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愛知トリエンナーレふたたび/Aichi Triennale 2016

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10月23日、愛知トリエンナーレ2016の最終日。ずっと気になっていたんですが、いろいろあって行けず……あっというまに終わり……ということで、名古屋エリアだけでも見ておこうと、あわてて栄へ。朝から回れば、愛知県美術館、栄地区、名古屋市美術館、長者街地区の4会場は見られるだろうと。

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結果として、名古屋エリアの展示の8〜9割くらいは見られました。つかれた……こんなにがんばってアートめぐりをしたのはひさしぶりだ……

で、どうだったか、ということですが……実は、かなり期待していたんです。前回のトリエンナーレが、予想に反してすばらしかったので。まあ、「予想に反して」なんていうと怒られますが、前回は、実はそんなには期待していなかった。でも、いい展示が多かった。

どこに感激したのか……というと、やっぱり作家さんたちの姿勢かな。前回は、あのオソロシイ大震災と原発事故から間もなくだったので、会場全体が緊迫感に満ちていました。やっぱり、あれだけのできごとがあると、作家さんたちも、自分が作品をつくる意味を、かなり真剣にかんがえなくちゃならない。あのできごとを直接反映した作品でなくても、やっぱりそういう、自分をつきつめるという環境はあったんだと思います。

それは、見る方にも直接響いてきました。自分たちは、なにをやってるんだろう……自分たちのやってることの意味って、なんだろう……そういう、みずからへの問いかけみたいなものが会場全体から感じられて、けっこう緊迫感があった。

しかるに今回……三年しかたっていないのに、世の中、大きく変わりました。もう震災も津波も、原発事故さえ過去の話になっちゃって、オリンピックだのなんだのと……社会の格差はますます開き、世界中で戦争や難民が絶えないのに、日本人はもう、あのオソロシイできごとさえ忘れちゃったのでしょうか……沖縄と福島をカッコに入れて、われわれはどこに行こうというのか……

今回のトリエンナーレにも、その「忘却の女神」の力を強く感じました。「虹のキャラバンサライ」……うーん、あたりさわりのない、ふわふわとした夢のようなタイトルだなあ……人間って、すぐに忘れるんですね。で、目は空中に漂って、足はいつのまにか地を離れる……

そもそも、アートって、いったなんだろう……それを、アートをやる人は、片時も忘れてはいけないと思います。とくに、今のように、いろんなものがでてきて、アートといろんなものの境界があいまいになっちゃった時代には、もうアートなんてなくたっていいんじゃない? という疑問が当然のように出てきます。

業界に守られたり、いわんや商業ベースにのっかっちゃったりして、かろうじて存在を保てるようなものは、やっぱり不要なんでしょう。前回のトリエンナーレでは、地震に津波、そしてゲンパツという圧倒的な破壊力が、アートをやる人に、おまえがアートをやってる意味って、なんなの?と強く迫った。アーティストは、ややともすれば眠りにつく心をはねのけて、そのシビアな問いかけに答えなければならなかった。みんな、真剣に答えようとしていたと思います。そのすがすがしさは、たしかに胸に強く迫りました。

じゃあ、今回は……ということなんですが、今回の展示のなかで、いちばん私の心に残ったもの……それは、名古屋市美術館の地下常設展示室にあった、河口龍夫さんの「DARK BOX」でした。これはもう、ずいぶん昔の作品で(たしか、70年代からつくりつづけておられる。いろんな年代のDARK BOXがある)、常設展示だから、一応トリエンナーレとは無関係……なんでしょうが、この作品、ごろんと転がってるだけで、今回私が見たトリエンナーレの全作品に勝ってる……

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昔のアーティストって、こうだったんですね。見るからにウソくさい重金属のカタマリなんですが、なぜか、ゴン!と存在感がある。見る人の想像力にあまり頼らない。今の作品は、見る人に訴えかける秋波が強すぎるんじゃないか……共感を呼びたいのはわかりますが、アートなら、そこはぐっとガマンするところだろう……「見て、見て、スゴイでしょ!」というのはなんか夜の歓楽街みたいな……作品をつくる上でいちばんだいじなのは、「矜持」なのかもしれません。

そもそも、アートをつくる意味って、なんでしょう。崩壊しつつあるこの世界。地震にゲンパツ、イスラム国にトランプ……オソロシイものがゾロゾロでてくる今という時代にあって、アーティストはなんでアートをつくるのか……もう、そのギリギリのところまで戻って考えないと先はないなあ……そんな感じでした。

EUだな♪/EU hot spring is so good!

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イギリスくん、やっちゃいました! ホントに離脱なのか……だれもが感じるEU崩壊の予兆……日本でも、世界中でもそうだけど、これは<理念系>の不人気という最近の徴候なんでしょうか。

<理念系>より<目先系>。世界中がそうなりつつあるような気がします。ご立派だけど空疎な理念より目の前の銭だ!娯楽だ!快楽だ!……ということで、<空疎な理念>にいまだにしがみついてる方々は、北朝鮮とかイスラム国とか、いずれも世界ではあんまり人気のない連中……そんな感じになりかかってるのかな?

日本でもそうですね。 ABくんみたいな時代錯誤の<理念>を鎧の下に隠していても(時折チラリと見せるけど)、オリンピックとか景気とか<目先のエサ>で大衆を奈落にひっぱっていく……そういう指導者が、今人気なのかなあ……

トランプさんとかルペンさんとか、<目先系>に共通するのは、まあ<品格のなさ>というか、理念もなにも……いや、<目先>が理念なのか(それとも鎧の下の?)……北朝鮮やイスラム国の<恐怖の理念>とどっちがマシか……という、おそろしく選択肢の貧しい世界になりつつあるような……

かといって、EUの<理念>、はたしてこれが、どういうもんなんでせうか……私にはよくわかりませんが、EUの先駆的な人物として、エラスムスの名があったような……ルネサンスということでしょうか。<EU国歌>はベートーヴェンの「歓喜の歌」のようですが、その<理念>は……??

世界はますます混沌としてくるように思います。富めるものは、みずからの利益を守ろうとしてモンロー主義になる。で、大部分を占める<貧しきもの>は戦争、気飢餓、病気、貧困、絶望……のなかに永遠にあえぐことに……

きわめてわかりやすい、SF映画のような<二極化世界>に、地球全体がなろうとしているのでせうか……オソロシイ……

モナドの帰還/An Odyssey of monad

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一旦風邪になると、私の場合、一ヶ月くらい続きます。ノドが良くないので、咳とかがずうっと尾を引く……それでも、徐々に良くなっていくのですが……

一旦引いた風邪が直りかけて、でもなにかの拍子にぶりかえす……そのときのみじめさ……私のモナドが支配権を確立しかけていたのに、再び風邪のモナドに奪還される……まるでイスラム国との戦争ですが(イスラム国のみなさん、風邪に見立ててすんません……)、なんかそんな感じ。

病気って、なんでもそんなものかな……と思います。一年に何回か、こりゃ、ホントに調子いいぜ!と思える日があるんだけれど……そう思える日が年々少なくなっていく。これが、年をとるということなのか……

で、そういう「調子いい日」のことを思いだしてみると、自分が自分として、完全にまとまってる……そんな感じです。よし!今日はなんでもやれるぜ!という……でも、何時間かたつと疲れてきて、ああ、やっぱりアカンではないか……と。

昔、ある前衛アーティストに会ったときのこと。彼は、「自分は疲れない」と公言した。疲れるのは、どっかがオカシイんだ!と。その言葉どおり、彼は疲れなかった。

目の前で、「書」を書く(というか描く)のですが、何枚も、何枚も、延々と描く。それも、まったく同じスピードで。紙を傍らに大量に積み重ねておいて(300枚くらいあったかな)、パッと取って前に置いてササッと描いてハイ!次の紙……これを、機械のようにくりかえす。しかも、描く内容が毎回違う。

スピードが変わらないのが脅威でした。ふつう、人って、白い紙が前にあると、書きたいものが決まっていても、若干のインターバルがあってから筆を紙に降ろして書くもんですが……彼の場合、そのインターバルがゼロで、紙を置くと同時に描く。しかも、毎回違うものを。その動作を、機械のように正確にくりかえして、スピードがまったく落ちない。作品の大量生産……

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見ている方が疲れてきます……なるほど……前衛アーティストというものは、こういう特殊な訓練をみずからに課しているものなのか……感心しました。フツーじゃない……なんか、人間ではないものの行為を見ているようだった。

で、彼は疲れたかというと、全然そんなことはなく、前にもまして元気。行為が彼に、無限のエネルギーを与える。いわゆる、ポジティヴ・フィードバックというヤツですね。こういう人は、きっと死なないんじゃないか……そんな感さえ受けました。

死なないので有名なのが、ロシアの怪僧ラスプーチンさん。青酸カリを食わしても、頭を割ってもピストルで撃っても死なない。オソロシイ生命力……いったいどこが、われわれと違うんだろう……

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やっぱり、モナドの支配力がケタ違いに増強されている……そんなふうにしか感じられません。いったいどこから、その「支配力」を得ているんだろう??

でも、ライプニッツによれば、モナドそのものが「死ぬ」つまり消滅することはありえないのだから、それは、やっぱり相対的なものなのかもしれません。モナドは、「一挙に創造され」、「滅ぶときもやはり一度に滅ぶ」。

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(仏語原文)Ainsi on peut dire, que les Monades ne sauraient commencer ni finir, que tout d’un coup, c’est-à-dire elles ne sauraient commencer que par création, et finir que par annihilation; au lieu, que ce qui est composé, commence ou finit par parties.

(英訳)Thus it may be said that a Monad can only come into being or come to an end all at once; that is to say, it can come into being only by creation and come to an end only by annihilation, while that which is compound comes into being or comes to an end by parts.

日本語訳(河野与一訳)して見ると単子は生ずるにしても滅びるにしても一挙にする他ないと云ってもいい。言換へれば、創造によってしか生ぜず絶滅によってしか滅びない。ところが合成されたものは部分づつ生ずる、もしくは滅びる。(旧漢字は当用漢字にしてあります)
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つまり、部分的に、あるモナドが消滅し、別のモナドは残る……ということはありえないんだと。

これは、とてもおもしろい考え方だと思います。われわれは、どういうふうにしてかはわかりませんが、時のはじめ(神の創造時点)からずっと存在している。この宇宙のモナドはすべてそう。で、滅ぶときは一挙に滅ぶ。

われわれの肉体は、合成物なので……合成物のレベルだと、「この人は死んだ。でも、この人は生き残っている」ということはありえます。というか、それが当然の世界。しかし、「わたし」というモナドは、モナドである限り、「わたしだけがなくなる」ということが原理的にできない。もし「わたしがなくなる」ということが起こるなら、それは、「世界がなくなる」、つまり、すべてのモナドが消滅する……それ以外の方法ではありえない。

この論理は、原理的に否定不可能なものであるように思います。要するに、モナドは「一性」そのものであって、この「一性」が否定されるということは、原理的にありえない。なぜなら、「一性」は、普遍中の普遍、最大の普遍であるから……

したがって、もし、私というモナドが消滅することがあるとするなら、それは「一性」そのものが否定されるという事態が発生したということで、そういうことになれば、わたし以外の「一性」、すなわち他のモナドの存在も、すべて否定されざるをえない。「最大の普遍」というところから、かならずそうなる。

これって、「死」というものに対する、いちばん合理的な答だと思います。私が今まで知る範囲では……というか、これ以上明解な答はありえないなあ……これは、論理的に、どう考えてもくつがえせない。

つまり、「死」は、肉体という合成物が否定されるということで、この否定は合成物のレベルで起こるものであり、モナドのレベルではない。したがって、モナドの「一性」は、まったく否定されていない。だから、「肉体の死」は、個別に起こる。あの人は死んだけれど、この人はまだ生きている……という具合に。

ただ……ライプニッツは、宇宙のすべてのモナドは、一挙に創造され、いっぺんに死滅する……と言ってるんですが、その「宇宙」の範囲が、問題になるとすれば、唯一問題になるんだと思います。「宇宙」って、どこまでなの?……ライプニッツの時代においては、「宇宙」はすなわち「世界」のことであって、これは即、「神が創造された世界」ということになる。

しかし、現代においては、「宇宙」概念はかなり違ってきていると思います。今の科学では、地球 ー 太陽系 ー 銀河系 ー 小宇宙群 ― 大宇宙……となって、「宇宙」といえば最後の「大宇宙」をさす。まあ、これが一般的な受け取り方ではないでしょうか。

しかし、私は、ここに、「人間は、地球から出られないのではないか?」という問題が、どこまでもついてまわるような気がします。この問題は、前にも取りあげましたが……「え?人類は、もう月にも降り立っているんじゃないの?」ということなんですが、でも、ホントにホントにそう、なのかな……??

アポロ11のアームストロング船長が月面に着地したとき(小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩、と言ったアレ)、彼は、「宇宙服」を着ていました……当然じゃん! なんで、そんなことをモンダイにするの? と笑われそうですが、私はこれは、大きな問題だと思う。

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アームストロングさんは、自分の素足で、月面を踏んだのではなかったのでした……当然のことながら、宇宙服の内部は、「地球環境」になっています。そうでないと、彼は死ぬ。要するに、アームストロングさんは、「地球環境を着て」、もっというなら、「地球を着て」、月面に降り立った。だから、「宇宙服」という名称は、本当は正しくなくて、「地球服」というべきでしょう。

それって、リクツじゃん!と言われるかもしれません。でも、われわれの肉体は、地球からできている。地球のものを食べ、地球の空気を吸い、地球の水を飲んで……その、一時的な結実の連鎖として、われわれの肉体というものがある。これを考えるとき、われわれの肉体という「合成物」は、実は「地球」という惑星の一部……どころか、地球という惑星そのものであると考えざるをえません。

そう考えるとき、われわれは、この肉体として生きているかぎり、原理的に「地球の外に出る」ということが不可能だ……地球の一部であり、地球そのものでもあるものが、地球という範囲を離れるということ、それ以外のものになるということは、原理的な矛盾にほかならないからです。もし、地球以外のものになってしまえば、われわれの肉体は、その本質を失ってしまうということになる。

では、わたしというモナド、はどうなんだろう……ライプニッツの時代においては、漠然と、宇宙と世界は同じであって、それが地球という範囲を出るか否か……そういう議論も、意味のあるものとしては成立しえなかったように思います。しかし……アポロ以後のわれわれにとっては、これは重大なモンダイとなる。

結論からいうなら……私は、わたしというモナドは、地球という最大のモナドの範囲を出ることができない……そう思います。要するに、私は、今の状況としては、「外界を知る」ためには、私の今の肉体を媒介とする以外にありません。しかし、今の私の肉体が地球から出ることができない……つまり、「地球限定」である以上、わたしというモナドも、やはり地球限定、つまり、地球の範囲を出ることができない。

思惟、思弁では、私は、いくらでも「地球の外」に出ることができる。しかしいったん、延長の世界、かたちや大きさがある世界においてモノを考えるということになりますと、結局、わたしは「私の肉体」を媒介として考えざるをえなくなり、そうすると、結局、世界……考えうる最大の範囲は「地球」であるということになる。

ここは、もう明確だと思います。モナドには「窓」がないので、本質的な「外界」というものはありえない。しかし……延長の世界、かたちも大きさもある世界において、延長の世界に対する「支配力」を用いて相互に「自己表出」を行うことにより、モナド相互の「交通」は可能となる。より正確にいうなら、「交通が可能となったかのような状態を現出しえる」。

ライプニッツは、すべて「宇宙単位」でものごとを考えましたが、この「単位」が、今のようなリクツで、本当は「地球限定」だったら……彼の論理は、この地球上のモナドは、すべて一挙に創られ、そして滅ぶときには一挙に滅ぶ……ということになる。そして、私は、これが、この地球という星が、一つの単位としてこの「宇宙」に存在する、その根源的な理由であるような気がします。

私というモナドからはじきとばされた「風邪のモナド」は、しかし、この地球から飛びだしたワケではなく……周回軌道を描いてまた戻ってくる……それが、私に戻るのかどうかはわかりませんが……というか、ソレはイヤなんですが、そういうことになるのかもしれない。

この地球のものは、すべて、この地球から脱出することはできない……太陽系を超えてどっかにいっちゃったように見える人工衛星でも……というか、原理的にそう。地球のものは、その本質からいって、地球から脱出することはできない……

これは、「限定」なのかもしれないけれど、それゆえに、もしかしたらこの「地球」という世界が成立している。しかし……

さらにもしかしたら、原子核の中の世界は違うのかもしれません……まあ、妄想と思われてもしかたありませんが、この物質の世界は、原子核の中で「抜けて」いるように感じられます……ということで、正月早々、モナドな妄想で失礼しました……。

世界標準?/A global standard?

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TPP、妥結しましたね。オバマさんはけっこう正直で、「中国みたいな国に、世界標準を取らせるわけにはいかないから……」みたいなことをおっしゃってましたが、やっぱりホンネはそのあたりなのかな?

これで思い出すのが、先に日本の国会を「通った」(というか、ムリヤリ通ったことにした)日米新安保、日米同盟ですが、これで、日本は、軍事においてもアメリカを「世界標準」と認めて、みずから米軍の傭兵になります、と……

世界標準……この問題は、先頃のフォルクスワーゲンの大失態もそんな感じ。未来のクルマは、なにが「世界標準」になるかの争い……どんな分野でも、「21世紀の世界標準」に向けて、熾烈な争いがくりひろげられている……

オリンピックも、今話題のノーベル賞もそう。運動(身体)も頭脳も、みんな「世界標準」を目指してがんばる。0.001秒で「オレが世界標準」なんて、冷静に考えればバカな話……と思いますが、やっぱりみんな熱くなる。

ISOみたいな、モロに世界標準でござい!というのもある。言語では、もうとっくにアメリカ英語が世界標準。で、それをもとにしたインターネットもアメリカ。私みたいに英語がわからない人にとっては、疎外感が大きい。

この問題、実は、深刻です。自分が「世界標準」になれてるかどうか……それは、新しい「分類」であって、世界標準に入っていない人は「無意味」の烙印を押されてしまう。入れた人はいばる。で、入ってない人を見下す。

『ヨハネの黙示録』に、そんな箇所がありました(以下引用 13章14-18)。

『さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。

それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。

この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である。』(引用おわり)

この「黙示録の獣」については、さまざまな説があるようですが(皇帝ネロだとかバーコードだとか)、私は、この獣は、なにか特定の存在というよりは、人の考え方みたいなものをうまく表わしてるなあ……と思います。

TPPに戻ると、これはもう、世界のいろんなところにある、独自の「生産方式」を認めませんよ、と言ってるようなもので、食糧でもクルマでも、その他さまざまなモノが、すべて「世界標準」にもっていかれる。

まあ、別に、イヤならいいですよ……ということでしょうか。ただし、「輸出」がからんでくると門がピシャリと閉まる。国内であっても、その先にいろんな形で「輸出」が見えてくると、結局嫌われて締め出される。

モノの生産ばっかりじゃなくて、保険制度や特許など、無形のものもそうなる。日本でも、貧しい人々は、アメリカみたいに国民健康保険に入れなくなるのかも。中国の保険制度はどうなってるのかわかりませんが、どっちがマシかな?

先に、蔦屋が公共図書館の運営を任されて、役に立たない古本を買い集めて問題になりましたが、文化でもそうなるんでしょう。スポーツは、オリンピックでとっくにそうなってるし……この「世界標準」って、どこまで続くの?

なんか、極端なことを言ってるなあ……と思われるかもしれませんが、たとえば、オリンピックで、イスラム国が出場する!ということになれば、それはそれで意義があると思います(ますます極端でしょうか……)

まあ、イスラム国が、今のオリンピックに「オレたちも参加するぜ!」というとはとうてい思えませんが、もし言ってきたとしても、「あんたがたダメよ。世界標準じゃないからね」ということなんでしょう。

日本も昔、これで閉めだされましたね。「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」とか、あれは結局、欧米基準にかわる新たな「世界標準」を形成しようとするモクロミと解するのがわかりやすいのかなと思いますが……

欧米列強にみごとに「拒否」されてしまいました。まあ、ドイツもやっぱり閉めだされた側だったんですが……そこへいくと、今の中国って、やっぱり巧みだなあと思います。まず経済で「侵略」して、身動きとれなくしてから……

「ボーイング300機買うぜ!」と言われると、アメリカもやっぱり「マイドおおきに!」といわざるをえない。世界標準はまず経済侵略から……日本も、世界ではやっぱりそう思われているのかもしれませんが……

世界標準と地域性のことを考えてみると、これから先、世界中で、地域性、固有性がどんどん潰されていく……そして、世界が「一色に」塗り替えられていく……それはもう、とめられない傾向であると思います。

そうした場合に、この「地球」は、どうやって「抵抗」するのでしょうか。「その地」を守る人々が、心の底から骨ヌキにされて、われもわれもと「世界標準」になびいていくとき、「地」の抵抗は、「自然現象」となって出現する。

CO2とかPMとか放射能とか……いろいろ言われていますが、地球、大地、空気と水に負荷をかけすぎると、そこは自然に抵抗する。別に大地がそう思っているわけではないでしょうが、キャパシティ以上のものが乗っかると……

バランスが崩れて、当然すべての崩壊がはじまる。よく言われることですが、災害の起こりそうなところに家を建てる、街をつくるからえらいことになるんだと……でも、「世界標準」は、そういう「住み方」を人に強いる。

いなかでも、昔からの家は、できるだけ自然をうまく利用しつつ、災害のあったときに難の少ない場所を選んで建てられている。しかし、それでは、「世界標準」の押し寄せる力にもはや抵抗することができない……

ということで、家も街も、生産現場も、みな、「地の法則」を無視した世界標準の経済原則によって形成される……で、いったん「コト」が起こると脆くも大崩壊。システム全体が崩壊するので、災厄の規模もデカくなる。

今、政府、ABくんのとろうとしている方向を見ると、それは、「世界標準で勝つ」ということに全勢力を傾けよ!と、そう国民に指示し、かつ強制する……そうなっているように思います。経済も軍事も、そして文化さえも。

地の独自性……そういうものは、AB政府にとっては「克服さるべきガン細胞」にすぎないのでしょう。「1億」を一つの色に染めて「世界標準」を勝ち取ろう……そういうふうに言ってるように思います。落伍者は消えてね……と。

なぜこんなふうになるんだろう……ハイデガーは、「世界内存在」ということを言った。イン=デア=ヴェルト=ザイン。これは、人は、「世界」というものに、どうしようもなく根源的に結ばれている存在なんだ……ということ。

しかし、私は、たぶんこれでは甘かったんじゃないかと思うのです。人は、イン=デア=エルデ=ザイン、つまり「地球内存在」、あるいは「大地内存在」であるというべきでしょう。「地」との強烈な結びつき……

「世界」というとき、そこにはやはり、どうしても抽象的なものが漂う。ハイデガーの意図がどこにあったか……それは、私にはわかりませんが、彼が、一時ではあれ、ナチスに深く加担した……そこにヒントがあるようにも思う。

ドイツという国は、ヨーロッパでありながら、「中心」からはちょっと外れているようにも感じます。じゃあ「中心」ってどこなのよ?と聞かれると困るんですが、少なくとも、「辺境」というか、ハズレ感覚って、あるんじゃないか……

要するに、自分たちが「世界標準」を取れていないって感覚ですね。これは、日本もそうだったと思うし、今もそうだと思います。イスラム国なんかは強烈にそう。「世界」を目指す。世界征服……少年マンガの悪役の夢……

単純といえば単純ですが、必ずそうなる。世界標準の悪夢です。第二次大戦でナチスに追われてアメリカに亡命したトーマス・マンは、『ファウストゥス博士の成立』で、ナチスのドイツ人は、本当のドイツ人ではない!と語る。

彼は、ナチスへの憎悪をこめて、ホントのドイツ人は、あんなふうにはならない!と言ってます。彼の、この感覚はわかるなあ……太平洋戦争のときの日本の右翼も、アレは結局ニセモノで、ホントの日本人は違うんだと……

しかしではナゼ、「国をあげて」そうなっちゃったのか……日本もドイツも。ホントの日本人じゃない、ニセのドイツ人だ……と言っても、あのときは、かなりの日本人が、ドイツ人が、「心から」そういう「ニセモノ」になった。

今、サッカーやラグビーやテニスで、「ナントカジャパン」とか言って熱狂してる人たちを見ると、結局そうなんだなあ……と思います。ABくんは、スポーツだけじゃなくて文化面でもそれを利用して煽りたててるし……

ノーベル賞とかも、うまく利用されている。イスラム国にノーベル平和賞を!という人が一人でもいたら、ふーん、ノーベル賞もけっこう信用できるかもね……とも思いますが、まずそうはならんでしょうし……

まあ、イグノーベル賞に「平和賞」があったら、イスラム国の受賞は固いところでしょうが、もしそういうものがあったらまっさきにABサンにあげたい気もします……いや、彼は、「積極平和賞」でしたっけ……

ということで、「世界標準」をめざす各分野の競争は、これからますます加熱していきそうですが……そういうものにカンケイのない私などは、地の力を感じつつ、これからもここで、うずくまって暮らしていく。

そうなると思います。地の力……ホントは、世界って、そういうふうにあるのではないだろうか……世界標準をめぐる戦いが、白熱のあげく昇華されて無意味なものになってしまったとき、人は「地の力」を知る……

どんどん、どろどろ……地の底から、ぶきみな太鼓の音がきこえてきます。それは、大地を、大気を振動させ、「世界」を変えていく……ザイン=イン=デア=エルデ。それを知るとき、人は、本当に「世界」を知る……かも。

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今日の写真は、名古屋市千種区の今池という歓楽街の路上で見つけた模様です。この街は夜の街で、昼間はしらっと、すべてがどこ吹く風といった風情で存在していますが……今をときめくY組のナントカ会の事務所もある?

以前、この街の近くに住んでいました。いろんな人が行き交って、ときに熱く、また冷たく、右往左往しながら秋の空にふと視線をやると、そこは無限の宇宙空間に連なる空洞の底……だれかがじっと見ている。神、でしょうか……

神の視線、だったら、「世界標準」といってもいいのかな? でも、人の視線は、けっして「世界標準」にはなりえない。人は、大地の子。大地からつくられ、大地に還る。そんなアタリマエのことを、年齢によって再発見するのもまた楽し?

日本難民/Japanese refugee

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今、シリアの内戦で、シリア難民の人々が大挙してヨーロッパに押し寄せているというニュースを連日やっています。私は、正直、難民ということについては、漠然とした概念しかなかったんですが、連日の報道をきいているうちに、やっぱりこれは、タイヘンなことだなあ……と思うようになりました。

難民というとどうしてもアフリカとか東南アジアのイメージが強かったんですが、ウィキで調べてみますと、アジアが第1位で562万人、アフリカが2位で230万人、ヨーロッパが3位で163万人、そして以下、北米45万人、南米37万人、オセアニア3万5千人と続きます。1位はアジアだったんですね。

これは、2009年の統計ということで、今は少し違っているのかもしれませんが、とにかく、住む場所を追われてさまよわなければならない人がこれだけいる。シリア難民に対してドイツ政府は大英断で大量の受け入れを発表しましたが、日本は?……というと、難民認定を申請した人5000人のうち、認定が11人……

これは、2014年の数字だそうですが、あまりにも少ないんじゃないか……ということで、いろいろ批判が出ている。たしかに、もっと受け入れてもよさそうなもんだが……とか思っているうちに、ン? まてよ? なんだかヘンだぞ……と。「受け入れ」を前提にしゃべってますが、「難民になる」ということはないの?

つまり、日本人が難民になって、世界に散らばる……外国に「受け入れて」もらわねばならないハメになる……そういう可能性は、ゼロなんでしょうか……あまりにも突飛で、現実離れした空想のように思われるかもしれませんが、でも、先の原発事故のことなんか考えてみると、やっぱり全くの空想ともいえない?

2011年3.11の福島原発の事故は、とりあえずあのかたちで済んでいる……というか、まだぜんぜん済んでないワケですが、場合によっては、東京都民の避難が必要になるというところまでいく可能性もあったとききます。もしそれがホントだとしたら、これはタイヘンなことだ……関東圏に避難対象が及ぶと……

東京都の人口1300万人だけじゃなく、いわゆる広域関東圏(茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、神奈川、長野、新潟、山梨、静岡)の人口5000万人が避難するという事態になったとすると、これはタイヘン。5000万人といえば、日本の全人口1億3000万人の約40%にあたる。アジア難民の562万の十倍近い。

これに、東北の各県(福島、宮城、岩手、青森、秋田、山形)の総人口約900万を加えると、全人口の45%、つまり、日本の約半分の人が住む家を失う……この想定、「ありえねー」と一笑に付す方もおられるかもしれませんが、でも、福島の事故がもうちょっと拡大してたら、現実にそうなったのでは。

というか、あのゲンパツ事故のときは、アメリカなんかは在留米人に、80kmを避難区域としたとききます。日本は20kmだったけど。実際のところはどうだったのでしょうか。政府は、大混乱になるのを怖れて、ホントのところ(汚染状況)を発表しなかったのでは……そういう疑いも払拭できない。

まあ、それくらい、日本政府のいうことは信用できないわけですが……もし、ダレの目から見ても汚染がさらに顕著になってたとしたら、やっぱり「人口の半分避難」が現実的になってたと思います。そうすると、もう日本は崩壊ですから、大量の「難民」が発生したでしょう。そうならなかったのは、単に偶然??

ABくんは、このごにおよんでまだ再稼働・推進!なんて言ってるから、このリスクは、これからも高まりこそすれ、低くはなりません。これに加えて、新安保で日本が武力攻撃やテロの対象になる危険もぐんと高まるし……さらに、政府の「2極化方針」で、経済的に破綻する人がこれから続々出てくる。こっちも大問題。

日本の人口の半分が住む地域が「汚染」されてしまったら、もう物理的にかなりの人が国外に出ざるをえなくなるのでしょうが、「住めなくなる」地域がもっと小さかったとしても、この「2極化」によって、やはり国外に追い出される人がどんどん増えてくるのでは……ということは、日本が内戦状態になる??

こんなことをいうと、また「ありえねー」という声が聞えてきそうですが、これって、そんなに「想定外」ですませていていいのでしょうか……これからは、経済的な格差がどんどん拡大して、「持たざる若者」はものすごく苦しい立場に追いやられていきます。みな、そうならないように必死にがんばってるけど……

ABくんの政策自体が、「格差、広げたるでー」というものだから、もうどうしようもないでしょう。彼が否定している「徴兵制」も、経済徴兵というのでしょうか、「持たざる若者」は否応なくそういう「苦役」に追いこまれる。むろんこれは、男女関係なく……まあ、こんなところで「女性の活躍」というのかなあ……

ということで、2極化するということは、価値観が分裂するということだから、まあ、お定まりの「圧政と弾圧」ということで、ヒサンなことに……その先は考えたくありませんが、国内の価値観が大きく乖離してくると、これは、外からのいろんな力の介入する余地を大きく広げるので、乖離はますますひどくなる。

たとえ原発事故で、国土の半分が住めなくなっても、国内の価値観がある程度統一されていれば、なんとか残った国土に受け入れることができるかもしれません。この場合は「国内難民」で、今、福島の方々はこういう状態になってるわけですが、大部分の人が、見知らぬ外国に出ていかなくてもすむ。

しかし、2極化のはてに国内の価値観に大きな乖離が生まれてしまえば、おそらく多くの人々が国外に脱出せざるをえなくなるでしょう。「ありえねー」と、今は笑いとばせますが、でも、ABくんたちは、着々とその準備を進めている。「原発再稼働」と「2極化推進」。これをふたつとも、ガンガン進めてます。

ということで、私は、近い将来、「日本難民」が大量に発生する可能性が、従来に比べてはるかに高まってきていると思います。原発事故の連鎖(これは十分ありえる)で、沖縄を除く国土全体を放棄しなければならない可能性だってゼロじゃない。その場合、沖縄だけで本土人口全員を受け入れるのはムリだし……

そもそも、沖縄の方々に拒否されるでしょう。今まで米軍基地をいっぱい押しつけておいて、いざとなったら助けて~はあまりにムシがよすぎる。そうすると、日本国民のほとんどが難民となって海外に流出せざるをえない……「日本難民」……じつは、これをシュミレーションした小説が、かつてありました。

小松左京さんの『日本沈没』。半世紀前に書かれた第一部は、日本列島が沈没して、日本人全員が海外に避難せざるをえなくなったところで終わっていましたが、十年くらい前に書かれた第二部(谷甲州氏との共著)では、海外の各地に散った「日本難民」のその後が、かなり詳細に描かれています。

共著者の谷甲州さんは、東南アジアでの生活がけっこう長かったみたいで、そのあたりはかなりリアルです。なるほど、こうなるのか……実際は、なってみないとわからないのでしょうが、「難民ルート」というのは、やっぱりあるんですね。今回の、シリア難民の方々がドイツをめざしたといのもそうなんですが……

シリアとドイツ? 遠い国に住むわれわれには、「なんでドイツなの?」という疑問が湧くわけですが……もちろん、今、ドイツが経済的に繁栄しているというのはいちばん大きいでしょう。でも、歴史的にみると、このルートは、中世末期に、まさにオスマントルコがヨーロッパに迫ったときのルートそのままだ……

中世ヨーロッパでは、その東の入口がオーストリアのウィーンでした。ウィーンは、オスマントルコの皇帝たちから、「黄金のリンゴ」と呼ばれていて、なんとかして手に入れたい「羨望の地」だった。トルコの軍勢は、バルカン半島からセルビア、ハンガリーを手に入れ、ついにウィーンに迫ります。

ヨーロッパ白地図詳細入り_900
ウィーン包囲は、1529年と1683年の2回あったみたいですが、このうち1683年9月12日のウィーン攻防戦は映画化もされてます。このときは、皇帝レオポルト1世のウィーン脱出というところまでいったらしい。当時、ドイツは、神聖ローマ帝国という名ばかりの「帝国」のもとに、実際は封建領主や教会の群雄割拠の四分五烈状態……

ウィーンハプスブルグ家の皇帝レオポルト1世も、「皇帝」という名にふさわしい権力は持ってなかったみたいで、ポーランド王ヤン3世の援助まで頼んで、なんとかこの危機をきりぬけた……今の状況を見てみると、なんか、当時の状況が彷彿とされます。といっても、むろん今のシリア難民の方々は、「攻略」じゃなくて……

母国の危機的な政治状況で国外に「逃げざるをえない」わけですが(実はシリア国内の難民の方がはるかに多いけれど)……ただ、この背景には、アラブ諸国の政治的不安定(これまでの独裁政権のツケ)と、それに乗じたイスラム国やアルカイダの膨張がある。ヨーロッパは、これに対し、かつての神聖ローマ帝国の亡霊?のEUで…

となると、これはあまりに図式的というおしかりを受けるかもしれませんが、どうなんでしょうか。考えてみると、ヨーロッパという地域は、常に「アラブの圧力」で自分たちを形成していったみたいな……そんな歴史の大枠があるんじゃないかと思います。なので、また、その周期がめぐってきたのか……それはわかりませんが。

じゃあ、日本はどうなんだろう……日本を含む東アジアに、そういう「民族圧力往来」みたいなことはあったのか……直近では、やっぱり先の大戦のときの、日本自身の「膨張政策」がアタマに浮かびますが、江戸期300年の鎖国のあいだを除いて、やっぱり日本は、大陸や南方への「膨張」を、たぶんくりかえしていた……

それは、いろんなかたちで、そうだったと思います。神功皇后や秀吉みたいな「わかりやすい軍事作戦」ばっかりじゃなくても。そして、現在も、経済政策というかたちになって、アジア各地域への「膨張」は続く……もし、日本の全人口の半数が難民化した場合には、やっぱりこの「膨張」ルートがベースになるんでしょうか。

もしその場合、アジアの各国は、「日本難民」をちゃんと受け入れてくれるんだろうか……日本国と日本人の、アジアの各国における「受けとられかた」はどうなんでしょうね。少なくとも、中国や朝鮮半島においては、「過去の侵略」があるから、場合によっては大いに反発をくらう可能性も……

日本植民地最大版図_900
ヨーロッパにおいては、「イスラムの侵攻」は、今も悪夢のように人々の心に残っているから、シリア難民の方々も、けっして諸手を上げて受け入れ……というわけではないのでしょう。しかしちゃんと……受け入れられているように、現段階ではみえます。大人だなあ(むろん、反発する人も多いけれど)……

これは、やっぱり、西欧世界の理性を最高基準とする「思想」の成果なんでしょうか……その点は、率直にスゴイなあと思います。中国なんかも、今は、日本人の目には「メチャクチャの国」に映るけど、もしかしたら、日本よりずっと「大人の国」なのかもしれない……これは、今の日本人の心情と真逆だけれど……

それは、日本から大量の「難民」が発生したときに明らかになるのでしょう。そして、もしかしたらそういう時期も意外に近いのかもしれません(AB政権はまだまだ続きそうだし)。さて、そのとき、日本人は、どういうふうに「評価」され、受け入れられるんだろうか……あるいは、受け入れられないんでしょうか……

なんせ、狭い国土ですから、ちょっとゲンパツがポン!といっただけで、大量の「難民発生」は火を見るより明らか。あの事故のときに反省して「全原発即時廃炉」にふみきってれば、ちょっとはリスクは下がったのでしょうが……もう遅いですね。ナンマンダブ……

今日のemon:第一ゲーテアヌム/First Goetheanum

第1ゲーテアヌム_900
ルドルフ・シュタイナーの第一ゲーテアヌムです。スイスのドルナッハにありました。ドルナッハは、バーゼルにすぐ近い小さな町ですが、このシュタイナーのゲーテアヌムがあることで知られている……というといいすぎでしょうか。シュタイナーは、自分たちの劇場を建てようとしてドイツ国内で土地をさがしたけれどみつからず、結局国境に近いスイスの町、ドルナッハに広大な敷地を求めて、このゲーテアヌムを建てたようです。しかし、完成して間もなくなにものかによって放火され、焼失……もったいない話です。
第一ゲーテアヌム_900
1922年の大晦日だったらしいですが、年越しで燃えつづけ、なくなってしまいました。放火犯はいまだにわかっていないみたいですが、ナチスだという説もあるようです。ただ、ナチスが盛んになるのはもう少しあとのことなので、どうなんだろうか……と思って調べてみましたら、けっこう詳しく書いているサイトがありました。リンク
これによると、もしかしたら放火犯ではないか……とされる人物がいるらしいんですが、その人物がナチとかかわりがあったかどうかはわかっていない……ということは、つまりわからんということらしい。

第一ゲーテアヌムは、結局今では写真しか残ってないんですが、その写真を見ると、こんなふしぎな建物があったのか……と思います。なんか、イメージとしては、第二次大戦のときのドイツ兵のヘルメットを思わせるような……木造のドームを二つつらねたような構造だったみたいですが、内部はステンドグラスと彫刻と天井画に飾られた美しいものであったらしい……もったいないことです。しかし、シュタイナーはめげずにすぐに再建にとりかかり、彼の死後、第二ゲーテアヌムが完成……
第2ゲーテアヌム_900
この建物は、第一ゲーテアヌムとはまった異なった外見で、素材も鉄筋コンクリートですが、内部装飾はできるだけ忠実に第一ゲーテアヌムを再現してあるんだとか……上にあげたサイトによりますと、第一ゲーテアヌムには多額の保険金(今の日本円にして数億円)が掛けられていて、それで、第二ゲーテアヌムの建設もできたんだそうですが……それにしても、政治的な力関係が文化財を破壊するというのは、今のイスラム国やタリバンにはじまったことじゃないんですね……もったいない……
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今日のemon:民のいない神/Gods Without Men

民のいない神_900
個展(リンク)出品作の紹介第四弾は、emon シリーズから、ハリ・クンズル作『民のいない神』(木原善彦訳、白水社、2015)。最新刊のこの小説を emon 化してみました。ちなみに、emon というのは私の造語で、「絵紋」つまり、「絵」を並列して模様化したシリーズにつけてるシリーズタイトルです。文字を模様化した作品を jimon シリーズとしてつくっていますが、これにならったもので、「絵」は実物でもなにかの図案でもなんでもいい……まあ、文字以外の図像はすべて「絵」と解釈してやってます。この作品の場合は、図書館で借りてきた本をオブジェとしてやってみました。
民のいない神_part
この本の作者のハリ・クンズル(Hari Mohan Nath Kunzru)さんは、1960年生まれのインド系イギリス人作家だそうで、今はニューヨークにお住まいだとか。この小説は、カリフォルニアのモハーベ砂漠(Mojave Desert)に立つとされる3本の奇岩(ピナクル・ロック)をめぐる物語で、いろんな時代のいろんな人たちが登場するんですが、ストーリーの骨格は、アメリカに移住したインド人の2世?のジャズ(ヘンな名前ですが)が奥さん(白人女性)と子供づれでここを訪れ、息子のラージくん(これも変わった名)が「神隠し」にあうという……そんな感じです。

で、この「神隠し」が、もしかしたら「宇宙人による誘拐」ではないかという雰囲気が漂う……この3本の奇岩の場所には、大航海時代にここに来たスペイン人神父が「天空からの人々」にあったという話からはじまって、1950年代にはあるUFOコンタクティを「教祖」とするUFOオカルト教団みたいなのが繁殖したりとか、いろんなお話が錯綜しながら紹介されます。ラージが「神隠し」にあうのは2008年で、基本はほぼ現代のお話なんですが、主人公格のジャズは、物理学者で、金融業界で確率論を応用した投資ソフトの開発にたずさわって高給をもらっている。アメリカの金融業界では、こういう人(研究者くずれのIT技術者)が多いようで……

リーマン・ブラザーズの倒産による金融危機とか、それが実は彼が開発の一端を担っていた投資ソフトによるものだったのかもしれない……とか、サブストーリーにもことかかず、全体はまことに映画的……『クラウドアトラス』という映画がありましたが、雰囲気はそんな感じです。この小説は、やがて映画化されるかもしれません……まあ、それはともかく、読んでいて感じたのは、「寸止め」が効いてるなあ……と。「宇宙人」の雰囲気は濃厚なれど、『未知との遭遇』みたいなふうには絶対ならない。金融ソフトの問題も、「かもしれない」以上には行かない……

要するに、「ご本尊」は絶対にわからない、見せない……ということなんですね。現代の考え方としては……「そういうもの」を信じる人はいてもいい。だけど「そういうもの」が実在するのかどうかはわからない……それは、結局永久にわからないのであって、われわれは、そういう時代のものとして、ここに立つしかないのだ……と。これ、やっぱり今の時代の気分だと思います。信じたい人は信じてもいい。だけど、それが「本質」というところまでは絶対に届かない……まあ、数学でいう「漸近線」みたいなもので、無限に近寄れるけれど、ドンピシャにはならない……衝突回避というのか……

考えてみると、「絶対に信じる」というところを起点にして、いろんな争いが起こっているように見える。まあ、イスラム国なんか典型ですが、思想の核、自分自身の核……そういった「のっぴきならない場所」はつねにソフトフォーカスでぼやかす……「他者」が入れる余地を残しておく……これが、単なる「処世の智恵」を超えて、すでに「思想自体」になりかかっている……そんな印象を受けました。ポストポストポストの時代というか……もう、いろんな争いに嫌気がさした世代……そういう世代が大人になって、ちょっと今の文明はどうにかならんもんでしょうか……という、そういう控えめな気持ちの吐露みたいな感じもします。

ところで、訳者の木原さんの解説によると、3本岩の下にコミュニティをつくったUFOカルトにはモデルがあるそうで、1950年代のアメリカのコンタクティ、ジョージ・ヴァン・タッセル(George Van Tassel)氏のカルトなんだとか……小説に出てくる3本岩はフィクションですが、ヴァン・タッセルさんは、モハーベ砂漠に実在する「ジャイアント・ロック」という奇岩のそばに拠点をもうけて、たくさんの人を集めて「UFOコミュニティ」みたいなのつくってたらしい……世界中から「信者」が集まって、一時はタイヘンなものだったらしいですが、小説の中には、それを彷彿とさせるシーンがなんども出てきます。

ヴァン・タッセルさんがコンタクトしていた宇宙人の集団は、「アシュター・コマンド」(Ashtar Command)と呼ばれる方々ですが、この名称は、小説の中でもちゃんと出てきます。日本語訳では「アシュター銀河司令部」となっていましたが……小説では、むろん、宇宙人本人?が出てくるわけではなく、ヴァン・タッセルさんがモデルとなっているとおぼしき「教祖」さんがメッセージを受ける先が、この「アシュター銀河司令部」……ちなみに、この「アシュター・コマンド」の通信は、現実世界では今も継続しているようで、ネットで読めます(しかも日本語訳で)。
http://nmcaa-kunimaru.jp/message.from.ashtar.html

アシュターさんの肖像を載せているサイトもありました。金髪碧顔のもろコーカソイド(アシュターさんは、この人種に縁が深い)で、「司令部」というだけあって軍服を着ている……もう、ここまでくるとどっかのアニメの世界だ……
http://ameblo.jp/kenji9244/entry-12011111812.html
クンズルさんのこの小説は、さすがに寸止めが効いていて、こういうところには絶対に立入りません。ここへ立入ると、寿命が短いというか、その先がないというか……これはまた、「創作のヒミツ」でもあって、ある高度を保持しないと、創作自体が瓦解崩壊する……

ということで、この小説は、悪く言えば隔靴掻痒、永遠の宙ぶらりん。良くいうなら自己抑制が美しい……そんな感じでした。それと最後に、私とこの小説の出会い……ある日、いつも行く街の図書館で、ふと新刊コーナーを見たら、新刊が1冊だけ……で、それがこの本だった。「民のいない神」?なんじゃろ……タイトルにひかれ、岩の横に停まる昔のアメ車の表紙にひかれてつい手に取る……訳者の木原さんの解説をちょっと読んで、ん?ヴァン・タッセル?……よし、これ借りよう……ということで、考えてみればふしぎな出会い……新刊の棚に1冊だけ、なんかいぶし銀の光を放ってそこにありました。まるで私を待つかのように……

イスラム国の意味は?/Can IS have any meaning?

冬の朝日_900
「イスラム国のやっていることは、むろん非人道的で残虐で、許せないものであるということは当然あたりまえのことですが……」TVなんかで、知識人の方々がイスラム国にかんして発言するときに、こういった言葉の前置きをするのが目立つように思います。つまり、まず否定であり、それを前提にして話をする。政府の対応やABくんのカイロ演説を批判したりするときに、直接入らずにこの言葉を置く。これによって、「私は、常識ある健全な立ち位置でものを言ってます」ということを、まずつまびらかにしておく。そうしないと、「え?あんたイスラム国に味方するの?」と思われても困る……と。つまり、イスラム国は絶対悪であって、それはもう「みんなの常識」なんだと。

しかし……本当にそうなのでしょうか?……なんていうと「え?あんたイスラム国に味方するの?」という言葉がとんできそうですが……でも、ものごとを「客観的に」見るばあい、片方を「絶対悪」として話をはじめるということは避けなきゃならんのでは……と、私なんか、思ってしまいます。まあ、イスラム国の側からみれば、日本もそこに入っている「有志連合」の国々こそが「絶対悪」なんでしょうし、客観的にみれば「ケンカ両成敗」で、どっちもどっちということにならないでしょうか……ここで、私は、今読んでいるヘーゲルの『精神現象学』のことを思い出すのですが……この本は、まだ読んでいる途中なので、あんまりなにも言えないんですが、でも、言いたい。

ヘーゲルというと「弁証法」で、弁証法というと「正ー反ー合」、つまり、テーゼとアンチテーゼが止揚されてジンテーゼになって……という、学校で習った「図式」が思い浮かぶわけですが……実際に元の本を読んでみると、ずいぶん印象がちがいます。ヘーゲル弁証法の図式的理解では、テーゼとアンチテーゼは、ジンテーゼを産むための材料?みたいな感覚で、その結果として生まれるジンテーゼがだいじで、まるで桃から産まれた桃太郎みたいにメデタシメデタシ……となるんですが、実際のヘーゲルは、もう「血みどろの闘争」で、対立する両者は絶対に引かず、お互いがお互いを「悪」として、相手を完全に崩壊消滅させる、ただそのことのみに全力を注ぐ……

なので、その戦いはもう悲惨そのもので、まったく妥協点がない。そんな、ジンテーゼみたいなものを産みだしてやろうなんて互いに毛ほども考えておらず、ただ、相手を滅ぼし、この世界から抹消することしか考えない……これはまさに、今のイスラム国と「有志連合」の状態そのものだ……もう、リクツもなにもなく、相手は「絶対悪」であって、この地球上から相手を消し去ってしまいたいという……ただ、そのことのみで悲惨きわまるぶつかりあいを続けています。これって、ホント、どう考えたらいいんでしょう……と悩むわけですが、ただ「イスラム国が<悪い>のは当然の前提なんですが、その上で……」という話のしかただけはしてはいけないと思う。

イスラム国とか、あるいはボコハラムとか、その他イスラム過激派の言ってることって、ずいぶんショッキングだと思います。奴隷制の復活とか、女性には教育を受けさせないとか……人類が、何千年もかけてようやく到達した「今の状態」を、ちゃぶ台返しみたいに根底からひっくり返して時計の針を巻き戻そうとしているかのような……それで、今の「文明世界」はゲゲッと驚いて、「それはまず、ありえんでしょう」ということになるわけですが……でも、今の、この先進国中心のものの考え方が「人類スタンダード」になってしまっている状況を、思いっきりひっくり返すというか、問い直す、これはもっとも鮮烈な考え方であると見ることはできないのかな?

なんていうと、「お前はイスラム国の味方か!奴隷制を肯定するのか? 女性には教育はいらんというのか!」ということになるので困るのですが……でも、そういった「健全な考え」を無条件に前提とした今のこの「文明社会」において、人々がなにも考えずに目先の幸福の追求や、自分と家族の幸せだけを考えて日々を送っている……その、見えない地脈のかなたにおいて、なにやらぶきみで複雑な動きが起こり、それが知らぬ間に成長して、ある日、「文明社会」のただなかに噴き出す……人は、それを「テロ」だというかもしれませんが、その「根」を産んでしまったのが、自分たちの「なにも考えない幸せなくらしの追求」であったことにはけっして気がつかない。

いや、気がついているのかもしれませんが、それは、実感としては感じていない。だから、テロの犠牲者に対して、「罪のない人々が殺された」という。で、テロをやった側を「極悪非道で凶暴で残忍な卑劣漢」みたいな……しかし、自分たちの「文明社会」を形成してきた根本的な考え方自体が、今、問われているのだ……というところにまでは結局、至りません。自由や平等、民主主義や、科学技術の与える快適な暮らし……今の「文明社会」が、もう無条件に「善し」としているものの「根底」を疑うべきだ……もしかしたら、イスラム国のつきつけている「本当の意味」というものは、そこにあるのではないだろうか……そういう可能性は、ホントにゼロなんでしょうか?

ものごとは、結局、すべてが相対的で、絶対悪、絶対善というものはない。そういうことなのかもしれませんが……私は、もし本当に「絶対悪」というものがあるとすれば、それは「原子力」で、これだけはもう、なんの弁明の余地もない「悪」だと思いますけれど(これについては、別のところで書いてますが)、それ以外のものごとはみな相対的で、「おまえは悪だ!」と決めつける、そういう考えの方にモンダイがあるんじゃなかろうか……やっぱり、そう思ってしまいます。ものごとを、片面から見ないこと。あっちの側に立ってみたらどう見えるんだろう……常にそういう視点を失わない……これって、なかなか難しいことだと思いますが……

イヤなものをいくら拒否しようと、それが「存在する」のは「事実」なのだから、「悪だ」という言葉だけで否定しても、なにも解決しない。イスラム国の問題は、「文明社会」の人たちが考えているみたいに、少なくとも「ボクメツ」するだけではすまないし、そういうことも、結局できないでしょう。「イスラム国」という存在ではなく、「イスラム国現象」として考えてみた場合、モンダイの意外な広がりと根深さに気がつく。人類社会は、数千年をかけて、どういうところに到達したのか……最近、TVで、スティーヴン・ピンカーさんという方の、「実は、暴力は減っている」というスピーチを見ました。以下のサイトで、その概要を知ることができますが……

1月7日放送 | これまでの放送 | スーパープレゼンテーション|Eテレ NHKオンライン
スティーブン・ピンカー: 暴力にまつわる社会的通念 | Talk Subtitles and Transcript | TED.com

この方は、ハーバート大学の心理学の先生で、いろんなデータを駆使して、「暴力は確実に減っている」ことを論証……なかなか説得力があるお話で、感心して聞いていたんですが……要するに、みんな無意識に、現代に至るほど人類社会は残酷で暴力的になりつつあると思っているけれど、実は逆なんだと。報道の発達でそういうシーンを目にする機会が多くなっただけで、ホントは昔の方がはるかに暴力的だったんだ……と。このお話からすると、イスラム国なんか、せっかく築いてきた平和な人類社会を全否定して、昔の「暴力の時代」の復活を企む、まさに悪魔のごとき……となるんですが……ちょっと待てよ……と。たしかに、人々の意識から、暴力的で残虐なものは、追い出されつつある……

それは確かだと思うのですが、でも、追い出された暴力的なもの、残虐なもの……そういったものを好む人の思いの「根っこ」は、はたしてどこへ行くのだろうか……さらにいうなら、人は、人に対しては暴力を控えるようになったのだとしても、では、人以外の存在に対してはどうなのか……クジラやイルカなんかは必死で守る人もいるけれど、現代文明というものは、昔に比べて、はるかに「自然」に、大きな負荷をかけているんではないだろうか……そこんところは、西洋的な考え方ではオッケーになるんでしょうか……いやいや、環境問題への取組みは、西洋文明の諸国こそが先進的なんだと……そういうことかもしれませんが、でも、ちょっと待てよ……と。

環境問題に熱心になるのも、最終目標が、「人間が住めなくなると困る」という、人間の利己的動機だったとすれば、それは結局「人にはやさしく、そのために、自然にもやさしく」ということで、それはおんなじこと。あくまで自然は、人間が利用するためにあるのだ……西洋スタンダードの発想は、結局、どうしても、こういう人間中心の考えを抜け出ることはできないのか……最近公開された映画の『地球が静止する日』じゃないですが、「地球と自然を守るために人類を滅ぼす」……イスラム国と有志連合の、互いに互いをサタンとののしっている掛け合いを見ていると、実は、根底で、このプロセスが、静かに進行しているんじゃなかろうか……とも思えてきます。

浜の真砂は尽きるとも、イスラム国の種はつきまじ……ものごとは、その見えてる現象の奥に、ずーっと、暗い、深い世界にまで達する「根」があって、表層の「悪」を刈りこむだけではなんにも解決しない。じゃあ、その根をなんとかしたい……と思って掘り下げていくうちに、実は、自分たち自身がその「根」にしっかりつながっているのを知って愕然とする……人類社会は、「良くなった」んじゃなくて、実は、「良くなったように見えている」だけなのか……ヘーゲルさんの『精神現象学』に、上昇する「アウフヘーベン」よりも、下降する「ウンターゲーエン」の必要性を読んでしまうのは、これは正しい読み方じゃないかもしれませんが……どうなんでしょうかね……

写真は、うちの近くの田んぼの畦みち……冬の朝日の光を受けて、なにか祈っているように見えた……中央に見える、四角い屋根のある小さな構造物は、イノシシから田んぼを守るための電気柵のコントロール装置です。ここらあたりでは、数年前からイノシシの数がやたらに増えて、田畑を荒らし、土手を壊し……もうタイヘン。こうやって、スタンガンなみの電気ショックで「防衛」したり……昨年は、小川に逃げこんだうりんこ(イノシシのこども)を村のオジサンたち数人が追いまわし、撲殺している光景をまのあたりにしてしまった……棒で、うりんこを何度もなんども殴る。息絶えるまで……なぜ、イノシシがこんなに増えたのか……そこは不問。ただ、殺す。

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今日のkooga:指導者の稚気/Childishness of the leader

稚気_600
今回の、イスラム国による後藤さん、湯川さんの斬首事件について思うこと……まず、二人は、みずからのぞんで、危険であることを知りながらそこへ向かって殺された。「自己責任」という言葉はお上ぽくてキライですが、要するに、自分自身の志を貫いてそういう結果になったんだから「本望」というべきか……ある意味、いさぎよい死であったと思います。

ところが……ふしぎなことに、死後、後藤さんの方はもう殉教者といいますか、すばらしい人だといって、みながこぞってまつりあげる。まあ、たしかにすばらしい人だと思いますが、ちょっともちあげすぎじゃなかろうか……これではまるで、キリストではないか……これに対して湯川さんの方は……といいますと、だれもなにもいわない。この落差……

「民間軍事会社」……この言葉は、たしかにいい響きではない。なんかうさんくさい……ということで、だれも触れたがらないので、ホントはどういう人で、どういう志をもって「あの地域」に入ったのか、だれにもわからない……ホントは、後藤さんの方も、本人の思いは本人にしかわからないのだけれど、だれもが「すばらしい」という……

お二人は、「本人」という視座から見るならまったく同じであるはずなのに、この扱いの差はなんだろう……そこにはすでに、いろいろな思惑や思いこみや……われわれの感情や善悪の判断や……いろんなものが入りこんでいるのを感じます。そういうものを取り払って、そこにはじめて見えてくるものは、はたしてなんなのだろうか……

今回、ふしぎなのは、湯川さんが「あの地域」に入っていった心情というものが、日本に暮らすフツーの日本人にはわからないのですが、それ以上に、なぜ、後藤さんが彼を追って入っていったのか……そこがわからない。これは、わかるようでわからない。後藤さんにとって、湯川さんは、「かけがえのない存在」だったのだろうか……

おそらくそうだったのでしょう。でなければ、あの行動はちょっと理解しがたい。ということで、このお二人については、わからないことが多過ぎて、そう単純には判断できないような気がします……ところが、逆に、この事件にかんするABくんの言動はきわめてわかりやすい。彼の心情には、むずかしいところはなにもなくて、単純明快……

に、私には見えます。指導者の稚気……これほど困るものはない。カイロで、「2億ドル出すぜ!」と言ったときの演説は、だれが聞いても「有志連合に参加してイスラム国を叩くぜ!」というトーン。これをするっとイスラム国に利用されてあの動画がアップされるととたんに「いや、あれは人道援助で……」という。この人、まことにわかりやすいです。

指導者の稚気……同じことが過去にありました。ブッシュくんがイラクのフセイン政権を「大量破壊兵器の保持」を口実に叩いた。あのときの口調とそっくりで、稚気にあふれている……トップがたまたま子供っぽい人物だったのか……それもあるけど、もっといえば、そういう「薄い」人物をトップにしたがった国民の方に稚気が充満していた……

私は、やっぱり、湯川さんや後藤さんの心情にくらべると、指導者の心があまりにもナサケナイ稚気にあふれていて、その結果として、ブッシュくんはイスラム国を生み、ABくんは日本人全員をテロの対象にしてしまった……このあたりが、ものごとははたして偶然に左右されるのか必然なのか……そんなこともからんで興味深いなあと思いました。

ブッシュくんやABくんの稚気が働かずとも、ものごとは結局こういうふうに進んだのかもしれませんが……しかし、後の国会答弁なんかを聞いても、ABくんは自分自身の稚気のなせるわざについてはまったく認識がないみたいで、危なっかしいなあと思います。指導者の稚気……そして、そんな指導者を選んでしまう国民って……これからどーなる?……

もういちど、後藤さん、湯川さんのことに戻りますと、日本政府は後藤さんに対して渡航自粛勧告を三度も出していたという。しかし、後藤さんはふりきって行ってしまった。このことについては、だれも問題にしない。彼が「すばらしい人」だったから、渡航自粛勧告を無視して行動したということについても、それは問題にならないというのだろうか……

じゃあ、湯川さんの方は……彼に渡航自粛勧告が出ていたかどうかは知りませんが、彼の行動は無謀だったとみんな思っている。はたしてどこが、どうちがうのだろうか……このあたりは、「動かされてしまう心」を鎮めて、きちんと考えないといけないところだと思います。そうしないと、とんでもないワナに落ちてしまうかもしれない。ファッショの本質……

ABくんという指導者の稚気がまかり通っているのも、このファッショの問題と密接な関係がある。人は、自分の心が動かされたものについては甘くなる。逆に、自分の心につらいものに対しては厳しくなる。大勢の人の心が動かされて、それが波のようになっていったとき、乗る。そして、しらぬまに、しらないところへと運ばれていってしまう……

ファッショを呼ぶ指導者の言動は、しばしば稚気に満ちている。時代が変わって冷静に考えれば、なぜあんなものに動かされたんだろう……と思う。だけど、渦中にあるとわからない。イスラム国のPRは、ある人にとってはすばらしい。ABくんの稚気に満ちた言動も、やっぱり彼のことを評価する人にとってはすばらしいものと映るのでしょう。

では、後藤さんのやってきたことはどうなのだろう……私は、今まできくかぎりでは、やっぱりすばらしいと思う。しかし、では、イスラム国やブッシュくんやABくんの言動と、どこがどうちがうのか……少なくとも、彼の言動には稚気は感じられない。だけど……イスラム国はわからないにしても、ブッシュくんやABくんは稚気のカタマリみたいにみえる。

そこは、やっぱり大きくちがうところだと思う。湯川さんについては、これはワカラナイとしかいいようがないのですが……ただ、後藤さんを持ちあげて、流れにしていくという動きかたについては、やっぱりどこかに「ファッショ」を感じてしまいます。白と黒にくっきり分ける……それは、わかりやすいけれど、大きなワナにはまる道かもしれない。

自分たちは、指導者の稚気で動かされるような存在ではない……そうかもしれません。しかし、ではなぜ「稚気で動かされる存在」がいるのだろうか……その人たちは「劣っている」からそうなるのか……そこまでいくと、これは、明らかにおかしいと思います。一人の人の心は、やっぱり暗くて深いものがある。それは、誰の心もそうではないだろうかと……

昔の人は、古典に親しみ、漢文の素読なんかでみずからの精神を鍛えた。それは、やっぱり、自分の「おさなごころ」からの離脱ということだったと思います。人間の精神は、鍛えないと幼いまま……それをきちんと鍛える方法があったのだけれど、それはすでに崩壊して久しい……まあ、指導者にはせめて「稚気を棄ててよ」といいたいですね。ホント……

今日の写真は、この間、名古屋市の環状道路を走っていたときに、防音壁の壁に浮かびあがった「存在」です。見たとき、気持ちわるいなあ……と思いました。なんでこんなふうになるんだろう(まあ、壁の汚れなんですが)……ちょうど、後藤さんの生死に日本中がやきもきしていた頃……殺されちゃったんですね。お二人のご冥福を……

稚気の怪物_450

今日のkooga:SMの木/Sadistic……

SMの木_600

なんというすがたでしょう……岐阜市内を走る路線バスの中から撮りました。某大臣の事務所の方がSMバーの費用を文書通信費?にしちゃったとかで話題になってますが……この木も相当なもんですね。くるしーだろーなー……もう強剪定で枝を全部落とされた上に電線でぐるぐるまきだ……よくこんなことするなー……と思うんですが、やっちゃいますね。人間て……

見て、ゾッとせんのでしょうか。バスの窓からこれが見えたとき、げっ!と思いました。見てはならないものを見てしまった気分……街路樹って、植物の最も受難のすがただと思います(盆栽もスゴイけど)。それにしてもこれは、かなりヒドイ……たぶん、素人の仕業でしょう。無神経で美的感覚にほど遠く、なんでも巻き付けて光らせりゃいいと思ってる。つらいなあ……

こういうのをやる専門のアーティストの人って、たぶんいるんですよね。で、そういう人がやれば、おそらくここまでひどいことにはならない。人間の楽しみと、健全な植物の生育と……街は、難しいですね。もともと街は、人の楽しみのためにできたものだから、なんでも人間たちが楽しいように造ってあります。そして、それにはそれなりの技術が要ります。

建築なんかだと、建築士の免許が必要……なんだけれど、こういうもんにはたぶん要らない。まあ、電気を扱うからそっちの免許は要るんでしょうが、こういうことをされる樹木のことをよく考えて、最終結果が美しくなるように考えて……ということになりますと、その技術はたぶん素人には無理……なんだけれど、やっちゃう。で、こうなります。

夜の姿はわからないのですが……昼の姿はみじめで悲惨です。まるでイスラム国のように……いや、イスラム国の方がはるかにマシかもしれません。ここには理念もなんもない。ただ放恣な感覚がだらだらあふれて、それが木を縛りつけて真っ黒なものが漂ってます。イスラム国の旗も黒いけれど、それよりさらに汚く穢れている……うーん……なんというすがたに……

この日は、岐阜の街をぐるぐるまわりました。野外活動研究会の方々とともに。いろんな写真を撮りましたが、これが、いちばんみじめな光景でした。自分たちの楽しみだけのために木をここまでいぢめて……バチが当たらないんでしょうか……ナンマンダブ……