃあ、この一皿のアイスクリームを客の前に出せる形にするために、どれだけの「存在」が改変をこうむってしまっているか……

それを考えるには、その「一皿のアイスクリーム」が存在しなかった状態にまで「全自然」を戻すために、いったい「いくらかかるか?」それを考えてみればいいと思うのです。その全行程をお金に換算して、それを積算した額が……

実は、この「一皿のアイスクリーム」の本当のお値段である……そう考えてみればいいのではないでしょうか……たとえば、原材料の牛乳をつくるために牛を飼うとしたら、そのスペースがいる。牛舍という形に改変された「自然」を元に戻すためには、いったいいくらかかるか……

あるいは、アイスクリームを冷やす行程でかかっている電気。その電気を供給する発電所を解体して、敷地全体を「元どおりの自然」に戻すためには、いったいいくらかかるのか……もし、発電所が原発だったら、これはタイヘンなことです。

その原子炉の中に溜まった放射性物質を、全部元の状態に戻さなければならない……これは、今、そういう技術はないので、その技術の開発からはじめねばなりません。いったいいくらかかることやら……これはもう「無量大数」というしかない。

牛乳やアイスクリームを輸送するためにトラックを使ったとしたら、燃料の石油を、元あった地面の中に正確に埋め戻すまでやらねばなりません。また、トラックの通った道も、すべて「元の自然」に戻さなければならない……いくらかかるか……

こういうふうに考えていくと、「全存在の負担」をすべて取り除いて、人間の手が入る前の状態にまで戻すには……もうこれは、天文学的という言葉もちっちゃくなるくらい膨大な「お金」がかかる。そういうことを、人は、自然に対してやっている。

「一皿のアイスクリーム」の値段を、「全自然」を背景にして算出しようとすると、そういうことになる。もうこれは、とうてい1700万円とかの「ハシタ金」ですむ話ではないのです。オソロシイ……そこまでして、「パリのアイスクリーム」を食べたいのかなあ……

コロールイスラムのコピー
<補足>
この話で、もしかしたら、「動物だって、昆虫だって、自分のためにまわりを改変するじゃないの?なんで人間だけ、改変したらあかんの?」という疑問をお持ちの方もおられるかもしれません。しかし……動物も昆虫も、「市場」はつくりません。

「市場」というヘンなものをつくって、「お金」でモノを売り買いするのは人間だけ。「人間」の定義には、「言葉を持つ動物」とか、「社会的動物」とか、いろんなものがあるようですが、私はここに、「市場をつくる動物」というのを加えたらどうかと思います。

「市場」というのは、考えてみたらふしぎなものですね。「お金」は人類の「共通言語」で、「為替」の働きによって、世界中をくまなく「一つの価値感」で結びつける。しかし「市場」は、あるグループを形成して、閉鎖する働きをする。

「お金」という、どこまでも開放し連鎖させていく機能と、「市場」という閉鎖し、囲いこんでいく機能が両輪となって、この「人間の世界」は形成されている。むろん、人間の世界にも、この両者にカンケイしない部分はあるが……

いわゆる「カネで買えないモノ」というヤツでしょうが、これについては、実は、人間は、他の動物や存在となんら変わらないんだと思います。いくら高尚ぶっても、それは、人間という種の一つの特性であって、花が咲き、実がなることと本質的に変わらない。

結局、人間が、他の生物とまったく違うのは、この「市場をつくる」という働きではないだろうか……これは「限られた普遍」というまことにやっかいなモノを生み出します。「普遍」であればすなわち「無限定」になるはずなのに……

この「市場」は、「普遍」の顔を装いながら、見事に限定的で排他的である……これは、人間という種のつくりだした、もっとも欺瞞的な「発明」ではないか……そう思います。すると、残る問題は、この「市場」は、人間において本質的なものなのか……

それとも、人間という種は、なにか他のシステムを選ぶ可能性も残っているんでしょうか。TPPの問題なんかも、実はここのところが本質にあるような気がします。もし、別のシステムを選べる能力があるのなら……それは、どんなものになるのでしょうか?

1700万円のアイスクリーム/This ice cream costs 170 thousand dollars.

鳥一社東_900
こんな夢を見ました。

パリの夜。にぎわいにつられて、ある店に入った。
そこは、高級アイスクリームの店だった。大人気で、店内は順番待ちになっている。

ようやく私の番がきて、通されたのは、一人の日本人女性との相席。
混んでるから相席もしかたないか……と思い、評判のアイスクリームを注文する。
もうじき奥さんもくることになっていたので、二人で食べようと思っていた。

まもなくアイスクリームが運ばれてくる。うわさにたがわず、とてもおいしそう。
ところが、そこに支配人風の男がやってきて、こう言った。

「お客さま、このアイスクリームは17万ドルですが、それでもお食べになりますか?」
彼は、当初フランス語で値段を言ったが、フランス語はわからないというと、英語で「17万ドル」と言い直したのである。

私は、一瞬、わからなくなった。
「つまり、170万円ってこと?」
「いいえ、1700万円でございます。」

「食べるよ。」
思わず、そう答えてしまった私。
その瞬間から、1700万円の借金を抱えることに。
ほどなく、妻がきた。

……………………

この夢は、なぜかリアルで、目が覚めてからも、「1700万の借金!どうしよう……」という思いがしばらく尾をひいた……

パリのテロのことが思い出された。

TVで、今回のテロで妻を亡くした男性の文章が紹介されていた。文章は、テロリストに呼びかけるかたちで、次のように書かれています(かなり重要な内容なので、全文を紹介します。なお、文中に「メルヴィル」とあるのは、劇場で射殺された彼の妻との間のこどもです)。

…………インターネットより、フランス語原文を日本語訳にした文章を引用…………

あなたたちは私に憎しみを抱かせることはできません。

13日の夜、あなたたちは特別な人の命を奪いました ―― 私が生涯をかけて愛する人であり、私の息子の母親です。 しかしあなたたちは私に憎しみを抱かせることはできません。私はあなたたちが何者かを知らないし、知りたいとも思いません。あなたたちは魂を失った人間です。彼のためには殺人をもいとわないほどにあなたたちが敬っている神が自分の姿に似せて人間を創造したのだとしたら、私の妻の体に打ち込まれた全ての銃弾は、彼の心を傷つけたでしょう。
私はあなたたちの願い通りに憎しみを抱いたりはしません。憎悪に怒りで応じれば、今のあなたたちのように無知の犠牲者になるだけです。あなたたちは私が恐れを抱き、同胞に不審な気持ちを持ち、安全に生きるために自由を失うことを望んでいる。あなたたちの負けです。
今朝、私は彼女に会いました。この数日、ずっと待ち望んでいた再会です。金曜日の夜に外出した時と同じように彼女は美しかった。12年前に私を夢中にさせた時と同じように美しかった。もちろん私は痛みに打ちのめされています。その点については、あなたたちは少しは勝利をおさめたのかもしれない。しかし痛みは長くは続きません。彼女はこれからも私たちと共に生き続けます。そして私達は再び自由に愛しあえる楽園で会えるのです。そこは、あなたたちが入れない場所です。
私と息子は二人きりですが世界中のすべての軍隊よりも強い。これ以上あなたたちのために使う時間はありません。メルヴィルが昼寝から目を覚ましたので、彼のところに行きます。彼は生後17カ月。普段通り食事をし、私と遊び、そして幸せで自由な人生を過ごすことで、あなたたちに勝利するでしょう。彼もあなたたちに憎しみ抱くことはありませんから。

…………掲載元:http://www.huffingtonpost.jp/2015/11/18/husband-of-paris-attack-sends-message_n_8589032.html…………

私は、この文章に、共感できるところとできないところがあります。

共感できるのは、やっぱり突然奥さんを亡くした悲しみ……ですかね。あと、「彼のために殺人をもいとわないほどにあなたたちが敬っている神が自分の姿に似せて人間を創造したのだとしたら、私の妻の体に打ち込まれた全ての銃弾は、彼の心を傷つけたでしょう。」というところ。いかにもフランス人らしいもってまわった言い方ですが、ここは、キリスト教とイスラムの神が「同じ」である……つまり、彼らは同一の神をいただく「近い文明」であることがよくわかって興味深い。

で、共感できないところは……
「私はあなたたちが何者かを知らないし、知りたいとも思いません。」
「私はあなたたちの願い通りに憎しみを抱いたりはしません。憎悪に怒りで応じれば、今のあなたたちのように無知の犠牲者になるだけです。」
「彼女はこれからも私たちと共に生き続けます。そして私達は再び自由に愛しあえる楽園で会えるのです。そこは、あなたたちが入れない場所です。」

そして、結びの文章。
「私と息子は二人きりですが世界中のすべての軍隊よりも強い。これ以上あなたたちのために使う時間はありません。メルヴィルが昼寝から目を覚ましたので、彼のところに行きます。彼は生後17カ月。普段通り食事をし、私と遊び、そして幸せで自由な人生を過ごすことで、あたなたちに勝利することでしょう。彼もあなたたちに憎しみを抱くことはありませんから。」

こういう文章。フランス人、タカビーやなあ……と思います。こんなこと言っとるからやられるんや!なんていうとお叱りを受けるかもしれないけれど、率直にそう思う。パリのアイスクリームは、実際には1700万円ってことはないでしょうけど、でも……もしかしたらホントは「そうなのかもしれない」と思うとゾッとします。

文明の享楽……自由で楽しい生活……しかし、あなたがその生活を無意識に楽しんでいるその底に……はたしてどれだけの人々の、存在の、「終わることのないあえぎ」が積み重ねられているのか……この、妻を失ったフランス人男性の文章には、そこにたいする「毛ほどの気づき」もみられない。それって、基本的にアカンのでは……

アメリカの同時多発テロのときも、「罪もない人々が……」という言葉がよく使われた。でも、ホントに罪がないんですか? たくさんの、たくさんの人々のあえぎを踏みつけて達成されている「自由で楽しい生活」……そこに対する意識がまるで欠落した状態で、「あなたたちは私に憎しみを抱かせることはできません。」……よく言うなあ……

この問題は、「人間」の間の格差の問題はもとより、「人間」と「人間以外の存在」の格差の間にまで意識が行ってしまうと、もうどうしようもない膨大で悲惨な話になってきます。埴谷雄高氏の『死霊』は、そこを指摘しようとしていたけれど、結局相手がデカすぎて未完のままに作者はお亡くなりに……これはもう、ホントにどうしようもないのでせうか……

ネットでは、あらゆる画像をトリコロールにするのがはやっていて、ソレに対する賛否両論が渦まいているといいます。共感する人、反発を覚える人……しかし、実際には、トリコロールの「自由」には、その底に「ものすごい悲惨」が積み重ねられているのは、それは確かなことでしょう。人類は、どういう「選択」をするんだろうか……それとも、選択は、すでに「終わっている」のでしょうか……

マイナンバーへの疑問/A question about “The Social Security and Tax Number System”

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マイナンバー制度。一つ、大きな疑問があります。

天皇陛下にもマイナンバーが割り振られるのか?

これです。どうなんでしょうか……

「マイナンバー」を割り振る「人」は、行政府の長であるABくん。しかし、彼は、「国家元首」ではない。日本の国家元首は天皇陛下。

では……行政府の長にすぎないABくんが、国家元首たる天皇に、「マイナンバー」を割り振ることが、はたしてできるのだろうか??

ここで、ふたたび『ヨハネの黙示録』の引用です(以下引用 13章14-18)。

『さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。

それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。

この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である。』(引用おわり)

この論理からすると、マイナンバー制度は、「国民皆奴隷制度」ということになる。すなわち、全国民に「奴隷」の刻印を押すという制度。で、押す人はABくん。

じゃあ、ABくんは、天皇陛下に「奴隷の刻印」を押すんだろうか……それって、戦前だと、不敬罪で死罪に値する?(んでしょう。きっと)。

「マイナンバー」は、政府の英訳だと、「The Social Security and Tax Number System」ということになってるようです。

つまり、これがないと社会保障を受けられない。かわりに税金も取られない。……ということは、天皇という存在が、社会保障と税にカンケイなければ、たぶん割り振る必要がない。

ここからすると、天皇陛下は、マイナンバーなんかカンケイない……みたいなイメージになりますが。

どうなんだろう……

*この論理からすると、ホームレスもカンケイないですね。社会保障も受けないかわりに税も払わない。だいたい、住所がないからナンバーも届かないし……まあ、「非存在」ということで、天皇陛下と「真逆の同じ」になってしまう……スゴイ……

にしても、「The Social Security and Tax Number System」という英訳はわかりやすいですね。これだと、「社会保障と税の番号システム」ということで、「マイナンバー」という和製英語につきまとっている「奴隷にされ感」は感じない。

政府のお役人は、こういうヘンな和製英語が好きですね。もう、上から目線がありありと……国民はバカだから、わかりやすく言ってやらんと……かどうかはしりませんが、この言葉、考えた人の「心の位置」をありありと示しています。だから反発をくう。

もう一つ。これは実質ですが、英訳のように、社会保障(権利)と税(義務)をきちんと結ぼうということであれば、論理的には明解です。しかし、そういうことであれば、使用範囲はそこに限定されるべき。銀行預金は、社会保障(権利)にも税(義務)にも無関係でしょ?

国民の預金通帳まで把握したいという邪心?で、言語の意味の範囲を「マイナンバー」というヌエのようないやらしい言葉でごまかしてやってしまおう……ということであれば、そこはきちんと批判さるべきでは? だれもそこには触れないけれど……

「税金のがれ」という不公正を正して、社会保障はきちんと税でまかないましょう、という公明正大?な心でしたら、おそらく多くの人の納得は得られると思います。現行では、サラリーマンはガラス張りの税制ですが、そこで、「通帳見せろ」まではいわれてない。

要するに、収入と税の関連がきちんと把握できればいいわけで、自己申告で税を払っている人に対しても、収入の源と番号で結んでガラス張りにしましょう……まではいいわけだけど、だからといって、「通帳見せろ」は、絶対にやりすぎ。オソロシイ政府だ。

ワケのわからない造語でごまかして、「実際に政府ができること」(つまり、やっていいこと)の範囲をはるかに広げて国民をしばり、奴隷にしていこう……という意図がみえみえの今回の騒動。ABくん、あんた、こんな役人、ほっといていいんですか?

世界標準?/A global standard?

世界標準_600
TPP、妥結しましたね。オバマさんはけっこう正直で、「中国みたいな国に、世界標準を取らせるわけにはいかないから……」みたいなことをおっしゃってましたが、やっぱりホンネはそのあたりなのかな?

これで思い出すのが、先に日本の国会を「通った」(というか、ムリヤリ通ったことにした)日米新安保、日米同盟ですが、これで、日本は、軍事においてもアメリカを「世界標準」と認めて、みずから米軍の傭兵になります、と……

世界標準……この問題は、先頃のフォルクスワーゲンの大失態もそんな感じ。未来のクルマは、なにが「世界標準」になるかの争い……どんな分野でも、「21世紀の世界標準」に向けて、熾烈な争いがくりひろげられている……

オリンピックも、今話題のノーベル賞もそう。運動(身体)も頭脳も、みんな「世界標準」を目指してがんばる。0.001秒で「オレが世界標準」なんて、冷静に考えればバカな話……と思いますが、やっぱりみんな熱くなる。

ISOみたいな、モロに世界標準でござい!というのもある。言語では、もうとっくにアメリカ英語が世界標準。で、それをもとにしたインターネットもアメリカ。私みたいに英語がわからない人にとっては、疎外感が大きい。

この問題、実は、深刻です。自分が「世界標準」になれてるかどうか……それは、新しい「分類」であって、世界標準に入っていない人は「無意味」の烙印を押されてしまう。入れた人はいばる。で、入ってない人を見下す。

『ヨハネの黙示録』に、そんな箇所がありました(以下引用 13章14-18)。

『さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。

それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。

この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である。』(引用おわり)

この「黙示録の獣」については、さまざまな説があるようですが(皇帝ネロだとかバーコードだとか)、私は、この獣は、なにか特定の存在というよりは、人の考え方みたいなものをうまく表わしてるなあ……と思います。

TPPに戻ると、これはもう、世界のいろんなところにある、独自の「生産方式」を認めませんよ、と言ってるようなもので、食糧でもクルマでも、その他さまざまなモノが、すべて「世界標準」にもっていかれる。

まあ、別に、イヤならいいですよ……ということでしょうか。ただし、「輸出」がからんでくると門がピシャリと閉まる。国内であっても、その先にいろんな形で「輸出」が見えてくると、結局嫌われて締め出される。

モノの生産ばっかりじゃなくて、保険制度や特許など、無形のものもそうなる。日本でも、貧しい人々は、アメリカみたいに国民健康保険に入れなくなるのかも。中国の保険制度はどうなってるのかわかりませんが、どっちがマシかな?

先に、蔦屋が公共図書館の運営を任されて、役に立たない古本を買い集めて問題になりましたが、文化でもそうなるんでしょう。スポーツは、オリンピックでとっくにそうなってるし……この「世界標準」って、どこまで続くの?

なんか、極端なことを言ってるなあ……と思われるかもしれませんが、たとえば、オリンピックで、イスラム国が出場する!ということになれば、それはそれで意義があると思います(ますます極端でしょうか……)

まあ、イスラム国が、今のオリンピックに「オレたちも参加するぜ!」というとはとうてい思えませんが、もし言ってきたとしても、「あんたがたダメよ。世界標準じゃないからね」ということなんでしょう。

日本も昔、これで閉めだされましたね。「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」とか、あれは結局、欧米基準にかわる新たな「世界標準」を形成しようとするモクロミと解するのがわかりやすいのかなと思いますが……

欧米列強にみごとに「拒否」されてしまいました。まあ、ドイツもやっぱり閉めだされた側だったんですが……そこへいくと、今の中国って、やっぱり巧みだなあと思います。まず経済で「侵略」して、身動きとれなくしてから……

「ボーイング300機買うぜ!」と言われると、アメリカもやっぱり「マイドおおきに!」といわざるをえない。世界標準はまず経済侵略から……日本も、世界ではやっぱりそう思われているのかもしれませんが……

世界標準と地域性のことを考えてみると、これから先、世界中で、地域性、固有性がどんどん潰されていく……そして、世界が「一色に」塗り替えられていく……それはもう、とめられない傾向であると思います。

そうした場合に、この「地球」は、どうやって「抵抗」するのでしょうか。「その地」を守る人々が、心の底から骨ヌキにされて、われもわれもと「世界標準」になびいていくとき、「地」の抵抗は、「自然現象」となって出現する。

CO2とかPMとか放射能とか……いろいろ言われていますが、地球、大地、空気と水に負荷をかけすぎると、そこは自然に抵抗する。別に大地がそう思っているわけではないでしょうが、キャパシティ以上のものが乗っかると……

バランスが崩れて、当然すべての崩壊がはじまる。よく言われることですが、災害の起こりそうなところに家を建てる、街をつくるからえらいことになるんだと……でも、「世界標準」は、そういう「住み方」を人に強いる。

いなかでも、昔からの家は、できるだけ自然をうまく利用しつつ、災害のあったときに難の少ない場所を選んで建てられている。しかし、それでは、「世界標準」の押し寄せる力にもはや抵抗することができない……

ということで、家も街も、生産現場も、みな、「地の法則」を無視した世界標準の経済原則によって形成される……で、いったん「コト」が起こると脆くも大崩壊。システム全体が崩壊するので、災厄の規模もデカくなる。

今、政府、ABくんのとろうとしている方向を見ると、それは、「世界標準で勝つ」ということに全勢力を傾けよ!と、そう国民に指示し、かつ強制する……そうなっているように思います。経済も軍事も、そして文化さえも。

地の独自性……そういうものは、AB政府にとっては「克服さるべきガン細胞」にすぎないのでしょう。「1億」を一つの色に染めて「世界標準」を勝ち取ろう……そういうふうに言ってるように思います。落伍者は消えてね……と。

なぜこんなふうになるんだろう……ハイデガーは、「世界内存在」ということを言った。イン=デア=ヴェルト=ザイン。これは、人は、「世界」というものに、どうしようもなく根源的に結ばれている存在なんだ……ということ。

しかし、私は、たぶんこれでは甘かったんじゃないかと思うのです。人は、イン=デア=エルデ=ザイン、つまり「地球内存在」、あるいは「大地内存在」であるというべきでしょう。「地」との強烈な結びつき……

「世界」というとき、そこにはやはり、どうしても抽象的なものが漂う。ハイデガーの意図がどこにあったか……それは、私にはわかりませんが、彼が、一時ではあれ、ナチスに深く加担した……そこにヒントがあるようにも思う。

ドイツという国は、ヨーロッパでありながら、「中心」からはちょっと外れているようにも感じます。じゃあ「中心」ってどこなのよ?と聞かれると困るんですが、少なくとも、「辺境」というか、ハズレ感覚って、あるんじゃないか……

要するに、自分たちが「世界標準」を取れていないって感覚ですね。これは、日本もそうだったと思うし、今もそうだと思います。イスラム国なんかは強烈にそう。「世界」を目指す。世界征服……少年マンガの悪役の夢……

単純といえば単純ですが、必ずそうなる。世界標準の悪夢です。第二次大戦でナチスに追われてアメリカに亡命したトーマス・マンは、『ファウストゥス博士の成立』で、ナチスのドイツ人は、本当のドイツ人ではない!と語る。

彼は、ナチスへの憎悪をこめて、ホントのドイツ人は、あんなふうにはならない!と言ってます。彼の、この感覚はわかるなあ……太平洋戦争のときの日本の右翼も、アレは結局ニセモノで、ホントの日本人は違うんだと……

しかしではナゼ、「国をあげて」そうなっちゃったのか……日本もドイツも。ホントの日本人じゃない、ニセのドイツ人だ……と言っても、あのときは、かなりの日本人が、ドイツ人が、「心から」そういう「ニセモノ」になった。

今、サッカーやラグビーやテニスで、「ナントカジャパン」とか言って熱狂してる人たちを見ると、結局そうなんだなあ……と思います。ABくんは、スポーツだけじゃなくて文化面でもそれを利用して煽りたててるし……

ノーベル賞とかも、うまく利用されている。イスラム国にノーベル平和賞を!という人が一人でもいたら、ふーん、ノーベル賞もけっこう信用できるかもね……とも思いますが、まずそうはならんでしょうし……

まあ、イグノーベル賞に「平和賞」があったら、イスラム国の受賞は固いところでしょうが、もしそういうものがあったらまっさきにABサンにあげたい気もします……いや、彼は、「積極平和賞」でしたっけ……

ということで、「世界標準」をめざす各分野の競争は、これからますます加熱していきそうですが……そういうものにカンケイのない私などは、地の力を感じつつ、これからもここで、うずくまって暮らしていく。

そうなると思います。地の力……ホントは、世界って、そういうふうにあるのではないだろうか……世界標準をめぐる戦いが、白熱のあげく昇華されて無意味なものになってしまったとき、人は「地の力」を知る……

どんどん、どろどろ……地の底から、ぶきみな太鼓の音がきこえてきます。それは、大地を、大気を振動させ、「世界」を変えていく……ザイン=イン=デア=エルデ。それを知るとき、人は、本当に「世界」を知る……かも。

世界標準2500
今日の写真は、名古屋市千種区の今池という歓楽街の路上で見つけた模様です。この街は夜の街で、昼間はしらっと、すべてがどこ吹く風といった風情で存在していますが……今をときめくY組のナントカ会の事務所もある?

以前、この街の近くに住んでいました。いろんな人が行き交って、ときに熱く、また冷たく、右往左往しながら秋の空にふと視線をやると、そこは無限の宇宙空間に連なる空洞の底……だれかがじっと見ている。神、でしょうか……

神の視線、だったら、「世界標準」といってもいいのかな? でも、人の視線は、けっして「世界標準」にはなりえない。人は、大地の子。大地からつくられ、大地に還る。そんなアタリマエのことを、年齢によって再発見するのもまた楽し?

ハイブリッドの勝ち?/Will hybrid drive system win?

ハイブリッドの勝ち?_600
Mwa ha ha ha……You are a stupid fellow, aren’t you?

欧州車はクリーンディゼル、日本車はハイブリッド……なんか、そんなイメージがありましたが……まあ、日本車といっても主体はトヨタなんですけど、フォルクスワーゲンが勇み足で自滅したので、これからの流れはハイブリッドに……そんな理解でいいのでしょうか……そう思って、ちょっと調べてみると、うーん……コトはそうカンタンでもないみたいです。

要するに、これからのクルマ、未来を征するエンジンはなにか? ということですが……まあ、電気自動車や燃料電池車なんかはエンジンじゃなくてモーターだから、これからのクルマの駆動機関はなにか? といった方がいいのかもしれませんが、候補はだいたい、次のようになっているのかな?

★ガソリンエンジン(レシプロかロータリーか)
★ディーゼルエンジン(クリーンディーゼル)
★ハイブリッド(ガソリンエンジンとバッテリーとモーター)
★電気自動車(バッテリーとモーター)
★燃料電池車(燃料電池とモーター)

ガソリンエンジンは、ロータリーがマツダの限定車種だけなので、ほぼレシプロ一色といってもいいのでしょう。今はこれが、やはりいちばん多いけれど、ディーゼル(クリーンディーゼル)とハイブリッドが徐々にそのシェアを侵しつつある……というところでしょうか。電気自動車はバッテリーの問題があるし、燃料電池車はインフラ整備が追いつかないのでまだまだですね。

未来になにが「勝つ」か……これは、技術の問題だけでは片がつかないのがやっかいなところ。各国の規制や消費者の好みや資源や地球環境の問題や……政治がらみ、経済がらみでこんぐらかった糸が縦横無尽に……まあ、車輪を回転させるという点からすると、モーターで駆動する電気自動車と燃料電池車が、クルマとしてはもっとも「正直」な構造なんでしょうが……

ガソリンエンジンやディーゼルなど、内燃機関は、車輪の回転数の制御を直接エンジン出力で行わずに変速ギアをかませるので、構造も複雑になるし、エネルギーロスもある。この点からするとモーターと車輪を直結できる電気自動車と燃料電池車は有利。ただ、高速域での加速にかなりのエネルギーを必要とするそうですから、やっぱり変速機は必要という意見もあるようですが。

それと、電気自動車の最大の困難がバッテリーの問題。これは、航続距離に直結する。つまり、航続距離を長くしたければ、でかいバッテリーを積まなきゃならない。燃料電池車では、これが水素ボンベになるわけですが……この問題は、まだ根本的に解決されていないみたいですね。それと、電気自動車は感電、燃料電池車は水素ボンベの爆発の危険はないのかな?

電気自動車の高圧バッテリーは、通常の状態では何重にもガードされているから感電の危険はないようですが、問題は衝突したとき。今は、まだ台数が少ないから現実化はしていないようですが、レスキューでは耐電服(7000Vに耐えられる)や耐電仕様のグローブ、長靴を用意しており、訓練でも漏電チェックなどで、ガソリン車やディーゼル車に比べると時間がかなりかかるということです。

燃料電池車の水素ボンベの爆発の危険もやっぱりあるみたいですね。なにしろ、水素を350気圧(場合によっては700気圧)という高圧で封入しているので、事故が起こったら大爆発という危険性も……これはもう、ガソリン車の炎上の危険性なんかとは比べものにならないでしょう。それと、燃料電池車は、排気管から出るのは水だけという「究極のエコカー」がウリなんですが……

実は、燃やすための水素をなにからつくるかといえば、現在は石油や天然ガス、石炭という化石燃料を改質してつくるのが主流だそうで、その過程でやっぱりCO2も排出される。つまり「見せかけエコ」ということで、まあ、一種のサギに近い。かといって、水を電気分解してつくる方法では、じゃあその「電気」はどっから得るんですか?ということで、結局石油や原子力……

トヨタは「水素社会」といって、いかにも燃料電池車が「エコ」みたいな言い方をしてるけど、実質は化石燃料や原子力頼み……「どこがエコなの?」といいたくなります。ということで、電気自動車も燃料電池車も、フレコミほど「未来を開く」力は持ってない。ということになりますと、やっぱりガソリンエンジンと電気のハイブリッドか、あるいはクリーンディーゼル……

ハイブリッドの方は、ガソリン車と電気自動車のいいとこどりで、現在のところけっこう伸びてますね。一口にハイブリッドといっても、ガソリン車の減速時のエネルギーで発電機を回す12V、今主流の100V、そして両者の中間の48Vと、いろんなタイプがあるみたいですが、12Vだと電装品への電力供給くらいにしか使えないので、ホントの意味のハイブリッドは48Vか100Vなんでしょう。

でも、やっぱり怖いのは感電ですね。ハイブリッド車の事故に対しては、レスキューは感電防止手袋をつけるようです。それと、どうしても電池のサイズは問題で、結局今のハイブリッドは、主体はやっぱりガソリンエンジンなんでしょうね。コンセントで充電できるプラグインハイブリッドもできてきてますが、これは電池サイズが大きくなるので、うまく普及するのだろうか??

ディーゼルエンジンの排気部分に触媒フィルターを使ってNOXなどを除去するクリーンディーゼルは、触媒に貴金属を使うことから、できるだけフィルターの寿命を伸ばしたいということで、NOXの規制の厳しいアメリカで、フォルクスワーゲンがあのような事態に……これはもう、一種の確信犯というべきか……要するに「あんたとこの規制基準、厳しすぎるぜ」といってる。

でも、おおっぴらに言えないので、ソフトであんな工作を……例えは悪いけれど、日本では今、20才にならないと酒もタバコもダメで、「コンパで酒も飲めんじゃん!」というのと同じ感じというと怒られるかもしれませんが……フィルターでNOXを取る方式よりも、エンジン自体をNOXの排出が少ない構造にするマツダみたいなやり方が、結局はいいのかもしれませんが……

ただ、私が思うには、ガソリンエンジン、それもレシプロエンジンは、そんなに急になくなることはないんじゃないかと……いろんな点から考えて、よくできた駆動装置だと思います。磨きがかかってるというのか……モノそのものは19世紀ベースですが、人類の19世紀のいろんな課題がまだまったく片づいていないのと同様、レシプロガソリンエンジンもなかなか次にその王座を譲らない。

電気自動車のように感電の危険のあるでかいバッテリーも必要ないし、燃料電池車のように爆発の可能性のある水素ボンベも要らない。点火プラグで点火するので、ディーゼルのように高圧縮も必要ない。考えてみれば、いろんな駆動方式の中で、いちばん「おだやかな」仕組みではないだろうか……システム全体に、あんまりムリを強いていないというか、ソフトでフレキシブルにつくってある。

ということで、「未来のクルマ」はやっぱりガソリン車?ということに?? じゃあ、もうちょっと堀り下げて、もっと根本的なところから問題を考えてみたらどうだろう……要するに、「なぜ、クルマが必要か」ということなんですが、これは結局、人間が、今のサイズの肉体を持っているから……そういうことになるのではないでしょうか。このサイズの肉体が移動する、そのために必要。

貨物にしてもそうです。このサイズの人間の肉体を維持するためのさまざまなもの、食料品、衣料品、そして家をつくるための建設資材……さらには、ガソリンや灯油などの燃料運搬、さまざまな機械類の運搬……ありとあらゆることにクルマは使われますが、そのすべてが、今のサイズの「人間の肉体」を維持することに奉仕しているといってもいい。精神的な快楽も、「人の脳」あってこそ。

クルマを公理のように前提にする社会は、ここが基準になってる。トヨタの「水素社会」は、要するに「水」のかたちで「無尽蔵」にある水素を、なにかうまい方法で取り出せば「化石燃料問題」は解決じゃないの?と言ってるような気もするけど、それって、「放射性廃棄物の処理は、未来の科学が解決する」といってここまで走ってきたコケた原発問題と、どっか良く似ているような……

原子力も、1960年当時はすごかったですよね。これこそが「未来のエネルギーだ」とかいって……原水爆はみんな反対していたけれど、原発は「原子力の平和利用だ」といって、反対する人はダレもいませんでした。「放射性廃棄物?ンなもん、未来の科学者がなんとかしてくれるさ」ということで、原子力平和利用に反対するものは、それこそヒコクミン扱い。資源の乏しい日本で、ナニをいうか!と。

ということで、「絶対白」だった原子力も、セラフィールド(英)、スリーマイル(米)、チェルノブイリ(露)、福島(日)と、重大事故がくりかえされるたびに黒ずんできて、今ではもう真っ黒。しかも、後にいくほど事故の規模がデカくなってるところがコワい。次の重大事故がどこで起こるのかはわかりませんが、スケールアップの法則?からすると、想像を絶するものになるのかも……

科学技術の発展って、結局この道だと思います。最初は真っ白で、輝くばかりの「未来」を指し示していても、スケールが大きくなるにしたがって黒くなる。つまり、それだけ人間の生活全般に浸透して、「それなしではいられない」状況になってしまったときに、ようやくその「本質」が明らかになる。そして、そうなったときにはもう時すでに遅し……ソレに頼りきった人類は、もう引き返せない。

クルマの問題も、結局「人間の肉体の問題」が解決されない限り、どこまで行っても解決に至らず、その都度、安価に安定供給されるエネルギー源をむさぼり尽くして次はなにか……と虎視眈々と狙う「欲の目」に左右されて、むなしく資源を食い尽くし環境を汚染することになる……重厚長大な「人間の肉体の問題」。これこそが、本当に「解決されなければならない問題」ではないだろうか……

TからFへ/Fukushima 2011

F
タイトルを見ただけで、ヤだなあ……と思う人も多いかも。水さす人っているんだよね……とか、そう思う人もいるかもしれません。ゲンパツの被災者だって、オリンピックを楽しみにしてる人もいるのでは……そういう意見さえあるかもしれない。でも、私は、このモンダイは、もっとだいじなことをさしてると思う。

すべては、ABくんの「under control」からはじまった。あの一言がなければ、たぶん五輪は来てません。それくらいに、フクシマのモンダイは重要だった。でも、いったん「Tokyo」となったらすべて忘却。ABくんの「under control」は、「フクシマ切り捨て宣言」だったと言っても過言ではない。

日本の光と影……これは、「Tokyo2020」と「Fukushima2011」に象徴されると思います。今、日本人は、「影」を忘れて「光」に酔おうとしています。しかし、ホントはどっちが光でどっちが影なのか……新国立とエンブレムの蹉跌(さてつ)で、もうそろそろ気づくべきではないかと思うのですが……

今の政権は、日本の全体を救おうとはしていない。これはたしかだと思います。日本は、戦後、憲法九条で「戦争をしない国」になった。これは、世界の国々の中でも希有な……というか唯一の「理想国」。しかし、もう一つ、これほど顕著ではないけれども、なかなかに良かったものがある……

それは、「国民全体」の幸せというものを、曲がりなりにも追求してきた国であったということ。総中流意識とか言われたりするけれど、「みな同じやん」という感覚……われわれは、これで育ったけれど、この意識は、たぶん世界の中では珍しいものなのではないか……あんまり外国に行ってないのでわかりませんが。

外国では、「差」が圧倒的にありすぎるから、ことさら「平等」を唱える必要がある。これもよくいわれてきたことですが、たしかにそうだったと思う。「だった」という過去形なのは、日本という国と国民が「変質」してきたから。そして、その大きなターニングポイントが、あの2011.3.11……

もう多くの国民が感じていることですが、日本という国には、明確に「階層」ができ、それが固定化しはじめています。AB政権は、もう「なりふりかまわず」に、そっちの方向に進もうとしている。だけど国民の目は、できるだけ閉じておきたい……ということで、いろいろ考えた。

「under control」の一言は、まさにその宣言だったといってもいいと思う。「貧と弱は切りすてるぜ!」と言うに等しい。経済政策、アベノミクスですか、それって、もう、明確に「2極化するぜ!」と言ってるに等しい。「戦争ができる国」という世界標準に合わせて、「民の2極化」というもう一つの世界標準……

ABくんは、先の「70年談話」で、とても立派なことをおっしゃった。でも、根本的に欠落している視点が、「今の世界」だと思う。もう「日本」ということじゃないです。「日本」という視点から見ているかぎり、今の世界でリッチに生き残るには、「戦争ができて」、「2極化もしてる」国でないとダメだと思う……

そこが、根本的にオカシイ。ABくんは、幕末長州藩の「思い」が濃く念頭にあるのかもしれませんが、「日本」という国の概念を立ちあげなければいけなかった「昔」と、「今」とを混同してもらっては困る。幕末に、幕府や各藩が、「国」といえば「わが藩」だったときのことを「今」に転用するのはアナクロだ……

じゃあ「今」は……というと、やっぱり「日本」を越えていかなきゃならない……それはたしかだと思います。経済も文化も、ベースとなるものがもうすでに「日本」とか「国家」という枠を越えて広がっていってる状態で、「理念」として立ちあげるのが「日本」……これでは、アカンのとちゃいますか?

なんであんなに「日本」を強調したがるんだろう……アイデンティティですか……スポーツでも文化でも、別に、世界にはいくらもすばらしいものがあるんだし、日本人とか、それほどに「誇り」を希求しなきゃならんくらいに弱いモノなんでしょうか……なんか、ナサケナイと思うのは私だけなのかなあ……

フクシマのモンダイが解決されていないかぎり、われわれは、オリンピックという「目の前にぶらさげられたニンジン」に酔いしれるべきではない。そう思います。このモンダイを、「日本」という枠を越えて、「人類の文明」という全体的な視野で考える……その方向にしか、ホントの未来はないのでは?