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世界標準?/A global standard?

世界標準_600
TPP、妥結しましたね。オバマさんはけっこう正直で、「中国みたいな国に、世界標準を取らせるわけにはいかないから……」みたいなことをおっしゃってましたが、やっぱりホンネはそのあたりなのかな?

これで思い出すのが、先に日本の国会を「通った」(というか、ムリヤリ通ったことにした)日米新安保、日米同盟ですが、これで、日本は、軍事においてもアメリカを「世界標準」と認めて、みずから米軍の傭兵になります、と……

世界標準……この問題は、先頃のフォルクスワーゲンの大失態もそんな感じ。未来のクルマは、なにが「世界標準」になるかの争い……どんな分野でも、「21世紀の世界標準」に向けて、熾烈な争いがくりひろげられている……

オリンピックも、今話題のノーベル賞もそう。運動(身体)も頭脳も、みんな「世界標準」を目指してがんばる。0.001秒で「オレが世界標準」なんて、冷静に考えればバカな話……と思いますが、やっぱりみんな熱くなる。

ISOみたいな、モロに世界標準でござい!というのもある。言語では、もうとっくにアメリカ英語が世界標準。で、それをもとにしたインターネットもアメリカ。私みたいに英語がわからない人にとっては、疎外感が大きい。

この問題、実は、深刻です。自分が「世界標準」になれてるかどうか……それは、新しい「分類」であって、世界標準に入っていない人は「無意味」の烙印を押されてしまう。入れた人はいばる。で、入ってない人を見下す。

『ヨハネの黙示録』に、そんな箇所がありました(以下引用 13章14-18)。

『さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。

それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。

この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である。』(引用おわり)

この「黙示録の獣」については、さまざまな説があるようですが(皇帝ネロだとかバーコードだとか)、私は、この獣は、なにか特定の存在というよりは、人の考え方みたいなものをうまく表わしてるなあ……と思います。

TPPに戻ると、これはもう、世界のいろんなところにある、独自の「生産方式」を認めませんよ、と言ってるようなもので、食糧でもクルマでも、その他さまざまなモノが、すべて「世界標準」にもっていかれる。

まあ、別に、イヤならいいですよ……ということでしょうか。ただし、「輸出」がからんでくると門がピシャリと閉まる。国内であっても、その先にいろんな形で「輸出」が見えてくると、結局嫌われて締め出される。

モノの生産ばっかりじゃなくて、保険制度や特許など、無形のものもそうなる。日本でも、貧しい人々は、アメリカみたいに国民健康保険に入れなくなるのかも。中国の保険制度はどうなってるのかわかりませんが、どっちがマシかな?

先に、蔦屋が公共図書館の運営を任されて、役に立たない古本を買い集めて問題になりましたが、文化でもそうなるんでしょう。スポーツは、オリンピックでとっくにそうなってるし……この「世界標準」って、どこまで続くの?

なんか、極端なことを言ってるなあ……と思われるかもしれませんが、たとえば、オリンピックで、イスラム国が出場する!ということになれば、それはそれで意義があると思います(ますます極端でしょうか……)

まあ、イスラム国が、今のオリンピックに「オレたちも参加するぜ!」というとはとうてい思えませんが、もし言ってきたとしても、「あんたがたダメよ。世界標準じゃないからね」ということなんでしょう。

日本も昔、これで閉めだされましたね。「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」とか、あれは結局、欧米基準にかわる新たな「世界標準」を形成しようとするモクロミと解するのがわかりやすいのかなと思いますが……

欧米列強にみごとに「拒否」されてしまいました。まあ、ドイツもやっぱり閉めだされた側だったんですが……そこへいくと、今の中国って、やっぱり巧みだなあと思います。まず経済で「侵略」して、身動きとれなくしてから……

「ボーイング300機買うぜ!」と言われると、アメリカもやっぱり「マイドおおきに!」といわざるをえない。世界標準はまず経済侵略から……日本も、世界ではやっぱりそう思われているのかもしれませんが……

世界標準と地域性のことを考えてみると、これから先、世界中で、地域性、固有性がどんどん潰されていく……そして、世界が「一色に」塗り替えられていく……それはもう、とめられない傾向であると思います。

そうした場合に、この「地球」は、どうやって「抵抗」するのでしょうか。「その地」を守る人々が、心の底から骨ヌキにされて、われもわれもと「世界標準」になびいていくとき、「地」の抵抗は、「自然現象」となって出現する。

CO2とかPMとか放射能とか……いろいろ言われていますが、地球、大地、空気と水に負荷をかけすぎると、そこは自然に抵抗する。別に大地がそう思っているわけではないでしょうが、キャパシティ以上のものが乗っかると……

バランスが崩れて、当然すべての崩壊がはじまる。よく言われることですが、災害の起こりそうなところに家を建てる、街をつくるからえらいことになるんだと……でも、「世界標準」は、そういう「住み方」を人に強いる。

いなかでも、昔からの家は、できるだけ自然をうまく利用しつつ、災害のあったときに難の少ない場所を選んで建てられている。しかし、それでは、「世界標準」の押し寄せる力にもはや抵抗することができない……

ということで、家も街も、生産現場も、みな、「地の法則」を無視した世界標準の経済原則によって形成される……で、いったん「コト」が起こると脆くも大崩壊。システム全体が崩壊するので、災厄の規模もデカくなる。

今、政府、ABくんのとろうとしている方向を見ると、それは、「世界標準で勝つ」ということに全勢力を傾けよ!と、そう国民に指示し、かつ強制する……そうなっているように思います。経済も軍事も、そして文化さえも。

地の独自性……そういうものは、AB政府にとっては「克服さるべきガン細胞」にすぎないのでしょう。「1億」を一つの色に染めて「世界標準」を勝ち取ろう……そういうふうに言ってるように思います。落伍者は消えてね……と。

なぜこんなふうになるんだろう……ハイデガーは、「世界内存在」ということを言った。イン=デア=ヴェルト=ザイン。これは、人は、「世界」というものに、どうしようもなく根源的に結ばれている存在なんだ……ということ。

しかし、私は、たぶんこれでは甘かったんじゃないかと思うのです。人は、イン=デア=エルデ=ザイン、つまり「地球内存在」、あるいは「大地内存在」であるというべきでしょう。「地」との強烈な結びつき……

「世界」というとき、そこにはやはり、どうしても抽象的なものが漂う。ハイデガーの意図がどこにあったか……それは、私にはわかりませんが、彼が、一時ではあれ、ナチスに深く加担した……そこにヒントがあるようにも思う。

ドイツという国は、ヨーロッパでありながら、「中心」からはちょっと外れているようにも感じます。じゃあ「中心」ってどこなのよ?と聞かれると困るんですが、少なくとも、「辺境」というか、ハズレ感覚って、あるんじゃないか……

要するに、自分たちが「世界標準」を取れていないって感覚ですね。これは、日本もそうだったと思うし、今もそうだと思います。イスラム国なんかは強烈にそう。「世界」を目指す。世界征服……少年マンガの悪役の夢……

単純といえば単純ですが、必ずそうなる。世界標準の悪夢です。第二次大戦でナチスに追われてアメリカに亡命したトーマス・マンは、『ファウストゥス博士の成立』で、ナチスのドイツ人は、本当のドイツ人ではない!と語る。

彼は、ナチスへの憎悪をこめて、ホントのドイツ人は、あんなふうにはならない!と言ってます。彼の、この感覚はわかるなあ……太平洋戦争のときの日本の右翼も、アレは結局ニセモノで、ホントの日本人は違うんだと……

しかしではナゼ、「国をあげて」そうなっちゃったのか……日本もドイツも。ホントの日本人じゃない、ニセのドイツ人だ……と言っても、あのときは、かなりの日本人が、ドイツ人が、「心から」そういう「ニセモノ」になった。

今、サッカーやラグビーやテニスで、「ナントカジャパン」とか言って熱狂してる人たちを見ると、結局そうなんだなあ……と思います。ABくんは、スポーツだけじゃなくて文化面でもそれを利用して煽りたててるし……

ノーベル賞とかも、うまく利用されている。イスラム国にノーベル平和賞を!という人が一人でもいたら、ふーん、ノーベル賞もけっこう信用できるかもね……とも思いますが、まずそうはならんでしょうし……

まあ、イグノーベル賞に「平和賞」があったら、イスラム国の受賞は固いところでしょうが、もしそういうものがあったらまっさきにABサンにあげたい気もします……いや、彼は、「積極平和賞」でしたっけ……

ということで、「世界標準」をめざす各分野の競争は、これからますます加熱していきそうですが……そういうものにカンケイのない私などは、地の力を感じつつ、これからもここで、うずくまって暮らしていく。

そうなると思います。地の力……ホントは、世界って、そういうふうにあるのではないだろうか……世界標準をめぐる戦いが、白熱のあげく昇華されて無意味なものになってしまったとき、人は「地の力」を知る……

どんどん、どろどろ……地の底から、ぶきみな太鼓の音がきこえてきます。それは、大地を、大気を振動させ、「世界」を変えていく……ザイン=イン=デア=エルデ。それを知るとき、人は、本当に「世界」を知る……かも。

世界標準2500
今日の写真は、名古屋市千種区の今池という歓楽街の路上で見つけた模様です。この街は夜の街で、昼間はしらっと、すべてがどこ吹く風といった風情で存在していますが……今をときめくY組のナントカ会の事務所もある?

以前、この街の近くに住んでいました。いろんな人が行き交って、ときに熱く、また冷たく、右往左往しながら秋の空にふと視線をやると、そこは無限の宇宙空間に連なる空洞の底……だれかがじっと見ている。神、でしょうか……

神の視線、だったら、「世界標準」といってもいいのかな? でも、人の視線は、けっして「世界標準」にはなりえない。人は、大地の子。大地からつくられ、大地に還る。そんなアタリマエのことを、年齢によって再発見するのもまた楽し?

ずるいカブトムシ/Crafty beetle

ワーゲン_450
フォルクスワーゲンの違法行為……いろいろ考えさせられました。

違法ソフトというのかな? 検査のときだけ働いて、排ガスのNOX値を下げる……要するに、「おっ、この動きは検査だねっ。じゃあ、さげなくっちゃ!」と自分で判断して、下げる……とってもお利口さんだったけど、おバカなソフト……これ、もしかしたら「技術の本質」かもしれません。

狭い範囲に限定して、お利口に働いて「得させる」。でも……さらに範囲が広がると、社運を傾けてしまうような、実はおバカなふるいまいをしている……

それに、気がつかない……というか、「お利口」の範囲を限定してつくられちゃってることに気がつかない……となると、コレをつくった人も、おそらく気がつかない。自分の範囲をみずから限定して、その中で、「どーだ!オレって、アタマいいだろー」と得意がってる……

以前、特許事務所に勤めていたとき、たくさんの技術者の方々と面談しましたが、やっぱり「技術に酔う」という傾向は顕著だったと思います。……まあ、私の勤めていた特許事務所は小さいところで、中小企業や個人会社の技術者の方が多かったから、大企業の技術者はもっとクールなのかなあ……と思ってましたが……

今回のワーゲン騒動を見てみると、どうもそうでもないみたいですね。最終的に自分の会社を潰してしまうような危険を感知できない……というか、そもそも、社会的にどうなのよ?という倫理面すらわからない……「違法かどうか?」の前に、当然「倫理的にどうなのよ?」というのがあるワケですが、それはムシ。

この傾向は、「メカからソフトへ」という流れが強くなって、ますます増長されちゃってるように思います。クルマでも家電でも、なんでもそうですが、技術の世界は、今や、ソフトが自在にメカをコントロールする。以前ならメカでやってた制御系を、可能な限りソフトで置き換えていく……それがスマート。

というわけで、機械系の特許でも、最近は必ずソフトの働き方を示すフローチャートをくっつけるようになりました。一昔前は、機械系の特許は、いかに新しいメカを開発するか、というのが焦点だったのに、今では、焦点が少しずつソフトの方に移りつつあるような感じですね。まあ、ベースはやっぱりメカなんですが。

今回のワーゲンのソフトは、目的が違法だから、もちろん特許にはなりません。だけど、開発技術者の心は、やっぱり「どーだ!スゲーだろー!!」というものだったと思います。新しいソフトを開発すれば、すべてはそれで許される……そこまでの錯覚はなかったとは思いますが、近い線まで行ってたんでしょう……

自社の利益でとまる。あるいは、国だったら「国益」でとまる。もうそれでは済まないところに、世界は行ってるような気がします。じゃあ、どこまで範囲を広げたらいいのだろう……となると、とりあえずは「人類」ですか。環境問題なんか、最終的に「人類自身が困る」というところでストップしている論も多い。

人類の存在の仕方と、人類以外のものの存在の仕方と、どこがどう違うのか……あるいは、違いはないのか……そこは、いまの「人類」には難しいところだと思う。なぜかといえば、人類は、地球という惑星の外に出ることができないから……本当の意味で、全体を俯瞰できる視点を持ちえない以上、それはムリなのか……

「レディバード、レディバード、お前の家が火事だ!」なんか、そんなオソロシイ歌詞が、マザーグースの中にありました。この「レディバード ladybird」は、イギリス英語でテントウムシのことらしいですが、テントウムシはまた、別名「レディビートル ladybeetle」ともいうそうです。淑女のカブトムシ??

「人間よ、人類よ、お前の惑星が……」そんな声が、宇宙からきこえてきそうな今日この頃ではありますね。

*ladybird の lady は、聖母マリアのことだった? そういう説明が書いてあるサイトがありました。
http://jack8.at.webry.info/201006/article_1.html

幸せな街・住みやすい村_02/Happy town, livable village_02

イズニックタイル_900

名鉄の太田川駅を降りると、駅舎の一階のガランとした広場の一画に、巨大なクスノキのタイル絵があります。日本の陶板とはちょっとちがった趣だなあ……と思って眺めていたら、横に解説がありました。ちょっと転写してみましょう……
『壁画「くすのき」は、トルコのイズニック財団によって1枚1枚手づくりで制作されました。東海市の木は「くすのき」であり、大宮神社(大田町上浜田)に育つ樹齢1000年と言われる市指定の天然記念物「大田の大樟(おおくす)」をイズニックのデザインで表現しています。(後略)』

じゃあ、イズニックってなあに?ということなんですが、ちゃんと説明も……
『イズニック・タイル 東海市は、トルコ共和国ブルサ市ニルフェル区と姉妹提携をしており、イズニックはニルフェル区と同じブルサ県に属する都市です。イズニック・タイルの生産地として16世紀に最盛期を迎えました。イズニック・タイルは粘土に石英を含み硬質で耐久性があり、鮮やかな発色による美しい文様が特徴です。オスマントルコ時代に建造されたイスタンブールのブルー・モスクやトプカピ宮殿などの建造物にはこのイズニック・タイルが用いられています。近年までその技術は失われていましたが、1993年に設立されたトルコのイズニック財団がこれを研究・再現し今にいたっています。』

なるほど……そういう経緯があったんですか……と感心。これ、太田川の街に降り立って最初に目についた「対象」だったんですが、結局、その日に見たものの中ではいちばんイイ感じで私の中に残りました。日本の小さな街の名もない(失礼、名はある)お宮さんの神木を、トルコの小さな街(人口2万弱)の職人さんたちがせっせとタイル画にしてくださっている……その光景が、なんとなく浮かんでくる……と思ってちょっと調べてみますと、この、イズニックという街の前身は、なんと、あのニカイア(ニケア)でした……古代ギリシア語で勝利の女神を意味するニケーの名を取って造られた紀元前に遡る歴史を有する街……そして、なによりも、あの、キリスト教の歴史を大きく決定づけた「ニカイア公会議」が開催された街……

日本の小さな街の駅で、数千キロも離れた場所にある、1700年近く前にキリスト教の歴史をつくった街の面影に出会う……これもまた、なにかの縁……といいますか、ふしぎなこともあるものだなあと。紀元325年にこの街、ニカイアで開かれた公会議で、古代に勢力を誇っていた初期キリスト教の二大派閥、アリウス派とアタナシウス派は激突します。アリウス派は、父(神)と子(キリスト)はそれぞれ別個の存在であると主張し、これに対し、アタナシウス派は、父と子は本質的に同じ(ホモウーシス)であると主張……で、結果はアタナシウス派が勝利し、ここに有名な「ニカイア信条」(クレド)が採択され、「三位一体論」(トリニティ)の基礎が確立した……これは、キリスト教の歴史上、イエスの死後最大ともいえるエポック……

しかし、このニカイアの街も、その後、トルコに占領されてイスラム化し、いつの頃からか、トルコ人たちに「イズニク」と呼ばれるようになる……イズニック陶器が生まれたのは、オスマン帝国時代(14世紀頃)といわれているようですが、最盛期の16世紀には、コバルトブルーをはじめとするいろんな色が使われるようになって、上の説明にもあるトプカピ(トプカプ)宮殿の壁なんかも飾ったようです。17世紀に入るとこの地の陶器制作技術も衰えはじめて、歴史の彼方に埋もれていったのですが、20世紀の後半に、復興運動が起きて現在に至る……と。イズニック財団のhpがありましたが、トルコ語?でようわからんですが(英語のボタンがあるものの、押しても機能しない)、写真だけみていても美しい……
http://www.iznik.com/
名鉄太田川駅のタイル画の写真もちゃんと出てきます。
http://www.iznik.com/tokai-city-metrosu-tokai-city-japonya

幸せな街・住みやすい村……いろいろ考えてしまいます。太田川の街の名鉄の駅は、改装されてとても立派になっています。このイズニックのタイル画も、やっぱりそれに合わせて造られたものなんでしょう。(イズニック財団のhpの記念写真を見ると、そう思えます)こういうふうに、駅を、そして道を造りかえ、さまざまな公共施設(いわゆるハコモノ)をどんどん造っていく……そのお金はどっから……といえば、それは「海岸線を工場に売って」得たもの……それが、街にとって、はたして幸せな途であったのか……街を歩いていると、やっぱり疑問に思います。イズニックの街は、今はタイル産業と観光で成り立っているみたいですが、住んでいる人たちは幸せなんだろうか……行ったことがないのでわかりませんが、いろいろ考えてしまいます。太田川の人たちは、今はもう名古屋の通勤圏なので、みなさん名古屋におつとめなのかな……?

私の今住んでいる三河の山里も、名古屋市と豊田市の通勤圏なので、ほとんどの人がどっちかの都市におつとめ……一昨日は村の祭りで、いろんな人と話をしましたが、40代の3児のパパは銀行員で、名古屋の御器所というところまで、毎日往復100km近くをクルマで……祖先からの土地を守り、子供を育て、村の行事に参加し、そして子孫に土地を受け渡していく……そういう生活を、これからも、ここの人たちは続けていく(いきたい)のでしょう。人の幸せってなんなんだろう……引き続き、ルソーの『社会契約論』を読んでいますが、とっても興味深い箇所に出くわしました。第三編の第一章、「政府一般について」というところなんですが、このように書いてあります(以下、桑原武夫チームの翻訳による岩波文庫版より転載)。

『どんな自由な行為にも、それを生みだすために協力する二つの原因がある。一つは精神的原因、すなわち、行為をしようと決める意志であり、他は物理的原因、すなわち、この行為を実行する力である。わたしが、ある目的物にむかって歩くときには、第一に、わたしが、そこへ行こうと欲すること、第二に、わたしの足が、わたしをそこへ運ぶこと、が必要である。(中略)政治体にもこれと同じ原動力がある。そこにも同じく力と意志とが区別される。後者は「立法権」とよばれ、前者は「執行権」とよばれる。この二つの協力なしには、何もできないし、何もしてはならない。』

なるほど……ここは明快です。デカルトは、「思惟」の世界と「延長」の世界を考えたけれど、まさにそれを「政治体」に応用するとこうなるわけだ……ということは、「立法権」はデカルトのいう「思惟の世界」のものであって、実際の大きさとかかたちとかをもたない、物質には関係のない精神的な世界のものなのか……これに対して、「執行権」つまり「行政権」は、「延長の世界」のもので、これは実際の物理的世界に「効く」ように働く……「思惟の世界」でつくられた「法律」にしたがって、行政体は物理的なパワーをもって「執行する」というわけですね。「立法」と「行政」をこういうふうに考えたことがなかったので、ここはおおいに参考になりました……と同時に、やっぱり根源的な疑問が……

デカルトは、およそ関係のなさそうな「思惟」の世界と「延長」の世界を結びつけるのにとっても苦労して、結局「松実線」(松実体)という肉体の器官を持ってきたわけですが……ライプニッツになると、さすがにもう少し理詰めで、彼は、この「原理的に無関係な」二つの世界を結合するために、なぜか、二つの世界が「密接に連関して動くかのように」この世界は予定調和によって予め構成されているんだと……つまり、そこには「神の力」が働いてそうなっているんだと……そういうふうに考えたと思います。じゃあ、ルソーはどうなんだろう……彼の理論では、「思惟の世界」にある「立法権」と、「延長の世界」にある「行政権」を「あたかも関連あるかのように」連結するものは、いったいなんだろう……

ここが、ふしぎなところですが……さらに読んでいけばわかるのかもしれませんが……現実にそこがどうなってるのかと考えてみると、これは、やっぱり「法律」ということなんでしょう。すなわち、「立法権」がつくるもの、そして、「行政権」がそれによって物理的なパワーを発揮するもの……それは、やっぱり「法律」……うーん、今まで、「法律」というものを、こういう観点で見たことはなかったなあ……やっぱりヨーロッパですね。徹底的に、「思惟」と「延長」の二大原理から考える。だから、この場合、「法律」というものは、「思惟」の要素と「延長」の要素を二つながら備えているというふしぎなものになる……ということは、「思惟」の要素からするならこれは、「理想」とか「理念」とかいろいろすばらしいものを含められるけれど、「延長」から見るなら実に生臭くキナ臭い……

私は昔から、法律とか政治とか社会とか経済とかが大キライで、だから絵描きになったようなもんなんですが……いや、絵描きがみんなこういうもんがキライとはいいませんが、身の回りをみてみると、キライな人が多いのはたしかです。なんか胡散臭いというか気持ち悪いというか、すっきりせんところの多いもんだなあ……と。まあ、私自身、特許の仕事なんかもちょっとやったので、実際はそういうもんに全くたずさわってこなかったとはいえないんですが……その経験からすると、みんな「法律をうまく使って」儲けたろう、というか、法律って、自分が得をする為にあるもんだと……そう思ってる人のいかに多いことか……でも、虚心坦懐に条文(私の場合は工業所有権法)を読んでみると、これはもう、かなり細心の注意を払って「公平に」なるようになんとか努力してる……

というか、そもそも、物理的な世界で、いろんな立場の人の損得を勘案する前に、まず、精神的な世界で「公正な条文はいかにあるべきか」ということに常に留意しているような印象を受けました。むろん、「立法権」の側にも物理的な圧力がかかって、その結果、本来は物理的世界とは無関係に立てられるべきものである「法律」が歪んでしまうということは、現実にはしょっちゅうあるのでしょうが……でも、昔、私が勝手に思い描いていたみたいに、「法律は為政者の都合のいいようにつくられる」というばかりではないような気が、やはりした。やっぱり……「思惟の世界」のものであるからには、「論理」を無視するわけにはいかないので、そこは、けっこう論理的なものを重視してつくられているなあ……と思いました。世間では「但し……」とかではじまる付則みたいなもので骨抜きに……

とかいわれていますが……まさに、そういう分野もあるのかもしれないけれど、工業所有権法なんかだと、ある程度、というかかなりの程度、論理を重視してつくられている……特許なんかだと、出願して権利を得られれば、それは「儲け」に直結する反面、同業者には確実な「不利益」をもたらす……つまり、「国家の保護」による「独占」が可能になるので、利益をこうむる側と不利益にさらされる側の闘争はシビアなもんです。そういうシビアなところで、法律をつくる側と、それを執行する側はいかにしたらいいのか……私が垣間みることができたのは、工業所有権法における「立法」と「行政」、それに「司法」だけなんですが、おそらくは、法律の全般に亘ってこういうことがあるのでしょう。そして、それによって人の実際の生活が変化を受け、その人たちが住む街や村の姿も変わっていく……

ルソーの『社会契約論』は、岩波文庫の翻訳で200ページ足らずの薄い本ですが、根源的に難解で何回読んでもわからない……だけど、これがフランス革命の理念になり、さらには民主主義の根幹になって現在まで続いている……奴隷制を復活してネット公開処刑もやってしまう「イスラム国」は、このルソーの『社会契約論』に、実力で根源的な叛旗を翻しているように感じます。まあ、論理では、『社会契約論』は論破不可能でしょう。なぜなら……基本のところで、どういうふうに論理が通っているのか、何度読んでもよくわからないところがあるから……しかし、多くの人が、これを「論理的に正しい」と思ってここから「民主主義」を展開させてきた……そして、それに、イスラム国はラジカルな「NO」をつきつける……イスラム国を「狂ってる」というのはカンタンなんでしょうが、じゃあ、ルソーの『社会契約論』をきちんと論理で読み解くことができるんだろうか……ふしぎな世界だ……

結局、ルソーの考え方の根幹には、西洋の思想に共通の「この世界は、一つの論理によって整合されるはずである」という基本思想があるように思います。アタナシウス派とアリウス派の論点の根元的な部分がまさにそこだった……「世界の外なる原理」である「父なる神」と、「世界の内なる原理」である「子なるキリスト」は「同質」(ホモウーシア)であるか、いなか……もし、これが「同質ではない」ということになると、世界の外なる原理と世界の内なる原理が異なることになり、これは大問題です。人は、処女を森に送ってユニコーン(旧約の荒ぶる神)をなだめ、とらえた。その処女(マリア)によって「世界のうち」へと送られたキリストが、外なる神であるユニコーンと「異なる質」のものであるならば、結局、処女によるユニコーンの懐柔と、それによる「根本原理を人間の手に引き入れる」試みは失敗したことになります……

「それは困る」ということで、ニカイアの公会議では、父と子を同質であるとするアタナシウス派が勝利を収めたのでしょう……以後、地中海世界、そしてヨーロッパ世界は、この原理、すなわち、神の原理をキリスト(ロゴス)を介して人間の手中に収める……というやり方で、つぎつぎと「人の世界」を拡大していく……私がこのあいだ、さまよい歩いた太田川の街も、この「ホモウーシスの原理」によって昔ながらの生活があった海岸線を失い、かわりに埋立地と工場と、そこから得られるお金を手にした……立派な駅舎の一階に静かに佇むイズニックの……かつてニカイアの街であった場所で生産されたタイル画……それは、太田川のお宮さんのクスを描いたものなんですが、ふしぎにさわやかで愛らしいそのタイル画の写真を見ながら、やっぱりいろいろ考えてしまいました。幸せな街、住みやすい村……それは、いったいどこにあるのでしょうか……

STAP細胞?

いろいろ騒がれてます。真っ白が真っ黒になっちゃった……1月でしたか、STAP細胞の論文がネーチャー誌に掲載されたというので、日本中おおさわぎになった。私もテレビで見て、すごいな~と感心したんですが……コレ、山中さんのよりスゴイじゃん!で、つくったのが若い女性……で、日本中スゴイスゴイで割烹着の天使に……それが、一転……オソロシイもんですね……しかし、今回は、もう弁護の余地がないように見えます。

今回、彼女は、いくつか、中学生でもやらない(やってはいけない)ようなマチガイをやってるわけですが……他人の論文の無断引用、ネットの文章のコピペ(で、コピペであることも示さない)、自分の別論文の画像の使い回し(で、そのことを明記しない)、さらに、キモになる画像で、結果に合うように画像加工……これ、論文……というか、普通の書類でも、発表を前提とした場合には絶対に避けなきゃならないことばかりだ……

ちょっと信じられません。指導教官はなにやっとったんだー……ということですが、彼女はもう独立した研究者としてやってるんだから、厳密にいうなら「指導教官」はいないんでしょう。今は。でも、過去にはいたはず。で、こういう不正を見逃して、博士の学位まで与えてしまった……その先生方は、いったいなにをやっとったんでしょう。ちゃんと教えないとダメじゃないんでしょうか……あまりにもヒドすぎ。

なので、この件は、彼女のモンダイだけじゃなくて、その背景に、なんか「研究リテラシーの崩壊」みたいなものを感じます。彼女は、日本の研究機関だけじゃなくて外国の研究機関も経験しているみたいなので、この崩壊は、日本のモンダイにとどまらず、世界的なモンダイなんでしょうかねー……としたら、これはタイヘンなことのような気がします。そしてこれは、インターネットの発達とも無関係じゃない気も……。

まあ、私は、絵描きであって研究者ではないので、研究の世界のことはよくわからないのですが……でも、素人目でみてもヒドすぎ。信じられないずさんさ……まあ、各方面から指摘があって今の大問題になってるわけなので、全体として「崩壊」しているわけではないのでしょうが、本来は、まず自分自身の中できちんとチェックすべきことばかり……それを他の人から指摘されてる時点でアウトだ。信じられない……

しかし、こういうことばかりが重なっていくと、いつのまにかそれがフツーになっていくのではないだろうか……まさかとは思いますが、ちょっと心配になります。げんに、インターネットの世界では、もう著作権なんかあってないようなもので、いろんな文章や画像を勝手に引用しまくってはりつけて、そのことも明記せず……まあ、とりしまるにしてもあんまりにも広範囲になってるのでもうムリってことでしょうが。

ネットの世界に比べると、紙の出版物においては、まだ一応、守られているように見えます。しかし、今回のように、世界的にも影響力の大きい重要な論文で、どうどうとネットのノリでやっちゃった……みたいな現実を見せられると、なんか、人類のこれまで築いてきた「やっていいこと、いけないこと」の判断の壁ががらがらと崩れていく……みたいなふしぎな崩壊感におそわれて、不安になってきます。

ただ、今回の件の「摘発」もやっぱりインターネットのサイトで行われたということなので、結局ある程度「自主規制」みたいな働きは効いているのかもしれません。要するに、「ネットのノリ」で本来守るべきルールがズルズルになってしまったところもあるけれども、やっぱり「ネットのアミ」が広く細かいので、紙媒体だけだったら見過ごされていたような欠陥が、たくさんの人の目に触れることになった……

ということで、全体としては、「正義は保たれている」と考えるべきなんでしょうか……結局、なにが正しくてなにがまちがっているか……ということは、どんな社会でも基本的に変わらないと見るべきなのかもしれません。ネットが普及したからといって、人間そのものがそんなに変わるわけではないのか……ただ、ワッと広がってワッと指摘されて……というように、すべてが過激になっているのは感じますが……

それともう一つ感じるのは、地道に「鎖の輪を一つ一つつないでいく」ということがやりにくくなった社会だなあ……ということです。特に、研究の分野なんかだと、鎖の輪をきちんと順番につないでいかないと「結果」には至らないはず。引用のルールとか、画像掲載のルールとか……そのあたりは、「鎖の輪をつなぐ」ための初歩の初歩の技術(というかモラル)であったはずなんですが……

今回、最先端の研究をやってる(はずの)研究者が、それを軽々と無視して……しかも、それを無視したことの意味の重大性をあんまりわかってないように見える……そのことは、なんかオソロシイなあと思います。で、日本を代表する理系の研究所で、堂々とそれがまかりとおって国際舞台に出てしまった……日本の基礎研究のレベルって、ホントに大丈夫なんでしょうか……うわついているうちに、とんでもないことに……

まあ、日本に限らず、世界中でそうなんでしょうが、研究者に、まずは自分自身の中できちんと「鎖の輪をつなぐ」だけの余裕(資金的、時間的余裕)をあげることが必要なんじゃないか……せきたてられて、とりあえずでっちあげてだれよりも早く発表して、あとはネットでの「裁判」を待つ……という傾向は、どうみても健全とは思えない。今回、彼女は研究者生命の危機に立たされてしまったわけで……

彼女の研究内容自体は、私は非常に面白いと思うのですが……「変化」を、遺伝子レベルを操作することなく、フツーのバケガク手段でもたらす……これは、どこか、マクロバイオティックの桜沢如一さんの「生体内原子転換」と似ているような気がします。桜沢さんの場合は、「研究者」とは認められてなかったので、結局どこからも無視されて、ただ「叫び声」をあげただけで終わってしまったみたいですが。

生命に対する「研究」は、常に「全体」の方向から見ていくやり方と、どこまでも「細部」に分割して、それを積み上げていこうとするやり方と二つあって、「IPS細胞」は明らかに後者ですが、「STAP細胞」は常に「全体」を見ている前者からの発想のような気がします。まあ、この二つは、厳密には区別できないのだけれど、研究者の「姿勢」としては、明確にちがいがあるような気がする……

前者、つまり、「全体的に見ていこう」とするやり方は、どこか、「生命尊重」のような気分があって、私は好きです。桜沢さんの「生体内原子転換」もそうでしたが、分子レベル、原子レベルで「基本法則」が見つかったとしても、それが「生命全体」に、つねに、きちんと、きれいにつながっていなければならない……これは、いつも「全体的観点」を失わないということで、大事なことのように思える……

うまく言えませんが、「STAP細胞」の持つ「革新性」は、そこのところを壊してないところにあるのではないか……「遺伝子レベルの操作」が「酸に浸す」というカンタンなものに還元されてしまう醍醐味は、どこか「全体に抱かれる」というリラックス感につながるようなものがある……そんな風にかんじますが……しかし、それには、それなりの欠点もあって……それは「職人ワザ」になりやすいということかな。

特許の出願なんかでよく見られるのですが、ときどき「職人ワザ」を持ちこむ人がいる。こういう場合、プロセスをうまく分解して説明することができないし、「数値限定」なんか、むろん不可能……「このときの角度は何度から何度くらいなんですか?」とたずねても、「そんなもん測ったこともないし……とにかく、やりゃあなるんだ!」ということで、みごとに「全体」は保たれているのですが……

神ワザ、職人ワザというものは、そこに常に「全体」があるかわりに「細部」に分割することがむずかしい……ということは、その人にはできても、他の人が「再現」することができない……ということで、「科学」とは最もソリがあわない、やっかいな領域です。今回の「STAP細胞」がそういう「職人ワザ」に類するものであったかどうかはわかりませんが、「鎖の輪をつなぐ」という作業とはちょっと仲が悪そう……

だからといって、今回のような「初歩的段階」でのあのようなずさんさは許されるものではないと思いますが、彼女の中に、根本的に、「職人気質」みたいなものがあって、全体を大切にするあまり細部にこだわらないというか、「手続き」の部分をおろそかにする……そういう傾向が、基本的にあったんじゃないか……そんな風に思われる……本質ができてれば、些事瑣末の部分はいいんじゃないの?という……

ところが……研究って、やっぱり100%が「手続き」で、その手続きの鎖の輪を、コツコツと丹念につないでいく……その最終的なゴールとして、はじめて「結果」が出るものだと思います。なので、「手続きの検証」の部分をすっとばして、それを結果的に「ネットの審判」にゆだねてしまった今回の事件は、やっぱり健全な目からみると「崩壊」としかいいようがない……

「鎖の輪」を、一つもとばすことなくつないでいく「訓練」と、それがきちんとできるための「雰囲気」は大切だなあ……と思います。「全体」を常に考える方向の研究だと、つなぐべき「鎖の輪」は、細部だけをやる研究に比べてはるかに膨大なものになると思うけれど、それを、じっくり腰をすえてやれるだけの「環境づくり」はだいじなことではないか……勝ち負けじゃなくて、本質部分で「鎖の輪」をつなぐ……

そういうことが、今のABくんが先頭になってさわいでいる日本という国では、なんだかできにくくなってる感じが強くします。「強い日本を取り戻せ」とか、勝手に言ってる分にはいいんですが、国民がみなソレに踊らされて、腰は浮きアタマは一方向に酔っぱらって、「ホントにだいじなもの」がわからなくなってるんじゃないか……なんでそんなにせきたてられてあわてるのか……

研究者に、「地道に鎖の輪をつなぐ」というあり方を許さないような社会は、やがて自己崩壊すると思ます。

不良ムーミン300

今日のemon :柄部分が伸縮自在の携帯用孫の手

伸縮孫の手_01今日のemon は、柄の部分が2重になっていて、スライドさせると中の芯棒が繰り出されて長さが倍近くまで伸ばせる携帯用の孫の手です。縮めた状態では全長21.7cmくらいなんですが、外筒に入った芯棒部分を伸ばすと、全長34cmになります。最短にした状態と最大に伸張させた状態で安定するので、途中の長さでは、使えないことはないけれど軸がちょっと不安定な感じです。通常の孫の手がだいたい40cm前後なので、これは、不通の大人が使う場合には、最大伸張状態でしか使わないということでしょう。分解はしていませんが、仕組みはおそらくこんな感じ……

これ、百均で買ったんですが、重宝しています。以前、背中がやたらに痒くなったときがあって、そのときは車の中にも仕事先にも持っていきました。信号で停まるとピッと伸ばしてサッとさしこんでぼりぼり……外筒の塗りもはげてきましたが、けっこうお世話になりました。手の部分は、普通の孫の手の半分くらいしかないんですが、大きさはこれで充分。むしろ、ピンポイントで使えて、フィット感があっていいくらいでした。百均おそるべし……

携帯用の孫の手って、ほかにどんなのがあるんだろう……と思っていろんなサイトを見てみましたが、だいたいが、折り畳んであるのを開いて使うタイプか、あるいは私のみたいにスライドさせる伸縮式かのどちらかでした。それで、特許公報を見てみたんですが、携帯用ということでは、結局この2つのタイプに集約されるようです。ただ、他にも面白いものがいろいろ見つかったので、ちょっとご紹介を。ちなみに、これらは特許庁の電子図書館にアクセスすればだれでも見られます。

Web

Aは2つの孫の手を中央で回転できるようにしたもので、要するに、二カ所が同時に掻けると……しかも、幅が変えられるので、広範囲に対応可能であると……さて、これを使いたいと思う人がいるのかな?……ボールが付いているところをみると肩タタキ兼用なんでしょうが、両肩同時に叩けるってことでしょう。こっちの方が用途がありそう……Bは、孫の手+耳かきです。これは、ちょっと両者のサイズに差がありすぎ……でっかくすれば耳かきとしてはすこぶる使いにくいし、小さくすれば孫の手としては使いずらい。スライド式で伸縮できるので、小さく作ることを考えているんでしょうが。Cは電動孫の手。要するに、先端が振動するのでわざわざポリポリやらなくても当てるだけでいいってことですが、もしこれを買っても、みんな必ずポリポリやると思う。ある意味、ポリポリやるのが快感?なんじゃ……??

日用品の特許公報は、笑いの宝庫です。仕事で疲れたときなんかに、リラックスに最適。よーこんなもん考えるなーというものが次から次に出てきます。みんな、「よっしゃ!これ、売れるで!」という鼻息で出願されたもんなんでしょうが、果たしてそのうちどれだけが……で、一句。

おもしろうて、やがてかなしき特許かな……オソマツでした。