私は、昔、哲学科でした。より正確にいえば、哲学倫理学専攻……京都の某私大の。で、若干の哲学書を読み、友人と議論もした。幼い議論は白熱し、その結果、友人二人と絶交した。その友人二人も互いに絶交したみたいなので、三人は三人とも、それぞれ絶交状態となった。まあ、今にして思えば、青かったなあ……と。
哲学って、なんのためにやるんだろう……自分をふりかえって、「3つの段階」を考えてみました。
1.「自己満足」ではない。
2.「世界を統一理論でみたい」でもない。
3.「本当のことを知りたい」……たぶん、これが正解かな(今のところ……ですが)
1の、「自己満足」の段階は、これは他愛のないもので、まあ「居酒屋で議論に勝つ」みたいな段階だと思います。「カント読んだ?」とか、「ヘーゲル知ってるぜ」みたいな感じで、生物学的に言えばオスの示威行動のような……最近では、オスメス限らないみたいですが、こういう他愛のない自己満足は、アホな姿を人前に晒すだけで、あんまり実害はない。
書店にときどき並ぶ、「10分でわかるカント」みたいな解説書のたぐいは、こういう「素朴な自己満足」段階を狙って書かれたもので、読んでもナンの役にも立たないばかりか、かえって「本当の理解」から遠ざかっていくだけ……ただ、こういう自己満足段階でも、その底に、「本当のことを知りたい」という強い気持ちがあるのはたしかで、ソレは大切にしなければと思います。
で、こういう段階の次にくるのが(というか、オーバーラップしてるのが)、2の「世界を統一理論でみたい」ということじゃないかな……これは、要するに、人間のアタマのサガみたいなもので、「矛盾」を許せないというか、矛盾があると気持ち悪いという、一種の「生理的感覚」なんですが、それをまことに「高尚な」ものと勘違いしてしまう。
これはまた、「究極の自己満足」といってもいい段階だと思う。うちには、今、毎週木曜日の午後2時きっかりに「ものみの塔」(エホバの証人)の方がこられて、1時間ほど聖書の話をしていかれるんですが、強烈にコレを感じます。すごくマジメで熱心な方なんですが、それだけに、世界に毛スジほどの矛盾、裂け目があるのも耐えられない……そんな感じ。(リンク)
この気持ち、わかります。私もけっこうそういう感じだった……というか、今でもそうなんですが、そのたびにン?と思うようになった。裂け目も矛盾も、自分がイヤでもちゃんとある。なにより、自分自身が矛盾のカタマリではないか……それをさしおいて、「世界に矛盾があるのは許せん!」なんて、よくいうなあ……「聖戦ジハード」も、「十字軍」も、たぶんここから起こった。
いや、そういうものを起こす人たちは、もしかしたらもっと政治的に狡猾なのかもしれないが、狩り出される若者たちの心は、おそらくこの「矛盾は許せん!」というものだったのではないか……日本が、幕末から明治維新、そしてあの悲惨な敗戦へと辿った道にも大きくコレを感じます。「戦争に狩り出された」というばかりではなくて、「進んで参加した」、そういう面もあったのでは……
この点からもわかるように、この2の「世界を統一理論でみたい」という気持ちは、必ず「他への押しつけ」になる。相手もそうだった場合には、「互いの全面否定」になって、最後は実力行使で相手を「この世界から消したるで!」というサタンにならざるをえない。ちょっと離れてみればバカげたことですが……当事者どうしは気づかず、互いに「オレが正しい!」と譲らない。
これに対して、3の「本当のことを知りたい」という気持ちは、常に謙虚だと思います。なぜなら、自分が、「本当のことを知っていない」という思いがいつもあるから。進んでも進んでも、道は遠のく……これに対し、1の「自己満足」は正反対で、ここには、「自分がどんどん大きくなる」という感覚がある。2の「統一理論」の場合には、「自分が世界と一致する」感覚がある。
ところが、3の「本当のことを知りたい」という気持ちは、人を、つねに「無限の謙虚」へと導く。この指標は大切だと思います。自分の気持ちが、今、どんなふうなのか……「自己満足」という風船でどんどん膨らんでいるのか、「世界と一致」という「虚の満足」に満たされているのか……それとも……
3の「本当のことを知りたい」という気持ちだけで哲学をやるとき、つまりいろんな書を読んだり考えたりするとき、人は、正しい道を辿っているのだと思う。これに対して、1の「自己満足」でやっているときは、まったく逆の道を辿っていることを知るべき。そして、3の「世界統一理論」みたいなものを考えているとき、人は、自分が「危険人物」になっていることを知るべきだと思う。
昔、秋葉原で、人を轢きまくり、ナイフで刺しまくった方がおられました。電車内でサリンを撒いたり、小学校で子供たちを殺しまくったり……そういうものって、やっぱり、結局は「統一理論」からくるものだと思う。自分が思い描く「世界」と現実が違っている。じゃあ、ソレを埋めなければ……これはもう、人類的な「愚行」ですね。
世界って、矛盾して見えるもので、それはやっぱり、自分自身が「矛盾している」ことに根本原因があるのではなかろうか……むろん、社会体制なんかで「抑圧」されていることはあるんだけれど、それが完全に「対象の側」にあるものなんだろうか……いや、ソレよりももっと大事なことがあるのであって、それは、3の「本当のことを知りたい」という、コレだと思います。
「本当のこと」は、実は、どんな状態にあっても知ることができる。なぜなら、今、目の前にある世界と自分、それこそが、すべて、まるっと「本当のこと」だから。これ、タイヘンなごちそうを目の前にしながら、「コレは食い物ではない!食べられるものをよこせ!」と言ってるようなもので、まことにもったいない話です。でも、やっぱりだれでもそうなってしまう……
これは、人が、というか、人の意識が、必ず通らなければならない道なのでしょうか……私の学生時代をふりかえってみると、1の「自己満足」と2の「統一理論への希求」がかなり前面に出ていたと思います。むろん、ベースには3の「本当のことを知りたい」という気持ちが常にあったのですが、でもそれは、おうおうにして1と2の「まわり道」に隠されていた……
ふりかえってみると、勉強において、3の「本当のこと」に最も近づけたのは、哲学書を読んだり友人と議論することではなく、当時とっていた「ギリシア語」の初級と中級のクラスでだったと思う。これは、哲学とかじゃなくて純粋に語学のクラスだったんですが、そこで私は、「自己満足」とか「統一理論」から少しでも「離れる感覚」を味わいました。
なるほど、こうなってたのか……それは、ちょっと「職人の感覚」に近いもので、実直に、真摯に、モノと向き合う……ギリシア語は「モノ」じゃありませんが、感覚としてはソレに近かった。2500年前の古代の人々が実際に使っていた言葉……ソレは、どんなものなんだろう……ソレは、数百にのぼる動詞の変化形をくりかえすうちに、少しずつ近くなる……
私にとって、その感覚をちょっとでも味合わせてもらえたことは、大きかったと思います。でも、当時の私は青かったので(今でもあんまり変わらんけど)、その大切さがわからず、いろんな哲学書を、原語では読めないから翻訳で読もうとしたり、友人と真っ青な議論をくりかえしたり……つまり、1「自己満足」と、2「統一理論」のどうどうめぐりにエネルギーを「浪費」してました。
その結果、友人に、「哲学は、キミを、峻拒するであろう」と言われて絶交……今では、彼の言の意味はよくわかります。人はおのれのかがみ……彼の言は、今、自分が、「人に、どう見えているか」をまことによく表わすものであったのですが……青年が、こういう道を辿らざるをえないというのは、まことに非効率だと思いますが、しょうがないのかな。
にしても、この1「自己満足」と、2「統一理論」の、いわばハシカのような状態は、さっさと済ますにこしたことはない。本当にアタマのいい人は、たとえば私のギリシア語受講のときのようなちょっとした経験があれば、「ン?正しい道はこっちじゃん!」とサッとわかってハシカ状態を抜けだすことができるんでしょうが、当時の私には、わからんかったなあ……
でも、やっぱり、A「ものすごい勉強」と、B「友人との徹底的な議論」は必要だと思います……というか、私のような人間には、結局この道しかない。私は、Aをさぼり、Bを「絶交」によって回避してしまいましたが……まあ、過去は戻らないので、しかたないといえばしかたないですね。ということで、「後悔する」という気持ちは、あんまりありません。
というか、3の、「本当のことを知る」という道は、これは無限に続くので、それはそれでいいのだと思います。生命の不死とか、生まれ変わりとかいうけれど、そういうものの根底には、実はこの「無限に続く道」があって、それが結局「基体 substance」、つまり、ヒュポ(下に)ケイメノン(置かれたもの)ということで、全部を受けて進んでいくのでしょう。
「無限」というのは、アタマで考えるものではなくて、実は、実質的に、ココにあるものだと思う。そして、それは、小さな自我を越えて、なぜか、目の前にある宇宙全体に、なにごともなくつながっていく……まあ、だから、目の前にある「汚れた皿」がだいじなのかな。「洗わなくちゃ」という感覚がある→洗う……それだけのことなんですが……