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モナドの波/Monad as wave.

ika's life_600
ライプニッツの『モナドロジー』にある、有名な言葉。『モナドには、そこを通じてなにかが出たり入ったりできるような窓がない。』

Les Monades n’ont point de fenêtres, par lesquelles quelque chose y puisse entrer ou sortir.
(The Monads have no windows, through which anything could come in or go out.)

そりゃ、そうだと思います。モナドというのは、ギリシア語のモナス(1という意味)から来ていて、単一性そのものを現わす言葉だから。

もし、モナドに窓があって、そこからなにかが出たり入ったりする……ということになりますと、「単一性」は崩壊します。つまり「自分とちがうもの」が自分の中に入ってきたり、「自分」が自分の外に出ていったり……これを許せば、「単一性」という概念自体が無意味になる。

では、モナドは、他のモナドといっさい「交流」はできないんだろうか……いろいろ考えていくうちに、モナドを「波」として考えれば、これは可能ではないかということに思いあたりました。

ヒントは、先にノーベル賞を受賞された梶田先生の研究。ニュートリノ振動……でしたっけ、μニュートリノが、いつのまにかτニュートリノになり、またμニュートリノにもどり……このふしぎな現象を説明するためには、ニュートリノが基本的に、3種の波の組み合わせでできていると考えるほかないというお話……(リンク

つまり、3種の波の振動がうなりを生じ、そのうなりの各部分が、μニュートリノに見えたり、τニュートリノに見えたりするという解釈……なるほど、これだ!と思いました。

モナドも波であると考えるなら、モナドは究極の単一体であるから、単一の周波数しか持っていないはずです。もし、複数の波の集合体であるとするなら、それは、モナドが複合体であるということになって、モナドの定義自体に反してしまうから。だから、一つのモナドは、それに固有の振動数しかない「一つの波」であるはず。

波の世界では、固有の振動数をそれぞれ持つ複数の波が合成されると、全体の波形は、個々の波の波形とは当然異なってきますが……にもかかわらず、その中においても、「個々の波形」はきちんと保全されており、「全体の波形」は、「個々の波形」の複合に分解できるといいます。これを、数学的には「フーリエ解析」と呼ぶときいたことがありますが……(リンク

名称はともかく、合成されたときにはその波形が元の個々の波の波形とまったく違うものになったとしても、その中には個々の波の波形がそっくり保全されていて、また分解すれば個々の波に戻る……そうであるとすれば、個々の波は、結局、他の波からまったく影響を受けていないことになる。

これは、まったくモナド的な現象だと思います。要するに、「固有性」というものは、いかにしても破壊できない……モナドには窓がないから当然そうなのですが、しかしモナドを「波」と考えるなら、固有性を完全に保ちながらも、他のモナドと「合わさること」ができる……これは、おもしろいと思います。

ライプニッツによると、モナドは、「自然の本当の原子」であるとのこと。たしかに、物理学の「原子」は、アチラ語では「atom」で、これは、「a-tom」、すなわち「できないよー切断」という意味なんだと。それ以上分解できないもの……そういう意味だったんですが、あっという間に分解されて、原子核と電子に……

で、その原子核というのがまた分解されて陽子と中性子に……じゃあ、「本当の原子」というのは陽子、中性子、電子の三つだったのか……というと、それがそうではなく「クォーク」と「レプトン」という究極の素粒子からできているんだと……ということで、どうやらこのゲームは「キリがない」みたいです。つまり、自然科学の方法で「本当の原子」を求めるというのは、その方法自体がもしかしたらアヤシイのではないかと……

理系じゃないのでそれ以上はわかりませんが……でも、ライプニッツの「モナド」はわかります。要するに「モナド」は大きさを持たない。つまり「延長」という属性には無関係に存在する。「延長」という属性を入れてしまうと、分解して、分解して、それをまた分解して……というふうに際限なく続きますが、「大きさを持たない」ということであれば、そういうかたちでの分解はできません。

しかし、「大きさを持たない」ということでも、「振動はする」ということは可能だと思います。「振動」ということを、どういうふうに考えるか……ですが、振動という概念は、「延長」という概念と不即不離というわけではないでしょうから、「大きさをもたないけれど振動はする」というものは、十分に考えることはできると思う。

とすれば、それぞれに固有の振動数で振動する波である一つ一つのモナドが、相互に「影響しあって」、あるいは「影響しあうようにみせかけて」、その全体が合成された「相互影響合成振動」みたいなものを考ええることも可能ではないか……つまり、モナドは、窓は持たないけれど、固有振動を合成することによって、ある一つの「場」を共有することが可能になるのではないだろうか……

ということで、ここから話は突然とびます。エヴィデンスのまったくない話で恐縮ですが、私は、このモナドの共有する場の最大のものが、この惑星地球ではないか……そういうふうに「飛躍して」思ってしまうのでした。

ライプニッツは、「モナドの支配」ということを言ってます。つまり、私が、私の肉体をもって日々生活できているのは、私というモナドが、私の肉体を構成している他の無数のモナド(細胞や、細胞内の要素もすべてモナド)を支配しているからだと。このことは、以前(リンク)に書いたとおりです。

なるほど……こう考えれば、生も死も、とても理解しやすくなる。「生」というのは、私が他のモナドを支配して、自分の肉体を保持している状態。これにたいして「死」は、私が他のモナドに対する「支配権」をすべて喪失して、元々の「自分」という一つのモナドだけの状態に戻っていく過程……

ライプニッツは、「死は急激な縮退」と言ってる(これも、前に書きました)。つまり、それまでたくさんの他のモナドを支配してきた力が急速に緩んで、しゅしゅしゅ……と、自分のモナドの中に縮まっていく状態……これは、今まで私が聞いてきたいろんな「死の解説」の中で、もっともなっとくできる説だ……

これをさきほどの波の話にしますと……ともかく、「自分のモナド」がなぜか中心になって、他のおびただしいモナドの波の全体を「指揮している」……そんなイメージが浮かびます。

オケの指揮者は、メンバーとしては他の団員と同じく「一人の人間」なんだけれど、にもかかわらず演奏においては、他の団員は全員彼に従い、「一つの合成された波」を形成する……

で、演奏が終わると、指揮者もメンバーも、すうっとそれぞれの人間に戻る。音楽が演奏されている間だけは、彼らは指揮者を中心に一体となっていたわけですが、しかし演奏が終わってからも……たとえば、メンバーの肉体どうしがくっついて離れないということはない。ちゃんと肉体としては一人一人別々……そんな感じなのでしょうか。

だから、私の肉体というのは、実は、ものすごくたくさんのモナドたちが、私という指揮者の元に、それぞれの固有の振動数を合わせて、全体で「私」という一つの音楽を奏でている……そう考えればわかりやすい。私の肉体というのは、一つの「場」になっている……

これは、すべての生命においてそうなんですね。動物も植物も……しかし「全体」ということで考えると、その境がよくわからないようなものもある。これが、石や岩、土、水、空気……みたいになると、ますますわからない……でも、それらを総合して総合して、さらに総合していくと、最終的には「地球」といういちばん大きな「場」にたどりつきます。

人間の想像力というのは、実はアヤシイもので、概念を少しずつ膨らませていくうちに、いつのまにかそこに「架空」というエアーが入ってしまう。

たとえば、私にとっては、「私の肉体」は、まあ、「架空」が入りこむ余地がかなり少ない「現実存在」なのかもしれない。ではしかし、「他の人の肉体」というのはどうなんだろう……アチラの人は、よく握手したりハグしたりしますが……

これは、「肉体の確認」みたいなことなのでしょうか。オマエもオレと同じ肉体を持っておるな……と。まあその証拠に、人間以外の動物と握手することは少ないし(ハグはあるけど)、植物と握手している人は、私は見たことがない。岩や水や空気との握手……は、ちょっと考えにくい(岩のハグくらいはあるかもしれない)。

実体感覚でわかるもの……から遠ざかっていけばいくほど、そこには、アタマで考えただけのもの、つまり「架空」が入りこんでくる。しかも、人間のおもしろいところは、その「架空」をなんの検証もなしに「現実」だと思いこんでしまうところ……おそらく、人の社会は、こういった「架空の合成」によって成り立っているのでしょうが、これはよく考えれば、とてもふしぎなことです。

なので……言葉で「地球」とか言った場合、そこには、もうおびただしい「架空」が入りこんでいる。

だれも、本当の「地球の姿」なんか知らないのに、なぜか知っているような錯覚に陥って、いろいろ環境問題とか資源問題とか論じている……ちょっと引いて考えれば、とてもオカシイ空しいことを、なぜか真剣に議論しているわけです。

なので、この論はこれくらいにしたいと思いますが……物理学で、粒子か波動かということが問題にされたり、振動する超弦理論みたいなものができたり……ということで、モナドも波の性質を持っているとしても、おかしくはない気がします。

ライプニッツは、一つのモナドは、宇宙全体のモナドのすべてを反映するということを言ってますが、モナドが波であれば、それもふしぎではない。ただ、やっぱり「宇宙」というのがひっかかるのであって、私は、ここはやっぱり「地球」だと思うのです。ふしぎなことに。

世界標準?/A global standard?

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TPP、妥結しましたね。オバマさんはけっこう正直で、「中国みたいな国に、世界標準を取らせるわけにはいかないから……」みたいなことをおっしゃってましたが、やっぱりホンネはそのあたりなのかな?

これで思い出すのが、先に日本の国会を「通った」(というか、ムリヤリ通ったことにした)日米新安保、日米同盟ですが、これで、日本は、軍事においてもアメリカを「世界標準」と認めて、みずから米軍の傭兵になります、と……

世界標準……この問題は、先頃のフォルクスワーゲンの大失態もそんな感じ。未来のクルマは、なにが「世界標準」になるかの争い……どんな分野でも、「21世紀の世界標準」に向けて、熾烈な争いがくりひろげられている……

オリンピックも、今話題のノーベル賞もそう。運動(身体)も頭脳も、みんな「世界標準」を目指してがんばる。0.001秒で「オレが世界標準」なんて、冷静に考えればバカな話……と思いますが、やっぱりみんな熱くなる。

ISOみたいな、モロに世界標準でござい!というのもある。言語では、もうとっくにアメリカ英語が世界標準。で、それをもとにしたインターネットもアメリカ。私みたいに英語がわからない人にとっては、疎外感が大きい。

この問題、実は、深刻です。自分が「世界標準」になれてるかどうか……それは、新しい「分類」であって、世界標準に入っていない人は「無意味」の烙印を押されてしまう。入れた人はいばる。で、入ってない人を見下す。

『ヨハネの黙示録』に、そんな箇所がありました(以下引用 13章14-18)。

『さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。

それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。

この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である。』(引用おわり)

この「黙示録の獣」については、さまざまな説があるようですが(皇帝ネロだとかバーコードだとか)、私は、この獣は、なにか特定の存在というよりは、人の考え方みたいなものをうまく表わしてるなあ……と思います。

TPPに戻ると、これはもう、世界のいろんなところにある、独自の「生産方式」を認めませんよ、と言ってるようなもので、食糧でもクルマでも、その他さまざまなモノが、すべて「世界標準」にもっていかれる。

まあ、別に、イヤならいいですよ……ということでしょうか。ただし、「輸出」がからんでくると門がピシャリと閉まる。国内であっても、その先にいろんな形で「輸出」が見えてくると、結局嫌われて締め出される。

モノの生産ばっかりじゃなくて、保険制度や特許など、無形のものもそうなる。日本でも、貧しい人々は、アメリカみたいに国民健康保険に入れなくなるのかも。中国の保険制度はどうなってるのかわかりませんが、どっちがマシかな?

先に、蔦屋が公共図書館の運営を任されて、役に立たない古本を買い集めて問題になりましたが、文化でもそうなるんでしょう。スポーツは、オリンピックでとっくにそうなってるし……この「世界標準」って、どこまで続くの?

なんか、極端なことを言ってるなあ……と思われるかもしれませんが、たとえば、オリンピックで、イスラム国が出場する!ということになれば、それはそれで意義があると思います(ますます極端でしょうか……)

まあ、イスラム国が、今のオリンピックに「オレたちも参加するぜ!」というとはとうてい思えませんが、もし言ってきたとしても、「あんたがたダメよ。世界標準じゃないからね」ということなんでしょう。

日本も昔、これで閉めだされましたね。「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」とか、あれは結局、欧米基準にかわる新たな「世界標準」を形成しようとするモクロミと解するのがわかりやすいのかなと思いますが……

欧米列強にみごとに「拒否」されてしまいました。まあ、ドイツもやっぱり閉めだされた側だったんですが……そこへいくと、今の中国って、やっぱり巧みだなあと思います。まず経済で「侵略」して、身動きとれなくしてから……

「ボーイング300機買うぜ!」と言われると、アメリカもやっぱり「マイドおおきに!」といわざるをえない。世界標準はまず経済侵略から……日本も、世界ではやっぱりそう思われているのかもしれませんが……

世界標準と地域性のことを考えてみると、これから先、世界中で、地域性、固有性がどんどん潰されていく……そして、世界が「一色に」塗り替えられていく……それはもう、とめられない傾向であると思います。

そうした場合に、この「地球」は、どうやって「抵抗」するのでしょうか。「その地」を守る人々が、心の底から骨ヌキにされて、われもわれもと「世界標準」になびいていくとき、「地」の抵抗は、「自然現象」となって出現する。

CO2とかPMとか放射能とか……いろいろ言われていますが、地球、大地、空気と水に負荷をかけすぎると、そこは自然に抵抗する。別に大地がそう思っているわけではないでしょうが、キャパシティ以上のものが乗っかると……

バランスが崩れて、当然すべての崩壊がはじまる。よく言われることですが、災害の起こりそうなところに家を建てる、街をつくるからえらいことになるんだと……でも、「世界標準」は、そういう「住み方」を人に強いる。

いなかでも、昔からの家は、できるだけ自然をうまく利用しつつ、災害のあったときに難の少ない場所を選んで建てられている。しかし、それでは、「世界標準」の押し寄せる力にもはや抵抗することができない……

ということで、家も街も、生産現場も、みな、「地の法則」を無視した世界標準の経済原則によって形成される……で、いったん「コト」が起こると脆くも大崩壊。システム全体が崩壊するので、災厄の規模もデカくなる。

今、政府、ABくんのとろうとしている方向を見ると、それは、「世界標準で勝つ」ということに全勢力を傾けよ!と、そう国民に指示し、かつ強制する……そうなっているように思います。経済も軍事も、そして文化さえも。

地の独自性……そういうものは、AB政府にとっては「克服さるべきガン細胞」にすぎないのでしょう。「1億」を一つの色に染めて「世界標準」を勝ち取ろう……そういうふうに言ってるように思います。落伍者は消えてね……と。

なぜこんなふうになるんだろう……ハイデガーは、「世界内存在」ということを言った。イン=デア=ヴェルト=ザイン。これは、人は、「世界」というものに、どうしようもなく根源的に結ばれている存在なんだ……ということ。

しかし、私は、たぶんこれでは甘かったんじゃないかと思うのです。人は、イン=デア=エルデ=ザイン、つまり「地球内存在」、あるいは「大地内存在」であるというべきでしょう。「地」との強烈な結びつき……

「世界」というとき、そこにはやはり、どうしても抽象的なものが漂う。ハイデガーの意図がどこにあったか……それは、私にはわかりませんが、彼が、一時ではあれ、ナチスに深く加担した……そこにヒントがあるようにも思う。

ドイツという国は、ヨーロッパでありながら、「中心」からはちょっと外れているようにも感じます。じゃあ「中心」ってどこなのよ?と聞かれると困るんですが、少なくとも、「辺境」というか、ハズレ感覚って、あるんじゃないか……

要するに、自分たちが「世界標準」を取れていないって感覚ですね。これは、日本もそうだったと思うし、今もそうだと思います。イスラム国なんかは強烈にそう。「世界」を目指す。世界征服……少年マンガの悪役の夢……

単純といえば単純ですが、必ずそうなる。世界標準の悪夢です。第二次大戦でナチスに追われてアメリカに亡命したトーマス・マンは、『ファウストゥス博士の成立』で、ナチスのドイツ人は、本当のドイツ人ではない!と語る。

彼は、ナチスへの憎悪をこめて、ホントのドイツ人は、あんなふうにはならない!と言ってます。彼の、この感覚はわかるなあ……太平洋戦争のときの日本の右翼も、アレは結局ニセモノで、ホントの日本人は違うんだと……

しかしではナゼ、「国をあげて」そうなっちゃったのか……日本もドイツも。ホントの日本人じゃない、ニセのドイツ人だ……と言っても、あのときは、かなりの日本人が、ドイツ人が、「心から」そういう「ニセモノ」になった。

今、サッカーやラグビーやテニスで、「ナントカジャパン」とか言って熱狂してる人たちを見ると、結局そうなんだなあ……と思います。ABくんは、スポーツだけじゃなくて文化面でもそれを利用して煽りたててるし……

ノーベル賞とかも、うまく利用されている。イスラム国にノーベル平和賞を!という人が一人でもいたら、ふーん、ノーベル賞もけっこう信用できるかもね……とも思いますが、まずそうはならんでしょうし……

まあ、イグノーベル賞に「平和賞」があったら、イスラム国の受賞は固いところでしょうが、もしそういうものがあったらまっさきにABサンにあげたい気もします……いや、彼は、「積極平和賞」でしたっけ……

ということで、「世界標準」をめざす各分野の競争は、これからますます加熱していきそうですが……そういうものにカンケイのない私などは、地の力を感じつつ、これからもここで、うずくまって暮らしていく。

そうなると思います。地の力……ホントは、世界って、そういうふうにあるのではないだろうか……世界標準をめぐる戦いが、白熱のあげく昇華されて無意味なものになってしまったとき、人は「地の力」を知る……

どんどん、どろどろ……地の底から、ぶきみな太鼓の音がきこえてきます。それは、大地を、大気を振動させ、「世界」を変えていく……ザイン=イン=デア=エルデ。それを知るとき、人は、本当に「世界」を知る……かも。

世界標準2500
今日の写真は、名古屋市千種区の今池という歓楽街の路上で見つけた模様です。この街は夜の街で、昼間はしらっと、すべてがどこ吹く風といった風情で存在していますが……今をときめくY組のナントカ会の事務所もある?

以前、この街の近くに住んでいました。いろんな人が行き交って、ときに熱く、また冷たく、右往左往しながら秋の空にふと視線をやると、そこは無限の宇宙空間に連なる空洞の底……だれかがじっと見ている。神、でしょうか……

神の視線、だったら、「世界標準」といってもいいのかな? でも、人の視線は、けっして「世界標準」にはなりえない。人は、大地の子。大地からつくられ、大地に還る。そんなアタリマエのことを、年齢によって再発見するのもまた楽し?

今日の essay:原子力について・その1

昔は、原子力、大好きでした……こどもの頃に、親が『ガモフ全集』という本を買ってくれた。小学生だったので半分くらいしかわからなかったけれど、ものすごく面白くて、毎日読んだ。相対性理論や量子力学も、この本で知った。すごい世界があるんだなあ……と夢が広がりました。

ガモフ

原子力も……原子の構造、原子核の構造、そして核分裂や核融合……ちょうどその頃、日本でも「原子の灯」がともった。東海村の実験炉。核爆弾はダメだけれど、平和利用はいい……そんな雰囲気が時代に満ちてました。鉄腕アトムが原子力で空を飛んでたのもこの時代……

ということで、原子力はぜんぜんプラスのイメージだったのです。プルトニウムを燃やすと、燃やした以上の燃料ができる……これはもう、夢のような話……もう、人類の未来って、めっちゃ明るいじゃない。日本って、資源ないから絶対原子力だね。ゲンパツいっぱいつくれば日本の未来も安泰だ……

これが、ぐらっとひっくり返ったのは、いつごろだったんでしょうか……調べれば、事故の歴史とか出てくるけど、やっぱりチェルノブイリは大きかった。ゲンパツって爆発するんだ……うわーこわいこわい!オソロシイ……しかも死の灰でみんな死んでしまう……オソロシイ……

まあ、そのころ、電力会社の札束で顔をはって住民にゴリ押しするヤクザみたいなやり方とか、事故やいろんな問題を隠したり、権力とつながってやりたい放題……なんかこれはヘンだぞ……とみな思いはじめた。もしかして、ものすごいオソロシイことが、静かに進行してるんじゃ……

これは結局、19世紀のツケの一つだったんだなあ……と今になって思います。原子力の基本的な考え方は、その原理も、技術的な考え方も、実際に社会に浸透させ、実現していくやり方も、モロ19世紀ではないか……19世紀は「理念の世紀」だったと私は思う。そしてそれは、まだ克服されてない……

理念と、それに伴う物語の世紀ですね。ABくんなんか今だにそんな感じですけど、いろんな物語があって、人は物語に酔い、そこにこそ真実があると思う。いろんな人の努力のベクトルを同一方向に揃える「物語」……そういう力のある物語が語られると、人は、なぜか無反省につきしたがう……

すべてを滅ぼす戦争をやってしまうのも、原子力みたいなオソロシイちからを開放してしまうのも、すべては物語の魔力……こわいなあと思います。原子力についても……そういう「原子力物語」が、身のまわりに満ちていた。ガモフさんのお話も、鉄腕アトムも……だれも疑わなかった。

アトム

湯川さんがノーベル賞をもらったのも大きかったですね。で、続いて朝永さん。原子核物理って、日本、すごいんだ……とみんなが思った。なんか、原子核の中には無限のお宝が眠ってるって感じでした。そこへ切りこむ最先端の物理学。その先頭集団の中に、日本の科学者がいるじゃないか……スゴイ……

でもその輝ける「物語」もやがて崩壊……一時期、才能のある人たちが原子核物理の方に行かなくなったのは、世界的にみても事実じゃないかな。能力のある人たちが向かったのは生命科学の方向だったと思う……しばらくそれが続いたんですが、最近また、原子核物理の方に人気が出てきたみたい……

セルンの実験で、ナントカ粒子が確認されたのは大きかったかも。今は、スパコンと巨大装置の助けを借りて、また新しい物語が作られようとしているみたいですね……今度の物語は、19世紀を抜けているんだろうか……私はきわめて懐疑的ですが、まあ、理系の詳しいことはわからないので、わからんとしかいいようがない。

最近見たアニメで、セルン陰謀説みたいなものを取り上げているのがあって面白かった。『Steins;Gate』というタイトルで、セルンがタイムマシンの実験で、世界をどーのこーのという……電話レンジ(仮)というニコラ・テスラ的な装置も出てきて、うーん、やっぱりあのあたりはつながってるんだ……という印象。

まきせくりす

19世紀って、おもしろいですね。人間の科学ががんばって、ものすごい「物語」をつむぐ……でも、それは結局人間の「物語」だから自然には通用せんわけです。いや、人間の社会にさえ通用しなかったことはコミュニズムの「挫折」で明らかになってしまった……もはや「物語」は無用なのだ……

オバマさんなんか、けっこうそんな感じなのだ……彼は、核廃絶というけれど、あの人は「物語」というものを基本的に信用してないから、それがベースにあってああいう言動が出てくる。だから、彼は、ABくんみたいに「物語」にどっぷり浸かっている政治家は大嫌いなんだろーなー……わかる気がする。

原子力物語……何回事故があっても、悲惨な姿になっても……この物語が生きているかぎり、人類は核からエネルギーを得ることをあきらめない。まあ、一種の信仰ですなあ……人類が、これまでのヘンな「物語」群をきれいさっぱり捨て去るには、まだだいぶかかるでしょう……いつまで19世紀をやってんのか……

今日のemon:がびぞり/Selfish Tail Skid

がびぞり_00

これは、ずいぶん昔、夢の中に出てきたソリです。Tail Skid は「尾ぞり」という意味で、飛行機とかの尾部の下についていて、離着陸のときに尾部を地面に擦らないようにする部材らしい。ソリじゃなくて車輪になってるものもありますが……これに「我」が付いて、「がびぞり」……Selfish Tail Skid となりました。利己的な尾ぞり……なんのこと??

Selfish Gene 利己的な遺伝子という言葉が、昔ちょっとはやりました。生物が子孫を残すために必死になる様を、それは Selfish Gene のなせるわざだ……ということだったようですが、尾ぞりが利己的になると、自分が地面にこすられるのをいやがって、接地の瞬間にくるんと機体上部にくるようになるかもしれない。で、飛行機は尾部を地面に擦って大破……

考えてみれば、ウイルスみたいなものは、Selfish Gene そのものなのかもしれません。大型の生物のように、優性の遺伝子を残すために個体同士を戦わせたりとかめんどうなことはしない。遺伝子だけが他の生物の体内に入って単純に自己増殖をする。宿主の個体が滅びると、次の宿主を求めて……

キアヌ主演の『地球が静止する日』という映画がありましたが、この映画のテーマの一つが「生物の利他的行動について」でした。宇宙人キアヌと話を交わす博士の研究テーマがこれで、博士はこの研究でノーベル賞ももらってる。地球人類は、あまりに利己的なのでみずから亡びの道を辿るのだけれど、「そうでない面もあるんだ!」と……

これは、要は「考え方」の問題なのかもしれません。「セルフィッシュ」ということのとらえ方なんですが、考えようによってはすべてが「セルフィッシュ」になってしまう。だけどやっぱり、それ100%というのはフツーに考えてありえない気がします。「自己犠牲」というのも、使われ方によってはヤな言葉にもなりますが……まあ、ホントのところは、「すべてはあるようにあるのだ」というところなのかな?

醜いヤツほど美を……

『醜いヤツほど美を求めるものだよ』

これは、水木しげるさんのマンガ(『鬼太郎』だったかな?)に出てきたフレーズ。なんか、自分のことを言われているようで、ぐさっ!ときた。……私の父は、突然思いだしたように「ガマの油売り」の口上を口走った。それが、いつも、ガマが油を分泌する場面。四面鏡張りの部屋に入れられて、ガマはおのれの醜さにたらありたらりと脂汗を……

がま

だいたい、絵描きは「美」を求めます。「醜」を求める人もいるけれど、それは少数派ではないか。では、なぜ「美」を求めるのか。それは、おのれが醜いと思うから。自分が「美」を持っていれば、もう求める必要はない。これが、プラトンの美の理論でした。ペニア(貧)がポロス(豊)を求める心(エロス)。自分にないものを必死になって求める。

これは、人の心の「自己意識」だと思います。自己意識がなければ、精神的な要求は生じない。肉体的な満足が得られればそれでいい。しかし、世界に対して自分が「醜い」と思った瞬間、人は「美」にあこがれる。これは、「知」においても同じだと思います。自分が「知らない」と思うから「知りたい」と思う。

聖書に、『心の貧しいものは幸いである』というふしぎなフレーズがありますが、これなんかもそうなのかな? まあ、このフレーズの「心」は、プネウマ(元は「息」という意味で「霊」と訳される)で、今のわれわれの思う「心」という意味とちょっとちがうみたいですが。

ともあれ、人は、「自分の醜さ」を意識した瞬間に、「美」を求めるようです。これ、絵描きの基本?で、ゆえに絵描きは自己意識のカタマリみたいになる。スタイリッシュというのか……みずから美を持ちながら美を描く人も希におられますが、私はあんまり信用できない。みにくいもののヒガミかもしれませんが、美を持つということと美を描くということは、両立しないように思う。

三島由紀夫

三島由紀夫という小説家がおられました。ノーベル賞、もらいそこなった方ですが……この人は、小説で「美」を必死になって描こうとしたが、よくばりで、みずからも(肉体)美たらんとした……で、結果はご存知のとおり……しかるに、みずからは醜いと徹した小説家は長生きして(だれとはいいませんが)、ずーっと死ぬまで小説を書き続ける。

もうお一人。日本画家の松井冬子さん。この方は、ご自身が「完全な美」の持ち主。であるがゆえか、その作品は「醜さ」を追い求めてやまない……なんか、納得できすぎる展開だ……

松井冬子

どっちがいいのでしょうか。美であることと、美を求めることと……というか、すでに、絶対的に、「美であること」から見放されたものの道はただ一つ、「美を求める」ことでしかない。結論はもう、出ていたのでした。