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マイナンバーへの疑問/A question about “The Social Security and Tax Number System”

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マイナンバー制度。一つ、大きな疑問があります。

天皇陛下にもマイナンバーが割り振られるのか?

これです。どうなんでしょうか……

「マイナンバー」を割り振る「人」は、行政府の長であるABくん。しかし、彼は、「国家元首」ではない。日本の国家元首は天皇陛下。

では……行政府の長にすぎないABくんが、国家元首たる天皇に、「マイナンバー」を割り振ることが、はたしてできるのだろうか??

ここで、ふたたび『ヨハネの黙示録』の引用です(以下引用 13章14-18)。

『さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。

それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。

この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である。』(引用おわり)

この論理からすると、マイナンバー制度は、「国民皆奴隷制度」ということになる。すなわち、全国民に「奴隷」の刻印を押すという制度。で、押す人はABくん。

じゃあ、ABくんは、天皇陛下に「奴隷の刻印」を押すんだろうか……それって、戦前だと、不敬罪で死罪に値する?(んでしょう。きっと)。

「マイナンバー」は、政府の英訳だと、「The Social Security and Tax Number System」ということになってるようです。

つまり、これがないと社会保障を受けられない。かわりに税金も取られない。……ということは、天皇という存在が、社会保障と税にカンケイなければ、たぶん割り振る必要がない。

ここからすると、天皇陛下は、マイナンバーなんかカンケイない……みたいなイメージになりますが。

どうなんだろう……

*この論理からすると、ホームレスもカンケイないですね。社会保障も受けないかわりに税も払わない。だいたい、住所がないからナンバーも届かないし……まあ、「非存在」ということで、天皇陛下と「真逆の同じ」になってしまう……スゴイ……

にしても、「The Social Security and Tax Number System」という英訳はわかりやすいですね。これだと、「社会保障と税の番号システム」ということで、「マイナンバー」という和製英語につきまとっている「奴隷にされ感」は感じない。

政府のお役人は、こういうヘンな和製英語が好きですね。もう、上から目線がありありと……国民はバカだから、わかりやすく言ってやらんと……かどうかはしりませんが、この言葉、考えた人の「心の位置」をありありと示しています。だから反発をくう。

もう一つ。これは実質ですが、英訳のように、社会保障(権利)と税(義務)をきちんと結ぼうということであれば、論理的には明解です。しかし、そういうことであれば、使用範囲はそこに限定されるべき。銀行預金は、社会保障(権利)にも税(義務)にも無関係でしょ?

国民の預金通帳まで把握したいという邪心?で、言語の意味の範囲を「マイナンバー」というヌエのようないやらしい言葉でごまかしてやってしまおう……ということであれば、そこはきちんと批判さるべきでは? だれもそこには触れないけれど……

「税金のがれ」という不公正を正して、社会保障はきちんと税でまかないましょう、という公明正大?な心でしたら、おそらく多くの人の納得は得られると思います。現行では、サラリーマンはガラス張りの税制ですが、そこで、「通帳見せろ」まではいわれてない。

要するに、収入と税の関連がきちんと把握できればいいわけで、自己申告で税を払っている人に対しても、収入の源と番号で結んでガラス張りにしましょう……まではいいわけだけど、だからといって、「通帳見せろ」は、絶対にやりすぎ。オソロシイ政府だ。

ワケのわからない造語でごまかして、「実際に政府ができること」(つまり、やっていいこと)の範囲をはるかに広げて国民をしばり、奴隷にしていこう……という意図がみえみえの今回の騒動。ABくん、あんた、こんな役人、ほっといていいんですか?

世界標準?/A global standard?

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TPP、妥結しましたね。オバマさんはけっこう正直で、「中国みたいな国に、世界標準を取らせるわけにはいかないから……」みたいなことをおっしゃってましたが、やっぱりホンネはそのあたりなのかな?

これで思い出すのが、先に日本の国会を「通った」(というか、ムリヤリ通ったことにした)日米新安保、日米同盟ですが、これで、日本は、軍事においてもアメリカを「世界標準」と認めて、みずから米軍の傭兵になります、と……

世界標準……この問題は、先頃のフォルクスワーゲンの大失態もそんな感じ。未来のクルマは、なにが「世界標準」になるかの争い……どんな分野でも、「21世紀の世界標準」に向けて、熾烈な争いがくりひろげられている……

オリンピックも、今話題のノーベル賞もそう。運動(身体)も頭脳も、みんな「世界標準」を目指してがんばる。0.001秒で「オレが世界標準」なんて、冷静に考えればバカな話……と思いますが、やっぱりみんな熱くなる。

ISOみたいな、モロに世界標準でござい!というのもある。言語では、もうとっくにアメリカ英語が世界標準。で、それをもとにしたインターネットもアメリカ。私みたいに英語がわからない人にとっては、疎外感が大きい。

この問題、実は、深刻です。自分が「世界標準」になれてるかどうか……それは、新しい「分類」であって、世界標準に入っていない人は「無意味」の烙印を押されてしまう。入れた人はいばる。で、入ってない人を見下す。

『ヨハネの黙示録』に、そんな箇所がありました(以下引用 13章14-18)。

『さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。

それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。

この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である。』(引用おわり)

この「黙示録の獣」については、さまざまな説があるようですが(皇帝ネロだとかバーコードだとか)、私は、この獣は、なにか特定の存在というよりは、人の考え方みたいなものをうまく表わしてるなあ……と思います。

TPPに戻ると、これはもう、世界のいろんなところにある、独自の「生産方式」を認めませんよ、と言ってるようなもので、食糧でもクルマでも、その他さまざまなモノが、すべて「世界標準」にもっていかれる。

まあ、別に、イヤならいいですよ……ということでしょうか。ただし、「輸出」がからんでくると門がピシャリと閉まる。国内であっても、その先にいろんな形で「輸出」が見えてくると、結局嫌われて締め出される。

モノの生産ばっかりじゃなくて、保険制度や特許など、無形のものもそうなる。日本でも、貧しい人々は、アメリカみたいに国民健康保険に入れなくなるのかも。中国の保険制度はどうなってるのかわかりませんが、どっちがマシかな?

先に、蔦屋が公共図書館の運営を任されて、役に立たない古本を買い集めて問題になりましたが、文化でもそうなるんでしょう。スポーツは、オリンピックでとっくにそうなってるし……この「世界標準」って、どこまで続くの?

なんか、極端なことを言ってるなあ……と思われるかもしれませんが、たとえば、オリンピックで、イスラム国が出場する!ということになれば、それはそれで意義があると思います(ますます極端でしょうか……)

まあ、イスラム国が、今のオリンピックに「オレたちも参加するぜ!」というとはとうてい思えませんが、もし言ってきたとしても、「あんたがたダメよ。世界標準じゃないからね」ということなんでしょう。

日本も昔、これで閉めだされましたね。「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」とか、あれは結局、欧米基準にかわる新たな「世界標準」を形成しようとするモクロミと解するのがわかりやすいのかなと思いますが……

欧米列強にみごとに「拒否」されてしまいました。まあ、ドイツもやっぱり閉めだされた側だったんですが……そこへいくと、今の中国って、やっぱり巧みだなあと思います。まず経済で「侵略」して、身動きとれなくしてから……

「ボーイング300機買うぜ!」と言われると、アメリカもやっぱり「マイドおおきに!」といわざるをえない。世界標準はまず経済侵略から……日本も、世界ではやっぱりそう思われているのかもしれませんが……

世界標準と地域性のことを考えてみると、これから先、世界中で、地域性、固有性がどんどん潰されていく……そして、世界が「一色に」塗り替えられていく……それはもう、とめられない傾向であると思います。

そうした場合に、この「地球」は、どうやって「抵抗」するのでしょうか。「その地」を守る人々が、心の底から骨ヌキにされて、われもわれもと「世界標準」になびいていくとき、「地」の抵抗は、「自然現象」となって出現する。

CO2とかPMとか放射能とか……いろいろ言われていますが、地球、大地、空気と水に負荷をかけすぎると、そこは自然に抵抗する。別に大地がそう思っているわけではないでしょうが、キャパシティ以上のものが乗っかると……

バランスが崩れて、当然すべての崩壊がはじまる。よく言われることですが、災害の起こりそうなところに家を建てる、街をつくるからえらいことになるんだと……でも、「世界標準」は、そういう「住み方」を人に強いる。

いなかでも、昔からの家は、できるだけ自然をうまく利用しつつ、災害のあったときに難の少ない場所を選んで建てられている。しかし、それでは、「世界標準」の押し寄せる力にもはや抵抗することができない……

ということで、家も街も、生産現場も、みな、「地の法則」を無視した世界標準の経済原則によって形成される……で、いったん「コト」が起こると脆くも大崩壊。システム全体が崩壊するので、災厄の規模もデカくなる。

今、政府、ABくんのとろうとしている方向を見ると、それは、「世界標準で勝つ」ということに全勢力を傾けよ!と、そう国民に指示し、かつ強制する……そうなっているように思います。経済も軍事も、そして文化さえも。

地の独自性……そういうものは、AB政府にとっては「克服さるべきガン細胞」にすぎないのでしょう。「1億」を一つの色に染めて「世界標準」を勝ち取ろう……そういうふうに言ってるように思います。落伍者は消えてね……と。

なぜこんなふうになるんだろう……ハイデガーは、「世界内存在」ということを言った。イン=デア=ヴェルト=ザイン。これは、人は、「世界」というものに、どうしようもなく根源的に結ばれている存在なんだ……ということ。

しかし、私は、たぶんこれでは甘かったんじゃないかと思うのです。人は、イン=デア=エルデ=ザイン、つまり「地球内存在」、あるいは「大地内存在」であるというべきでしょう。「地」との強烈な結びつき……

「世界」というとき、そこにはやはり、どうしても抽象的なものが漂う。ハイデガーの意図がどこにあったか……それは、私にはわかりませんが、彼が、一時ではあれ、ナチスに深く加担した……そこにヒントがあるようにも思う。

ドイツという国は、ヨーロッパでありながら、「中心」からはちょっと外れているようにも感じます。じゃあ「中心」ってどこなのよ?と聞かれると困るんですが、少なくとも、「辺境」というか、ハズレ感覚って、あるんじゃないか……

要するに、自分たちが「世界標準」を取れていないって感覚ですね。これは、日本もそうだったと思うし、今もそうだと思います。イスラム国なんかは強烈にそう。「世界」を目指す。世界征服……少年マンガの悪役の夢……

単純といえば単純ですが、必ずそうなる。世界標準の悪夢です。第二次大戦でナチスに追われてアメリカに亡命したトーマス・マンは、『ファウストゥス博士の成立』で、ナチスのドイツ人は、本当のドイツ人ではない!と語る。

彼は、ナチスへの憎悪をこめて、ホントのドイツ人は、あんなふうにはならない!と言ってます。彼の、この感覚はわかるなあ……太平洋戦争のときの日本の右翼も、アレは結局ニセモノで、ホントの日本人は違うんだと……

しかしではナゼ、「国をあげて」そうなっちゃったのか……日本もドイツも。ホントの日本人じゃない、ニセのドイツ人だ……と言っても、あのときは、かなりの日本人が、ドイツ人が、「心から」そういう「ニセモノ」になった。

今、サッカーやラグビーやテニスで、「ナントカジャパン」とか言って熱狂してる人たちを見ると、結局そうなんだなあ……と思います。ABくんは、スポーツだけじゃなくて文化面でもそれを利用して煽りたててるし……

ノーベル賞とかも、うまく利用されている。イスラム国にノーベル平和賞を!という人が一人でもいたら、ふーん、ノーベル賞もけっこう信用できるかもね……とも思いますが、まずそうはならんでしょうし……

まあ、イグノーベル賞に「平和賞」があったら、イスラム国の受賞は固いところでしょうが、もしそういうものがあったらまっさきにABサンにあげたい気もします……いや、彼は、「積極平和賞」でしたっけ……

ということで、「世界標準」をめざす各分野の競争は、これからますます加熱していきそうですが……そういうものにカンケイのない私などは、地の力を感じつつ、これからもここで、うずくまって暮らしていく。

そうなると思います。地の力……ホントは、世界って、そういうふうにあるのではないだろうか……世界標準をめぐる戦いが、白熱のあげく昇華されて無意味なものになってしまったとき、人は「地の力」を知る……

どんどん、どろどろ……地の底から、ぶきみな太鼓の音がきこえてきます。それは、大地を、大気を振動させ、「世界」を変えていく……ザイン=イン=デア=エルデ。それを知るとき、人は、本当に「世界」を知る……かも。

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今日の写真は、名古屋市千種区の今池という歓楽街の路上で見つけた模様です。この街は夜の街で、昼間はしらっと、すべてがどこ吹く風といった風情で存在していますが……今をときめくY組のナントカ会の事務所もある?

以前、この街の近くに住んでいました。いろんな人が行き交って、ときに熱く、また冷たく、右往左往しながら秋の空にふと視線をやると、そこは無限の宇宙空間に連なる空洞の底……だれかがじっと見ている。神、でしょうか……

神の視線、だったら、「世界標準」といってもいいのかな? でも、人の視線は、けっして「世界標準」にはなりえない。人は、大地の子。大地からつくられ、大地に還る。そんなアタリマエのことを、年齢によって再発見するのもまた楽し?

今日のemon:N氏/Mr.N……

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うちにくる、宗教勧誘のNさんです。毎週木曜日の午後2時きっかりに、おだやかな声で「こんにちは」と……もう、ホントに2時ピッタリなので、いつもおどろいてます。今、テレビでは、昔のように時報を流しませんが、それは、デジタル化でパケット送信になったためにホントのリアルタイムにならず、ごくわずかにずれるからだとききましたが……そういうナサケナイTV事情に比べますと、もしかしたらNさんの方がはるかに正確かもしれない……そう思わせるほど2時ピッタリ……

ソフトをかぶり、スーツにネクタイ。アタッシュケースを持ったすがたは、どこかの大手企業の部長さんみたい……なんですが、もうリタイアされて久しく、今はもっぱらみずからの宗教に身を捧げる日々なんですと……肉付きのよい精力的なお顔とハリのある声は、まだまだお若いなあ……と思うのですが、お年はもう70半ばとか。お元気ですねえ……で、Nさんの宗教はなにかというと、「ものみの塔」。キリスト教の一派のようですが、フツーのキリスト教とはかなりちがうようで。

「ものみの塔」は、今はもっぱら「エホバの証人」と名乗ってらっしゃるようですが、たぶん、自分たち以外のすべてのキリスト教徒を否定してらっしゃる。もちろん仏教とかイスラムとかは異教の極地……けっこう過激です。まず、三位一体を認めない。ここで、もう紀元325年の第1回ニカイア公会議にまでさかのぼってしまいます。この公会議では、キリストが「神」であることを認めないアリウス派が敗れて、神とキリストはホモウシア、すなわち「同質」であると確定されたのですが……

Nさんたちは、これを否定します。うーん……じゃあ、キリストは、いったいどういう方だったんですか?と問うていくと、最後にオドロクべき答えが……なんと、キリストは、大天使ミカエルだったんだと……これ、なんかスゴイです。こんな答えは予想もしてませんでした。へー、そう考えていたのか……と。Nさんたちは、もうとにかく「聖書原理主義」で、聖書(新約+旧約)がすべてだから、聖書に書いてある記述からこの答えを導いたんでしょうが……その詳細は忘れましたが……

もう、この時点で、他のキリスト教徒とは相容れない。カトリックもプロテスタントも、他の多くのキリスト教も、神とキリストと聖霊は一体であるという、いわゆるトリニティから出発しますから、出発時点そのものがくいちがってる……まあ、そのほかにも、「フツーの」キリスト教と異なるところはいっぱいあるようですが、おそらくこの点がいちばん決定的なちがいだと思います。ここが否定されるようなら、もう「キリスト教」とは呼べないかもしれないのですが、ここで思い出すのが例のグノーシス……

グノーシス主義は、キリスト教の範囲に限られない、もう少し広いエリアを持っているようですが、これがキリスト教に適用された場合、イエスはむろん神とは異なる存在です。ただ、グノーシス主義のキリスト教の場合、一般的に「旧約の神」を否定するので、この点はNさんたちの考え方とは大きく異なります。Nさんたちにとっては、旧約の神も新約の神(イエスの神)もむろん同じ存在なんですが、グノーシス主義からみると旧約の神は、実はデミウルゴスで、偽の神であると……ホントの神は身を隠して、この世界の創造はデミウルゴスによって行われたんだと……

なので、グノーシス主義によれば、この世界は偽の神によってつくられたんだから、悪がはびこる世になるのはアタリマエ……で、キリストは、身を隠してしまった「本当の神」から、この「悪の世界」で苦しむ人間を救うために遣わされた存在なんですと……細かいところはグノーシスの中でもいろいろ違うみたいですが、だいたいこの線が基本になってるようです。したがって、Nさんたちの考え方は、ここでグノーシスとも大きく異なっている……神は、ずっとエホバ(Nさんたちの発音)で一貫していて、キリストは、この神から遣わされた存在(実はミカエル)だということで。

ここらあたり、キリスト教徒ではない私にとっては、どうしても「宗派内の争いじゃん」としか思えないんですが……まあ、「絶対神」を立てる考え方からいけば、「絶対に」ゆずることはできない大事なポイントなんでしょうね……とにかく、聖書をものすごく詳細に読みこんでいらっしゃる。こちらがちょっと「ナニナニで……」というと、「それは、ナントカの第何章の第何節にこう書いてあって……」ときます。スゴいです。かなりのお年なのに強烈な暗記力……聖書って、新約と旧約を合わせると5㎝くらい?の厚さになりますが、そこから記憶で瞬時に引用……スゴイ……

ということで、訪問のたびに一時間くらい、熱く語って帰っていかれます。大阪生まれだそうですが、関西なまりのまったくない、みごとな標準語(というか東京アクセント)。これも、いろんな人に「正しく神の教えを述べ伝えたい」ということでみずから矯正されたそうな……スゴいです。私には絶対にできない……ということで、タイヘン立派な方なのですが……うーん、ただ、強制力がすごくて、毎回「ついてけない感」に満たされる……本人はツユほどもそんな風には思ってらっしゃらないと思いますが、もう教条主義、原理主義の強烈な嵐で、こちらはもうタジタジ……

「教え導いてあげませう」という「上から目線」のカタマリなんですが、どことなく憎めないのは、やっぱり本人が純粋にそれだけを追求してやまない……そのためには、自分の関西なまりも徹底的に矯正して……そんな姿勢なのかな。今の時代、すべてがいいかげんで、人は、自分の死が訪れたときにはじめて慌てふためく……まあ、Nさんが「みずからの死」をどう受けとめられるかはわからないのですが、毛嫌いされる「宗教」も、やっぱり「存在の核」の部分では、どんな人でも「宗教的感情」は、多少は持つんじゃないでしょうか……宗教を嫌って「人前結婚式」をする人もいますが、それでもやはり、多かれ少なかれ、「儀式的雰囲気」は漂う……

人間、身を正すというか、エリを正すというか……そういうときは、だれにでもあって、そこには、遠くから漂ってくる焼き鳥屋のにおいみたいに「宗教的感情」がそこはかとなく生まれてしまう……そういうものから完璧に逃れられる人はいない以上、私はNさんのことを「狂信」といってわらうわけにもいかないと思います。これ、いったいなんなのでしょう。悪と善。信念。そしてその信念の強制……人と人の争いって、「ちょっと、それだけは許せんなあ……」というところから起こってくるような気がします。「いいですよ、お互いに自由なんだし……」ということで、どこまで行けるのでしょうか……とにかくこれは「微妙な問題」だと思います。
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それともう一つ、Nさんたちに特徴的な考え方は、「終末は近い」ということで、これは要するに「終末論」です。まあ、キリスト教はもともと終末論で、最後の審判があって、「良い実」と「悪い実」がよりわけられ、良い実は天国に……そして、悪い実はどうなるのかというと、Nさんたちによれば「存在そのものが消滅する」ということらしい……要するに、肉体はおろか、魂までなくなってしまう……完全消滅なんですと。コレがこわくて神を信じる……そうだったら、神はヤクザの脅しと変わらないわけなんですが、そう言うと、Nさんはさすがに不快そうでした。でも、「異教」の私からするとそう見えます。「恐怖による支配」の要素はけっこう強いかも……

で、Nさんたちは、この「終末」がごく近い将来に到来すると考えておられるようです。戦後しばらくは、「ハルマゲドン」を喧伝して、終末の年号まで確定して「悔い改めよー」とやっておられた時期もあったらしいんですが、その「終末の年」がなにごともなく過ぎてしまったので、戦術転換して、「ハルマゲドン」はあんまりいわないようにして、終末の年号なんかもむろん封印して、終末論はできるだけ表に出さない方針に切り替えられたそうですが……まあ、「ハルマゲドン」なんか、別の宗教が「実践」しようとしてタイヘンなことになって、それ以来、かなりイメージの悪い言葉になってしまいましたし……過激な中でもちょっと「穏健路線」に転換か……

でも、集団の中というか、個々人の頭の中ではガッチリ「終末論」が確立されているのはまちがいありません。まあ、人は、「終わり」を区切ってもらわないと「立派な生活」はできないということなのかもしれませんが……新約聖書の最後に置かれている『ヨハネの黙示録』がけっこう典拠になってるみたいです。この書のことをNさんたちは『啓示の書』と呼んでおられますが、たしかに原語(コイネーのギリシア語)からするとこの訳でないといけないのでしょう。ヨーロッパの各国語の訳もみなそうなっている。「黙示録」というのは日本語だけにある意訳のようですが、このあたりも「聖書、きっちり読みますぜ」というNさんたちの心意気は伝わってきます。

まあ、それはともかく、この「終末論」くらいやっかいなものはありませんね。年号を区切ると外れた場合に複雑な言い訳をしなくちゃならないし、かといって「近い将来」とばっかり言ってると、あんまり士気があがらないし……でも、以前の痛切な失敗に懲りて、このあたりはウヤムヤにする作戦に転換されたようで……まあ、客観的にみれば賢明なご判断なのかもしれません。……ということで、Nさんは今日もどこかを回っておられるのでしょう。定年後の自由な時間をすべてこの活動に費やすと語っておられましたから……で、こんどの木曜日にはまた、2時かっきりにうちの玄関で「こんにちは」と……それにしても、私自身もよくおつきあいするなあ……と自分でも思います。まあ、キリスト教のことはいろいろ勉強できますが……
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