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世界標準?/A global standard?

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TPP、妥結しましたね。オバマさんはけっこう正直で、「中国みたいな国に、世界標準を取らせるわけにはいかないから……」みたいなことをおっしゃってましたが、やっぱりホンネはそのあたりなのかな?

これで思い出すのが、先に日本の国会を「通った」(というか、ムリヤリ通ったことにした)日米新安保、日米同盟ですが、これで、日本は、軍事においてもアメリカを「世界標準」と認めて、みずから米軍の傭兵になります、と……

世界標準……この問題は、先頃のフォルクスワーゲンの大失態もそんな感じ。未来のクルマは、なにが「世界標準」になるかの争い……どんな分野でも、「21世紀の世界標準」に向けて、熾烈な争いがくりひろげられている……

オリンピックも、今話題のノーベル賞もそう。運動(身体)も頭脳も、みんな「世界標準」を目指してがんばる。0.001秒で「オレが世界標準」なんて、冷静に考えればバカな話……と思いますが、やっぱりみんな熱くなる。

ISOみたいな、モロに世界標準でござい!というのもある。言語では、もうとっくにアメリカ英語が世界標準。で、それをもとにしたインターネットもアメリカ。私みたいに英語がわからない人にとっては、疎外感が大きい。

この問題、実は、深刻です。自分が「世界標準」になれてるかどうか……それは、新しい「分類」であって、世界標準に入っていない人は「無意味」の烙印を押されてしまう。入れた人はいばる。で、入ってない人を見下す。

『ヨハネの黙示録』に、そんな箇所がありました(以下引用 13章14-18)。

『さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。

それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。

この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である。』(引用おわり)

この「黙示録の獣」については、さまざまな説があるようですが(皇帝ネロだとかバーコードだとか)、私は、この獣は、なにか特定の存在というよりは、人の考え方みたいなものをうまく表わしてるなあ……と思います。

TPPに戻ると、これはもう、世界のいろんなところにある、独自の「生産方式」を認めませんよ、と言ってるようなもので、食糧でもクルマでも、その他さまざまなモノが、すべて「世界標準」にもっていかれる。

まあ、別に、イヤならいいですよ……ということでしょうか。ただし、「輸出」がからんでくると門がピシャリと閉まる。国内であっても、その先にいろんな形で「輸出」が見えてくると、結局嫌われて締め出される。

モノの生産ばっかりじゃなくて、保険制度や特許など、無形のものもそうなる。日本でも、貧しい人々は、アメリカみたいに国民健康保険に入れなくなるのかも。中国の保険制度はどうなってるのかわかりませんが、どっちがマシかな?

先に、蔦屋が公共図書館の運営を任されて、役に立たない古本を買い集めて問題になりましたが、文化でもそうなるんでしょう。スポーツは、オリンピックでとっくにそうなってるし……この「世界標準」って、どこまで続くの?

なんか、極端なことを言ってるなあ……と思われるかもしれませんが、たとえば、オリンピックで、イスラム国が出場する!ということになれば、それはそれで意義があると思います(ますます極端でしょうか……)

まあ、イスラム国が、今のオリンピックに「オレたちも参加するぜ!」というとはとうてい思えませんが、もし言ってきたとしても、「あんたがたダメよ。世界標準じゃないからね」ということなんでしょう。

日本も昔、これで閉めだされましたね。「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」とか、あれは結局、欧米基準にかわる新たな「世界標準」を形成しようとするモクロミと解するのがわかりやすいのかなと思いますが……

欧米列強にみごとに「拒否」されてしまいました。まあ、ドイツもやっぱり閉めだされた側だったんですが……そこへいくと、今の中国って、やっぱり巧みだなあと思います。まず経済で「侵略」して、身動きとれなくしてから……

「ボーイング300機買うぜ!」と言われると、アメリカもやっぱり「マイドおおきに!」といわざるをえない。世界標準はまず経済侵略から……日本も、世界ではやっぱりそう思われているのかもしれませんが……

世界標準と地域性のことを考えてみると、これから先、世界中で、地域性、固有性がどんどん潰されていく……そして、世界が「一色に」塗り替えられていく……それはもう、とめられない傾向であると思います。

そうした場合に、この「地球」は、どうやって「抵抗」するのでしょうか。「その地」を守る人々が、心の底から骨ヌキにされて、われもわれもと「世界標準」になびいていくとき、「地」の抵抗は、「自然現象」となって出現する。

CO2とかPMとか放射能とか……いろいろ言われていますが、地球、大地、空気と水に負荷をかけすぎると、そこは自然に抵抗する。別に大地がそう思っているわけではないでしょうが、キャパシティ以上のものが乗っかると……

バランスが崩れて、当然すべての崩壊がはじまる。よく言われることですが、災害の起こりそうなところに家を建てる、街をつくるからえらいことになるんだと……でも、「世界標準」は、そういう「住み方」を人に強いる。

いなかでも、昔からの家は、できるだけ自然をうまく利用しつつ、災害のあったときに難の少ない場所を選んで建てられている。しかし、それでは、「世界標準」の押し寄せる力にもはや抵抗することができない……

ということで、家も街も、生産現場も、みな、「地の法則」を無視した世界標準の経済原則によって形成される……で、いったん「コト」が起こると脆くも大崩壊。システム全体が崩壊するので、災厄の規模もデカくなる。

今、政府、ABくんのとろうとしている方向を見ると、それは、「世界標準で勝つ」ということに全勢力を傾けよ!と、そう国民に指示し、かつ強制する……そうなっているように思います。経済も軍事も、そして文化さえも。

地の独自性……そういうものは、AB政府にとっては「克服さるべきガン細胞」にすぎないのでしょう。「1億」を一つの色に染めて「世界標準」を勝ち取ろう……そういうふうに言ってるように思います。落伍者は消えてね……と。

なぜこんなふうになるんだろう……ハイデガーは、「世界内存在」ということを言った。イン=デア=ヴェルト=ザイン。これは、人は、「世界」というものに、どうしようもなく根源的に結ばれている存在なんだ……ということ。

しかし、私は、たぶんこれでは甘かったんじゃないかと思うのです。人は、イン=デア=エルデ=ザイン、つまり「地球内存在」、あるいは「大地内存在」であるというべきでしょう。「地」との強烈な結びつき……

「世界」というとき、そこにはやはり、どうしても抽象的なものが漂う。ハイデガーの意図がどこにあったか……それは、私にはわかりませんが、彼が、一時ではあれ、ナチスに深く加担した……そこにヒントがあるようにも思う。

ドイツという国は、ヨーロッパでありながら、「中心」からはちょっと外れているようにも感じます。じゃあ「中心」ってどこなのよ?と聞かれると困るんですが、少なくとも、「辺境」というか、ハズレ感覚って、あるんじゃないか……

要するに、自分たちが「世界標準」を取れていないって感覚ですね。これは、日本もそうだったと思うし、今もそうだと思います。イスラム国なんかは強烈にそう。「世界」を目指す。世界征服……少年マンガの悪役の夢……

単純といえば単純ですが、必ずそうなる。世界標準の悪夢です。第二次大戦でナチスに追われてアメリカに亡命したトーマス・マンは、『ファウストゥス博士の成立』で、ナチスのドイツ人は、本当のドイツ人ではない!と語る。

彼は、ナチスへの憎悪をこめて、ホントのドイツ人は、あんなふうにはならない!と言ってます。彼の、この感覚はわかるなあ……太平洋戦争のときの日本の右翼も、アレは結局ニセモノで、ホントの日本人は違うんだと……

しかしではナゼ、「国をあげて」そうなっちゃったのか……日本もドイツも。ホントの日本人じゃない、ニセのドイツ人だ……と言っても、あのときは、かなりの日本人が、ドイツ人が、「心から」そういう「ニセモノ」になった。

今、サッカーやラグビーやテニスで、「ナントカジャパン」とか言って熱狂してる人たちを見ると、結局そうなんだなあ……と思います。ABくんは、スポーツだけじゃなくて文化面でもそれを利用して煽りたててるし……

ノーベル賞とかも、うまく利用されている。イスラム国にノーベル平和賞を!という人が一人でもいたら、ふーん、ノーベル賞もけっこう信用できるかもね……とも思いますが、まずそうはならんでしょうし……

まあ、イグノーベル賞に「平和賞」があったら、イスラム国の受賞は固いところでしょうが、もしそういうものがあったらまっさきにABサンにあげたい気もします……いや、彼は、「積極平和賞」でしたっけ……

ということで、「世界標準」をめざす各分野の競争は、これからますます加熱していきそうですが……そういうものにカンケイのない私などは、地の力を感じつつ、これからもここで、うずくまって暮らしていく。

そうなると思います。地の力……ホントは、世界って、そういうふうにあるのではないだろうか……世界標準をめぐる戦いが、白熱のあげく昇華されて無意味なものになってしまったとき、人は「地の力」を知る……

どんどん、どろどろ……地の底から、ぶきみな太鼓の音がきこえてきます。それは、大地を、大気を振動させ、「世界」を変えていく……ザイン=イン=デア=エルデ。それを知るとき、人は、本当に「世界」を知る……かも。

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今日の写真は、名古屋市千種区の今池という歓楽街の路上で見つけた模様です。この街は夜の街で、昼間はしらっと、すべてがどこ吹く風といった風情で存在していますが……今をときめくY組のナントカ会の事務所もある?

以前、この街の近くに住んでいました。いろんな人が行き交って、ときに熱く、また冷たく、右往左往しながら秋の空にふと視線をやると、そこは無限の宇宙空間に連なる空洞の底……だれかがじっと見ている。神、でしょうか……

神の視線、だったら、「世界標準」といってもいいのかな? でも、人の視線は、けっして「世界標準」にはなりえない。人は、大地の子。大地からつくられ、大地に還る。そんなアタリマエのことを、年齢によって再発見するのもまた楽し?

今日のkooga:第2震裂波動線上の超高層ビル群/Skyscrapers on the second belt of severe seismic wave

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この写真は、JR名古屋駅近辺の超高層ビル群を、名古屋駅の西側から撮ったものです。野外活動研究会のみなさんと駅西地区を歩いているときに撮影したもので、全部のビルが画角に入りきらなかったので、一部合成してありますが、だいたいこんなものです。この日は、6月なのに秋のような快晴で、JR名古屋駅の2棟の超高層ビル(高さ約250m)が宇宙空間のような濃い青空に映えて、絶好の撮影日和でした。

クレーンが何本か建っていることからあきらかなように、JR名古屋駅では、今、超高層ビルの建設ラッシュです。といっても、東京に比べればぜんぜんたいしたことはないんですが……何年か先(平成39年度)のリニア新幹線開通をみこんでのことでしょう。リニアで、東京―名古屋間が40分になるとのことですが、試みに、JRの在来線で、東京駅から40分でどこまで行けるかを見てみますと、中央線を使うと各駅停車で吉祥寺が38分、三鷹が41分、快速に乗れば40分で武蔵小金井まで行けます。

では、JRの他の線ではどこまで行けるか……JR総武線の快速で千葉まで41分。東海道線に乗ると、通勤快速で藤沢まで41分。京浜東北線に乗ると、さいたま新都心まで43分(快速)、桜木町まで39分(快速)。山手線に乗れば、40分で池袋です(外回り)。ということは、料金は別として、時間だけでいうなら、名古屋は、東京駅からこれくらいの「近さ」になったということで、もはや「関東圏」ともいえる。ラクラク通勤圏だし、ちょっと買物……みたいな感じ(これは名古屋から東京へ)でも、関東圏と変わりません。
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ということで、名古屋駅前が、関東圏のいろんなスポットとよく似た姿に変貌しつつあるのもアタリマエなのか……しかし、ここでちょっと気になるのが、「第2震裂波動線」の存在です。「震裂波動線第2」ともいいますが、「だいにしんれつはどうせん」と発音してみると、なんだかおだやかではありません。まあ、字面からもヤバそうな感じですが……濃尾大地震というのがあって、これは、明治24年(1891)年に岐阜県の根尾村付近を震源に発生した巨大内陸地震なんですが、実にマグニチュードが8.0!(8.4という説もあり)。内陸で発生した地震としては、日本の歴史上最大とされ、中部地域に大きな被害をもたらしました。
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このとき、家屋倒壊などの被害が大きかった場所をピックアップすると、それが3本の線状に濃尾平野を走っている……いちばん西が大垣付近から養老断層に平行する第1震裂波動線、次に、岐阜と一宮を結ぶ東海道線に平行する第2震裂波動線、そして3番目が、犬山付近の第3震裂波動線……このうち、東海道線に沿って走る第2震裂波動線が、名古屋駅前にポンポンできている超高層ビル群との関連では気になるところです。大丈夫なのかなあ……まあ、震裂波動線の存在自体、単に家屋の密集地が線路沿いに集中していたから、そういう線があるように見えただけだろうという人もいるのですが……

あるいはまた、JR東海道線の地下にある断層を推定する人もいます。東海道線を挟んで、地下に重力異常帯があることは確かなようですが、それが断層によるものなのかどうかははっきりとはわかっていないらしい……いずれにせよ、けっこう不気味なお話ではあります。私なんかは、こういう超高層ビル群を見ると、必ずそれが大地震で崩壊したり、大津波に呑まれたりする光景を想像してしまうんですが……こどもの頃は、大地震で街が崩れたり、200mを越す大津波にすべてが水没する光景ばかりノートに描いていて、親に怒られたりしましたが……これはもう、条件反射みたいにそう思ってしまう。

神の罰というか、みずからの業によるむくいというか……こういう文明はロクなことにはならないゾという思いが常についてまわります。人々は、日々の快適さを求め、少しでも楽な暮らし、楽しい生活をしたいと願っていろいろ動きまわるのですが、その反作用の方はあまり省みない。10cm楽になれば、どっかで10cm苦しくなっているはずで、それでこそ公平というもの……「楽」の極地があのゲンパツだと思うのですが、あそこまで過激に楽をしようと思ったら最後、そのツケがどんなにオソロシイことになるか……人間の目は、前にしかついてないので、後は常に死角になっている……

そこから、やっぱり「闇の呼び声」が聞えると思うのです。人が楽をした分、そのしわ寄せは必ず自然に入っていって、そこで蓄積される。そしてある日……人もやっぱり「自然」のうちに入るのでは……そうも思いますが、しかしどこかが決定的にちがう。では、その違う点はなにか……名古屋駅前の超高層ビル群を見ていると、そこには「むきだしになった数理」を感じます。「自然」ももちろん「数理」に支配されているのですが、それは、多くの場合見えにくい。オウムガイの貝殻とフィボナッチ数列のお話なんかは有名ですが、あそこまでみごとでも、やはりどこか「探索の手」を必要とする。

しかるに、人工物は、この超高層ビル群のように、数理が、そこにそのまま、むきだしである。ガウディの聖家族教会なんかはそんな感じもしないのですが、あの場合は、ガウディは、数理をとことん「自然のごとく」に使おうとしている。しかしそれは、今の科学技術には合わない。ハイデガーのように、テクノロジーが数学や物理学の理論をつくると考えるならば、やはり「むきだしのテクノロジー」によって「むきだしの数理」が創られる。では、「かくされた数理」というのは……というと、これはやはり「自然」の中に見られる数理になってくるのでしょうか。

ハイデガーは、テクノロジーと、それによって形成されるサイエンスは、「意味」を「伏蔵」(verbergen)しているといいます。要するに、そういうものは「見えているかたち」の背後に、その本当の意味を隠し持っている。これに対して、「自然」の方は、「意味」はそこにそのまま見えていて、「数理」の方が奥に隠されているような……そういう意味では、ここに、「意味」と「数理」の逆転関係が見てとれると思います。そして、大地震や大津波のような、人間の生活に決定的なダメージをもたらす現象においても、それが「自然」である限りは、その「数理」は奥に隠されて見えない。
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第2震裂波動線が、本当に存在するのかいなか……JR東海道線の真下には断層があるのかどうか……こういうことは、今の最新の科学技術をもってしても決定的にはわからないようです。しかし人は、「あからさまに見えている数理」を用いて、そういう「あやしい地盤」の上に、これでもかと超高層ビルを建ててしまう。そこには、人間の世界を貫くもう一つの法則、「経済法則」というおかしがたい?システムがはたらく。しかし、この「経済法則」って、いったいなんなんだろう?「自然法則」でないことはたしかですが、では「数理」に無縁かというと、そうでもない。いったい何?

これは、人間の精神にとって、もしかしたら「伏蔵された」数理なのかもしれません。「自然」が数理を伏蔵しているように、人間の精神は「経済法則」を伏蔵する。濃尾平野が震裂波動線や断層を伏蔵しているように、人の精神は「経済法則」を隠し持っているのか……そうすると、自然と人は、たがいに伏蔵している「数理」と「経済法則」でせめぎあうことになりますね。で、その結果、目に見える状態になったのが、この駅前の超高層ビル群……であるとすれば、もう一つの段階として、「破壊された超高層ビル群」も、やがては「目に見える状態」になるときがくるのでしょう。

今の段階では、人が伏蔵する「経済法則」が「数理」を完全に支配しているので、目に映るのはピカピカの立派な超高層ビル群です。しかし、自然が伏蔵する「数理」が大地震とか大津波として現実のものになれば、人の「経済法則」は敗れて、超高層ビル群は、「数理」を伏蔵する「自然の姿」に戻っていきます。人の営みは、数理と経済法則(金の力)を完全に支配できたかのように思いますが、やはりゲンパツの炉心にわだかまっている熱と放射能のように「伏蔵」された「意味」は消えさることなく、みずからが表舞台に立つ日を夢見て、濃尾平野の奥深くに、今も眠っているのでしょうか……
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今日のkooga:神無月書店/Bookstore of October

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神無月書店……名古屋市千種区にある古書店です。昔、わりと近くに住んでいて、よく行きました。田舎に引越してからはめったに訪れなくなって……この日、近くを通ったので、久しぶりに寄ってみようかな……と。でも、閉まっていた。ちょっと時間が早かったかな?……でも、なんかヘン。あれれ?? 看板の文字が裏返っているではないか?! 一体どうしたこと?? 断っておきますが、この写真、左右をリバースしたものではありません。正真正銘、これ、こういうふうになってました。

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うーん……もしかして、この本屋さん、昔から、看板、こういう風だったのかなあ……と一瞬思いましたが、でも、記憶をたどってみても、「看板の文字が裏返し」というのに気がついた覚えがない。よっぽどうかつだったんでしょうか……と思って近づいてみたら、シャッターに貼紙が……

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なるほど……つぶれちゃったんだ……そういうことだったのか……にしても、この看板の処置、スゴイです。商習慣としてこういうことがあるんでしょうか?? 商売にうとい私にはわからないんですが、お店を閉めたら看板を裏返す……うーん……見たことも聞いたことも、やっぱりありません。

アクリルの看板を裏返すって、けっこう手間だと思うんですよね。でも、わざわざやる。うーん……ここのご主人、やっぱ、タダモノではなかったかも……それにしても、閉店は残念ですね。ここは、人文系の古書がよく揃っていて、相当にマニアックな本も置いてあった貴重なお店でした。

本もきれいで、店内もよく整理されていて見やすかった。お値段もリーズナブルで、けっこう買ったなあ……たしか、2ヶ月くらい前にも訪れていて、そのときは「閉店間近」みたいな雰囲気はまったくなく、いつもどおりで……ニ三冊、買って帰ったおぼえがあるんですが……

それにしても、この看板、びっくりしました。「周知期間」が終わったら撤去されて、全然別のお店になっちゃうんでしょうね。古書店が次々とクローズしていくのはさびしいもんです。ウェブでも、まあ、いいんだけれど……ぶらっと入って「掘り出しモンないかな……」と棚から棚を回る……

なかなかいい時間だったと思います。ナンマンダブ……

今日のkooga:指導者の稚気/Childishness of the leader

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今回の、イスラム国による後藤さん、湯川さんの斬首事件について思うこと……まず、二人は、みずからのぞんで、危険であることを知りながらそこへ向かって殺された。「自己責任」という言葉はお上ぽくてキライですが、要するに、自分自身の志を貫いてそういう結果になったんだから「本望」というべきか……ある意味、いさぎよい死であったと思います。

ところが……ふしぎなことに、死後、後藤さんの方はもう殉教者といいますか、すばらしい人だといって、みながこぞってまつりあげる。まあ、たしかにすばらしい人だと思いますが、ちょっともちあげすぎじゃなかろうか……これではまるで、キリストではないか……これに対して湯川さんの方は……といいますと、だれもなにもいわない。この落差……

「民間軍事会社」……この言葉は、たしかにいい響きではない。なんかうさんくさい……ということで、だれも触れたがらないので、ホントはどういう人で、どういう志をもって「あの地域」に入ったのか、だれにもわからない……ホントは、後藤さんの方も、本人の思いは本人にしかわからないのだけれど、だれもが「すばらしい」という……

お二人は、「本人」という視座から見るならまったく同じであるはずなのに、この扱いの差はなんだろう……そこにはすでに、いろいろな思惑や思いこみや……われわれの感情や善悪の判断や……いろんなものが入りこんでいるのを感じます。そういうものを取り払って、そこにはじめて見えてくるものは、はたしてなんなのだろうか……

今回、ふしぎなのは、湯川さんが「あの地域」に入っていった心情というものが、日本に暮らすフツーの日本人にはわからないのですが、それ以上に、なぜ、後藤さんが彼を追って入っていったのか……そこがわからない。これは、わかるようでわからない。後藤さんにとって、湯川さんは、「かけがえのない存在」だったのだろうか……

おそらくそうだったのでしょう。でなければ、あの行動はちょっと理解しがたい。ということで、このお二人については、わからないことが多過ぎて、そう単純には判断できないような気がします……ところが、逆に、この事件にかんするABくんの言動はきわめてわかりやすい。彼の心情には、むずかしいところはなにもなくて、単純明快……

に、私には見えます。指導者の稚気……これほど困るものはない。カイロで、「2億ドル出すぜ!」と言ったときの演説は、だれが聞いても「有志連合に参加してイスラム国を叩くぜ!」というトーン。これをするっとイスラム国に利用されてあの動画がアップされるととたんに「いや、あれは人道援助で……」という。この人、まことにわかりやすいです。

指導者の稚気……同じことが過去にありました。ブッシュくんがイラクのフセイン政権を「大量破壊兵器の保持」を口実に叩いた。あのときの口調とそっくりで、稚気にあふれている……トップがたまたま子供っぽい人物だったのか……それもあるけど、もっといえば、そういう「薄い」人物をトップにしたがった国民の方に稚気が充満していた……

私は、やっぱり、湯川さんや後藤さんの心情にくらべると、指導者の心があまりにもナサケナイ稚気にあふれていて、その結果として、ブッシュくんはイスラム国を生み、ABくんは日本人全員をテロの対象にしてしまった……このあたりが、ものごとははたして偶然に左右されるのか必然なのか……そんなこともからんで興味深いなあと思いました。

ブッシュくんやABくんの稚気が働かずとも、ものごとは結局こういうふうに進んだのかもしれませんが……しかし、後の国会答弁なんかを聞いても、ABくんは自分自身の稚気のなせるわざについてはまったく認識がないみたいで、危なっかしいなあと思います。指導者の稚気……そして、そんな指導者を選んでしまう国民って……これからどーなる?……

もういちど、後藤さん、湯川さんのことに戻りますと、日本政府は後藤さんに対して渡航自粛勧告を三度も出していたという。しかし、後藤さんはふりきって行ってしまった。このことについては、だれも問題にしない。彼が「すばらしい人」だったから、渡航自粛勧告を無視して行動したということについても、それは問題にならないというのだろうか……

じゃあ、湯川さんの方は……彼に渡航自粛勧告が出ていたかどうかは知りませんが、彼の行動は無謀だったとみんな思っている。はたしてどこが、どうちがうのだろうか……このあたりは、「動かされてしまう心」を鎮めて、きちんと考えないといけないところだと思います。そうしないと、とんでもないワナに落ちてしまうかもしれない。ファッショの本質……

ABくんという指導者の稚気がまかり通っているのも、このファッショの問題と密接な関係がある。人は、自分の心が動かされたものについては甘くなる。逆に、自分の心につらいものに対しては厳しくなる。大勢の人の心が動かされて、それが波のようになっていったとき、乗る。そして、しらぬまに、しらないところへと運ばれていってしまう……

ファッショを呼ぶ指導者の言動は、しばしば稚気に満ちている。時代が変わって冷静に考えれば、なぜあんなものに動かされたんだろう……と思う。だけど、渦中にあるとわからない。イスラム国のPRは、ある人にとってはすばらしい。ABくんの稚気に満ちた言動も、やっぱり彼のことを評価する人にとってはすばらしいものと映るのでしょう。

では、後藤さんのやってきたことはどうなのだろう……私は、今まできくかぎりでは、やっぱりすばらしいと思う。しかし、では、イスラム国やブッシュくんやABくんの言動と、どこがどうちがうのか……少なくとも、彼の言動には稚気は感じられない。だけど……イスラム国はわからないにしても、ブッシュくんやABくんは稚気のカタマリみたいにみえる。

そこは、やっぱり大きくちがうところだと思う。湯川さんについては、これはワカラナイとしかいいようがないのですが……ただ、後藤さんを持ちあげて、流れにしていくという動きかたについては、やっぱりどこかに「ファッショ」を感じてしまいます。白と黒にくっきり分ける……それは、わかりやすいけれど、大きなワナにはまる道かもしれない。

自分たちは、指導者の稚気で動かされるような存在ではない……そうかもしれません。しかし、ではなぜ「稚気で動かされる存在」がいるのだろうか……その人たちは「劣っている」からそうなるのか……そこまでいくと、これは、明らかにおかしいと思います。一人の人の心は、やっぱり暗くて深いものがある。それは、誰の心もそうではないだろうかと……

昔の人は、古典に親しみ、漢文の素読なんかでみずからの精神を鍛えた。それは、やっぱり、自分の「おさなごころ」からの離脱ということだったと思います。人間の精神は、鍛えないと幼いまま……それをきちんと鍛える方法があったのだけれど、それはすでに崩壊して久しい……まあ、指導者にはせめて「稚気を棄ててよ」といいたいですね。ホント……

今日の写真は、この間、名古屋市の環状道路を走っていたときに、防音壁の壁に浮かびあがった「存在」です。見たとき、気持ちわるいなあ……と思いました。なんでこんなふうになるんだろう(まあ、壁の汚れなんですが)……ちょうど、後藤さんの生死に日本中がやきもきしていた頃……殺されちゃったんですね。お二人のご冥福を……

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今日のkooga:一社東現象/Issha E phenomenon

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名古屋市名東区にある一社東の信号。クルマを走らせていて、赤信号で止まったときに撮りました……というか、シャッターに触れたときに信号が青になった、その瞬間に撮れた写真です。まあ、一見するとなんのヘンテツもない街の風景なんですが……画面の中央よりやや右寄りの、三角屋根のついたマンションビルを見てください。三角屋根の端部が、みごとに街路灯の腕のカーブの中にしまいこまれているでしょう? そして、垂直の支柱部分が、マンション本体部分の端部とピッタリ重なっています。これってスゴイ……

と思うのは、たぶん私だけなんですが、信号で止まったときにこの「現象」をみつけて、ちょっと嬉しく?なりました。コレ、「発見」かも……というか、今までだれも、意識的にこの「現象」を見たことがないのではないか……ぴったりこの場所に止まらないと見えない、これは、一種の「奇跡」といってもいいんじゃないかな……まあ、だからといって、世界が変わるわけでも人類が滅亡するわけでもないんですが……現世人類の文明がここまで「発展」して、ようやくこの「現象」が出現したということでしょうかね。

地球上に、このように照明灯の支柱と腕の中にビルの外観端部がすっぽりはまってしまうという現象が現われる場所が、この「一社東」以外にもどこかあるのでしょうか……あるのかもしれませんが、私はきいたことがありません……ということで、この現象を、「一社東現象」と命名することにいたしました。この記事をご覧の方で、この「一社東現象」が、自分とこにもあるぞーという方、お知らせいただければ嬉しいです。条件は、カーブ部分を含む線状構造物の形状に、別の構造物の端部がピッタリ重なるということで……

エア黙読/Air silent reading

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キューキョクの「意味のないコトバ」を考えてみました。エア黙読……しかし、やっぱり、「意味」らしいものは、残る……

「ムダにムダを省く」なんてどうでしょう?……でも、これって、毎日やってそーな……いかに合理的にやろーか……ということで、かえってムダなプロセスを積み重ねてしまふ……人間って、そんなもの。

世の中、まったく意味のないコトバやガイネンを考えるのは、ちとムツカシイ……「左翼的右翼」。コレなんて、どーかな? でもたぶん、北一輝さんの思想なんか、こんな感じだったかと……

「いままでで最高に低い」。コレなんか、ときどき使いそうです。低気圧の説明なんかで……「この部分が最高に深い」。コレも、海溝の深さを説明するときにうっかり言ってしまいそうな……

それにしても、「エアなんとか」って、おもしろいコトバですね。なんにでもくっつく。「エア大掃除」……箒やチリトリを持ったふりして大掃除のふりして、実際はなんもしない……

「エアラジオ体操」……ラジオ体操の音楽に合わせて、ラジオ体操をしているようなフリをして、実際にはラジオ体操をやってない……これは、かなり難しそうです。

「エア人生」……人生をやってるフリして……英語だと「air life」になるのかな? aerolife? うーん……だんだん、本当に意味がなくなってくるので、これくらいで……

エア黙読をしている人の背景の写真は、名古屋市の覚王山にある揚輝荘という古い邸宅の工事用の仕切りで、スチール板に、ご丁寧に土塀の写真がきれいにプリントしてありました。こんなのはじめてみた……

この邸宅は、松坂屋の初代社長の伊藤次郎左衛門祐民(すけたみ)さんという方がつくったもので、時代は大正から昭和初期。瀟洒な庭園の中に、和風や洋風?のおしゃれな建物が散在しています。

で、どっかが修復工事中で、そこを囲ってある工事用のフェンスに、ご丁寧に土塀の柄がプリントされているわけですが……これが、なかなかみごとで、遠目にはホントの土塀と錯覚してしまいそうな……

エア土塀……この間の日曜日に、野外活動研究会の方々と歩いたときに撮影しました。

今日のkooga:なんだろう……/what’s this?

守山区瀬戸街道_900

これは、名古屋市守山区を走ってたときに、クルマから撮った写真です。信号待ちのわずかな間に……非常にわかりにくい写真ですが、潰れたお店のテントとファサードの一部が見えてます。以下、なんだろう……というような写真を集めてみました。

豊田の壁_600

なんかの遺跡のようにもみえますが、これは、豊田市のあるビルの壁です。日の光がきわめて浅い角度から当たっているので、塗られた外壁材の一粒一粒がくっきり際だって、ちょっとした峡谷のおもむきもある?……まあ、それだけのもんですが。

クレータ?_300

これは、月面の変わったかたちのクレーターのようにも見えますが、愛知県東海市の路上に置いてあった石です。まあ、光線の当たり具合によって凹凸が反転して……という例のヤツですね。よくある平凡な現象なんですが、なんとなく私は好きです。

路上のペンキ_600

で、これは、やっぱり東海市でみかけた路上に落ちた?と思われる白いペンキの経年変化した状態。皮膜が感想するときに収縮して、複雑な模様を描いています。私は、なぜかこういうのに惹かれて……画像加工ソフトで輪郭をとったりしています。

路上のペンキ輪郭_600

次は、東海市でみたルーバー。駐車場の目隠しなんかで設置されていたものなんですが、パイプ状の角材を並列して造られている、その角材の一本を長手方向に矢視してみました。総延長10mくらいを透視して、はるか奥に他端の開放口が見えてます。

ルーバー_450

最後に……これは、豊田市の国道419を走っていたときに(むろん肉体ではなくクルマで)、前に来たダンプの背面の一部。前にダンプ系の車両がくると、その汚れ具合というか、崩壊の程度に思わず見入ってしまいます。これ、なかなかいいカンジ。

ダンプ後部2_600

こういうものは、きわめて個人的な興味でやるのですが、なぜか、そこに「世界」が開けてくるような感覚があって、好きです。「なにこれ?」というのは某テレビ番組で使われてるフレーズですが……私は、「なにこれ?」も好きですが、「なんだろう?」という、ちょっとしみじみとしたそこはかない疑問形の方が、深刻に?好きかな。

幸せな街・住みやすい村_02/Happy town, livable village_02

イズニックタイル_900

名鉄の太田川駅を降りると、駅舎の一階のガランとした広場の一画に、巨大なクスノキのタイル絵があります。日本の陶板とはちょっとちがった趣だなあ……と思って眺めていたら、横に解説がありました。ちょっと転写してみましょう……
『壁画「くすのき」は、トルコのイズニック財団によって1枚1枚手づくりで制作されました。東海市の木は「くすのき」であり、大宮神社(大田町上浜田)に育つ樹齢1000年と言われる市指定の天然記念物「大田の大樟(おおくす)」をイズニックのデザインで表現しています。(後略)』

じゃあ、イズニックってなあに?ということなんですが、ちゃんと説明も……
『イズニック・タイル 東海市は、トルコ共和国ブルサ市ニルフェル区と姉妹提携をしており、イズニックはニルフェル区と同じブルサ県に属する都市です。イズニック・タイルの生産地として16世紀に最盛期を迎えました。イズニック・タイルは粘土に石英を含み硬質で耐久性があり、鮮やかな発色による美しい文様が特徴です。オスマントルコ時代に建造されたイスタンブールのブルー・モスクやトプカピ宮殿などの建造物にはこのイズニック・タイルが用いられています。近年までその技術は失われていましたが、1993年に設立されたトルコのイズニック財団がこれを研究・再現し今にいたっています。』

なるほど……そういう経緯があったんですか……と感心。これ、太田川の街に降り立って最初に目についた「対象」だったんですが、結局、その日に見たものの中ではいちばんイイ感じで私の中に残りました。日本の小さな街の名もない(失礼、名はある)お宮さんの神木を、トルコの小さな街(人口2万弱)の職人さんたちがせっせとタイル画にしてくださっている……その光景が、なんとなく浮かんでくる……と思ってちょっと調べてみますと、この、イズニックという街の前身は、なんと、あのニカイア(ニケア)でした……古代ギリシア語で勝利の女神を意味するニケーの名を取って造られた紀元前に遡る歴史を有する街……そして、なによりも、あの、キリスト教の歴史を大きく決定づけた「ニカイア公会議」が開催された街……

日本の小さな街の駅で、数千キロも離れた場所にある、1700年近く前にキリスト教の歴史をつくった街の面影に出会う……これもまた、なにかの縁……といいますか、ふしぎなこともあるものだなあと。紀元325年にこの街、ニカイアで開かれた公会議で、古代に勢力を誇っていた初期キリスト教の二大派閥、アリウス派とアタナシウス派は激突します。アリウス派は、父(神)と子(キリスト)はそれぞれ別個の存在であると主張し、これに対し、アタナシウス派は、父と子は本質的に同じ(ホモウーシス)であると主張……で、結果はアタナシウス派が勝利し、ここに有名な「ニカイア信条」(クレド)が採択され、「三位一体論」(トリニティ)の基礎が確立した……これは、キリスト教の歴史上、イエスの死後最大ともいえるエポック……

しかし、このニカイアの街も、その後、トルコに占領されてイスラム化し、いつの頃からか、トルコ人たちに「イズニク」と呼ばれるようになる……イズニック陶器が生まれたのは、オスマン帝国時代(14世紀頃)といわれているようですが、最盛期の16世紀には、コバルトブルーをはじめとするいろんな色が使われるようになって、上の説明にもあるトプカピ(トプカプ)宮殿の壁なんかも飾ったようです。17世紀に入るとこの地の陶器制作技術も衰えはじめて、歴史の彼方に埋もれていったのですが、20世紀の後半に、復興運動が起きて現在に至る……と。イズニック財団のhpがありましたが、トルコ語?でようわからんですが(英語のボタンがあるものの、押しても機能しない)、写真だけみていても美しい……
http://www.iznik.com/
名鉄太田川駅のタイル画の写真もちゃんと出てきます。
http://www.iznik.com/tokai-city-metrosu-tokai-city-japonya

幸せな街・住みやすい村……いろいろ考えてしまいます。太田川の街の名鉄の駅は、改装されてとても立派になっています。このイズニックのタイル画も、やっぱりそれに合わせて造られたものなんでしょう。(イズニック財団のhpの記念写真を見ると、そう思えます)こういうふうに、駅を、そして道を造りかえ、さまざまな公共施設(いわゆるハコモノ)をどんどん造っていく……そのお金はどっから……といえば、それは「海岸線を工場に売って」得たもの……それが、街にとって、はたして幸せな途であったのか……街を歩いていると、やっぱり疑問に思います。イズニックの街は、今はタイル産業と観光で成り立っているみたいですが、住んでいる人たちは幸せなんだろうか……行ったことがないのでわかりませんが、いろいろ考えてしまいます。太田川の人たちは、今はもう名古屋の通勤圏なので、みなさん名古屋におつとめなのかな……?

私の今住んでいる三河の山里も、名古屋市と豊田市の通勤圏なので、ほとんどの人がどっちかの都市におつとめ……一昨日は村の祭りで、いろんな人と話をしましたが、40代の3児のパパは銀行員で、名古屋の御器所というところまで、毎日往復100km近くをクルマで……祖先からの土地を守り、子供を育て、村の行事に参加し、そして子孫に土地を受け渡していく……そういう生活を、これからも、ここの人たちは続けていく(いきたい)のでしょう。人の幸せってなんなんだろう……引き続き、ルソーの『社会契約論』を読んでいますが、とっても興味深い箇所に出くわしました。第三編の第一章、「政府一般について」というところなんですが、このように書いてあります(以下、桑原武夫チームの翻訳による岩波文庫版より転載)。

『どんな自由な行為にも、それを生みだすために協力する二つの原因がある。一つは精神的原因、すなわち、行為をしようと決める意志であり、他は物理的原因、すなわち、この行為を実行する力である。わたしが、ある目的物にむかって歩くときには、第一に、わたしが、そこへ行こうと欲すること、第二に、わたしの足が、わたしをそこへ運ぶこと、が必要である。(中略)政治体にもこれと同じ原動力がある。そこにも同じく力と意志とが区別される。後者は「立法権」とよばれ、前者は「執行権」とよばれる。この二つの協力なしには、何もできないし、何もしてはならない。』

なるほど……ここは明快です。デカルトは、「思惟」の世界と「延長」の世界を考えたけれど、まさにそれを「政治体」に応用するとこうなるわけだ……ということは、「立法権」はデカルトのいう「思惟の世界」のものであって、実際の大きさとかかたちとかをもたない、物質には関係のない精神的な世界のものなのか……これに対して、「執行権」つまり「行政権」は、「延長の世界」のもので、これは実際の物理的世界に「効く」ように働く……「思惟の世界」でつくられた「法律」にしたがって、行政体は物理的なパワーをもって「執行する」というわけですね。「立法」と「行政」をこういうふうに考えたことがなかったので、ここはおおいに参考になりました……と同時に、やっぱり根源的な疑問が……

デカルトは、およそ関係のなさそうな「思惟」の世界と「延長」の世界を結びつけるのにとっても苦労して、結局「松実線」(松実体)という肉体の器官を持ってきたわけですが……ライプニッツになると、さすがにもう少し理詰めで、彼は、この「原理的に無関係な」二つの世界を結合するために、なぜか、二つの世界が「密接に連関して動くかのように」この世界は予定調和によって予め構成されているんだと……つまり、そこには「神の力」が働いてそうなっているんだと……そういうふうに考えたと思います。じゃあ、ルソーはどうなんだろう……彼の理論では、「思惟の世界」にある「立法権」と、「延長の世界」にある「行政権」を「あたかも関連あるかのように」連結するものは、いったいなんだろう……

ここが、ふしぎなところですが……さらに読んでいけばわかるのかもしれませんが……現実にそこがどうなってるのかと考えてみると、これは、やっぱり「法律」ということなんでしょう。すなわち、「立法権」がつくるもの、そして、「行政権」がそれによって物理的なパワーを発揮するもの……それは、やっぱり「法律」……うーん、今まで、「法律」というものを、こういう観点で見たことはなかったなあ……やっぱりヨーロッパですね。徹底的に、「思惟」と「延長」の二大原理から考える。だから、この場合、「法律」というものは、「思惟」の要素と「延長」の要素を二つながら備えているというふしぎなものになる……ということは、「思惟」の要素からするならこれは、「理想」とか「理念」とかいろいろすばらしいものを含められるけれど、「延長」から見るなら実に生臭くキナ臭い……

私は昔から、法律とか政治とか社会とか経済とかが大キライで、だから絵描きになったようなもんなんですが……いや、絵描きがみんなこういうもんがキライとはいいませんが、身の回りをみてみると、キライな人が多いのはたしかです。なんか胡散臭いというか気持ち悪いというか、すっきりせんところの多いもんだなあ……と。まあ、私自身、特許の仕事なんかもちょっとやったので、実際はそういうもんに全くたずさわってこなかったとはいえないんですが……その経験からすると、みんな「法律をうまく使って」儲けたろう、というか、法律って、自分が得をする為にあるもんだと……そう思ってる人のいかに多いことか……でも、虚心坦懐に条文(私の場合は工業所有権法)を読んでみると、これはもう、かなり細心の注意を払って「公平に」なるようになんとか努力してる……

というか、そもそも、物理的な世界で、いろんな立場の人の損得を勘案する前に、まず、精神的な世界で「公正な条文はいかにあるべきか」ということに常に留意しているような印象を受けました。むろん、「立法権」の側にも物理的な圧力がかかって、その結果、本来は物理的世界とは無関係に立てられるべきものである「法律」が歪んでしまうということは、現実にはしょっちゅうあるのでしょうが……でも、昔、私が勝手に思い描いていたみたいに、「法律は為政者の都合のいいようにつくられる」というばかりではないような気が、やはりした。やっぱり……「思惟の世界」のものであるからには、「論理」を無視するわけにはいかないので、そこは、けっこう論理的なものを重視してつくられているなあ……と思いました。世間では「但し……」とかではじまる付則みたいなもので骨抜きに……

とかいわれていますが……まさに、そういう分野もあるのかもしれないけれど、工業所有権法なんかだと、ある程度、というかかなりの程度、論理を重視してつくられている……特許なんかだと、出願して権利を得られれば、それは「儲け」に直結する反面、同業者には確実な「不利益」をもたらす……つまり、「国家の保護」による「独占」が可能になるので、利益をこうむる側と不利益にさらされる側の闘争はシビアなもんです。そういうシビアなところで、法律をつくる側と、それを執行する側はいかにしたらいいのか……私が垣間みることができたのは、工業所有権法における「立法」と「行政」、それに「司法」だけなんですが、おそらくは、法律の全般に亘ってこういうことがあるのでしょう。そして、それによって人の実際の生活が変化を受け、その人たちが住む街や村の姿も変わっていく……

ルソーの『社会契約論』は、岩波文庫の翻訳で200ページ足らずの薄い本ですが、根源的に難解で何回読んでもわからない……だけど、これがフランス革命の理念になり、さらには民主主義の根幹になって現在まで続いている……奴隷制を復活してネット公開処刑もやってしまう「イスラム国」は、このルソーの『社会契約論』に、実力で根源的な叛旗を翻しているように感じます。まあ、論理では、『社会契約論』は論破不可能でしょう。なぜなら……基本のところで、どういうふうに論理が通っているのか、何度読んでもよくわからないところがあるから……しかし、多くの人が、これを「論理的に正しい」と思ってここから「民主主義」を展開させてきた……そして、それに、イスラム国はラジカルな「NO」をつきつける……イスラム国を「狂ってる」というのはカンタンなんでしょうが、じゃあ、ルソーの『社会契約論』をきちんと論理で読み解くことができるんだろうか……ふしぎな世界だ……

結局、ルソーの考え方の根幹には、西洋の思想に共通の「この世界は、一つの論理によって整合されるはずである」という基本思想があるように思います。アタナシウス派とアリウス派の論点の根元的な部分がまさにそこだった……「世界の外なる原理」である「父なる神」と、「世界の内なる原理」である「子なるキリスト」は「同質」(ホモウーシア)であるか、いなか……もし、これが「同質ではない」ということになると、世界の外なる原理と世界の内なる原理が異なることになり、これは大問題です。人は、処女を森に送ってユニコーン(旧約の荒ぶる神)をなだめ、とらえた。その処女(マリア)によって「世界のうち」へと送られたキリストが、外なる神であるユニコーンと「異なる質」のものであるならば、結局、処女によるユニコーンの懐柔と、それによる「根本原理を人間の手に引き入れる」試みは失敗したことになります……

「それは困る」ということで、ニカイアの公会議では、父と子を同質であるとするアタナシウス派が勝利を収めたのでしょう……以後、地中海世界、そしてヨーロッパ世界は、この原理、すなわち、神の原理をキリスト(ロゴス)を介して人間の手中に収める……というやり方で、つぎつぎと「人の世界」を拡大していく……私がこのあいだ、さまよい歩いた太田川の街も、この「ホモウーシスの原理」によって昔ながらの生活があった海岸線を失い、かわりに埋立地と工場と、そこから得られるお金を手にした……立派な駅舎の一階に静かに佇むイズニックの……かつてニカイアの街であった場所で生産されたタイル画……それは、太田川のお宮さんのクスを描いたものなんですが、ふしぎにさわやかで愛らしいそのタイル画の写真を見ながら、やっぱりいろいろ考えてしまいました。幸せな街、住みやすい村……それは、いったいどこにあるのでしょうか……

今日のkooga:ゾロ目/Repdigit/Schnapszahl

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うちのクルマの距離計です。名古屋市名東区の東山公園あたりを走ってるとき、141414のゾロ目になりました。まあ、今年が2014年なので、めでたいこと?です。

それにしても14万km ……よう乗ったなあ……といっても、このクルマは私ではなく主にうちのおくさんが運転してるんですが……まだ10年はたってないと思うのですが。

もっとも、正確にいえば、「ゾロ目」というのは、1111とか8888みたいに同じ数が揃うことをいうみたいですが、この場合も、「14」を一つの数と考えれば、ゾロ目といえる?

それで、ちょっと計算をしてみました。たとえば、この141414を14で割ると、なんと答が10101! 逆に14を掛けてみると1979796となります。ちょっと乱れる……

次に、141414と、これを鏡対称にした414141を足すと、555555……まあ、これはアタリマエか……で、414141から141414を引いてみますと、答は272727……

じゃあ……と思って、141414を1414で割ってみましたら、答は100.0099009900991と出ました。ある意味、これってスゴイ……まあ、141414を141414で割ると1になっちゃうけど。

で、最後に141414掛ける141414、つまり141414の二乗を計算してみると、19997919396……まあ、ここまでくると「神秘感」は薄れちゃうかな?……で、これでオシマイ。

太田川フィールドワーク/Town walk of Ohtagawa

太田川の家_900

野外活動研究会の人たちと一緒に、愛知県東海市の名鉄太田川駅近辺を歩きました。

野外活動研究会というのは、今からもう40年も前に自然発生した、名古屋市と近辺に住む若者たちの集まりで……いろんなところを歩いているうちに、月日は流れ……今ではほぼ、中高年の集団に……まあ、若い方もおられますが、平均年齢はスゴイです。でも、スゴイわりに死者は少なく、かつての若者たちが集まって今も若者のようにウロウロといろんなところを歩く……歩く……ただ、ひたすら歩きます。

ということで、この間は、真っ青な空が抜けてカリフォルニアのピーカンの日曜に、名鉄太田川駅周辺から尾張横須賀駅まで歩きました……中高年ですが、歩きなれてる人ばっかりなのでだれ一人熱中症にもならず、無事帰還できたのはメデタイことでした……名鉄太田川駅のある東海市は、愛知県の知多半島の付け根のところにある街ですが、ここは、かつては風光明媚な白砂青松の地……

だったかどうかは、その頃を直接知らないのでよくわかりませんが、今はもう、「海岸線」はありません。というか、かつての砂浜の海岸線に接して巨大な埋め立て地ができて、そこには華麗なる?工場群が……ということで、街は工場に封鎖されて……こういう場合、どういう言葉を使ったらいいのかわかりませんが、思わずしらず「御愁傷様で……」という言葉が出てきます。それくらいあわれな……

街って、それぞれの街に、やっぱりいちばんいい「すがた」があると思うんですね。知多半島は、かなりの部分が三紀層という比較的固い地盤からできていて……これは、絶対年代では6430万年前から260万年前ということですが、この時期の終わりに、この知多半島を含む伊勢湾と濃尾平野の大部分は「東海湖」と呼ばれる大きな湖の湖底になっていて、そこに堆積した地層が隆起して……

まあ、いろいろ複雑な変遷はあったと思うんですが、今の知多半島のかたちになった……縄文海進期は今よりさらに海が奥まで入りこんでいたと思いますが、その後、地球の寒冷化によって海は少しずつ退き、知多半島は、三紀層の骨格に、海沿いの砂浜……という地形になった……そういうことではないかと思います。ところが、近年、おそらく昭和に入ってから、名古屋港の埋め立てが進み……

それは、連接する知多半島にも拡大して、白砂青松の砂浜に巨大な埋め立て地が形成され、この地は、いのちともいうべき「海岸」を失いました。かつては、人々が漁業で生計をたて……あるいは良港の利を生かして廻船業も盛んだったかもしれません。そして、おそらくは名古屋や岡崎からの観光も……夏になると、知多半島の砂浜は海水浴のお客さんたちであふれた……

砂浜を埋め立て、コンビナートを建設していくその圧力は、きっとものすごいものだったのでしょう。今も、その「ツメアト」は街の各地に見られます。だいたい、街自体が「なにをやりたいのか」まったくわからないうちに、埋め立て地の工場から落ちるお金で道をつくり、団地をつくり、ハコモノを増殖させ……名鉄太田川駅に降り立ったとき、「なんにもないところにきた」と思った……

それくらい、もうなんにもない感じ。その日はちょうど隣町の尾張横須賀のお祭りで、古い街並を山車が練り歩き、屋台がならんでお客さんがいっぱい……ふだん山車を保存しておく山車蔵の立派さが印象的でした。うーん……きちっと調べてみなければわかりませんが、やっぱりあれだけ立派な山車蔵を造るにはかなりのお金がかかってるんだろーなー……そのお金はどっから出たのか……

街の骨格ともいうべき「基本的なすがた」を失ったかわりに、もし立派な山車蔵が得られたのだとしたら、それってどうなんでしょうか……街は、そこに立ったとき、立っただけで、もうかなりのことがわかります。幸せな街なのか、不幸な街なのか……そこに住む人は、あるいは幸せだというかもしれない。また、ある人は、不幸だというかもしれません。しかし、地の神はどう思ってるのか……

地の神の心……いろんなところへ行くと、やっぱりソレを感じます。この地の、地の神は、今、幸福だろうか……不幸だろうか……今までで、私がいちばんびっくりしたのは、やっぱり越前の敦賀の街でした。敦賀の地の神様である気比の大神をお祀りする気比神宮……ここへお参りしたときのショックは、前にも書きましたが……大岩に押し潰された気比の大神の苦しみがダイレクトに伝わってきて……

私は、あのとき、自分自身の身体と心で、「ゲンパツ」というものの本当のオソロシサを知ったんだと思います。すべての「生命」を圧殺していくあのオソロシイ19世紀の悪魔の発明……これはもう、「地球」自体に対する挑戦であって、この魂の場、いのちの場そのものを巨大な力で押し潰す……ここからはもう、なにも逃れられないし、なにも生まれない……ほんとの闇ってこんなもの……

東海市の太田川の周辺を歩いていても、やっぱりこのオソロシイ「力」は常に感じました。ここにはゲンパツはないし、もうけっこう古くなってまわりにもなじんじゃってる工場が並んでるだけ……なんですが、街の軸は狂い、散漫になって、土地がつくりだす、人の生活をそっと包んでくれるような平和な感じがない……金の力……これは、オソロシイです。ぜんぶ、壊してしまう……

金の力にとらわれた人は、獰猛に、凶暴になります。燃えたぎる油ぎった憤怒の炎が全身から噴きだして、あぶなくて近寄ることもできない……合法的に、そういう力は、人の生活を壊し、地の神を圧殺して世界を破壊していく……今、イスラム国にリクルートされた日本人若者のことが話題になっていますが……それって、トンデモナイことに見えるけれど、ホントにそうなの?

今、この日本という国土、山河は、金の力によって荒れに荒れ、かなりの部分が狂いはじめています。もう、こんな国には夢も希望も持てない……そう感じる若い人が、「神のもとにはすべてが平等」であるイスラムの世界に惹かれる……そういうことがあるとしたら、それもムリからぬことではないでしょうか……この国がダメになるとしたら、それは、山河と地の神をとことん痛めつけたから……

土地の持っているすなおな「気」を、慎重に扱ってそれを整えていく……人間の持っている土木力は、そういうふうに使わないと、ホントにタイヘンなことになると思います。はるかな過去に絶滅した植物の身体を燃やして土地の姿を変えていく……もし、人間が「地球の心」であるとするならば、その選択は、必ず「地球の死」に行き着くしかない……地球は、自殺を考えているのでしょうか?

私もクルマに乗って電気を使ってるので、おんなじことをしているワケだけれど、でも、やっぱり「地球の心」としては、「自殺したい」とは思っていません。というか、むしろ、きちんとやってまともな生活をしたい……と、そう思ってます。人類は、「地球の心」である以上、これから、ものすごく大きな曲り角を迎えざるをえない……なぜなら、地球は、「自殺」を考えてはいないから。

ピーカンの太田川フィールドワークで見たこと、感じたこと……このオソロシイ流れをなんとかしたいなあと思います。いろんなところを見れば見るほど、「土地の気にすなおにしたがう暮らし」というものがあるはずだという気がしてくる……それは、その地の「神社」にふつう、最もよく表現されているわけですが……地の神々は、どう思っておられるのでしょうか……

太田川海岸_900

この写真は、名鉄太田川駅を300mくらい西に行ったところで西、つまり伊勢湾方向を向いて撮ったもので、ビニールハウスの並ぶ向こうに見える林が、おそらくかつての海岸線付近だと思います。今は、林の向こうに国道247(西知多産業道路)が通り、太田川のなれのはての掘割をはさんで、幅が2kmもある広大な埋め立て地が広がり、海ははるか、その先にまで追いやられています。

この埋め立て地は、名古屋港の埋め立て地の中では最大クラスの面積を持っていて、「東海元浜埠頭」という名がついているようです(住所でいうと、東海市東海町5番地)。北半分が昭和37年~46年(1962-1971)に、南半分が昭和47年~56年(1972-1981)に埋め立てられ、新日鉄、新日鉄住金、黒崎播磨名古屋、大同特殊鋼などの工場が立地しています。

http://www.umeshunkyo.or.jp/209/271/data.html

日本の港といえば神戸、横浜で、名古屋港をあげる人はすくない。というか、「名古屋に港ってあったの?」というくらいの認識ではないかと思います。しかし……実は、名古屋港は、総取扱貨物量(2億824万トン)、貿易額(16兆3103億円)、貿易黒字額(5兆8064億円)がいずれも日本一……数値は、平成25年確定値とのことですが、総取扱貨物量が2億トンを越えるのは名古屋港だけ……

この総取扱貨物量の日本一は平成14年から12年連続で記録更新中だそうです。そして、臨港地区面積(陸域)も、4214万8千平米でこれも日本一……この「臨港地区」というのは、港湾管理者(名古屋港の場合には名港管理組合、実質的には愛知県と名古屋市)が「水域と一体的に管理運営する必要がある水際線背後の陸域」を都市計画に基づいて指定したものだそうでして……

この「臨港地区面積」のほとんどは埋立地ということになるから、名古屋港は日本一埋立地の多い港ということになるのでしょう。その様子は、以下のPDFファイルで見ることができます。

クリックしてzentai.pdfにアクセス

これで見ると、東海市、知多市の海岸は、ほぼすべてが「工業港区」になってるのがわかります。

この様子を、例えば神戸港なんかと比べてみるとよくわかるのですが……
http://www.city.kobe.lg.jp/information/committee/port/preservation/img/38rinkouhenkou.pdf#search=’神戸港+臨港地区’
神戸港は、六甲アイランドやポートアイランドがあって、いかにも埋立地の多い印象がありますが、臨港地区の総面積は2107万4千平米(2107.4ha)で、名古屋港の臨港地区面積の約半分……

しかも、六甲アイランドなんかは、ほぼ全域が学術研究、商業、そして居住区だから、「工業港区」の割合はさらに少ない……要するに、名古屋港は、「港の顔をしていない港」であって、また「閉ざされた港」という言い方もできるかもしれません。つまり、純然たる「産業のための港」であって、われわれは立入ることもできず、まったく知らない場所で、知らないことが……

先頃、新日鉄住金の工場で爆発さわぎがあったことは耳新しいですが……白砂青松の海岸がいつのまにか埋め立てられて、だれも知らないうちに海岸線がなくなり、よくわからない場所がどんどん増えている……神戸や横浜みたいな「港情緒」がないというのは名古屋港の人たちも悔しがっているみたいですが、それは、なぜなんでしょうか……どこかが基本的にヘンだなあと思いますが……