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哲学はなんのため?/For what do I do philosophy?

同志社_600
私は、昔、哲学科でした。より正確にいえば、哲学倫理学専攻……京都の某私大の。で、若干の哲学書を読み、友人と議論もした。幼い議論は白熱し、その結果、友人二人と絶交した。その友人二人も互いに絶交したみたいなので、三人は三人とも、それぞれ絶交状態となった。まあ、今にして思えば、青かったなあ……と。

哲学って、なんのためにやるんだろう……自分をふりかえって、「3つの段階」を考えてみました。
1.「自己満足」ではない。
2.「世界を統一理論でみたい」でもない。
3.「本当のことを知りたい」……たぶん、これが正解かな(今のところ……ですが)

1の、「自己満足」の段階は、これは他愛のないもので、まあ「居酒屋で議論に勝つ」みたいな段階だと思います。「カント読んだ?」とか、「ヘーゲル知ってるぜ」みたいな感じで、生物学的に言えばオスの示威行動のような……最近では、オスメス限らないみたいですが、こういう他愛のない自己満足は、アホな姿を人前に晒すだけで、あんまり実害はない。

書店にときどき並ぶ、「10分でわかるカント」みたいな解説書のたぐいは、こういう「素朴な自己満足」段階を狙って書かれたもので、読んでもナンの役にも立たないばかりか、かえって「本当の理解」から遠ざかっていくだけ……ただ、こういう自己満足段階でも、その底に、「本当のことを知りたい」という強い気持ちがあるのはたしかで、ソレは大切にしなければと思います。

で、こういう段階の次にくるのが(というか、オーバーラップしてるのが)、2の「世界を統一理論でみたい」ということじゃないかな……これは、要するに、人間のアタマのサガみたいなもので、「矛盾」を許せないというか、矛盾があると気持ち悪いという、一種の「生理的感覚」なんですが、それをまことに「高尚な」ものと勘違いしてしまう。

これはまた、「究極の自己満足」といってもいい段階だと思う。うちには、今、毎週木曜日の午後2時きっかりに「ものみの塔」(エホバの証人)の方がこられて、1時間ほど聖書の話をしていかれるんですが、強烈にコレを感じます。すごくマジメで熱心な方なんですが、それだけに、世界に毛スジほどの矛盾、裂け目があるのも耐えられない……そんな感じ。(リンク

この気持ち、わかります。私もけっこうそういう感じだった……というか、今でもそうなんですが、そのたびにン?と思うようになった。裂け目も矛盾も、自分がイヤでもちゃんとある。なにより、自分自身が矛盾のカタマリではないか……それをさしおいて、「世界に矛盾があるのは許せん!」なんて、よくいうなあ……「聖戦ジハード」も、「十字軍」も、たぶんここから起こった。

いや、そういうものを起こす人たちは、もしかしたらもっと政治的に狡猾なのかもしれないが、狩り出される若者たちの心は、おそらくこの「矛盾は許せん!」というものだったのではないか……日本が、幕末から明治維新、そしてあの悲惨な敗戦へと辿った道にも大きくコレを感じます。「戦争に狩り出された」というばかりではなくて、「進んで参加した」、そういう面もあったのでは……

この点からもわかるように、この2の「世界を統一理論でみたい」という気持ちは、必ず「他への押しつけ」になる。相手もそうだった場合には、「互いの全面否定」になって、最後は実力行使で相手を「この世界から消したるで!」というサタンにならざるをえない。ちょっと離れてみればバカげたことですが……当事者どうしは気づかず、互いに「オレが正しい!」と譲らない。

これに対して、3の「本当のことを知りたい」という気持ちは、常に謙虚だと思います。なぜなら、自分が、「本当のことを知っていない」という思いがいつもあるから。進んでも進んでも、道は遠のく……これに対し、1の「自己満足」は正反対で、ここには、「自分がどんどん大きくなる」という感覚がある。2の「統一理論」の場合には、「自分が世界と一致する」感覚がある。

ところが、3の「本当のことを知りたい」という気持ちは、人を、つねに「無限の謙虚」へと導く。この指標は大切だと思います。自分の気持ちが、今、どんなふうなのか……「自己満足」という風船でどんどん膨らんでいるのか、「世界と一致」という「虚の満足」に満たされているのか……それとも……

3の「本当のことを知りたい」という気持ちだけで哲学をやるとき、つまりいろんな書を読んだり考えたりするとき、人は、正しい道を辿っているのだと思う。これに対して、1の「自己満足」でやっているときは、まったく逆の道を辿っていることを知るべき。そして、3の「世界統一理論」みたいなものを考えているとき、人は、自分が「危険人物」になっていることを知るべきだと思う。

昔、秋葉原で、人を轢きまくり、ナイフで刺しまくった方がおられました。電車内でサリンを撒いたり、小学校で子供たちを殺しまくったり……そういうものって、やっぱり、結局は「統一理論」からくるものだと思う。自分が思い描く「世界」と現実が違っている。じゃあ、ソレを埋めなければ……これはもう、人類的な「愚行」ですね。

世界って、矛盾して見えるもので、それはやっぱり、自分自身が「矛盾している」ことに根本原因があるのではなかろうか……むろん、社会体制なんかで「抑圧」されていることはあるんだけれど、それが完全に「対象の側」にあるものなんだろうか……いや、ソレよりももっと大事なことがあるのであって、それは、3の「本当のことを知りたい」という、コレだと思います。

「本当のこと」は、実は、どんな状態にあっても知ることができる。なぜなら、今、目の前にある世界と自分、それこそが、すべて、まるっと「本当のこと」だから。これ、タイヘンなごちそうを目の前にしながら、「コレは食い物ではない!食べられるものをよこせ!」と言ってるようなもので、まことにもったいない話です。でも、やっぱりだれでもそうなってしまう……

これは、人が、というか、人の意識が、必ず通らなければならない道なのでしょうか……私の学生時代をふりかえってみると、1の「自己満足」と2の「統一理論への希求」がかなり前面に出ていたと思います。むろん、ベースには3の「本当のことを知りたい」という気持ちが常にあったのですが、でもそれは、おうおうにして1と2の「まわり道」に隠されていた……

ふりかえってみると、勉強において、3の「本当のこと」に最も近づけたのは、哲学書を読んだり友人と議論することではなく、当時とっていた「ギリシア語」の初級と中級のクラスでだったと思う。これは、哲学とかじゃなくて純粋に語学のクラスだったんですが、そこで私は、「自己満足」とか「統一理論」から少しでも「離れる感覚」を味わいました。

なるほど、こうなってたのか……それは、ちょっと「職人の感覚」に近いもので、実直に、真摯に、モノと向き合う……ギリシア語は「モノ」じゃありませんが、感覚としてはソレに近かった。2500年前の古代の人々が実際に使っていた言葉……ソレは、どんなものなんだろう……ソレは、数百にのぼる動詞の変化形をくりかえすうちに、少しずつ近くなる……

私にとって、その感覚をちょっとでも味合わせてもらえたことは、大きかったと思います。でも、当時の私は青かったので(今でもあんまり変わらんけど)、その大切さがわからず、いろんな哲学書を、原語では読めないから翻訳で読もうとしたり、友人と真っ青な議論をくりかえしたり……つまり、1「自己満足」と、2「統一理論」のどうどうめぐりにエネルギーを「浪費」してました。

その結果、友人に、「哲学は、キミを、峻拒するであろう」と言われて絶交……今では、彼の言の意味はよくわかります。人はおのれのかがみ……彼の言は、今、自分が、「人に、どう見えているか」をまことによく表わすものであったのですが……青年が、こういう道を辿らざるをえないというのは、まことに非効率だと思いますが、しょうがないのかな。

にしても、この1「自己満足」と、2「統一理論」の、いわばハシカのような状態は、さっさと済ますにこしたことはない。本当にアタマのいい人は、たとえば私のギリシア語受講のときのようなちょっとした経験があれば、「ン?正しい道はこっちじゃん!」とサッとわかってハシカ状態を抜けだすことができるんでしょうが、当時の私には、わからんかったなあ……

でも、やっぱり、A「ものすごい勉強」と、B「友人との徹底的な議論」は必要だと思います……というか、私のような人間には、結局この道しかない。私は、Aをさぼり、Bを「絶交」によって回避してしまいましたが……まあ、過去は戻らないので、しかたないといえばしかたないですね。ということで、「後悔する」という気持ちは、あんまりありません。

というか、3の、「本当のことを知る」という道は、これは無限に続くので、それはそれでいいのだと思います。生命の不死とか、生まれ変わりとかいうけれど、そういうものの根底には、実はこの「無限に続く道」があって、それが結局「基体 substance」、つまり、ヒュポ(下に)ケイメノン(置かれたもの)ということで、全部を受けて進んでいくのでしょう。

「無限」というのは、アタマで考えるものではなくて、実は、実質的に、ココにあるものだと思う。そして、それは、小さな自我を越えて、なぜか、目の前にある宇宙全体に、なにごともなくつながっていく……まあ、だから、目の前にある「汚れた皿」がだいじなのかな。「洗わなくちゃ」という感覚がある→洗う……それだけのことなんですが……
皿を洗う_500

TからFへ/Fukushima 2011

F
タイトルを見ただけで、ヤだなあ……と思う人も多いかも。水さす人っているんだよね……とか、そう思う人もいるかもしれません。ゲンパツの被災者だって、オリンピックを楽しみにしてる人もいるのでは……そういう意見さえあるかもしれない。でも、私は、このモンダイは、もっとだいじなことをさしてると思う。

すべては、ABくんの「under control」からはじまった。あの一言がなければ、たぶん五輪は来てません。それくらいに、フクシマのモンダイは重要だった。でも、いったん「Tokyo」となったらすべて忘却。ABくんの「under control」は、「フクシマ切り捨て宣言」だったと言っても過言ではない。

日本の光と影……これは、「Tokyo2020」と「Fukushima2011」に象徴されると思います。今、日本人は、「影」を忘れて「光」に酔おうとしています。しかし、ホントはどっちが光でどっちが影なのか……新国立とエンブレムの蹉跌(さてつ)で、もうそろそろ気づくべきではないかと思うのですが……

今の政権は、日本の全体を救おうとはしていない。これはたしかだと思います。日本は、戦後、憲法九条で「戦争をしない国」になった。これは、世界の国々の中でも希有な……というか唯一の「理想国」。しかし、もう一つ、これほど顕著ではないけれども、なかなかに良かったものがある……

それは、「国民全体」の幸せというものを、曲がりなりにも追求してきた国であったということ。総中流意識とか言われたりするけれど、「みな同じやん」という感覚……われわれは、これで育ったけれど、この意識は、たぶん世界の中では珍しいものなのではないか……あんまり外国に行ってないのでわかりませんが。

外国では、「差」が圧倒的にありすぎるから、ことさら「平等」を唱える必要がある。これもよくいわれてきたことですが、たしかにそうだったと思う。「だった」という過去形なのは、日本という国と国民が「変質」してきたから。そして、その大きなターニングポイントが、あの2011.3.11……

もう多くの国民が感じていることですが、日本という国には、明確に「階層」ができ、それが固定化しはじめています。AB政権は、もう「なりふりかまわず」に、そっちの方向に進もうとしている。だけど国民の目は、できるだけ閉じておきたい……ということで、いろいろ考えた。

「under control」の一言は、まさにその宣言だったといってもいいと思う。「貧と弱は切りすてるぜ!」と言うに等しい。経済政策、アベノミクスですか、それって、もう、明確に「2極化するぜ!」と言ってるに等しい。「戦争ができる国」という世界標準に合わせて、「民の2極化」というもう一つの世界標準……

ABくんは、先の「70年談話」で、とても立派なことをおっしゃった。でも、根本的に欠落している視点が、「今の世界」だと思う。もう「日本」ということじゃないです。「日本」という視点から見ているかぎり、今の世界でリッチに生き残るには、「戦争ができて」、「2極化もしてる」国でないとダメだと思う……

そこが、根本的にオカシイ。ABくんは、幕末長州藩の「思い」が濃く念頭にあるのかもしれませんが、「日本」という国の概念を立ちあげなければいけなかった「昔」と、「今」とを混同してもらっては困る。幕末に、幕府や各藩が、「国」といえば「わが藩」だったときのことを「今」に転用するのはアナクロだ……

じゃあ「今」は……というと、やっぱり「日本」を越えていかなきゃならない……それはたしかだと思います。経済も文化も、ベースとなるものがもうすでに「日本」とか「国家」という枠を越えて広がっていってる状態で、「理念」として立ちあげるのが「日本」……これでは、アカンのとちゃいますか?

なんであんなに「日本」を強調したがるんだろう……アイデンティティですか……スポーツでも文化でも、別に、世界にはいくらもすばらしいものがあるんだし、日本人とか、それほどに「誇り」を希求しなきゃならんくらいに弱いモノなんでしょうか……なんか、ナサケナイと思うのは私だけなのかなあ……

フクシマのモンダイが解決されていないかぎり、われわれは、オリンピックという「目の前にぶらさげられたニンジン」に酔いしれるべきではない。そう思います。このモンダイを、「日本」という枠を越えて、「人類の文明」という全体的な視野で考える……その方向にしか、ホントの未来はないのでは?

戦争に行きたくないって、利己主義なの?/Is the thought not to want to go for war egoistic?

休みを欲す_500
利己主義ではないと思います。私だって行きたくない。だれでも行きたくない。戦争に行けば、殺される。殺されなければ、殺す。どっちかになる。どっちもイヤ。これって、「利己主義」なんでしょうか……

仕事でつらいことがあると、自分はそれをやらずに、なるだけ同僚にやらそうとする。これはまちがいなく「利己主義」だ。じゃあ、戦争は「仕事」なのか……職業軍人にとっては「仕事」なのかもしれませんが……

日本には、憲法9条があって、軍隊はなく、軍人もいないので、「戦争という仕事」はない!ということになります。というか、「戦争を仕事とする」ということをやめましたということを言ってるということになります。

これは、もしかしたら、人類史上、画期的なことではないか……人類の歴史の上で、「戦争は<仕事>ではない!」とここまではっきり言い切った国はなかったのではないか……これはスゴイことだと思う。

日本以外のどこの国でも、「戦争という仕事」は「ある」ということになります。軍隊があり、職業軍人がいる。その人たちは、「戦争」を「仕事」としている。そういう人が「戦争に行きたくない」と言ったら……

それは、「職業倫理」からいえば、自分の職業を否定していることになるのでオカシイ。「戦争に行きたくない」なら、職業軍人という「仕事」をやめるべきだ。しかし、日本の自衛隊は「軍隊ではない」から……

自衛隊員の人は、堂々と「戦争に行きたくない」と言えるし、それはもちろん「利己主義」ではない。自衛隊員にしてそうだから、もちろん、自衛隊員以外の日本の国民が「戦争に行きた行くない」といっても……

それを「利己主義だ」と言って誹謗するのはオカシイ……そういうことになります。つくづく日本はいい国だなあと思います。世界で唯一、「戦争に行きたくない」という自然な思いが憲法上も「利己主義」にならない国……

ふりかえってみれば、過去の日本には、明確に「職業軍人」の身分がありました。武士……戦いを職業とする人たち。彼らは、もう、生まれたときから「職業軍人」で、一生それは変わらなかった。

今の日本人の倫理観や道徳意識は、主として、この職業軍人クラス、つまり、武士階級にならってできてきたような感があります。むろん、以前は、農民には農民の、町人には町人の倫理、道徳があったのでしょうが……

幕末から明治維新にかけて、武士階級が崩壊するとともに、なぜか、武士階級のものだった倫理観、道徳観が、農民や町人のクラスにまで波及したような気がします。床の間、端午の節句、エトセトラ……

「草莽(そうもう)の志」……今、大河ドラマでやってる吉田松陰の言葉だったと思いますが、橋川文三さんの本(リンク)を読んでみると、幕末には、日本全国にこれが自然に湧いて出てきたらしい。

外圧。攻め来る米欧に対して、権威ばかりの武士階級にまかせとっては、もはや日本という国は守れん!ということで、農民も町人も、自主的に軍隊組織のようなものをつくって、「国を守れ!」と立ち上がったとか。

橋川文三さんは、日本の各地に残る、こうした運動の檄文や上申書の類を具体的に紹介しながら、「国の守り」が武士階級の手から、「国民一人一人」に移っていった様子を描写する。そして、これが、奇妙なことに……

明治期の天皇主権、国家神道みたいなものから、反権力の民権運動にまでつながりを持ったことを示唆する。今ではまるで反対に見えるものが、実は根っこでつながっていたのかもしれない……これは、実にオモシロイ。

今からン十年前、夏のさかりのある日、K先生のご自宅で、三十名くらいの人たちと、吉田松陰の「留魂録」の講義を受けた。先生は、みずから松陰そのものと化し、その場は、百年の時を遡って、松下村塾そのものとなった。

みな……熱い志に満たされて、静かに夏の夕暮れが……今でもよく覚えています。幕末の志士の「志」というのは、こういうものであったのか……しかし、今、私は、M議員の「利己主義じゃん」という上から目線の言葉よりも……

「利己主義」と誹謗された学生さんたちの行動の方に、この「熱い志」を感じる。どちらが松陰の「やむにやまれぬ魂の動き」を受け継ぐものなのか……私は、学生さんたちの姿の方に、圧倒的にそれを感じます。

「戦争に行きたくない」。それは、今に生きる人の、まことに正直な気持ちだと思う。それはもう、「日本」とかの小さな区分を越えて、人類全体の価値観につながる「思い」だから。もうすでに「ベース」が変わっている。

職業軍人のいない世界。日本は、世界で唯一、それを実現した国であり、「戦争に行きたくない」という思いが、全世界で唯一、「利己主義」にならない国だ。「人類みな兄弟」と言葉ではいうが……

職業軍人という「仕事」が憲法上成立している国においては、その言葉は逆に成立していない。自分の国を守るために、相手の国の人を殺すことを職業としている人たちがいるから……

「人類みな兄弟」が憲法上、きちんと成立している国は、現在のところ、地球上で、日本だけということになる。そして、日本は、先の大戦で、大きな犠牲を払って、この価値観を手にしたのだと考えたい。

「戦争に行きたくない」は、殺したり、殺されたりしたくない、という、まことに当然で自然な思いであり、日本は、世界で唯一、それが憲法上、正当であると認められる国だと思います。それを「利己主義」というのは……

歴史を百年戻って、松陰の時代に生きることになる。それでいいのだろうか……Alle Menschen werden Brüder! 「すべての人が兄弟となる」松陰の時代に遡ること30年前に、ベートヴェンが第9交響曲でこう歌った、その言葉……

それが、今、少しずつではあれ、実現されつつあるのを感じます。世界中で。スバラシイ……ということで、「次の課題」は、「すべての<存在>が兄弟となる」でしょう。21世紀は、ここに向けて開かれるのか……

今日の写真も、一つ前の記事と同じく、2013年の愛知トリエンナーレのオノ・ヨーコさんの作品の一部です。「休みを欲す」……これはもう、利己主義じゃないね。切実だ……この人、はたして休めたのだろうか……

今日のehon:世界精神の落日(つづき)

ヘーゲル

世界精神……というと、やっぱりヘーゲルさん。哲学の世界にそびえる巨大な山……フツーに、読めません。ホンヤクしてあっても。『精神現象学』をずっと読んでますが、なんと一年に7ページしか進まない。これじゃあ、死んで生まれ変わってまた死んで……何回輪廻転生をくりかえしても読めない。なんでこんなにわからんのだろう……

ヘーゲルは、ナポレオンのことを、『世界精神がウマに乗ってる』と言ったそうですが、ナポレオンの台頭と失脚は、彼の哲学にかなり甚大な影響を与えたみたいですね……で、もう一人、ナポレオンにかなり深刻な影響を受けた方……あのベートーヴェン氏。分野は音楽ですが、なんかすごくヘーゲルと感じが似てます。年も近いみたいだし。

ベートーヴェンと思って調べてみましたら、二人はなんと、同じ年(1770)の生まれでした。没年も、ヘーゲルが1831年でベートーヴェンが1827年。二人の生涯はほぼぴったりと重なっております……ちなみにナポレオンは1769年生まれの1821年死去で、やっぱりほぼ重なる……この3人、「世界精神3兄弟」だ……すごい……担当分野はそれぞれ、思想、芸術、そして政治。

ナポレオン

「ヴェルトガイスト・ブラザーズ」(独英ちゃんぽん)で売り出したらどうか……というのは冗談ですが、19世紀の幕開けって、そんな感じだったんですね……で、この時代、日本はどうだったかというと、江戸時代も中期で、田沼意次はナポレオンが生まれた1769年に老中格(準老中)になってます。このあと、松平定信の寛政の改革が1787年~1793年。上の3人の青春時代ですね。

では、「新大陸」はどうかな? 調べてみると、アメリカの独立宣言が1776年で、これはヘーゲルとベートーヴェンが6才、ナポレオンが7つのときですね。アメリカも彼らと同時代人? いや、人ではないけれど、なにか「新しいこと」が西と東で同時にはじまったような……要するに、これが「世界精神の夜明け」ということになるのかもしれません。

そのあと、世界精神は、短いけれど豊かな「昼の時代」を迎えます。工業化による大量生産と植民地からの収奪を基盤にした市民社会の繁栄……19世紀初頭にナポレオンははやばやと舞台から去り、大英帝国が世界を席巻する中で、徐々にアメリカが頭をもたげてくる……19世紀の後半に入るとアメリカは南北戦争で国の基礎を固めるが、その頃、日本もやはり幕末で列強の体制に参入する準備を着々と整える。19世紀は、過去からの潮と未来からの風がぴったり合わさって「人類力」の加速度ベクトルが最高潮に達した、ある意味幸せな時代だったのかも。

では、「世界精神の落日」は……というと、やっぱり20世紀初頭、おそらく1911年くらいからではないだろうか……世界は、またたく間に2度の世界大戦に呑みこまれ、「世界精神の凋落」は決定的となる。しかし、人は、残滓のようなわずかな光芒にしがみつき、そのあがきはついに世紀を越えて今にまで至っている……長い、長~い「落日」は、はたしてどこまでつづくのでしょうか。