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19世紀の終了/The end of the 19th century

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トランプくん、ついに大統領に……
これで、長かった19世紀もついに終了……
J.S.バッハの死の年、つまり1750年から、なんと266年続いた。
ナンマンダブ……

私は、「拡大版19世紀」という妄想?を持っていて、19世紀というのは、実は百年ではなく、数字の19世紀(1801年~1900年)をはさんで前後に伸びているのではないか……と、そう思っていました。(リンク)

じゃあ、拡大版19世紀のはじまりは?というと、これは、J.S.バッハの亡くなった年、つまり1750年に置くことができる。これは、私のなかではなぜかすんなりと、疑いの余地のないスタート地点として、ずっとありました。

しかし……19世紀の終わりは?というと、これが見えない。第二次大戦の終了した1945年かな?と思ったこともありましたが、でも、戦後の人々の暮らしは、やっぱり戦前の暮らしを継承しているように思える。「暮らし」という観点からすると、ホントに世の中が大きく変わったのは、高度経済成長が終息を見せはじめる1970年くらいじゃないか……

しかし、このピリオドも、やっぱり完全に正確とはいえない気がした。はじまりのJ.S.バッハの死の年、1750年にくらべると全然ボケてる。「21世紀」に入っても、なんとなく19世紀がまだ延々と続いている……そんな感じがしていました。

しかし、昨日、トランプくんが大統領になった!その報道をきいて、「ああ、これで、あの長かった19世紀が、ようやく終わった!」と、そう感じました。

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これからは、「素の時代」、「ホンネの時代」になるんだと思います。

彼の勝利のかげに、「隠れトランプ」なる人々がいた……そういうことも言われていますが、「オレはトランプに入れるぜ!」というのが恥ずかしい。インテリがそうだったと言われますが……自分の素の部分、ホンネではトランプ氏の言ってることにおおいに共感しながら……でも、やっぱりそれを口に出していうことはできない……なぜなら、それは「理性」に反するから。

人種差別、イスラム排斥、女性蔑視、マイノリティ抑圧、保護主義……「白」のオレたちだけが良ければそれでいい、違うヤツらは出ていけ!……こういう考え方は、たしかに「ヒュマ二ティ」には大いに反します。アメリカには、「ポリティカル・コレクト」という言葉があると聞きましたが……これはつまり、「人種差別? そんなのフツーにダメじゃん」とか「女性蔑視? アンタいつの時代の人?」とか、そういう「政治的には当然正しい」という考え方をさすらしい……

そこらへんの「低賃金労働者」ならトランプ的な「アホな考え」もしかたないけれど、あんたは立派なインテリでしょ? インテリがそんな考えでいいの?……ということで、「トランプ支持」をなかなか人前で言い出せないインテリ……そういう人が、今回の「大崩壊」のきっかけになった?……

あるいはそうかもしれません。しかし、私は、今回の「番狂わせ」は、今、世界で起こっている一つの大きな流れの一環……それも、もっとも目立つ形で突出した巨大な波ではないか……と、そう感じます。

イスラム国、テロ、各国が保護主義になって時代錯誤のヘンな右翼が台頭……だれもが自分のことしか考えられなくなって、「社会が悪いのは、オレの暮らしがいかんのは、アイツのせいだ! アイツらが悪い!」と叫びだすこの社会……もう、理想も理性もどっかにふっとんで、みんなが自分やまわりのことしか考えず、ああ、人類って、こんなにナサケナイ種だったのか……と思わず嘆息……

しかし……よくよく考えてみれば、その「理想」や「理性」が、それほどに完璧なものだったのか……人類のいろんな考えやものの感じ方を、無条件に突破して「上位」に置かれるほどにすばらしいものだったのか……かなり厳しい言い方になりますが、その「メッキ」がどんどん剥がれつつある……そんな時代に入っているなあ……と、そう感じます。

そして……考えてみれば、そういう「理想」や「理性」が、「絶対のもの」として確立されてきたのが19世紀……その「準備」と「残響」の時代を合わせて、1750年から今年、2016年まで266年間も続いた「19世紀」だったのでした。

この「拡大版19世紀」のあいだに、人類の科学技術は信じられないほどの「進歩」をとげましたが、それを支え、またその果実によって形成されてきたのが、「19世紀思想」だったと思います。万博やオリンピックもぜんぶここに入る……

この長い「19世紀」の間に、人類は、現在「ポリティカル・コレクト」として形成されているさまざまな「理性的考え方」を築きあげてきたのだと思います。たくさんの人々の悲惨な苦しみを代償として……だから、そういう「理性による支配」は、もうすでに盤石なものと思われていた。

しかし……人間の心の根っこに根ざすものというのは、そう簡単に、理性ごときにやられて根だやしにされてしまうものではなかったのですね……やっぱり、その傾向が顕著になってきたのは、最近、とくに21世紀に入ってからではなかったか……あの、9.11がツインタワーの崩壊により印象的に世界の人々に見せつけた「アンチ理性」の反乱……それは、世界中で同時に噴き出し……ついに、今年、「トランプ大統領」として結集した。

「理性?ポリティカルコレクト?なにをキレイゴトばかり言っとるんじゃ。そんな絵に描いた餅より、もっとだいじなのは、オレの生活が良くなることじゃ!」と叫ぶ人々が世界中に……

インテリは、「お前たち、自分のことばっかり考えてて、恥ずかしくないのか!もっと世界全体、人類全体のことを考えないと……ナサケナイやつらじゃのう」と言いますが……そして、21世紀を迎えるまでは、けっこうそういう考えも通用してきたように思いますが……もう、ここに至るとダメですね。で、「理性の大崩壊」が起こって、とうとう「トランプ大統領」……

長い19世紀の間に、人類がおびただしい犠牲を払ってつくりあげてきた「理性の殿堂」……それが、あっけなく崩壊した。もう世界中、人々はみな「自分のこと」しか考えられなくなっている。インテリにとっては、これは「世界の崩壊」であり「人類の終末」と映るかもしれませんが、それは、ホントにそうなんだろうか……

私は、もしかしたら、もうちょっと違う傾向なんじゃないか……と思います。今まで「理性」でムリヤリ抑えられてきた人々の「ホンネ」がついに噴出……第一次、第二次大戦の「クスリ」がもう切れかかって、戦争を知らない世代が人口の大部分となった今、「苦しみの実感」ははるか遠くに流れ去り……

ということで、これからは、「理性というタテマエ」が外れた「ホンネの時代」に入るんじゃないかと思います。人々の「素の心」はいったいなにを求めるのか……それはまた、今まで血と汗と涙で築いてきた「理性」に対する批判にもなると思う。人類が、266年という長い「19世紀」の間に苦労して造りあげてきた「理性」。その正体が、これから明らかにされます。そして、これからはじまる「大洪水」のあとにはどんな世界が来るのだろうか……たぶん私は死んでますが、もしかしたら生まれ変わって、その「新しい世界」にいるのかもしれない……ナンマンダブ。

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オマケその1.19世紀のつめあわせ。理性、理想、理念、民主主義、オリンピック、万博、原子力、宇宙開発、EU、TPP、ポリティカル・コレクト、グローバリズム……いろいろ入ってます。でも……袋に書いてある「賞味期限」、よく見ると、なんと「2016年11月8日」でした。

まあ、「賞味期限」であって、「消費期限」じゃないから……ということで、まだ食べられるんじゃ……という意見もあるのかもしれませんが、衰退していくもの、消えゆくものをいつまでも追っかけるのもムナシイことかもしれません。いずれにせよトランプさん、「パンドラの箱をあけた男」になってしまいました。底に「希望」が入っていればいいのだけど……

オマケその2.12日のNHKの番組で、日本文学を研究されているロバート・キャンベルさんが、今回の「トランプ現象」について、おもしろいことを言っておられました。正確に再現はできないのですが……今回のことで、「これまで、地球温暖化の会議なんかを普遍的に支えてきた考え方が崩壊しはじめたというのがいちばんの問題」みたいなことを言っておられた。

ハッとしました。やっぱり、文学系の人って、見方が深い。今回の「現象」を、単に「分断」とかの表層的な観点からとらえるのではなく、これは、もしかしたら「普遍の崩壊のはじまり」ではないか……と、そんなふうにとらえておられるように思えた。

考えてみれば「普遍」というのも、元々からそこにあるものではなく、それはもしかしたら、人類が、長い歴史のあいだに「つくりあげた」ものなのかもしれない。元々そこにあるものを見出すのは「発見」ですが、新しくつくりあげるのは「発明」……

はたして、「普遍」は「発見」なのか「発明」なのか……もし、それが「発見」であるとしたら、今回一度失われても、それはなくなったワケではなく、底流にきちんと存在していて、将来またそれを「発見」することは可能です。しかし、もしそれが「発明」だったとしたら……一度失われたものは、もう二度ととりもどせないかもしれない……

そうすると、人類の歴史というものは、塗炭の苦しみのなかで、莫大な犠牲を払って、ようやく「普遍」を「発明」したのだけれど……それが、今現在、つまり「2016年11月8日」をピークとして衰退し、失われてしまう……ということは、「人類の歴史のピーク」もまたここにあったのか……

どうなんでしょうか……

オマケその3.アメリカ大統領選挙だけは、全人類が投票できるようにしてほしい。

今日のemon:オフィチウム/Officium

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個展(リンク)展示作の第5弾はCDです。私がこれを見つけたのは、名古屋の地下街の中古CDを置いているお店で、まず表紙にひかれました。「オフィチウム?なんじゃろ……?」表紙にはラテン語で「Officium」と書いてあるだけなんですが、まともに(というか、日本の学校で習う読みで)読めば「オフィキウム」かな?「オフィチウム」というのはイタリア語に引かれた読みだと思いますが、日本語訳はこれで通っているみたいですね。

発見したのはもう15年くらい前でしょうか……発売は1994年とのことですが……半信半疑で買って、帰ってかけてみると……なんとなんと、これは、もしかしたら今までにまったく聞いたことのない音楽ではないか……ああ、心がもっていかれる……ということで、このCD、なんと150万枚も売れたそうです。ここを見てる人の中にも、「あ、持ってる」という方もけっこうおられるのでは……

このCD、ECMニューシリーズというレーベルの一つなんですが、このレーベルは、クラシックと他のジャンルの境界をまさぐっていて、けっこうユニークな名盤をたくさん生んでいます。ただ、欠点は「高い」ということなんですが、中古屋さんで丹念にさがすとけっこう出てきます。まあ、それだけ売れているということかな……中でもこの「オフィチウム」は売上げダントツ……

演奏は、ノルウェーのジャズ・サックス奏者のヤン・ガルバレクと古楽合唱分野で今やオーソリティになってしまったヒリヤード・アンサンブルのコラボ。合唱は、グレゴリオ聖歌や16世紀スペインの作曲家、クリストヴァル・モラーレスの曲を忠実に歌いますが、そこにガルバレクが即興でサックスをのせていく……このカラミが、もう、実に、そういう曲があるかのごとく自然で、響くんですね……

響く……そう、サックスの音が無限空間にワーンと広がる中に合唱の聖なる純粋な響きが、どこまでも透っていきます……それはもう、宇宙空間のような、はたまた素粒子の世界のような……時のかなたから人の心の深みをすぎて、無色透明のはずなのにいろいろな色が淡く輝くような気がする……なにかこう、太陽系を旅だって無限の銀河のさらに向こうを旅するような……

あるいはまた、牢獄。それも、牢獄アーティストのモンス・デジデリオが描くような、ヨーロッパ中世の無限に上に伸びる石の地下牢……そういうところに、私は閉じこめられているのだけれど、なぜか天上から光がさしてきて、冷たい石の床にまで「救いの模様」を描いていく……ああ、神は、こんなところに人知れず生きる私のことも、けっしてお忘れではなかったのだ……と。

けっこう書きすぎかもしれませんが、はじめて聞いたときは、まさにそんな感じを受けました。おお、これは、もはや究極の音楽かもしれぬ……この感じは、やっぱり今でも聞くたびに漂います。柳の下にどぜうがなんとやらで「ムネモシュネー」という続編も出ましたが、やっぱりこの「オフィチウム」の衝撃に比べるとはるかに及ばない……最近(2010)、「オフィチウム・ノヴム」といのも出たそうですが……

これはまだ聞いてませんが、やっぱりこの「初発の衝撃」にはかなわないでしょう……ということで、このCDを emon 化してみることにしました。表紙の銅像の少年?の顔が、もうなんともいえずそこはかとないんですが、その雰囲気をうまく出すのは難しい……25枚分描きましたが、結局うまくいったのはたった一つだけ……これも、100%のできではないですが、まあ、なんとか……
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あとは、どっかこっかオカシイなあ……もっと大きな紙にもっとたくさんやればいいのかもしれませんが、まあこのあたりが限界です。ところで、この「オフィチウム」というラテン語は、「聖務日課」と訳すそうですが、カトリックでこういうのがあるそうですね。毎日毎日やる……一日何回もやる……ナニをやるかはナゾですが、とにかくナニカを、毎日毎日欠かさずやる……

ところで、私の手元には、もう一つ別の「Officium」というCDがあって、こちらは3枚組です。先の「Officium」に曲が収録されているモラーレスより少しあとのスペインの作曲家で、トマス・ルイス・ヴィクトリアという人の「Officium Hebdomadae Sanctae」(聖週間聖務曲集)という曲を3枚のCDに収めたもの。こちらは、サックスは入らない、由緒正しい?合唱のみの響きですが、これがまたすばらしい……

ということで、だんだんわかってきたのは、これはたぶん、グレゴリオ聖歌から16世紀くらいまでの曲そのものがすばらしいんだな……と。まあ、昔でも、合唱に合わせて金管を演奏する風習もあったそうですので、ガルバレクとのコラボもまんざら「とってつけた」ものでもないらしいんですが、やっぱり結局、「元の曲」そのものが宇宙的というか、無限の時空をどこまでも漂うようにできている……

後期バロック、とくにバッハの曲なんか、もう「比類なきすばらしさ」といってもいいんですが……でも、「純粋性」という点からすれば、もしかしたらこの16世紀のモラーレスやヴィクトリアには負けているかもしれません。こういう曲をきくと、やっぱり人間「心を磨く」ことって必要だなあ……と、いささか謙虚になりますね。天正少年使節団がローマに派遣されたのが1582年なので……

彼らは、もしかしてこういう曲をきいていたのかもしれない……ローマへの道のりで、スペイン、ポルトガルを通ってますし……それに、ヴィクトリアの「Officium Hebdomadae Sanctae」は1585年にローマで出版されていますが、ちょうどこの年に少年使節団はローマに到着して教皇グレゴリオ13世に会ってます。その謁見のときに、この Officium が響いていたとしたら……

彼らは、当時最新の「現代音楽」をきいたのだ……と、妄想は留まるところを知らず……それが、時を超えて500年後、日本のある地方都市の中古CD店で私に発見され、ついにこういう emon になってしまいました……人間の歴史って、ふしぎですね。

無限水紋/Infinite water ring

以前に、名古屋市能楽堂の屋根から中庭の池に落ちる水滴の写真を載せましたが、そのときに、スマホで動画もとっていました。それを、youtubeにアップしてみました。3分くらいの長さです。

音楽は、youtubeの中のtesttubeに、著作権フリーのものがいろいろあるので、その中から、時間が合って雰囲気も合うものを選んで付けてみました。ホントは、バッハのBWV639なんかがいいかなと思うのですが、見つけられなかったので……映像と音楽は、「付きすぎ」になってますが、まあ、よりふさわしい音楽がみつかれば変更するということで、とりあえず……なお、映像は、スマホのズームで撮影しているので、解像度はあまりよくありませんが、よろしければごらんください。

19世紀の終わりのはじまり/The end of the 19th century is began.

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最近、ヨーロッパが危険です。というか、ヨーロッパと、そこから派生した?アメリカが揺れている……年始のTV番組で、今年いちばん危ないのはヨーロッパであるとおっしゃってた専門家がおられましたが、今の様相を見ていると、どうもそれがアタリそうな……と思っていると、「19世紀の終わりのはじまり」という言葉が浮かんできました。

前に、このブログで、「拡大版19世紀」というテーマで記事を書きましたが……要するに、19世紀のはじまりを、1750年、すなわち、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの死の年とし、その終わりは20世紀の半ば……1960年頃としたら……というアイデアなんですが……実は、19世紀に提出された課題はまだ未解決で、20世紀をすぎ、21世紀になってももちこされている……と。

そんなふうなことを書いた覚えがありますが、昨今の欧米の状況をいろんな報道で聴くにつれ、なんか、ようやく「19世紀の終わり」が始まった……という感がいたします。現代版の民主主義、共和制、資本主義、共産主義、そして高度に発達した工業化社会……まあ、なんでもいいんですが、そういった、「拡大版19世紀」に出そろったすべてのものに、ようやく崩壊の兆しが見えてきた……と。

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この間のフランスの新聞社の襲撃事件は、フランスの人たちだけでなく、広く欧米社会(日本も含めて?)にショックを与えたみたいですが……「言論の自由が冒された」云々……そりゃ、たしかにそうかもしれませんが、しかし、では、「人のだいじにしているもの」を茶化して、それを大々的にメディアに載せるってどうなのよ……というふうに思う人も少なくないと思う。

私もその一人なんですが……先の、北朝鮮を茶化したアメリカの映画といい、私は、そこに共通して「19世紀勝ち組の無意識のゴーマン」を感じてならないのですが……そりゃ、たしかに、民主主義と、それに基づく「言論の自由」とか、わかりますけど、それをいう人々のベースってなによ? というと、それは、19世紀(拡大版)の荒技で勝ち得たもの……

成り上がりの貴族化といいましょうか……荒っぽくかせいで「支配」のベースをつくれば、上層はしだいに澄んできて、ノーブルな様相を呈しはじめる……もう、自分たちには「なんの罪もない」と思うことさえできる……しかし、やっぱり地球は「全体として一つ」なのだから、自分たちの足下に、「他者」をくみしいて、そこから搾り、圧迫していることにはかわりはない……

フツーにいって、他の人のだいじにしているものはちゃんと尊重しなきゃダメでしょ?って話じゃないかと思います。預言者ムハンマドさんは、イスラム世界では、神の言葉を預かる最後の人……私はイスラム教徒じゃないから、彼に対して崇めたてまつる……みたいな感情は持たないけれど、でも、彼のことを大切に思っている人の気持ちはきちんと尊重したいと思う。

北朝鮮においてもやっぱり基本は同じではないでしょうか。私たちの目からみれば珍妙な独裁者かもしれないけれど、でも、彼のことを大切に思っている人もたくさんいるわけだから……たとえば、日本の天皇を外国の人が茶化したら、今の日本人の大部分はやっぱり悲しくなるんではないでしょうか……私も、当然そう感じるし……だからといって「天皇崇拝」ではないけれど……

茶化して、殺された……これが、フランスで起きたことであって、それを「言論の自由」というのであれば、無意識に他人のだいじに思っているものを茶化せるだけの「見えないベース」の上に自分たちがのっかっている……そのすべてをきちんと自己批判した上で「言論の自由」といいなさいよ……と。そして、その「見えないベース」が、実は、やっかいな「19世紀」なんじゃないかと思います。

そういう意味で、これは、「19世紀批判」ととらえるべき現象ではないかと私は思うのですが……これからは、世界中で、この「19世紀批判」が起こってくると思います。それは、政治の世界にとどまらず、経済や文化や芸術に至るまで、徹底的に「19世紀のゴーマン」があばかれて、その基底部分まで根こそぎ批判される時代……そして、「19世紀」そのものが荒技だったように……

その批判も、ラジカルな荒技にならざるをえないのでしょう……人類の文明は、とにかくここを通りすぎないと、絶対に「次のステージ」には行けないのではないか……これは、ヘタをすれば人類どころか、他の生命に至るまで、それこそ「絶滅」に近いような、徹底的な影響力を持ってくると思いますが……しかし、もう、ここまで来た以上、先に進むしかない。

で、その進行は、もう開始されている……19世紀の終わりのはじまり……さて、どんなふうになっていくのでしょうか……恐怖感は大きいのですが、やっぱりゴーマンは打ち崩されねばならないし、その過程で起こる大混乱も引き受けなければならない。そういうものをすべて通過した先に、これからをちゃんと開いていく「新しい価値」が生まれてくるのではないかと思います。

今日の写真は、お正月の2日に、名古屋市能楽堂で新春謡いぞめを見ての帰り道、猿投グリーンロードから撮った万博記念公園の観覧車。愛知万博が終わったあとも、この巨大観覧車は取壊しをまぬがれたのですが、ふだんはまったく運転していません。しかし、この日は、久しぶりに動いていました。グリーンのライトアップが夜空に染みて、気持ちがなぜかひきこまれます……

愛知万博は一応、国際博ということだったらしいですが、出かけるのは近所の人ばかりというローカルな……私は行きませんでしたが、通し券を買って週に何回も通ってた人もいるらしい……万博とオリンピック。この2つは、みごとに「19世紀の遺物」だと思います。しかし、開催されると、私みたいなまったくカンケイのない人間でも、多少とも心躍る気分に感染する……

たぶん、こういうとこらへんが、「19世紀の無意識の厚いベース」なんだろうと思います。日本は欧米ではないけれど、政治体制から経済や社会の仕組み、そして文化や芸術に至るまで、どっぷりと「欧米19世紀無意識ベース」に浸されている。自分の中にも色濃くある「19世紀」は、これから徹底的な批判を受けることになるのだと思います。まあでも、自分の有機的肉体年齢といい勝負……って感じもしますが。

これから……若い人は、タイヘンだなあ……と。それと、「拡大版19世紀図表」は、昔の記事(19世紀という病・1)に載せた図表の再掲です(部分的に更新しています)。元ブログは、2014年の1月30 日に投稿したものですが、興味のある方はごらんください。
https://soraebito.wordpress.com/2014/01/30/今日の-essay:19世紀という病・1/

聖アンを弾く人を見た/I watched the person who played St. Anne

この間の日曜日、豊田市のコンサートホールで、鈴木雅明さんのチェンバロとオルガンのリサイタル(オールバッハプログラム)があり、聴きにいきました。鈴木雅明さんは、バッハ・コレギウム・ジャパンを率いて、スウェーデンのレーベルのBISでバッハのカンタータの全曲録音を達成された、現今わが国のバッハ演奏の第一人者といえる方で、チェンバロ・オルガンの奏者としても知られています。

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プログラムは、前半がチェンバロ、後半がオルガンと合唱(といってもソプラノ、アルト、テナー、バスのソリスト4人)で、前半は、平均律第一巻のハ長調プレリュードではじまり、半音階的幻想曲とフーガで閉じるという構成。そして、後半、オルガンの部は、バッハのクラフィーア練習曲集第三巻の抜粋……なんですが、これが、やっぱり圧倒的に良かった……

クラフィーア練習曲集第三巻は、BWV552のプレリュードで開始され、間にコラール・プレリュードなどを25曲はさんで最後にBWV552のフーガで閉じるという構成ですが……むろん、全曲は時間がかかるので、コラール・プレリュードは数曲のみ。しかし、BWV552のプレリュードとフーガはしっかり全曲演奏……で、この曲を実際に弾く人を、私ははじめて見たわけですが……

もう、やはりスゴイとしかいいようのない圧巻……ですね。鈴木雅明さんの演奏は、けっこう現代的というか、あんまりカッチリやらずに、自由に流す……みたいな雰囲気ですが、そのスタイルが、またこの曲と良く合ってるように思います。「聖アン」……この曲のフーガ部分につけられたニックネームですが……聖母マリアの母親の名前を冠していても、この曲は、男性的というか……いや、そういう人間的なものすら越えて、はるかにはるかに宇宙的……

とにかく、ものすごいスケール感……楽譜を見るかぎりでは、このスケール感がいったいどこからくるのかよくわからないのですが、実際に演奏されるとスゴイです。この曲は、なぜか、「奏者をノリノリにさせてしまう」みたいな作用があるみたいで、いろんな演奏を聴いても、たいがい奏者はノリノリの感じになる。聴いてる方は、ただただ、百億光年の宇宙にさまよってなすすべなくバッハのお釈迦さんのような巨大な掌から出られない……

この曲、なんというか、こういうもんがこの世界にあっていいのだろうか……と、ちょっと不安になるくらいの幅の広さというか、広大なランドスケープを一瞬にして跳梁していく巨大な神々のとよもす波動を感じるのですが……たとえば、ヘンデルの曲なんか、ものすごく雄大だけれど、それでもやっぱりそれは、地上的な雄大さ……なんですが、一旦バッハさんがホンキを出すと……これですよ。これ。もうだれも到達できません。この無限の世界……

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なんで、こんなものがあるのだろうか……私は、昔から、この曲のディスクを聴くたびに、これって、ホントに人が弾いているんだろうか……とずっと思ってきたわけですが、今回、鈴木雅明さんが、ホントに弾いてました。もうとにかく、それだけで、すごいなーと思ってしまった。うわ、ホントに弾いてる……やっぱり人が弾いてたんだ……この曲……まあ、おおげさかもしれませんが、なにかそういうところがある曲です。この曲は……

この曲のフーガの部分に「聖アン」という名前が付けられているわけは、フーガの第一主題の冒頭が、ウィリアム・クロフト(1678-1727)という名前のバッハと同時代のイギリスの作曲家の「O God, our help in ages past」という賛美歌(1708)の冒頭の音型とそっくりだから……じゃあ、クロフトさんのその賛美歌は、聖母マリアのお母さんのことを歌ってるの?といいますと、歌詞を読んでみると、どうも、そうとも思えない……

Web
ちょっと、歌詞をかかげてみましょう……

1. O God, our help in ages past,
our hope for years to come,
our shelter from the stormy blast,
and our eternal home.

2. Under the shadow of thy throne,
still may we dwell secure;
sufficient is thine arm alone,
and our defense is sure.

3. Before the hills in order stood,
or earth received her frame,
from everlasting, thou art God,
to endless years the same.

4. A thousand ages, in thy sight,
are like an evening gone;
short as the watch that ends the night,
before the rising sun.

5. Time, like an ever rolling stream,
bears all who breathe away;
they fly forgotten, as a dream
dies at the opening day.

6. O God, our help in ages past,
our hope for years to come;
be thou our guide while life shall last,
and our eternal home.

よくわからないところも多いのですが、聖アンのことを歌ってるとはちょっと思えないけれど……私の英語力がないからわからないだけでしょうか……と思ってウィキで見ると、作曲者のクロフトさんがオルガンを弾いてたのが、ロンドンの聖アン教会だったから……ということのようです。なお、「アン」の綴りは「Anne」で、「赤毛のアン」の「アン」と同じです。英語発音だと「アン」になりますが、聖書なんかには「アンナ」(Anna)と書いてあります。

で、バッハが、このクロフトさんの賛美歌の冒頭部分をフーガの第1主題としてとりいれたのか……といいますと、どうもそうでもなく、音型が同じになったのは偶然であろうという意見が主流のようです。ただ、イコノロジー的には、アンナは、幼子イエスを抱くマリアをさらに抱くように描かれることが多く、これは「三位一体」を表わしているとのことで、そうなるとこのBWV552のプレリュードとフーガもやっぱり「三位一体」を表わしているので……

この曲が、「聖アン」と名付けられるのも、多少本質的な理由があるのかな……という気もしますが、よくわかりません。ただ、クロフトの賛美歌の歌詞の感じからすると、やっぱり宇宙的で、無限の時間と空間を亘っていくようなイメージがあるので、この歌詞は、結局、バッハのあの壮大な三重フーガの開始にふさわしいもののように思えます……ということで、真相はわからないのですが、なにか、すべてはまっているような気もします。

この曲には、シェーンベルクによる弦楽合奏用の編曲があるのですが、これがまたスゴイ……ネットで、いろんなヴァージョンを聴くことができます。弦を省いて吹奏楽みたいにしてやってるのもありますが、いずれにせよ、オーケストラの音色の多彩さを得て、この曲はまたちがった相貌をみせる。金管の咆哮が、たそがれゆく空のかなたから響きわたって「古き世の終末」を告げしらせると、木管の静かなフーガが夜空の星のまたたきのごとく……

そして、キリストの主題が弦の重なりとなって流れてゆく……そのかなたに、管楽器による神の主題がそびえたち……やがて、すべてがゆっくりと崩壊していく地の底から、トロンボーンによる聖霊の主題が湧きあがる……この曲は、プレリュードもフーガも、徹底して「3」によって成り立っています。「三位一体」……この曲を聴いていると、それは単なる「神学的要請」ではなく、この世界を成立させるための必然であるかのように思えてくる……

フーガ部分は、父なる神を表わす第1主題が4/4拍子、子であるイエスを表わす第2主題が6/4拍子、そして聖霊を表わす第3主題が12/8と、リズムが変わっていますが、シェーンベルクによる編曲は、このリズムの変化点でリタルダンドをかけて「変化」をより鮮明に浮かびあがらせています。そして、おもしろいのは、3つの主題が音型的に相互連関を持ってるように聴こえること……これは、まさに「三位一体」の音楽的表現なのでしょう……

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ここで、シェーンベルクとバッハの関係について書いておきますと、シェーンベルクはバッハの音楽世界にかなり傾倒していたようで、バッハを「最初の12音技法の作曲家」とみなしていたフシもあるようです。私は、12音技法についてはよくわからないのですが、たしかに、バッハの『平均律クラフィーア曲集』なんか、構成自体が12音的だ……つまり、オクターブの12の音にそれぞれ長調と短調をあてがって24……

ということで、第1巻も第2巻もそれぞれ24曲のプレリュードとフーガからなっている。おまけに、第1巻の最後のフーガには、オクターブの12の音が全部使われている……こういうことになると、バッハはすでに、オクターブの12の音を均等に扱う世界に一歩、踏み出していたということなんでしょう。しかし歴史は、調性感たっぷりの古典派、ロマン派の時代を過ぎないと、バッハの最終到達地点にまで至らなかった……ということなんですが。

この問題は、今もなお解決されていないように思えます。シェーンベルクの12音技法の作品なんかを聴くと、やっぱりちょっと耐えがたい?ものがある……われわれの耳は「調性感」に馴らされているので、12音を平等に扱って調性感を完全に消滅させた曲は、ものすごく無機的で、「意味がない」ように響きます。この「意味がない」というところがかなり重要なんだと思うのですが……じゃあ、曲を聴いて感じる「意味」とはなにか……

それはおそらく、その時点でその人がまわりにつくっている世界全体なのかもしれません。空気や水のように「意味の世界」は、ことさら意味をもって感じられないがゆえに、その「意味」を破壊するような音楽には「意味がない」という反応になる……実は、それは「鏡」であって、人は、その鏡を見て、自分のまわりを取り巻いている世界の「意味」をようやく知ることになる……あるいは、また、別の世界があるのではなかろうか……

そんな思いにもなるのかもしれません。しかし、私自身は、たとえばシェーンベルクの12音技法の曲なんかにはかなり抵抗感があるけれど、バッハの曲にはものすごく惹かれます。これは一体どういうことか……この日、鈴木雅明さんがチェンバロの部の最後に演奏された『半音階的幻想曲とフーガ』も、「調性感」という点からするとけっこう逸脱しているにもかかわらず、聴いているとやっぱり「快感」……これはいったいどうしたことか……

BWV552にしても、何カ所か、かなり「調性感」を破壊しているように聴こえる箇所がありますが……そして、この日の鈴木雅明さんの演奏では、そこをけっこう強調していたようにも聴こえましたが……にもかかわらず、その「ぶっとんでいく感じ」というのがものすごく効果的で、一気に百億光年の宇宙的スケールを飛びこえてしまう……ということで、感じでいうと、バッハはまるで、シェーンベルクの「後の」作曲家みたいに聴こえる……

おそらく……調性感を完全に破壊した後の世界というのは静謐で、もうそれ以上変化のしようのない世界なのではないか……調性感と無調感のせめぎあいというか、戦いみたいなものの中に、なにか「拓いていく力」みたいなものがあるのではないか……そんな感じも受けましたが、そこはまだよくわからない……私たちを取り巻く世界自体が、私たちの側からみれば「意味」があっても、世界の方から見れば、はたして「意味」はあるのか……

たぶん「三位一体」というのは、そこに、どうしても必要になる考え方なのではないか……そんなふうにも思えます。このBWV552のプレリュードとフーガは「三位一体」にこだわりまくってるわけですが、この曲は、バッハのそういう「理念的要請」がみごとに「実際に聴ける響き」となって結晶した希有な現象……なので、やっぱり、目の前で、それを実際に演奏する人を見て、音を聴くと……すごいなあ……と思ってしまうのでした。

Q-book_03/14のカノン_01/Fourteen canons_01

14canons_900

Q-bookシリーズも3つ目になりました。今回取りあげたのは、バッハ(ヨハン・ゼバスチァン)の『14のカノン』(BWV1087)。あんまり聞いたことがない曲名やなあ……と思われる方もおられるかもしれませんが、これは、1974年にストラスブールの図書館で自筆稿が発見されたという、いわば「ほやほや」の曲です。まあ、1974年といえば40年も前なので、「ほやほや」というよりは「さめかけ」くらいかもしれませんが……それだけに、録音も着実に増えてきまして、私も3種類くらい持ってるんですが……有名な『ゴルトベルク変奏曲』とカップリングされてるケースが多いようです。なぜかといえば……

バッハの自筆譜が書かれていたのが、なんと、バッハ自身が持っていたゴルトベルク変奏曲の楽譜の余白だった……しかも、「前のアリアの最初の8音の低音主題に基づく種々のカノン」というバッハ自身の書きこみとともに……なので、この『14のカノン』の旋律は、実は『ゴルトベルク変奏曲』の骨格を形成している8つの音を並べたものだったんですね。バッハは、この8つの音を主題にして14のカノンをつくり、それを、自分自身が所有していた『ゴルトベルク変奏曲』の余白に書き入れたということで……

この曲、聞いてみると、非常にふしぎな響きです。単純なんだけれど、無限の奥行きがある……オクターブ低いG音からはじまりますが、G-F♯-E-Dと下がってB-C-Dと上がって、さらにオクターブ低いG音に落ちる……バッハが低音部で用いる下降音階は、たとえば平均律クラヴィーア曲集の1巻の13番プレリュードなんかもそうですが、なにか、深い地下の世界に案内するような響きがある……いったんB-C-Dと上がる気配を見せながら、力尽きてさらに深いG音に沈みます。重力の支配……この作品に感じるのは、「あなたはチリからとられたのだからチリにかえる」というような言葉でしょうか。しかし、それが、イヤじゃない……

むしろ、心落ち着くと申しましょうか……『ゴルトベルク変奏曲』は、この低音部を持っているからこそ、上声と中声で、あれだけ華やかな……「めくるめく」といってもいいような変奏の世界をくりひろげることができるんだ……そんなことを感じさせます。以前に見た『ゼロ・グラヴィティ』という映画を思い出しますが……この映画の原題はゼロなしの『グラヴィティ』で、まさにそんな感じなのかな? チリからとられてチリに帰る……この八つの音による変奏曲は、ヘンデルとかパーセルも行っているそうですが……

私は、そっちは聞いたことがないんですが、どんなんかなーと興味はあります……ということで、今回は、この『14のカノン』をQ-book化してみました。『14のカノン』は当然五線符に書かれているので、各音符は、高い音ほど上、つまり平面のX-Y座標でYの値が大きい位置におかれることになりますが、Q-bookではこれを3Dにするので、「高い音ほど上」をX-Y-Z座標でZの値を大きく……ということはより高い位置に配するようにしてみました(音階でいうと、2度の差が1/4mmくらい)。まあ、ゆるやかな階段みたいになりましたが……

これでみると、この階段は、ゆっくりと、地下の世界へ……なだらかなカーブを描いて降りていってるのがわかります。ちなみに、各音符は、すべてバッハの自筆原稿(インターネットで公開されているバッハの手描き楽譜)から採ったもので、ベースに貼ってある文字もバッハのものです。左上には、よくわからない字(S1.?)の後に「Canon simplex」と書いてあり(要するに主題ということでしょう)、右下は、バッハの署名です。また、音符の直前のごちゃっとしたカタマリは、ヘ音記号と♯と4/4という拍子なのでしょう。

バッハのこの楽譜では、♯が2個つけられているようです。今の表記だと、下の方の♯は省略すると思うのですが……バッハの時代にはこうするのが慣例だったのか、それともバッハのこの楽譜だけの現象なのか……それはわかりません。なお、このヘ音記号と♯と4/4のカタマリの位置ですが、これは、ヘ音記号の意味するところから、へ音と同じ高さにおいてあります。この造作の中でいちばん高いのが、このカタマリの次にくるG音なので、これが蓋をジャマしないギリギリの位置にくるように全体を造りました。

今回用いた箱は、細長い文鎮が入っていたもので、蓋をするとこんな感じ……蓋には『銘石美術品 文鎮』と筆文字風の書体で印刷された紙が貼ってあります。箱の下にあるのは、もともと中に入っていた文鎮です。大理石みたいですが……同じもの(まったく同じ箱に入った大理石の文鎮)がネットショップで売られていて、千円とか二千円の値段が付いてました。メーカーとかは不明ですが……まあ、そんなに高尚な?ものではないみたいですね。

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今日のkooga:金の川、銀の水/Gold river, Silver water

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金と銀に見えるのは、川底に沈められたビニールの袋。厚い雲を通してそそぐ陽の光に輝く……これは、やはり弥富の川です。木々の影が川底を映し、沈められた袋が金と銀に……これは、やっぱりふしぎな光景。

タルコフスキーの映画の一シーンみたいだ……となると、やっぱりここに響く音楽は、バッハのコラール639か……無限に静かで、諦念そのもののような曲なのに、どこか、ほんの少し、心を騒がせる力を持っている……

いろんなものが沈んでるのに静かな川の流れ……バッハのこの曲は、人の、流れる意識そのものかもしれない……3声が、独立して動く……からみあうようでよそよそしく、助けあうようで離れていく声部たち……

世界というものは、やっぱり複雑なのかもしれません。もしかしたら、まったく関係ないのかもしれないし……なぜ、関係し、交わり、そこから新しいものを生むように見えるのだろう……魂の闇……

魂は、生まれてくるときに、宇宙と同じ大きさの闇を負い、その闇に包まれてこの世界に現われるのでしょう。黒い水が、光を受けて黄金に輝き……また、光を失って闇に沈む……生きていることの意味。

生が光で、死は闇なのか……それとも、生自体が、闇の中に輝く光なのか……私の中の闇は、とらえようもなく巨大で、光はすぐに届かなくなってしまう。黒いスポンジのように光を吸収する闇としての質……

しかし、まあ、時間はある。あせらず、ゆっくりと、少しづつときほぐしていけばいいではありませんか。死が、ひとつの区切りを超えるだけで、作業そのものは連綿と続くのだとすれば……時間というものは、闇がほぐされていく、そのものなのかもしれません。となると、やっぱりそれは無限だ……

魚の影が見えました。しかも、かなり大きい……30cmはあっただろうか……鯉ではないかという人がいる。鯉かもしれない。人が、そういう名前をつけたなら……しかし、それは、流れそのものがうねったようにも見えた。そこにはなにかの意志があるのかもしれないが、それはわからない……

わからないことばかりです。それが、闇の働き……歩けば、ここから遠ざかる。そしてまた、別のものが見えてくる。私は、この生のあいだはこの身体から出られない。しかし、私の身体は刻々と崩壊し、またつくられる。私の意識も、身体の破片に乗って、わずかだけれど放散されていきます……

人は、ナゾの闇とともに生き、そして闇を抱えたまま死ぬ。闇は終わらず、また生へと続く……静かに降る雨の中で、川は、ゆらゆらと、人に問いをなげかける。問いには答えもなく、問い自体もいつのまにかわからなくなっている。なんにもわからないアタマの中で、ただなにかの印象だけが、ずっと尾を曵いている……

お茶目新聞_05:佐村河内氏、芥川賞受賞

御茶目新聞_05_935

御茶目新聞_05 
2014年(平成26年)4月29日(火曜日) 
日本御茶目新聞社 名古屋市中区本丸1の1 The Otyame Times
今日のモットー ★売上目標 1人1冊!
 
佐村河内氏、芥川賞受賞
  話題作『マモルとタカシ』で
   売れゆきに拍車 史上初一億部突破?へ

一時は「現代のベートーヴェン」ともてはやされ、クラシックのCDとしては驚異的な売上を記録した「作曲家」佐村河内守氏も、実は新垣隆氏というゴーストライターがいることが発覚、評価が急転して「サギ師」、「ペテン師」としてマスコミで袋叩きとなったが、その後、小説家に転身し、自身と新垣氏をモデルとした長編、『マモルとタカシ』を発表。これが再び世間の耳目を集めてベストセラーに。さらに、売上だけではなく、文学的内容も高く評価され、ついに芥川賞を受賞することとなった。これで、売上もさらに加速されることが予想され、版元によれば「史上初の一億部突破も夢ではない」とのこと。
ただし、今回もまた「ゴーストライターがいるのでは?」との憶測が発売当初からとびかっている。芥川賞受賞の事実からも明らかなように、構成、ストーリー、文体のいずれをとってもハイレベルで洗練され、しかも斬新。文芸評論家の間では、「これだけの文章を書けるのは○○氏、いや△△さん……」と、すでに数名の「ゴーストライター」の名があがっている。これに対し、当の佐村河内氏は、「いや、今回はホントにボクが書きました……というか、文章が天から降りてくる……私はそれを書き留めただけ……ウソいつわりはございません」と語っている。ゴーストライターさがしも含めて、これでまたマスコミも国民も、当分の間、彼にふりまわされることになりそうだ。

ABくんの談話(いいコンビなのかも……)
コレ、うまくいったらノーベル文学賞かもね。賞をとったら官邸に呼んでハグしたげるんだけど……

新垣隆氏の談話(おちついて音楽に専念させてほしい……)
今回は共犯じゃないョ。

写真キャプション

佐村河内氏の話題作
マモルとタカシ
御茶目出版社 刊
USO800円(税込)
(えっ! 横書き?!)

本のオビのコピー
★オビ・表のコピー
重層するウソの奥に輝く真! 御茶目出版社
★オビ・背のコピー
芥川賞!
★オビ・裏のコピー
一人は看板、一人は中身……このコンビで永久にうまくいくはずだったのに……弄び、弄ばれたのはだれか?日本のクラシック界の大激震を、今、キーマンが物語る。

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今までの御茶目新聞の記事の中では、いちばんありえるかな?という気がします。ゴーストライターさえうまく選べば実現できそう……でも、一億部はさすがにムリでしょう……それと、「話題性」だけでは売上は伸びても「芥川賞」はむずかしい。核心の部分に、やっぱり「真実」が光っていないと……今回の騒動を分析してみるといろいろなことがわかってきますが、そこは、うまく書けば、この国の「音楽」というものの受け取り方から、さらに「19世紀」の意味まで、深く考えさせられる作品になるかもしれません。

今回の事件で私がいちばん注目したのは、なぜ新垣さんが、佐村河内氏の指示どおりに18年間も「音楽」を書きつづけてきたのか……ということ。「お金のため」だけでは絶対に続きそうにないし……きけば、新垣さんは、日本の現代音楽の分野ではトップクラスに入る方だという……ははあ、息抜きだったのか……と思いましたが、最近の報道をいろいろ聞いていると、やっぱりそうだったみたいですね。これ、現代音楽というものの特質を如実に現わしてしまった事件ではなかろうか……そんなふうに思えてきます。

現代音楽家って、実は、スゴイらしいんですね。ウィキに、新垣さんの発言として、「あれくらいだったら現代音楽家はみな書ける」とありましたが、実際そうだと思います。私が以前にFMで聞いた話では、現代音楽家のだれそれさん(名前は忘却)は、ピアノの右手で10拍打つ間に左手で11拍打つような曲をつくって、しかも、現代のピアニストはそれを平気で弾いちゃうと……もう、過去の音楽家や演奏家をはるかに凌ぐ技量を、今の現代音楽家はみんな持ってる……

だから、バッハ風とかモーツァルト風とかベートーヴェン風とか注文をつけられてもなんなくこなしてしまう。しかも、それが楽しい……現代音楽家は、調性というものを失なって久しい現代音楽の世界で、日々、一歩でも前に進もうと努力しているから……調性のある音楽を書くということは、やっぱりホッとする喜び……武満さんも、バリバリの現代音楽に混じって調性のある豊かで美しい曲を残していますが……今の現代作曲家は、もうそういうこともやりにくい地点にいる……

要するに、調性感の豊かな作品で勝負するということは、もうかなりできにくい状況が生まれていて、そういう曲は書きたくても書けない……外側からの制限というよりは、むしろ自分の内部からの制限がキツいのでしょう……だから、名前を隠して調性感豊かな音楽をたっぷり書ける……この佐村河内さんの提案は、新垣さんにとっては、とても楽しい息抜きの機会だったことは想像にかたくない……ということで、この「まずい関係」がずるずると18年も続いてしまった……

新垣さんが、会見で、「ボクも共犯者」と語った部分が、私にはいちばん印象に残りました。もし、彼が、佐村河内氏のために書いた自分の作品を「勝負作」と捉えていたら、絶対にこんな発言は出てこなかったでしょう。というか、「著作権を主張する」ということになったかも。しかし、あの作品は、彼自身も、密かに「調性のある音楽」を楽しむ場だった……やっぱり、「音楽そのもの」に対してうしろめたい気持ちはずっと持っておられたのではないか……

「共犯者」という発言は、そういう事情を如実に語っているものではないかと思います。彼が佐村河内氏に書いて渡した作品は、彼にとっては息抜きの、いわば「勝負の間のおアソビ」みたいなイメージだったのに、そういう作品が世間で話題になり、どんどん広がっていく……最初の頃は、たしかに、「世間に受けいれられる喜び」は大きかったんでしょう。しかし、度を越したフィーバーみたいになっていくと、これはさすがにまずいのではないかと……

要するに、ポイントは、「もう終わってしまった曲」を世間に出して、それに世間の人が「名曲だ!」という評価を与えてしまったこと……ここが、彼としてはいちばん気になったし、「罪をおかしている」という気持ちにさせられたところではないかと思います。そして、その罪は、世の人に対して……というよりも、実は、音楽そのものに対する罪……もう終わってしまった音楽を、今発表して、それが世に受け入れられる……これは、「音楽」で世を欺くことにほかならない……

つまり、彼は、やっぱり、「根っからの現代音楽家」なんだと思います。現代音楽に課せられた課題を認識し、その課題を、志を同じくする人々となんとかして、少しずつ砕き、積み上げ、少しでも「音楽」の世界を先に進ませたい……それが、彼の中核の希望であって、私は、それはとても純粋なものだと思う。世間に受け入れられ、世の人を楽しませたり感動させたり……むろん、それも大切だけれど、それは、本当の「今の音楽」によってなされなければ意味がない……

もうとっくに終わってしまった「過去の音楽」の集積によってそれがなされたとしても、それは「音楽」に対する裏切り行為でしかない……はじめは、密かな自分の楽しみとして、ちょっと脱線してもまあ許されるだろう……と思ってはじめたことが、佐村河内氏というキャラクターによってどんどん拡大され、自分は、音楽で音楽を裏切る行為をやってしまって、それがますますひどくなる……これは、純粋な気持ちの現代音楽家には到底耐えられないことだ……

ことの次第は、ほぼこういうことだったのではないか……だから、彼が「共犯者」というとき、その「罪」は、自分がいちばん大事にしなければならない「音楽の道」を汚した罪……そこには、やっぱり「音楽」の持つ現代性といいますか、最先端を行く人の「音楽」と、今の一般の人の楽しむ「音楽」の大きな乖離が現われているように思われる。そして、それは、もう少し大きく……西洋の「19世紀」というものの持つ意味と、さらに「普遍」の問題が、やっぱり絡んでくるように思われます。

したがって、この騒動は、より広い観点から見た場合、単なる「偽作事件」ではすまない、大きな現代的問題を孕んでいると見た方がいいように思います。と同時に、「イメージと本質」というさらに普遍的な問題にもつながっていく。ヨーロッパ中世にさかんだった「普遍論争」のことも思いおこされます。「普遍」が佐村河内氏という一人の人物によって「個」として「存在」してしまった……イメージは実体なのか、無なのか……はたまた、実体の方が無なんだろうか……

今はまだ話題としてホットですが……しばらくすると、こういうようなもう少し大きな観点からこの事件を分析する人がきっと出てくると思います。どんな論が出てくるのか……ちょっと楽しみです。

*本のイラストで、左開きの表紙にしてしまった……「えっ! 横書き?!」というコピーをつけてごまかしましたが、これはまことに恥ずかしいマチガイでした……

STAP細胞?(つづき)

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なぜか気になるスタップ細胞……顛末のふかしぎさもさることながら、このモンダイ、さらに根本にあるギモンとして、「なんにでもなる」細胞つくりって、ホントはどういうことなのかな? ということも考えさせられます。山中さんのアイピーエス細胞もそうなんですが、結局なにがやりたいのか……それを一言でいうなら「不老不死」で、これは、人類が大昔から追い求めた夢なんだと……それが、最先端の生命科学で可能に……ということで、みんな、ここに夢とロマンをかけて……そんな感じで、人間って、不老不死の妙薬を求めて徐福をジパング?につかわした秦の始皇帝のころから変わってない。大昔は、一握りの権力者の夢だったものが、今では万人の夢に……

なので、これは、発想が根本からオカシイ? まあ、身体の一部を失ったり、機能が悪くなったりした人が、その部分の「再生」を切に願うのは当然だと思います。しかし、失ったら、やっぱり失っただけの意味はあるんだと思う。キビシイ見方ですが……そこを見ていかないと意味がないのでは……なくなったものは再生すればいいって……プラナリアじゃないので、やっぱりそこは考えるべきところだと思います。植物なんかだと、「再生」というのは当たり前のことで、別にふしぎでもなんでもない。植物のあり方自体が、もう「再生」というか、連綿と続いて広がっていくようないのちのあり方なので……これが、動物になるとかなり様子が変わる。単純な動物だと「再生」はありえても、複雑になればなるほど難しい……これはなにを意味するか……

これは、おそらく「個」というものが関係しているんだと思います。要するに、動物は、「個」を得た代償として「再生」を失った。「再生」は、どこか「全体」に通じる雰囲気がある。切り離された「個」に対して、のべーっとどこまでもつながっていくような、そんな気分があります。だから、動物でも、「個」があんまり際立たない、単純な構造のものは、植物みたいな「再生」の気分が漂う。しかるに、「個」が際立ってくればくるほど「再生」も難しくなる……「個」を区分するのは、遺伝子レベルから身体全体の免疫構成に至るまで、いろんなメカニズムが働くのでしょうが、それが「必要」というのは、どういうことなのだろうか……なぜ、生物界は、「個」が薄くて、どこまでも広がる「植物」だけではいけないのでしょうか……考えさせられます。

進化・発生の系統としては、植物が先で動物が後……ということはないのかもしれませんが、なんとなく、「全体」みたいなものが先にあって、後に「個」が出てきた……みたいな感じだと、気分的に納得できるような印象……まあ、おそらく単細胞生物が多細胞になるときに、「動物界」と「植物界」が際立ってきたのでしょうが、それにしてもふしぎだ……生命の二つのかたち……これは、やっぱり「相補的」なのかもしれない。植物の特徴としては、多細胞になればなるほど「土地」への密着性が強くて、大地や海底を覆って、地球表面を生命の絨毯で埋めていく……これに対して、動物の方は、多細胞になればなるほど「個」としての独立性が強くなり、自分の身体の中に「ミニ大地」を取りこんで、惑星の上に「個の競演」をくりひろげる……

動物の「個」は、極端に際立つとロケットをつくって大地を離れ、宇宙にまで行ってしまうわけですが……その「役割」というのは一体なんだろう……私の思考は、いつもここで止まってしまいます。タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』では、宇宙の彼方の惑星ソラリスをめぐるステーションで、主人公のクリスがお弁当箱みたいな金属の箱に植物を育てていた……彼の思考とともに、ステーションには昔の恋人が現われ、ソラリスの大地には彼の実家とまわりの環境が造られます……お弁当箱の植物も実家のシーンもレムの原作SF小説にはなく、タルコフスキーの解釈であろうと思われますが、地球という遊星をどれだけ離れても人は地球の子であり、地球をいつまでもその身体のうちに持って、その精神もやはり地球から離れられない……

植物はその象徴なのかもしれません。家のまわりの樹々……豊かに流れる水の中には緑の水草が、バッハのBWV639コラールにのってゆらめく……人は、どこまでもこういうものを内にもちながら、「個」として際立って、宇宙のはてまで行こうとする……今回のスタップ細胞事件は、こういう人間の矛盾した欲望を如実に現わしたものみたいに思えます。「個」を保ちつつ、「全体」も手にいれたい……もし、アイピーエスやスタップで「不老不死」が実現したとすると、人は、自分というものを次々に「再生」させてどこまでも「個」を保つ。しかし、そうやって保たれる「個」の意味は、どこにあるんだろう……「死の恐怖」……そんな言葉が浮かんできます。ただ、「死」から逃れるためだけにそんなことをするんだったら無意味だ……

「個」を手に入れる代償として手放した「再生」を再び手に入れて、動物でも植物でもないものになろうとするのか……それは、なぜ、生命界が「動物」と「植物」に分かれているのか……そこをきちんと理解した上でないとやっちゃいけないことのような気がする……「原子核」の中に踏みこんだのと同じ誤りを、ここでもまた冒そうとしているような気がします……哲学の必要性……科学は、哲学から分かれ、哲学を切り捨てた時点で「無限進化の可能性」を獲得したように見えますが、捨てられたはずの哲学の残滓は、今も「生命倫理」というかたちで細々と生きている。でも、人間の複製とか「個」にもろにかかわってくる時点までは、それは「考えなくていい」領域として圏外に追いやられているようにみえる。はたしてそれでいいのだろうか……

哲学と科学技術の発展の不均衡は、それ自体ですでに「問題」であると思います。科学者は、自分のやっていることの「意味」を、「個」と「世界」の関係においてきちんと理解した上で、はじめて「研究」を進めることができる……やっぱりそういうところまで戻る必要があるのではないか……動物が不死性を獲得する……その唯一の形態が「がん細胞」であると言われますが、「がん細胞」は「なんにでもなる万能細胞」の対極にある「なんにもならない無能細胞」なんだろうか……これは、結局、細胞自身が「個」を主張しだした究極のかたちなんでしょう。人は「がん」を怖れるが、それは、自分という「個」の一部が反乱を起こして「自分」になるのを拒否する状況なんだけれど、がん細胞にとっては、それこそが「自分」という「個」の独立宣言だ……

人の意識は、やっぱりふしぎです。「個」であることは、どうしてもそれだけの「重み」を背負う。それは、人の意識にかかる「負荷」として、「個」と「世界」、「個」と「全体」の問題を考えさせる。私が私であることの意味……それは、いったいなんなのか……人が、「死の恐怖」からやみくもに「再生」を願う……それは、目覚めたばかりの「個」に特有の素朴な反応なのかもしれません。そして、そういう方向を盲目的な「善」とするところに、今回のスタップ細胞さわぎの根本的な原因があるのではないだろうか……「未熟な研究者」という言葉が何回も出てきましたが、そういう意味では、人類自体が未熟だ……まだ、ようやく「個」としての意識のはじまりに立っているということは、やっぱりあるんだと思います。

グールドというピアニスト

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グレン・グールドというピアニストについては、もういろんな人が書いているので、今さら私が書いてもはじまらないかもしれませんが……でも、やっぱり書きたい。ホントに「天才」というのは、たぶんこんな人のことを言うんでしょう……暗算少年とかパフォーマンス的にスゴイ人はいっぱいいるけど、人類の文化に、なんらかの「意味」のある足跡を残せないと、それは単なる「見せ物」になって、ホントの意味で「天才」というには値しないと思います。で、人類の文化に足跡を残す……って、なんだろうということなんですが、とりあえず、その人がおるとおらんでは、「人類の意味」自体が変わっちゃうんじゃないだろうか……と思えるくらいのスゴイ人……

このレベルのスゴさって、たとえば思想でいうならヘーゲルとかマルクスとかプラトンとか……ソレ級。絵描きで思い浮かぶのは、やっぱりピカソとかマルセル・デュシャンとか。音楽だとバッハ、ベートーヴェンはまずまちがいなくそう。で、グールドさんも、やっぱりソレクラスじゃないかと……演奏家であって、作曲家じゃないんですが(曲もつくっておられたみたいだけど)、とにかく、「対位法音楽」というものの真の姿を見せてくれた……でもそれだけじゃまだ「天才」とはいえないかも……ですが、もうちょっと構造的?な業績としては、やっぱり、「媒体を通して現象する音楽」というものに逆転的な価値を与えた人として、思想の分野で持つ影響も少なくないのでは……

彼以前は、レコードって、やっぱり補完的な位置付けだったと思うんですよね。実演がホンモノで、レコードは代用品。ホンモノを聴かないと音楽を聞いたことにならないんだけれど、そういう機会もなかなかないので、レコードを聞いてホンモノの演奏に心を馳せる……そういう感じだった。ところが、グールドさんの演奏には、「生演奏」というホンモノが、もともとない。スタジオレコーディングは聴衆を当然入れず、スタッフだけで行われるから、これは「演奏会での演奏」という意味でのホンモノではない。単に、レコードを作るための録音作業にすぎない?わけで……「ホントの演奏」は、レコードを買った人が、自宅のプレーヤーに針を落とす……そこではじまる?

コレ、それまでだれもが夢想だにしなかった革命的なできごとといっていい。要するに金科玉条のごときご本尊である「実演」がない。というか、レコードを買った一人一人が、いろんな装置で、いろんな部屋で、いろんなことをしながら聴く……その一回一回が「実演」なのだ……なんでこの人、ここまで割り切れたというか、進化できたんだろーと驚異的に思いますが、その演奏を聴いていると、なんとなく感じるところがある。それを書いてみますと……まるで、打ちこみみたいだ……これが、私の率直な感想です。とにかく「音」に対する正確さが比類ない。ここまで「音」をコントロールしきれた演奏家は、それまでだれもいなかった……

はっきり言って、グールドさんは、他のピアニストに比べて、テクニック的にはるかに擢んでている。これはもう、だれもが認める事実であろうと思うのですが……その「差」がフツーじゃなくて、何十倍、何百倍もあるような気がする。基本的に、彼くらいのテクニックに達しなければ「ピアニストでござい」と言って名乗るのは恥ずかしいんじゃないか(いいすぎですが)……まあ、現代のピアニストであれば、彼と同程度のテクニックを持つ人もおられると思いますが、彼の時代では、彼は、テクニック的に飛び抜けてました。まるで、3階建ての建物の横に500階の超高層ビルがそびえているように……その「音」に対するコントロールの正確さは、まるで「打ちこみ」のごとく……

試みに、今ネットで聴けるいろいろなピアノ音の打ちこみを聴いていると、ホント、グールドさんそっくりです。いろんなピアニストのいろんな演奏があって、それぞれ、高い評価を受けている人もいるけれど、テクニック的にはグールドさんにははるかに及ばない。「音楽性」という言葉もあるわけですが……私の聴いた範囲では、ホントに「音楽性」でまた別な高みに達した人って、リヒテルとケンプくらいではなかろうか……まあ、あんまり広範囲には聴いてませんので、こんなこというとお叱りを受けるかもしれませんが……最近の方でいえば、ピエール=ロラン・エマールさんくらいか……いや、読んで不愉快に思われる方がおられるといけないので、「比較」はこれくらいでやめておきます。

要するに、私がいいたいのは、グールドさんは、もともと、他のピアニストとは求めるところが全く違っていて、そこのところが充分に「思想的」といいますか、音楽というものに対して、マーケティングまで含んで、発生(個の著作)から受容(個が聴く)に至る全体のプロセスに反省的意識が充分に働いていて、それが、単に音楽のジャンルにとどまらず、人類の文化全体にかんしていろいろ考えさせられるなあと思うわけです。要するに、やっぱり「個」と「普遍」の問題で……たとえば、「生演奏」を聴きにホールに集う聴衆は、一人一人は「個」なんだけれど……そして、演奏する音楽家もやっぱり「個」なんだけれど、その間には、ふしぎな「普遍」が介在していて、よく見えなくなってます。

私が理想とする演奏形態は、たとえば友人にピアニストがいて、彼の家に夕食に招かれて、食後に、彼が、集った数人の人のために客間にあるピアノで数曲奏でてくれる……そんな感じが、ホントの「生演奏」ということではないか……介在するものがなにもなくて、演奏する個としての彼と、聴く個としての私が直接に演奏によって結ばれる……これに比べると、ホールでの演奏は、演奏する個と聴く個の間に、絶対に「欺瞞」が入ると思います。要するに……音楽には直接関係のないなんやかや……お金やネームバリューや、演奏をきちんと味わえるかしらん?という気持ちとか……演奏する側においてもやっぱりそうで、余分なもろもろ……そういうものがジャマして不透明になってる。

しかし、グールドさんの場合には、これは、グールドさんという「個」が、私という「個」のために直接演奏してくれてる……みたいな感じがあるわけで、このあたりも「打ちこみ」と似てます。まあ、CDもタダじゃないんだけれど、演奏会に比べればはるかに安いし、何度でも繰り返し聴くことができる。場所も、家でもクルマでも、歩きながらでも……私は、以前、阪神淡路大震災のとき、神戸に住む友人宅をたずねて、神戸の町を歩いたことがあるんですが、そのときに、グールドさんの『パルティータ』(むろんバッハの)をウォークマン(もどき)でずっと聴いていた。震災で悲惨な状態になった街の光景とあの演奏が、もう完全にくっついて忘れられない……

でも、でもですよ……他のどんな演奏家でも、CDで、いつでもどこでも聴けるじゃありませんか……というのだけれど、なんか、どっかが違う。やっぱり、グールドさん以外の演奏家は、演奏会が「ホント」でディスクは「代用」。そんなイメージが強い……私がここで思い出すのは、カール・リヒターの「地獄のゴールドベルク」。このタイトルは、私が勝手に付けてるだけなんですが、このディスク、まれにみる「ぶっこわれた」演奏……聴いてると、もう、どうしようか?と思っちゃうんですが……1979年にリヒターさんが来日して、東京の石橋メモリアルホールというところでゴルトベルクを弾いた、その録音なんですが……もう最初から、なんか危機感をはらんではじまって……

とにかくミスタッチの山……うわー、これがあの、厳格きわまるリヒターさんの演奏なの??とぎょぎょっとしながら聴いてると、そのうちに「楽譜にない」道をたどりはじめ……と思うと前に戻ってやりなおし……悪戦苦闘しているうちに、もう演奏自体が「玉砕」してすべては地獄の釜の中に投げ入れられて一巻の終わり……あとに残るは無惨な廃墟のみ、という、もう信じられない破滅的なリサイタルになったんですが……よくこの録音、ディスクとして出したなあ……しかし、なんか、いままでの端正の極地のリヒターさんのイメージががらがら崩れて、そこに現われ出たのは原始の森をさまようゲルマン人……うーん、ホントは、彼は、こんな人だったのか……

この演奏会は、聴きものだったでしょう。現実にあの場にいた人は、みんな肝をつぶして、どーなることかとハラハラしながらいつのまにかリヒターさんの鬼のような迫力に引き込まれていったに違いない……そうか……演奏会の真の姿って、これだったのか……で、ここに比べると、メディアの海にダイヴしたグールドさんの演奏は、やっぱり打ちこみだ……でも、なぜか、このリヒターさんの「地獄のゴールドベルク」と共通の「熱い魂」を感じます。あの、震災の街……それまでの人々の生活が根こそぎ破壊されたあの街をさまよう私に、それでもまだ、人の思いはちゃんと残っていて、また新しく、人の生きる場所をつくっていける……と静かに語りかけてくれたグールドさんの音……

いろいろ、考えさせられます。個と普遍の問題は、そんなにカンタンに割り切れるものではなくて、これは、そこに立ち会う人によって、その人にとって、その場、そこにしかないなにか大事なものをもたらしてくれる。グールドさんは、たくさんの「個」、そのときの個だけではなく、これから未来に現われる数えられないくらいの範囲の個に対して、きちんと自分の「個」としての音楽を届けたいと思った。そこに現われるのは、やっぱり「他の中に生きる」という基本姿勢だったのかもしれない……演奏会が「地獄のゴールドベルク」となって崩壊したリヒターさんの思いも、やっぱりそれは同じだったんでしょう……そうならざるをえない「介在物」の巨大さを、改めておもいしらされます……

*リヒターさんのディスクを改めて聴いてみましたが、最初のアリアから、ミスタッチではないもののヘンな音程の音が混ざってきます。これ、調律にモンダイがあったんではないだろうか……調律の狂ったチェンバロを弾くうちに、なんかやぶれかぶれの自暴自棄に……でも、調律なんか、事前になんども確認するはずだし、ヘンだなあ……と思って聴いているうちに、なぜかひきこまれてしまう……ものすごく興味深い演奏です。これ、やっぱりスゴイディスクだ……