タグ別アーカイブ: 太平洋戦争

世界標準?/A global standard?

世界標準_600
TPP、妥結しましたね。オバマさんはけっこう正直で、「中国みたいな国に、世界標準を取らせるわけにはいかないから……」みたいなことをおっしゃってましたが、やっぱりホンネはそのあたりなのかな?

これで思い出すのが、先に日本の国会を「通った」(というか、ムリヤリ通ったことにした)日米新安保、日米同盟ですが、これで、日本は、軍事においてもアメリカを「世界標準」と認めて、みずから米軍の傭兵になります、と……

世界標準……この問題は、先頃のフォルクスワーゲンの大失態もそんな感じ。未来のクルマは、なにが「世界標準」になるかの争い……どんな分野でも、「21世紀の世界標準」に向けて、熾烈な争いがくりひろげられている……

オリンピックも、今話題のノーベル賞もそう。運動(身体)も頭脳も、みんな「世界標準」を目指してがんばる。0.001秒で「オレが世界標準」なんて、冷静に考えればバカな話……と思いますが、やっぱりみんな熱くなる。

ISOみたいな、モロに世界標準でござい!というのもある。言語では、もうとっくにアメリカ英語が世界標準。で、それをもとにしたインターネットもアメリカ。私みたいに英語がわからない人にとっては、疎外感が大きい。

この問題、実は、深刻です。自分が「世界標準」になれてるかどうか……それは、新しい「分類」であって、世界標準に入っていない人は「無意味」の烙印を押されてしまう。入れた人はいばる。で、入ってない人を見下す。

『ヨハネの黙示録』に、そんな箇所がありました(以下引用 13章14-18)。

『さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。

それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。

この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である。』(引用おわり)

この「黙示録の獣」については、さまざまな説があるようですが(皇帝ネロだとかバーコードだとか)、私は、この獣は、なにか特定の存在というよりは、人の考え方みたいなものをうまく表わしてるなあ……と思います。

TPPに戻ると、これはもう、世界のいろんなところにある、独自の「生産方式」を認めませんよ、と言ってるようなもので、食糧でもクルマでも、その他さまざまなモノが、すべて「世界標準」にもっていかれる。

まあ、別に、イヤならいいですよ……ということでしょうか。ただし、「輸出」がからんでくると門がピシャリと閉まる。国内であっても、その先にいろんな形で「輸出」が見えてくると、結局嫌われて締め出される。

モノの生産ばっかりじゃなくて、保険制度や特許など、無形のものもそうなる。日本でも、貧しい人々は、アメリカみたいに国民健康保険に入れなくなるのかも。中国の保険制度はどうなってるのかわかりませんが、どっちがマシかな?

先に、蔦屋が公共図書館の運営を任されて、役に立たない古本を買い集めて問題になりましたが、文化でもそうなるんでしょう。スポーツは、オリンピックでとっくにそうなってるし……この「世界標準」って、どこまで続くの?

なんか、極端なことを言ってるなあ……と思われるかもしれませんが、たとえば、オリンピックで、イスラム国が出場する!ということになれば、それはそれで意義があると思います(ますます極端でしょうか……)

まあ、イスラム国が、今のオリンピックに「オレたちも参加するぜ!」というとはとうてい思えませんが、もし言ってきたとしても、「あんたがたダメよ。世界標準じゃないからね」ということなんでしょう。

日本も昔、これで閉めだされましたね。「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」とか、あれは結局、欧米基準にかわる新たな「世界標準」を形成しようとするモクロミと解するのがわかりやすいのかなと思いますが……

欧米列強にみごとに「拒否」されてしまいました。まあ、ドイツもやっぱり閉めだされた側だったんですが……そこへいくと、今の中国って、やっぱり巧みだなあと思います。まず経済で「侵略」して、身動きとれなくしてから……

「ボーイング300機買うぜ!」と言われると、アメリカもやっぱり「マイドおおきに!」といわざるをえない。世界標準はまず経済侵略から……日本も、世界ではやっぱりそう思われているのかもしれませんが……

世界標準と地域性のことを考えてみると、これから先、世界中で、地域性、固有性がどんどん潰されていく……そして、世界が「一色に」塗り替えられていく……それはもう、とめられない傾向であると思います。

そうした場合に、この「地球」は、どうやって「抵抗」するのでしょうか。「その地」を守る人々が、心の底から骨ヌキにされて、われもわれもと「世界標準」になびいていくとき、「地」の抵抗は、「自然現象」となって出現する。

CO2とかPMとか放射能とか……いろいろ言われていますが、地球、大地、空気と水に負荷をかけすぎると、そこは自然に抵抗する。別に大地がそう思っているわけではないでしょうが、キャパシティ以上のものが乗っかると……

バランスが崩れて、当然すべての崩壊がはじまる。よく言われることですが、災害の起こりそうなところに家を建てる、街をつくるからえらいことになるんだと……でも、「世界標準」は、そういう「住み方」を人に強いる。

いなかでも、昔からの家は、できるだけ自然をうまく利用しつつ、災害のあったときに難の少ない場所を選んで建てられている。しかし、それでは、「世界標準」の押し寄せる力にもはや抵抗することができない……

ということで、家も街も、生産現場も、みな、「地の法則」を無視した世界標準の経済原則によって形成される……で、いったん「コト」が起こると脆くも大崩壊。システム全体が崩壊するので、災厄の規模もデカくなる。

今、政府、ABくんのとろうとしている方向を見ると、それは、「世界標準で勝つ」ということに全勢力を傾けよ!と、そう国民に指示し、かつ強制する……そうなっているように思います。経済も軍事も、そして文化さえも。

地の独自性……そういうものは、AB政府にとっては「克服さるべきガン細胞」にすぎないのでしょう。「1億」を一つの色に染めて「世界標準」を勝ち取ろう……そういうふうに言ってるように思います。落伍者は消えてね……と。

なぜこんなふうになるんだろう……ハイデガーは、「世界内存在」ということを言った。イン=デア=ヴェルト=ザイン。これは、人は、「世界」というものに、どうしようもなく根源的に結ばれている存在なんだ……ということ。

しかし、私は、たぶんこれでは甘かったんじゃないかと思うのです。人は、イン=デア=エルデ=ザイン、つまり「地球内存在」、あるいは「大地内存在」であるというべきでしょう。「地」との強烈な結びつき……

「世界」というとき、そこにはやはり、どうしても抽象的なものが漂う。ハイデガーの意図がどこにあったか……それは、私にはわかりませんが、彼が、一時ではあれ、ナチスに深く加担した……そこにヒントがあるようにも思う。

ドイツという国は、ヨーロッパでありながら、「中心」からはちょっと外れているようにも感じます。じゃあ「中心」ってどこなのよ?と聞かれると困るんですが、少なくとも、「辺境」というか、ハズレ感覚って、あるんじゃないか……

要するに、自分たちが「世界標準」を取れていないって感覚ですね。これは、日本もそうだったと思うし、今もそうだと思います。イスラム国なんかは強烈にそう。「世界」を目指す。世界征服……少年マンガの悪役の夢……

単純といえば単純ですが、必ずそうなる。世界標準の悪夢です。第二次大戦でナチスに追われてアメリカに亡命したトーマス・マンは、『ファウストゥス博士の成立』で、ナチスのドイツ人は、本当のドイツ人ではない!と語る。

彼は、ナチスへの憎悪をこめて、ホントのドイツ人は、あんなふうにはならない!と言ってます。彼の、この感覚はわかるなあ……太平洋戦争のときの日本の右翼も、アレは結局ニセモノで、ホントの日本人は違うんだと……

しかしではナゼ、「国をあげて」そうなっちゃったのか……日本もドイツも。ホントの日本人じゃない、ニセのドイツ人だ……と言っても、あのときは、かなりの日本人が、ドイツ人が、「心から」そういう「ニセモノ」になった。

今、サッカーやラグビーやテニスで、「ナントカジャパン」とか言って熱狂してる人たちを見ると、結局そうなんだなあ……と思います。ABくんは、スポーツだけじゃなくて文化面でもそれを利用して煽りたててるし……

ノーベル賞とかも、うまく利用されている。イスラム国にノーベル平和賞を!という人が一人でもいたら、ふーん、ノーベル賞もけっこう信用できるかもね……とも思いますが、まずそうはならんでしょうし……

まあ、イグノーベル賞に「平和賞」があったら、イスラム国の受賞は固いところでしょうが、もしそういうものがあったらまっさきにABサンにあげたい気もします……いや、彼は、「積極平和賞」でしたっけ……

ということで、「世界標準」をめざす各分野の競争は、これからますます加熱していきそうですが……そういうものにカンケイのない私などは、地の力を感じつつ、これからもここで、うずくまって暮らしていく。

そうなると思います。地の力……ホントは、世界って、そういうふうにあるのではないだろうか……世界標準をめぐる戦いが、白熱のあげく昇華されて無意味なものになってしまったとき、人は「地の力」を知る……

どんどん、どろどろ……地の底から、ぶきみな太鼓の音がきこえてきます。それは、大地を、大気を振動させ、「世界」を変えていく……ザイン=イン=デア=エルデ。それを知るとき、人は、本当に「世界」を知る……かも。

世界標準2500
今日の写真は、名古屋市千種区の今池という歓楽街の路上で見つけた模様です。この街は夜の街で、昼間はしらっと、すべてがどこ吹く風といった風情で存在していますが……今をときめくY組のナントカ会の事務所もある?

以前、この街の近くに住んでいました。いろんな人が行き交って、ときに熱く、また冷たく、右往左往しながら秋の空にふと視線をやると、そこは無限の宇宙空間に連なる空洞の底……だれかがじっと見ている。神、でしょうか……

神の視線、だったら、「世界標準」といってもいいのかな? でも、人の視線は、けっして「世界標準」にはなりえない。人は、大地の子。大地からつくられ、大地に還る。そんなアタリマエのことを、年齢によって再発見するのもまた楽し?

殺す倫理/Killer’s Ethics

紀州犬射殺_600
人を噛んだ紀州犬が、3人の警官に射殺されました。13発の銃弾を受けて……というか、外れが多かったみたいですが、一発が頭部に命中して絶命。なんまんだぶ……なんか、かわいそうですね。TVの写真でみるかぎり、そんなに凶暴そうでもなく、フツーのわんちゃんなんですが……飼い主の飼い方にモンダイがあったようなこともいってましたが、どうなんでしょうか。

ベランダで飼ってて、あんまり散歩もさせてなくてストレスがたまってたとか……警官は、飼い主に、「撃ちますよ」と言い、飼い主が了承したので発砲したと言ってた。なるほど……犬は「器物」なので、持ち主(飼い主)が「壊していいよ」といえばピストルで撃って破壊してもOK。「殺し」じゃなくて、たんに「駆除」なんですね。ハエをハエ叩きでポンとやるのと同じ。ただ規模が大きいだけ。

じゃあ、相手が人間だったら……たとえば、どっかの会社で、社長がOKといえば、警官は社員を撃ち殺せるのか……いや、これはダメでしょう。社員は社長の「持ち物」じゃないし……というか、「人間」だから……でも、相手が人間でも、ポンポン撃つ場合もある。どんな場合だろうか……凶悪犯罪者で、銃とか持ってる……あるいは、戦争で、相手は敵の兵士だ……そんな場合かな。

これ、「自衛権」に深くかかわってくると思うのですが、今回も、犬が複数の人を噛み、さらに警官にも襲ってきた。だから撃った。警官が自分自身を守るためもあるけど、もっと人を噛んで被害が広がらないように……つまり、「人間の仲間」を守るために撃った。そういうことになります。この理論が「戦争」にも適用される。敵の襲撃に対して、自分と仲間を守るために……

撃つ。殺してもいい。というか、たくさん殺せば殺すほど、「英雄」として讃えられる。太平洋戦争のときの米軍将校のカーチス・ルメイさんなんか、何十万の日本人を焼夷弾で焼き殺した功績を讃えられて?日本政府から勲章をもらってます……んー、どー考えてもヘンな話だなあ……これって。じゃあ、アメリカから勲章はいいの?となると、それも、よーく考えれば(というか考えなくても)ヘンです。

lemay
殺しまくった人が、その功績を讃えられて叙勲される……これは、そこで働く「倫理感」がやっぱり狂ってるんだと思う。どうでしょうか……「アイツをほっとくと、オレたちに危害を加えるから、殺す!」これ、「倫理感」と呼べるのだろうか……今、ABくんたちが推進しようとしていることのベースには、この「狂った倫理感」がありますが、これって、もしかしたらけっこう重篤な病気なのでは……

「存立に明白な危機」とか言ってますが、それって、「犬が噛むかもしれんから殺す!」と、どこがどう違うんだろうか……じゃあキミは「自衛」まで否定するのか? という声がきこえてきそうですが、たしかに私も、蚊がプーンときたらパチン!とやります。で、潰れた蚊を「なんまんだぶ」と唱えてゴミ箱へ……これを否定すると、果てはジャイナ教になる。虫を吸いこむかもしれないから息を止める→自分が死ぬ。

人間の倫理は、たぶんここを越えないといけないのでしょう。じゃあ、どうやって? ということなんですが、昔、埴谷雄高さんの『死霊』という小説を読んだときに、キリストが、釈迦が、「死者の国」で、自分が食ったものに責められるという話がありました。キリストは、ガリラヤ湖の魚から、釈迦はチーナカ豆から、それぞれ、「オレを食っただろう!」と厳しく断罪される。

聖書では、キリストが、弟子たちに命じて、ガリラヤ湖に網を投げさせ、魚をとらせて、弟子たちとともに焼いて食べるシーンがあるそうで。また、釈迦は、チーナカ豆のカレーを食べて、それが元で食中毒で入滅……なので、この二つの食べ物は、「聖者を弾劾できる権利」を持つ象徴的な存在として、この小説『死霊』に登場するわけです。このことは、前にも書いたように思いますが……

当時、この場面を読んだ私は、なるほど……と思いつつも、この「論理」を完全に受けいれることはできませんでした。「いくら立派な教えを垂れても、オマエは私を食った。その一点で、オマエは鬼なのだ!」と、こういうことになって、これはこれで、まちがっていない。たしかに、いくら立派な人でもモノを食べる。ということは、その食べられたモノにとっては、その人物は、鬼、悪魔にほかならない。

キリスト教の人にきくと、「牛や豚は、神様が、人間の食物としてつくってくださったのだから、食べてもいいのです」という……なんと勝手な!そんな神様は、人間の神であっても、牛や豚の神ではない。むしろ、彼らにとっては悪魔です。これと同じ論理が、「紀州犬13発射殺事件」にもいえる。射殺相手が犬だから……犬の神は、たぶん、今のところは人間の神より弱いから、モンダイにならない……

でも、犬の神が、人の神より強くなったら、射殺した警官は、犬の神によって断罪されるだろう……なにをアホなことを……と思われるかもしれませんが、戦争は、昔は、人と人の戦いである以上に、神と神の戦いであったとききます。まあ、今も、キリスト教とイスラム教の戦いは、神と神の戦いであるともいえるのですが……先の、日本人大量虐殺犯のルメイさんは、日本人をたくさん殺したことについて……

「アメリカが勝ったから戦争犯罪人にならなかったけど、もし負けてたら、ボクは、戦争犯罪人になってただろう」とおっしゃったとか。なるほど……よくわかってらっしゃいます。人間の倫理感って、まあ、こんなもんなんですね。すべては「相対的」なのか……とすると、それって、「倫理」といえるんでしょうか。ホントの倫理は、どんな所でも、どんな時でも、通じるものでなきゃイカンのでは……

この点について、私は、最近、本田哲郎という方の『聖書を発見する』という本を読んで、感じるところがおおいにありました。本田さんは、カトリックのフランシスコ会の司祭で、ローマ教皇庁立聖書研究所を卒業、聖書をヘブライ語とギリシア語の原典から厳密に研究する聖書学者でもあります。しかし一方、みずから大阪の釜ヶ崎の2畳のアパートに暮らし、日雇い労働者と生活をともにする「実践の人」でもある。

私が本田さんの本でとくに感じたのは、聖書全体が、「小さくされた人」のために書かれた書であるという彼の主張です。「小さくされた」というのは本田さん特有の用語で、ふつうの聖書だと、「貧しきもの」(原語はプトーコイ)とか、そういうふうに訳している箇所を、本田さんは、「小さくされた」と訳す。これは、そういう目にあっている人の実感にいちばん近い。たしかに「小さく」されてるんですね……

でかい人によって。まあ、普通の言葉でいえば「抑圧」とか「弾圧」ということだけれど、そこにはすぐに政治的な意味が入りこんで、政治家に利用される。本田さんの感覚は、政治とかいっさい関係なくて、人と人が会ったときに、どっちかが「でかくされて」いて、他方は「小さくされて」いる、という、これ、ホントの実感の言葉です。で、釜ヶ崎の労働者は、「いちばん小さく」されている。

キリスト教の方々は、よくホームレスの炊き出しとか行いますが、本田さんによると、彼らは「わかっちゃいない」ということだそうです。「いいこと」をしたという気分でいるが、キリストは、いったい「どちらにいる」のか……本田さんは、まちがいなく、炊き出しを待っている労働者の側にいる!と言い切ります。炊き出しの列に並んで、自分の番まで鍋が持つかなあ……と不安がっている労働者……

彼こそが、まさにキリストなんだ!……聖書は、一貫して、こういう「小さくされた」立場の人たちに寄り添って書かれている……イエスが生きていた当時は、魚の命を取る漁師は、社会的にもいちばん軽蔑された最低身分の人々であった。イエスの弟子には漁師が多い。他にも、取税人とか娼婦とか……当時の社会でもっとも「小さくされて」いた人々が、イエスの弟子となった。

そして、イエス自身もそうであったといいます。イエスは「大工のせがれ」といいますが、本田さんによると、聖書では、イエスの父、ヨセフに対して「テクトーン」という言葉を使っているが、これは、ギリシア語の元の意味だと「大工」ではなくて「切る、掘る、削る」という作業工程を表わす言葉であり、「石切り」と訳すのがいちばん適切ではないかと……これに対して家を建てる大工は「オイコドモス」。

つまり、「建築家」と訳せる言葉を、聖書はきちんと使っているというのです(隅のかしら石の箇所)。したがって、イエス自身も、大工ではなく、下働きの石切りの子であり、当時の社会では最下層の民の出であった。しかも、母マリアは、今でこそ「聖処女懐妊」ですが、当時はまさに不義密通の女で、その子がイエス……社会通念としては、石打ちの刑にあってもふしぎはない、罪人の子であった……

テクトーンとオイコドモス_600
なるほど……と思いました。埴谷さんは、ガリラヤ湖の魚を食べたイエスは、魚から断罪されて当然だと書く……しかし、その魚を穫るのは漁師……今、われわれの社会で、そういう「生き物を殺さなければならない仕事」が、社会的に蔑視されるという風潮は、少なくとも表向きにはなくなっています(というか、なくなったことにしなければならなくなっています)。しかし実際はどうなのか……

犬を撃たなければならなかったおまわりさんたち……これと同じで、戦場で人を殺さなければならない兵隊さんたち……これを、どう考えればいいのでしょうか。ABくんは、「徴兵は、憲法で禁じている苦役にあたるから、絶対ない」と言ってます。まあ、憲法をないがしろにしまくってる人にこう言われてもなあ……というのもありますが、しかし「経済徴兵」。これは、絶対そうなるでしょう。

自民党の方々は、「今の自衛隊は、練度が高い。そんな、徴兵されたシロウトに勤まるもんじゃない」なんて言ってます。しかし……練度が高い兵隊さん以外にも、「捨て駒の歩兵」って、やっぱり要るんじゃないですか?? 人間じゃなく、ハイテク兵器が戦うのがこれからの戦争だ!ともおっしゃる……しかし……前線に高価なハイテク兵器を送るより、奨学金という借金を背負った学生あがりを使い棄てる方が……

はるかに安くつく!という地獄のようなことを、政治家や経済人は考えませんか? 練度の不足は、今はやりの「ウェアラブル端末」で補わせられ……もっとひどいと、「埋めこみ端末」で、こういう奨学金地獄の若者たちは、サイボーグ兵士にされてしまう……いや、強制じゃないですよ。あくまで表向きは。それがイヤなら、何百万の奨学金を返してちょうだいね。どっちでもご自由に……

今、ABくんたちがガンガン進めている「新安保」と「2極化」の果ては、こうなると思います。地獄のような奨学金を背負った若者たちは、どんどん「小さく」される。射殺された紀州犬は、やっぱりあの場面では「いちばん小さくされた」ものだったけれど、拳銃を発射して犬を撃ち殺さなければならなかったおまわりさんたちも、やっぱり「小さくされた」ものだったのでは……

人は、どんな場面でも、自分が「小さくされる」ということに対して、一種耐えられない反発感があるものだと思います。これは連鎖であって、どんな人でも、自分より小さな存在と、大きな存在を持つ。すべての人が、存在が、「同じおおきさ」……それが理想だと思うけれど、そういう瞬間は、やっぱりマレなのかもしれません。でも、そういうシーンもゼロではない……それは、ホントの友人、仲間関係。

もしかしたら、ホントの倫理感って、そこにしかないのかも。みんなが楽しく心を開いて、うちとけて……それは、たしかにあると思います。でも、今の社会は、どこへ行っても、どこまで行っても、けっこう難しい。なにが「公平な倫理感」をつくりだしているのでしょうか……ハイデガーさんは、実存カテゴリーということをおっしゃる。エクジステンツィアーレでしたっけ……

人は、本を「ドミノ」に使ってしまう(リンク)。ドミノに使われた本は、その本来の「存在」を失って、無限に並べられた(ゲシュテル)系列のうちの一コマにすぎなくされてしまう。「自分はデカイ」と思っていても、結局その「本のドミノ」の系列にすぎないことにはかわりない。ダレもアンタを、「アンタ自身」として大事に思ってるんじゃないよ、「役に立つ」から大事にしてるだけなんだ……

こういう見方をすれば、ABくんも、サイボーグ化された奨学金地獄経済徴兵トゥルーパーも、射殺された紀州犬も、射殺したおまわりさんも、まったくかわりはありません。みなそれぞれ地獄……オソロシイ。ホントの倫理感って、こういう「系列」にまったくカンケイないところにしかないんじゃないかな……未来の地球が、「すべての存在」にとって、そういう「楽しい世界」になるといいと思うのですが……

進化論って……02/退化論?/devolutionism?

進化論があれば、退化論があってもいいはず……で、思い起こしてみれば、古代ギリシアの思想でそれに近いのがあったような……うろおぼえですが、昔、神々の時代が「黄金の時代」で、だんだん人間がのさばるようになった「青銅の時代」、そして、人間が主流になった「当時の現代」が「鉄の時代」……要するに、時間を遡ればのぼるほど「いい時代」だったなあ……と。これは、世界が「一者」から流れ出したとする「流出説」とそっくりです。新プラトン主義の「流出説」って、ちょっとキリスト教に近い感じもあるけれど、実は古代ギリシアでは、ベースとしてこんな感覚があったのか……

まあ、ペーパー・クロマトグラフィーみたいなもんでしょうか。そういえば、天井にできてる雨漏りのシミもそんな感じですが……宇宙の「ビッグ・バン」もそうなのかもしれません。このあたりをまとめて「退化論」とすれば、これは、「進化論」と真逆なんだけれど、実はそうでもない気もします。結局、向きが違うだけで、「一点を頂点とする価値体系の序列」によって世界ができあがってるところはまったく同じ……要するに、世の中のあらゆるものが「一つの価値体系の系列」の中にきちんと位置付けられるはずであるというのが、こういう考え方の根底にある「見えない枠組み」なのかもしれません。

TsvetC_300

今、ジェイムズの『多元宇宙論』の解説書を読んでいるのですが(伊藤邦武『ジェイムズの多元宇宙論』岩波書店)これによりますと、明治時代にジェイムズのこの考え方は、日本の哲学者の西田幾多郎に多大な影響を与えたそうです。まあ、要するに、「純粋経験」ということから出発すると、必然的に多元宇宙論になっていく……ということなんですが、西田さんは、純粋経験の部分ではジェイムズの考え方に同意するものの、多元宇宙論の部分で、やっぱり違和感を感じたみたいです。つまり、いろんな価値が並列的に存在するという多元宇宙を提示されても、やっぱりそれらをまとめていく統一的な価値観が……

どうしてもバックに必要なんじゃないかと……まあ、西田さんは、そんな風に思ったらしい。なるほど……ここで面白いのは、そういう「統一的な価値観」を生み出した源流であるヨーロッパ的思考の中で育ったジェイムズが、そういう「統一的な価値観」に対してむしろ否定的なのに、山川草木すべてが神様という「多神教的」日本で育った西田さんが、どうしても「多」のバックに「統一的価値観」を求めてしまうという、いわば「逆転現象」がここで起こっているように見えること……「自分にないものを求めるのだ」といえばそれまでになってしまうのかもしれませんが、アッチが一神教でコッチは多神教……

こういう単純な図式が、ホントにホントだったんだろうか……という疑念も湧いてしまうわけです。「思想」って、「思想」になってしまうと、なぜかかなり明暗が強調されたり、「そう思いこんでるように」デフォルメされたり……そんなところがあるのかもしれません。生活とあまり離れていないような「思想」をみな求めるのだけれど、そうやっていくと「思想」という外観が崩れて、なにがなんだかわからないものになるから……特に、社会や国家に大きな影響を与える……いや、与えなければならないのだ!ということが前提としてあると、それはけっこう不自由といいますか、むずかしいものになる……

西田幾多郎C_300

ジェイムズの場合、臨床心理学から出発しているから、仮にアタマの中になにか「統一的理論」を持っていても、臨床の場面でカンタンにそれが裏切られる事例が続出する……そんなことを経験しているのかもしれません。これに対して、西田さんは、禅とかと関連が深い当時の日本の哲学的雰囲気で……なおかつ、その当時は、日清日露の2つの戦争に勝って「強勢大国」への登りエスカレーターに乗ってた日本の風潮……そういうものからすると、ヨーロッパの19世紀に遅れちゃならんと……日本独自の、なんかヨーロッパ思想にも勝つ(というか少なくとも負けない)思想を形成しなきゃいかんと……もしかしたら「邪推」になるのかもしれませんが、なんとなくそんな感じもあったのではないかと……

明治初期から中期にかけて、西欧発の社会的ダーウィニズムみたいなものが、日本の知識人層で、けっこう歓迎された……みたいな記述がありました(アデニー・トーマスさんの『近代の再構築』法政大学出版会)。「追随する国のあわれさ」と言ってしまえばそれまでですが……「日本独自の思想を打ち立てにゃあいかん!」と思った時点ですでに負けてる。本来勝ち負けカンケイないはずなのに、「その土俵」に乗った時点ですでに負け……この間、NHK教育で、西田さんはじめ京都学派の哲学者たちが、結局太平洋戦争に巻きこまれていく過程をやってましたが(『日本人はなにを考えてきたか』という番組)……

トーマスC_300

西田さんは、やっぱり当時の軍部に、思想的に「協力」したとしか思えないというニュアンスだったと思います。それも、強制されての協力ではなく、かなり自分から乗っていったところもある……そんな感じで。まあ、カンタンに言えば、大東亜共栄圏とか八紘一宇という、例のヤツですが……戦後は、もう誰も見向きもしないこの「思想」に、当時は、「大哲学者」だった西田さんまで乗っかって……しかし、ジェイムズの「多元宇宙」の底に、どうしても「統一的価値観」を見なければおさまらなかった西田さんの考えからすると、「時代の風潮」ということを抜きにしても、なんか思想的にスルッといっちゃったような感じも……

このあたりは複雑ですね。「多神教」にかんする、自分でも意識していないようなレベルでのコンプレックスがあったのか……考えてみれば、飛鳥、奈良時代の仏教の導入も、結局「統一的価値観」の問題だったのかな……という気もします。「統一的価値観」は「政治」と極めて相性が良くて、知らない間にスルッといってしまう……戦後、「原爆はダメだが平和利用の原発は推進」で国民みんなが納得したのも、「科学技術」という「統一的価値観」が「政治」と極めて相性が良くて、スルッといってだれもが疑わなかった……そういうこともあったような気がします。そして、例のSTAP細胞騒動……

これも、「長生きはいいことじゃん」という「統一的価値観」がもうすでに国民の間に根強く形成されちゃってるので、ソレに乗っかってスルッと行きかけた……んですが、錬金術師の魔術があまりにすごいというかお粗末で、ちょっと待てよと……でも、リケンの方々はみな、この錬金術師のパフォーマンスにやられてしまって、もう無条件に「採用だー!」と。そういう、ちょっと信じられない展開のバックにあったのは、国民的了解事項の「長生きはいいことじゃん」……しかし、それが、「統一的価値観」であったはずの「科学的なものの見方」を根底から揺るがすことになったのは、皮肉というべきか……

巨大施設と、それを回す研究費……これは「政治」から取ってこなきゃいかん……やっぱり「統一的価値観」は「政治」と極めて相性がよろしいようで……でも、一人の錬金術師が、そのすべてを覆してしまった……コレ、「錬金術」の内包する本質みたいなものを考えると、もしかしたらかなり深い層にまで届いている「事件」なのかもしれません……「進化論」の表面的なわかりやすさと、それとは真反対の「深い層まで無限に続くわかりにくさ」……ここから出発してどんどん迷路に入っていくと、もうなにがなんだかわからなくなります……実際の「生命界」というのは、「実際」なので、おそろしく複雑怪奇……

自分という一人の人間が生きてる……というのは、それだけで実は、ものすごい奇跡みたいなものなのかもしれません。むろん、人間のみならず、いろんな動物も植物も……そういうものを「系統樹」でずらっと並べて、これがこれからこう進化したのだ……と。考えてみれば、かなり大胆不敵なことを堂々と言ってて、みずからそれが真実であることを疑わない。しかし、今、ここにいる自分は自分であって、それが進化系統樹のこの位置におるのだ……と言われても、ぜんぜん実感というものがありません。そうか……オレは、人間というモノなんだ……そう思っても、あと数年ですぐに違うものになるかもしれない……

いや、数年といわず、自分の身体の一部は、つぎつぎと代謝して「違うもの」になっていってる。にもかかわらず、自分が自分だと思う……コレ、ふしぎです。カフカの『変身』では、一夜明けたら虫になってたわけですが、にもかかわらず「自分」という意識はまったく変わらずある……まあ、最初から意識まで虫になってたら、多分小説にはならないわけですが……ことほどさように、「自分」というのは不安定なのに、なぜか数十年間は安定しています。で、その間に、宇宙全体を統一する価値観を捏造?して、世界を理解したような気分になる……これはもう、一種の病気としかいえないと思います。人間というやまい……

カフカCC_300

これにかかると、「人間」になって、世界をどんどん造りかえていくのできわめてやっかいですね……みんなどう思ってるんだろう……人間以外の存在は。きっとヤだなあ……とか思ってると思うのですが、それは人の言葉にはならないから、人にはわかりません。なんか、勝手に進化の系統樹とか造って、オレたちを勝手にあてはめて、自分を頂点においていい気になってる……考えてみれば、とても恥ずかしいことだと思います。まあ、勝手にやってるだけなので、「真実」にはぜんぜん影響しないわけですが……人間って、ほんとに困ったビョーキです……

外国人お断り……レッズサポーターの根のカルマ/JAPANESE ONLY……The Root of Karma

日本人お断り_900

オソロシイ……外国人締出し……で、あの不気味な無観客試合……ホントにオソロシイことだと思います。だけど、カンタンには反省してほしくない(というか、100%しないだろうけど)……悪は、どこまでも、徹底的に悪であってほしい。懐柔されない悪……それは、ある意味、正直だと思います。

太平洋戦争のときもさんざんやりました。大東亜共栄圏って……ホントにそれが正しいと思ってるのなら、敗戦もゲンバクもなんのその、今でも言い続けるがいい……それができないんだったら、あのときも言わなきゃいい。そう、思います。コロコロ変節するのがいちばん良くない。しかも状況しだいで……

この問題、結局、「カルマの根」あるいは「根のカルマ」にかかわると思う。「カルマ」というと宗教的ですが、他にいい言い方がみつかりません。まあ、彼ら自身、「聖地」という言葉を使ってるんだから、もともとこの事件は宗教的……宗教のオソロシさと根本的に通じるところがある。一方向のみを見て、ダーッといく……

エルサレム奪還の十字軍みたいですね。自分たちとちょっとでも違うものは根絶せよ……ということで、ナチス的でもある。これ、宗教……というか、人の心の暗黒面だ……要するに、業、宿業……なにがどーやってもそーなってしまう……本人にも、もうどうしようもないゴリゴリに固着した傾向性……これは、どっからくるんだろう。

昔、朝日新聞を襲撃して、記者を射殺した右翼さんがいました。「話せばわかる」。この言葉の空しいこと……彼にとっては「銃弾」が唯一の「モノを言う言葉」だった。社説なんかで、最後に「ともかくみなでよく議論することが大切」……そんな書き方が多いけど、これってナンセンス。そらぞらしい……ウソくさい……

「普遍」は、なにも言葉や論理の側にだけあるのではないと思います。今回の「外国人お断り」事件でも、やった人は、なに言われても絶対に納得せんでしょう。というのは、彼の心の奥底に、絶対に解けない「カルマの根」があるから。彼にとっては、これが「絶対普遍」であって、もう論理とかのモンダイじゃない。

そういうものを「論理」で押しこめることはできない。いったんは押しこめられたように見えても、「根」が残っているかぎり、必ず別のところで噴出する……今の日本みたいに、国家のリーダーみずからがそういうものの噴出を許す(というかあおる)ようなムードを醸成している社会にあっては、カンタンに噴き出す。

国際的に「レイシズムはノー」。これは、一種の「普遍」だと思います。人類が、何世紀もの争いを経て掴むに至った「血みどろの普遍」。しかし、一方、「外国人お断り」の横断幕を掲げ、記者を射殺し、『アンネの日記』を破壊し、ヘイトスピーチをくりかえす……これは「普遍」じゃないのか……

難しいところですが、一方を「普遍」であり、他方を「矯正さるべき誤った傾向性」であるとしてしまいますと、それはなんの解決にもならない。カルマの根……こういう、オソロシイ凶暴性を噴出させる宿痾の、ガチガチに凝った真っ黒なカタマリ……そういうモノたちの「普遍」つまり「根っこ」はどこにあるのか……

それは、オソロシイことに、私たち一人一人の心の中にある……これはもう、否定のしようのない事実だ……そういう「曲(まが)事」を、自分は「普遍」の側に立って糾弾する……その、私は客観的に見ますよ……といういかにも超越者然とした態度……それが、銃弾を呼び、破壊と殺戮につながる……そうかもしれない……

なぜ、禍々しいものが、この世に存在できるのか……彼らは、それらが育つにふさわしい土壌(たとえば今の日本)を得ると、あれよあれよという間に急速にでかくなる……私は、戦前の日本を知りませんが、大東亜共栄圏みたいな風変わりな「思想」が、少なくとも「普遍」として歓迎されていた……その空気……

人の心は、今は「外国人お断り」を「普遍違反ですね」として糾弾するけれども、もう少し空気が変わればあっという間にそっちを「普遍」としておしいただき、ソレに反意をもとうものなら、「普遍の意志」として、反対する人々を抹殺する……コロッとそっちに変わる。「カルマの根」は再生して、自らを開花させる……

こういう「根」を断つことが、絶対に必要だと思います。で、それは、今の日本人が唱える「人種差別?よくないねえ」みたいな、あえて言うなら内容のない空疎な言葉ではできない。根に、届かない……レイシズムがダメなことは、みんなアタマではわかっていても、ちょっと心の奥に入られると……コワいことですが。

ホンモノの「フヘンの人」は違うかもしれません。しかし……私もそうですが、大多数の「フツーの人」は、そこまでいってない。それは大事だと思っていても、徹底できないので、社会の空気が変わればコロッと参ってしまう……今の日本、国のリーダー自身が盛んにあおっていることもあって、まさにその変わり目にいると思います。

「無観客試合」の決定は、やっぱり大きかった。けれど、それで「根」が断てたわけではない。横断幕を掲げた方々は、絶対納得していない(し、されてたまるか)。潜伏して、またチャンスを待つ……タチの悪いカルマの根ですが、もともとカルマの根というのはそこまでタチの悪いもの……ヤバいモンが、押えられてブスブスいってる……

これから先、日本は、どうなるんだろうか……根を断つどころか、それをあおって火事をどんどん大きくしていくような政治……結局、根が芽になり、伸びて育って大樹になって「悪の華」が満天に開き、「毒の実」がざくざく成る……あるいは、そうなる前に、別の「宿業」とぶつかって滅ぼされるのか……

出るものは全部出る。徹底的に……それが、もしかしたら唯一の「正解」かもしれません。オソロシイことですが……